風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2005年09月30日 | スピリチュアル
知人の女性(30代)が心療科で軽い鬱と診断されました。
例のごとく、薬を4種類毎日飲まなければならないそうです。
彼女が、心に重いトラウマを抱えていることは知っていましたが、鬱だとは思いませんでした。
鬱だと診断されたことで、鬱に本当になってしまいそうな気がしてなりません。

その診断方法が、アンケートをとって、軽い面談をしただけなのだそうです。
アンケートの結果によって、軽い鬱と診断されたのだそうです。
そのトラウマのことについては語ることはなかったそうです。
なんだかな~と、ぼくは思います。

何一つ根本的な解決になっていない気がします。
顔色はつい最近会った時に比べて、青く生気を失っています。
今後、薬で心をごまかし、体を痛めつけていくだけではないかと、思えてなりません。
本格的に鬱の症状が出始めるのではないかと、心配です。

ぼくは最近の医療というものをあまり信じていません。
患部のみに焦点を当て、学説で定説となった対処療法(主に薬)を施すだけです。
人体専門のメカニックですね。
人体全体の生命エネルギーとか、生命そのものとかという視点は恐ろしいほど欠落しているように思えてなりません。
その上、医療分野の専門化・細分化はますます進み、患部と健常な部分との関係などは、
臨床例の結果次第ということになりかねません。
患部は直ったが、健常な部分が損なわれたなどという話はよく聞く話です。

ましてや、心の領域に関する「医療」って、本当に可能なのかという気がします。
気分が暗く落ち込む。
坑鬱剤を投与する。
何とか日常を送れるほどには気分が回復するのでしょうが、それは心の改善ではなく、
あくまでも薬の作用で無理やり気分を変えているわけです。
そのうちいいことがあって、自然に心が改善するとでも思っているのでしょうか。

ぼくなども気分が優れず、人にも会いたくなく、何日も部屋で一人でいたいと思うときがずいぶんありましたが、
そういう時、心療内科に行ってアンケートに答えれば、間違いなく何らかの病名を告げられたに違いないと思います。
「脱力系やる気なし症候群」とか「新種の眠り病」とか。
それで、何らかの精神昂揚剤を貰ったら、なにかが治癒され、改善されたとは絶対に思いません。
医者に、薬に依存するしかなくなります。
自分で自分の道を歩むことが出来なくなります。

何度か彼女にも滝行を勧めました。
ですが、彼女は非常に彼女自身の世界を守る殻が硬く、なかなか応じません。
そのころは彼女も元気で、後一歩で行くかもしれないなと思っていました。
それで、鬱の診断です。
彼女はおそらくどんな判断も自信をもって出来なくなるのではないかと思います。
参りました。

伝統宗教界が腐っているとは言わないまでも、市井で人々に細かく救いの手を差し伸べているとは言えない現状が、
歯がゆくてたまりません。
彼女は、彼女を許し、他者を許し、生を心から祝福する日が来るのか、本当に心配です。


スッポン

2005年09月29日 | いい加減
う~ん、昨日は失態でした。
4人でスッポンを食べに行ったわけですが、他の3人(全員女性)が血を飲まないわけです。
で、ぼくがグラス4杯の血を一気に飲んだわけです。
するとやっぱりスッポンの血なんですね。
要するに、じわりじわりと知らないうちにスケベになったわけです。
店のお姉さんのお尻を(略)

ビールも二人でピッチャー5~6杯空けましたので、飲みすぎは飲みすぎたんですが、
こういうスケベラインに乱れが流れたのは、10年ぶりくらいのような気がします。
4人のうち二人は飲まないので、さぞかしあきれ返ってしまったのではないかと思います。

実は今朝目が覚めて、昨日の醜態を思い出し、非常に心配になりました。
3人の女性はみな大切なお客さんです。
あれ、そういえば昨日あんな状態だったな、なぜなんだ、悪霊でも付いたのかと本気で心配になりました。
そこで、ふと、スッポンの生き血を4杯飲んだことに思い至ったのです。
スッポンの生き血が精力剤だなんだという話は、ぜんぜん信じていなかったのです。
うへー、こりゃ取り返しが付かないことをしたと、深く赤面しました。

幸い、ぼくと一緒に大量のビールを飲んだお客さんは全然記憶がないと言いますし、
もう一人のお客さんからは楽しかったとの皮肉混じりのメールが来ましたので、
何とか大事にはならなかったものの、なんというか、どうにもこうにも恥ずかしいです。
ただの酔っ払いのスケベ親父になってしまって、ゴメンナサイ。

それから、こういう話を読んで不愉快になった人にもゴメンナサイ。

それから、店のお姉さん、怒りもせずにいてくれて、ゴメンナサイ。

もうお客さんとスッポンを食べに行くことはないでしょう←キッパリ
ちなみに、カノウ姉妹や政治家がスッポンが好きな理由が、ようやく分かりかけてきた今日この頃です。
ぼくは出来るだけ、めざしやおでんをつまみに、酒を飲むようにします。

こうして人は恥をかいて生きていくわけです。
ぼくと一緒にするなという怒声が聞こえてきます(笑)








お経

2005年09月28日 | スピリチュアル
急に涼しくなり、滝行も緊張感が出てきました。
今日は最初に買った五鈷杵を持って長めに入りました。
これは自分のものにして、立派な法具に育て上げたいと思います。
滝の中でそれを握った瞬間、体が熱くなった気がしないでもないのですが、気のせいかもしれません。
新人女性二人もすっきり滝に入っていました。

今日は二人のお客さんが手当てを受けに来ました。
実は、お向かいの店の主人(老婦人)も、お客さんによく手当てをしています。
なんでも、神道系の新興宗教で教わるやり方らしいです。
ぼくのは家にいた猫に試してみてその効力を発見した、まったくの自己流です。
ぼくのほうが効きます、多分(笑)

それから、お客さんで、職場での上司とのトラブルやらなんやらでグチグチしていた女性がいました。
質問されれば、いろいろアドバイスしていたのですが、しばらく埒が明きそうもありませんでした。
一向に話が進まないので、いろいろ宗教関係の本やらなんやらを貸してと言うので、貸してあげていました。
すると、先日、四国お遍路に行ってみたいと言い出しました。
お経を覚えたいのだがどんなお経がいいのかと聞かれましたので、
その方の宗派が真宗だというので、「正信偈」と「和賛」を薦めました。
それで、早速、家の仏壇に大きな声で唱え始めたそうです。
次の日、その方の母親の夢枕に、亡き父親が出てきたそうです。

そんなこんなで、今はお経を読むのがとても楽しくなっているみたいです。
ストレス解消にもなるし、昼間の煩事が気にならなくなるし、ということでした。
家にある仏壇に手を合わせ、お経を読む。
そういうことをさりげなく毎日出来るようになれば、案外世の中もっと豊かになるのかもしれません。
外に出て、得体の知れない宗教団体や、なんやらかんやらに迷い込む心配もありませんし。

と、こう書いてきて、うちの店はなにやさんなんだと、我ながら思うわけです。
でも、なんでもいいんです。
どうしたい、こうしたいと、無駄にあがいても仕様がありませんし、不満はあるようでないですし。

今日もお客さんと会食です。
スッポンに味を占めたので、また行きます。
無駄に元気になって来ようと思います。

そこで、今日の日めくり。

「希望をもち 心浮きたす自信をもって すべてに立ち向かえ」 プーシキン

そう言われたって・・・、というところです(笑)


2005年09月27日 | 雑感
現実で起きたら直視できないような悲しい場面や残酷な場面を夢の中で見ていても、
少しも心が動かないのはなぜなんでしょうかね。
感情のないカメラのような視線で、夢の中の出来事を見ている自分がいます。
昔は、例え夢の中だとはいえ、激しく心が動いていた気がするのですが。
悪夢に近いものでも、動揺することなく、淡々とシーンを見続けている自分がいます。
なんか不思議です。

Nさんがまた滝に行くそうです。
Nさん自身は滝に入るのが好きでもないのですが、Nさんの生徒さんたちが入りたがるみたいです。
Nさんは、ぼくがNさんが滝に入るように念じたせいだと言いますが、それは濡れ衣です。
滝がNさんを呼んでいるのでしょう。

今日は朝一番に導師が来て、バラバラとお客さんが来て、手当をして、Nさんの生徒さんが来て、
なんやかんやの問い合わせがあって、なんか忙しいような気のする日でした。
もちろん、何かが売れたわけではありません。
いつもこんな感じですから、どうということもないのですが、動きは止まっていない感じはします。
この動きが、どこへ流れているのかは分かりませんが、お任せするだけです。

それから、ぼくは余程のことがない限り、どこかに電話をかけて問い合わせをするというようなことはしないタチなのですが、
今日は頼まれて、ある事をインターネットで調べた電話番号に問い合わせをしました。
ちょっと第三者をも巻き込む込み入った調べごとだったのですが、親切、迅速、完璧に調べてくれました。
なんか、世の中を見直した気分です。
なかなか電話で要領の得た応対を受けた記憶に乏しいものですから、素直に嬉しかったです。

そんなこんなで今日も日が暮れました。
フェリーの船上でたまたま海から昇る朝日を見ましたが、
明日もまたあのオレンジ色の朝日がゆっくりと東の空に昇るわけです。
右往左往しているのは、欲深い人間ばかりです。

縁側でお茶をすすりながら、たわいもない話をして、へらへら笑うのが一番いいと思えるのですが、
そんな時代がまた来るのでしょうか。










波動まみれ

2005年09月26日 | スピリチュアル
今朝、フェリーで京都より帰ってきました。
一緒に行ったA氏夫妻のタフさには驚きます。
一日中歩き回り、夜にはしこたま酒を飲んで、翌朝5時ごろにはケロッと起きます。
日頃の鍛え方が違います。

さて、いろいろ行きました。
いちいち感想やら印象やらを書いていたんではキリがありませんので、
2~3印象深かったところを。

まずは、鞍馬山の奥の宮。
すごい霊気というか、波動というか、磁気というか、眉間にずんずん来る感じです。
ちょうど山頂のイワクラみたいなところにお宮があります。
しばらく頭がズーンと重く感じていました。

次に行ったのが、貴船神社の奥の宮。
ここは後で知ったのですが、縁切り、縁結びの神社らしいです。
そう言えば、思い当たるようなこともあるのですが、言いません。
ここも奥の宮が眉間にぴりぴり来ました。
水につけたら、文字が浮かび上がるというおみくじ引いたら、大吉でした。

伏見稲荷は別の意味で重い波動がありました。
なんか粘着力の高い波動というか、なんというか。

その他いろいろ行ったのですが、どこもそれぞれ個性的で、面白かったです。

お客さんが来て、食事に行きますので今日はこの辺で。

それから、これから京都に行く人にアドヴァイス。

「観光地で観光客相手の店では蕎麦を食うな」です。

京都

2005年09月22日 | 雑感
今日の夜、京都に向けてフェリーに乗ります。
滝仲間A氏が、亡くなったお父さんの喉仏を、西本願寺に納めるというので、ついて行きます。
貴船神社や、鞍馬寺など、なかなか行けない所へも回ってこようと思っています。
前にこのブログで「動こう」と書いたのですが、本当に動きが出始めた感じです。

ところで、いつものことながら、旅費がなかったのですが、
今日、ばたばたと予期せぬ入金がありました。
というわけで、何とかなるだろうとぜんぜん心配もしていなかったのですが(笑)
心配というのは本当に役立たずですから。

ところで、もうまもなく出発しますので、また、今日の日めくりです。
日めくりは、ネタがないときの王様です。

「才能の悪用は 断固たる叱責を必要とする」 バイロン

これについては、いろいろ言いたいことがあるのですが、
時間がありませんので、またの機会に←何のために引用したんだ?

それから、今日、スピリチュアルな女性、Nさんが店に来ました。
今度ふぐを食べに行くことにしました。
なんでも、飲み放題付のふぐ会席、3千円だそうです。
飲み放題のビールが、モルツだというのがまたいいそうです。
Nさんは、もう4回も行ったのだそうです。
気持ちが悪くなるほど飲んだのだそうです。

Nさんと話していると、気持ちが明るくなります。

高千穂参拝のお話も出ました。

というわけで、来週月曜日まで、みなさんごきげんよう。





欠点

2005年09月21日 | スピリチュアル
「私たちの欠点こそが 私たちに理想を見せてくれる目である」 ニーチェ

今日の日めくりの言葉です。
この日めくりは、「~こそ」という強調語が多いです。
ここがポイントだぞ、いい加減に聞き逃すなよ、ということなのだと思います。

欠点はそのまま放置すれば、欠点ですが、
欠点を自分が向上すべき方向性の道しるべと捉えれば、それはそれでありがたいわけですね。
欠点というのは、自分ではなかなか認めがたいし、人から指摘されれば腹が立つし、
放っておけば、それが元で失敗をしたり、破綻したりします。

長所というのは、放っておいても長所のままですが、
欠点は、何らかの手を打たないと、人生の躓きになりえることが多いですから、要注意ですね。
欠点というのは、なんというか、普段は身を潜めることが出来るものです。
欠点を潜めた人格というのは、まるで人格者を装うことが出来ます。
が、重要な局面になると、顔を出して、状況をむちゃくちゃにしてしまうということがよくあります。
だからこそ、欠点を超克することが、理想的な人生運営にもつながるわけです。

では、どうやって自分の欠点を探すのか?
自分の欠点は何か、何なんだと気を張って生きるのも面白くありませんし、
そう簡単に見つかるものでもありません。
欠点は身を潜めるのが上手い上に、自分で自分を見るというのはことのほか難しいものです。

やはり人の自分に対する反応には注意深く、謙虚であり続けるしかないのかもしれません。
それでも、なかなか自分の欠点というのには気がつきにくいのですが。
他人の欠点を発見するのは、たいていの人が名人芸を発揮しますが。

で、欠点を発見するおそらく最も効果的で、有無を言わせない方法があるとしたら、
ぼくは「内観法」という、真宗の「身調べ」という方法から発展したものが、それだと思います。
だれだれに対して、

1.してもらったこと
2.して返したこと
3.迷惑をかけたこと

これを幼少期から今に至るまで、徹底的に調べ上げます。
例えば、母親に対して、0歳から6歳の時の時期を回想して、1~3を調べ上げます。
それから、小学生1~3年、小学生4~6年と順次時期を区切って調べていきます。
これば誰でも共通するのですが、「1.してもらったこと」は次から次へと思い浮かんできます。
ところが、「2.して返したこと」は、もっとしてくれだの、してくれ方が悪いだのという反抗・甘えばかりです。
「3.迷惑かけたこと」はこれまた次から次へと山のように思い出します。
人の弱点、隙を突きまくって、悪事のし放題です。
ひとは、これほどまで自分勝手で、冷酷で、欲深いものだと思い知ること請け合いです。

これは、体験した人しか分かりませんが、自分の罪深さを思い知ると同時に、
その罪深い自分を受け止め続けた両親なり、配偶者なりに、感謝の念があふれます。
大量の涙と共に、浄化されます。
自分の欠点なんかに拘泥する気持ちは消えうせます。
そんなつまらない意地や我欲はどうでもよくなります。
「ちゃんと生きよう」という気持ちで一杯になります。

まぁ、そんな感じです。
実はぼくも以前の会社の社長命令で、内観法を受けたことがあります。
それで、今の有様かと聞かれれば返す言葉がありません。
でも「ちゃんと生きよう」という気持ちは、これでもあるんです。







やさしい気持ち

2005年09月20日 | 雑感
昨日、A氏の納屋の軒先で燻製器を組み立てました。
蓋が本体とぴたりと合わず、中途半端に隙間があります。
これでは煙が外に流れ出てしまいます。
これだから、アメリカ発注の中国産はと、A氏とぶつぶつ悪口言いたい放題でした。
これは燻製器としてよりは、バーベキュー向きに作られているのではなかろうかというわけで、
急遽、材料を買い出しに行って、バーベキューをしました(笑)

竹炭で焼いたバーベキューは思いのほか旨かったです。
なんというか、上品にしっかり焼けます。
肉も野菜もすべて食べ切りました。
普通ですと、ぼくの場合、こういうシチュエーションでは二三切れ食べると、もうたくさんという感じになるのですが。

A氏の田舎はご多分に漏れず、過疎地です。
瓦屋根の大きな屋敷があちこちにあるのですが、おばあさん一人で住んでいるケースが多々あります。
旦那に死なれ、子供たちも村を出て行き、村はしーんとしております。
森や川で遊ぶ子供たちの姿はありません。
朝も、昼も、夜も、しーんとしています。
我が農漁村再生プログラムはなんとしても前に進行させねばならぬゆえんです。
最初の燻製プロジェクトは早くも頓挫しかかっていますが(笑)
こういう場合、すぐへこたれるのがぼくの専売特許なのですが、今回は諦めません。
おいしい牡蠣の燻製を作ります!←見よ、この決意表明←ばか

明朝、人を滝に入れますので、今日は酒・肉抜きです。
昨日飲みすぎたので、ちょうどいいです。
なんか、いろいろなことが起きます。
そのいろいろを語りだすとキリがないのですが、みな何かのメッセージではあろうかと思います。
傲慢、鈍感に見逃し続けてはいけません。

「小さい頃は神さまがいて
 不思議に夢をかなえてくれた
 やさしい気持で目覚めた朝は
 おとなになっても 奇跡はおこるよ」 荒井由美

ちょっと引用するのが恥ずかしい気もしますが、そういう気持ちを持てた人が幸せ者なんでしょう←書いてて恥ずかしい
優しい気持ちで目覚めたことなど、記憶にありません。
どろんと濁った目をシブシブ開けて、タバコをふかします。
あははは←無意味な笑い

肺に陰のあるお客さんが今日もやって着ました。
手当てをします。
だいぶ反応が小さくなりました。
油断が出来ませんので、精密検査の前に、影が消えてしまえばいいと思います。
大丈夫だったら、ダイヤのブローチを買うと言ってくれました(笑)

笑ってばかりいる場合ではないのかもしれませんが、深刻ぶっても事態は改善しないのはさんざん経験してきました。
仏教をちょっと勉強しますと、深刻なことなど何もないのだと思われてきます。
生きるもよし、死ぬもよし。
禍福はあざなえる縄の如し。
禍福の波間にもまれながらも、心の底に「優しい気持ち(慈悲)」が、とうとうと流れているようだと本物なのでしょう。





ヴィジョン・クエスト

2005年09月17日 | スピリチュアル
昔、アメリカ・インディアンの男の子には、「ヴィジョン・クエスト」という通過儀礼がありました。
少年から、一人前の男になるための儀式です。
一切の食料も水も持たず、荒野でたった一人で数日を過ごします。
コヨーテや狼もいますし、夜は寒く、腹は減ります。
恐怖と、飢えと、寒さで眠ることも出来ません。
意識が朦朧としてきます。
死ぬかもしれないと思い始めます。
そんな時に、彼は「何か」を見、「何か」を感じます。
そして、村に戻り、その「何か」を一生胸に刻み込んだまま、たくましく生き抜くのです。

まるで日本の修験道と一緒ですね。
アメリカ・インディアンも土地土地のカミを信じ、森の動物をカミとみなし、大地の息吹を畏れ敬います。
そういうアニミズムの根っこを失った文化文明というのは、どうも脆いです。
大地と空を敬わない文明というのは、人間精神のダイナミズムを失い、どうしてもみずみずしさを失います。
一神教的な堅苦しい世界観から抜け出して、空と海に生命をほとばしらせるような世界観を、
人々は世界中で求めているような気がするのですが、どうなんでしょうか。

新しい世界観というのは、当然旧い世界観、体制、価値観を崩します。
それには、人間集団というのは強く危機意識を持ち、抵抗します。
とんでもない天変地異でもないと、なかなか世界観というのは一変しません。
世界観を一変するのが目的ではありません。
エゴイスティックな革命ほど迷惑なものはありません。
世界観が変わるべくして変わるのだろうと思います。
既存の世界観で何も問題ない時節もあれば、変わるべき変節期というのもあるということでしょう。
それで、自分たちが今どこにいるのかという、見極めが大切になるわけですね。

現実の状況を見ますと、変えるべきか否かよりも、世界観を、価値観を変えないと、
地球はもたないと、さんざん言われています。
それでも変えなければ滅びるだけです。

どうなんでしょう。
社会体制を変える試みはいろいろされてきました。
どの方法も、自分「外」にある社会を革新するという意味では共通なのですが、
自分「外」をいくらいじっても、自分が変わらないままであることに気がつきました。
どういう体制であろうとも、体制そのものが人を幸福にするわけではありません。
人の意識は、人の意識自らを変える時に、おそらく幸福を感じる境地に達することが出来ると知りました。

その知ったことを、そろそろというか、今すぐにでも実践し始めなければなりません。
社会を、他人を変えるのではなく、自らを、自らの意識を拡張し、飛躍させること。
そういうことだと思うのです。

と、「魔女の宅急便」を見て思いました。





燻製

2005年09月16日 | 雑感
毎日少しずつ涼しくなってきていますね、当たり前ですが。
稲穂も色づき始め、頭をたれ始めるのでしょう。
農家の人たちにとっては一年の苦労が思い起こされるのでしょう。
自然を相手に働くというのは、いつどうなるかわかりませんから、気苦労が多いのでしょうね。

さて、燻製器を買いました。
肉でも、魚でも、チーズでも何でも燻製に出来ます。
A氏の田舎の土地を借りて、燻製作りを始めます。
ぼくは、こういう地道な作業はすぐ飽きるタイプなのですが、A氏が並外れてマメです(笑)
きっちりしたものが出来れば、買ってくれそうなお客さんはたくさんいます。
ぼくの個人的な狙い目は、「牡蠣」の燻製です。
泣く子も黙る旨さだと思うんですが。
特にウイスキーが好きな人、期待してください。

牡蠣といえば、このあたりは広島産が有名なのでしょうが、
ぼくは松島産の牡蠣を食べて育ちました。
広島産のよりもだいぶ小ぶりで、エキスが濃い感じです。
なんだか、牡蠣の土手鍋が食いたくなりました。

そういえば、岩牡蠣も旨いですよね。
あれは山陰でしか取れないものだと思うのですが。
東北や東京ではまずお目にかかれません。
神戸のフランス料理屋で食べたのが絶品でした。

牡蠣で食あたりをした人は、牡蠣が二度と食べられなくなるそうですね。
毒性がよほど強いのでしょう。
炊き込みご飯などに少しだけ入っているのも、駄目になるらしいです。
可哀想なことです、あんな旨いものを。

どうでもいい話が続きます。
そうです、ネタがありません。

展示会も今日までで、すこし気が抜けています。
明日、明後日と滝に行きます。
リフレッシュしてきます。

このままじゃ、あれですから、手元にある日めくりから。

「人のために火をともせば我が前あきらかなるがごとし」 釈尊

「失望に身をまかせれば 自分こそが最悪の敵になる」 アーマンド・ハマー

「精神の真の革命こそ 私の本来の関心事である」 ベルジャーエフ

「貧乏を 貧乏と感じない心こそ 尊し」 とおる






赤とんぼ

2005年09月15日 | 雑感
昨日は久しぶりに外に出て飲みました。
でれでれに酔っ払いました。
今日は一日中気分が悪いです←進歩がない

さて、民主党の次期党首選びが、難航しているようです。
こういうときに、民主党内部で誰がどう考え、何を行動しているのかを報道して欲しいものです。
小選挙区制では、与党がだらしなければ、次回選挙で政権交代が十分に可能なわけですから、
内部でごちゃごちゃ何かやっているというイメージでは、有権者の関心も信頼も引き付けられません。
まぁ、ごちゃごちゃ内輪もめをしたいのならすればいいんですが。

肺に影があったお客さんは、今日も手当てを受けに来ました。
一昨日、手を当てているとすっと反応が消えたので、これで消えるかなと期待したのですが、
今日はまたびりびりと反応しました。
お客さんも痛みを感じるといいます。
痛みが感じるということは、そこの部位が反応しているということなので、痛みが治まるまで手当てします。
20分くらいで、ようやく痛みが治まりましたが、すっきりと消えたという感触はありません。
うーん。

そろそろ秋ですね。
九州では燃えるような夕焼け空というのは見たことがありません。
あれは大地が広くないと上手く焼けないのかもしれません←この表現でいいのか?
北海道をバイクで旅行した時、信じがたい夕焼け空を何度か見ました。
サロマ湖湖畔で見たのと、富良野の銭湯から出てきた時に見た夕焼け空は、言葉を失いました。
写真が残っているはずなので、今度機会があれば紹介します。

夕焼け空を見ながら「赤とんぼ」を歌って泣けるのは、年を取った証拠です。
年をとっても泣けない人は、無駄に年を取った証拠です。

「15で ねえやは嫁に行き お里の便りも 絶え果てた」

↑ここが泣くところですね。
何も知らない少女が嫁に行き、農作業やらなんやらでこき使われ、姑にいびられ、子育てに追われ、
じっとわがままな亭主に仕え、年老いていく様が目に浮かぶようでなければ、立派に年を取ったとはいえません。
で、少女だった面影はすっかり消えた彼女は、農作業を終え、汗をぬぐってふと空を見上げると、
唐辛子色したトンボがスイスイ飛んでいる。
少女のころ、洟をたらした弟をおぶって、指をさして、「ほら、トンボよ」と洟たれ弟に言った日のことを思い出す。
腹を減らしで、ぐずぐずぐずっている洟たれ弟は、一瞬泣き止み、真っ赤な空の下をスイスイ飛ぶトンボに見とれる。
そんな感じですね←なにが

今日の教訓は、年は無駄に取るな、でした(笑)








成熟

2005年09月14日 | 雑感
今朝も滝行。
新人女性と古参女性と3人で。
実は、昨夜、どうしても断れない人から酒席の誘いがあって、今日の滝行のことを考えてどうしようかと
一瞬迷いましたが、そのまま断ることが出来ました。
先週、導師に「人を滝に入れる日の前日は、絶対に飲むな」ときつく叱られていましたので、
古参女性に電話して、ぼくの代わりに新人女性を入れてくれるように頼もうかとまで思ったのですが、
こうぐずぐず考えること自体が嫌になったので、きっぱり断りました←小学生並みの自慢

今朝は先日買った2個目の五鈷杵(密教仏具、ゴコショと読みます)を持って滝に入りました。
気持ちよく入れました。

時々変な夢を見ます。
幼児虐待が行われるシーンが淡々と続きます(残酷なので詳細は省きます)
それではっと目が覚めます。
幼児虐待の直接のシーンではないにしても、意味づけ不能なあるシーンの背後に幼児虐待を感じることもあります。

この部屋に引っ越してから、そういう夢を見るようになりました。
直感で、この部屋に子供の霊がいるのではないかと思っていましたが、
導師が部屋にある白衣観音像を見るなり、それに水子がついているというので、
ああなるほどとは思ってはいたのです。
まだ夢を見るということは、まだ成仏していないということですね。
ここに引っ越してきたのも何かの縁と心得て、成仏を祈り続けます。
言っておきますけど、部屋自体が気味が悪いとかそういうには一切ありませんから←キッパリ

二年前くらいから老眼が入ってきました。
メガネをかけたままでは本が読めなくなってきました。
目が見えなくなる前に、必要な本なら全部読んでしまっておけ、
老人なら老人らしく、がつがつ知識を溜め込もうとするな、
本などに頼らず泰然と生きる潮時だろう、という自然の摂理なのかもしれません←大袈裟

でも、昔ならぼくもとっくにいわゆる「おとな」として振舞うことを期待されている年なんですよね。
変革と達成と成熟を繰り返して、落ち着いた「おとな」になる。
うん、これはもう、ぼくには無理ですね。
成長のきちんとした段階を踏んでこなかったのかもしれません。
もともとちゃんと成長して、ちゃんとした大人になろうと思ったことも、しようとしたこともありませんし。

このまま青臭く生きるのかどうかは分かりませんが、別に不満はないです。
周りがぼくを見て引くようになるのなら、ぼくは自ら進んで森の中にでも一人で入りますし。
というか、そうなることに憧れていたりして(笑)





流れ

2005年09月13日 | 世相
政治状況だけではなく、どうも大きな流れの曲がり角であることは間違いなさそうです。
仕事の環境の変化もそうですが、出会う人との会話の内容も、人々の好奇心の向かう方向性も、
みな一様に未来にあるべき姿を模索始めたような気がしています。
変化を望まぬ者は、変化を恐れますし、変化を望む者も、その行方を把握しきれずに、戸惑っているところでしょうか。

こういう時は、受身一辺倒では時代の流れに太刀打ちできません。
積極的に、流れの一端にでも参加しないと、取り残されます。
で、どんなエネルギーが、どんな方向に流れ出しているのかがわからないと、
参加すべき流れの一端さえ見つからなくなります。

落ち着いて、身の回りを観察してみます。
いつもと変わらぬ風景が展開しています。
でも、そのなかに今まで心のどこかで気になりながらも、見過ごしていた何かがあるはずなのです。
それが何なのかは、その人自身が、探し当てなくてはいけません。
パートナーとの関係なのか、隠されていた趣味なのか、自然と向き合うことなのか、仕事の方向性なのか、
それは、その人それぞれのオリジナルな意識で、再発見されることを待っているはずです。
それは、決して、目新しいものである必要はないと思うのです。

こういうときは、事象を安易に記号化(レッテル張り)してはいけません。
善悪、損得、美醜、と物事を安易に二分しないでください。
あの人は○○だという前に、その人を深く感じることが必要です。
この出来事は○○だという前に、その出来事の意味をじっくり味わう必要があります。
身の回りで起きるあらゆる出来事の意味を知る必要があります。
自分に関係のないことは、自分の身の回りには起きません。

自己防衛のために、感情を、好奇心を、正直さを、勇気を押し殺すことに慣れすぎた人間は、
ありのままの人間になれることを思い出さなければいけません。
ありのままの人間が、ありのままの流れを理解しないと、流れは暴力的な激流にしか見えなくなります。
流れの意味を掴み損ねると、その人は激流に呑み込まれてしまいかねません。

手放すことを覚えなくてはいけません。
今での考え方、感じ方、行動の仕方、ものの言い方。
考えて嬉しくなること、感じて楽しくなること、行動して人が喜ぶこと、言って感謝されること。
それが、流れに沿った行為・行動の指針と言えるかもしれません。
流れに沿わないと感じたら、ためらわず過去の行動様式は捨てたほうがいいかもしれません。

手放す感触を掴むためには、伝統宗教のノウハウを借りるのがもっとも効果的かもしれません。
「禅」は、後から後からわいてくる雑念に徹底的に取り合わないという工夫を通じて、
雑念以前の自分(本来の面目)を知ろうとします。
「念仏」「祈り」は、念を一転に集中することにより、雑念からの干渉を離れた境地に進もうとします。
「滝」は、心身を完全に水流に委ねることにより、五感と意識(六根)の純一化を体験しようとします。

なんにせよ、漫然と流れる日常の意識の流れに乗って時を送っても、こういう時代はどこにも行けなくなります。
個々人の望みや観念の意味というのは、時代の変動期には相対的にその価値が著しく低下します。

厄介な時代だと取るか、楽しい時代だと取るかは、人それぞれでしょう。
ただ、人がその流れをどう解釈しようが、流れは流れ続け、抵抗するものは押し流され、
流れに乗ったものは、そのダイナミズムを感じることが出来るのではないかと思います。

何一つ根拠のある話ではありません。
ただのぼくの思いつきのままだらだら書いているものです。
でも、思ったことをそのまま書くということが、ぼくは大切だと思うわけです。
それが流れに沿った行為なのかそうでないのかは、天のみぞ知るということで、
ぼくはいいのではないかと思っているわけなんです。


2005年09月12日 | 雑感
今日は銀行への支払いがありました。
昨日の昼までまったく支払える見込みはありませんでした。
でも、今日、無事支払いが終わりました。
なんというか、こういう綱渡りがずっと続いているわけです。
基本的にぼくは綱渡りというのは好きではないんですが。
でも、計画を立てたり、準備をきちんとしたりというのが、大の苦手ですので、
細い細い綱を渡らなければならない羽目になります。

昨日Aと一緒に伺ったお客さんと、もう一人、がんの手術を最近したばかりのお客さんが、
手当てをしてくれと店に来ました。
あまり真面目に手当てをすることはないのですが、お二人には真面目にしました。
してくれと頼まれたら、する。
なかなか渋いあり方です←どこが?

Qちゃんから、「夢バトン」というものを渡されたので、こういうのは照れくさいし、嫌だなーと思いつつも答えます。

http://katamich.exblog.jp/3452222/←参照されたし

Q1.小さい頃、何になりたかった?

冒険家ですね。無人島というものにどういうわけか強烈な憧れがありました。
高校生くらいの時に「オメガマン」という映画を見ました。
宇宙から飛来したウイルスに人類が犯され、たった一人たまたまワクチンを打ったドクターだけが、
健常な体で生き残るのです。
ウイルスに犯された人類は、目をやられ、昼間の世界に生きることは出来なくなります。
地下道に隠れ住み、夜になると街にうようよ繰り出してきて、略奪し、ドクターを襲います。
ゴーストタウンとなった昼間は安全な街をドクターはたった一人でうろつきます。
デパートをうろつき、映画館に入り、一人で映写機を回し、「ウッドストック」を見て、涙ぐみます。
これこそぼくが求めている世界だと思ったものです。

Q2.その夢は叶いましたか?
無人島というのは、今では漂着するものではなく、「買う」ものであることを知り、夢は散りました。

Q3.現在の夢は?
うーん、商売上のヴィジョンらしきものはあるんですが、自分でも本気じゃないことが分かってしまうからなぁ。
自分がきれいなオーラを出せるようになり、そのオーラが勝手にいろいろないいことを引き寄せてくれるように
なればいいんですが、こんなことを言ったら叩かれますね。

Q4.宝くじ3億円当たったら?
・借金を返す 1千万
・ニューヨークに日本美術の店を出す 7千万
・今の貧乏くさい店をグレードアップ 2千万
・今までの恩人に恩返し 3千万
・銀行に定期預金 7千万
・農・漁村再生プロジェクト基金 1億
 
Q5.あなたにとって夢の様な世界とは?
言葉ではなく、テレパシーでコミュニケーションが取れる世界。
うそをつく必要も、騙す必要もなくなる。

Q6.昨晩みた夢は?
見た覚えがない。

Q7.この人の夢の話をきいてみたいと思う5人は?
ブログを持っている友人がいません(泣)
で、答えていただける可能性は限りなく低いのですが、諸事情に頓着なくリストアップです。
・どーし
・かなりやさん
・A氏
・ネネさん
・下関のMさん






2005年09月11日 | スピリチュアル
まずは以下のページを見てみてください。
このブログは無料のせいかリンクを張ることが出来ないので、アドレスをクリックしてもページが飛びません。
以下のアドレスをコピーする→プラウザのアドレスにペーストする→リターンキーを押す、という手順です。

http://katamich.exblog.jp/3450370/

昨日の滝行の光景の写真なのですが、なんかすごいでしょう。
最後の写真なんか、光の塊になっています。
被写体となったJ君は、もっぱら地味な勉学に励む、もったいないほどの好青年ですが、それはさておき、
その瞬間はおそらくまぶたの裏一杯に光を感じているものと思われます。
カメラで見た映像は、もう少し緑色の光輪の色が濃かったように思いますが。

面白いもので、例えば何人かの滝行姿を、同じ条件で写真に撮ったとしますと、
水の形や飛沫の粒の大きさや飛び散り方が、一人一人違うものになります。
一人一人のあり方が、水に反映します。
ようするに、水をごまかすことは出来ません。
その人のそのままが、そのままに映し出されます。
そうして、滝に見事に映し出されたぼくは、導師に叱られます(笑)

Qちゃんの21日の滝行の総括も面白いので読んでみて下さい。
何でまあ、こんなに正直なんだと思うくらいに正直な感想ですから。

ところで今日、お客さんの家に滝仲間のA氏と共に行きました。
昨日店に来て、なんでも検査で肺に影が見つかったということでした。
ぼくが手をかざして反応を見ると、左肺の上部にびりびりとした反応があります。
しばらく手を当てていたのですが、びりびりが収まりません。
これはきちんと手当てをしなければということで、A氏に段取りしてもらって、今日行ったわけです。

1時間くらいの手当てでした。
まず体中の代謝が悪く、それをよくすることから始めます。
お客さんの額から汗が噴出し始めます。
それから患部に向けての集中的な手当てです。
終わるころには人相がころりと柔らかく、目に生気が宿っていました。

ついでに、部屋に入った瞬間からA氏が仏壇に黒いもやもやを感じていたので、二人でお経を上げました。
すぅっと、その薄ら寒いような存在は、消えました。
導師のように、その存在が何で、どんなメッセージを発しているのかは、われわれには分かりませんが、
お経がある一定の効果があるのは確かなようです。

なんか、オカルトチックな話が嫌いな人には、ドン引きされそうな内容ですね、今日は。
ただ、くれぐれも言っておきますが、ぼくも滝の仲間も誰一人いわゆる超常現象を求めているわけではありません。
そんなものは、起きても起きなくてもどうでもいいのです。
ただ、起きたことは起きたこととして、不思議がったり、(いい意味で)面白がったりしています。

付け加えると、超常現象というのは、おそらく科学的な研究対象にはなりませんね。
素粒子と同じで、観察者の意識が必ず対象に干渉するものだと思うからです。
唯一分かるのは、滝やらなんやらというものに対して疑いを持つ者が、滝に入っていかにひどい目に会おうとも、
その同じ冷たい水の中で、光を感じ、静寂と安心を感じる者がいるということです。
それだけでいいではありませんか。