風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

成功

2007年01月31日 | 雑感
昨夜は懲りて睡眠導入剤を飲んだので、朝までぐっすり眠りました。
クスリは嫌いなのですが、根性やら思惑やらだけでは打ち克てない時は、クスリの力を借りてもいいかもしれません。
睡眠充分で活力満点でしたが、こういう日に限ってお客さんは一人しか来ませんでした。
そういうものです。
暖房の効いた店で、何するわけでもなく、ある人のホームページを作ったり、コーヒーを飲んだりしていました。

昨日、前に勤めていた会社の社長から電話がありました。
もうその業界ではブッチギリのトップに立っています。
先日もたまたま見ていたテレビに出ていました。
今後の戦略を聞かせてくれました。
ここでいろいろ書くわけにはいきませんが、見事としか言いようがありません。

その戦略を説明すれば、そんなことかと思われそうですが、ぼくはそれを実現している人はそうそういないことを知っています。
資金とか、人脈とか、計画性とか、努力とか、そういったことではないのです。
もちろん、そういったことは目標の実現には不可欠なのですが、もっとも大切なのは、なにを目的にするかです。
魂の奥底から打ち震えるような目標を手にすることができたら、成功を手にしたようなものです。
金持ちになりたい、幸せになりたい、家族を大事にしたい、どれもが尊い目標には違いありません。
でも、その程度の目標では、どうしてもあくせくする境涯から抜け出せないかもしれません。

ちょっと語弊があるかもしれません。

違う言い方をするとしたなら、天の摂理というのは人が思うより、遥かに大きなことを人に要求しているのかもしれません。
社長の歩む道筋を見ていると、そう思わざるをえません。

社長は目的が大きければ大きいほど本気になり、燃えます。
今の目的は、事業という枠組みを超えてしまっているかのようです。

ぼくはとうから自分が真似できるものではないと気づいていました。

どこか違うのか。

もともとの人としては違わないんです。

でも、歩む道が違います。
選択した道が違います。
自分の選択した道に対する責任感が違います。
見ている目標の大きさが違います。
見ている風景が違います。
情熱が違います。
真剣さが違います。

その結果、生きている境涯が天と地ほどに違ってきます。

社長の歩む道筋ほど見事だと、心から尊敬の念が起こってきます。
ひねくれもののぼくですから、なかなか人を尊敬するってことはないんですが。

だからといって、うらやましいとか何とかというのはないんです。
ぼくはこれでもぼくの行く末というのに興味を持ち始めています。
よかれあしかれ、ぼくの選択した道筋です。
あとは、どれだけの気概を持って、目を上げ、目標を見据えて歩んでいくか、です。

天の摂理の人に要求することは、決して一つの道ではないことは信じています。
ただ、どんな道であろうと、選んだからには、選んだ自覚、覚悟、情熱を注がなければ、道にならないのだろうということです。
道といっても、別に何か形がある場合もあるでしょうが、ない場合もあるでしょう。
金銭的なことに限らず、教訓、愛情、作品、思い出、そういう形にならないものも立派な道と言えるでしょう。
歩いた後に道を残す人は、事業者であれ、政治家であれ、主婦であれ、詩人であれ、みな立派な成功者であるのでしょう。


頑張れ>おれ

ねがい

2007年01月30日 | 雑感
午前一時に目が覚め、それからずっと寝れなくなりました。
本を読んでたら眠くなるかなと思ったんですが、4時になり、5時になり。
起き出して、スパゲティを作って食べました。
ワインを一本飲んでしまいました。
それでも眠くならないので、思い切って散歩にでました。
今ごろになると7時には空が明るくなってきます。
快晴です。

近所を一回りして、さすがに寝ないとまずいので、布団に入りました。
布団に入って、ICレコーダーで音楽を聴きます。
窓の外の真っ青な空を見ながら音楽を聴いていたら、とてもとても幸せな気分になりました。
空から目を離したくない感じなのです。

で、かかったのが南こうせつの「ねがい」。
高校生のころ、好きでよく聴いていた曲です。

「どこか遠くへ行きたいと 懐かしい人が歌ってる
 机の 上の 小さなラジオで
 行きたい いつか行ってみたい
 はるかな土地に寝そべると 
 そこから 空の青さが 始まるところに

 いつの日にか幸せをと 懐かしい人が歌ってる
 なぜだか 忘れられない この歌だ
 なりたい いつかなってみたい
 日当たりのよいアパートで
 そこから 愛の暮らしが 始まる女に

 どこか遠くへ行きたいと 懐かしい人が歌ってた
 なぜだか 窓を あけたくなった
 待ちたい ずっと待つだろう
 愛する人が現れたら 
 そこから ひとりっきりを 捨ててみるんだ」

布団の中で、「おれって、もしかして『ねがい』が叶っているんじゃあるまいか」とひとりごちました。
でもこれって、歌詞の中では「女」の「ねがい」という設定なんですよね。
まぁ、いいです。

で、あんまり幸せな気分になったもんですから、また起き出して、友達にメールしました。
「OOさん、ワンダフルな朝です」

浮かれた人間というのは、ある意味無敵ですから。
読んでいて、ある意味不愉快になられた方がいたら、ごめんなさい。

んでわ。←東北(トーホグと発音)弁で、「それでは」という意味

 
 

記憶

2007年01月29日 | 雑感
今日は午前中は雨でした。
自転車に乗ることもできず、バスにしようかとも思いましたが、思い切って歩いて店まで来ました。
歩いても15分くらいなんですが。
ICレコーダーで好きな音楽を聴きながら歩くのはとても気持ちがいいです。
雨が降ってようがなんだろうが関係がありません。

途中、飲み屋街があるんですが、その時かかったのがジョン・レノンの「スターティング・オーヴァー」。
1980年、5年ぶりに発表されたアルバム「ダブル・ファンタジー」の一曲目です。
オノ・ヨーコとよりを戻し、これからまた二人でやり直そうという内容です。
息子ショーンも5歳になり、再び巡ってきた幸せのはずでした。
その年の暮れ、アルバムが発売されてまもなく、ジョン・レノンは暗殺されました。
当時はさすがにショックでした。

日比谷公会堂で追悼集会がありました。
当時のガールフレンドと一緒に地下鉄に乗って行きました。
いろいろなミュージシャンも来ていましたが、誰だったかもう覚えていません。

「ダブル・ファンタジー」にはいたく感銘を受けていただけに、かなりの喪失感がありました。
12月の寒い夜だったことを覚えています。

と、音楽を聴いているといろいろなことを思い出すわけです。

ニューヨークに行ったときには、ジョンが住んでいたダコタアパートも見に行きました。
ジョンを記念して作られた、セントラルパークにあるストロベリーフィールズのベンチでも、ボーっと座ってきました。

さらには、その時のガールフレンドのことも思い出すわけです。
北海道を旅行したこと、ささいなことで焼もちを焼いて喧嘩したこと、エトセトラ、エトセトラ。

昔聴いていた音楽を聴きだすというのは、年取ったせいの懐古趣味なのかもしれません。
そういえば、ぼくの父親は老人になってから、童謡を馬鹿でかい音で聴いていました。

記憶というのは特殊なフィルターがかかるみたいで、なんかセンチメンタルな情景ばかりが思い出されます。
下らないことやら、馬鹿げたこと、卑劣なこと、頓珍漢なことの方をイッパイしてきたはずなんですが、記憶に浮かびません。
勝手なものです。
だとしたら、少々物騒なのは、自分の記憶の中にあるぼくと、当時を知る他人の記憶の中のぼくとはまるきり別人であるかもしれません。

記憶というのはそういう甘美な思い出ばかりをせっせと溜め込む癖があるんですね。
で、年老いて記憶を失っていくということはどういうことなんでしょうか。
自分が積み重ねてきた(と思い込んでいる)思い出というのがなくなっていくと、世界は限りなく味気のないものになっていくのでしょうか。

思い出にふけるというようなぬるいことをしてないで、「今」という瞬間に生きる癖をつけないさいというメッセージなんでしょうか。
たぶん、そうなんだと思います。
どうやら人は最後の最後まで甘ったるい生き方は許されていないようです。


祈り

2007年01月27日 | スピリチュアル
朝から雨など降って寒々しい一日です。
この雨の中で、スピーカーで何やらを訴えている人の声が遠くの方から聞こえます。
市長選挙が始まっているのです。

昨夜はネネさんと、ネネさんのマネージャーYさん、ヒーラーのAさんとで新年会でした。
ネネさんと二人だけの新年会の予定でしたが、急遽お二人も参加することになりました。
その店は、魚全般が新鮮で、特に鯨の「さえずり」と馬刺しがめちゃくちゃ旨いんです。
実は一昨日もその店にお客さんと行って、「さえずり」と馬刺しを食べたんですが。

で、話は面白かったです。
何せ話がトンでいる話ばかりですので、ここでは紹介しません(笑)
神話関係の話で、Aさんが面白いことを言っていたので、今日ネットであれこれ調べてみたら信憑性がぐんと高まりました。
それで、そういうことをかなり深く研究している人がこの地にいることをネットで偶然発見しまして、なんかワクワクしてきました。
諸説入り乱れている古代史ですが、そのうちすっきりとした形の仮説が出そうです。

かなり意図的な作為を持って作られたふしのある「古事記」「日本書紀」という文献から時には頭を離してみてみないと、
本当のところは見えてこないようです。
大きなヒントは、いまだに現存する神社と地名ですね。

来月には淡路島の神社巡礼に行きます。
夏には阿蘇です。
秋には出雲です。

何がどういう展開になっていくのかは分かるはずもなく、お任せです。
天の光が、恵みが、この地上に降り注がれ続けるよう、そして、
今でも充分に注がれているはずの天からの光と恵みを、一人でも多くの人が受け取るよう、
祈っていこうと思っています。


2007年01月26日 | 雑感
先ほど、季節外れの雷がごろごろなっていました。
なんなんですかね。

雷といえば、ぼくは11月に神社で結婚式を挙げたんですが、前日と言うか、その日の午前二時から三時くらいまで、
これまた季節外れの激しい雷がごろごろ鳴りっぱなしでした。
うへ~、これは結婚などやめろ~と言われていると思ったものです。
朝になったら、すっきりと晴れたんですが。
心にやましいものがあると、同じ出来事でもどうしても否定的に見るものなんですね(笑)

雷といえばもう一つ。
八ヶ岳だか北アルプスだか忘れましたが、何人かで稜線を歩いている時に、突然雲行きが怪しくなり案の定、雷が鳴り始めました。
稜線上では、雷は横に走るので、高いものからできるだけ避けて、身を低くしていろという話は知っていました。
そこで一応リーダーであったぼくは、みなに身を低くするように言いました。
ところが、一人の女性が、どこ吹く風、稜線上で立ち上がり、その辺りで一番高い存在に自らなってきゃっきゃっとはしゃいでいます。
雷が鳴り始めると、大気中に怒気が張り詰めたような、ぴりぴりとした感じになります。
どうもその感じがスリリングで楽しいらしいのです。
雲がもの凄い迫力で目の前をうねうねと動いていきますし。
その女性とは二度と一緒に山には登らないことを固く心に誓いました。
結局、何事もなく無事だったのですが。

大体女性は怖がりで、用心深い人が多いと思うんですが、まれにそういう人がいますね。
危険というのは、この世に存在していないかのように振舞う人。
悪い人ではないのは確かなんですが、いい人というのにも抵抗を感じるような人。
んも~っ、というようなことをしょっちゅう起こす人。

ところで、最近の江原さんの番組などは、結構人気があるのかと思っていたら2チャンネルなどを見ると否定的な意見が圧倒的で、
ちょっと驚きました。
最初から台本があって、視聴者を騙しているという意見が大方です。
前世や輪廻などあるはずもない、信じる方がどうかしているというのも大方です。

こういうのって、切りがない話ですね。
池のメダカに畑の土の中のモグラの話しを言って聞かせたって信じないでしょう。
土の中で生きていけるわけないじゃないかと猛反撃するはずです。
逆に、モグラにメダカの話をしたって信じるわけがありません。
水の中でどうやって呼吸できるんだ!と怒り出すでしょう。

できることは、メダカの話を聞き、モグラの話を聞き、空飛ぶスズメの話を聞くことだけです。
できれば、砂漠に生きるラクダの話も聞き、海に遊ぶイルカの話も聞き、氷の上に寝るシロクマの話も聞くだけです。
自分の住む池ばかりが世界だと言い張ってもしょうがありません。

ヒーリング

2007年01月25日 | スピリチュアル
今日はお客さんを連れてネネさんの知り合いのヒーラーの方に伺いました。
もう、テレビで有名なEさん並の力のある方で・・・。
テレビに出たら一躍有名になるでしょう。
若くて美人だし。

もちろん、いろいろなヒントをいただきました。
予想通り、肝臓がだれているそうです。
これからの指針としては、目の前に起こることを己の鏡とし、より高い視点から対処すること。
前世からの癖で、己の信念から判断してしまうことが多いため、いらぬ誤解やら摩擦を生んでいるとのこと。
どうやら、「判断」を手放すことを、どうしても学ばなければいけないみたいです。
その「判断」を生かす生き方は過去世でさんざんしてきたので、今生はより大きな視点から人間関係を学ぶ必要があるということなのだと思います。
目の前に起こることに感謝することができるようになれば、現実がよりスムーズに流れ始めるということでした。

無駄なアドバイスがなく、ぼくが最も気になっていることを、問う前からズバズバ指摘されるので、心地いいくらいでした。
一緒に行ったお客さんも、今の生き方を改めて肯定していい視点を与えられたので、満足げでした。

自分の前世というのは、興味がないことはないのですが、それよりも今生での使命というほうが興味があります。
前世のあり方を知ることによって、今生の使命というのがより明らかになっていくと言うか。
で、今生の使命が明らかになったかと言えば、それはぼく次第です。
酒飲んで、管を巻いていながら、使命などというのは負えるものではありません。
負うなら、負うという覚悟がいります。
ぼくにはその覚悟が欠けています。
ほっといて覚悟ができるはずもありません。
そろそろ潮時です。

ぼくは、出会う人やら出来事にはかなり恵まれている方だと思っています。
でも、感謝が足りません。
出会う人やら出来事を「判断」すると、感謝はできにくくなります。
「判断」は自分の視点からものを見るときに生まれます。
では、自分以外の視点とは?

その視点を受け入れることなんだと思います。
勇気と覚悟がいりますね、やっぱり。
でも、そのように事態が動いていく、背中を後押ししてくれているということは認めざるをえません。

こういう出来事全体を受け入れ、感謝すること。
心の癖を直すというのは、誰にとっても難しいものですね。

一日の終わり

2007年01月24日 | 
納屋の白い土壁にもたれ 落ちる夕日を見ていた
もうふた月と十七日、誰とも口をきいていない
ようやく俺の手から干し肉を食べるようになった野良犬も
このところ姿を見せなくなった
お相手を探して 旅にでも出たのだろう

もうまもなくジャガイモの花が咲く
薄紫色の花が一面に咲く
そのときおれは 庭先にテーブルを出して
とっておきの赤葡萄酒を飲もう
去年の暮れにこしらえた 羊のチーズも食べごろだ

見る見るうちに真っ赤に染まる空を眺めているうちに 俺はふと思い出す
八歳の夏休み、父親に買ってもらった緑色の自転車
俺は町のあちこちを 風を切って走り回った
表通りや裏通りで 人々の笑顔やら泣き顔やらを たくさん見てきた
そんなこんなも どこへやら流れて消えた

今は土壁にもたれて ブーツの先にこびりついた泥を見ている
深呼吸とも 溜息ともつかない息を 大きく吐き出す
俺の真正面には息苦しいほどに燃えさかる日輪
祈りの言葉さえ思いつかない
目を細めて 大地に溶けていくのを 見ている




一瞬

2007年01月23日 | スピリチュアル
今朝も5時に目が覚めました。
ほかにすることもないので、座禅を組みました。

不思議なことに、坐禅を組んでいると、暖房も一切使っていないのに少しも寒くありません。
寒いとか暑いとかいう感覚が中断する感じです。
滝に入って冷たさを感じなくなるのと一緒かもしれません。

10分を過ぎた辺りからざわざわとした雑念が湧き出てこなくなります。
油断すると雑念が顔を出しますが、呼吸に意識を戻すとすぐ消えます。
今日は普段よりも呼吸に集中できました。

普段の意識というのは、息を吐いている、あるいは吸っているという事実を認識分別します。
その認識自体は、珍しくも面白くもないものなので、それ以上呼吸というものに意識を向け続けるのが苦痛になります。
意識は何か他の刺激的なことを考えようと、聞き分けのない子供のようにじたばたします。
それでも、意識を呼吸に向け続けます。
やがて、意識はじたばたするのを諦めて、吸う息、吐く息にピタリと沿うようになります。
それをどんどん深めていきます。

で、今日はじめて感じたのですが、スーッと息を吐くわけですが、その一息が一呼吸なのではなくて、
スーッと吐いている3秒くらいの間には、無数の「今」という瞬間がひしめいているのです。
つまり、普段の意識というのは、「今呼吸した」という認識分別をして、それでハイお終いなのですが、
普段の意識のフィルターを外すと、「呼吸した」という認識作用は起こらず、ただ瞬間瞬間の「スーッ」があるわけです。

禅の道場などでよく交わされる会話があります。

導師「一息とは何か?」
初心の修行者「えーっと、息を吸って吐くこと・・・ですか?」
導師「馬鹿者!(頭を拳固でしたたか食らわせる)」
        ↓
導師「一息とは何か?」
要領を覚え始めた修行者「・・・(足を組んで、静かに息を吐き、吸う)」
導師「よし!ぼやぼやしておらんで、とっとと道場に行って、座って来い!」

まぁ、こんな感じなのですが、要は禅では認識分別を徹底的に排して、瞬間の経験そのもになりきらせようとします。
スーッと息を吐いている瞬間の経験は、言葉で表現しようがなく、スッーっと息を吐く以外に表現できません。
スーッと息を吐いている瞬間のことは、「呼吸」というような分別のための言葉では表現できないわけです。

ちょっと分かりづらいでしょうか。
例えを仕事にとってみます。
朝8時から5時まで会社のデスクの前にいて、言いつけられたことをこなせば「仕事をした」とはなりません。
そんな感じで仕事をしているつもりの人も中にはいるのでしょうが。
時間を守って、言われたことをしていればいいというのは、ただ無駄に時間を空費したとしか言いようがありません。
要するに、家を出て、電車に乗るときから「仕事」は始まっています。
電車の中で出社したらなにをするべきかを考え、自分のデスクについたら、すぐさま動けるようにしているかどうか。
すぐさま動けば、動いた結果として次から次へとすることが発生します。
仕事において、動いた結果というのは、次の動きの原因となりますから、考えるまもなく「仕事」は連鎖していきます。
こんな感じで、「仕事」というのは、一定時間、身を拘束されるということではなく、
瞬間瞬間の、内容のある自立的な「動き」の連鎖であるということです。

社長「仕事とは何だ?」
新入社員「はぁ、与えられた業務をこなすことです・・・か?」
社長「馬鹿者!」
        ↓
社長「仕事とは何だ?」
将来の社長「会社組織内の自分の役割を考えた上で、あらゆる可能性を創造し、実現し、結果を積み上げていくことです」
社長「よし!ボーナスを上乗せしてやろう!」

坐禅という言葉は誰でも知っています。
でも、「坐禅」をするということは坐禅は足の痛みを克服し、退屈さを克服し、「一瞬」の意味を体得し・・・と、
どこまでも奥深い境地を、どこまでも「体験」していくことにほかなりません。

仕事も同じで、仕事を実際にしていく、体験していくことで、スキルも向上し、人格も陶冶されていくのでしょうが、
仕事と称する(とりあえず時間内に職場にいて、受動的な態度で時間を潰すこと)ことを何年しても、何の役にも立たないでしょう。

さて、誰にも言いつけられることがないからと、ひたすらダラダラしている人は誰でしょう?(笑)

朝の光景

2007年01月22日 | 雑感
今朝も3時に目が覚めてしまい、テレビを見て、新聞を読んで、坐禅を組んで、それから水を汲みに行きました。
いつも行く神社の湧き水です。
神社に着いてもまだ空は真っ暗です。
夜が明けぬうちの神社というのは、なかなか迫力のある奥行きを感じます。

負けじと祝詞を大声で上げ、拍手を打ちます。
それから、水場で水を汲みます。
地下水ですから、水温が外気温よりも高くて、気持ちがいいです。
水のちょろちょろ流れる音が辺りにこだましています。
東の空の端がうっすらと白み始めています。

水を詰めたポリタンクやらペットボトルを車に詰め込み、帰路につきます。
風はなく、一月とは思えない暖かさです。
濡れた手も冷たくありません。
東の空の端が赤く染まりかけています。

夜の明けぬ前から、トラックやら乗用車が国道をビュンビュン行きかいます。
朝方は取り締まりがないからということなのか、やたら飛ばす車が目に付きます。
追い越し禁止車線で追い越し、信号待ちしている車列の前にわざわざ割り込んでいく車もあります。
ぼくはなんどもバックミラーに写る赤く染まった空を見ます。

カーステレオからはコルトレーンの「バラッド」が流れています。
右側のスピーカーが壊れていて、間の抜けた音になっています。
何か考えようと思うのですが、頭が動きません。

途中、ガソリンスタンド併設のドトール・コーヒーが開いていたので、コーヒーとジャーマン・ドッグを買います。
店を出ると、真正面に真っ赤に燃え盛る朝日が、地平線から顔を出したところです。
思わず見とれ、なにか祈りを捧げたいと思いましたが、言葉が浮かんできません。
「ありがとうございます」と3回唱えました。

見る見るうちに、町並みが朝日で照らされていきます。
冬の朝の陽射しとは思えない強い光です。
道はすでに混み始めています。
みんなこういう景色を見ながら、毎日通勤しているのです。
昼近くに起き出すぼくとしては、なにか後ろめたい気持ちにさせられます。

それから、山の中腹を横断するくねくねした道を上がって、ぼくの産土の神様の神社に寄ります。
正月の注連縄や松飾を、お焚き上げしてもらうために持ってきたのです。

家に帰ると、友人からメールが入っていました。
雨上がりの爽やかな朝だと書いてありました。
同じ朝の光景を共有したような気持ちになって、ちょっと嬉しくなりました。

ということで、今は猛烈に眠いです。




風吹く草原

2007年01月20日 | 
追いかけるのをやめて、振り返ったら、そこに立っていた
悲しいのか、嬉しいのか、分からない顔をして、そこに立っていた

ぼくは長いこと追いかけてきたんだぞと叫ぼうと思ったが、声が出なかった
じっとぼくの顔を見ていた見ていた彼女の頬が少しだけ緩んだように思えた

どのくらいそこに立っていたのだろう、日が陰り風が吹き始めた
彼女はくるりと背を向け、歩き始めた

遠ざかる彼女の背中を見ながら、追いかけてはいけないと自分に言い聞かせた
彼女の背中は、青白いたそがれの中に吸い込まれていった

ぼくは周りを見回した
灰色の草原がどこまでも広がっているばかりだ

どこに向って歩いていけばいいのか、途方にくれた
空には黒い雲が流れ始めていた

夢なら醒めればいいと思いながら、ぼくはそこにじっと立っていた
風の音が聞こえるばかりだ

どこからどこへ向って歩いていたのかさえ、もう思い出せない
草原の中にぽつんと立っていた

まもなく日も暮れる
ぼくも夜の闇に吸い込まれていくのだろう

秦氏

2007年01月19日 | スピリチュアル
今朝の陽射しはまるで春を思わせるような明るさでした。
鳥の羽を思わせるような雲が空を覆うようにかかっていました。

昔から何気なく気になっていたもの複数が、何かのキーワードを手に入れるとスルスルと全部繋がるようなことがあります。
ぼくの場合、それは秦氏かも知れません。
聖徳太子をサポートしたという秦河勝の渡来の一族です。
一説には、秦の始皇帝の流れを汲むとか、ユダヤとか景経(中国に伝わった初期キリスト教)に関係するとか言われています。

筑紫国の東に(今の豊津の辺り)にハタ国という秦氏の国があったと古書は伝えています。
ぼくが滝行を始めようとしたのは、その豊津の畑(ハタ)の冷泉に入っているときであり、
滝行をしたのも畑(ハタ)観音の滝でした。
それで、なぜかその畑の冷泉のある神社には惹かれるものがあって、今でもお参りに行っています。

また、どういうわけかぼくはサルタヒコ大神にご縁をいただいているような感じなのですが、
サルタヒコ大神は秦氏の祀るカミだったのではないかという本を昨日たまたま読みました。
さらに、秦氏というのはどういうわけか惜しげもなく違う姓に替えていったのですが、ぼくの姓も変えた姓のうちの一つに入っていました。

秦河勝が渡来してきた時代より、サルタヒコ大神が日本に根付いた時代はずっと古いので時代が合わないじゃないかと言われるでしょうが、
秦氏は飛鳥時代に一時に渡来してきたのではなく何千年かのスパンで波状的に日本のあちこちに渡来してきてたらしいです。

学界的にはトンデモ話なんですが、なんかいろんな符号が重なってきている感じはあります。

ところで、昨夜はメンズデー、「武士の一分」を観て来ました。
ソツのない作りで、楽しめました。
壇れいという女優ははじめて見ましたが、きれいな女優さんでした。
脇役陣が頑張っていました。
木村拓也は賛否両論あるみたいですが、のんしゃらん(←死語?)とした感じはイヤミに感じませんでした。
殺陣も迫力がありました。
「武士の一分」をタケシノイップンと読んだ人がいるそうです(笑)


物価

2007年01月18日 | 雑感
ギターを買ってしまいました。
さすがにアンプは付属していませんでした。
「ブルース・ギター入門」というDVDも買いました。
いざとなったら、路上で歌いながら、世界中を回っているかもしれません。←石投げつけられます

でも、いま安いものはホント安いですね。
ぼくの私服はほとんどユニクロですし、上から下まで揃えても5千円くらいでしょうか。
同じ服を5年は着ますし。
スーツやシャツやらは昔買ったものですみますし。
キャベツや大根やほうれん草も100円しませんし。
ホールトマト一缶も、パイナップルの缶詰も、98円です。
安上がりに、楽しく暮らそうと思ったら、そう難しい話ではありません。
それに比べて、ぼくの売っているものときたら・・・(笑)

服やバックや靴は、どっか海外に行ったときによく買っていましたが、もう無理です。
今、ユーロが235円くらいだそうです。
ぼくが買っていた頃は、150円くらいだったと思います。
ロンドンなどに行くと、円の力がとても弱くなったのをひしひしと感じざるをえません。
贅沢しなくても、3食外食したらあっという間に一万円は超えます。
買い物は国内でお買い得品を買うに限ります。
こういう時代になったら、こういう時代に合わせればいいんです。

イギリスだって一昔前までは深刻な不況であえいでいました。
鉄の女、サッチャーが大鉈振るったお陰で、今の好景気があります。
日本も今大鉈振るっておかないと、再起がどんどん難しくなるのは目に見えているんですが。

中国の好景気だっていずれ共産主義との整合性を問われることになるでしょう。
都市部と農村部の格差は日本の格差どころじゃないでしょうし。
高度成長期の時は、活気が満ち溢れていますから、国策を反省する余裕もなく行け行けドンドンでしょうから、あれですが。
景気の活況が一段落付いた時、中国国内で何がしかの混乱が起こるだろうとは思います。
そのとき、日本経済がうろたえず、しっかりした道程を歩んでいるとは、ちょっと思えません。
その時が来たら、その時に考えればいいさと思っているのなら、まぁ言うことはないんですが。
せっかく首相と外相が東西ヨーロッパに外遊したのだから、経済界も世論ももっとヨーロッパに目を向けてもいいと思うんですが。
ま、そう思うなら、お前がなんかしてみろと言われるのが世の常です。

でも、5~6年くらい前に真珠を業者さんから借りて、ドイツとオーストリアの宝石業者に一人で売り込みに行ったことはあるんですよ。
価格が折り合わず商談は成立しませんでしたが、可能性は充分にあるという手ごたえはありました。
日本の古美術も可能性があると感じましたが、市場が狭く小さいのと資金力の問題で、足踏みしてしまいました。

いずれ海外で商売をしてみたいなぁという夢はあります。
それには今の店をレベルアップしないことにはどうにもこうにもですが。
ロンドンには2~3箇所アンティークショップばかりが入ったショッピングセンターがあります。
見て回ったところ、本格的な日本古美術の店がありません。
家賃もそれほどではありません。
思案のしどころです。
ロンドンと九州に店を持って、行ったり来たりっていうのもシブイです。








無題

2007年01月17日 | 雑感
午前1時に起きてそのまま寝ないでいるので鬼のように眠いです。
あんまり眠いのでCDを買いに行きました。
ここ数年、CDを買うのは控えていました。
何回も車上荒らしにあい、買ったそばからごっそりとCDを盗まれてましたから、嫌気がさしていました。
チェット・ベーカー、ゲリィ・マリガン、ケニュー・ドリューの3枚です。

で、CDを買った帰り道、楽器屋のショウウインドウにエレキ・ギターがありました。
アンプとソフトケースも付いて、なんと1万円です。
中古じゃなく新品です。
たぶん明日買います。
フォークギターしか弾いたことがないんですが、前からちょっと練習してみたかったんです。
でも、すぐ飽きるだろうなぁ。
ブルース・コードなんかもできるようになればいいのですが、無理っぽいです。
若者だらけであろう教室に通うのも照れくさいし、まぁあれです。

今のこの眠くてしょうがない感じはどうなのか、エンジェル・カードを引いてみました。
「神秘」(生命は神秘の宝庫です。その賜物に感謝して生きる時 その力は輝きを増して現実を彩ります。)

はぁ~。



童謡

2007年01月16日 | 雑感
冷たい雨が降っています。
ちょっと本を買いに街をぶらぶら歩いてみましたが、ネオンが寂しげです。
こういうときは立ち飲み屋で焼酎を飲むといい感じなのですが我慢しました。

本を買ったついでにCD屋に寄って童謡のCDを買いました。
まもなく4ヶ月になる娘に聞かせようと思ったからです。
タイトルがなんと「おじいちゃんも おばあちゃんも うたった童謡」です。
30曲入っているのですが、ぼくも全部知っています。
大きな口を開けて童謡を歌っている子供の姿を想像したら、こちらも楽しくなってきます。

2ヶ月を過ぎた辺りから、娘は笑うようになりました。
グズったり、むすっとしたりしていても、名前を呼んで笑いかけると口を一杯開けて笑います。
親に似ず、朝の起きがけはとても機嫌がいいです。
声さえ立てて笑います。
好奇心一杯でじっとしているのが苦手です。
せっかくの好奇心を邪魔ぜず、いろんなことを感じて生きてくれたらいいなぁと思います。
娘が成人になる頃は、ぼくは爺さんです。
ステッキ突いて、よろよろ歩いて、嫌われるような皮肉を言っていればいいと思っています。

童謡というのは、日本語のリズムや語感を養うのに最適だと思っています。
「月の砂漠」なんていうのは、幼児にとっては、はるか遠い世界まで想像力を掻き立てられることでしょう。
メロディーが意味もなく哀愁を帯びているというのもグットです。
「金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕」という詩は、ひたすらシュールですし。

今、収録曲をチェックしてみたら「夕焼け小焼け」と「ペチカ」が入っていないのは残念です。

ところで、あれです。
娘は笑い始めた時、最初はぼくの顔を見るのですが、その後ぼくの頭の上10cmくらいのところを見て笑っていました。
頭上10cmのところに眼が行くと、それはそれは嬉しそうににっこり笑うのです。
頭の上で小人でも踊っているのが見えていたのでしょうか。


商売

2007年01月15日 | 雑感
まだ夜中に目が覚めてしまいます。
でも、酒も煙草もぐっとこらえます。
朝方まで目が冴え、朝食を取るとグワーと眠くなります。
耐え切れずに寝ると、昼前に目が覚めてからもずっと眠いままです。
やれやれです。

運動不足というのもあるでしょう。
春めいてきたら、朝一番に山歩きをするというのも手かもしれません。
滝にもそろそろ行こうかと思いますし。

昨日は神戸からお客さんが来るというので店を開けました。
大きなものを買ってもらいました。
なんか、買ってもらおうとかなんとか何にも考えていなかったのがよかったかもしれません。
コーヒーを飲みながら、ぺちゃくちゃしゃべっていたら、どうしても欲しくなったみたいです。

開業以来、資金不足は恒常的です。
何が何でも資金を作るために安く売るはめになります。
資金不足は解消されぬまま自転車操業が続きます。
商売はそういうものです。
潤沢に資金があれば、よい商売ができるかというとそんなことはありません。
無駄なお金がだらだら流れ出ていきます。

何かしっかりした目標を持っていないと、お金は寄り付いてきません。
目標というものを持ったことのないぼくは、いつも貧乏です。
貧乏に慣れると、そんなものだと開き直るものですから、貧乏が苦にならなくなります。
今更贅沢をしたいというような欲はさっぱりありませんし。

でも、あれです。
今年の春頃には大きな金額の買掛金の返済が完了します。
それからは、今までセーブしていた商売上の動きを復活することができるかもしれません。
ま、焦ることはないです。
油断しないで、こつこつと積み重ねていくのが商売の王道です。

商売というのは、こうやればいいなどというマニュアルが一切通用しません。
その時々の商品と、その時々のお客さんの移ろいやすい気分があるだけです。
ぼくの気合が乗っていれば売れるというわけでもありませんし、だらだらしていたらなお売れません。
要するに、こうすれば売れるというような法則はありません。

ただ、これはしてはいけないということはいくつかあります。
それをすると、売れる売れない以前に、お客さんを失います。

してはいけないことをせずに、腐らず、運に任せてへらへらする。
最低のレベルの商売をしています(笑)

よく、あんたは気楽でいいねと言われますが、気楽でないと身が持たないような気もします。
そこのところを突破して努力した人が、いわゆる成功者となるのだとは承知していますが。

ただ、いくら気楽でも、流れが動いた時はそれなりに動かないと駄目です。
一年に何回か流れが動いた時に辛うじて商売が成立して食べて行っているようなものです。
流れを待っているのではなく、流れを自ら作れるようになると一流の商売人なのですが、程遠いです。

なんだか、とんだ言い訳小僧になってますね。