風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

夢幻とリアリティ

2010年06月05日 | スピリチュアル
今朝、ベランダから通りを眺めてましたら、中年の女性が二人並んで歩いていましたが、ふとある一軒の家の前で立ち止まり、
軒先に並べている植木鉢を指差してなにやら話し込んでいました。
穏やかな風の吹く気持ちのよい朝で、女性たちは日よけの傘をさしています。

ノスタルジックな既視感に襲われました。
子供の頃、路地の両側の家の軒先には、朝顔やらなんやらの鉢が並べられ、季節の花が咲いていました。
大小の金魚鉢を並べている家もあれば、夏になれば風鈴を吊るす家もありました。
子供ですから、そんな季節の風流には一切興味がなく、路地という路地を、路地裏という路地裏を走り回っていたわけですが、
女性たちの着ている服の流行は違えども、あの子供の頃と今とでは、変わってしまったようで何も変わっていないのかもしれないと、
ふと思いました。

たかだか半世紀ほど生きて、なるほど世の中の生活スタイルやら、電化製品、通信機器などの発達は目まぐるしいものがありますが、
軒先の鉢に目を奪われる時、その心に去来するものは、今でも、昭和でも、あるいは江戸の時代でも、何も変わっていないのではないか。
たまたまその二人の中年女性の傍らを、やはり日傘を差した背筋のピンと伸びた老婦人が通りかかりましたが、
もし彼女がセンスのよい着物を着ていたら、その空間はまるで明治や大正の時代と変わりはありません。

山は新緑に覆われ、渡ってきた小鳥たちがあちらこちらで盛んに鳴き、初夏特有の豊潤な香りのする穏やかな風が吹いています。
時代が流れていきますが、流れているのは自分の心象風景だけなのかもしれません。
日は昇り、日は沈み、雨が降り、風が吹き、木の葉が茂り、木の葉が散ります。
そんな大地の間で、人々が文明という砂上の楼閣を建てては、なすすべもなく崩れていく、という夢を見ているだけなのかもしれません。

金や名誉の世俗にリアリティを求めたら、酷薄な日々になるでしょう。
自分の夢想にリアリティを求めたら、冬眠している亀のような日々になるでしょう。
自分が生きるというリアリティをどこに求めたらいいのでしょうか。

求めるということをやめること。
自分の外側には求めるものなどない。
自分の内側にも求めるものなどない。
外側も内側もない。
では、なにがあるのか。
そこからが禅の世界になるわけです。

夢幻の世界で、儚く明滅するだけの人の命が、どうやって絶対無限の生命と直に繋がるのか。
「自分」というものさえ幻ならば、なにを主体として打ち立てて、どんな世界に切り込んでいくのか。
いかなる思考も感情も無意味ならば、なにを感じればいいのか。
疑念はこうして際限なく湧き起こります。

そういう疑念やらなんやらに一切頓着なく、道場では黙々と居士たちが坐るわけです。
今日から接心です。
今から道場に行ってきます。