風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

惰眠

2010年07月31日 | 雑感
ここ数週間、体がバテていた感触がありましたので、睡眠をうんととるようにしていました。
朝方、娘に起こされるので一緒に朝食をとって、その後また寝るという生活をしていました。
体の疲れはすっかり取れたはずなのですが、心身ともにスッキリしません。
スッキリしないから、ぐずぐずまた午前中ダラダラ寝るという循環になっていました。
気がついてみると、心がすっかり濁ってしまっていました。

なるべく人と会いたくもなく、会えば会ったで些細なことで苛立ち、部屋なり事務所なりに引きこもってしまいたくなりました。
いい年してなにをしているのかという感じなのですが、引きこもりの人たちの精神状況が分かる気がしました。

必要以上に惰眠を貪ると、おそらく精神機能の根本部分へのエネルギー供給量が問答無用でカットされます。
無駄に寝るやつに与えるエネルギーは害であることはあっても、何一つ有益なことはないということで、事業仕分けならぬ
脳の機能仕分けされる感じです。

精神へのエネルギー供給量が減りますと、瞬間瞬間の判断能力やら、思考の持続力やら、好奇心といった心の機能能力ががくんと衰えます。
低い精神レベルでの、生存希求力やら欲望やら嗜好性やらは維持されます。
食欲やら性欲やら睡眠欲やらは衰えませんし、酒やタバコといったものに対する執着も消えません。
形而上的な思考やら、真摯な求道やら、隣人に親切にといった道徳心やらは、急速に萎みます。
そういう状態になると、薄々自分のはまりつつある精神の泥沼状態が危険であることは分かるのですが、
なにせそこから抜け出すための判断力、持続力、好奇心等々の精神的活力を失いつつありますから、
泥縄式に心の引きこもり状態になっていきます。
さらに深酒がその状態に追い討ちをかけます。

以上、数週間惰眠を貪ることによる精神に与える影響という観点での、人体実験報告でした(笑)
この期に及んで、なにをしているんでしょうか、ほんとに。

ところで映画「インセプション」を観てきました。
「マトリックス」の世界を「夢」の階層に広げた世界です。
見た人は何かを語りたくなるでしょうが、容易に語ることを許しません。
それほど周到にこの映画は作られていました。
実際の人間の「意識」というものについては、いろいろ注文をつけたくなるようなこともあるのですが、映画のストーリーとなれば、
また文句のいいようもないという感じで口をつぐむことになります。
「アバター」といい、この映画といい、ホントもうどんな世界でも映像化できる世界になってしまいました。
アイデアと想像力しだいでは、この先とんでもない映画ができそうな予感がします。





海水浴

2010年07月20日 | 雑感
昨日は朝一番で娘を連れて海に行ってきました。
海の日とは知らずにいったのですが、早朝の海は透明で程よく冷たくて気持ちがよかったです。
娘も大はしゃぎで、海を満喫しました。

実は昨日の朝は滝行に行くつもりで早くから起きていたのですが、急に導師の体調がよろしくないとのことで、
滝行が中止になったものでっすから、それではと急遽海に行きました。
梅雨が明けたばかりで、大気も澄み切り、日差しは強烈ですが涼しい風が吹いていました。

滝はその前日の日曜日に行きました。
水量も申し分なく気持ちのよい滝でした。
胡坐をかいて滝に打たれましたので、両腿にまともに水を受けたものですから、腿が痛いです。
水量が多い時の滝の水は侮れません。

それにしても、海に入っている時の娘の嬉しそうな顔と歓声。
やはりたまりませんね。
車で3~40分で海水浴場まで行けますから、早朝娘を海に連れて行って、それから店に出ることも可能です。
事実、昨日はそれから店に出ました。
今回思い知ったのですが、海水浴は早朝が一番よろしいでしょう。
大気が清々しいし、風はまだ涼しいし、バーベキューやら酒盛りをしている人たちもいません。
近頃の昼ごろの陽射しは強烈過ぎるようですから、それを避けることもできます。

ただ、早朝海に行って店に出るとなると、仕事になりません。
体が心地よい疲れに浸ってしまって、眠くてたまりません。
そういうときに用事もないお客さんが来たりすると、思わずむっとしてしまいます(笑)

クラゲが出る前に、できるだけ多く娘を海に連れて行こうと思っています。


祇園

2010年07月18日 | 雑感
いきなり夏の空になりました。
長い間狙い撃ちのように厚い雲が日本列島を覆い、バシャバシャ雨が降るだけ降って、梅雨が明けました。

今朝は滝に行きました。
滝壺の底ははえぐれていました。
いつ行っても違う表情を見せるのが滝です。

浄化は火と水を通して行われるそうです。
禊は水で、護摩焚は火です。
列島が浄化されたことを願います。

今の時期、この街は祇園太鼓の音で賑やかです。
諸事情がありまして、せっかくのこの祇園太鼓もしかるべき神社に奉納されるという形を取っておりません。
人々の思いやら願いやらが集結することなく、むなしく夏の夜空に霧消していきます。

それでも人々は太鼓を叩き続けます。
それでいいのかもしれません。




作務

2010年07月13日 | 雑感
雨がバシャバシャ降っています。
これだけ降ると、滝は恐ろしいことになったいるはずです。
要するに暴力的な鉄砲水になって滝場を襲っているはずです。
100日行をした時に、5回ほど台風がやってくるという経験をしているものですから、
鉄砲水状態の滝場というのには、ぼくは詳しいです(笑)

週末は第四回目の福岡禅会に一泊で行ってきました。
その後、福岡禅会主宰の講演会があり、さらにその後は新人の方々も交えた懇親会でした。
老師は福岡での禅会の立ち上げに多大な熱意と労力とを費やされています。
新人の方が5~6名参加した懇親会では、老師もとても嬉しそうでした。

ところで、禅会では坐禅の合間には作務(さむ)と呼ばれる作業があります。
ぼくは庭仕事を割り当てられ、雑草の刈り取りを割り当てられました。
作業着を持っていなかったので、浴衣で作業をしたわけですが、
そりゃもう素足に浴衣で藪の中に踏み込めば蚊の餌食になるわけです。
それにもめげずに汗だくになって雑草を刈り取りました。
古参の人たちは長袖の作業服に長靴という姿で、さすがに心得ている一方で、慣れぬぼくは蚊に食われまくって、
無駄な動きが多かったせいなのでしょう、疲れ果てました。
でも、こういう作業で培われる体力というのは、ジムなどで付け焼刃的につける体力とは全然違う気がします。
部分的な筋肉を集中的に鍛えるジムに対して、予測不能な自然相手に全身くまなくジワジワと鍛えていく野良仕事。
流れ出る汗の質さえ違う感じがします。
日ごろ冷房のきいた部屋で、ボーっとパソコンの前に坐っていることが多いぼくですが、なぁーに、これから鍛えます。

野良作業というのは確かにきついのですが、ストレスが発生しません。
数字やパソコン相手の仕事はエンドレスですが、野良作業というのは地道にこなせばとりあえずは終了します。
あとはシャワーを浴びて汗を流せば、あーだこーだと引きずるものはないもないです。
心地のよい疲労感が体全体に広がっているばかりです。

禅会からの帰途、車窓から雑草が伸び放題の空き地を見たとき、思わず「刈ってみたい」と思いました(笑)


計らいと選択

2010年07月05日 | スピリチュアル
店を閉めて、ジムに行ってきました。
その後、立ち飲み屋に行って、ホッピー二杯と煮込みと枝豆でちょうど千円でした。
なんという高度なコストパフォーマンス(笑)
で、今は店に戻って、まったり焼酎の水割りです。

都会型の仕事をしていますと、お金を払って身体を動かします。
それでストレスの発散などと抜かします。
身体を動かすわけでもなく、かといって頭を使うわけでもなく、ひたすらに無駄に神経をすり減らすような仕事が増えている気がします。
神経は本来すり減らすようにはできていません。
神経は健全な道をキャッチするアンテナとして機能すべきなのでしょうが、これでもかと毒電波を浴びせかけられている気がします。

再びアセンションの話です。
大災害やポールシフトやらフォトンベルトといった外部環境の大変動に焦点を当てられがちですが、どうもそれは付帯事項です。
一人ひとりの意識の飛躍、跳躍、アウフヘーベン、なんといってもいいのですが、意識の変容がその本質みたいです。
しかも、誰かが先頭に立って音頭を取り意識を変えていこうというムーブメントではありません。
あくまでも気づいた一人ひとりが意識を変えざるをえなくなるような、そんな宇宙規模のムーブメント。

人の意識というのは、本来宇宙の意識とダイレクトに繋がっています。
それを遮断するのが人の分別心、自我、エゴに基づいたわが身を計らう心です。
わが身を計らうことがいけないのか、いけないはずはありません。
ただ、わが身を計らうという3次元的な次元を超えることはできそうなのが人間です。

わが身を計らわなければ計らわないほど、天の意と供にいられることになります。
「放てば、即ち充る」という言葉があったように思います。

ポイントは、一人ひとりの選択にあるということです。
一人ひとりの想念の偉大さが試されるということです。
わくわくして選択しましょう。
わが身の計らいを超えた選択をするのか、できるのか。
なんにせよ、スリリングな今の時代を楽しみましょう。


主人公

2010年07月03日 | 
苦しいときには、苦しいといえばよい。
苦しいと口に出していったときに、苦しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その苦しい世界をだれが作ったのかを。

悲しいときには、悲しいといえばよい。
悲しいと口に出していったときに、悲しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その悲しい世界をだれが作ったのかを。

虚しいときには、虚しいといえばよい。
虚しいと口に出していったときに、虚しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その虚しい世界をだれが作ったのかを。

誰がその世界の主人公なのかを思い出せ。
すっかり忘れ去ったとしても思い出せ。
誰かの作った世界に住む必要はない。
自分で自分の望む世界を作れ。

そこには風が吹いている。
木立が揺れて、鳥が鳴いている。
草の匂いが漂い、木漏れ日が揺れている。

そこでは何かが何かを縛るという法則は、存在することができない。
縛ることもできないし、縛られることもありえない。

その世界を作るのは、誰なのだ?
主人公は誰なのだ?
誰が邪魔しているのだ?
誰が禁止しているのだ?

苦しいときには、苦しいといえばよい。
苦しいと口に出していったときに、苦しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その苦しい世界をだれが作ったのかを。

悲しいときには、悲しいといえばよい。
悲しいと口に出していったときに、悲しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その悲しい世界をだれが作ったのかを。

虚しいときには、虚しいといえばよい。
虚しいと口に出していったときに、虚しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その虚しい世界をだれが作ったのかを。





灯明

2010年07月03日 | 
本当のことを知っている人間が、本当の生き方をしてない時に、悩みが生まれる。
悩めば悩むほど、本当のことから遠ざかり、影が濃くなる。

影がいよいよ濃くなって、本当のことという光を見失ったとき、
隣人を騙し、わが子を殺し、ただの影に闇の深さをくわえていく。

悩みというのは超えるべき関門でしかないのに、悩みに溺れ、
悩みを湿った寝床にしていく。

本当のことを知ればいいのだ。
本当のことを思い出せばいいのだ。

子どのもの頃に、目を見開いて興味いっぱいに眺めていた光景はなんであったのか。
大人になっても、心が痛んで、その痛む心はどんな心だったのか。

不変の心を失えば、人は目の前の現象に目を奪われ、心を奪われる。
何もかも奪われて、偽ものだらけの感傷や正義感や世界観に心は支配される。

不変の心。
本当の心。

探せば、その姿を隠す。
疑えば、ピエロ(メフィストフェレス)が現れる。

探そうとせず、疑おうともせず、
すべてをあるがままに映し出しているのが、心だと知る。

そのときに、心は心であることを知る。
本当のことというのが、どこにあったかを知る。

心に映ったあれやこれやに振り回されれば、疲れ果てる。
心に映ったあれやこれやのすべてを愛でれば、そこは極楽。

そこになにが映ろうが、地獄は地獄。
そこになにが映ろうが、極楽は極楽。

人の目で見るのが地獄。
菩薩の目で見れば、すべては極楽。

「自分が」と「自分を」を大切にすればするほど、地獄の闇が濃くなる。
「自分が」と「自分を」とを捨て去れば、ただちに極楽。

本当のこととは、灯明。
目の前にある灯明を掲げ持て。

すべての人の前に灯明はともされている。
ぐずぐずするな、掲げ持て!





ふるさと

2010年07月02日 | 雑感
ふと思う。
ふるさとってなんだったんだろうかと。

親に心が膨れる。
兄弟姉妹に心が膨れる。
親戚縁者に心が膨れる。
見なれた山や川や田んぼや話に心が膨れる。

そして、そういう風景の上を流れていた雲を思う。

それは匂いであり、音であり、味であり、温度であり、感触だった。

五感六感のすべてを膨らまし、人は生きていく。

五感六感のすべてが幻想だと気がついた時に、人はうろたえる。
あれほどリアルにうダイレクトに迫ってきていたふるさとが、ただの幻だったのかと。

そのうちに思う。
幻は幻で尊いものだと。
幻を追求する映画が尊いように、自分が放映する幻もまた尊いものだと。

幻に良いも悪いもありえない。
どんな幻を生き切るか。

幻にとらわれていたなら、風の声は聞こえない。
風の声を聴こえるのなら、幻は幻ではなくなる。
なにかが何かのために大切なのではなく、何かが何かでいること。
誰がなんといおうと、自分という架空の存在が、自分というリアルな存在になること。

それが幻とリアルとの架け橋。
面倒くさい架け橋。
それでも、神仏と人をつなぐ架け橋。
現実と自分をつなぐ架け橋。

その架け橋が繋がった時に、その橋の先にはなにがある。
懐かしい匂いがあり、音があり、味があり、温度があり、感触がある。
ふるさとはそこにあったのだと、思う。