風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2010年11月30日 | スピリチュアル
滝行にしろ、坐禅にしろ、しなければいけないということでは無論ありません。
ただ、それに参じた人しか見れない景色がある、ということだけなのかもしれません。
ぼくの場合は、そういう意味での好奇心は旺盛なほうなので、見れるものなら何でも見てみたいという感じです。

自分の目の前に転ずる景色が自分の心に適しているのなら、はなから問題はありません。
自分の目の前で転ずる景色に我慢ができない時に、脱皮を求めます。
何から脱皮し、何になるのかもわからずに、我慢ができないという一点の衝動のために、人生の進路を変えるわけです。

そうして何らかの修行を始めるわけですが、修行自体はどこにも繋がらない「方法」に過ぎません。
「方法」は「方法」で深遠なるものを秘めているわけですが、その方法を通じてどこへ行くのかが人の関心事です。

この世に生まれて、この世の現実の中で、見たい景色を見れるのか。
そもそも、何をこの世に「見たい」のか。

自分で見たいものは、自分で探し出すしかありません。
人が映し出す偽りの幻想を、自分の幻想に無自覚に重ねて酔っ払ってしまう愚は避けなければなりません。
キリスト教信者なら、キリスト様がキリスト様なら、俺もキリスト様になるという気概を持たなければならないと思います。
仏教徒なら、「衆生本来仏なり」という宗旨を決定すべく粉骨砕身するほかは道はないでしょう。

道はいつだって目の前にあります。
その道に一歩を進める勇気と覚悟の欠如が現代を覆っているような気がしてなりません。


局面

2010年11月22日 | スピリチュアル
このところ禅関係の行事が多かったですが、やっと一息つけそうです。
昨日は豊前の道場の帰りに畑に立ち寄って、丸々と太った可愛いキャベツを収穫してきました。
一株しか植えなかったので、唯一無二の貴重なキャベツです。
虫に食われても食われても、育ちあがった貴重なキャベツです。
せっかくのキャベツ、どのように食したらいいのか思案中です。

糠床も作りました。
毎日混ぜてますが、日々触る感触が変わります。
生き物が生き物を成熟させるのが漬物です。
なんか今の形での文明なんかいらないんじゃないだろうかと思う今日この頃です。

畑に行くと、行く度に風景が変わっています。
つい先日まで彼岸花が咲いていると思っていたら、名も知らない草花が週代わりに咲いては散って代替わりをします。
作業を一段落し、腰を下ろして一服して空を見上げると、その日ごとに空に浮かぶ雲の形が違います。
行った季節・時刻によって、大地を照らす太陽光線の色合いも違います。

なんというか、これ以上何がいるんだというような感覚になるわけですが、
そういう感覚に溺れますと、本業が見る見るうちに衰退して行きます。
なかなか難しいバランスです。

瞬間を手に入れられれば、永遠を手に入れられます。
無条件にすべてを手放せれば、すべては目前にあります。
そのことはもはや疑いようもありません。
でも、それを身体に染み込ませるのには時間も必要なのでしょう。
焦りはしませんが、モタモタしている自分の姿がもどかしいです。

なんらかの継続的な精神的な訓練が必要な気がしています。
時間と空間を滅する訓練と言いますか。
即今即自。
とてつもない空想で終わるのか、それとも、躊躇なく宇宙と自分を一体化させるのか。

なかなか難しい局面です。
でも、難しいからこそ、面白いです。



男は弱い

2010年11月15日 | 雑感
昨日は早く寝すぎて、朝の3時くらいに目が覚めました。
本を読んで、坐禅を組みました。
眠くなったのですが、エイヤと起きて畑に行きました。
ホウレンソウを摘んできて、茹でて食べてみましたら、その味の濃厚で甘いことったらありません。
話には聞いていましたが、これほど明瞭に味が違うものだとは思いませんでした。

生きていれば、なんやかやといろいろあります。
いろいろありすぎれば疲れますし、いろいろなければ退屈でしょう。
期待されれば重荷になりますし、期待されなければ寂しいでしょう。
人の心にはキリがありません。

だからといって、焦点を定めすぎれば窮屈ですし、
何でもいいとなれば腰が砕けます。
爽やかな風のように生きるというのは、かくも簡単なようで難しいことなのかもしれません。

ぼくの場合の経験則から言いますと、ハッピーなことというのは思いもかけないタイミングで一発ドカンと来ますが、
できれば来て欲しくないような出来事というのは、もう分かったからと言っても、委細構わずこれでもかと重なって来ます。

損得で生きても、快不快で生きても、何でもいいやと生きても、それほどの違いはありません。
どうすればどうなると計算できるほど、人生は浅くも甘くもありません。
ひとつだけ違いのある生きる道筋というのは、人の喜ぶ顔を見たいからという動機で生きる道筋のような気がします。
人の喜ぶ顔を見たいという道筋に、肩書きも権威も資金も関係ありません。
今地元FMで「地元で活躍する女性の話を聞く」という趣旨の番組のパーソナリティーをしていますが、
ゲストに来る女性は見事に人の喜ぶ顔を見たいという女性ばかりです。
自分のできることをすることで、誰かが喜んでくれればそれでいい。
そういう至極全うな女性が多いです。

その点、男性は弱々しい限りです。
人を喜ばすどころか、自分のアイデンティティがさまよいっぱなしの人がほとんどのような気がします。
楽しいからこれをすると言い切れる男が女性に比べて圧倒的に少ない気がします。
四六時中、過当な競争に揉まれ、意味も分からない責任を背負わされ、息抜きの場所も見失い、どうしろって言うんだ状態です。

男を威張らせるとろくなことはありません。
自戒の意味を含めて、よ~く分かります。
でも、自信を失った男ほど始末におえないものもありません。
そこのところ、何卒よろしくお願いします。>女性の皆様

味わう

2010年11月14日 | スピリチュアル
瞬間瞬間をフルに味わうためには、心が完全に解放されていることが必要です。
心が完全に解放されている状態というのが、とりもなおさずいかなる思考にも占有されていない状態、
つまり考えていない状態なのだと思います。

五感がキャッチした外界の繊細な波動を感じ取り、そこで動く自身の意識のありようの変化のさまをも、思う存分味わう。
ふと目を上げてみたときに青い空が広がっていたら、その青に吸い込まれ、その青に融けていく自分を味わう。
風に乗って流れてくる枯葉の匂いを感じたら、そのふくよかで哀愁を帯びた、音楽と旋律と同様な匂いの重厚なハーモニーを味わう。
道行く人のコートの襟をたて、背中を丸めて急いで歩く姿に、仕事や家庭の中で苦闘しながらも
諦めずに立ち上がり続ける秘めた意志の炎を感じ取る。
こうして、すべてが味わう対象となった時、あれやこれや不平不満を鳴らし続ける思考の波は静まっていきます。

なにも好ましい感情だけを味わうわけではありません。
道路でこけて膝をすりむいた。
こすれた皮膚から、血がじんわりにじんできます。
ぴりぴりとした痛みが患部の周囲を包み込みます。
患部を消毒をして、包帯で巻きますと、安したかのように痛みが引いていきます。
痛みというのは、体の一部が精一杯そのメンテナンスの必要を叫ぶ姿であって、それ以上でもそれ以下でもないことを知ります。

あるいは、仕事で誰かがクレームを言ってきます。
その顔は怒りで歪んで、言葉は黒いエネルギーをたっぷり含んでいます。
そのエネルギーをまともに受け取らず、その怒りの大本にある「本当に言いたいこと」に焦点を合わせます。
何が彼の意にかなわなかったのかに焦点を合わせます。
仕事というのは、誰かと誰かの意が叶い合って成立するものですから、誰かの意にかなえなかったというのは、
基本的にはこちらの落ち度です。ああ、申し訳なかったなと素直に思えます。
素直に謝り、彼の意にかなうための、次策の提案を誠心誠意申し出ることができるでしょう。

例をあげていけばキリがありませんが、思考で目的や過程を分析し行動すれば、その目的や過程がその思考を凌駕した事態になれば、
思考は慌てふためき、事態から逃げ出したくなったり、他人のせいにしようとしたりします。

このように、きちんきちんと目前のことを味わって行動していけば、あれこれ不幸になっている暇はなくなります。
この状態が不幸かどうかを判断するよりも、目の前のことに全身全霊で対応していくようになります。

あれこれ考える前に、味わうということが何よりも効力が大きいのが対人関係でしょう。
思考は向き合った人をその肩書き、地位、力関係、容貌、などなどでその利用価値やら付き合う程度の深浅をあれこれ斟酌します。
思考は決してその人自身を把捉することができません。
それに対して、目の前の人をありのままに受け止めて、その人柄や醸し出す雰囲気を味わっていく。
もちろんその場合でも、味わうのが苦痛な場合もありましょう。
人間の相性と言うのはあります。
その場合でも、この人はどうだああだと判断は下さなくてもいいです。
その場をさっと去ればいいことです。
損得で人と付き合うよりもよほど健康的です。

味わうだけでいいのか。
それだけでいいのがこの厄介な3次元で生きるということのような気がします。

2010年11月13日 | 雑感
一日中薄暗く、寒々しい日でした。
先日ばたばたと忙しい合間を縫って、畑に行ってホウレンソウを収穫してきました。
深い緑色をした見事なホウレンソウが採れました。
畑に最初に種を撒いたのがホウレンソウでした。
一時は虫に食われてダメかと思いましたが、大きくなるにつれ虫も寄り付かなくなりました。
先日吹いた突風でジャガイモの一株が折れていたのは残念でした。
ブッロッコリーも二株倒されていましたが、植えなおし、多分大丈夫でしょう。
キャベツは虫に食われても食われても次々と葉を出し続け、今は10cmほどに結球しています。

今は禅道場関係の仕事がかなり増えています。
本業がおろそかになりがちですが、何とか山場を越えました。

今度の休日には糠床作りに挑戦しようと思っています。
なんでも植物性の乳酸菌はとても身体にいいみたいです。
その糠床に自分で作ったダイコンやカブを入れるのがとても楽しみです。
そういえば、一月ほど前に仕込んだ味噌ももう少しで食べられるようになります。

11日の木曜日の夜、道場に泊まっていたのですが、夜中の3時か4時ごろ凄まじい雷が鳴りました。
ズバッと天空を切り裂くような強烈な音でした。
12日の伊勢白山道さんのブログを見たら、なるほどそういうことかと妙に納得しました。

いろいろな現象が起こってくるでしょう。
なにがあっても大丈夫だという思いが日に日に増してきます。
たとえ死んでも大丈夫だと思うのです。
生死、時間、空間という幻に振り回されるのは本当にもう卒業できるのではないかと思うのです、

すべては人間の意識が創り上げた虚構。
虚構を虚構と知りつつ楽しむのは大いに結構なのですが、虚構に振り回されてはいけません。



愚直

2010年11月01日 | 雑感
ほんとうに春と秋が短いというか、なくなってきてますね。
暑いか寒いかという両極端な季節では、日本の風流というものがなくなっていきそうです。

もう11月です。
わけが分からないほどの月日の流れの速さです。
こうなれば仕方がありません。
何一つ誤魔化さないで生きる、ということしかありません。
誤魔化したり、その誤魔化したことによるあれやこれやのジタバタを演じたりしている時間はないのでしょう。
愚直になるということなのかもしれません。

愚直になりきれたら、そりゃ気持ちがいいです。
スパリスパリと自分の道を行くだけです。
そう思いながらも、人の気持ちを思いやるのが、人というものですが。

ところでいきなりですが、講演会のお知らせです。

11月7日(日)15:00~16:30
福岡電気ビル本館 地下2階 5号会議室
福岡参禅記念講演会
Ⅰ.「禅を志す人たちへ」
Ⅱ.「くらしに役立つ数息観のすすめ及び実習」

Ⅰをぼくが話すことになっています。
甚だ心もとないですが、思う限りのことは言いたいと思っています。
福岡近辺の方で興味のある方はどうぞです。