風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2008年06月30日 | スピリチュアル
今朝も滝に行ってきました。
水量が多く、程よく冷たい滝でした。
車で30分で滝に入れるというのは、なんというか有り難くも贅沢の一言です。
昔勤めていた会社の社長の命令で滝に入ったときは、一度の滝行だけのために、
わざわざ飛行機を使って、一泊して、安くないお金を掛けて行ったものです。

どんな立派な言葉を聞いても、自分自身の足でその境地まで登ってみないことには、
本当の意味では腑に落ちることはないでしょう。
ぼくは「愛」という言葉がよく分かりません。
「慈しみ」という言葉なら分かるような気がしていますが、「愛」という言葉にピンと来たことがありません。
溢れ出るような愛に包まれたことがないのかもしれませんし、愛を溢れ出させたこともありません。
感情の回路のどこかが閉じているかもしれないなと思ったこともあります。

「すべては愛だ」という言葉をよく耳にします。
何のことを言っているのかよく分かりません。
そういう言葉を言う人が、日々どんなことを感じ、どんなことを行っているのか、うまく想像できません。
マザー・テレサという人がよく引き合いに出されます。
ぼくは彼女の本を読んだことがありませんが、紹介される言説を読んだ限りでは、
彼女の口から「すべては愛だ」とかいう言葉が出てくるとは思えません。
「愛は沈黙だ」となら言いそうですが。

多分、「愛」というものを実感したことがないのでしょう。
「愛」を感じて眺める風景というのを見たことがないのでしょう。
こればっかりは、その境地に登ったことがないので仕方がありません。

男女の「愛」と雀が雛鳥を必死にお世話する「愛」が同じ言葉で表せるとはどうしても思えません。
個別の対象に向けるのが「愛」で、生命そのもを愛するのが「慈しみ」じゃないかというふうにぼくは思ってしまいます。

ま、どうでもいいこだわりかもしれませんが。


シンプル

2008年06月28日 | スピリチュアル
本日、お礼参りの滝行を持って一週間の滝行が満行しました。
僅か一週間の行でしたが、3週間の行、100日間の行と同じように、山あり谷ありでした。
さすがに「行」です。
合掌。

さて、本当のこと、というのがあります。
本当のことがあれば、本当じゃないこと、嘘やマヤカシや誤魔化しがあるわけです。
本当のことがどのようにして誤魔化され、嘘のことになっていくのかはそれはそれで興味深い話ではありますが、
今日お話したいのは、本当のことというのは実にあっけんからんとシンプルだ、ということです。

自然の営みはとてもシンプルです。
もちろん自然界で日々起きていることのシステムやらプロセスはとてつもなく複雑なのですが、
「起きていること」自体はいたってシンプルです。
生成と消滅を繰り返し、生命を循環させているだけです。
「生命を循環させる」ということ自体はそれ以上複雑にさせようがありません。
逆に、「生命を循環させる」自然のシンプルなシステムの流れを人為的に切断すると、自然は複雑怪奇な反応を示します。
干潟を巨大な堰で閉切ったり、森林を無駄に伐採したり、川岸を護岸コンクリートで埋めたりすれば、
途絶えた生命の循環が複雑怪奇な反応を示します。

人の心というのも本来シンプル極まりないものです。
最低限の必要なものがある限り、笑って過ごしたいのが人の心です。
人間以外の地球上の生き物は、必要最低限の食べ物と環境があれば、花は咲き誇り、獣はじゃれあいます。
ところが人は、わざわざお金というものを作り出し、自然が無料で産みだす産物に価格をつけ、
お金を持つ者の奴隷にならざるを得ない状況を自ら作り出しました。
奴隷がいやなら、奴隷を使う身分になりたいと思いました。
奴隷になるのも、奴隷を使うのも、どちらも陰惨で要らぬ苦労が絶えません。
人が人を利用するというのは、陰惨です。
そこにはユーモアがありません。

でも、ほとんどの人はこういう社会システムが人間生活の前提としてあるものだと思い込み、
辛気臭い顔をして満員電車に揺られます。
こんな生活は何かが間違っていると思いながらも、そういう生活を変えることが出来るとは夢にも思わず疲れ果てています。
どこにもシンプルさがありません。

繰り返しますが、本当のことというのは、とてもシンプルです。
どんなことにせよ、止めたければ止められます。
少なくとも、巡り来る日々をいやいや過ごす必要など全くありません。

世の中はこうだから、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないという前提を一度ぶち壊してみると面白いです。
漫然と不満を抱えながら何かをするのと、その前提を一度ぶち壊してから、同じことをするのとでは、
まるきり意味が違ってきます。
世の中の前提に流されて生きるというのは、シンプルそうに見えますが、抜け道のない複雑なシステムに組み込まれることです。

お金が悪いのでもなければ、世の中の仕組みが間違っているわけではないのです。
流され、いつの間にかシンプルさを失った複雑な心の回路を抱きながら生きることが、苦しさを産むだけです。
心がシンプルになれば、お金も世の中の仕組みもいたってシンプルに見えます。

世の中が複雑だというのは、複雑な方が得のある人たちのタワゴトです。
すべてはシンプルです。
自分の心さえシンプルなら、宇宙もシンプルです。

あれだけ複雑怪奇な人間の心模様を描ききった「カラマーゾフの兄弟」でも、アリョーシャのシンプルな心は
清澄な光を放ち続けます。

世の中が複雑に見えるということは、自分の心が無意味な複雑さに汚染されているということです。
複雑さというのは、その性質上次々と更なる複雑さを呑み込んで行きます。
そんなものに呑み込まれず、シンプルを取り戻しましょう。




切る

2008年06月27日 | スピリチュアル
今朝は気持ちのよい空が広がりました。
滝もあまりに気持ちよかったので滝着を脱いで猿股一丁で打たれてみました。
気持ちが良くて、合掌です。

どんなものごとにも、表裏もあれば、表層から深層までの層というのもあります。
ですから、表裏のどの面について言っているのか、どの層について言っているのかを聞き分けないと、
要らぬ誤解が生まれます。
「生きる」という現象にしても、生物学的な生命論、社会経済学的な人間学、倫理学的な人生論、形而上的哲学論、
宗教的人生観、もういろいろな切り口があるわけです。
逆に言えば、切り口の数の分だけ、「生きるということ」に対する解答はあるといえばあるわけです。

「お金」という現象に関しても無数の切り口があります。
「家庭」「恋愛」「自由」などなど、問題は無数にあり、切り口も無数にあります。
あらゆる問題のあらゆる切り口を調べ上げるのが学問だとしたら、する前からうんざりしてしまいますね。

どんな問題でも、自在にスパリと切れるのが人生の達人とするのなら、学問もまた「実践」の道だということです。
要するに、あれやこれやの学説を知っているかどうかではなく、目の前にある問題をスパリと「切れる」がどうかが、
最終的には問われるからです。

問題を「切る」のは借り物の知識や単なる思い付きではないでしょう。
何で「切る」のでしょうか。
直感、悟性、本来の面目、いろいろ名称はありえます。
で、その「切り方」が間違ってしまえば、問題の解決どころか、問題の混迷度を深めて行きます。
「切り方」が間違うということもありえます。
直感、悟性、本来の面目などという立派な名前が一瞬にして地に落ちます(笑)

「切る」ときは「切る」のです。
それを、何を何で切ったのか、と尋ねる隙はないはずです。
虚空を虚空でスパリと切る、と言ったらカッコウ付けすぎですね。

問題が目の前に立ち表れる。
目の前に現れた問題から目を反らさず、受け止めたときに、問題はスパリと二つに割れ、中身が見えます。
切ろうとも思わず、切る前に切れる。
そんな感じがします。

あまりにも抽象的に過ぎますかね。



イライラ小僧

2008年06月26日 | スピリチュアル
やっと今朝の滝から頭のクラクラ感が取れた感じがします。

昨日まで極度にイライラしていました。
誰かが何かを言うと、ことごとく神経に障ります。
そして、そんな風にイライラしている自分を心の奥から見ているもう一人の冷静な自分がいます。
でも、冷静な自分は、イライラしてやたら不機嫌な自分に、一切手を出すことはしません。
黙ってみているだけです。

周囲の人はよく我慢してくれました。
自分でも、うわ~こんなこと言ってる、あんな態度取っていると思ってはいるのですが、
イライラ小僧は暴れたくてしょうがありません。
なるべく人と会いたくないのですが、そんなときに限って次々と人がやってきたりします。
そんな感じでしたが、今朝、イライラ小僧は出て行ったみたいです。
毎日だらしなく酒を飲み続けるこの身体がたまらなく心地よかったのだと思います。
それなのに行などに入り、禁酒するなんてということで、イライラしていたんだと思います。

行も残すところ後2日です。
キツイとかなんとかいうのは全然ありません。
そういうことには心の焦点が合わなくなりつつあります。
ただ、嬉しく楽しいです。
そのうえ、イライラ小僧がいなくなれば、そりゃもう楽しいだけです。
イライラ小僧がいたらいたで、ある意味楽しくはあるんです。
でも、とばっちりを食らう周囲の人がたまらないですね、やっぱり。

イライラが続いたここ数日ですが、仕事の方で急展開もありました。
勝負時ではあります。
行があけてから、ゆっくり考え、決断し、前に進もうと思っています。




クラクラ

2008年06月25日 | スピリチュアル
しかしこの頭のクラクラはなんでしょうか。
一日中クラクラしています。
いろいろな意味で行明けが楽しみです。

今回の行入りはぼくなりにいろいろ考えました。
必要だと感じてする行、必然を感じてする行、願を掛ける行、などいろいろな形での行があるでしょうが、
今回の行は平安な心のままに行ずる行というのをしてみたいと思いました。
これは説明が要りますね。

行は行ですから、作法も気合もおろそかにすることはもちろん出来ません。
滝に打たれれば、心も身体も動きます。
そんなこんなをひっくるめて、心の平安を保つ、という感じでしょうか。
表面上はいろいろ騒ぎますが、心の底は平安のままでいれたらいいな、と。

今のところ、どうでしょうか。
煙草の禁断症状のイライラ感が心の表面を覆っていますから、よく分かりません。

行に何かを求めるのでもなく、求めないのでもなく、水と一体となる喜びを感じること。
それができれば有り難いという感じです。
作法の重要性を知りながらも、作法に捉われない。
水の中での神秘を感じながらも、それに捉われない。
全てを有り難く感じながらも、なにものにも執着しない。
そんな感じで水に入っています。

別に超然としているということではないんです。
一晩で滝の水量が3倍になっていれば怯むし、滝場でこけそうになれば年を感じるし、
ニコチンには一日中苛まれるし、現実は泥臭く鈍臭くやっているだけです。
でも、確実に捉われなくはなっています。
なにに捉われないかといえば、あえて言えば「自分」です。
自分の思うこと、感じることが流れていくのを楽しんでみてはいますが、捉われようとは思いません。

今、滝場に登る道沿いに紫陽花が並んで咲いています。
確か一昨年くらいに植えられたものが、見事に咲きました。
強い香りが誇らしげにあたりに漂っています。

沢蟹の姿もたくさん見かけます。
こちらの姿を見かけると、生意気にもハサミを振り上げて威嚇してきます。

行に入ってから晴れ間がありません。
小雨が降っているかどんより曇っています。
全てが有り難い、行の一日一日です。


2008年06月24日 | スピリチュアル
先週末から一週間の滝の行に入りました。
相変わらず、禁煙はきます。
一日中頭がぐらぐらしています。

このところ雨も多く、たっぷりの水量の水に打たれます。
パンチドランカーみたいになっています。
禁煙のせいなのか、禁酒のせいなのか、滝のせいのなのか、よく分かりません。

ということで、酒を飲みませんから、夜が長いです。
禁煙中はじっとしているのが苦痛になりますから、本も読みません。
結局、坐禅しかすることがないのに昨夜気がつきました。
どうせなら、坐禅もまとめてこの際ですからしてしまおうと思っています。

短いようで長い、終わってみればあっという間の、いつもの行です。

東北地震Ⅱ

2008年06月16日 | 雑感
今朝も滝へ。
こんなに素晴らしいものを貸切で体験できて、ともったいないように思いました。
ご本堂も、数多くの仏様たちも、素晴らしい水量の滝も、森も、何もかもがぼく一人の貸切です。

今日も夕方から雨が降り出しました。
梅雨の雨ですが、例年のようなベトベト感がありません。
東北の空はどんなでしょうか。
あの山の崩壊具合からすると、大雨が降ったら土石流があちこちで発生しそうです。
あの辺りの山間には老人しか住んでいません。

昔は、どんな小さな集落でも子供から老人までバランスよく人がいて、祭りなんかもありました。
今は、長年のきつい農作業のせいで腰のなえた老人しか残っていません。
神社も打ち捨てられたようになっています。

この先続くであろう不況が、若者が田舎に回帰する契機となればいいのですが。
あの緑豊かな国土の活力を回復することこそが、これからの道だと思います。
投機マネーが世界中を食い荒らす嵐をそっとやり過ごせばいいです。
嵐を自分の手元に呼び込んで、一儲けを企む人も一杯いるのでしょうが、やられるでしょうね。

ぼくもそうですが、東北の人というのは天災というものに対して諦めがいいと思います。
テレビで「被害が拡大した理由は?」などと報道していますが、あれだけの規模の地震にしては、
被害は最小に近いのではないかと思います。
建物が倒壊して、10数人が生き埋めになった駒の湯にはぼくも何度か行ったことがあります。
もうとんでもない山奥です。
大型重機は入らないでしょう。
救助隊の方々に感謝の念こそ湧きますが、もっと早くどうにかならないのかというようなことは
思い浮かびません。
もちろん、身内の方にとっては一行も早い捜索を願う気持ちが切実なのは当然ですが。

あの辺りはブナの原生林が広がるところです。
ブナの原生林はおいしい水をたくさん地中に保存します。
この山の崩落をこれ幸いとばかりにコンクリートを大量に投入することだけは避けて欲しいです。
住民の声だと言って、誰もいないところに防砂ダムをやたらに作ったりしないで欲しいです。
ぼくはあの辺りの住民に親戚がいますが、皆一様にブナの原生林を守ろうとしていることを知っています。

緑豊かな山々が戻り、人々の暮らしに笑顔が戻りますように。



東北地震

2008年06月14日 | 雑感
今朝も5時に目が覚めたので、滝へ。
滝場へ行けること、仏様に囲まれること、水と一体となれること。
ひたすら有り難く思いました。

因みに、この滝場は壇ノ浦で有名な崇徳上皇が一時隠れていた場所らしいです。

どういうわけかここ数日仕事が順調です。
ここで調子に乗ると、ダメです。
有り難い波動を出そうと思い、明日も起きれたら滝に行こうかと思っています。

東北で地震がありました。
ぼくの生まれ故郷のすぐそばが震源地です。
地震の規模のわりに、犠牲になった方が一人でも少ないことを望むばかりです。
なじみのある地名が次々と被災地として出てくるのは辛いものです。

幸い、親は無事でした。

何度か紹介したブログの伊勢白山道氏が、地震の前日に地震に気をつけろと言っていました。
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/

予言が当たったのなんだのという話はまったくどうでもいいことです。
それよりも、地球も宇宙も生命系全体が動き始めたということです。

先のことは分からなくとも、その日その日を心して生きることが出来れば、何よりです。

一歩

2008年06月12日 | 
この一歩。
いまこの時しかないこの一歩。
いま踏みしめるこの土は、明日になればはるか後ろの茶色い風景。

ほかの事を考えながらのこの一歩。
目の前が真っ暗になりながらのこの一歩。
飛ぶような気持ちのこの一歩。

大地はそんな気まぐれな一歩一歩を受けとめる。
雨は火照った身体を冷やし、風は冷やした身体を乾かす。
そんなこんなで、この一歩。

小僧の心

2008年06月11日 | スピリチュアル
金峯山寺1300年の歴史で2人目となる大峯千日回峰満行者の塩沼亮潤師の
「人生生涯小僧のこころ」を買いました。
まだ読んでませんが、チラッと目を通したところ、とてもよさそうな本です。

「七百十三日目、苦しんで苦しんで花を咲かせたとき、今までの苦労が光ってくる。
 苦しんで花を咲かせる者、苦しんで恨みを残す者、苦しみ方次第、心次第。」

「七百四十一日目、人生を論ずる暇はない。今この時を情熱をもって生きるのです。」

「七百七十日目、鳥が鳴く、風がそよぐ。生まれてきてよかった。我を忘れた歩みをすることなく
 常に自分をもって歩むこと。」

こんな日記の断片も載っています。
いいですね。

大宇宙の中で、「小僧の心」を一生涯もって生きられたら
それはそれは爽やかで深い喜びの中で生きることになるでしょう。

どこにも肩肘張ったところや大上段に構えたところがありません。
いい本にめぐり合いました。


思考

2008年06月09日 | スピリチュアル
昨日は久しぶりに滝に行きました。
ゴホゴホ咳がしつこく残っていましたので、もう滝に打たれて追い出してやろうと思ったのです。
お陰で大分よくなりました。

でも、久しぶりの滝で、作法やなんかもあれこれと忘れたりしていました。
水も少し冷たく感じました。
でも、やはり気持ちが良かったです。
早く目が覚めたら、迷わず滝に行こうかと思っています。
今の時期の滝は、なんというか、最高の贅沢です。

考えるというのはあまり有意義なことではないと、最近つくづく思います。
考えるということの限界を知るために、考えてきたようなものです。
それよりも、感じる、ということが大切です。
どう感じたらいいのかさえ、考えるように人はなってしまいました。
こういう場合はこう感じるべきだ、こう感じた方がいいはずだとか、なんとか。
感じることさえ思考に支配させると、終いにはなにも感じないようになります。

今を感じること。
それが大切なのですが、思考は「今」を大切とは思っていません。
過去のあれやこれや、未来のあれやこれやを思い煩うのが思考です。

今を感じること。
ぼくは店にいて、これを書いています。
なにを感じるのか。

平安です。

なぜ平安を感じるのかと敢えて問えば、思考がカタカタと動き出します。
曰く、そういう自由があるからだ、余裕があるつもりでいられるからだ、etc.
どうでもいいことです。
平安を感じる瞬間には、平安を感じればいいだけのことです。

不安や、危機感や、疑念や、戸惑いを感じることもあるでしょう。
それを感じて味わえばいいです。
思考が分析を始めると、台無しになります。
思考は生命の護衛の役を果たすことは出来ますが、生命そのものにはなることが出来ません。
思考が主体になった人生は窮屈です。
人生の香りを失います。

人生は、香りや色の綾や音のハーモニーを味わうべきです。
思考の出番はありません。


2008年06月05日 | 雑感
熱は一日ですっかり下がったのですが、咳が残っています。
日増しにゴホゴホが激しくなってきたようにも思います。
気管支辺りが痛いです。
明日薬をもらって飲んで見ます。

久しぶりに山の雑誌を買って見ました。
今の季節ですから、夏山特集です。
懐かしい山々がページを埋めています。
ぼくが登っていた頃は、皆服装がダサくて、いかにも臭そうだったのですが、
最近は服装もザックも携帯品もおしゃれですね。
なんか無駄な山男魂みたいなのが抜け、皆快適そうです。
山はなめてはいけませんが、必要以上に堅苦しく考えることもありませんから。

今はペットボトルもおいしいレトルト食品もふんだんにあります。
山小屋だって充実して、てんぷらや刺身も出ます。
楽しくできるなら、楽しくした方がいいです。
山小屋でふかふかのベットや、カラオケを期待するようなのは論外ですが。

便利なのも楽しいですが、不便さというのも別の意味で楽しいものです。
電気がなければ、星空を見てればいいです。
布団がなければ、ありったけの服を着て、ザックの中に両足を突っ込んで、焚き火にあたっていればいいです。
人の順応力というのを発見するのも楽しいことです。

ちっぽけな人の身体を、大きな自然の懐に投げ入れると、色々な刺激を受けます。
眠っていた神経が起きだします。
身体はしきりに悲鳴を上げますが、出番が来たぞとばかりに嬉しい悲鳴です。

今年は本当に久しぶりに山に登ってみようと思っています。
思った以上に経過した年月を身に染みて感じることになりそうですが。


2008年06月03日 | スピリチュアル
「悪」に関しての本気な本を読んだことがありません。
おそらく、「悪」というのは、その世界に入って考えれば考えるほど取り込む何かを持っているのでしょう。
「悪」を魅惑的にしたのが「邪」ですね。

「悪」そのもは分かりやすいのですが、「邪」というのは、人の正義感や優しさや勇猛心にさへ入り込みます。
表面の善の裏にするりと入り込むのが「邪」です。

その力は「誘惑」です。
その目的は「堕落」です。

こういうことを書いていると、文字通り「邪魔」が入ります。
自分自身の日々慣れ親しんでいる「堕落」が猛攻撃してきます。

今まで、各宗教が口うるさく言ってきた規律というのは、規律自体が大切だからではありません。
「邪」の侵入を防ぎ、「堕落」を回避せんが為でした。

規律という規律を軽視してきたぼくが言うなと叱られそうです。
でも、規律という規律を軽視してきたぼくが言うからこそ、というのもあるかもしれません。

生きているというのは、奇跡です。


ある日のチャンポン

2008年06月02日 | 雑感
昨夜から妙な風がビュルビュル吹いていました。
近頃の風の吹き方は乱暴な吹き方をしているように思います。
四方八方から突風で煽るような吹き方をしています。

昨日は恒例のお宮参りをしてきました。
昼過ぎから行ったので、境内には人影もなくじっくりとお参りが出来ました。

お参りを済ませた後、チャンポンが食べてくなったので、柄の悪い地域にある汚い店に行きました。
そこのチャンポンは安くておいしいのです。
ジャージ姿の親父さんたちの先客が数人店内にいました。

おばちゃんが注文をとりに来ました。
半チャンポンと半チャーハンとビールを一本頼みました。
おばちゃんはビールを持ってきてくれると、辛子高菜をつまみに食べるようにと小皿を持ってきてくれました。
厨房にはリーゼント姿の若者が料理を作りながらおばちゃんと冗談を言い合っています。

先客の一人が持ち帰り用のサラダを二人前頼みました。
おばちゃんが気持ちよく注文を受け、ドレッシングかけとくね、うん、多めに頼むわ、というような会話が交わされます。
レジにはリーゼントのお兄ちゃんが気持ちよく会計します。
ジャージにサンダル履きの親父さんが、ごっそさんと言って出て行きます。

入れ違いに、足下もおぼつかない野球帽をかぶった爺さんが入ってきてカウンタんーに坐ります。
リーゼントのお兄ちゃんが元気よく、いらっしゃいと声をかけ、注文を聞きに行きます。
爺さんは豚汁とご飯と聞き取りづらい声で注文します。
お兄ちゃんは、豚汁セットにしますか、それとも豚汁と小ライスにしますかと、聞きます。
爺さんにはセットのご飯だと量が多いから、気を効かせて聞いているのだと、ぼくには分かります。
ところが、爺さんには質問の意味が分かりません。
お兄ちゃんはメニューを取り出して、豚汁セットと、豚汁単品+小ライスの違いを丁寧に説明します。
爺さんは結局豚汁セット頼みました。

そこで兄ちゃんとおばちゃんが入れ替わって、おばちゃんが爺ちゃんに久ぶりだねと声をかけます。
爺ちゃんがもごもご何かを言いましたが、ぼくには聞き取れません。

この店は、チェーン店です。
うどん屋も市内に何十店も持っていますが、そのうちの数店は中華の店です。
どのメニューも安くておいしいです。
うどんのダシもきちんと天然素材で作っています。
ダシに採った後のシイタケや昆布も佃煮にして、100円で惣菜として売っています。

知り合いの女性がこのチェーン店のオーナーと顔見知りだそうです。
ケチだということですが、おそらく無駄なことが出来ないのだろうと思います。

たらだらと書きましたが、なんかとても気持ちのよい光景でした。