風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

日々是好日

2008年07月19日 | 雑感
激しく振り出した夕立も上がり、祇園太鼓が街を練り歩き始めました。
明日明後日の連休には、知人の一グループは高千穂に向かい、もう一グループは出雲に向います。
ぼくはデパートの展示会で接客です。

今回の伊勢ー白山参拝で、聖地巡りは一段落ついたように思います。
聖地というところは何度いっても気持ちがいいものですが、なんというか、神様のことは神々に任せ、
自分の目の前にあることをきちんとこなしていくべきだという気が、今のぼくはします。
また行きたくなるのでしょうけども。

神々のことを受け売りの知識であれこれ言うのは僭越だという気が特にしてきました。
もちろん甚だしく僭越なのですが。
神々は深い沈黙の中に厳かにおわします。
ぼくもへらへら語らず、黙るべきだと思いました。

これからの大いなる融和と統合の時代に、一人の人間としてどう地面に立っていられるか、が大事です。
わけの分からない事件や、不愉快な出来事や、騒乱などが頻発するでしょうが、そんなのに振り回されてはいけません。
自分が何が出来るのかということに静かに集中していることです。

世界規模の環境破壊などを考えると先行きが見えず、やり切れなくなります。
それよりも、自分の身の周りの土や川に目を注ぎ、自分ひとりでできることを始めたらいいです。
ぼくは神社の参道や登山道にゴミが落ちていたら拾うようにしています。
もらった植物にはこまめに水をやり、枯らさないようにしています。
何だそんなことと思われそうですが、今ぼくができることはそれくらいです。

ガソリンがこの調子で高騰していけば、車に乗るのを控える人が多くなるでしょう。
公共交通機関が見直されるといいです。
電車やバスや自転車を使いこなせばいいです。
近所のコンビニに行くのにも車を使うといったライフスタイルはあまりにも安直です。
田舎ほど車なしでは生活できなくなってしまいました。
文明の利便性を否定する必要はありませんが、割に合わない代償を払い続けるような愚かな真似はしなくてもいいです。
洗濯機や掃除機は便利ですが、成人したら一人に一台車を持つなんてことはしなくていいです。

便利さを追求するよりも、日常の一コマ一コマに楽しさを見出せればいいです。
前に前に進もうと焦ることよりも、今、今と今を大事にできていけばいいです。
ぼくもそうですが、考えを先走らせることばかり上手になって、今を大事にすることがすっかり苦手になってしまいました。

あとは食生活の見直しですね。
くどいようですが、おいしいご飯と具沢山の味噌汁と季節の魚かなんかがあれば本当に充分だと思います。
大量の輸入穀物を消費する肉類はなるべく控えればいいですね。

身体も自然の一部です。
身体が弱れば、エネルギーの流れも悪くなるでしょう。
今回の白山登山で身体の劣化を強く感じました。
すべてリセットです。
歩くことと呼吸のしかたが大切みたいです。
歩くのにも効果的な歩き方というのがあるみたいです。
情報は溢れんばかりにあります。
自分に必要な情報を的確に選び取って、シンプルかつ豊かに生きたいものです。

鮮烈

2008年07月17日 | スピリチュアル
「新しい」ということに引きずられてはいけません。
「古い」ということもどうでもいいことです。

「鮮烈さ」を感じるということが、生きている証です。
新しいことにでも、古いものにでも、鮮烈さを感じれば、それは本ものです。

鮮烈さというのは、今この瞬間に感じるすべてです。

誰のかの作ったストーリーに鮮烈さはありません。
マネーゲームや、恋愛ゲームにも、思うほどの鮮烈さはありません。

鮮烈さを感じるためには、生きかたの条件があります。

1. このままをこのままと認める勇気。
2. 他人と比べない勇気。
3. したくないことをしたくない、したいことをしたいと思える勇気。

嘘みたいに簡単なことですが、それだけを守り実行すれば、鮮烈な人生が訪れます。

一言で言えば、「嘘をつかない」生きかたをすればいいだけです。

それで嫌われるなら嫌われればいいのです。
嫌われる理由をきちんと知った上で嫌われれば尚いいです。
要するに、人に好かれることを優先順位のトップに持ってこなければいいです。

好かれた方がいいのに決まっています。
でも、自然体の自分がそのままで好かれた方がいいのにも決まっています。
「好かれる」ための自分を「作ろう」とすればするほど、自分だけではなく、他人をも落ち着かなくさせます。

「作る」ものと「在る」ものとの重さの違いがそこにはあります。

ただし、重要な違いを知る必要があります。
「在る」ということと「わがまま」の違い。
「わがまま」=「在る」なら、人はさっさと滅亡したらいいのでしょう。


無事帰りました

2008年07月16日 | 雑感
ということで、週も明けてはや水曜日です。
伊勢ー白山からは土曜日の早朝にフェリーで帰り着きましたが、月曜日からデパートでの催事が入っていたので、
搬入やらなんやらでバタバタしていました。

旅行は天候に恵まれ、快適そのものでした。
伊勢も白山も素晴らしいものでした。
岐阜でのネネさんの講演会も無事好評のうちに終了しました。
ついでに白川郷も寄ってきましたが、白山の迫力を味わった後では、ただの観光地でした。

聖地らしい瑞兆もたくさんありましたが、変な毒虫に刺されたり、踝が腫れあがったりと、妙な兆しもありました。
白山登山前夜に泊まった山小屋は素晴らしかったです。
湖のほとりに建っており、湖畔には天然温泉の露天風呂もあります。
湖面を月光が照らす中、湯に浸かりながら同行した知人が吹く篠笛は絶品でした。

伊雑宮は思ったよりも小さなお宮でしたが、重くしっかりとした存在感がありました。
内宮とも外宮とも違う波動でした。
ビリビリとし清澄な厳しさがありました。
お札を売っている傍に立つ楠が凄かったです。
触ってみるととてつもない優しさを感じました。

白山は登頂しようと朝4時に起きましたが、急斜面にへばりつく雪渓に進路を阻まれました。
アイゼンもなにも準備していない我々が渡るにはとても無理でした。
無理して渡れば、誰かが滑落したか、渡りきったとしても帰りのフェリーに間に合わない時間になっていたでしょう。

まぁ、話せばいろいろとありましたが、そんな感じです。

来週までデパートの催事は続きますし、今の5倍くらいの広さのある店舗に移ることも決めました。
地に足をつけて、日々起こることに感謝の念を持って丁寧に対処していく段です。

まだ旅行の余韻がブーンと耳元でなってはいるのですが。

伊勢ー白山道

2008年07月07日 | 雑感
明日から4泊(フェリー2泊)で伊勢神宮と白山に行ってきます。
梅雨も明けそうですし、なかなかいい感じです。
白山は山頂の奥の院まで登頂するつもりですが、その日の夜の大阪発のフェリーに間に合うかどうか、
行ってみなければ分かりません。

途中、岐阜でネネさんの講演会があります。
ぼくにも何か話せということで、「魔について」ということでお話させてもらうことになっています。
何の資格をもって話をするのか、自分でも分かりません。
その上、ネネさんが巫女舞いをしますので、随伴者が楽器を担当します。
一人は篠笛の正式な名取で、いい音色を響かせることでしょう。
もう一人は鈴を振ります。
ぼくは太鼓を叩きます。
でも、ぼくは太鼓を叩いたことが一度もありません(笑)
しかもその太鼓はネネさんが古道具屋で見つけた幼稚園児が描いたような原色の龍の絵が描かれた太鼓です。
なんか、もの凄く怪しい目で見られそうです。

何もかもアバウトですが、ま、いつもこんな感じです。
A型の人や、几帳面な方は耐えられないでしょう。
でもネネさんはA型です(笑)

8月から新店舗を借りることになりました。
今の店舗の10倍近くの広さがあります。
こういう商売ですから、確実な見通しがあるわけではありません。
やると決めたら、やるだけの世界です。
甚だ頼りないのですが、ここまで導かれてきたのですから、精一杯するだけです。

今月15日からデパートでの催事もあります。
のんびり旅行にいっている場合かとあちこちの方面から叱られます。
でも、いつもこんな感じです。

昨日ある商品が届きました。
なんとアマテラスオホミカミ様です。
幸先のよい「しるし」と思うことにしています。


祇園太鼓

2008年07月06日 | 雑感
梅雨が明けました。
今朝も滝に行ったのですが、帰り道は遠回りして山の緑を楽しんできました。
雨で埃がすっかり洗い落とされた木々が強めの風に吹かれて揺れています。
山全体が身をゆすって喜びの歌を歌っているようです。
晴れ上がった空にもいろいろな形の雲がたなびいています。
車の窓を全開にして、植物のエキスの濃い匂いを胸一杯に吸い込みます。

その後、親族の法事に行きます。
お経の読み方は今ひとつだと思いましたが、法話は熱心でした。
浄土真宗の坊さんでしたから、霊はいないというか、いるかいないかどうでもいいという話から、
お経は先祖に向けて読むのではなく、仏様の教えを法事なのどの仏事を機縁に皆で聞くということだ、
先祖を供養してやるというのは誤りで、先祖は仏様になっておられるのだから、
仏様に相対するのと同じように供養させてもらうという心が大事だ、とかでした。
幼い子供たちもたくさんいましたが、みな大人しく聞いていました。

それから、関西からお客様が見えるので、店を開けます。
休みなのにもかかわらず、ちょこちょこお客様が見えます。

夕方になれば、祇園太鼓の練習する音があちらこちらから聞こえてくるはずです。
今日も平和な一日が暮れようとしています。

同じような一日でも、胸に何事かつかえがあると、こころは暗い不安に閉ざされるでしょう。
そんなつかえは、なんでもかんでも流してしまえばいいのですが、真面目な人ほどつかえに向き合います。
向き合うと、つかえは絶対に折れません。
自己主張します。
そのうち、こちらのこころが折れてしまいます。

こころを折ってしまうと、その痛みは長引き、悲しみという感情がその傷口からいつまでも流れ出ます。
どんな場合でも、こころを折る必要はないということは知っておかなければいけません。

祇園太鼓というのは、疫病などのマイナスの気を払うために叩かれ始めたのでしょう。
どんどん叩いて、この街から陰気を追い払って欲しいものです。





大和し うるわし

2008年07月02日 | 雑感
農協が化学肥料の価格を平均6割上げるだの、畜産業者の廃業が余儀なくされているだののニュースが流れています。
この厳しい流れは変えられそうもありませんから、なんとか関係者の方たちには活路を見出して欲しいです。

伊勢白山道氏のブログでも、アメリカの農業コングロマリットが仕組む腹ただしい戦略に触れています。
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/00def7977d37c51e3299d49d57fff3be

畜産業者の方々には申し訳ないのですが、日本の狭い国土で畜産業が隆盛を誇るというのは難しいことだと思います。
いろいろな意味でコストが高くつきすぎます。

年のせいかもしれませんが、肉食をしなくても全然平気だということを身を持って経験しましたので、
これを機に日本人は食生活のあり方を考え直したらいいだけかもしれません。
米というのは完全食に近い食べ物だそうです。
玄米と季節の野菜と豆腐入りの味噌汁を食べていれば、日常生活は基本的には大丈夫なはずです。
その他、季節に応じて、川や近海で取れる魚や、果物を食べていれば、絶対に大丈夫です。

幸いなことに、日本という国土は、そういうシンプルライフをしようと思えば、簡単に実現できる国土だと思うのです。

更に言えば、一切食物をとらなくても生きている人というのが紹介され始めています。
いきなりその境地に行けというのは無理ですが、意外とありえる話だとぼくは思っています。
要するに、エネルギーを取り入れる未知の方法があるだけという気がしています。
太陽光が電気になったり、植物の栄養になったりと、エネルギー源というのは食物だけとは限らないかもしれません。
気も一種のエネルギーでしょうから、大気中のエネルギーを思う存分取り入れるということも出来るのかもしれません。

とにかく、アメリカのその筋の戦略からはきっぱりと縁を切る潮時です。
マネーゲームも、一時は桁外れにおいしい思いをさせますが、最終的には根こそぎ持っていくのが常套手段です。

おいしいご飯と味噌汁を食べて、美しい緑に囲まれて生きることが出来たら、この世は天国です。


祝福

2008年07月01日 | スピリチュアル
今朝は恒例の月初めのお宮参り。
もう神社とは何か、神様とは何かなどとはまったく考えることもなく、感謝の心を奉納するのみ。

視点が足下に降りてくるにつれて、感謝の気持ちというのが無色透明な抽象的なものから、
色濃いものになっていく感じです。
道端の名もない野草に目をやります。
名もない鳥の鳴き声に耳を傾けます。
大気に漂う季節の香りを胸一杯に吸い込みます。
すべてはそこにあり、そこにあるという祝福で輝いています。

現世というものに絶望しきった人間には、現世的な志を持つことは不可能です。
金も欲しくない。
家族なんか煩わしい。
出世?この腐りきった世界で出世してなんになる。
野垂れ死ぬことこそ本望だ。

でも、現世の裏を一皮捲れば、そこは目くるめく想念の世界が果てしなく広がっています。
現世に生きながら、想念の世界で志を立て、その志の行方を現世で確認する。
複層の世界に生きるということは、そういう離れ業が出来る世界です。

野垂れ死にが裏の世界では野垂れ死にでないことを知っているからこそ、本気で野垂れ死にができるわけです。

現世的な枠組みに縛られることこそ、地獄というのでしょう。
金も酒も性欲も権勢欲も、うたかたの夢であることは誰でも知っていることです。
たまたま思いついたあぶくのようなものです。
あぶくに振り回されることを、地獄とは言うのでしょう。

ここにいるという祝福を味わいましょう。
これ以上の祝福はありえないのですから。