風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

気分

2005年10月31日 | 雑感
今日もあんまり何かを書く気分ではありません。
落ち込んでいるとかそういうわけではなく、なんだか切ないような気分です。
一日中、空が重苦しく、寒々としていたせいかもしれません。

朱の漆を塗った厨子を買いましたが、中に入れる仏像がありません。
この厨子にふさわしい仏像がいつ来るのでしょうか。
わかりません。←クライ

今日は支払日でした。
今月も何とか支払いができました。
でも、来月がどうなるかは、いつものことながらわかりません。←クライ

お客さんに、ロンドンに行こうと誘われましたが、その気になれず断りました。←クライ

こういう暗い時は、ブログというのは残酷ですね。
へらへらごまかすわけにも行きません。

でも、意味もなく沈んでいるという感じではないのですよ。
いったん潜って、浮かび上がろうとしているみたいな感じではあるのです。
必要な沈潜という感じです。
こういうときに、妙に明るいお客さんが来たりするから、人生あれです。

人の持つ弱点というのは、その表面上のマイナス面をいくら研究しても克服できません。
その弱点の持つ本質的な、カルマ的な課題を認識しないと、克服できません。
その本質的な、カルマ的な課題が少しだけ見えてきました。
後は、するだけです。

する前に、少しだけぼーっとしているというところでしょうか。

うすうす気がついてはいたのですが、ぼくの場合は他者との距離感が上手くつかめないところがありました。
べたりとくっつくか、遠ざかるかしかなかったみたいです。
忍耐力がないともいえます。
わがままともいいます。
お馬鹿ともいいます。

ま、あまり理屈を並べるようなことではありません。
するだけです。




別れ

2005年10月28日 | 
明け方、彼女はトンネルを抜けて吹雪の中に消えて行きました。
出発を伸ばすがよかろうと何度言っても、首を振って、彼女は去って行きました。
駅のホームに立つ彼女の横顔は、深い海の底にいました。
 
雪がそこらじゅうに舞っていました。
音のない白い世界で、彼女は遠い過去に耳を澄ませていました。
茶色い線路にも、枕木にも、ホームの黄色い線にも、雪が降り積もりました。

遠いところで、汽車のボゥッーという音がくぐもって聞こえました。
彼女はぶるっと身を震わせ、はじめて私の顔を見ました。
私を見る彼女の目は、冷たい海の底にいました。

たまらず私は目を逸らせました。
彼女を行かせてはならない気がしましたが、引き止めるすべを知りませんでした。
彼女の細い肩にも雪が降り積もりました。

やがて雪まみれの列車がホームにガタゴトと入ってきました。
肩をすくめて人々が列車を降り、肩をすくめて人々が列車に乗り込みました。
彼女はドアのところで私を振り返り、少しだけ唇を動かしました。

「えっ?」と私は聞き返しました。
彼女はただ少しだけ首を振りました。
私は阿呆みたいに口を空けたまま彼女の顔を見つめていました。

ベルが鳴り、ドアが閉じられました。
列車が動き出すと、曇ったガラス戸の向こうで、彼女の姿が揺れ始めます。
私は取り返しのつかないことをしているのだと悟りました。

列車がトンネルに吸い込まれ、かすかな線路の音も聞こえなくなり、辺りは白い沈黙に覆われました。
私は、私であることに耐え切れなくなっていました。
真っ黒の炭のような私に、次から次と雪が降りかかってきました。





功徳

2005年10月27日 | スピリチュアル
阪神、最後の最後にリズムを取り戻しかけましたが、完敗でした。
ロッテがお見事でした。
阪神の細かいミスが流れを掴みきれなくした原因でしたね。

うーん、書くことがありません。
いろいろ言いたいことはあるのですが、書ける段階にないです。
ぐるぐるいろんなことが頭の中を渦を巻いています。

ある仏教書に書いてありました。
仏様の慈悲と人の優しさとの違いについてです。
子供がどこかに腫れ物を持ったとします。
近頃の母親などは、おろおろしてその腫れ物を撫でさするだけだ。
だから、毒が体内に回ってしまって、家庭崩壊や引きこもりを引き起こす。
それに対して、仏様の慈悲はその膿にメスを入れ、膿を押し流してしまおうとする。
だからこそ、生きるうえでの苦痛は避けられないし、避けるべきものでもない。
一時の苦痛は、因縁を切るためにどうしても必要な痛みなのだ、と。

そういう痛みや苦悩を仏の慈悲と受け止められれば、世の中の見方が違ってきます。
苦しい時や悲しい時は涙を流すしかないのです。
涙を流す人生から遠ざかろうとすればするほど、因縁の波は繰り返し襲ってくるのでしょう。

なまじ仏様と近い慈悲心やら菩提心を起こそうとする人間がいるから厄介なのです。
でも、仏様と近い慈悲心や菩提心がもてるからこそ、人の人生はかくも深くありがたいものにもなります。
この厄介で、ありがたい人生をどう生ききるか。

一人一人の認識と覚悟にかかっています。
抜け道はありません。
抜け道がないことを、仏の慈悲ととるか、不自由ととるか。
厄介な道は続きます。

「願わくば この功徳を以って 遍く一切に及ぼし 我らとみな共に仏道を成ぜんことを」

力量

2005年10月26日 | 雑感
ロッテ、相手を叩きのめすという勝ち方で強いですね。
阪神、今夜はどんな戦い方をするのやら・・・

さて、もう長い間、出来事が起きるままに任せ、自分から事を起こさず、のんびり好きなように生きてきたのですが、
最近、なんだかもったいないような気もしてきました。
欲求不満とかそういうことではなく、もっと動いてみたくなったというか。
一日のうち、店に何人もお客さんが来るわけではありませんから、暇な時間は本を読んだり、
インターネットで遊んだりしているわけですが、なんの不満もありません。
ただ、もっともう一段深いレベルで現実世界と関わりたくなったというか。

まず、お客さんからの相談事がだんだん深刻なことが多くなってきました。
いい加減な受け答えでは済まされなくなってきています。
ノウハウではなく、自分の真剣な受け止めと洞察力が必要とされてます。
人の人生に関わるというのは、重苦しいものです。
その重くるしさを共に背負ってあげようとするのは、傲慢かもしれませんが、必要とされます。
覚悟と自分の力量の冷静な評価が大切になってきます。

問題は力量です。
話半分なら、お釈迦様や、キリスト様の言葉だって言えるのですが、現実の人間の苦しみには、
現実のぼくの力量で答えるしかありません。
それで、ぼくの力量不足のゆえに言葉に詰まることが多々あるわけです。
自分の我や欲や狡さや弱さが壁となって、相手に光に満ちた言葉を返すことができないときがあります。
相談を受けた時点で、相手の苦しみはぼくの苦しみにもなるわけですから、言葉を返せないと、
その苦しみはぼくの心にも残ったままになります。

焦ってもだめですね、こういうことは。
気がついた時点で、一つ一つ自分の心の中にある我や欲や狡さや弱さといった壁を越えていくしかありません。
聖人になることではなくて、自分がそのままで、そのままの言葉を、そのままの態度で出せるようになる必要があります。
いや、必要があるのではなく、そうできるようにありたいわけです。

自分でも贅沢なことを言っているなぁとは思います。
そのままでいいじゃないかともよく言われますが、今のままでは面白くないとぼくは感じます。
自分が怠惰の澱みにどっぷり浸かっていながら、人に手を差し伸べるもなにもないということです。

ぼくの場合、時間ははっきり言ってたっぷりあります。
無為、無駄に時間を過ごすのは得意中の得意です。
人に手を差し伸べたいと思うなら、それはもう、やることがたくさんあります、というか、あるはずです。
長い間怠けていたせいで、何をどうしていいのかが分からなくなってしまっているところがあります。

まず、仕事を立て直す必要が大いにあります。
何を置いても、まずこれから手をつけなければ、何も始まりません。
お金の問題というよりも、生きる上での心の置き方の問題です。

幸い、なんというか、とても暖かいお客様には恵まれてはいるのです。
ぼくがただ甘えてほったらかしにしていました。

なんだかなぁ、書いていて自分で嫌になってきます。
力量だなんだという以前の問題が多すぎて眩暈がするくらいです。
眩暈でふらふらになろうがなるまいが、改善するポイントは目の前に山積みです。

ほんと恥ずかしいです。
手を差し伸べられる必要があるのはぼくだったなんていうのは、笑い話にもなりません。

えいっ!!!!!

気合を入れてみました。










熊野

2005年10月25日 | スピリチュアル
熊野は思っていた以上に奥深く、スピリチュアルな土地でした。
山がいきなり海に落ち込んでいて、由緒のある神社仏閣や滝があちらこちらにあり、
巨木聳える深い森があり、黒潮の濃紺の海が広がり、苔むす石畳の道がありました。

Nさんの気功の師にあたるN先生のお宅に滞在させてもらいました。
見事な陶製の観音像が居間にあり、奥様の手料理もどれもおいしく、
全国各地に散らばる生徒さんが先生のお宅を寸暇を惜しむようにして日替わりで訪れて来ていました。
そんな忙しい中、通常では足の踏み込めないようなスピリチュアルスポットのあちこちに、
毎日朝から晩まで連れて行ってもらいました。
どこもが感銘深く、ありがたいことでした。

いろいろ面白い話も一杯聞けたのですが、ちょっと信じてもらえそうにもないので、割愛です。

なんというか、異界ですね、熊野は。←倒置法
交通が不便だからこそ、ああいう形で異界がそのまま残ったことに感謝の念を覚えます。
本当の森があり、本当の海があり、本当の空があるという感じでした。
ああいうところに篭って修行をしたら、本当に天狗になれそうな気さえします。
信じがたい大きさと形をした磐倉、楠木、杉が森のあちらこちらに点在し、宇宙的なエネルギーを発しています。
あの宇宙的エネルギーと繋がることができたら、何もかもが一変するはずです。
ただし、そのエネルギーを受容するためには人間的スケールと透明度において余程卓越していないと
無理というか、無意味なような気もしますが。

NさんやN先生や生徒さんたちはそれはもうとても仲がよいです。
信頼と尊敬と愛情に溢れかえっています。
声を合わせて歌なんかも一緒に歌ったりします。
インドや中国にも一緒に行っている仲なので、なんだか全国に散らばった家族が再会しているような感じです。
そんな中で、ぼくはいじけまいと必死にこらえました(笑)

もちろん滝にも打たれました。
那智の滝のさらに上流にあるすがすがしい気に満ちた二の滝というところでは、
滝壺が深くて足場がないので入滝は断念し、みんなで禊をしました。
気分がしゃきっと、ピリッとして、気持ちのいい水でした。
大馬神社の境内にある滝には打たれることができました。
滝の水はかなり冷たかったはずなのですが、冷たさを全く感じませんでした。
何かシルクのようなものに包まれている感覚がありました。
合掌、です。

そのうち機会があったら熊野の山を歩いてみたい気もしています。
体力があるうちでないとなかなか大変そうですから。

それから、気功の皆さんの気功体操(?)を見ました。
岬の先の岩盤が剥き出しになり、巨大なテーブル状になったところで、N先生の一声で突然始まりました。
ぼくも見よう見まねでしてみましたが、結構ハードでした。
終始中腰です。
余計な雑念、無駄なエネルギーの流れが吹き飛ぶ感じでした。
体内の気の流れが一本にまとまるような気がしました。
青い海を背景に、気持ちのいい体験でした。

Nさんの舞も見ました。
Nさんのお友達のAさんの深く透き通った歌に合わせて、ゆらゆら揺れていました。

温泉も2度入りました。
海も素潜りが面白そうです。
そこかしこにみかん畑があり、適度にすっぱく、糖度も高いといったぼくの理想のみかんでした。

なんか書こうと思えばまだまだいろいろあるのですが、キリがないのでこの辺で。

Nさん、N先生夫妻を始め、お世話になった皆々様方、貴重な体験をさせてもらって、
ありがとうございました。











アーユル・ヴェーダ

2005年10月19日 | スピリチュアル
急遽、明日からNさんと熊野に行くことになりました。
現地で、Nさんのとてもスピリチュアルなお友達と会えることになりました。
どういう展開になるのか、全然見当がつきませんが、とにかく楽しみです。
機会を見つけて、滝にも入ってこようと思っています。

今、お客さんに借りた「大いなる生命学(青山圭秀著)」という本を読んでいるんですが、大変面白いです。
青山さんは、サイババやアガスティアの葉を日本に紹介した学者です。
この本は、アーユル・ヴェーダに関する本なのですが、古代インドの世界観がスケールが途轍もなく大きく、
ニューエイジ的世界観と驚くほど重なります。
ニューエイジ的発想というのは、仏教というよりは古代インド哲学・世界観により多く影響を得ている感じがします。

まだ読み初めなのですが、アーユル・ヴェーダと仏教というものを比較しながら学ぶと、
何か大きな深い世界に入っていけそうな気がしています。
そういえば、熊野のNさんのお友達は、サイババのところなどにもしょっちゅう行っている方とのことです。
なんか偶然以上のものを感じます。

それにしても、アーユル・ヴェーダの世界というのは、人知が編み出したものとは思えません。
高度な啓示をもってしてしか書きえないものだという気がします。
宇宙は一点から爆発して膨張し、また一点に戻るというサイクルを何度も繰り返す、とさらりと言います。
ビックバン説をはるかに凌駕する壮大なスケールです。

生命もまた壮大なサイクルを繰り返すわけですが、
輪廻転生とか、生まれ変わりとかいうことが、ものすごくミクロな視点での話に思えてきます。
なにせ人間からの視点ではなく、カミからの視点でものが語られているかのようです。

こういう話を読むと、有頂天になりがちです。
何かが分かった気になりやすいかもしれません。
でも、仏教徒としてのぼくは、この生きているという現象から逃げ出すわけにはいかないと、戒めることも必要です。
あくまでも、今は、今のこの生きているという現象がすべてであることもまた真実です。

蟻の群れを眺めます。
どいつもこいつも、一瞬を無駄にすまいと、あっちに行ったりこっちに行ったり、
獲物を寄ってたかって殺したり、運んだり、もう四六時中大騒ぎです(笑)
で、大きなエネルギーの壮大な流れからすれば彼らの生命が無駄かといえば、断じて無駄ではないのです。
その蟻一匹一匹の動きそのものが生命の大きな流れそのものでもあるのです。
このあたりの感覚が、近代合理主義が追いつけないところですね。

で、今ふと思うことは、道元が説いた「只管打坐」(「自分」がではなく、仏がひたすら坐ること)を通じて体現した
「身心脱落」という境地は、「自分」というものが完全になくなったときに現れるアーユル・ヴェーダ的な
世界ではないのかということ。
このあたりの物言いは難しいです。
「「自分」というものが完全になくなったとき」と書きましたが、
「自分」があるだとかなくなっただとかではないのです、正確に言うと。
もともとないもの(「自分」)がなくなり、あったもの(「不二の世界」)があるがままにあるという、そういう世界です。
坐禅というのは、「自分」がではなく、「仏」が絶対不二な世界の中で坐っているのだという道元の言葉は、
そういう境地からしか出てこないのではないかと思うんですが。

ちなみに、不二の世界というのは、自分と他人、善と悪、有と無、明と闇といった一切の分別がない世界です。
般若心経の世界といってもいいかも知れません。

我らが滝行においても、「身心脱落」めいた瞬間的な体験はあるのですが、さらに精進を深め、
その境地を練っていかねばなりません。
「自分」がではなく、「仏」が絶対の光の中で滝に打たれる。
ちょっと、かっこよすぎますかね(笑)

ということで、来週の月曜日に帰ってきます。








運と流れ

2005年10月18日 | 雑感
「致知」というおそろしく真面目な雑誌がありまして、その読後感を語る会に参加しています。
今夜その会があるものですから、ぱらぱらとページをめくっていましたら、面白い話がありましたので紹介します。

ソニー研究所でCDや、ロボットの「AIBO」などを開発してきた天外伺朗氏と、
お金の専門家、本田健氏との対談です。

天外氏「その時に、真剣に準備した人のところに幸運が訪れるのだと直感的に感じて、
 それが運命の法則ではないかと考えたのがこの本(「運命の法則」)の下敷きになっているのです。
 でもその後いろいろ勉強してきますと、それは真剣に準備したことがポイントなのではなくて、
 自らの内側からこみ上げてくる思い、「内発的動機」に基づいて準備したからこそ幸運が訪れるということが
 わかったのです。」
本田氏「内発的動機ですか。」
天外氏「はい。内発的動機に基づいて行動していると、「フロー」という状態に入るんです。
 フローというのは何か夢中になって物事に取り組んでいる状態のことで、フローに入ると非常に運がよくなります。
 これは、チクセントミハイという心理学の教授が1960年代に確立した理論なのです。したがって、
 真剣に準備している人のところに幸運が訪れるというのも、内発的動機に基づいて準備することでフローに
 入ったからそういう状態になったということが分かった。それがこの本の一つの趣旨なんです。」
本田「好きなことを追いかけている人っていうのは、そのフローの状態に入りやすいでしょうし、
 経済的にも回り回ってすごく恵まれた人生を送れるというふうに私は思っています。
 ですから、単純に自分の好きなこと、得意なことをやるというのは、人生の運を高める一つの条件だと
 思っていましたから、これを先生のお話で確認できてすごく嬉しいです。」

非常に分かりやすく、成功した人同士のお話だけに、説得力があります。
「フロー」を訳せば、「流れ」です。
流れに乗った時というのは、やることなすこと上手くいくということがありますね、確かに。
反対に、流れに乗っていない時には、努力や根性ではどうにもならないほど物事が停滞することがあります。
「内的動機」というのは、簡単に言えば、「心からしたいと思うこと」でしょう。
心からしたいと思うことを、夢中になって追いかけていくうちに、流れに乗って、気づいたら成功している。
でも、真剣な準備は大事だよ。
そんな感じなのだと思います。

この両氏の今興味があることは「教育」です。
教えるほうも教わるほうも方向性を見失って、「教育」というものの中身が、スカスカなものになっています。
それぞれの個性に合わせた成功などとは程遠く、脳みそのほんの一部しか使わない詰め込み教育、
そこからはみ出したものは目標も意義も失って、世の中を死んだ目でうろつくだけになってしまう。

まず、「心からしたいと思うこと」をするということを学ぶ。
その中で、仲間とのコミュニケーションや社会的ルールを学び、知恵を発達させていく。
文句のつけようがないですね。

それから、幸運と不運についても含蓄のある言葉です。

天外氏「このこと(幸運と不運)を私はよく波に喩えるんです。波というのは山があったり谷があったりして、
 エネルギー的に見ると、山のところは位置のエネルギーが最大で、スピードのエネルギーがゼロです。
 そして谷のところはスピードのエネルギーが最大で位置のエネルギーがゼロ。その両方を足し算すると、
 どこでも同じだけのエネルギーがあるのです。
 運命を変えたいという人は、その波の谷を逃れて、山だけに行きたいと思っているのです。
 それは無理な話で、山だけの波というのは存在しませんよね。」

早くフローに乗ったもの勝ちです。
まずは、「心からしたいと思うこと」を、自分の心の中に見つけ出すことからですね。
 



祈り

2005年10月17日 | スピリチュアル
小泉首相が靖国に参拝しました。
朝、その生中継をテレビで見てました。
賛否はあるのでしょうが、メディアのヒステリックさはどうにかならないものかと思います。
福岡と大阪の高裁で「違憲判決」が出たから参拝がけしからんなどというメディアや野党党首は、
ちょっと偏向が過ぎます。
いずれも、「違憲判決」など出ておりません。
いずれも判決は原告側の全面敗訴で、「違憲だと思われる」という裁判官の単なる私見が、
傍論(何の法的拘束力を持たない)で述べられているだけです。
裁判官の私見、主観に過ぎないものをあたかも「判決」であるかのような物言いで、
一国の憲法解釈をミスリードして憚らない政治的手法は、ぼくは断じて嫌いです。

昔なら情報不足の国民を欺けたのでしょうが、今はネット環境が整い、
そういう姑息なメディア手法は不信を招くだけです。
まぁ、しばらくはミスリードを図ってけしからんけしからんと騒ぐのでしょう。
中国や韓国を巻き込み、ますます国同士の対立感情を煽っていくのでしょう。
中国は町村外相との外相会談をキャンセルしたそうです。
ばかばかしくも、不愉快な話です。

ま、予想通りの展開なわけですが。
策士、策に溺れるという感じのことが、このところ目に付きます。
本人たちにその自覚がなさそうなのが、イタイです。
大体、策士というものは、自分が策士なだけに、他人も策略家に違いないと思い込んでいる節があります。
無邪気な人というのも結構いるんですがね、世の中には(笑)

で、昨日は導師とある感じのいい神社を見に行き(無駄足でした、すみません>導師)、
それから一緒に知人の、鬱に悩む友人という人に会っての相談事でした。
なかなか大変です。
家族との関係というのは、なんというか、誰にとっても大切なことです。
大切なことを、そのまま素直に大切にできないと、いろいろなところに歪が出てきます。
歪は変なところで力を持ち始め、関係者を苦しめ始めます。
他人同士なら縁を切ればそれで終わりなのですが、家族間の悩みというのはなかなか解消する道のりが長いです。

うーん。
苦しみというのは、大抵は無明さから来る幻影なんでしょうが、
苦しんでいる当人にとってみれば、まさにリアルな経験ですからね。
理屈や同情や理解がなんの役に立たない場合もあります。
言葉以上の力を持たない自分が歯がゆくもなりますが、その歯がゆさにじっと耐えてなければなりません。
そういうときに必要なのが、祈りなのでしょう。
そういうときに、一心に祈ることをできたのが、マザー・テレサという人だったのかもしれません。
















ニセモノ

2005年10月15日 | 雑感
先日自分の持っている和の骨董品を専門家に見てもらったところ、ほとんどがペケでした。
慣れないものに手を出してはいけませんね。
でも、その業界のいろいろな興味深い裏話を聞けて面白かったです。
仏像は偽物というわけではなかったので、今後も扱っていこうかと思っています。
仏像はそもそも偽物を作れません。
作れるくらいなら、わざわざ偽物など作らなくても、現代の立派な仏師となれるからです。
ただ、製作年代の誤魔化しはよくあります。
鎌倉以前のものが特に人気が高いのですが、室町か、南北朝か、鎌倉かなんてことは素人は分かるはずもありません。
それから、買いたい人が美術品として持ちたいのか、あるいは手を合わせる対象にしたいのかでも、
そのものの価値も違ってきます。

古い仏像を見てしまうと、今の仏具屋においてある大量生産の仏像はまるでおもちゃです。
東南アジアかどこかの町工場で作らせているのでしょう。

そういえば、先日京都に行った時、有名な仏師でもあり、僧侶でもある西村公朝師が再建した、
アダシノの愛宕念仏寺にも立ち寄りました。
境内には善男善女が彫ったたくさんの石仏があるのですが、どれもが彫った人の人柄がしのばれて、
心和む空間となっていました。

ものには作り手の心が必ず染み込みます。
昔の日本人は、その心の染み込み具合を愛でたり、評価していたに違いありません。
近代以降の大量生産品にも、その酷薄な心が染み込んでいるわけです。
だから、惜しげもなく捨てられるのです。

で、自分の専門以外だとなぜもかくも容易に偽物を掴ませられるかというと、
その作られるものにどんな心が込められたのかを読み取れないからです。
床の間のない空間に暮らし、茶の湯もかじったことがなく、風流な時間というものを知らない人間が、
掛け軸やら、茶陶器を作る際に込められる心というものを、全く理解していないからです。
理解していないまま、いつか誰かが評価したものと同じようなものに眼を晦ませ、
聞いたことのある作者の名前に耳を晦ませるのです。
そういう眼や耳を晦ませる余計な情報や知識がない分だけ、外国人のほうが目が高いのかもしれません。

どんなものの場合でもそうなのですが、中途半端な知識というのが、一番損な買い物をします。
中途半端に知識を持っている人ほど、自分の知識にこだわります。
そのこだわりの裏をかかれると、ころっと騙されます。

ものに限りませんね。
人を見る場合もそうかもしれません。
学歴、経歴、容姿などにころころ騙される人が後を立ちません。
学歴、経歴、容姿は、間違いなく「その人」の表れではあるのですが、人を見る「見方」というのを、
マスターしていないと偽者を掴むかもしれません(笑)
ここら当たりは一生勉強なんでしょうけれども。

なんか偽者が、偽者の見分け方の講釈をたれているようで、甚だ恐縮至極です(笑)



2005年10月14日 | スピリチュアル
今日は脳の話です。
お客さんが「「脳」が元気になる本(高田明和著)」というのを持ってきてくれました。
ちょっとだけ読んでみました。

人が楽しいだとか、平安だとか、愉快だとか思うときは、脳内にホルモン物質が放出されています。
そのホルモン物質をドーパミンといいます。
それから、不安や恐怖心を抑える脳の機能に働きかけるホルモン物質も重要です。
それを、セロトニンといいます。
こういうドーパミンやセロトニンが適切に分泌されていれば、人は穏やかに暮らしていけます。

ところが、考え方が否定的であったり、素直な好奇心を抑制してたり、ストレスの多い生き方をしていますと、
そういうホルモン物質の分泌力が弱まります。
不安な心が、不安なまま増幅され、人生が味気なく思えたり、嫌なものに見えてきたりします。

さらに、脳の細胞間はシナプスという神経網で繋がれていますが、
その神経網は使わないでおくと、消滅してしまうのだそうです。
毎日同じような生活をし、刺激や興味といったものが薄い生活をしていますと、
使う脳の領域がどんどん狭まっていくのだそうです。
簡単に言いますと、無気力無感動になっていくのだと思います。

脳の活力というのが、その人の心のあり方に密接に関連しているのが分かります。
というか、心のあり方そのままが、脳のあり方に現れているといったほうが正しいのかもしれません。

ここから示唆できることはたくさんあるように思います。

ビートルズを例にとってみます。
リバプールの場末でデヴューします。
熱狂的なファンが彼らを取り巻き、彼らの脳内にもドーパミンが出まくりです。
ロンドンでデヴューし、アメリカを席巻し、世界中が大騒ぎになります。
やることなすこと、新たな世界への挑戦であり、興奮は収まらず、人生は熱気にあふれ、
世界がお祭りのように見えてきます。
多少のストレスも不安も睡眠不足も、溢れんばかりのドーパミンとセロトニンで中和され、
シナプスは脳の隅々にまで張り巡らされ、神がかりの楽曲を作り続けます。

それでも、その熱狂がやがて彼らの日常になり、繰り返しになるにつれて、
彼らの脳内で分泌される脳内ホルモンの量は減っていきます。
不安が生まれ、懐疑が生まれ、退屈を覚え始めます。
脳内を張り巡らされたシナプスも消え始め、創作活動にも衰えが見えてきます。
プラス思考を維持するのが難しくなり、些細なことでいさかいが増え始め、解散に至ります。

こうしてみると、人を幸せにするのは「状況」ではないということです。
その気になれば、彼らは死ぬまで誰もが及ばない大スターだったのですが、
その地位と状況は彼らを退屈にし、苛立たせるものと変容しました。

人の脳は停滞を喜ばないようにできています。
常に、新たなことに挑戦し、高みに上り続けることを要求しているかのようです。
地位も、お金も、女も、権力も、なんでも手に入れたところで、停滞と退屈はやってきます。
そういう風に脳ができているのです。
現実世界の制覇などというのは、脳が喜ぶところではありません。

脳は、好奇心と勇気を持ち、挑戦し、克服することを喜びます。

まだ始めの何ページかを読んだだけですので、どんな世界までこの本が導いてくれるのかは分かりませんが、
そういう風にできている脳というのは、非常に大きな示唆を与えてくれていると思います。

ところで、現実生活では、いろいろな打算があって、前頭葉というものが大いに使われているみたいですが、
後頭部のほうの脳というものの働きは、ぼくはよく知りません。
まだ未知の領域にシナプスが盛んに伸展して、新たな意識が芽生える可能性はまだまだありそうです。

滝行や瞑想といった宗教的な方便も、その新たな脳の領域の開発と大いに関係があるはずだと思っています。







土瓶蒸し

2005年10月13日 | 雑感
だいぶ爽やかになってきましたが、まだ暑いですね。
豊前地方では、今が旬の渡り蟹が不漁で、本来はもっと南に生息するはずの台湾ガザミが多く獲れているのだそうです。
いよいよ日本の亜熱帯化も本格化してきました。
どちらかというと、暑いのが嫌いなので、これは困ったことです。
南洋の島というものに魅力を感じたことがありません。
プーケットやハワイに行っても、快適ではあるのですが、退屈です。
シベリアやアラスカといったところに魅力を感じてしまうタチです。

さて、昨日もぐでぐでに酔っ払いました。
例によって記憶は定かでありません。
飲めばいいってものじゃないんですが、どうにかなりませんかね、なりません。

最初は滝仲間のM氏の経営している店に行きました。
霊が居座っているという噂でしたので、楽しみにしていたのですが、まったくその気配はありませんでした。
導師がお祓いしてしまったようです。
入り口正面に立派な神棚がありました。
我が故郷の宮城県産の牡蠣を食べることができました。
一個だけでしたけど。
あらゆる食べ物の中で最も好きなマツタケの土瓶蒸しも食べました。
汁を全部飲んで、残った具だけを人にやったら、顰蹙を買いました。
あははははは。

二軒目は、霊感のあるおばさんの店というところに行きました。
ぼくは手相を見てもらって、どうでしょうかと聞いたのですけれど、
あんたは私を試しているとか、まぁ問題ないとか、あまり好意的でないお言葉でした。
それでも気分を害することなく、ぼくはへらへらしていました。
と間もなく、A嬢が大声で(略)

これから先は書きません。
ぼくは他人のプライベートをべらべらしゃべったりはしないのです。
自分のプライベートはべらべらしゃべりますが。

それからA氏の家に行って、また酒を飲み始めたらしいですが、記憶が飛んでいます。

今朝A譲と高速バスで帰ってきました。
A氏の奥さんからメールが入り、A氏がトイレでゲロを吐いているという報告がありました。
あはははははは。




2005年10月12日 | 雑感
今日は隣町に昼過ぎから行ってきます。
なんだか趣旨のはっきりしない滝仲間の飲み会があるので、ついでに仕事を入れました。
ので、ブログを書いてしまいます。

「われわれは足もとを固めなければならぬ。溺れているものは他人を救うことはできぬ」 マハトマ・ガンジー

必殺、日めくりです(笑)
溺れているもの同士は、同情というか憐憫という湿った動機で、同病相哀れむ状態になりがちです。
そうなりますと、お互いに立ち直ることが難しくなります。
片方が立ち上がろうとするのを無意識に足を引っ張ってみたり・・・

溺れている人は、大抵は頭が混乱しているもので、自分が溺れていると認識していない場合もあります。
自分が溺れかけているにもかかわらず、他人に助言し、説教をたれ、励ましたりなんかすることもあります。
溺れかけている人を他人が救うことは、おそらくできません。
溺れている人が、自ら溺れていることを知り、岸辺に泳ごうと決心しなければ、
投げ与えた命綱も、浮き輪もおそらく役に立ちません。
岸辺にいるものは、適切に泳ぐべき方向を示し、命綱や浮き輪の所在を示すことはできますが、
一緒に水に飛び込んで、溺れるものを助けようなどと考えると、巻き添えになります。

人を救うためには、自分がしっかり大地に足をつけていなければなりません。
自分が溺れている人と一緒になって濁流に流されていたのでは、救うどころではありません。
大地にしっかり立って、命綱や浮き輪を投げ与えるなり、方向を指示したりしなければなりません。

で、そのよって立つべき大地とは何か。
実績と信頼と菩提心でしょう。
溺れるものは、そのとき初めて大地の上に立つものの声を聞くのでしょう。

と、ここまで書いてくると、大地に堂々と立っている人間が驚くほど少ないのではないかと、思うわけです。
ほとんどの人が知らず知らずのうちに、濁流に流されているのではあるまいかと勘ぐります。
すくなくともぼくは、実績と信頼と菩提心に乏しいわけです。

もうひとつ日めくり。

「心によって偉大だった人々を私は英雄と呼ぶ」 ロマン・ロラン

これはその通りで、付け加えるべき言葉もありません。
金儲けや女漁りに成功した人を、英雄とは呼びません。
心の底では誰もが欲する金や女をいくら手に入れても、英雄とは呼ばれません。
欲を心とは呼びません。
では、心とは?

と、ここまで書いて時間になりましたので、また明日。




秋晴れ

2005年10月11日 | スピリチュアル
日曜日の初の燻製作りは、はっきり言って失敗でした。
かまぼこやチーズは煙をかけるだけですから、何とか食べれましたが、
ビーフジャーキーとササミジャーキーは、味の濃すぎる、脂っこい干からびた肉片でした。
猫も顔を背けました。
A氏やA氏の友達は、一切れ食べただけでその後二度と手をつけようとしませんでした。
彼らには友情という二文字がないのでしょう。

まぁ、最初はこんなものです。
素人はここですぐ挫けるからいけないのです。
冷静に失敗の原因を突き止め、改良を加えればいいのです。
成功と失敗を分けるものは、それは成功するまで諦めないか、諦めるかの違いだと誰かが言っていました。
その通りです。

土曜も日曜も、滝行でした。
土曜日は、観光地にもなっている落差30メートルのSの滝。
ここは足場がとにかく危険です。
二人ほど滑ってこけて、サポートの人間にからくも捕まえてもらっていました。
でも入ると、本当にうっとりするほど優しい滝です。

日曜日は、NさんのグループといつものHの滝。
初参加のNさんの生徒さんの一人が、緊張とショックで具合が悪くなりました。
急激に体が冷えるので、体がびっくりしてしまったのでしょう。
初めから、体の力を抜けといっても、そうそう上手くいくものではありません。
A氏が滝場から麓まで、とっととおんぶして下りて行ったのには、驚きもし、感心もしました。

滝行も、燻製作りと一緒で(←余計な一言)、最初から上手くいくとは限りません。
頭痛がする人もあれば、体の震えが止まらなくなり人もあれば、反対にけろっとしている人もいます。
その一つ一つに意味があり、導きがあり、気づきがあればと思います。

そして、A氏の家に一晩泊まり、翌朝A氏の家周辺の森の柿やらスダチやら山葡萄を取って、帰りました。
出来た燻製は、無理やりA氏とA氏の友達に持って帰ってもらいました。
昨日は、本当にすがすがしい秋晴れで、窓を開けて車を走らせても、とにかく気持ちがよかったです。
帰りがけ近くの冷泉に寄り、冷泉に浸かって禊の祓いを上げ、ぼくの好きな神社にお参りし、
お茶屋でビールを飲んで、蕎麦定食(600円)を食べて、しみじみ幸せな気分で帰りました。

その神社は行くたびに幸せな気分になるのですが、
昨日は参拝していると、眉間の先に光の点が見えました。
ほんとに小さい点です。
小さいけれども強烈な光の点。
ありがとうございます、と思いました。

肺に影があるお客さんの診断結果が出ました。
どうやら癌ではないそうです。
ですが、何か腫瘍らしきものは出来ているのは確かなので、3ヶ月ごとに検診に来なさいということらしいです。
とりあえず手術はしないですみました。
手当てをして、影がすっかり消えれば言うことなしです。







修行と燻製

2005年10月08日 | 雑感
今朝は年に何度かのSの滝でした。
アプローチの岩が、苔や枯葉やらでかなり滑りやすく危険なのですが、
壷状になった滝の下に入ると、見た目とは大違いの滑らかで優しい水が体を包みます。
もっとも、水量の多い時のSの滝は知りませんし、水量の多いSの滝はまだ入る機会(勇気とも言う)がありません。

悪い気は取れたみたいです。
今、本棚に自分が持っている仏像を並べて、御祭りしているのですが、
最近その前に座ると、結界というかなんというか、自分にとっては落ち着く磁場ができつつあるような気がします。
昨夜、久しぶりにその前で小一時間ほど座禅を組みました。
座禅は、アルコールが入っている時にしてはいけませんから、どうしてもする機会がなくなっていました。
Sの滝の前日はアルコールを控えますので、座禅をすることが出来たわけです。
なかなか、すっきり座禅に入れました。

で、今日の滝で悪いものが駄目押しで流されたと思います。
店に帰ると、処置を間違えると大事になりそうだったトラブルも、すんなり解決しました。
実はそのトラブルはずっと重く気にのしかかっていましたが、なんせ自分の気がめちゃくちゃだったものですから、
手が出せませんでした。

何かの修行の道に入った時は、油断というのは本当に怖いなと、思い知りました。

で、明日はNさんのグループの滝行です。
今年はこれが最後だそうです。

う~ん、めまぐるしい。
メリーゴウランドのように、いろいろなことが起きますが、気を抜けません。
だから、気を抜く必要がどこにあるんだと、何度言ったら(略)>おれ

近いうち、熊野に行くことになるかもしれません。
お客さんから、店の女の子に、修行ばっかりしてなんになるんだという苦情が来ているそうです。
修行なんかよりも、商売を当たり前のようにすることこそ、今必要な修行だろうが、ということです。
商売で真面目に頑張ったことがない人間が、修行なんぞと片腹痛いということなんだと思います。
返す言葉がありません。

滝行をしたり、出羽三山に行ったり、京都に行ったり、今度は熊野かい?
それで、あんたの腐った性根を直そうなんて、100年早いんだよ、
あんたは足下の商売に精を出すことから始めるのが筋だろうが、という多くの方々の声が聞こえます。

それでも、今のこの流れに従って、動いていきたいと思っています。

明日の滝行の後は、A氏の田舎で、燻製実作第一弾です。
なんと、ササミジャーキーと、ビーフジャーキーと、チーズ、さらには蒲鉾に挑戦です。
なぜ上記の四つかというと、仕込が簡単だからです(笑)
ぼくはなぜか自信があります。

農漁村再生プロジェクトがいよいよ足を踏み出します。
引き続き会員募集中です(笑)





ハピネス

2005年10月07日 | スピリチュアル
今日は昼過ぎまで気が滅入っていました。
店に行くなり、女の子に「うわー、その波動嫌いー」と言われてしまいました。
自分でも分かっているのですが、重く黒いものに心が引きずり込まれています。
参ったなーと思いながら、昨日も書いた「ハピネス講座」を読むうちに、気分が晴れてきました。

こういう落ち込みつつある自分の気分などに焦点をあわせますと、
罠に捕らえられたように逃げ場もなく、ますます気分が落ちていきます。
「生きているそのことこそが恩寵」という本来のあり方を思い出し、
何か暗きものに対する脅えや、不安や、恐怖といった幻覚を振りほどき、
本来、光である存在であるはずの自分をイメージします。
光を欲しがる存在としてではなく、光を与える存在であることを確認できたら、楽になりました。

正直、今回のトラップは、ちょっとビビリました。
のこのこ自分からトラップに引っかかりに行く自分が阿呆でした。

不思議なもので、罠から抜け出たと思ったら、立て続けに来たお客さんととてもいい感じの会話が出来ました。
昨日来てくれたお客さんは、とても嫌な感じを持ったと思います。

まだまだ、鍛錬が足りません。
自分で自分がつくづく嫌になるのですが、嫌になるとまた次のトラップにつかまりますので、足を前に出すだけです。
生きていることが楽しければ、気を抜く必要もなく、瞬間瞬間を集中して生きるのでしょうが、
こうもいつもいつも気を抜くということは、楽しくないということか?>おれ

楽しくないことはないのですが、十分に、もっと楽しもうという無邪気な欲求を不当に抑圧しているかもしれません。
いつも受身です。
与えてくれるものの範囲で、それで十分だ、楽しいことだと自分を言いくるめています。

こういう偽善的な嘘つきが一番始末に終えません。
やりたいことを、無邪気にやるという段階に入ることに、どうしても戸惑いを覚えてしまいます。

「与える」という意味を分かっていないような気がします。

「ハピネス講座」にはその辺のことがスパリと書いてあります。

ぼくに「ハピネス」というような言葉が、なんのてらいもなく言えるような日が来るのでしょうか。
来ます。
来ないと困るから来るのではなくて、来るべくして来ます。

で、そう断言すると、ハピネスという言葉に気恥ずかしさを感じなくなります。
こういう、ややこしい心のからくりは、全部不必要、無駄なんです。
感謝と感動しながら、シンプルに、明るく、楽しく、今を生きればいいことなんですが。

やれやれ、です。

ちなみに、昨日のブログの写真は波動がちょっと怖かったので、削除しました。