風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

日々

2009年06月29日 | 雑感
今日は雨でした。
その上ムシました。
あと1日で7月です。
この年も半分が過ぎようとしています。
焦ることはないのでしょうが、毎日毎日を大切にしなければと思います。

毎日を大切にするといっても、ことさら大げさなことをする必要はないのだと思います。
目の前のすべきことを少しいつもよりも丁寧に心をこめてすればいいだけなのかもしれません。
料理や掃除をするにもちょっとした工夫が家庭の空気をより豊かにすることができるでしょうし、
だれかと会話するにしても少しの思いやりや笑顔がお互いの心を弾ませることができるでしょう。
不機嫌に下を向いて歩くよりは、空を見上げ路傍の草花に目を向けるのもいいでしょう。
なんにせよ、日々感動する心を枯れさせないことが肝要なのでしょう。

ところで、映画「剣岳」を先週観ました。
平日の昼間だったのですが、中高年のお客さんで7割がた席が埋まっていました。
そのシネマコンプレックスに10年近く通って、ぼくにとっては今迄で一番込んでいる経験でした。

剣岳には2度ほど登ったことがあります。
立山連峰を縦走し、さらにその奥にドシリと聳えている山です。
かなり冷や冷やものの錆びた鉄の鎖場や梯子などがありますし、際どい難所がいくつかありました。
今では立山直下をくりぬいたトンネルを走るバスやケーブルカーを乗り継いで一気に立山の室堂まで行けますから楽ですが、
里から延々と歩いたら剣岳の山容をちらりと見るためには、何日もかかる秘境中の秘境であったには違いありません。
その剣岳へのルートが明治になって初めて踏破されたというのは驚きでした。

メンズ・デーだったので続けて「レスラー」を観ました。
ミッキー・ロークのすさまじい体当たり演技です。
「ホーム・ボーイ」という彼の映画がありました。
やはり破滅型のボクサーの役でした。
破滅を自分の美学としてしまうと、そこから抜け出るのはとても難しいことです。
吹けば飛ぶような価値観をちまちま積み重ねることよりも、ドカンと落ちきるところまで落ちきる爽快感。
それ以上落ちようがない人間は、落ちきったときに妙に楽天的になるものです。

ま、対照的な二本の映画でした(笑)


突破

2009年06月28日 | スピリチュアル
ぼくの今のPCの壁紙はストーンヘンジの写真です。
ストーンヘンジには行ったことがあります。
アンティークの買い付けでロンドンに行ったついでにバース(ローマ時代の温泉で有名です)に向かう途中に立ち寄りました。
広々とした草原に突然それはありました。

巨大な石柱がサークルを形成しています。
その石をどのようにこの地まで運んできたのかは謎とされています。
その辺りで採掘される石ではないそうです。
冬至だとか夏至だとかを観測する天文所の役目をしていただとか、祭儀の場所であったとか言われているようです。

ぼくが思うに、古代の人たちが現代に残した「公案」だと思います。
太陽の死と復活を象徴する冬至や夏至にこだわる意味、そのために膨大な労力を費やす意味、
或いは膨大な労力なんか必要としなかったかもしれない可能性。
そういう現代のおいての硬直した知性に対する挑戦状として、エジプトのピラミッドにしろ、マチュピチュの遺跡にしろ、
ストーンサークルにしろ、現代においても存立し続けているのだと思います。

「神々の指紋」や「神の刻印」などのグラハム・ハンコックの著作を読むと、全世界じゅうに遺跡が「沈んで」います。
わが沖縄の海の下にも壮大な石造りの遺跡が眠っているようです。
豊富な写真とともに世界中の眠れる遺跡が紹介されていますから、興味のある方は読んでみるといいかもしれません。

アセンションというのは、そろそろその「公案」を解きましょうということに他ならないような気がします。
その公案を解くためには、まず自分とは何か、生きるとは何かを通過しなければ無理なのでしょう。
禅的にいえば、「本来の面目」を通過しないと、それに続くいかなる公案も通過しないからです。

人はどこから来てどこへ行くのか?
問いはそれだけです。
それだけの問いに答えられない苦しさにこの世は満ちてしまいました。
突破できますでしょうか?
ぼくは突破したいです。

慈風

2009年06月27日 | スピリチュアル
梅雨の感じがしない今日この頃です。
梅雨は梅雨らしく、夏は夏らしく、冬は冬らしいのがぼくは好きです。

禅の話ばかりで恐縮ですが、今ぼくの頭を占める割合が最も大きいのが禅についてなのでご容赦ください。
今しがた道場長より電話がありまして、老師がぼくにつける道号を考えてくだされており、
それに先立って入門・入団の意志があるか否かの確認の電話でした。
もちろん、ありがたくお受けしました。

道場の諸先輩方に聞くと、一昔前までは一年間くらいは参禅(老師の前に出て、公案を提出すること)も許されず、
公案の初門を通過してからさらに何ヶ月か数年かは知りませんが様子見を経て、入門・入団が許されたもののようです。
前にも書きましたとおり、「どこまでも底が深く、周到で、緻密な禅というシステム」です。
入門に至るまでの「待機」という期間もとても大切な修行の時間になるだろうことは予想がつきます。
ただ、ぼくの場合は、場合によっては「待機」というのはあまり効果的ではないような気がしています。
せっかくのちゃぶ台をひっくり返して、どこかに行ってしまうようなところがあります。
その辺りを老師が見抜いてくださったのだと思います。

前に禅の風光を「空っ風」のようだと評しましたが、今ではちょっと考えを改めています。
外側から見れば確かに颯爽とした真冬の雪に覆われた大地の上を渡る風のような風光なのですが、
自分の内部に入ってみると、愚図愚図した人の迷妄の毒ガスを吹き払う「慈悲の風」でした。
外部から見れば坐禅をする姿は凛々しいかもしれませんが、当人は足の痛さと汲めども尽きない雑念と格闘しているわけです。
道場内はしんとしてますが、当人たちの心中では感情が波たち、音を立て、臭いを発し、ぐるぐるとのたうっています。
その厄介な騒ぎ立てる心の波をすーっと静めるのが禅の「慈悲の風」であるように今回は思いました。

なんにしてもぼくは「禅」の道を歩く決意を固めました。
大道を闊歩してやります(笑)

ちなみにご参考まで。
この道場は、初心の者が一週間の接心に参加する費用は期間を通じた総額が500円です。
食事は一食につき300円です。
宿泊する場合の宿泊費は無料です。
江戸城無血開城を成し遂げた最大の功労者の山岡鉄舟先生らが、維新後の日本の人材育成を図るために創られた居士のための道場です。

う~ん、シブイ(笑)


浮雲

2009年06月19日 | スピリチュアル
今日も空には浮雲が流れているだけで、雨の降りそうな気配はありません。
そろそろ降ったほうがいい感じです。

一昨日は老師が外出で参禅はありませんでした。
昨日の参禅で、また公案が通りました。
「本来の面目」の面目躍如の感があります。
でも、公安が通ったとか通らなかっただとかはもう言いませんね。
話を聞くほうはちっとも面白くもなんともない話ですからね。

言うまでもなく、公案が通るかどうかは二義的な問題です。
第一義は境涯の進展です。
境涯が進展しなければ公案も通らないのですが、境涯が進展しなくてもいいのです。
進展しようが進展しまいが坐禅を組んで、参禅する。
それがすべての根底にある崩しようのない前提に据え置くべき境涯です。
また、境涯が進まず、公案も通らず、混迷を深めれば深めるほど、そこを打ち破ったときの喜びもひとしおのようです。

禅にはどうでなければいけないとか、こうあるべきだとかいうのは基本的にありません。
己が、己の閉じた心をこじ開けて、己のままを曝け出すだけです。

とにもかくにも、今回の接心は今夜が最後です。
心地のよい緊張を心に感じながら、今から行ってきます。

空っ風

2009年06月17日 | スピリチュアル
今日も晴れました
気象庁が梅雨入り宣言をして数日後からずっと晴れているような気がします(笑)

昨夜も新しくいただいた公案が一発で通りました。
文字を追って考えたら永遠に解けそうもないのですが、「本来の面目」から見ますとすっと答えが浮かびます。
答えが浮かんだ瞬間に、それしかありようのない答えだというのがわかります。
すごい経験です。
すごい経験ですが、決して慣れたり、油断したり、慢心したりしないようにする必要があります。

「本来の面目」を掴むということは「小悟」という小さな気づきの段階らしいですが、
この先「大悟」に向かって一歩一歩登っていくわけです。
果てしのない道のりが遥か地平線の先に消えています。
もちろん、今でも悟りたいとか、境涯を高めたいとかいう思いは別段ありません。
淡々と登っていくだけです。
坂が急ならあえぎあえぎ登るだろうし、平坦ならばすいすい登るのでしょう。
雨が降っても、日照りでも、嵐でも、雪でも、淡々と登るだけです。
ぼくは天気のいい日の風景が好きなわけでもありません。
嵐に揺れる木立も好きですし、崩れかけた廃屋から垂れるツララも好きですし、
横殴りの雪に荒れ狂う日本海も好きです。
どんな風景にも妙味はあります。

ぼくは以前から禅の世界には憧れてはいました。
ただ、いろいろな本を読んだり話を聞いたりすればするほど、ぼくには参入するには敷居が高すぎると感じていました。
なにしろ身体が異常に硬いものですから、足を組むのがものすごく難儀でした。
今でも痛いですが。
それから誘惑に弱く、煩悩に流されやすいタチですから、純一無雑の境涯を目指すかのような禅の世界は
縁遠く感じていました。

ただスパリスパリと物事を縦横無尽に切り取っていく切れ味のよさと、ベタベタした執着ががない空っ風のような気風が、
とても好ましく感じていました。

う~ん、いろいろな意味で感慨無量です。

初門

2009年06月16日 | スピリチュアル
新しいPCを通販で買いました。
注文してから海外で生産して輸入するという形です。
初めて通販で買ったのですが、安いだけあって説明書がなんにも付いていません。
なんとかネットにも接続でき、いまはそのPCでこれを書いています。
携帯も新しくしたのですが、もうすっかりIT情報弱者ですね。
さっぱりわからない機能ばかりです。
いまどきのスパイには絶対になれないでしょう。
ぼくってスパイの適正があるなと勝手に大いに自負していたのですが、その道は閉ざされました(笑)

さて、土曜日から禅道場に行っていましたが、昨夜最初の公案(「本来の面目」)を通過しました。
初門を突破したということらしいです。
もちろん、うれしいです。
うれしいことはうれしいですが、うわついた感じは持ちようがありません。
全身全霊で答えるわけですから、浮つきようがないです。
真剣勝負で導いてくれた老師をはじめすべてのご縁に感謝するしかありません。

参禅(老師と一対一で対峙すること)の内容は一切話せません。
また、話そうにも話せるようなことでもありません。
なりきるとは、なりきるだけです。
言語や思慮を超えるしかありません。

なんというか、どこまでも底が深く、周到で、緻密な禅というシステムに感動するばかりです。
今から新たな気持ちで道場へ行ってきます




2009年06月11日 | スピリチュアル
今日は数日ぶりに晴れ、気持ちのよい風が吹いていました。
ふと釣りに行くのにはうってつけの日だなと思いました。
何年(おそらく十年以上)も釣りになど行っていないのですが、こんな日に潮騒をボ~ッと聞いているのもいいなと思いました。

娘はなんにでも手を出しますから、釣りはまだダメでしょう。
エサ箱をひっくり返し、釣り針に手を刺し、岸壁から海へ転げ落ちるでしょう。
娘からすればどこへ行きたいだろうかとか、なにをしたいだろうかと、娘の視線でものを考えることがよくあります。

ぼくからすれば娘は娘ですが、娘からすればぼくは父親です。
当たり前のことですが、人は息子や娘であり、親でもあったり、誰かの知人であり、友人であり、得意先であり、
同僚であり、知らぬ誰かであり、恋人でもあったりします。
さらには、加害者であったり、被害者であったり、善人であったり、嘘つきであったり、時には搾取し、時には搾取されます。
一人の存在は、社会に存在するということだけで選びようもなく多重の意味を帯びてしまいます。
多様な人々の間で、多重な意味を帯びながら生きていくわけですから、人生を複雑に考えれば限りなく複雑なものになります。

多種多様多重の外部環境に合わせようと思ったら、そりゃノイローゼになります。
「人々」ということも含めて外部環境なんていうものは極めて恣意的・流動的なもので、合わせようがありません。
ノイローゼにならないためには、外部環境に影響されない自分の行動の指針というものをしっかりと持っていなければなりません。
その指針とは何かというと、それこそ人それぞれの話になってしまいますから、イメージ的にはこうです。

外部から要求あるいは期待された「役」を演じるのではなく、自分の演じたい「役」を演じるということ。

長い間外部からの要求やら期待やらに応えるべく「役」を演じ続けますと、自分本来が演じたい「役」というのを見失うことがよくあります。
本来演じたい「役」というのが見つからないと、「本来の自分」というのも見うしなったままになります。
「役」というのは、「本来の自分」がこの世で自己表現していく「姿」だからです。

学校や職場や仲間内でも、人間関係というのは、無責任な要求やら期待やらで満ちているものです。
そんな無責任な要求や期待にいちいち反抗するのはダメです。下策です。
そういう大きな流れに敵うはずもなく、かえって自分がボロボロになります。

多種多様な価値観が渦巻く世界においては、「自分が」を中心にした言動というのは大抵は失敗します。
反抗というのは、自分の正しさと他人の間違いを対比させ、自分の主張を押し通すことです。
正しさと間違いを対比させた対立はひたすら消耗するだけです。
正しさと間違いは見方の違いでしかないですから、「自分の見方が正しい」合戦になるだけです。
そういう不毛な対立はますます人を孤立させていきます。

ではなにができるか。
先ずは、外部からの要求やら期待があるのなら、それに応えようと思えば応えられるだけの能力・体力・忍耐力を身につけること。
外部からの要求・期待に応えてこそ、自分のしたい「役」という自分自身の道が初めて開けてくるのだとぼくは思います。
基礎的な能力・体力・忍耐力などを身につけていないうちに、やりたい「役」をやれるほどこの世は甘くないのでしょう。

人が進む道には色々な障害がありますが、「対立」という手段はおそらく最悪な手段です。
そうせざるをえなかった経験は誰にでもあるでしょうが、対立している間はどこにもいけない状況が続いたはずです。
障害があったときには、対立ではなく、それを「越えること」が人の能力の活かしかただと思います。

いちいち障害と対峙してたら身が持ちません。
自分の周囲の貧乏、悪意、嫉妬、意地悪、無責任、失恋、そんなものにいちいち目を向けていたら、そら生きているのが嫌になります。
そういう課題は、教科書では学べない生きたレッスンだと思うことです。
生きたレッスンですから、上手くクリアすることができないと、心が痛みます。
落第したからといって、先生の拳骨やら、親の叱責ではすみません。
リアルにクリアしないことには、自分の心が痛みます。
だからこそ、本気でクリアすると決めた方がいいです。
無駄な抵抗を続けるうちに、放っておかれた痛みは膿んでいきます。

越えること。
相手を越えるのではありません。
自分を越えるのです。
自分の枠を越えるのです。
考え方を越えるのです。
それ以外に、越えるものなど一つもありません。

自由というのは、無条件に自由になるのではなくて、「自由でいるという選択」をし続けることです。
自分が不自由な観念やら思い込みやらに縛られているなら、真っ先にそこから自由になるしかありません。
心が自由であれば、「対立」という心のポジションは不可能になります。

ようは、心身とも「活かしきる」ということです。
「自分について」悩むエネルギーがあるなら、「自分を」活かすエネルギーに転化することです。
「自分について」などというのはどうでもいいことです。
甘えと欺瞞と無責任にベトベトになった概念らしき不健康な意識のエネルギーです。
「自分を」どうするかが人ができるすべての選択です。
自分が自分をどうにかし続ける。
そうなった時に、自分のしたい「役」というものがその形を明らかに現してくるのでしょう。


2009年06月09日 | スピリチュアル
夜中に目が覚め、眠れなくなったのでそのまま滝に行きました。
空はどんより曇っていて、早朝ゆえに都市高速はガラガラでした。

滝に何百回入っているのかは数えていないので分かりませんが、一日たりも同じ感触というのがありません。
毎回行くたびにまったくまっさらな新しい体験があります。
今日は水も大分温かくなっていて、体が冷たいだの痛いだのなんだのあれやこれやから離れて集中できました。

しばらく「行」にも入っていないし、行きたい時にだけいくというスタイルでしたから、
まだ日の出も迎えていない行場はさすがに緊張感があります。
あちらこちらで試すかのように大きな物音がしますし、鈴の音が聞こえたりもします。
でも、一切取り合いません。
試されて当然なのが行場でもあります。

で、滝にエイッと入って、禊の祓いを唱え、般若心経を唱え、観音経を唱え、各種真言を唱え、最後に
「生かしていただいて 有難うございます」を心ゆくまで唱えます。
今の滝は至福とも思える体験ができます。
滝場は何体ものお不動様が一切の妥協なく境界を守ってくださいます。
ひたすら感謝の頭を垂れて、滝場をあとにします。

滝に行ってから一日をスタートするのと、そうでないときとでは何かしら日常を流れる時間の感触が違います。
滝行の具体的な効能を言っているのではありません。
時の流れに対する感触の違いです。
なんというか、崩れようがなくなる、そんな感じがします。
滝に行かなければ崩れるのかとか、そういうことは別次元の話です。
シンプルに崩れようがなくなる。
そういう感じがします。
なぜか。
水と一体になることでぼくの何かが満ちたり、自他を含めた世界を信頼し、よりよき境地というものを信じられるからだと思います。

山登りにせよ、スキューバダイビングにせよ、スカイダイビングにせよ、放浪旅行にせよ、あるいは日常生活にせよ、探求の過程というのは、
歩を進めつくせば、究極的には同じような境地に辿り着くのだろうと予感しています。
どんな探求の道でも、その道に入り始めは苦痛や痛みや恐れがあるものです。
その壁を越えると、道は道としてどこまでも先に続いているのでしょう。

う~ん、われながらナイスな人生です(笑)



心を添わす

2009年06月08日 | スピリチュアル
晴れるとさすがに暑いです。
役所関係をあれやこれや自転車で回りましたところ、汗まみれになりました。
さっそく帰って店の冷蔵庫にあったビールを飲み干したのは言うまでもありません。

唐突ですが、これからの時代は特に誰からも弱みを握られないように生きる必要があるかもしれません。
変に欲を出したり、色気を出したり、人を利用したり、傲慢になったりしないということです。
男は出世と色欲に弱いでしょうし、女は自分の子供とやはり色欲に弱いでしょう。
この世は誘惑だらけです。
誘惑に負ける道を歩いていて誘惑に勝てる勝算はありません。
誘惑に負けない道を歩くしかありません。

誘惑に負けない道とは何か。
仏教でいう八正道などは王道でしょう。
そこまではとてもと思うなら、自分を中心にする発想を捨て、目の前の他者のことを中心にして言動を組み立てる訓練が必要なのでしょう。
相手に合わせるという意味ではありません。
相手がなにを望んでいるかをくみとることです。
往々にして、人というのは自分がなにを望んでいるかさえ分からないものです。
目の前の相手が口先で言うことではなく本当はなにを望んでいるのかをくんであげること。
要は、相手に心を添わすことです。

そうしたところで、時にはせっかく心を添わせ、相手の望みに添おうと思っても、
相手からはそんなことは望んではいないだとか、勘違いするなだとか、いろいろ罵られるかもしれません。
感謝されようが、罵られようが、呆れられようが、結果はどうであれ心を相手に添い続けること。
それが難なくできるようになれば、誘惑が付け入る隙はなくなるでしょう。

心を添わせつつも、冷たく突き放すという局面もあるかもしれません。
なにをしてあげるかが大切なのではありません。
心を添わせ続けることが尊いことだとこのごろ思います。


修行

2009年06月06日 | スピリチュアル
今日も終日空は雲に覆われていました。
涼しくて過ごしやすい一日ではありました。

袴をネットで買いましたが、驚くほど安かったです。
で、ちょうど来週から禅道場で接心があるということを知りました。
ナイスタイミングです。

滝行も禅もそうですが、してみたいという好奇心と実際してみた心地の良さと学びの多さからぼくの場合は続けています。
必要があるからとか、心身修行のためとか、悟りたいからとか、験力をつけたいからとかいう理由はありません。
なにかの「ために」する修行というのは、もっとも修行の意義を損なう心の態度ではないかと思っています。
ためになろうがなかろうが、森林浴と同じように滝浴をし、草原に坐るように道場で坐る。
それ以上の意図はかえって邪魔になるでしょう。
なにかのためにとか、なにかになりたいというのは欲です。
欲を捨てる、あるいは越える経験というものはどういうものなのかを知りたくて修行するのに、
欲の大元を修行の現場に引きずり持ち寄ってはやはりダメでしょう。

日常そのものを大切に送ることが修行だとはよく言われることです。
それは本当にその通りです。
日々出会う人と一期一会の心で出会い尽くし、通り過ぎていく風景を味わい尽くし、自らの心象風景をも味読し尽す。
それができたら人生の達人です。
いつかそうなりたいものです。

ではなぜ修行をするのか。
山登りにも色々なルートがあります。
尾根道を辿る道、沢登り、ロッククライミングから、雪山登り、氷壁に覆われたエベレストまであります。
ぼくの場合は、いろいろなルートを試せる限り試してみて、そこで見える風景を経験してみたいということが一番の理由です。
色々な風景を見たからといって誰に自慢できるわけでもなく、実生活にそれほど役に立つことだとも思いません。
色々な映画を見てみたいということとまったく同じことです。

生きるというのは自分の目の前に広がっている風景を味わうことだと思っています。
成長するとは、目の前の風景がより深度と愛しさと広がりを持って行くことだと思っています。
さらには、より自分の志向する「美」の世界に自分の周囲の風景が近づいていくことではないかとも思っています。

おそらく日常というのは底知れぬ恩恵と美に溢れているはずです。
目が曇っているから、心が曇っているから、そうは見えないだけなんだろうと思います。
修行というのは一瞬だけでもその種の曇りから抜け出したと思えるよぷな時があります。
そんな経験は脳内麻薬の一種が出たに過ぎないといわれればそれまでです。
説明不可能な領域に説明不可能なまま身体を預けるだけです。
だから、お勧めはしません。
いや、一度は体験してみたらとは言いたくなりますが、責任を負えません。
どんな経験でもそうですが、どんな経験でもそれぞれの人の抱える心象風景というのは違うものです。
一つの経験で受け取る各人の感想やら印象やらはバラバラです。
ま、そんなバラバラな感想やら印象やらを乗り越えた本物に辿り着こうとするのが修行なわけですが、
そのあたりはそうしてみたいと思わなければそれだけの話ですから、説明がちょっと難しいです。

なんにせよ、明日も滝に行ってこようかと思っています。

いろいろなルートを試してみて、いずれ目の前の平凡な道が宝なの山だったと気づく日が来るのだと思います。
いまでもそうは思ってはいるのですが、ぼくの好奇心が冒険せよと命じます(笑)


2009年06月05日 | スピリチュアル
今日は一日中均一的に薄い雲で空が覆われていました。
梅雨入りしたのではないかと思うのですが、まだ気象庁の発表はないようです。
気象庁の発表があろうがなかろうが、梅雨めいた空模様ではあります。

なにか世間を流れる空気が少しずつおかしな具合になっているような気がしてなりません。
TVも新聞も見ていませんが、そんな感じがします。
変な事件が起きてもじわじわと変とは思わなくなっているような、そんな感じです。
変に慣れていくというのは、何一つ良い結果を生まないでしょう。
変なことに対しては変だと断固キッパリ言う立場が、変なことだらけの時代にはなおさら必要です。

市民の団結を叫ぶ人たちが、普通の市民の誰とも繋がっているようには見えないことや、
政府を口を極めて罵る人たちが、日常生活において社会生活にさほど貢献しているようには見えないことや、
愛をやたらに説く人々に特有な他人への無関心等など、色々変なことだらけです。

もうなにかを「叫ぶ」という必要はないのかもしれません。
他人に対して叫んだところで、叫ばれた他人は迷惑なだけのことが多いような気がします。
主義主張があるのなら、自分で黙々と実践する。
他人に押し付けることはしない。
そういうことなのでしょう。

他人に押し付けるほどの主義主張があると思う傲慢さは、自らを無力感と絶望と怒りの淵に追いやります。
花は自ら咲くことが一番大切です。
枯れかかった花が、傍らの花に咲き方を講習するほど馬鹿げた話はありません。
自ら咲く。
誰からも強制されず、脅かされず、咲きたいように太陽の下で堂々と咲く。
そんな感じで行きたいです。

エリ

2009年06月04日 | いい加減
「パパ、ムシムシさんがおるよ!」とベランダにいる娘が言った。
ぼくはちょうど煙草に火をつけたところで、「そ~ね、ムシムシさんがおるんね」と煙を大きく吐き出しながら言った。
「うん!」
地上8階にあるマンションのベランダの正面の数キロ先には小高い山が、ネス湖の怪物の背中のコブのように三つ連なっている。そのコブも今ではすっかり新緑の緑で覆われている。苔むしたネッシーの背中。
「パパ、大きいムシムシさんはどこ行ったん?」
「大きいムシムシさん?」
「うん!」
ぼくは立ち上がって、あと数ヶ月で3歳になろうとする娘の視線の先に焦点を合わせた。ダンゴ虫だ。別に小さくはない。普通のサイズの焦げ茶色のダンゴ虫だ。排水溝をいかなる困難にもたじろがずによじ登って8階のこのベランダまで登ってきたのだろう。
「パパ!」
「な~に?」
「小さいムシムシさんが泣いと~よ」
「小さいムシムシさんが泣いとるの?」
「うん!」
空は曇っていたが、山の方からからりと気持ちのよい風が吹いていた。麦の穂を焦がしたような色合いの細い娘の髪の毛がふわふわと揺れていた。彼女はダンゴ虫から目を離そうとはしなかった。
「なんで小さいムシムシさんは泣いとるの?」とぼくは聞いてみた。
「大きいムシムシさんがおらんから!ママがおらんから!」
「そーね、ママはどこに行ったんやろうね」とぼくは煙を吐き出しながら言った。
娘はじっとなにかを考えているようだった。ぼくはそんな娘の横顔を見ていた。
「パパ、ムシムシさんがゴハン食べよるよ!」
「そ~ね、ご飯食べよるね」と相槌を打ち煙草を灰皿で消してから、立ち上がってベランダのダンゴ虫に視線を落とした。ダンゴ虫は数日前に娘がベランダに吐き出したクッキー入りのチョコレートの残骸にへばりついて動かなかった。それでも目を凝らしてみるとダンゴ虫は触覚だけはせわしなく動かせていた。
「ムシムシさんがゴハン食べよるね~」とぼくは大袈裟に言った。
「うん!」

「パパ、じゅうじだよ~、エリちゃんがきたよ~」と言って娘は毎朝ふすまを開けてぼくを起こしに来る。
嫁の差し金だとは思うが、目覚まし時計で起こされるよりは何千倍もましだ。ぼくは子供のころから寝起きの機嫌が極端に悪いのだが、エリに対しては、毛布を剥ぎ取られようが、顔面を足で踏みつけられようが、灰皿をその辺りにぶちまけられようが、腹は立たない。不公平ということで言えば、これ以上の不公平は世の中にはありようがない。エリは誰がなんと言おうとも、彼女のすべての行いに対してぼくは許し、祝福し、応援する。でも、家族関係を抜きにした社会生活において、誰かが誰かにリアルな意味で「公平に」接している姿というのも見たことがない。それでも、何年後か、エリも学校に行けば「誰に対しても平等に」とか「思いやりの心をもちましょう」とか「明るく元気に楽しく」とか教えられるのだろう。それを教える教師が明るく元気に楽しく生きているとは思えない。学校に自分の子供たちを送り出すその親たちが平等を大切にしているとも、思いやりがあるとも、楽しさを重要視しているとはさらに思えない。親が子供に嘘をつき、子供を嘘を教える学校に送り出し、嘘を前提にした経済という渦に巻き込まれることを容認するのが、今という時代の平均的「ふるまい」なのだろう。

(続く)

グラン・トリノ

2009年06月03日 | 雑感
今日は一日中雨が降っていました。
一日中雨が降るというのは今年になって初めてのような気がします。
もしかしたら梅雨入りしたのかもしれません。
空と地面が無数の細い水の糸でつながれているような、そんないかにも梅雨らしい雨です。
テレビも見てないし、新聞もやめましたので、日本付近の大気の様子がどうなっているのかはよくわかりませんが。

先日、クリント・イーストウッド監督・主演の「グラン・トリノ」を観てきました。
数日以上余韻が残り、何度もある場面を回想せずにはいられない映画が名作とするならば、
「グラン・トリノ」はぼくにとっては名作でした。

まだ観てない人もいるでしょうから筋には触れません。
古きよきアメリカというものが実際にあったかどうかは知りません。
いつの時代も理不尽な暴力やら圧制やら悪徳やらに覆われているものだとは思います。
でも、ある時代を生き抜いた人には、生き抜くための誇りや勇気や注意深さが必要だったのであり、
その彼の誇りや勇気や注意深さを侮蔑するかのような「新時代」には我慢できないものなのでしょう。

戦後、戦地から帰ってきた日本の人々は戦争のことを語ることをためらう人が多かったようです。
彼らは日本に帰ってきて、祖国を覆う空気が戦前とは全く別物になっていたのを勘付いたのだと思います。
GHQによって圧倒的に推し進められる日本的なるものの解体を目の当たりにして、彼らは語る言葉を見失ったのだと思います。
ほとんどの人がそんな日本の現状に異議を唱えるよりも、黙々と日本を再建することに取り組みました。

そんな帰還者たちの子供たちがいわゆる団塊の世代といわれる人たちです。
彼らがどういう精神的バックグラウンドを呼吸して生きてきたのかはよく知りません。
爆発的に人口が増えた同世代の仲間と「新時代」を作ろうとしたことは確かなようです。
新しさ、珍しさ、自分らしさを競うようになりました。
誇り、勇気、注意深さなどという価値観は嘲笑されてドブに捨てられました。

まぁ、時代が変わるというのはそういうことです。
特に、戦争に負けた場合の敗戦国内の時代の移り変わりようは残酷なものです。
他国の占領下に入るというのはそういうことです。

で、「グラン・トリノ」です。
アメリカが物を作ることに誇り高い情熱を惜しげもなく注ぎ込んだ時代の傑作車です。
そのアメリカが今ではまったく物を作る機能を失ってしまったかのようです。
大手の自動車メーカーが相次いで倒産しています。
車社会というのは、アメリカンドリームの背景でもありました。
実際、アメリカという国は、車がなければ日常生活にも支障をきたす国です。
その車を作ることさえままならぬ状況にアメリカは沈み込んでしまいました。

名作というのは、映画のストーリーを越えていろいろなことを考えさせられます。



1Q84

2009年06月02日 | 雑感
村上春樹の「1Q84」を読んでいます。
この人の新作は必ず買って読んでいますが、毎回すげーやと思います。
スタイリッシュなオシャレ作家だと思われているようなふしもあるようですが、ぼくはそう思ったことがありません。

確かに彼の本の主人公たちはどういうわけか女性に好感を持たれ、バーでカクテルを飲み、ハードボイルドな断片的な会話を好み、
マヨネーズと辛子を塗ったパンでキュウリのサンドイッチをわざわざ自分で作り、都内の室内プールに通ったりするような、
キザといえばキザな男ばかりですが、現代の都会に誠実に生きようとする若い男の姿としてはむしろ自然に思えます。

居酒屋で仕事の愚痴を延々と垂れ流したり、友達と一緒につるんでナンパしたり、
妻からもらった小遣いで牛丼で昼飯を済ませたり、そういうリアルさというのも一方ではあるでしょうが、
そういうありふれた日常風景を文章で描かねばならない心的リアリティには欠けるでしょう。
描いたところでそんな文章を読みたいとは少なくともぼくは思いません。

彼の小説の主人公は群れません。
群れることによる心的偽装を完全に排除しているかのようです。
群れるということは、多少ともトリッキーな嘘が混じり、引きつった笑いが混じり、後悔と疲弊感が混じりこみます。
嘘をつかないで生きたい、すくなくとも自分の知りえる限りでは嘘をつかないで生きたい、そう思っているかのようです。
ですから、誠実でない(=人を利用するとか)他人の態度や無責任さには、時として激しい怒りをぶつけます。

彼の小説に通低するテーマの一つは「暴力」です。
肉体的な暴力、精神的な暴力にこの世は満ち満ちている。
群れずに、ひっそり生きることによりそういう暴力的世界を巧妙に回避して生きているにもかかわらず、
暴力的世界は否応なしに主人公たちを取りこんで行きます。
底なし沼のような暗闇の底までも引きずりこまれていきます。
彼の小説の主人公たちは精神的にはとてもタフです。
闇の底でも目を見開いて闇の切れ目から差し込むかもしれない光明を捜し求める勇気を決して手放しません。

何もかも相対化され、生き生きとした意味という意味がすべての事象と言葉から剥ぎ取られたような現代社会を舞台にして、
上質なストーリを創作するというのは、とてもとても難しいことです。
まだ上巻の半分を読み終えたところですが、先が楽しみです。


造形

2009年06月01日 | スピリチュアル
若葉が萌え盛り、心地よい風が吹き抜ける今日この頃です。
今週末くらいから梅雨入りしそうとのことですが、晴れて良し、雨もまた良しの心境の真似事でもしてみます。
でも、実際雨降りの日ってそんなに嫌いではありません。
雨に降り込まれて、街道筋の茶店に駆け込んで、ところてんを啜るという感じの江戸時代が羨ましいくらいです。

どうにかこうにか決算を仕上げました。
毎年のことながら、心身ともに疲弊します。
そこで、大いに疲弊しつつも、書式その他を整えて、今年度からは明快すっきりなシステムにしました。
こういう感じのグタグタの決算の経験はこれで最後でしょう。
うふふふ。

なにを今頃と思うでしょうが、ものごとの推移には何事も適切な時節というものがあります。
適切なシステムが有効に作動するには、適切なシステムが有効に作動し始める時節というものがあります。
最初からすべて完璧に作動するシステムというのは、人間の無限の可能性を無視し侮ったものです。
例えるなら、砂場の砂山を作るのに完璧なシステムを考え出すようなものです。
いくら完璧なシステムで作った砂山でも、悪戯小僧が両手で引っ掻き回せば一瞬にしてその造形は消え去ります。

主題は、システムの構築でもなければ、システムの保全でもありません。
なにを造形したいのか。
その一点です。
なんらかを造形したいという意志こそがすべてです。
システムそれ自体はその造形への意志に対する奉仕者に過ぎません。
奉仕者が主役になれば、主体者である人間は疲れ倦み果てることになります。

と、決算が終わったとたんに勝手なことをほざくのが人間というものです(笑)

で、日々我々はなにを造形しようとしているのか。
悲惨な現実。
浄土楽土。
混沌。
なんでもありです。
なんでもいいのですが、それを造形しようとした自分がいるだけです。

なにを造形してもいいのですが、それは誰の責任でもありません。
責任とは誰かに負わせるものではなく、あくまでも自分がなにを負うのかに
尽きるのだとぼくは思っています。