風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

振り返れば、偶然

2006年01月31日 | 雑感
滝行がご無沙汰と書いて舌の根も乾かぬうちに、昨日、滝に打たれて来ました。
すっかり身体は腑抜けになっていて、そりゃもう、なかなか辛いものがありました。
お経を唱えようにも大きな声が出せず、水の中でじっとして、ひたすら腹の力を抜きました。
冷たさを感じなくなると同時に、久しぶりの滝との一体感を感じることが出来ました。
やはり、いいものです。

気温が高いという予報も前日に出ていたので、行こうかなぁとは漠然と思っていたのですが、
目覚ましも掛けることなくそのまま寝ました。
すると、仕事上で待ちに待っていた人から、朝の6時半に電話があり、起きたついでに滝に行きました。
朝の六時半にその人から電話を受けることなど、ちょっとありえないのですが。
その人も、ぼくが寝坊助であることを重々知っており、留守電にメッセージを入れようと思っていて、
ぼくが電話に出たことにびっくりしていましたが。

なんにせよ、おかげ様で、久しぶりに滝に入ることが出来ました。
で、帰って、熱いシャワーを浴びて、少し布団に横になろうと思ったら、2時間ほど爆睡してしまいました。
そりゃもう気持ちのいい眠りでした。

明日から四国へ一週間出張です。
昨日の昨日まで商品が揃わなくてどうしようかと諦めかけていたのですが、
昨日一日で二人の人から商品をあれよあれよと調達することが出来ました。

何から何まで流れるように偶然が運んで行ってくれます。
こういうときは気をさらに引き締めて、憎上慢の罠に陥らぬようにしないと危険です。

ぼくの扱っている商品柄、行ってみてお客さんの相手をしてみないと、売れるかどうかまるで予測がつきません。
とてもスリリングです。
スリリングな状況の中で、するべきことをするだけなのですが、自分の心のコンディションが重要です。
自分の心の波動が悪いと、お客さんは一瞬にその心の乱れをキャッチし、引きます。
お客さんも緊張してますよね、そりゃ。
あくまでもぼくの心は泰然自若、春の山の如しとしていなければなりません。
そうなろうというのではなく、そうでなければなりません。
なかなか修行がいります、こう見えても。

デタラメに起きているように見える身の回りの偶然も、実は何一つ偶然はないのだということはもうぼくの確信です。
ただ、次に何が起きるかは予知することは出来ませんので、起きた偶然に対して誠実に対処するだけです。
いいことだけではもちろんなく、トラブルや悩み事も次か次へと起きてきます。
誠実に対処していくだけです。

今日、手紙を二通書きました。
これは放っておくと、大きなトラブルになる可能性のある事柄に対して、そのままぼくの思いを伝えました。
それでも尚大きなトラブルに発展するかもしれませんが、そのときはそのときでまた誠実に対処するという、
覚悟を持っているだけで大分状況が変わってきます。
状況に振り回されるのではなく、状況をコントロールする側にならないと、なかなか人生大変です。

そのためには、嘘が一番よくありません。
状況をコントロールするどころか、状況を無駄に重苦しく不愉快なものに変質させるだけです。
それから、結果を焦らないことです。
結果はあくまでも結果がでる時にでます。
当たり前なのですが、その当たり前を覆して、結果を性急に欲しがるのも人の常です。

なんか今日は説教臭が濃いですが、自戒の意味が多々ですので、そこのところはあれしてください。










2006年01月28日 | スピリチュアル
今日だと思っていましたが、明日が旧暦の新年です。
それぞれの人がそれぞれの運に乗って、どんな風な年になるのでしょうか。
良いも悪いもその時々の心の持ち方しだいですから、誰もがよい年であったと言えればいいですね。

さて、最近は滝行がご無沙汰です。
風邪がシツコク体の奥に残っているような感じがしているので、ちょっと控えています。
なんやかやと忙しいのもあります。
来週には一週間出張に出ますし。
でも、時々ふと滝に無性に行きたくなる時もあります。
今が春なら間違いなく行っているのですが(笑)

今、滝の仲間が3人「行」に入っています。
21日行が一人、100日行が二人です。
厳寒の時期の「行」は、掛け値なしの本当の「行」です。
みんな、頑張れ頑張れ、です。
ぼくは、今はちょっと現実世界で頑張らなければならないようです。

「行」が明けるときの気持ちというのは、ちょっと言葉では言い表せないものがあります。
ちょっぴりの誇らしさと、深い満足感と、何よりも感謝というか。
うーん。
その道を通ってみなければ分からない気持ちというのは、やっぱりありますから。
最終日、今まで打たれ続けた滝の姿を見るとき・・・。
うーん、これは人それぞれでしょうし、これ以上は言いますまい。

「行」を再度説明します。
・何があろうがなんであろうが、定められた滝場に必ず毎日行き、滝に打たれる。
・肉、酒、異性を絶つという禁戒を守り抜く。

やり終えてみれば、どおってことがないと思われるのですが、「行」の最中はそうも行きません。
煩悩が波のように高まってくることもあります。
一日も休めないというプレッシャーも初期にはあります。

ま、そのほかにもいろいろあります。
体は確実に慣れていきますが、心は慣れるということがなく、毎日毎日変化します。
そのうちその心の変化も気にならなくなったりもします。
霊的なことがあったり、なかったりもします。
毎日一日として同じということがありません。

滝というのはある意味強烈なだけに、「行」としてはかなり密度の濃いものだと思います。
なかなか得がたい体験であることは間違いありません。

でも、「行」というのは、他人に強いる事が出来るものではないのも確かです。
なんというか、必要性というよりも、「縁」がないと、「行」というのはいることの出来ない世界だと思います。
そのあたりは、もうなんというか、一人一人のケースバイケースで、説明不能です。

とにもかくにも、みなの満行(「行」完遂すること)を心から願うばかりです。



決意

2006年01月27日 | スピリチュアル
「わが炎によって 暁を招来せよ」  ヘルダーリン

そうです、今日の日めくりです。
またまた、シブイ言葉です。
自分の一人の力なんか社会にとっては何の力にもなりえないと侮ってはいけません。
大体、一生のうちで人間は何人くらいの人と関わって生きていくのでしょうか。
家族、親戚、友人、職場、取引先、先生、趣味仲間と広げていったら、少なくとも数百人にはなりそうですね。
その一人一人が関わる数百人か数千人の人たちに、ぼくやあなたは確実に影響を与えます。
挨拶の仕方一つでも影響を与えます。
受身で関わっているよりも、積極的に関われば、さらに影響力は増します。
その奥に、愛というか菩提心があれば、さらに関わりは豊かなものになります。
その愛なり菩提心が本物になればなるほど、その豊かさは深まります。
そういうことだと思うのです。

自分の力を侮らず、愛や菩提心を本物に磨き上げたのが、キリストや仏陀でなかったかと思います。
彼らは社会を変えようというよりも、出会う人一人一人を救っていきました。
そうして救われた一人が、さらに出会う人一人一人に師の教えを説きました。
そうして、瞬く間に、愛や菩提神の教えが広まりました。

自分が出会う人一人一人との関係がすべてのベースになっているんですね。
一対一の関係からすべてが始まっています。
そこをはしょってというか、侮っては、どこにも道は通じなくなるのではないかと思います。

ぼくなんかはすぐにどこか遠くの理想論に逃げ込むのが得意中の得意です。
目の前の対人関係から目をそむけ、逃げ出すのが得意です。
こんなんだから、どこへも行けなくなってしまいました。

好き嫌いもありますし、相性もあります。
めんどくさいという怠け心もありますし、どうだっていいやという歪んだ心もあります。
それをそのまま自分に許して、自分の心というものに諦めをつければつけるほど、歩くべき道を見失っていきます。
怠惰と退廃が残ります。

炎を燃やすか消すかは、一人一人の決意にかかっています。
世の中には、一見、人のせっかくの決意を踏みにじるような出来事に充ちているかのようにも見えます。
それでも、炎を燃やすか消すかは、一人一人の決意にかかっています。
愛や菩提心こそが世の灯火だと信じる勇気と信仰心がないと、なかなか決意を保てません。

決意というものがまったくないぼくが言うのもなんなのですが。

「障り多ければ 徳多し」という言葉があったと思います。
自分の障りの多さをそんな言葉で慰めます。

どんなに業が深かろうと、障りが多かろうと、道は歩いていかなければなりません。
次々と目の前に立ちはだかる自分の至らなさを思い知りながら、それでも前に進むという決意、
それ位はどうやら持て始めたような気はしています。

青い鳥

2006年01月26日 | 雑感
さて、出張から帰って来たわけですが、顔がむくんでいます。
鏡を見ると、自分でも笑ってしまいます。
酒飲み親父の末路みたいな顔をしています。
まぁ、それはそれです←ナニガ

というわけで、帰ってきたら、アイカさんのコンサートのチラシとチケットが出来上がっていました。
早業です。
しかもナイスタイミングです。
このコンサートをすると決めてから、おそらく一月ちょっとしか経っておりません。
その間に起こる神がかりの偶然を上げていったらキリがないほどです。
傍から経緯を見ていて、へ~と感心するばかりです。
新聞社も告知してくれるそうです。

2月11日土曜日、建国記念日、午後2:00~3:30です。
お誘いあわせの上、皆さん来て、観て、感じてください。

そうそう、昨日の日めくりを見たら、この日めくりのなかで多分一番カッコいいと思った言葉でした。

「あるのは目標だけだ われわれが道とよんでいるものは ためらいにほかならない」 カフカ

もう、カッコよすぎて髪の毛をごしごし洗いたくなります。
目標と一体となっていれば、すべての行為・思いが目標そのものとなっていくわけです。
シブイです。
シブ過ぎます。

普通こうはいきません。
自分のなかのためらい、迷い、疑念、臆病等々と常に格闘しながら、一歩一歩歩みを進めます。
一歩一歩歩みを進める跡には道が出来ます。
そんな迷い多き道など、眼中にないということです。

そういわれれば、迷いはどこまで行っても迷いです。
迷いながら道を歩み続けるということには、歩む味わいというか、そんなのはありますが、
目標と一体となるという高速な生き方も、あるいはありえるのかもしれません。

まぁ、時代の流れの要請ということも大きなファクターとしてあります。
時代が緩やかに上昇する時などは、一歩一歩踏みしめて歩いたほうがなんだか楽しそうです。
逆に、大きな変革期などは、目標一体、高速な生き方が必要とされているのかもしれません。

そうすると、今なんかまさしく変革期であるのは間違いないような気がしています。
そんな時に、なんというか、人生を掛けるにたる「目標」を持てるかどうかが、大きな分かれ目になりそうです。
その目標の大小は関係ありませんね、まったく。
自分の心の奥底から、したいことというものを見つけ出す以外にありません。

したいことを探し出すというのは、簡単そうで一番難しいですね。
若いころはまず外を一生懸命探します。
キョロキョロあれでもない、これでもないと探し回ります。
そのうち、生活の安定、つまりお金ということが目標探しに絡んできます。
なおさら、本当の目標というものが分からなくなります。

で、目標が見つからないと心底見極めた時、本当の目標というものが見えてくるような感じがします。
皮肉なよう話ですが。
青い鳥探しは、時代の変遷に関わらず人の宿命ですかね。





2006年01月21日 | 雑感
ライブドア周辺がずいぶんとキナ臭くなっています。
巨額の資金が動いていましたからね。
キレイなお金だけではないのでしょう。

えーと、明日から出張に出まして、水曜日の夜に戻ってきます。
なんか去年の暮れからずっと慌しいです。
長い間、お客さんが驚くくらいに超のんびりやってきたので、こういう感じはなかなかあれです。

ここ何日か12時間寝ています。
寝すぎという感じはなくて、ちょうどいい感じです。
幸せです←バカ
なんか気が落ちているような落ちていないような、中途半端な感じです。
こういうときは、考えること、思うことも中途半端です。
物事をスパスパ切っていく切れ味に甚だ欠けます。

人のコンディションって毎日ころころ変転します。
同じ日がありません。
同じ日がないから苦しいのか、同じ日がないから楽しいのか。
その人の置かれた状況によって、意見が分かれるところです。
いずれにせよ、いちいち自分のコンディションごときで一喜一憂しないことが大切かと思います。

人にもコンディションにも波があるように、人を取り巻く状況にも波があります。
関わっている人の波もあります。
多種多様な波が重なり合って、今この瞬間の自分という現象があるわけです。
そういうのって面白いなーと思う反面、しんどいなーと思う自分もいます。
いろいろな波が押し寄せるなかで、自分を見失うと、波に溺れるのでしょう。
どうも、押し寄せる波に抵抗すると溺れやすいようです。
身を任せてしまえば、少なくとも身は浮きます。
水面から顔を出し、周囲を冷静に眺め回す余裕はあったほうがいいのかもしれません。

なにをしてもうまくいく潮目のこともありますし、反対に何をしてもど壷にはまる潮目もあります。
どちらにせよ、あわてて手足をばたばたさせず、潮目を読んで、次に来る波の予想を立て、果敢に対処する。
そういう風になれるものでしょうか、分かりません。

禅などでよく使われる「無」という言葉があります。
これはもちろん「虚無」という意味ではありません。
「ある」ということもないけれども、「ない」ということでもない不思議な境地です。
全てが発生すると同時に、全てが消え去る場とでもいいましょうか。
もともと発生もしないし、消え去るということもないという風にもいえてしまうので、なかなか捕まえにくい境地です。
人の精神的なもの、心的なものがそのなかで明滅を繰り返す場であるのは間違いなさそうですが。

で、その「無」なのですが、「身をまかせきる」というところに、その境地を垣間見ることが出来るみたいです。
「一切の計らいを捨てる」といってもいいし、「無念無想」も同じことです。
そういう境地に入れば、どんな波がきても溺れるということはなくなります。
ビシッと潮目が読め、天空に輝く太陽を見ることも出来るし、風の匂いさえ嗅ぐことが出来ます。
そんな感じなのかなぁと思っています。

でも、まぁ、波に溺れかけてじたばたするのも人生の醍醐味であったりするわけですけどね。

あ、そうそう、アイカさんのコンサートのチラシが出来上がりました。
みなさん、お見逃しなく。
このチラシ、最後にはプロの方がちゃっちゃか作ってくれました。
ぼくは「カトリック教会」であるべきところを「カソリック教会」と伝えていて、土壇場で訂正してもらいました。
アイカさん、デザイナーのMakikoさん、大変ご迷惑掛けました

こうして、いつだってじたばたするわけです(笑)





源(ミナモト)

2006年01月20日 | 雑感
せっかく買った手帳に、ここ何日か書くのを忘れていました。
危ない、危ない。
今日から復活です。

また寒波がやってきているみたいです。
風邪を引きかけや治りかけの人が回りにたくさんいます。
なんだか今年の風邪は長引く傾向にあるみたいなので、気をつけましょう。オレモナー

さて、年初から、ヒューザーだのライブドアだの、立て続けです。
濡れ手に粟商法が音を立てて崩れている様を毎日テレビで見るわけです。
安全性を無視して高騰し始めた鉄骨材を減らして平気だったり、
人から集めた金で人が作った会社を買い漁って、それを種にまた人から金をかき集める。
全くの個人の責任だとは思いませんが、外道が大手を振るっていたとしか言いようがありません。
法を犯さなくとも、天の摂理からは外れまくっています。
崩れないほうがおかしいのですが、崩れないと思う人が増えているのかもしれません。

サラ金の野放しだった部分の金利にも法の網がかかるみたいです。
例のごとく、司法が動くのが遅すぎるくらいなんですが。
これでテレビにバンバン流れるサラ金のCMも減るのかもしれません。

CMと言えば、深夜などは、パチンコ屋、パチンコメーカーのCM花盛りです。
法的にはパチンコは賭博ではないのだそうです。
パチンコ利権というのは警察がからんでいるのだそうです。
ここも早晩メスを入れなければならないのですが、どうなることやら。
何しろ巨額ですし、脱税、北朝鮮などもからんでいたみたいで、闇が濃いです。

私見では、去年辺りから天の摂理に反したものは、どんどん淘汰される流れに入ったと思っています。
淘汰される流れのなかで、いろいろな膿というか、悪あがきというか、そんな負の部分も表面化してくるでしょう。
表面的には暗い世相になるのでしょうが、裏面では淘汰が進むわけですから、正の部分が芽吹く時でもあります。
どちらに目を向けるかで、人生の向かう方向が変わっていくのだと思います。

それにしても、組織の自浄作用というようなものには全く期待できなくなりましたね。
昔からそうなのか知らん。
リーダー個人の倫理観というものでしか、組織というものは変わらないものなのでしょうか。
そうだとすれば、かなり情けない状況ではあります。
ここまで生き方の選択の自由度が高まっているにもかかわらず、知らぬ存ぜぬで保身に走る人が多いのだとしたら、
選択の自由の価値を自ら貶めていることになります。
一人一人が世界の源だと自覚する必要がありますね。
どっかのセミナーみたいな言い方ですが。

というような世相を横目で眺めつつ、ぼくはといえば、日々の雑事に追われるわけです。
ただ、どんな雑事であろうが、その雑事一つ一つに必ず人が絡んでます。
自分が絡む人、一人一人と交差します。
その一人一人との関係を、大事にするか、流してしまうかなのだと思います。

「一人一人が世界の源」

そう思っていれば、だれかわけの分からない人に引っ張られてしまうようなことはないはずです。
ぼくもあなたも、彼や彼女も、一人残らずみんな世界に参加し、世界を動かしているわけです。
楽しみましょう。








環境

2006年01月19日 | 雑感
遅い昼食を食べに行き(喜多方ラーメン発見!)、ぶらっとパチンコ屋に入ったら、いきなり13連荘してしまいました。
千円使って、6万8千円になりました。
こうやって、無駄に幸運を使い果たします。

安いからというので、中国製のコーヒーメーカを買いました。
10回くらい湯通しして、20回くらいコーヒーを沸かしたのですが、まだ薬臭いです。
プラスチックとステンレスなのに、どういう薬の染み込み方をしているのでしょうか。
捨てるしかなさそうです。

数ヶ月前に買った掃除機も中国製でした。
綿ぼこりも吸い取りません。
欠陥品かと思い、同じものの新品と交換してもらったのですが、同様でした。
仕方がないので、国産品を買いなおしました。

家電製品などのメーカーに、あんまりこだわりはないのですが、こうなるとやはり国産品しか買えなくなるかもしれませんね。
膨張する中国経済ですが、どうにもこうにも危ういです。
コーヒーメーカーに染み込んだ薬品もかなりの刺激臭がするわけですが、無害であるはずがありません。
綿ぼこりさえ吸い込まない掃除機は、買った人にかなりの精神的ストレスを与えるはずです。
ネットで、中国の工場地帯の川の汚染具合を見たことがありますが、絵の具をそのまま流したような色をしています。

こないだぼんやりテレビを見ていたら、空気や水を清浄化するのを、もし人為的にそれをするとして、
経済コストを換算すると、何兆とか何十兆とかがかかるのだそうです。
それはそうでしょう。
森や海は空気や水を清浄にするだけではなく、酸素を供給し、生き物をはぐくみ、大気を循環させています。
それを全て人為的にするとしたら、魚一匹作るために、何億というお金が必要かもしれません。
何億掛けても、作れないと思いますが。
そんな環境では、そもそも作ろうとする人間が死に絶えています。

自然環境というのは、そういう経済的観点から見ても、非常に高価値なインフラであることがようやく言われ始めています。
ところが、中国はその真逆の道を物凄いスピードで走り始めているような気がしてなりません。

それから肉食です。
牛一頭育てるのに、とうもろこしやら、穀類やら、どれだけの飼料が必要なのかはわかりませんが、
おそらくステーキ一枚で、一人の人間が何年かは生きていけるだけの穀物が使用されているのではないかと思います。
肉を食べる人が多くなればなるほど、大量の穀物が人間にではなく、牛に回されます。
広大な牧草地に穀物の種が植えられることもありません。

そういうことは、学者も官庁も知っているはずなんですが、期待できませんしね。

我らが農漁村再生プロジェクトの真価が問われる時です。
燻製作りの道具は山ほど買い込みました。
あとは、ぼくがやる気を出して作るだけです。
畑を作る用地も確保できました。
あとは、作る人を探すだけです。

そうです、まだなにも始まってはいないです。
そこで、簡単にはくじけないのがミソです。

同じような思いをもっている人たちが、どんどん先に進んでいるようです。
あちこちで、若い人たちがおいしい燻製や、ジャムや、乳製品や、有機野菜を作り始めています。
ちょっと悔しいですが、怠け者ではない人たちが、まだまだ日本には多いということなのでしょう。
負けずに頑張ります。






喜び

2006年01月18日 | 雑感
Aikaさんのコンサートのチラシはプロの登場で急速に完成度の高いものとなりました(笑)
なんにせよ、良かったです。

あとは集客です。

ネネさんの急な提案によって、天野良子さんによるテルミンの素敵な演奏もあるようになりました。
テルミンというのは、棒を二本立て、その棒に触れることなく音を出す電子楽器です。
なんか神秘的らしいです。

あとは集客です。←シツコイ

でも、真面目な話、本当に聴きに来てくださいね、心ある皆さん。
うっとりとなりますから。

さて、ぼくはお客さんから差し入れてもらったパンを食べながらこれを書いてます。
何を書こうかな~と思っているわけです。
書くことがないわけではないのですが、ありすぎて選べません。
こういうときは日めくりです(笑)

「苦悩は弱き者にとっては閉ざされた扉であり 強き者にとっては開かれてゆく扉である」 アルマフェルテ

「喜べ!喜べ!人生の事業 人生の使命は喜びだ」 トルストイ

加えるべき言葉もありません。
でも、何か加えます。

「人生の使命は喜びだ!わははははは」と言うだけ言ってれば良いという意味ではありませんね、もちろん。
事業というからには、事業の起承転結を全うしていくという意味があるわけですから、
起承転結を全うしていくなかでの「喜び」だということです。
というか、人生という事業の起承転結そのものが、「喜び」だということでしょう。

で、どんな事業の起承転結でも、それぞれの節目には、「扉」が待ち受けているものです。
その扉を果敢に打ち開いていくことが「強者」の条件であり、扉の前で立ちすくむのが「弱者」となる条件となるということでしょう。

時として、思いもかけない大きさのハガネのごとき扉が前途に立ちふさがることがあります。
だれでも、ひるみます。
ひるんでもいいのですが、その前でしゃがみこんで泣きじゃくってはいけません。
無駄かもしれない、押し潰されるかもしれないといった不安や恐怖に打ち勝って、とにかくその扉をこの手で押すことです。
押すと、扉は開くものだということを、「強者」は知っています。
押して開かない扉などないということを、「強者」は知っているわけです。

そういうことだと思います。

うーん。
いわずもがな、ですね。

最後にもう一つ。

「あなたの心を最も気高いものの上に固定することだ そうすればあなたは最も気高いものを見ることになる」
                                ジェームス・アレン








完成度

2006年01月17日 | 雑感
お客さんがどっかの地ビールだかなんだかというビールを持ってきてくれました。
でもちょっと忙しかったので、気配を察したのか、気を悪くしたのか、すぐ帰って行きました。
こういうことって、多いんですよね、ぼくの場合。
気分にかなりムラがあるので(基本的に我慢できない、無理できない)、誰か安定した精神の持ち主の女の子でも雇って
本格的にサポートしてもらわねばならない段階のなかもしれません。

展示会のDMは印刷に回しました。
写真取りには手間がかかってしまいましたが、構想5分、下書き10分、打ち合わせ3分で、DM作成完了です。
こういうやっつけ仕事は得意です。
DMを作るのにあーでもない、こーでもないと数日から数週間悩む人がぼくの周りにもたくさんいました。
完成度の高い物を作りたいというのはよく理解できます。
が、完成度などというのは、考えれば考えるだけ遠くに逃げ去るものです。
手が届きそうで届かないのが完成の姿です。
完成を追及するゲームは魅力的ではありますが、DM作成でそれをしようとは思いません。
ぼくのようにピンボケした写真を平気でDMに使う人は稀でしょう。
ぼくはそれを「味」と呼びます(笑)

ようするに、ケースバイケースなのですね。
ぼくのような小さな店は、DMの細部の完成度よりも、どんな目的の展示会をするのかを明確に伝えたほうがいいです。
反対に、店の規模が大きくなればなるほど、DMのセンスや完成度はより重要なお客さんに対するメッセージになっていきます。
規模の大きい店がピンボケした写真を使って、「味」と評価される可能性は限りなく0に近づきます。

逆に、ぼくのような店が、気合の入ったDMを作ったところで、それに感心して購買に結びつくということはまずありません。
絶対無いとはいいませんが、まずありません。
基本的なセンスが無難で、不愉快な背伸びや衒いがなく、笑って済ませられる程度のごまかしがある。
ようは、シンプルなものが一番簡単で、無難です。

というわけで、あとはAikaさんのコンサートのチラシの印刷をとっとと済まさなければなりません。
これはぼくのDMほどいい加減に造るわけにもいきません。
Aikaさんはこれでいいといってくれましたが、ちゃんと見ていないに違いありません(笑)
お客さんの一人が、見てくれるというので見せたら、赤ペン入りまくりです。
そりゃぼくだって、プロのコンサートのチラシくらい見たことがあるし、あれだしこれだしと、少しむっとします。
でも、ぼくは大人ですから、ありがたくそのお心をいただいて、黙ります。
なにせ、時間がもうありません。
来週初めからぼくは出張に出かけますので、今週中に印刷にどうしても回さなければならないのです。
予算はカラー印刷1000枚で、なんと12000円だそうです。
コンビニでカラーコピーするより、約5分の一の値段です。
あれこれ、無駄な完成度の追及よりも、優先すべき条件が山積みなのです!
と、大人のぼくは冷静に判断するわけです。

大体、ネネさんにしても、Aikaさんにしても、なんだか底知れずおっとりした人たちです。
あはははと笑っていれば、幸せがやってくる人たちです。
これは皮肉でもなんでもなく、そういう珍しい人たちが揃ったのです。
それで、ぼくはといえば、底無しのめんどくさがりやなわけです。

ま、とにかく明日はネネさんと会って、その他諸々、全ての決着をつけておかないといけません。
ネネさんはチョコレートをかじりながら、「へー、そう」とか「ふーん」とか素晴らしい返答をくれるに違いありません。

心ある皆さん、チラシが出来たら獅子奮迅のご協力をお願いします。















コンサート

2006年01月16日 | 雑感
昨日はA氏の田舎で、農漁村再生プロジェクトのメンバーの新年会でした。
数日振りに飲んでも、風邪はぶりかえしませんでした。
めでたし、めでたし。

店の梅は土曜日に満開を迎え、今日来てみたら、散り始めていました。
店の中は暖房が効いているので、早く散ったのでしょう。
でも、梅って、どばっと一斉に咲いて、あっという間に咲き崩れていくんですね。
桜以上のはかなさでした。
店の中が暖かすぎたせいかもしれませんが。

今日はなかなか忙しかったです。
3月の展示会のDMを作りました。
商品撮影の接写できるカメラがないので、ビデオカメラを買っていたのを思い出し、
試してみたらいけそうなので、マニュアルをあちこちめくりながら撮影終了しました。
半年前に買ったビデオカメラを今日始めて使ってみたわけです。

それから、2月の建国記念日に行うAIKAさんのコンサートのチラシの原稿を作りました。
実は今日、会場に予定していた教会側から、使用許可が下りたのです。
期日が迫っていますが、これはとても心地の良いコンサートになると思います。
交通の便がよいとはいえない 、こじんまりした教会ですが、すっきりとした感じの良い教会です。
皆さん、ぜひ見に来てください。
観ないと後悔するはずです。

AIKAさんのコンサートに先立って、ネネさんの奉納舞も同日にあります。
これも見逃すと手痛く後悔するはずです。

なぜAIKAさんが、こんな地方の、名も知れない(失礼!>神父様)教会でコンサートをすることとなったのか。
いろいろ言いたくてうずうずするのですが、ネネさんやAIKAさんから話があるかも知れませんし、ぼくは黙っておきます。

とにかく、建国記念日です。
アメノウズメといわれるネネさんが、神社で舞を奉納します。
今年は天岩戸が開く年だと一説では言われています。
そこで、同日、アマテラスといわれるAIKAさんが・・・

なかなかこういう、なんというか、神事というか、スペクタクルというか、そういう類のイベントというか、
そういうものに出会えることはありません。

高千穂神社の宮司さんも賞賛するネネさんの奉納舞と、世界中の聴く者の魂を捉え続けるAIKAさんの歌声のコラボレーションが、
こんな冴えない(失礼!>この街の人)小さな街で観れるというのは、なかなかありません。

と、書いていたら、AIKAさんから電話がありました。
初めて会話らしい会話をしました。

考えてみると、ぼくはコンサート運営なんかに関わったことはありません。
なんで会場選びやなんかを何の知識もなく関わっているのか、不思議といえば不思議です。
無謀といえば無謀です。
無責任といえば無責任です。

でも、なんか上手くいくはずだというような気分が抜けません。
規模は小さくとも、暖かく大きな光が、神社の神殿に、コンサート会場に溢れることを確信しています。










2006年01月14日 | 雑感
風邪でダウンしました。
熱っぽいと思って計ってみたら、39度4分ありました。

前のプログで書いたとおり、なんか身体が不調だったので、帰って水シャワーを浴びました。
なんかぞくぞくと嫌な感じがしたのですが、そこは滝の行者(笑)、無理やり入ったわけです。
そしたら、身体が猛烈に反応しだして、咳が出るわ、熱は出るわ、意識は朦朧となるわで、二日間寝込みました。

布団のなかで意識がうつらうつらしている時のヴィジョンです。
大きな赤い光の玉があります。
その玉に次から次へといろいろなものがぶつかってきます。
ぶつかった瞬間に有無を言わさず、中和されて、存在が消滅していきます。
そのいろいろなものは、そのものなりにみな存在理由をもっており、その存在理由を主張します。
その主張に一切耳を貸すことなく、光の玉はいろいろなものを片端から消していきます。

身体が熱を発して、ウイルスなり細菌なりと全力で戦っている時というのは、こういうことなのでしょう。
ちなみに、がん細胞もある程度以上熱が上がると、死滅するとどこかで聞きました。

年末から年始に掛けて、ずっと飲みごとが続いて、身体が弱っているのを感じてはいました。
ここでダウンすることによって、自分のなかの光の玉が一気にもろもろの毒素やなんやらを駆逐してくれたのなら、
ありがたいことです。

ちなみに、今朝体温を計ってみたら、35度4分でした。
4度の体温差というのは、なかなかトリップフル(←造語)な体験かもしれません。

それから、今朝シャワーを浴びようと思ったら、ガス温水器の調子が悪くお湯が出ません。
仕方がないので、水シャワーをいやいや浴びました。
お湯がないのに、髭さえ剃りました。
冒険家です(笑)

さて、久しぶりに、日めくりです。
しばらく見ないでいたら、シブイ言葉が立て続けに並んでいました。

「一日一日を愛するのだ一日一日を尊敬するのだ」  ロマン・ロラン
「魂の力というのは結果によって立証される」  アラン
「未来に先送りしていることにすぐ着手せよ」  ペトラルカ

この辺で止めておきます。
「魂の力というのは結果によって立証される」というのは、厳しくとも真理なのだと思います。
結果を作るというのは、必要な過程を必要な努力と能力をもって、成し遂げることです。
そこに言い訳やら泣き言やらが付け入る隙はありません。

ここで注意点としては、大事業や政治的な偉業やらだけを「結果」として捉えてはいけません。
心豊かな家庭を作ること、自らの生業(ナリワイ)を誇り高きものに仕上げること、人に喜ばれること、
等々、自分の身の回りのこと一つ一つが「結果」です。

料理一つ作るのでも、同じ材料、同じ手順で作っても味が違います。
作る人が、どれだけの作るものに対して思いを持つかです。
思いが強ければ、工夫する余地が、火加減、調味料を入れるタイミング、料理を出すタイミング、と及んでいきます。
言うなれば、「魂の力」というのは、「思いの強さ」と同義なのかもしれません。
だだ、思いの強さというのは、我の強さからも出てくるわけで、そこの区別は難しいわけなんですが。

「魂の思い」と「我の思い」の違い。
これは簡単に言ってしまえば、人を幸福にしたいという思いなのか、自分を幸福にしたいという思いなのかの違いでしょう。
人の幸福と自分の幸福も重なるから、また話はややこしいのですが、自分というものがクローズアップされて、
他人が自分の幸福を実現するための駒とうか材料にし始めたら、それは「我の思い」でしょうね。
他者に奉仕することを通じて自分「も」豊かになっていくというのが理想でしょうか。

奇麗事に聞こえるかもしれませんが、小さい商売をしていますと、そんな感じでしかお客さんと繋がらないという感じがします。
その「魂の思い」が不十分だからこそ、いろいろと苦労しているんですが(笑)

というわけで、ここ2日間ほどお酒を抜きました。
なんかいい気分です。
タバコは耐え切れず復活しましたが。

そうそう、我らが滝仲間Qちゃんが11日から100日行に入りました。
100日と一言で言いますが、3ヶ月強です。
その間、肉、酒、エッチ一切だめです。
「行」ですからどんな天候でも、槍が降ろうが地が裂けようが、必ず滝に入らなければなりません。
例外は認められません。
その毎日の様子は彼のブログで読めますので、応援してください。

http://katamich.exblog.jp/

なんか彼の百日行に乗じて、たくさんの人が思い思いの百日行というものをやっているみたいです。
なかなかシブイ菩薩行だなぁーと感心しています。




 

2006年01月11日 | 雑感
信越地方で大雪が続いています。
キャベツなどの野菜が高いと報道されていますが、あの地方の人たちはもともと冬にキャベツなどを食べようとは
思わないんじゃないかと思うのですが、そうでもないのでしょうか。
降雪地帯での冬の野菜は、干し大根と白菜の漬物くらいしかなかったような記憶がありますが。
家がすっぽり雪で覆われてしまいますと、要はカマクラ状態で、それほど寒くはないでしょう。

それよりも、外部の一切の音がしないでしょうから、室内が異常な静けさに満ちているものと思われます。
時折、柱やら軒やらが軋む音がするばかりなのでしょう。

老夫婦や一人暮らしの老人ばかりの家で、文字通り雪に閉ざされて暮らすというのはどんな気分なのでしょう。
会話も弾むべくもありません。
なんにしろ、春はまだ遠い先です。

四国出張の折に買ってきた鉢植えの紅梅が、店先のテーブルの上で咲きました。
香りも結構強いです。
なんかいい感じですが、太陽光に当てないでいてこのまま丈夫に咲き続けてくれるものかどうか、ちょっと不安です。

2月と3月に展示会をすることになったのですが、ぼくの立場は、いわゆる大卸(卸元)です。
ぼくとお客さんとの間に、問屋さんと小売店さんが入ります。
当然、価格は当店での価格よりも3~4倍高くなります。
なんとも気の引ける話なのですが、そういう仕組みになっているのだから仕方がありません。
そんな値段で誰が買うのかと思うところなんですが、そういう値段でも買う人は買うのだそうです。
そういう事情を知ってはいましたが、ぼくが参加することになるとは思っていませんでした。
どういう展開になるか、ちょっと想像できませんが、やるだけやってみるつもりです。

正直言って、ぼくの場合、いろいろな知らない人と出会って話をするというようなことが好きなほうではありません。
どちらかというとめんどくさいです。
かなり、めんどくさいです。
でも、こういう後ろ向きな性癖は無視して、やれるだけのことはやるというのが、与えられた仕事というものでしょう。

さすがにこの年になると、人見知りというのはあんまりしなくなりましたが。
それでも、人と出会うのが楽しいというような感覚はないですね、いまだに。

そんなことより、いろいろ動いてみるということのほうが、重要なポイントです。
動くと、何かが動くのです。←アタリマエ
人も、金も、知識も動きますが、それよりも、運勢が動くといったらいいか。
そんな感じです。

そんな感じなのですが、身体は不調です。
だるくてたまりません。
今夜も帰宅したら水シャワー浴びてみます。

2006年01月07日 | スピリチュアル
昨日、なんか心身とも重苦しい気がしたので、帰宅後風呂場で水シャワーを浴びました。
年末から風邪を引いていたので、滝行も休みがちだったので、久しぶりの水はそれはもう厳しい冷たさでした。
いきなり頭から入ることはさすがに出来ず、手足を十分冷やしてから全身に浴びました。
みるみる身体が真っ赤になりました。

でも、さすがに水行、入った後は身体もぽかぽかとしてきて、余分な雑気というか、邪気がすっと落ちました。
今夜も入ろうかなと思っています。

ところで、遺伝子です。
ヒトの遺伝子の大半は眠ったままなのだそうです。
これは脳細胞の大半が使われていないままなのと呼応します。
今の生活様式では、その遺伝子に活動のスイッチがオンにならないということなのでしょう。

火事場の馬鹿力ということがあります。
子供を救うという圧倒的な必要の前で母親のか細い手が、重い箪笥を持ち上げたりします。
物理的に出来るか出来ないかを問う余裕も、必要もない時、不可能を可能にします。
子供を救うという迷いのない一念が、眠っていた遺伝子の目を覚ますのかもしれません。

逆に、現代社会で生きる人々の頭は迷いで一杯です。
しようか、すまいか、出来るだろうか、無理だろうか、得するだろうか、損するだろうか。
何をするにも、迷いとためらいと疑念で一杯です。
頭が迷えば、遺伝子とても勝手に目覚めるわけにはいかないのでしょう。

念ずれば花開くというように、迷いのない念というのは、もしかしたら物凄い力を持っている可能性があります。
「求めよ、されば与えられん」にしても、「思考は現実化する」にしても、その力の可能性を言っているのでしょう。

とはいえ、迷いのない一念というのが、分かりやすいようでいて、なかなか掴み所がないものです。
出世したいだの金持ちになりたいというのは、「念」と言うほどの所までまで昇華することは滅多になく、
身勝手な欲の損得計算であることが多いものです。

欲や感情や損得計算を離れた「念」というものはありえるのでしょうか。
ありえます。
自分のこと以外でしたら、大いにありえます。
大切な人の幸せを迷うことなく念ずることは出来ます。
これが自分のこととなると、欲や感情や計算がたちまち働きだし、念に雑音が混じってきます。

他者の幸福を念ずること。
それが本当に出来た時、眠っていた遺伝子どもがむくむく起きだし、脳細胞も活性化するのかもしれません。
その段階に入ったとき、人はいわゆる「奇跡」というものを行うのかもしれません。

「愛の人」キリストが行った奇跡の数々は、そういうことの証なのかもしれません。

そうだとすると、先行きは明るくなります。
「自分」というものに捉われなければいいだけなのです。
自分というものの欲や感情や損得に無駄に振り回され続けるのをやめればいいのです。

他人の幸福を念じ、その幸福の実現を図る道具だと「自分」というものを見ればいいのです。

何事も言うは易しで、行うは難しです。
でも言うほど、難しいことでもないような気もしています。
じゃぁ、お前から手本を見せてみろといわれれば、ゴメンナサイと謝るしかありませんが(笑)






あけましておめでとうございます

2006年01月06日 | スピリチュアル
新年明けましておめでとうございます。
日本も人口が減少に転じ、エネルギー問題も出口が見えないまま、新しい年を迎えました。
拡大成長を強いる資本の論理と、環境問題と、倫理観の喪失と、問題はごちゃごちゃに絡み合って、
世相をますます暗く、閉塞させていくことが予感されます。

こんななかで、社会のありようをいたずらに嘆くだけではなく、
一人一人が光源となって社会の一隅を照らし出すような、そんな一人一人のあり方を探り当てなければならないと、
年頭に当たって改めて思ったりするわけです。

現代社会の制度疲労はちょっと手がつけられないくらいにその病的症状が進んでしまったと思われます。
かつての社会主義的活動で打破できる状況だとは思われません。
社会の改変を待ち望む間にも、社会の病的な症状はいろいろな形となって新聞紙面をセンセーショナルに賑わすことでしょう。
子供による殺人、親による殺人、動機なき殺人、あらゆる組織に内在する無責任体質、増大するであろう貧困と拝金との軋轢、
上げていけばキリがありません。

世相から目を背けるわけには行きませんが、世相に振り回されてもいけません。
自らを自らの手で救うことによって、自らの周りの人々に笑顔を与える。
そんなことができたならと思うばかりです。

他者の善意や良心を頼るよりも、自らの善意や信念を本物に鍛え上げていく。
そんな感じでしょうか。
その過程で、独善や傲慢が生まれるのなら、世の人から大馬鹿野郎と罵られる必要がありますが。

というわけで、昨夜四国から帰ってきました。
仕事の打ち合わせは何事も問題なく終了し、早速、仕事先の近所にある札所めぐりをしました。
75番善通寺、87番長尾寺、88番大窪寺と回りました。
時折雪がちらつく空模様でしたが、なかなか楽しい経験でした。
讃岐うどんも二杯食べました。
一杯はかけで、もう一杯は生醤油を掛けて。

そういえば、元日午後から神社めぐりをしたのですが、今年は参拝客が多いですよね。
ある神社では長蛇の列が出来ていて、並んでいる人たちも口々に人の多さに驚いていました。

こんな時は、どんどん神社でも寺でも教会でも行ったらいいと思います。
ないかヒントでももらえれば幸いです。

そういえば(←シツコイ)、大晦日深夜、知人と年越しの教会ミサに出たのですが、本格的なカトリック教会で、
説教の合間合間にパイプオルガンが流れ、賛美歌が歌われ、神父さんの短いフレーズに、信者さんたちが歌で応えるという風に、
終始、メロディアスに進行する儀式でした。
神父さんに使える三人の少年がいたのですが、みな小学生低学年くらいで、その一生懸命な姿が微笑ましかったです。
それから、信者さんたちの歌声が、揃いも揃ってとても澄んでいて、心地が良かったです。

神父さんがローマ法の年頭の言葉として紹介されたのは、
今の風潮として警戒すべきは、虚無主義と原理主義だということでした。
これは非常に頷ける話です。
簡単に言うと、虚無主義というのは信じるものなどないという立場で、原理主義というのは信じるものが絶対だという立場です。
信じるものなんかないというのも、信じるものが絶対だというのも、人間の頭が陥りやすい罠ですね。
ここで、般若心経の出番があると思うんですが、そこはカトリックの教会でした(笑)

まぁ、とにかく、どんな宗教でも、宗教というのは偏見さえなくせば、いろいろ学ぶことが多いです。
今年もたっぷりと宗教がかった生活を通じて、道を切り開いていきたいと思います。