風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

なにか

2013年02月22日 | スピリチュアル

酸味の強いコーヒーは苦手で、エスプレッソをコーヒーメーカーで飲んでますが、苦すぎました。
酸味の少ない少し苦みが強くてこくのあるコーヒー豆の銘柄を誰か教えて下さい。

日射しがだいぶ明るくなって来ました。
風はまだまだ冷たいですが、春は確実に近づいてきています。

自然に生きるというのは、おのれの喜怒哀楽という荒ぶる感情をも含めての自然に生きるということか、とふと思います。
制御しがたい喜怒哀楽に振り回されることを、自然に生きるということができるでしょうか。
自然というのは、善悪差別のない、穏やかなものも荒ぶるものもすべて含めたエネルギーの交換場なんだと思いますが、
荒ぶるものに身を任せて、心身を破壊するに任せることは、自然に生きるとは言わないような気がします。

喜怒哀楽という感情も人に天然に備わった外界に対する反応の仕方ではありますが、
感情に身を任せてしまうとどうしてもそれに引きずられ苦悩の海に沈み込んでしまいます。
感情というのは、そのほとんどが外界の事象に対する心の反応ですから、
感情に引きずられるということは、外界の事象に引きずられるということになります。
自分の周囲の条件によって、喜んだり悲しんだり怒ったりし続けるということです。
外界で起きることというのは自分の手でコントロールできませんから、必然的に思い通りにならないことだらけになります。

それならば、自分の感情、外の世界での出来事に一喜一憂することからどうやって抜け出せるかということになります。
外の出来事に対する集中することから、自分の内なる世界に集中するということになるのかも知れません。
外と内というふうに分けることも本来ならナンセンスなのでしょうが、まぁ、わかりやすくいうとするなら
そういうふうになるのだろうと思います。

内なる世界といっても、そう単純でシンプルなものではありません。
外の世界と同じく、複雑で、葛藤に溢れ、計略に満ちてます。
そんな生い茂った精神の雑草をかき分けかき分け、奧へ奧へと探っていきますと、何かがあるかも知れませんし、
ないかもしれません(笑)。

まぁ、とにかく、お金のあるなし、異性と惚れた振られた、誰かと比べて優劣を競う、そんな外界の事象に振り回される=
感情に振り回される生き方にほとほと疲れたならば、
自分の内面に、何事にも影響されない、変わらないなにかを見つけなければなりません。
それを光というのか、悟りというのか、本来の面目というのか、恩寵というのか、とにかくなにか、です。

荒ぶるカミたちのように、感情にまかせてほしいままに振る舞うのも自然のあり方だとは思うのです。
自分の内側に「なにか」を見いだして、穏やかに生きるのもまた自然のあり方の一つではありましょう。
どっちの生き方がいいとか悪いとかということではありません。
ただ、自分の外の世界に振り回されると苦悩が多く、自分の内の世界になにかを見つけると、安心できる可能性があるということです。

清濁明暗ひっくるめたのが外の事象たる自然界です。
でもその清濁明暗の価値判断しているのは人間です。
自分の内側に広がる自然界には、清濁明暗の価値対立のない、明白な「なにか」があるような気がして成りません。

 

 


まかす

2013年02月18日 | 雑感

子供の頃、何でかは分かりませんが、船の操縦士になりたいと思っていました。
船なんか見たこともないのに、そう思っていました。
友達なんかも、男の子であればプロ野球選手、ヒーロー、女の子であればケーキ屋さんとか看護婦さんとかが多かったように思います。
ある意味、成りたいことが明確だった時代は幸せでした。
成りたいとただそう思うだけで心が躍りました。

そのうち成長するにつれ、成りたいということよりも、なにに成れるか、なにが得かという計算が先に立っていきます。
成りたいけれども資格がどうの、学歴がどうの、職歴がどうのといった話が重きをなしてきます。
なにかに成りたかった自分というものが、どんどん置き去りにされていきます。

そうして、ふと自分を鑑みてみますと、なにに成りたかったのかが分からなくなっている自分がいます。
やれること、やれないこと、やりたいこと、やりたくないことというのは挙げることはできますが、
なにに成りたいかと問われれば、言葉に詰まります。
自分はなにに成りたかったのだろう?

成りたい自分に焦点を当ててこなかった結果、やれることを辛うじてしているだけの惨めな自分がいます。
俗な言い方をすれば、決められたレールを歩くようにすっかり洗脳されていたのでしょう。
認めたくはありませんが。
やりたいことよりも、やれることをしろ。
夢を追わず、現実を見ろ。
何よりもお金を稼いで自立しろ。

そんな網の目のように張り巡らされた「現実」のルールに対しては、できるだけ抵抗もし、逸脱もしてきたつもりでした。
でも、抵抗とか逸脱というのは、「現実」のそんなルールの存在を前提としてのジタバタした試みです。
結果的にいえば、そんなルールを超脱することはできませんでした。

超脱するとは、いかなる「現実」のルールに縛られることなく、成りたい自分に成ることです。
そうすることで、現実のルールが怒濤のように自分を苦しめにかかったとしても、成りたい自分で居続けることです。

そんな成りたい自分であり続ける強さがまだ自分に残っているだろうかと自分に問います。
それ以前に、成りたい自分が自分に残っているだろうかと自分に問います。
否、問い続けています。

冬の寒さや静寂は嫌いではありません。
春の喜びをすっかり忘れてしまっているような気がするだけです。
花はその時を迎えれば迷いなく咲くだけです。
成りたいだの、成りたくないだのの、世迷い言がありません。
散るときには散るだけです。
グズグズした執着もありません。

さてさて、です。
愛というのは絶対的な信頼です。
自分を咲かせることさえ、ためらい、疑う人間には、愛という境地は訪れません。
まだ根っこが土の中に張っているうちに、咲かせるなら咲かせなければ成りません。
それよりも、まず、おまえは本当におまえという花を咲かせたいのかという問いに、答えなければなりません。

しばし黙考。
「咲かせずに終わるのは嫌だ」というのがまず最初に来ます。
「咲かせたい!」という朗らかな気持ちが最初に来ません。
この期に及んで、我ながら嫌になります。

おそらく、自分が咲かせる花のイメージができないためでもあります。
なんのためにだとか、こうすればこうなるだとか、そんな意図的な思考にどっぷり染まっているわけですから、
花を咲かせれば、自ずから虫が集まり、実がなり、風に揺れて地に落ちるという風流が身についていません。

任す。
年を取ったら、味わいたい境地なのかも知れません。


 


iPhone

2013年02月16日 | 雑感

人が使っているのを見て、なんとなくいいなぁ~と思っていたのですが、
この度ぼくもiPhoneに替えました。
やはり使っていて楽しいです。
まとめニュースサイトなんかも便利ですし、カメラもメッセージのやりとりも快適です。
その中でもお勧めはフリーソフトなんですが、iMusicというやつ。
youtobeの音楽動画をダウンロードし放題で、一旦ダウンロードをしてしまえば、
いつでもどこでも音楽動画が楽しめます。

ここ十年以上にもなると思いますが、音楽を聴くという習慣からすっかり遠ざかっていましたが、
片っ端から聞きたかった楽曲をダウンロードして布団の中で聴いてます。
実は以前から自分で聴きたい楽曲をセレクトして自作CDを作ってみたいとは思っていたのですが、
アルバム一枚に一曲くらいしか入っていないことが多く、ずぼらなぼくはすっかり諦めていました。
それがなんと1時間ほどで100曲以上のミュージックデータができてしまいました。
しかも動画入です。

大体ぼくは暗い曲調の音楽が好きで、何曲も暗い曲を聴いていると気が滅入ってくることもありますが、
まぁ、それもそれです。
気が滅入るというのも一つの感情の味わいではあります。

それから、iPhoneに付属のイアフォンが優れものです。
イアフォンを付けてる感じがまったくしません。
ごく自然に高音質の音が聴くことができます。
でも、これって最近のイアフォンでは普通のことなのかも知れません。
ぼくが最近のオーディオ事情を知らなかっただけで。

まぁ、ともあれ、昔のウオークマン時代みたいに、ぼくもイヤフォンで音楽を聴きながら、
街をウロウロする時代が再来したわけです。
「ディアハンター」やら「思い出の夏」といった哀しめの曲を聴きながら、
ぼくは毎日を楽しく生きていきます。

http://www.youtube.com/watch?v=mEzH0FuL8qo

 


春間近

2013年02月15日 | 雑感

3月にあるとばかり思っていた禅道場の摂心会が、なんと明日からでした。
たまたまうちの店に立ち寄ってくれた禅仲間から聞いて初めて知りました。
道場から摂心会に関するメールは来ていたのですが、どうせ3月だからと開封せずに放っておきました。
なんだか心に余裕がないと、こんな凡ミスが重なります。

今回はなかなか摂心には参加できそうもありませんが、できるだけ参加しようとは思っています。
参加するなら早朝の摂心です。
まだ暗い朝の冷たい空気の中を自転車をひいこら漕いで参加してみます。

日に日に日射しが明るくなって来てますね。
立春を過ぎると、本当に冬が終わって、春が近づいてくる気配がします。
牛タン屋も3月11日を迎えますと、開店一周年です。
あれやらこれやらバタバタしていますが、そろそろ落ち着いた取り組みをしていきたいです。
バタバタするのは元々好きではありませんし、バタバタするというのは、そういう行動をする癖がつきます。
常にバタバタしていないと落ち着かないみたいな、そんな感じになりがちです。
せっかくの坐禅の修業も吹き飛んでしまいます。
そろそろ軌道修正です。

なんかここのところ反省ばかりしていたような気がします。
そろそろひたすらの反省ではなく、自分のしたいこと、楽しいこと、嬉しいことに焦点を移していこうかと思っています。
なにか特別なことをしたいのではありません。
ささやかな日常そのものが嬉しく楽しくなるような、そんな道を歩いて行きたいです。
長く暗いトンネルを抜け出したら、見るもの感じるものすべてが、嬉しく楽しくなるだろうとは思います。
春の訪れと共に、ぼくもトンネルを抜け出したいものです。

やっほー。
意味もなく元気になってみました。

そういえば、先週どこかで菜の花が咲き誇っているのを見ました。

あいにくの曇り空でしたが、なんだかとても心が躍りました。