風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ゲーリー・ズーカフ

2010年04月28日 | スピリチュアル
15,6年前だかに、ゲーリー・ズーカフの「踊るカルマ」という本を読んだことがあります。
内容はとても示唆に富んでいて、鋭く印象に残る本でしたので、ゲーリー・ズーカフという作者の名はずっと記憶に残っていました。
で、先日たまたま書店でゲーリー・ズーカフの名前を刻した本を見つけましたので、迷わず買い求めました。
書名は「魂との対話」です。

題名は日本の出版社側がベストセラーである「神との対話」の二匹目のドジョウを狙ったのでしょうが、完全に逆効果でしょう。
原題は「The Seat Of The Soul」、「魂の座」がその素直な訳でしょう。
アメリカでは300万部以上売れたらしいですが、日本でまったく無名なのはこういう小賢しい日本の出版社の戦略ミスもある気がします。
抜粋したい箇所があまりにもたくさんある本ですが、ご興味のある方はご一読してみてください。

今日までに3分の2ほど読んだところですが、元はハーバードの物理学者だったらしく、簡明で、直裁で、曖昧さがありません。
なにかの霊的インスピレーションを受けた経験はあるのでしょうが、そんな経験には一言も触れません。
霊的な経験などどうでもいいことなのです。
その霊的な経験が指し示す「なにか」が大事なだけです。
ただひたすら自分が受けたインスピレーションに基づく、人の心と魂と「大いなるもの」との関係性を解き明かそうとします。
否、解き明かそうとすらしていません。
その人の心と魂と「大いなるもの(という言葉は著者は使っていませんが)」との関係性を大前提として、話は明快に進められていきます。

要は、生命の進化とは何か、人の個性(パーソナリティ)の持つ意味とは何か、個と全体の関係性は何か、
魂とパーソナリティの関係性とは何か、というまともな論理的な思考ではとても結論が出ないような分野の問題を、
見事な腕前でスパリスパリと一刀両断にしていきます。
文章全体に清々しさが宿っています。

ちょうど今開いたページで目に付いた文章です。
「私たちのより深い理解、内なる理解は、別の種類のパワー、すなわち、この世に存在するいかなる形の生命をも愛するパワー、
 自分が出会ういかなる人間をも裁かないパワー、そして、どんなに小さな生命あるいは物事の中にも意義と目的をみいだす
 パワーへと、(宇宙は)私たちを導いていく」

金銭欲、支配欲、名誉欲、キリがないそういう自分の外側向かう欲に振り回されている限り、そのようなパワーとは切り離されてしまう。
魂の意図を知り、パーソナリティの意図を知り、さらには「大いなるもの」と合流する喜びに勝るものはない。
そんな感じの話です。
そんな感じの話なのですが、恐ろしく理知的で、無駄がなく、的確です。

クリシュナムルティもそうなのですが、己の思考や心の動きを完膚なきまでに観察して、コントロールすること。
自分の心さえコントロールする力を得れば、人は完全に自由になれるということ。
そして、そういう人の心の自由への解放は、霊的世界にもあるいは神的世界にも波及し、全世界にその喜びの波動が広がるものであるということ。

すべては、一人ひとりの心のなかに答えはあります。
自分の心を際限のない葛藤の戦場とするのか。
雲が流れ、花が咲き、鳥が鳴く楽園にするのか。
一人ひとりの心がなにを「意図」するかにかかっている、とこの本は言っています。



クリシュナムルティ

2010年04月27日 | スピリチュアル
クリシュナムルティという宗教家がいます。
あらゆる組織宗教、権威、ドグマなどからの離脱を繰り返し説いた人です。
そういう現実的な制度なり伝統なり規範なりの枠組みを否定する一方、「思考する」という枠組み自体をも徹底的に疑えと説きました。

「我々の思考は、好きなものを何でも投影することができる。思考は神を創造することも、否定することもできる。
 人は誰もが、自分の傾向、快楽や苦痛しだいで、神を発明することも破壊することもできる。したがって、
 思考が活動し、組み立てたり発明したりしているうちは、時間を越えたものが発見することは決してありえない。
 神あるいは真実在は、考えることをやめたときに初めて見出される」

人々が「神」という言葉を使うとき、キリスト教徒ならキリスト教で培われた神のシンポルやイメージで神を「創り」ます。
ユダヤ教徒はユダヤ教徒の、イスラム教徒はイスラム教徒の神を「創り」ます。
そうして創り上げられた「神」は、「神」という言葉に過ぎず、同じ信者同士で共有される幻想であって、「神」そのものではない。
「神」という勝手に創り上げられたイメージなり幻想なりは、それを信じる人々のマインドの中にあるだけであって、
それを信じない人々にとっては、児戯に似た茶番にしか見えない。
そこでクリシュナムルティは、人々とその幻想を共有する意図がないことをはっきりと示すために、「神」という言葉を使うことを拒絶します。

その代わりに使う彼の言葉は、「最愛なるもの」とか「生命」とかいう言葉を使います。
その言葉を禅の「本来の面目」という言葉に置き換えても、そっくりそのまま意味が通るような気がします。

「精神が空で静かなとき、完全な無の状態にあるとき、空白ではなく、実在の対極でもなく、すべての思考が消滅し
 まったく普通とは異なる状態にあるとき、そのようなときにのみ、名状しがたいもの、すなわち未知のものが
 姿を現すことができる」

要するに、人々は自分の傾向や志向に基づいた「思考」の産物であるイメージやシンボルや名称・言葉にとらわれている限り、
「未知のもの」=生命そのものに出会うことは決してないということを、彼はなんども繰り返し主張しています。

「精神が空で静かなとき、完全な無の状態にあるとき」という状態は、言うまでもなく思索の果てに訪れる状態ではありません。
思索を放棄したときに、しつこく追いかけ来る思索の手から逃れたときに、訪れる境地ではありましょう。
まったく禅の追求する境地と同じような気がします。

クリシュナムルティは、人々を教え導くという存在としての「グル」を否定します。
グルは、その依存者に「言葉」を与え、言葉による「思考」を巡らさせ、本来なら思考を断絶したときに訪れる
「未知のもの」との邂逅をかえって妨げてしまう。
グルの「言葉」が、信者の思考のうちにシンボルやらイメージを植え付けてしまい、いかなるシンボルやらイメージからも
自由であるべき「未知のもの」の姿を見逃してしまうことになる。

今評判の村上春樹の「1Q84」ですが、朝日新聞のインタビューに答えた言葉です。
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。-中略ーオウム真理教は
 極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

クリシュナムルティは、まさにその精神の囲い込みから自由になれと語り続けた人のような気がします。

ただ、人は自分で思っている以上に、自ら好んで精神の囲い込みの中に入りたがるものです。
そのほうが安全で、豊かな生活を送ることができると、物心ついて以来さんざんに吹聴されて生きるからです。

クリシュナムルティの一貫した主張は今でも大変有効で示唆に富んだ提言であるような気がします。
 

伊勢

2010年04月26日 | 雑感
伊勢に行ってきました。
初日こそ雨でしたが、ずっと車内・室内でしたので影響もなく、2日目は曇り、3日目は絵に描いたような五月晴れでした。

初日に泊まったのが財団法人・修養団伊勢道場というところでした。
ただ泊まるだけなのだと思っていましたら、きちんと厳しい研修がありました。
挨拶の仕方から、スリッパの揃え方まで、きっちり教わりました。
松下幸之助やら安岡正篤などとも縁のある100年以上の由緒を持つ文部科学省所管の教育研修機関でした。

なんでも、誰もが知るNHKのラジオ体操はここで行われていたものを取り入れたのだそうです。
講堂には日の丸が掲げられていますし、式の最後には君が代を歌います。
基本的には日本という国の成り立ちやら国柄を大切にする教えを説きますから、右翼といえば右翼なのでしょうが、
正統な右翼というのはこういうものなんだろうと思います。
嫌悪感を煽るだけの街宣右翼とはその成り立ちも、方向性も全く違っているでしょう。

人格ブレイクスルー的なセッションもありましたが、全国各地からの60名を越える参加者のみんながノリノリで楽しんでいました。
ただし、遅れて会場に到着し、そのセッション最中の異様な有様を見て驚いた数人の参加者は、何ごとかと憤然として帰ってしまったそうです。
まぁ、仕方がないでしょう。

初日の夜にはアイカちゃんのコンサートでした。
ぼくの太鼓で始まるわけですが、ボロを出さないように太鼓は短めに切り上げ、大祝詞を奏上しました。
大祝詞を大声で上げるというのは、なかなか大変なものだと今回知りました。
それからアイカちゃんの言霊を使ったヒーリングの講話があり、ネネさんの舞があり、最後に「ふるさと」をみんなで合唱です。
こうして話だけ聞くと、とても気持ちの悪い集会だなと思われても仕方がありませんね(笑)
その手のテレとか、気後れとか、逡巡とかが入り込む余地は、あらかじめセッションで一掃されていましたから。

その後、名前を失念してしまいましたが、どなたかの講演会がありました。
イスラエルに何度も行っている人で、国を失うということの取り返しのつかなさ、寂しさ、悲惨さを繰り返し強調していました。
日本人が日本という国を知らないことの問題性も提起していました。
語り口が関西人らしくとても柔らかで、ユーモアに溢れていましたが、国を思う心は熱かったです。
その後は例によって講演者も交えた酒盛りです。
3時過ぎまで飲みました。

次の日は早朝に内宮に正式参拝です。
その後一旦道場に帰って、朝食を食べて、再び内宮へ。
道場から内宮までは歩いて数分です。
神楽殿で巫女舞の奉納を見ました。
巫女さんたちの立ち居振る舞いにすっかり魅せられました。
その後は、参集殿でアイカちゃんの奉納コンサートが行われました。
曇っていた空から時折中庭に日が差し、とても感動的なコンサートになりました。

その後、昼食を取って、道場にお別れをし、猿田彦神社にお参りし、恒例のおかげ横丁で酒を飲んで、貸切バスで伊雑宮に向かいました。
伊雑宮を参拝後、境内でみんなで気功です。
そしてホテルへ。

風呂に入って、宴会です。
宴会後も部屋でさんざん飲んだわけですが、面白かったです。
最後には6,7人が残ったわけですが、若い女の子が演劇をしていたらしくその子を中心に、即興で演劇ごっこをしました。
その子がアドリブで何かの役になりきって演劇を始めます。
するとタイミングを見計らって、他の誰かがまた別の役になりきって、絡み始めます。
そのようにして全員で即興で演劇を作っていくわけです。
かなり面白い試みでした。
みんな酔っ払っているせいもありますが、前日の人格ブレイクスルーのセッションの効果もあって、みんな簡単に役になりきります。
ビデオ係のテっちゃんも乗ってきて、あれこれ演出し始めます。
演劇をしていた女の子は手に負えないくらいのテンションになっていきます。
1時過ぎまでそうやって遊んで、約一名が睡魔に耐えられなくなったので、お開きにしました。

次の日は帰るだけでした。
途中名古屋駅で日本酒できしめんを食べました。

直前まで行くか行かないかをかなり迷いましたが、楽しい旅行でした。


無常

2010年04月19日 | スピリチュアル
昨日は早朝から滝行でしたが、前夜に道場で三時過ぎまで飲んでいたので、きつかったです。
滝に入り終わった後、どういうわけかジワジワとアルコールが再び身体を巡り始めました。
みなが堂々とびしっと滝に入る中、ぼくだけが中途半端な意識で、中途半端に水に打たれました。
こうなるとせっかくの滝行も時間の無駄です。
何ごとも限度というものがあります。
酒場にいっても意識を失い、道場でも意識を失っているのでは、話になりません。
ちょっと意識をシフトする必要があります。
このままでは心身ともに朽ちます。

皆さんもそうだろうと思いますが、ぼくの場合、人生の節目にドカドカと新しい境地を開いてくれるような本が舞い込みます。
いちいちその本の題名を挙げることはしませんが、必要とする智慧が必要とするときに目の前に現れる感じです。
ただ、智慧というのは理性で処理してしまっては、黒板に書いた文字と同じです。
どんなに重要と思われたことでも、次の授業の開始とともにその文字列は丸ごと誰かに消されるだけです。

読んで腑に落ちた智慧は、やはり一つ一つ自分の生きるうえでの智慧として血肉化していけたら歩む速度が速まるでしょう。
血肉化するためには、なんといっても素直さがすべてです。
なにに対しても疑い持たないという素直さではなくて、あえて委ねることのできる素直さです。
委ねるためには、どうなってもその責任を自分が負おうという覚悟がいります。
何かを、誰かを頼りにするのではありません。
すべての起こりえる状況を自分が引き受けるという意味での、委ねるです。

なにを委ねるのか?
自分の人生の運行をです。
何に?
天に、自然の摂理に、です。
天、または自然の摂理とは何か?
あなたが生きている理由です。
意味が分かりませんが?
分かりたいですか?
さぁ、どうでしょうか。あなたはその理由と意味を知っているのですか?
さぁ、どうでしょうか。

果てしのない問いがあります。
果てしのない答えがあります。
それでも雲が流れ、風が吹き、地に花は咲き、人は憂い悲しみ喜びます。
なにもかもが流れていく風景を思い知ったときに、人は無常が人の住む世であることを知ります。
無常の中に永遠を見出すのか。
無常の中に虚無を見出すのか。
すべてはその人しだいです。


一歩

2010年04月17日 | 雑感
なんかいろいろ忙しくなってきました。
ぼくはやりたいことしかしませんから、やりたいことが増えてきているということなんだと思います。
今日は生まれて初めて祇園太鼓を叩いてきました。
伝統どおりのジャズフィーリングの祇園太鼓でした。
いやぁー、体力使います。
数分叩いただけで汗びっしょりになりました。

ぼくはこの街にどうもなじめなかったのですが、祇園の祭りに参加すれば、はじめてこの街に愛着がわくのかもしれません。
娘はこの街に生まれたわけですから、ぼくもそろそろこの街に骨を埋める覚悟の決め時なのでしょう。

昨日は店でワインパーティーでした。
今夜は禅の道場で先日の福岡禅会の慰労会で、泊り込みです。
明朝は滝行です。
その一つ一つがとてもありがたいことです。

ありがたい輪が広がれば、「当所即ち蓮華国(坐禅和讃・白隠和尚)」です。
「今のここそのものが浄土である」という意味です。

来週は伊勢神宮にお参りにいきます。
そこでぼくは太鼓を叩く予定です。
神社の奉納太鼓は祇園太鼓とは全然違います。
自己流でえいやっと叩くしかありません。
本当言うと、そういうパフォーマンスはぼくは全然好きではありません。
でも、するなら気持ちよくしたいです。

思い煩う暇があったら、自分の足を一歩前に出す。
そういう癖をつけると、人生がだいぶ楽になるような気がします。
どれだけ思い煩らおうともそれで人生が切り開かれるということは、経験上決してありません。
思い煩いは思い煩いのままとぐろを巻きます。
そんなことに時間を費やす必要はありません。
とにかく足を前に出してみたらいいんです。
踏み出したその足の方向が間違ったと気がつけば、方向を変えるだけです。
とにかく一歩を出さないことには、方向が間違っているのか、正しいのかさえ決して気がつくことがないのですから。




悪霊

2010年04月14日 | スピリチュアル
悪霊という厄介な問題があります。
ドフトエフスキーはそのままズバリ「悪霊」という小説で100年も前に急進的共産主義者の悪魔的な行動を鋭く描きましたが、
はたして今、「悪霊」という言葉はほとんどそのリアリティを失っているんだろうと思います。

キリストも荒野で「悪霊」の誘惑を退け、仏陀も「魔」の誘惑を退けます。

悪霊とか、魔というのは実在なのか、という問いがあります。
断言しますが、そんなものは「無」です。
でも、人の想念はいともたやすく「悪霊」とか「魔」とかを実在せしめます。

その存在を信じる人間には、「悪霊」も「魔」もとてもリアルなものになります。
人の心は在ると思うものに容易に支配されます。

お互いに助け合い、すべてが幸福の微笑で満ちている世界を思い描くのが人間なら、
騙しあい、憎しみあい、妬みあう世界を思い描くのも人間です。

その人が思い描くような世界が現前するのが、この世の仕組みです。
ビジネスマンはビジネスマンの世界を見ているわけだし、漁師は漁師の世界を見、牧師は牧師の世界を見ています。

アルプスの少女ハイジの世界も本当なら、ロッテンマイヤーさんの世界も嘘ではないのです。

本当のことを自分の外に探すと、まがい物やら何やらにだまされます。
自分の心の指し示すところに従う心が確立してさえいれば、まぁ大丈夫でしょう。
その心さえ見失ってしまっていれば、もうなにに従っているのか、従っていいのか、どうなのかも分からなくなるのでしょう。
心というのは厄介です。
主人になったり、被害者になったり、どこにも責任を持ちません。
その心の隙に忍びよるのが、「悪霊」であり、「魔」です。

悪霊の喜びというのは、外部から働きかけてその人を破滅させることではありません。
そんな単純なことは、悪霊のプライドが許しません。
あくまでもその人がその人の意志で自ら破滅することを選んだ(選ばせた)ときに、悪霊の最大の喜びとなります。
このような存在が「反キリスト」といわれる存在です。

で、今の世相を眺めるとき、わが子を虐待し、自分の保身が優先し、道徳や秩序というものを軽んじ、
夢を挫き、希望を挫き、正義を挫く風潮が個人の自由の名の下に蔓延しています。
そういう風潮を止める手立てがありません。
今の日本の風潮は、悪霊にはとても生息しやすい環境になってしまいました。

例えば、子供に我慢を教えようとする。
子供からなぜ我慢しなければいけないのかと問われたときに、きちんと説明できずに親は困惑する。
逆に、もっと子供には自由にさせたほうがいいのかもしれないな、などとも考える。
一事が万事こんなふうです。
教育から軸が失われたのです。
ダメなものはダメだというのは、頑固な間抜け親父のタワゴトになってしまいました。
軸がない教育を教育と呼ぶこと自体がナンセンスなのですが、今の教育の軸自体を問う議論は低調です。
生きるうえでなにが軸なのかを考え、いかにそれを深めていくのかを考えるのが唯一の教育の意味ではないかと、ぼくなどは思います。

教育とは何かということを語ろうと思えば、ややこしく大変なので飛ばしますが、要は、己の歩む道がどこに続いているのかを、
どんな環境であろうが、育ちであろうが、今自分の責任で自分の方向性をはっきりと知っておく必要があるような気が強くします。

なにはともあれ、「悪霊」とか「魔」とかいうものは、その入り口では甘言だけを囁きます。
その人の人生が大事だから、ではないのです。
その人の人格が大切なわけでもないのです。
なんであれ、その地獄の入り口に誘い、入り口に入れさえすれば、あとはその扉は閉ざされます。
人それぞれの魂という餌を食らいたいだけなのです。

こういうことを語ろうとすると、とても大変です。
でも、感じる人は感じてください。
誰が正しいか間違っているかということではぜんぜんありません。
己のむ道に「喜び」があるかないかです。
サタンの狡猾さに応戦してはなりません。
応戦してもたぶん絶対に敵いません。
「喜び」だけにはにサタンは干渉できません。
喜び多き人生を歩むことです。


男と女

2010年04月13日 | 雑感
今日のFMのゲストは野菜ソムリエの料理教室の先生でした。
パンを焼いて持ってきてくれました。
文句なしに美味しかったです。
チーズやアンズやらなんやらかんやらが入っていて。これとワインがあれば中年男には完全食です。
早速、次の金曜日のワイン会には持ってきてくれるように頼みました。

この番組は地域で活躍する女性をリレー形式で紹介していくわけですが、気がついたことがあります。
女性はやっぱり女性でした。
男のビジネスモデルをはなから完全に無視しています。
自分が楽しいことをする、それが人の役にたつのが嬉しい、そういう感覚に徹頭徹尾しています。
抽象的な概論を語る人は一人もいませんでした。
固有名詞を持つ誰の役に立ったから嬉しいとか、子供の喜ぶ顔を見たいとか、あくまでも具体的です。

男の頭ですと、マーケティングだとか、トレンドだとか、戦略戦術だとか、そんな抽象論がはじめに来ます。
それが見事なくらいに彼女たちにはありません。
だから彼女たちは本当に嬉しそうです。
やりたいことをやって、人に喜んでもらうという、商売をする上での無敵の法則しか眼中にないからです。

番組に出るたびに、男はなにをしているのだろうという疑問がわきあがります。
時には、ゲストに「男はどうしたらいいのですかね」と疑問を投げかけることもあります。
決まって、さぁ、どうでしょうねというのが彼女たちの答えです。
男の置かれた状況にはあまり関心がありません。

彼女たちのほとんどは、理解のある旦那さんと子供たちがいます。
幸せな家庭があって、その家庭内での活躍の延長線上に、社会に出てきたという人がほとんどです。
どこにも無理がありません。
立身出世や経済的な必要からではなく、「やりたいからやる」という無敵の戦略です。

だから、彼女たちからは極々自然な微笑が絶えません。

翻ってみるに、男の世界では、「やりたいからやる」というような社会的、経済的、道徳的状況は、今の社会にほとんど見当たりません。
スポーツとか芸能とか、限られた社会に残っているだけなのかもしれません。
今まで男がやりたい放題やってきた反動なのかもしれません。
男も自分の周囲で自分が何ができるのかを模索してみれば、あるいはやりたいことが見つかるかもしれません。
このままだと男は辛すぎるような気がします。

福岡禅会Ⅱ

2010年04月12日 | スピリチュアル
昨日は福岡での参禅会と講演会が無事に終了しました。
わずか二回目の接心でQちゃんは見性し、講演会も思った以上に人が集まってくれました。
http://katamich.exblog.jp/13138948/

前にも言ったとおり、福岡にはわが禅の会の支部がありません。
ですから、去年から始まった福岡での参禅会の準備その他は、全部わが道場の団員が取り仕切りることになります。
ところが、若い者は仕事を持っているのでなかなか手助けすることができず、還暦をとうに過ぎた老先輩がなにからなにまで準備しています。
一般の民家をお借りしてしていますから、参禅会のたびに何十人分の布団やら座布団やら食器やら、仏具や茶器やら、トラックで運び込みます。
その負担は参禅会の度に毎回引越しをしているようなもので、なかなか大変なものがあります。
どうしても福岡の団員を増やして、福岡に支部の母体を作り、福岡の人間の手で福岡の禅会が隆盛することがわが支部の念願です。

見性をした立場から言いますと、生きていて見性という体験をしないのはもったいなくて仕方がありません。
以下は、Qちゃんがブログに引用していたウィキの解説を丸ごと引用します。
 
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一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。
このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。
坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を
既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに
伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが
肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、
悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、
唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな
方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、
その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、
悟りの世界を味わうという手段も生まれている。
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損得打算、心配不安であくせく心を動かす生活から、同じ日常でもその瞬間瞬間の「香りを味わう」生活に軸足を移していく。
別にそういう境地を目指すのではないのですが、そういうふうに自然に心が解き放たれていく。
禅では何かを目指すということはしません。
悟ろうという意識も邪魔になるだけです。
「今、ここ」という言葉はよく言われますが、その言葉を念仏のように称えたところで、「今、ここ」は掴めません。
あらゆる言葉を離れ、理屈を離れ、思惑を離れたときに、「今、ここ」が目の前に現れます。
つまるところ、坐禅で坐るというのは、あらゆる言葉を離れ、理屈を離れ、思惑を離れる訓練です。
坐るということになりきれば、あらゆる苦悩の元である損得勘定や、好き嫌いや、是非の判断やら、なんやらかんやらから離脱します。
離脱しきったときに目の前に広がる風景、それを無とか見性とか悟りとかいうものと言ってもいいかもしれません。

Qちゃんも言っているとおり、見性はいかなる意味においても神秘体験ではありません。
当たり前のことを当たり前に見えるようになることだといってもいいかもしれません。
当たり前を当たり前と感じることができれば、自然の摂理に直に繋がります。
雨が降れば雨を楽しみ、雪が降れば雪を楽しみ、暑ければ暑いままにふうふう言います。
悲しければ悲しみ、嬉しければ笑います。
どこにも心が滞らなくなります。
修業が進み、見性のレベルが拡大し深まり極ったところに、「山川草木悉有仏性(存在するすべてに仏性が宿っている)」という、
究極の世界が広がっています。
その究極の世界の広がりに身を置いたときに、この世は即、極楽、涅槃となります。
世界が広がり深まるのではありません。
同じ娑婆世界にいながら、心が無限に広がり深まるのです。

まぁ、こういう話はキリがないので、興味のある方は是非禅の門を叩いてください。
正統な師家につくことがとてもとても大切な要件になりますが。




福岡禅会

2010年04月05日 | スピリチュアル
昨日は道場での花祭りをかねた花見でした。
花祭りはお釈迦様の四月八日の誕生日を祝ったお祭りです。
天と地を指差したお釈迦様の像に甘茶を掛けてその恩徳に感謝します。
お釈迦様の周囲には花びらをびっしりと敷き詰めていました。
菜の花の黄色がとても鮮やかでした。

空は快晴で、とても気持ちのよい風が吹いていました。
道場の敷地内にある小高い丘に敷物を敷いて、めいめいが用意した料理を肴に宴会です。
例によって、最後のほうの記憶はありません。
気がついたときには、店の事務所で寝ていました。

今週末から、福岡で3日間の参禅会があります。
北九州や熊本には立派な支部があるのですが、どういうわけか福岡には支部がありませんでした。
総裁老師の肝いりで、福岡の禅会を興隆させるべく、団員一動がんばらないといけません。
11日の3時から、アクロスで総裁老師の講演と、数息観(呼吸法)のレクチャーがあります。
坐禅は、心を整え、身体を整え、息を整えて、初めて三昧に入ります。
息の整え方が、初心のうちはよく要領が飲み込めないものです。
興味のある方は、ぜひご参加ください。
受講料は無料です。

参禅会の初日には、三名の入団式があります。
そのうちの二名は、ぼくが道場に誘って連れて行った人です。
だれでもかれでも入団が許されるわけではありません。
最初の関門を透過(いわゆる見性)した者に入団が許されます。
見性とはなにかを語ることは許されてもいないし、語ることもできませんが、とにかく一生消えることのないある核心を持ちます。
誰がなんといおうが、決して消えることのない光が胸に灯ります。
その光を抱いて、死ぬまで修行が続くわけですが、闇雲な修業とはぜんぜん別物になります。
修業の進展の度合いに係わらず、その光だけは輝き続けるからです。

今度その三名がその光を胸に宿したわけです。
これはとても嬉しいことです。
ぼくはいつも思うのですが、一人の人間の周囲には、50~200人の人間がいるはずです。
一人の人間が輝けば、周囲の50人から200人の人間がその光を感じるはずです。
そうして光の連鎖が始まれば、世の中が変わるということもさほど難しいことではないように思えてきます。

もちろん禅では「光を宿す」というような神秘めいた物言いはしません。
自分で自性というものをはっきりくっきり見るだけです。
雲が吹き払われて月が姿を現すように、勘違いやら思い込みの雲が吹き払われて、自分というものの姿をきっぱりと見ます。
こんな経験は、日常生活においては滅多にできるものではありません。
興味のある方はぜひともチャレンジして欲しいものです。
本格的な禅の修行が、数百円とか千円のレベルの出費で体験できます。

仕事を持った在家の人が対象ですから、夜だけの出席、あるいは早朝だけの出席でもかまいません。
坐禅の姿は、要するに仏様の姿になることです。
仏様の姿になって、仏様のような心に落ち着き、仏様のような呼吸をすることです。
この濁世でへとへとに疲れ果てるのも生き方ですが、心と静まり返った道場で、仏様の姿になりきるのも一興ですよ。

媒介

2010年04月02日 | 雑感
店を閉めて、ジムに行こうと思ったらジムは休みでした。
しかたないので、角打(立ち飲み屋)に行って、ビールを飲みました。
そこの角打は場所がいいのか、勤め人やら老婆やらギャルやらなんやらで混んでいました。
老婆が時々「あっちへ行け、この馬鹿~」とか奇声を上げます。
禅で心を鍛えているぼくは動じません(笑)
この街はいろんな人がいます。
労働者、非生活保護者、やくざやさん、破綻者、ごたまぜです。
いろんな人がいろいろな人生を歩んでいます。

ぼくは権威やお金に尻尾を振る気は毛頭ないのですが、訪れたビジネスチャンスはきっちりと形にしたいとは思っています。
なにせアンティークの市場はものすごく狭いもので、滅多にないチャンスを逃し続けたら、とうてい生き残れません。
だから、買う気のあるお客さんにはそのときだけですが全神経を集中します。
逆に言えば、買う気のないお客さんや、冷やかし、ただのおしゃべりさんには、全神経を解散します(笑)
本来邪道ですが、この街だから可能なスタイルなのかもしれません。

もちろん、商売というのはそういうのが理想形ではありません。
買う買わないを抜きにして、人間関係を深く確かなものにしていくのが、本道です。
定期的にご挨拶に伺い、盆暮れのお付き合いをきちんとし、心躍るようなイベントごとを催して、生活を潤してもらう。
それは、そのとおりです。
呉服屋さんという人たちは、いまだにそういう商売の形をきっちり守っていますから、不景気とはいえお客さんは離れません。
いまだに生き残っている呉服屋さんなんかの商売のしきたりを守る情熱は素直に感心させられます。
正直に言って、そういう本道を守る余裕が、経済的にも心理的にも持ちようがありません。

ただ、ぼくの強みというかなんというか、貧乏になるのならなればいいという諦念が底にあります。
お金が入れば、商売を発展させられ、より多くの人と係われる喜びというのもありますが、強いてそれを望みません。
貧乏になるのもよし、お金が入るのもよし、全てよしの精神で行きたいわけです。
こういうのは、お客さんからすれば、あるいはとても不愉快なやり方なのかもしれません。
全くもってお客さん第一ではないからです。

ぼくはお客さん第一では全然ありません。
うちのお店のお客さんならだれでも首が折れるほど頷くような話です。
でも、限られた共に過ごす時間を、これ以上ないくらいに豊かなものにしたいという志は持っています。
商品を媒介としたほんの短い時間ですが、そこに凝縮された溢れんばかりのコミュニケーションを可能にしたいとは思っています。

商品も媒介なら、ぼく自身も媒介です。
なにの媒介か、が問題です。
目指すところは、「本当のもの」の媒介になれれば、本望です。
それが叶おうが、叶うまいが、それしかぼくの興味はありません。
逆に言えば、その人がお金を持っているかどうかが問題ではありません。
その人の志と、ぼくの志がどう交わることができるかということに尽きます。
商売をしていて、こういうことを言うのはなんですが、まぁそういうことです。
どうせなら、商売を通じてもお互い真剣勝負をしたほうが、生きるというゲームのうえでスリリングだと思うのです。
だからお金持ちからは嫌われがちです。
お金を持っていない人からは、もっと嫌われているかもしれません。
ぼくは決して誰をも嫌ってはいないのですが(笑)