何かを直接してあげるということも大事なのかもしれませんが、その場合は「してあげる=してもらう」の関係が成り立つような、
気軽な関係性でお互いが結ばれている必要がありますから、意外と狭い人間関係でしか成り立たないものかもしれません。
ましてや見ず知らずの人に対して、直接何かをしてあげるということは、ほとんど不可能になります。
してあげるほうも、してもらうほうも、どうしても遠慮や余計なお世話だという意識が働きます。
で、雑誌「致知」の表紙を見ましたら、特集のタイトルが「喜びの種をまく」でした。
これだと思いました。
われわれはともすれば先人や誰か他の人が植えたものが育って実ったものをタダ取りしようとします。
会社で働くのだって、誰かが苦労して築き上げた会社なのであって、その経営的地盤、客層、信頼を利用して働かせてもらうわけです。
それなのに、働いてやっているという感じで、上司、同僚の不平を言っては酒を食らいます。
社会基盤もそうです。
理念と信念を持って、民主主義を根付かせ、各種インフラを整え、日々食べるには事欠かない社会を作ったのは、
自分たちではなく、誰か他の人たちです。
当たり前に生活しているこの生活環境を作ったのは、誰か他の人です。
それを当たり前の顔して利用するだけしておきながら、あの制度は駄目だ、この政治はけしからんと床屋談義をやっています。
ケネディじゃありませんが、自分が社会になにができるかという視点が甚だしく希薄です。
自分が社会に何が出来るかということを考えることが出来る人を社会人と呼ぶのかもしれません。
政治に関心を持ち、政治の在り方を監視するのは民主主義が正しく機能するためにはもちろん大切なのですが、
身の回りの人に何が出来るのかという視点を持たないと、空理空論に振り回されてしまいます。
そこで、喜びの種をまく、です。
家族の間で喜びの種をまくというのは、それほど難しいことではありませんし、誰から指図されることもなくせっせと種をまくでしょう。
時にはまいた種がとんでもないものに育つということもあるようですが、それはまた別の話です。
社会に喜びの種をまくということはどういうことでしょうか。
決して大袈裟なことではないでしょう。
職場で、学校で、近所で、人は意外とたくさんの人と出会っているはずなんですね。
でも、笑顔で挨拶する、ほんの少しの会話を楽しむ、といったことがどんどん人々の心から省かれてきています。
そういう笑顔の挨拶や会話や心遣いは立派な喜びの種ですね。
種を植えないから、どこの町内でも人間関係がどんどん殺伐としていきます。
隣人が何をして、どんな子供がいて、家庭は仲いいのか不和なのか、知ったことではないとなっていきます。
職場や家庭や地域社会に明るい挨拶が飛び交い、心が通い合えば少々の不況やなんかが来ても乗り越えられます。
反対に、そういう明るいコミュニケーションが失われると、社会が動揺すると孤立した個人は無力感と不安に襲われます。
明るく挨拶するというちっぽけな種でさえ、このように社会の雰囲気を変える力があります。
挨拶する間柄になれば、相談ごとも持ち上がるかもしれません。
それを上手く解決するアドヴァイスをすることができれば、さらにその間柄は大きな実りを産む土壌になるでしょう。
地域が大きな実りを産めるような土壌になれば、その地域から立候補し、当選するような政治家はより大きな理念をもてるでしょう。
そうやって、足下から変えていけるのが、民主主義の長所だと思います。
それが足下がこうも不毛な時代になりますと、民主主義というのは衆愚政治に堕します。
誰か偉い人が「みんなで明るく挨拶しましょう」と言われてするようでは、やはり駄目です。
今時、そんなことを言われてするような素直な人がいるとも思えませんが。
自らいいと思うことは、素直にするという社会でないと、不平不満を隠しながらギスギス生きる暗い世の中になります。
自らいいと思うことを素直にする。
それこそが、喜びの種をまく、ということじゃないかと思います。
一つの実がなりますと、その実の中にはたくさんの種が宿ります。
たった一個の実がなるだけで、将来的には無限の種がまかれる可能性が生まれます。
説教臭い話ですが、自分で自分に言い聞かせるために書いているようなものですから、ご勘弁を。