風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

お宮

2007年03月31日 | 雑感
どうやらやっと迷路から抜け出た感じです。
次のステップのために必要な迷路ではあったのですが、なかなか苦しかったです。

ポイントは「受け入れる」でしょうか。
受け入れてみるとか、受け入れてやるというのではなく、静寂な心で持って「受け入れる」。
これは物事、事態をはっきり見つめないと、できることではありません。
物事、事態をはっきり見つめるということが、普段しているようで案外出来なかったりします。

こんな時は人の助けがいります。
人の目を通して見た物事、事態。
自分の目を通して見たそれと、人の目を通して見たそれとの違いを通じて、意識の修正が可能になります。

実は、店が物置小屋のようになっていました。
それでも来ていただける人には来て頂いていたので、気にすることもなく放置していました。
外界は内面の反映だと偉そうに言っている人間が、自分の居場所である店をだらしなく放置していました。
で、昨夜、うなぎを食べながらあるお客さんからいろいろ深いところまで突っ込まれまして、とうとう気が付きました。

職場なり、家庭なり、その人の生業を支える場所は、その人の「お宮」であると。
お宮をさんざん穢し放題にして、その人が栄えることはありません。
お宮に生清澄な気が張っていれば、人の心も清清しくなるでしょうし、濁れば、またその如しです。

お客さんは言いました。
「酔っ払いの職人さんでも、自分の職場はきちんと片付け、手入れしているはずだ。だからこそ、人は彼に仕事を頼み、
 彼も自分の仕事に誇りを持てる。あなたはなんですか。ショーケースだって前の日のコーヒーをこぼした跡がそのままだし、
 窓だって何ヶ月も拭いていない。せっかくの商品を殺しているのはあなたです。スーツも着てこないし、だらしがない。
 人の役に立ちたいなどと言うが、だれがあなたみたいなだらしのない人に助言を求めますか?そう思うのなら、
 あなたがちゃんとしなさい。あなたが光りなさい。自分を安売りしてはいけません」

耳が痛かったです。
自分で自分の居場所を汚しておいて、人の心の役に立ちたいなどとタワゴトを吹いていたわけです。

商売といえども、人が集まるところは「お宮」なのだと気が付きました。
ぼくはそのお宮の神主さんです。
毎日箒で境内を掃き清め、水を打ち、来ていただける方々の心が気持ちよくなれることがぼくの仕事です。
神主さんは、人に来ていただこうが、来ていただけなかろうが、毎日境内を清掃し、水をまき、感謝を捧げます。
そういう気持ちがあって、初めて神社はあの清澄な気が漲ります。

だらしのない甘えは気が濁り、濁った波動は即座に伝わります。
他人の波動には敏感なくせに、自分の発する波動にはこうも鈍感なものかと、深く反省させられました。

はぁ~。
うんざりするほど、未熟です。
明日は休日返上で大掃除をしようと思っています。



悟り

2007年03月30日 | スピリチュアル
世界が意味で充ちていたら窮屈で窒息するだろう。
意味の通りに生きていかなくちゃならないから。
どんな無責任な想念でも虚空に意味を作り出せるから、
人の世は面白い、ありがたい。

ただ、この世を自分の想念で創りだしていることを知らない人はさらに不自由だ。
自分の想念に自分を縛り付けている。
楽しい、嬉しい世の中は、この瞬間自分で作り出せることを知れば、
人は自由自在になる。
それだけのことを、それだけのことと知る潔さが必要だ。

悟った後はどうでもいい。
どうこうしなければというのが、想念の罠。
童と手毬をつく尊さよ。


以上は、ある掲示板に書いた「悟り」についいての文章です。
悟ってもいない者が、「悟り」について書くなどというのは噴飯ものかもしれませんが、
「悟り」を深遠すぎる境地においてしまうと、普段生きている人に無縁な境地となってしまう恐れもあります。

要は、自我が認識する「現実」というのは、自分の心が勝手に虚空に投影した幻だということです。
比喩ではなくて、本当にそうなのだと思い知った時が「悟り」なのだと、ぼくは思っています。
素敵な恋をすれば、世の中がバラ色に見え、失恋すれば、世の中は灰色に見えます。
それだけのことなのです。
恋をして喜ぶのは当たり前です。
でも、その喜びの心に執着しすぎると、いつか幻は消え、幻滅することになります。

心をいろいろな執着で一杯にしていますと、その心が見る現実はその執着に従ったものに見えます。
金銭欲で世の中を眺めれば、世の中は儲け話の転がっている賭博場に見えるでしょうし、
権力欲で世の中を眺めれば、人々が自分が動かすべき駒に見えてくるでしょう。

ですから、現実というのは、個々人が思ったとおりの姿を持って現れているということです。
現実が先あるのではなく、思いが思うとおりの現実を作っているわけです。
現実を変えるというのは、その現実という幻を生み出すところの「心」を変えるしかないわけです。

心を「無」にするというのは、その辺りの実際を思い知るための修行であると、ぼくは理解しています。
心を「無」にして、世間を見るとなにが見えるか。
おそらく「無」です。
そうであるならば、心を「喜び」にして世界をみるとなにが見えるのか。
世界は「喜び」として見えるはずです。

心を自在に出来るなら、見たい現実を自在に作れるということです。

ま、理屈かもしれませんが。

今現在の目の前の現実がどう見えるかというのは、そのまま自分の心がどうあるかの反映だということです。
そうすると、世の中がどう見えるが重要なのではなく、世の中をどう見たいのかが全てであるということです。
悲惨だ、辛い、苦しいいと世の中を見る心があるのなら、その心を脇に置き、楽しい、嬉しい心で楽しい、嬉しい世の中を作ればいいのです。

そうは言っても、荒唐無稽な御伽噺にしか聞こえませんよね。
やっぱり、修行が必要なのかなぁ。


一人の力

2007年03月29日 | スピリチュアル
昨日江原さんがテレビで「あらゆる権威がその力を失ってきた」みたいなことを言っていたようですが、そう思いますね。
誰かが示した指針に従うという時代ではないみたいです。
自分で心の中の在庫をすべて総ざらいし、自分自身で心の中に最後に残った本当の声を聞く必要があるのでしょう。

宗教、会社、経済、政治などなど、組織という組織、システムというシステムが「世界を幸福にしないシステム」になりつつあります。
こういうときは、組織が悪い、システムが悪いと戦いを望んでも無駄です。
善意とか正義とかを汲み取っていく組織とかシステムではもはやない感じです。
組織、システムが自己増殖し、暴走を始めた感じです。
むしろ、何とも戦わないで、自分の心を見つめなおしておくのがいいと思います。
心の中から余計なものを削ぎ落とし、大切なものを養っていく。

ちょっと度を越えた変な事件がおき続けています。
その悲惨さや異様さにいくら目を向けても見えてくるものはありません。

社会に無責任で冷淡になれということではありません。
こういう時代だからこそ、自分をもう一度丁寧に見つめなおし、改めるべきは改め、悔いのないようにしておくチャンスなのでしょう。

今までは時代のエネルギーが組織、システムが順調に進展することの背中を押していましたが、
これからは時代のエネルギーの向きが変わった感じがします。
一人が変わるということは、これからの時代とても有効です。

一人が輝くとその周りの家族、友人、知人がその光を受け、輝くヒントを貰い、光の輪が広がっていきます。
一昔前なら、一人が輝くということは、組織、システムの制度、論理内に閉じ込められていた感がありますが、
これからは思う存分輝くことができるような気がします。
既存の組織、システムに、輝こうとする個人を止める力はもはやありません。

生き生きと生きるのにはどうしたらいいか、みな一人一人が考え、実現していけばいいです。
そう簡単ではないことですが、やりがいがある話ではあると思います。

そういうぼくはというと、しょっちゅう道を見失って途上でぼんやりしてしまいますが、まぁ、そんなものでしょう。
どういう生き方を生きるのも、本当の意味で自分の選択次第になってきた感じです。
どんな選択でももちろんかまいませんし、誰もかまってもくれなくなるのでしょう。

輝かなければいけないなどと使命感を背負うとまた躓き易いかも知れません。
余分な荷物を背負うのではなく、余分な荷物を下ろすことなんだと思います。
なかなか持ちなれたものを手放すのは勇気がいることですが。

誰かのようになるという時代は終わったのかもしれません。
自分で自分を見つけ出す、そんな感じなのでしょうか。



空虚

2007年03月28日 | スピリチュアル
今日、自転車で店に出る途中、小学校の門前に立っている桜の花のがほころびていました。
空も晴れ上がり、気持ちのいい風が吹いています。
平和な風景ですが、このところ妙な胸騒ぎがしています。
何故か分かりませんが。
かくれんぼをしていて、一緒に遊んでいた友達がいつの間にか一人もいなくなったような気分です。

これから地球の大変動が来るだの何だのという本ばかりを読んでいたせいかもしれません。
心の中がざわついています。
不安になったり、怯えたりする必要は全然ないです。
日々生かされ生きることに感謝して、ほんわか生きればいいんです。
なのに、強烈なブレーキが掛かったような気がします。
ま、この経験もなにかの糸口なのかもしれません。
受け止めてみます。

人の意識は日常から離れたらいけませんね。
日常にすべてがあると、日常から離れた意識で悟ったようなことを言っても、まったく駄目です。
日常から離れた意識はどんどん物事の意味を希薄化させていきます。
行くべきところも、行くべき意味も、見失います。

目に映るもの、耳に聞こえるもの、舌で味わうもの、肌で感じるもの、すべてを豊かに感じることが生きることです。
そこから離れてしまうと、空虚に堕ちます。

空虚というのは、悪よりタチが悪いです。
悪は力技で修正可能ですが、空虚は修正の意志さえも呑み込みます。

いろいろなところに落とし穴があるものです。
日常を丁寧に生きていくにおいては、そういう類の落とし穴はありません。
賢者は必ず「日常を大切にしろ」と言ってきました。
神秘な世界を好奇心だけでうろつきまわる危険性がそこにあります。
心しなければなりません。

今から友人と飲みに行きます。
毎日毎日、責任感の強い仕事をしている友人です。
足を地に付けた会話が出来ればいいなと思います。


文鳥

2007年03月27日 | 雑感
昔は鳥籠に小鳥を飼っていた家が多かったように思います。
今はあんまり見かけませんが。
ぼくのうちでも文鳥を飼っていたことがあるのをぼんやりと覚えています。

夏目漱石の短編に文鳥のことを書いた小説があったのを思い出します。
主人公は、冬の寒い日、来る日も来る日も書斎にこもって重苦しい小説を書いています。
家人が買ってきた文鳥が時折「千代、千代」と鳴く声に耳を澄ませます。
主人公が昔恋心を寄せていた女性の名前が千代でした。
主人公は明治の男ですから、自分から文鳥の世話をしたり、可愛がったりはしません。
時折聞こえる「千代、千代」という声に耳をじっと澄ませるだけです。
ある日、廊下に出てみると、文鳥は籠の中で硬くなって死んでいます。
家人が餌をやるのを忘れて、籠の中にはエサの実の殻が散乱し、水を入れる器は干からびています。
主人公は声を荒げて家人を叱りつけ、後ろめたさを感じながらまた陰気な書斎にこもって小説を書き続けるという話だったと思います。

何か明るい話にしようと思って小鳥の話を始めたのですが、暗い話になってしまいました。

明治の男は一家の主人としての形がありましたから、今に比べてよほど心と行動のあり方が不自由でした。
そのあり方が不自由であると知りながらも、その伝統的なスタイルを守るという痩せ我慢の美学です。
今は何でも自由ですが、その代わり美学を失いました。
女性の生き方にしてもそうですね。

自由で美的というわけには行かないのでしょうか。
自由だとすぐスタイルが崩れていくのは、人間の弱さなのでしょう。
自由に堂々と羽ばたく鳥を見習うのがいいかもしれません。←無理やり鳥がらみの話に持って行きました




2007年03月26日 | スピリチュアル
昨日は天気も良く、張り切って滝に行きましたが、思ったより水が冷たかったです。
体がすっかり戻ってしまっている感じです。
ちょっとまとめて滝に通う必要がありそうです。
これから初夏にかけての滝は一年中で一番気持ちがいいので、どうにかしたいです。
寒い時は遠慮しておこうなどと、不埒な考えをしていたので、そのツケです。
それでも、滝場を去るとき、振り返って見た滝場に陽射しが降り注ぎ、虹がかかっていました。

頭で考える、いわば理念としての感謝と、心に湧き上がってくる感謝というのは当然別物です。
感謝しなければならないとは思うのですが、湧き上がるような感謝を常に心に抱いているわけではありません。
滝行の「行」に入り後半にもなると、不思議と感謝が湧き起こってきます。
おそらく、「行」を通じて普段心を占めている「我」を捨てるから、自然と感謝が心に入り込むのだと思います。
我の感謝というのは、損得における得に対する感謝です。
無我の感謝というのは、自分の存在そのもの、自分という存在を支えるすべてのものに対する無条件の感謝です。

「行」をすれば人格が高まるかといえば、全然そんなことはないと思います。
「行」を終えたとたんに、いつもの我が顔を出し、あれこれ不平を言い出します。
ただ、「行」をした時に感じた存在そのもに対する感謝の感覚はきっちりと心に刻まれますので、
自分が停滞したように感じるときは、その境地に立ち戻ろうとすることが出来ます。
立ち戻る地点があるのだと思うことが出来るだけでも、大いにありがたいことです。

禅の世界で大悟したという人は、大歓喜の渦に巻き込まれるような感じがすると言います。
禅の世界では、滝行などに比べても、さらに執拗に、徹底k的に「我」を排していきますから、
きれいさっぱりと「我」という幻を心の中から掃き清めてしまったら、大歓喜が心の中に入り込むのかもしれません。

我をなくすことはおそらく出来ませんが、我にコントロールされずに生きていけたらいいです。
そのためには、我をなくした経験が必要だから、「行」というものがあるのでしょう。
なにも特別な「行」が必要不可欠でもないのかもしれません。
仕事を通じて、子育てを通じて、大地を耕すことを通じて、「我」のコントロールを身につけていく人も一杯いるのでしょう。

いすれにせよ、さらさらと喜びと感謝を持って生きていければ言うことがないわけです。
生にしがみつく必要もなければ、死を恐れることもない。
ただ毎日をありがたいと思って生きていく。
あんまり生真面目でもいけないかもしれません。
自分も笑い飛ばすユーモアが大事かもしれません。

昨日の夕方からはネネさん主催の宴会でした。
ネネさんのマネージャーさんが長年勤めていた職場を晴れて卒業ということで、そのお祝いです。
祇園太鼓やら阿波踊りやら万歳ゲームやら、ネネさんらしい趣向を凝らした楽しい宴会でした。
心優しい人たちが集まると、独特の暖かい雰囲気になります。
実を言うと、今までそういう感じの雰囲気というのはどうも照れくさくて苦手だったのですが、昨日は溶け込もうと努力しました。
ぼくにとっての別の意味での「行」なのかもしれません。

人は馬鹿げた理由で「行」を迫られるものです。→それはお前だけ>おれ

お陰

2007年03月24日 | スピリチュアル
久しぶりにまとまった雨が降っています。
明日あたり滝に行ってみようかと思っています。

基本的に必要な時に必要な情報が来る、と思っています。
心が何かで曇っている時はそうでないときも、ままありますが。
今日なぜか店においてある観音様が気になりました。
厨子を開けてみると、観音様が倒れていました。
どういうことかとぼんやり考えていたら、ある掲示板で先祖供養のことを書いてあるのを読みました。
そう言えば、お彼岸だ、と思い当たりました。

墓参り、2年ほど行っていません。
毎日家の仏像には手を合わせてはいるのですが、先祖の冥福を祈ることはしていませんでした。
愚かにも、自分だけで生まれ生きて、幸福になるつもりだったのでしょう。
「お陰」を忘れると、大抵いいことはありません。
明日、滝場の阿弥陀堂で、無沙汰のお詫びをし、冥福をお祈りしてこようと思っています。

話は変わりますが、時間が経つのがもの凄く早くなっている気がします。
なんでも、その筋(笑)の話によりますと、地球の立て直しが近くなるとすべての波動が早まり、時間の速度も速まるのだそうです。
時間の速度が速まるということは、物事の展開が早まるということです。
何かをしようと思ったらぱっと実現したり、駄目になったり、結果が早く出るということです。
いちいち結果の良し悪しに一喜一憂している余裕がない感じです。

20世紀型の思考と態度では乗り切っていけないのかもしれません。
直感が重要になっていくでしょう。
直感と、やると決断したらすぐに行動に移す敏速さですかね。

でも、低迷を恐れてもいけません。
低迷するなら、低迷するだけの理由が必ずあります。
その理由を無視して前に進める感じがしません。
前に進まずじっとしていていたらいいじゃないかというと、じっとしていることが苦しくなってくる感じもします。
前に進もうとすれば、埋もれていた自分の中の障害を次々と発掘して解消していかなければなりませんし、
じっとしてニコニコ笑っているわけにも行かなくなったように思います。

体力、気力が弱るとこういうときは大変です。
逃げ場がありません。

ま、時代の変換期というのはこういう感じなのでしょう。

心が窮屈になったら、坐禅がお勧めです。
ともすれば空想に逃げ込みがちな瞑想ではなく、坐禅です。
ま、人にもよるんでしょうが。

ところで、写真は先週いきなり冬に舞い戻った頃の雲です。
龍が日本を抱きかかえているように見えますね。

以下は、この写真が撮られた翌日に、ある掲示板に寄せられた文章です。

287 :*********** :2007/03/13(火) 01:31:23
大雪が降りましたね。
低気圧が日本海上で回転する形で留まってるようですね。
雪不足による自然と作物への悪影響を苦慮された龍神様が死力を尽して下さっているようです。

あ り が と う 龍 神 様





2007年03月23日 | スピリチュアル
すべては、物質でさえもエネルギーの波動で出来ていることは、ようやく科学でも解明されてきましたが、
そこで忘れてはならないのは「音」です。

音魂とか言霊とか、「音」に込められた波動というのは普通思われているよりもずっと大きな力を持ちえるみたいです。
真言、マントラ、祝詞などといのは、みなまさに音魂、言霊です。

日本語はすべての文字に母音が付くことで知られています。
これも何か大きな意味がありそうです。
逆にヘブライ語などは子音だけで出来ている文字があるそうです。
その言霊的側面を研究したら面白いかもしれません。

古代から笛や太鼓などの楽器は神ごとの時には世界的に必需品であったようです。
太鼓は邪気払いという感じで、笛は神を召喚する楽器という感じでしょうか。
淡路で、神事のときに石笛が奏されましたが、神様をお呼びするための儀式であったようです。

人間の身体も突き詰めてみれば、波動の寄せ集まった「場」ですから、感情や体調の変動で波動も変化するみたいです。
例えば、「強い怒り」を感じると、心臓がぎゅっとする感じがあります。
そのぎゅっとする感じを意識全体で包み込むようにしてそのままを感じ、
感じるままに声に出してしまうと浄化されるのだそうです。

逆になんとも言えない優しい思いになったとします。
その思いが体のどこに影響があるのかを(胸があったかくなるとか、頬が緩むとか)感じ、
やはり意識全体でそれを感じたまま声を出してみると、怒りの時とは全然違う声が出るみたいです。

それで、その優しい思いになった時の声を覚えておいて、なんでもないときにその声を出すと、
やさしい気持ちになれるのだそうです。

つまり、ある感情は体のある器官に対応しており(怒り=心臓、というふうに)、その対応は音(声)という波動にも対応しているということです。
この対応関係を明らかにしていけば、例えば胃弱にはこの音、腎臓病にはこの音というふうに、
音による治療法が可能になるかもしれません。

ぼくは昔の巨石文明というのは、ある種の波動を使って作り上げられたものという気がしています。
「気」なのか「音」なのかは分かりませんが。

紐を引っ張るとメロディーが流れるオモチャがあるのですが、娘は確かにモーツアルトの曲がかかるとにっこり笑います。
モーツアルトの曲で動植物の成長が促進するというのも本当なのかもしれません。

そういえば、「音」の限らず「匂い」もそうなのでしょうね。
「匂い」も間違いなく波動ですから。
ぼくは良く知らないのですが、アロマテラピーというのが盛んなのも、きっとそういうわけなのでしょう。

そんなことを言ったら、「味」も「触覚」も「色」も波動として捉え、ヒーリングに使えそうです。
「触覚」はマッサージがあるし、「色」もカラーセラピーというのがすでにありますね、そう言えば。
「味」はその時々で美味しいと感じるものが違いますから、ごく自然にセラピーとして捉えているのかもしれません。

まぁなんにせよ、いろいろ波動を整えて、自分自身がいい波動の存在になればいいのですが。
まずは、自分の使う言葉を整えるということから始めようか、という感じです。

思い

2007年03月22日 | スピリチュアル
ここ数日。書きたいことが浮かんでこなかったものですから、ブログお休みしました。

滝行を始めて3~4年になりますでしょうか、ご縁がご縁を呼んで、仏様ごとを齧り、神様ごとを齧り、
なんというか大筋みたいなものは見えてきた感じがします。
でも、大筋が見えようが見えまいが、最初から最後まで目の前に立ちはだかり続けるのが「自分」です。
自分のあり方です。

ここ数日ちょっと迷いが出てたのですが、素晴らしい本が手元に来まして、一気に読みました。
『「原因」と「結果」の法則 (ジェームス・アレン著)』サンマーク出版です。
題名から本屋に山積みにされている類の成功哲学の本かと思われるでしょうが、違いました。

アマゾンのレヴューを紹介します。

「この本はかなり深みがあるように思います。

 初めてこの本でこの法則を理解しようとなると
 なかなか難しいものがあります。

 自分も半年前に購入し1度読んではみたものの、
 イマイチしっくりこなかったので、本棚に
 眠らしておきました。

 その後、マーフィーやアール・ナイチンゲール
 などの成功哲学を学んでいて、ふとこの本を
 読んでみようと思ったのです。

 驚きです。これほどストレートにこの法則を
 説明している本は他にないでしょう。他の本に
 あるような余計な眠くなるような説明がないのです。
 そこが初めて学ぶ方にとっては苦しいのですが・・・

 この本を読んでいまいち理解できない人は、
 一度他の方の成功哲学を学んでみてみることを
 お勧めします。それからもう一度読んでみると
 また違った感想をもたれるのではないのでしょうか?」

ぼくもまったく同様の感想を持ちました。
小冊子と言っていいほどの薄くて小さな本ですが、的確で、一切の無駄がなく、深いです。
啓蒙書というよりは、宗教書に近いものを感じました。

「思考は現実化する」とか「思いがすべて」とかいう言葉はよく聞くのですが、これほど的確に説明した本をぼくは知りません。
環境や自分に起こるすべては自分の「思い」が反映したものというのは、ニューエイジ風の言い草ですが、この本は100年前に出版されたものです。

簡単に説明しますと、
心は思いを蒔く土壌であり、思いは行動に表れ、行動は結果という果実を産む。
心=畑、思い=種子、行動=花、結果(環境)=果実だということです。
現実に実った果実(自分の今の環境、手にした結果)に不平を言う人が多いのですが、
自分が蒔いた種(思い)が例外なく結果として現れるだけだと説きます。

放って置くとすぐ雑草が生える畑(心)の手入れを怠り、いい加減な種(思い)を蒔き、虫食いだらけの枯れかけた花を咲かせ、
果実だけは思った通りのものが手に入らないと不平不満を言っているのが人間だと。

逆に言うと、人が心の平安(見事な果実)を手に入れるのは難しくないということなのです。
心の中の邪心(過剰な欲、妬み、怠け心、怒り等々)に一々相手にせず、清浄な思いを抱き続け、その思いのまま行動に移し、見事な果実が実れば喜び、
思った通りの果実が実らなければ、なにがいけなかったのかを反省して改善すればいいのです。

書いてみると、何だか当たり前のことをクドクド書いているような気になりますが、この当たり前のことでしくじるのも人間です。

例えば、今現在状況(実った果実)がうまくいっておらず、やる気も萎え、思いも否定的なものが多くなりがちだとしましょう。
そのまま放っておけば、間違いなく状況はさらに悪化するでしょう。
でも、どんな状況でも、種を蒔かなければ、果実が実ることはありません。
状況が悪化していけば行くほど、「思い」も不純なものになっていくでしょう。
開き直って「思い」を磨きに磨いて、これこそはという種を心に蒔いてみればいいのです。
おそらく心には雑草が生え放題です。
これこそはという種を蒔こうと思ったら、雑草が気になり、抜き始めるでしょう。
そして、これこそはという種を蒔いたなら、出来るだけきれいな花(行動)を咲かせたくなるでしょう。
きれいな花を咲かせたなら、きっと立派な果実を収穫できるでしょう。

そして、これこそはという種が、自分のピュアな「思い」なのです。

「どうせしたって無駄だろう」「どうせ自分なんて」「なんとかなるんじゃない」というような腐りかけた種ばかりを、
せっせと雑草だらけの畑(心)に蒔いていたかもしれません。
ろくな果実が出来るはずがありません。

あとは、自分のピュアな「思い」というのがなんであるのか、それを知るだけです。
知ったら直ちに蒔くことです。
正直に「思え」ばいいことなのですから。







インタビュー

2007年03月17日 | 雑感
相変わらず空は晴れているのに風が冷たいです。

今日やっと荒立神社の宮司さんのインタビューのテープ起こし終わりました。
延べ日数にして3ヶ月近くかかってしまいました。
メモを基にした取材記事(高千穂神社・後藤宮司)は数日でできたのですが、テープ起こしは正直きつかったです。
几帳面な正確と正反対な性格をしているものですから、あれでした。
後は多少の推敲をして、後書きを加えれば完成です。

切手代とコピー代を負担していただければ、どなたにでもお分けしますので連絡ください。
メールで添付でもいいですが、少々重いかもしれません。


「日本の地下水脈」シリーズ

1.滝行 矢頭導師
2.高千穂神社 後藤宮司
3.幣立神宮 春木宮司
4.荒立神社 興梠宮司

torut21@mail.goo.ne.jp まで。


覚悟

2007年03月16日 | スピリチュアル
風が寒い日が続いています。

雑誌「致知」の記事からです。

昭和39年の大晦日、単身、仏の教えを伝えようとニューヨークに渡った嶋野栄道という人がいます。
警策一本、仏像一つ、スーツケース一つ、現金5ドルだけを持って、ケネディ空港を降り立ちました。
日本に帰れないように自分を追い込んだのだそうです。

アパート代もないし、知り合いもいません。
もちろん、檀家もいませんし、寺もありません。
何とか日系企業に運転手の職を見つけ、やれやれと思います。
ところが、生活に追われ、坐禅も組まない、お経も読まない、掃除すらしていない。

そんな時、師匠の中川宋淵師の言葉を思い出します。
「もし本当に法のために心身を捧げるなら、法のほうからやってくる」
深く恥じ入り、運転手の職を辞し、翌朝から4時に起き、坐禅をし、掃除をする生活に入りました。
それから、それを続けているうちに話を聞きにやってくる人も増え、家賃や食事の生活の問題も自然と片付いてしまったと言います。

嶋野禅師は言います。
「もうこれ以上落ち切れないというところまで行ったことが大事なのだと思います。そこで覚悟が決まった。
 落ちきらなきゃ駄目なんです。誰でも苦労はしたくないけれど、どん底まで落ちないことには見えてこない世界があるんですよ」

それから、ゼロックスコピーの論理を発明した物理学者の援助を得て、昭和43年にニューヨーク禅堂正法寺がオープンします。
さらに、昭和51年、ニューヨーク郊外の550万平方メートルの土地に大菩薩禅堂がオープンします。

「私の力などどうといういことはないんですよ。すべて「わがはからいにあらず」です。もちろん、気も心も使い、
 お金も使いましたが、すべては何か知らない大きな力に押されて、なるべくしてなったということです。
 自力と他力の絶妙な巡り合わせです。謙遜でも卑下でもなく、そう思います」

命を預けて、覚悟を決めた人間というのは、天が全力で応援するようです。

知人であった坂村真民の「念ずれば花ひらく」を解釈して、次のように言います。
「念じようが念じまいが、心の花は咲きっぱなしに咲いていて、絶対に散らないものだと思うのです。
 ただ、それに我々が気づいていないだけであってね」
「実は誰もが、朝から晩まで何処にいても、極楽のど真ん中にいるのですよ」

禅師独特の明快な清清しい境地があります。


瞬間

2007年03月12日 | 雑感
昨日は快晴、山に登ってきました。
陽光はかなり強くなっているのですが、何せ冷たい風が強かったです。
頂上では着ていたウインドブレーカーがバタバタ言って、もう大変でした。
ぺらぺらのウインドブレーカーの下は綿のスエット上下だけでしたが、不思議と寒さは感じませんでした。
ほっぺたが冷たくなっているのは自分でも分かりましたが、心地いいくらいでした。

信じてもらえないでしょうが、山全体が犬の糞の臭いが漂っていました。
そういえば、市街地近郊の低山ですから、犬連れの登山者によく会いました。
山でも犬の糞を拾えとは思いませんが、まぁあれです。
雨も降らないし、気温が低いので糞の分解も進まないせいでしょう。

山に登るたびに目に付いたゴミはポケットに入れて持って帰るようにしてました。
以前のように、ポリ袋ごと捨てて帰るような人はいなくなりましたが、それでもキャンデーの包み紙などは結構あちこちに見られました。
わざと捨てたのではなく、キャンデーを口に入れるときに風に飛ばされたかなんかしたのでしょう。
でも、昨日は唯の一つも見当たりませんでした。

多少のゴミがあっても犬の糞の臭いのしない山と、ゴミがなくても犬の糞の臭いのする山。
なかなか完璧というのは難しいです。

下品な話ですみません。

話は変わりますが、心というのは、なんというか厄介ですね。
ある体験なり感動なりを通じて、きれいさっぱり汚れや澱みが流れ出たと思っても、
次の日からは着実に新たな汚れや澱みが積み重なっていきます。
自分ではそんなことには気が付かず、すっかりきれいな心になっているつもりなもんですから、あれっと驚きます。
近くの山の様に、知らず知らずのうちに、ゴミや犬の糞が積み重なります。←シツコイ

汚れや澱みの原因ははっきりしています。
欲と怠け心です。
欲というのは、その目的達成のためにはいろいろな形にそのあり方を変えますから、なかなか正体を現しませんが、問題は怠け心です。
これはもう言い訳のできないはっきりした行為となって現れます。
「まぁいいか」「今度しよう」「今でなくてもいいか」等々のおなじみのフレーズを伴います。

怠け心の問題点は、生きるというのは瞬間瞬間の積み重ねであるのに、その瞬間瞬間をまったく無駄なものにしていくということです。
酒を飲みながらテレビを見ていても、何一つ得るものはありません。
逆に言えば、することをしようと思ったら、酒を飲んでテレビを見る時間はなくなるわけです。
テレビというのは何か内容がありそうに見えて次の日にはなにも覚えていないような内容のものがほとんどです。
言うまでもありませんが、ブラウン管に流れる画像を受動的に見ていても、自分の人生とは何の関係もありません。
ブラウン管に流れるのは、どこかの他人のどうでもいい人生です。
でも、テレビを見ているとそれに自分も参加している気になるから、危ういんですね。

思ったら、取り掛かる。
そういう癖が付いたら、なんか悩みというのはなくなりそうです。
難題や一苦労はありそうですが、悩みという種類の心の葛藤はなくなりそうです。
もともと悩みというのは、心に沈殿する泥みたいなものなのかもしれません。
心に溜まった泥に心自ら捕われる。
そうして、さらに溜まった泥が深くなる。
溜まった泥を一気に掻き出すことができればいいのですが、特殊な修行でもしない限り、そうはできないのが心みたいです。

瞬間をおろそかにするものは、生全体から復讐される。
今日のマイ格言でした。





バイト

2007年03月10日 | 雑感
はっきりしない空模様です。
明日あたりは山登りに行こうかと思っています。
昨日、横断歩道でちょっと走ったら、足がロボットみたいにギクシャクとしか動かなかったことにちょっとショックを受けましたので。
店にだらだら座っている毎日ですので、筋肉が衰ろえっ放しです。

20代後半まで就職する気もなく、アルバイトをしては旅行してました。
居酒屋、パン工場、学習塾、ガードマン、株券整理、ビヤホール、内外装、弁護士事務所などなど。

中でも一番長く、お金もよかったのが超高圧水を使った、外壁の剥離業です。
特許をとった工法で、超高圧の水が何箇所かのノズルから出ます。
そのノズルを空気圧で回転させ、建物の外壁の塗装や新幹線などの車両の塗装を剥離します。
超高圧の水を侮ってはいけません。
指などに触れると一瞬に穴が開き、もの凄く痛いです。
ノズルを代え、水を一個の穴に集中させますと、コンクリートも切断できる文字通り超高圧水です。

その水を噴射する機械(ガンと呼んでいました)の形状は、そのまんま機関銃のような形をしています。
軽量化を図ってチタンでできていますが、それでも10キロくらいはあったかと思います。
そのガンに水と空気圧のホースが二本繋がっています。
そのホースはそれぞれ遠く離れたトラックに詰まれたポンプに繋がれています。
したがって、手元で超高圧水を止めたり出したりする作業はできません。

足場を移動するたびにいちいちスイッチを止めたりはしませんから、水が出たまま足場を上下左右に移動するわけです。
上下を移動する時は、片手で水を噴射したままのガンをぶら下げ、足場から身体をだし、片手で足場の枠に捕まって上下の段に移動するわけです。
ガンは、凄い圧力のかかった水をグォーという凄まじい音と供に噴射しているわけですから、じっとしていません。
初心者のうちは、その移動の際に、長靴の上からとかゴム手袋の上からとか水を当ててしまい、指やら足の甲に穴をあけてしまうわけです。

なかなかスリリングな職場でした。
秋田、長野、新潟、それから都内各所とあちこち止まりこみで現場から現場と流れ歩くのも性に合っていました。
夜は仲間と飲み屋に繰り出します。
かなりの金額のお金を貰っていましたが、飲み屋で消えていました。
いつまでこんなことをやっているんだろうとぼんやり考えることもありましたが、概ね楽しかったです。

ただ、時々しっかりした仕事をする業者がいて、塗装がとても硬く手におえないことがありました。
そんなときは剥離剤というのを塗装の上から塗ります。
しばらく待ってから、超高圧水を吹き付けて、なんとか塗装を飛ばすわけです。
水しぶきと一緒にその剥離剤が顔にかかりますと、異様な臭気と供に皮膚がひりひり痛くなります。
分厚い塗装を溶かすほどのやつですから、猛毒だったのに違いありません。

ま、戦場にいる気分で仕事してました。
超高圧水の吹き出る轟音と、空気圧で回転するモーターの音と、飛び散る水と跳ね返る塗装の破片で全身べたべたです。
ガンとホースの重さで15,6キロの機具を持ったままですし。
でもって、ストレスは全然感じませんでした。
駄目な人はまったく駄目で、一日持ちませんでしたが。

なにを言いたいのかというと、昔は体力あったのになぁということです(笑)

秋田に行った日の長い夏などは、現場を4時過ぎくらいで切り上げ、近くの日本海まで釣りに行ったりしました。
日が暮れるまで、酒の飲みながら釣り糸をたれ、ホッケの稚魚などが釣れました。
なんかおもしろかったです。

ちなみに、ぼくが辞めてから、この工法で国会議事堂やニューヨークの自由の女神像も洗ったらしいです。
自由の女神像は洗ってみたかったなぁと思います。




バカ

2007年03月07日 | 雑感
真冬に逆戻りした感じですね。
今時の本来の気候に戻ったとも言えますけど。

自分の娘の話で恐縮ですが、夜中に何度かお乳を欲しがって夜泣きします。
ぐうたらなぼくでもやはり目が覚めます。
妻が立ってミルクを用意している間、横でヒーヒー泣いている娘の顔を覗き込むと、にこっと笑います。
布団に寝ていても、歩行器に座っていても、おんぶされていても、顔が合えばにこっと笑います。
顔が合えば、にこって笑ってくれる人というのは、生まれてこの方、娘だけです。

そんな娘でも、もの心ついたら、例に漏れず父親がうざったくなるのだろうことは覚悟はしています。
でも、娘がいくつになろうとも、赤ん坊の時に、顔さえ合えばにこっと笑っていた娘の笑顔を忘れることはないのだろうと思います。
そういう瞬間があったことを、ぼくは忘れることはないのだろうと思います。

娘が成人する頃は、ぼくは爺さんです。
その頃、娘は過去のことよりも、自分の夢や希望や未来のことで頭と胸が一杯でしょう。
そんな娘をぼくは杖ついて寂しげに後ろから見ているのでしょうか。
ぼくはかなりわがままですから、おそらくしたいことをしているはずで、寂しげに見るということはないとは思うのですが。

赤ん坊を見ていると、人一人が生まれ、無事に育つということが本当に奇跡的なことであることに気が付きます。
生まれたての赤ん坊は、グニャグニャしてて、無防備で、抱く手を滑らせても、なにかに感染しても、すぐ死んでしまいそうです。
はいはいしだしたら、あちこちに頭をぶつけるわ、舐めまわすわで目が離せません。
歩き出したら、なおさら何もかもが危険物になります。
階段から落ちる、転んで後頭部を打つ、車道に飛び出す、もう心配したらキリがありません。
そんな死と隣り合わせの危険だらけの瞬間をことごとく切り抜けて、人は大人になっていきます。

ぼくなどもすっかり気づかなかったのですが、回りの人たちがどんな思いで自分の成長を見守っていてくれたのか、
改めて感謝しなければいけません。
自分のことのみで頭を一杯にし、異性を追いかけ、感謝どころか自分の環境に不平不満だらけで、そんな風に若い時を生きてきました。
自分がそんなふうだったから、娘がそうなっても偉そうに説教はできないでしょう。
そうやって、親と子の関係は循環するのでしょう。

親バカという言葉があります。
子を持ったら初めて人は心の底からバカになれるのでしょう。
ただ笑ってくれるだけで、心の底から嬉しくなる。
それがバカなら、バカ万々歳です。
できるなら、もう一歩進んで、バカを極めるといいかもしれません。
太陽が照って、嬉しくなる。
木々の葉の揺れるのを見て、嬉しくなる。
街角の何気ない家族連れを見て、嬉しくなる。
なんでもかんでも、嬉しくなる。
そうなると、無害、無敵のバカになれます。

まぁ、こうやってたわいもないことを夢想してニヤニヤするのを、それこそ親バカというのでしょう。


温暖化

2007年03月06日 | スピリチュアル
なんか急に寒くなりました。
空も暗く、時折強い風も吹きます。
油断させて、足元すくうような今日この頃の天候です。

よく海に釣りに行く人に今日聞いた話なのですが、海水温度が年々高くなっており、やはり異変が起きているそうです。
なんでも日本近海にいるはずのないフグ毒を持った何とかという蛸が捕れたり、今頃いるはずのないサメに釣った魚を食われたりするそうです。
釣れる魚も、今頃釣れるはずのない魚が多いのだそうです。
温暖化の影響などは、海に出ている人などが一番身に感じているのでしょうが、だからといってなにをどうしていいのか分からない状態でしょう。
地球上の70パーセントを占めるといわれる海水の温度を一度上げるのに、大気の温度を一体何度上げればいいのでしょう。
それを考えると恐ろしい話ですが、恐ろしがっているばかりでなにもできないのは情けない話です。

ある人が、なにを切っ掛けに朝、鳥たちが鳴き始めるのかを観察しました。
すると朝日やなんやではなく、なんと光合成を始めて葉っぱから酸素が出始めると、嬉しくて鳴きはじめるのだそうです。
いい話ですね。
それから、昔は大気中の酸素の濃度が今よりも数十パーセント高かったという話も何かで読みました。
ぼくがいつもだるいのは酸素濃度が低いからかもしれません。←バカ
そんなこんなでも、今の世界は二酸化酸素を吐き続け、森林の伐採を続けるでしょう。
今の社会のあり方、仕組みから言って、地球を壊し続ける流れを止めるシステムはないからです。
早朝、葉っぱから酸素が立ち上ったら、鳥と一緒に人も喜ぶという世界は夢物語になってしまいました。

ぼくもそういう社会の仕組みに間違いなく加担している一人です。
天の意志がこの有様をきれいさっぱりに洗い流そうと「立て直し」するのなら、自分の身がどうなろうと構わないとも思っています。
地球全体の破壊はし方がないが、自分の身はなにが何でも大事だとは思えないからです。

でも、やれることはやっていきたいなと思います。
「立て直し」が怖くて、何かをしたいわけではありません。
生きている限り、考え直すべきは考え直し、勘違いを正し、やれることをやるだけです。
人様にどうした方がいいだとか、ああすべきだとか言おうとは思いません。
そういう段階ではない気がします。
もうすでにほとんどの人が気が付いているのだろうと思います。
気が付いていながら、何の手も打てない状況なのだろうと思います。
だから、自分で自分のできる限りのことをするしかありません。
変えることが出来るのは、状況ではなく、一人一人の意志でしかないと思うわけです。

で、やれることってなにか?
中国、インドや第三世界にまで広がりつつある大量生産・消費の流れをぼくの手で止めることは出来ません。

ぼくができること。
できるだけ菜食に切り替えること。
天に感謝しながら生きること。
人にマイナスな感情を持たないこと。
不必要な欲は手放すこと。
自然との繋がりを忘れないこと。
こんなことくらいでしょうか。

何だそんなことかと拍子抜けされるでしょうが、ぼくができることはそんなことくらいです。
どんな状況になろうが、「うれし楽し」で生きられればいいです。
「うれし楽し」の輪が広がれば、必要以上の地球の破壊は止むと信じたいです。
欲が欲を呼ぶサイクルを止めるしかありません。
楽しく暮らすだけなら、日本人が今消費している食料の、電力の半分で済むんじゃないかと思います。
資本の論理は過剰の生産、消費を求めます。
自分からその論理体系から離脱しなくてはなりません。
貧乏になる覚悟はあります。
おまえは今だって貧乏だから覚悟なんていらんだろうと言う声があちらこちらで上がったのが聴こえます(笑)