風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

文学

2017年12月11日 | 雑感

芥川は芥川でいるかぎり死に至る。
太宰は太宰でいるかぎり死に至る。
三島は三島でいるかぎり死に至る。
そしてヘミングウェイもヘミングウェイであるかぎり死に至る。

漱石は漱石でいるかぎり胃を壊す。
鴎外は鴎外であるかぎり孤に陥る。
村上は村上であるかぎり脱に拘る。
そしてドストエフスキーはドストエフスキーであるかぎり現実と空想の間を逡巡する。

そしてタカハシトオルはタカハシトオルであるかぎり全てを逸脱する。
かぎりのない虚無に向かって。
タカハシトオルとは虚無の海に浮かんだ虚無の船。
どんなに実のある荷を積んだとしても、虚無の海の底に沈める虚無の船。

虚無は虚無、なにもかもが無意味な地獄のマグマ。
無とは無だからこそ全ての可能性が開ける、全てがそこから産まれいずる豊穣の海。
それでも、豊穣の海は地獄のマグマの熱量を吸収する。
そうして、ありとあらゆる熱帯魚が南の海で乱舞する。

無の豊穣は豊穣であるがゆえに、秩序とともに混沌も同時に産み出す。
秩序と混沌のせめぎあいこそ豊穣なのだ。
是非が螺旋状に渦巻くのが地表での出来事だ。
タカハシトオルは声を失う。

おれは何に参加したいいのだとタカハシトオルは言う。
したいようにどうぞと風は答える。
タカハシトオルはうなだれる。
騙されるものかと思う。

でも、誰も騙してはいない。
優しかろうが、ズルかろうが、われ関せずであろうが、人はそれぞれの縁起にしたがってあるようにある。
それだけのことだ。
ただ、タカハシトオルには、それだけの縁起の自覚がない。

「いま、ここ、じぶん」の自覚が薄い。
厄介だ。
答えをわかりつつも、そう生きられないどこまでも小賢しい阿呆。
そうして本来尊い時間というシステムを空費していく。

面倒くさいです。もうすべてと直結したいです。

 

 

 

 

 

 

 

 


青い鳥

2017年12月02日 | 雑感

メーテルリンクの有名な童話「幸せの青い鳥」は、ぼくも読んだことがあります。
おそらく小学校低学年のころだったと思います。
今考えると、すごい話です。
それにすべてが尽きているというような話です。

「いま、ここ」の外に幸せの答えを探しても、決して見つからない。
外の世界は常になにかありそうなそぶりを見せ続けるけれども、夢の如くこの手に掴めるものは何もない。
「いま、ここ」から逸脱すれば、過去・未来に、あるいはここではない架空の場所に答えを捜し求めることになる。
まさに禅が厳しく戒める逸脱です。
そして、今でも多くの人が逸脱し続けているありようでもあります。

「いま、ここ」が掴めれば、人は安心します。
逆に言えば、それが掴めなければ、どんな境遇にいようとも、人の心は安んじることができません。
「いま、ここ」を掴むためにはどうしたらいいのか。
その、どうしたらいいのかという「計らい」を捨てきることなんだと思います。

「計らい」は自らの計らい通りになるように、自分と周囲の行動を自らの想定通りに流動することを「期待」します。
誰が期待するのかといえば、期待するすなわち計らう当人「だけ」です。
周囲の人や環境が、一個人のきわめて恣意的な計らいに一々考慮しながら流動するはずもないのです。
ところが、「計らう」人は、自分の計らい通りになった、ならないと一喜一憂して日々を過ごします。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」
これまた有名な良寛さんの残した一切の「計らい」を捨てきった尊い言葉です。
一見、常識的な見方からすれば、この言葉は非情で無責任な言葉に思えるのかもしれません。
昨今の震災で亡くなった人たちに、この言葉を誰かが紹介したらその誰かは間違いなく袋叩きに遭います。

「妙法」という言葉の重厚さを分かれというほうが無理があるのかもしれません。
「計らい」を捨てるという意味も、おそらくすこぶる分かりづらいです。
「計らい」ばかりで現実の経済活動も、婚姻生活も、教育システムも、なにもかもが成り立っているわけですから。

「計らう」前から、幸福はそこにあった。
それに気がつくというのがメーテルリンクのお話でした。
お話としては誰もが分かります。
でも、自分自身のリアリティとして、この世の幾人かがそれを実感して生きているでしょうか?
それは自分自身が生きるという唯一無二の物語の中で、各々が感得していくしかないでしょう。

こうなればいいなぁ、ああなれたらいいなぁという夢想に「いま、ここ」はありません。
ああすればよかった、こうすればよかったという後悔にも「いま、ここ」はありません。

「いま、ここ」はどこにあるのか?
その質問自体が砕け散る必要があるのでしょう。