風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

天意

2005年11月30日 | スピリチュアル
なんか月末でばたばたしていて、2日間ブログが書けませんでした。
謝るのも変ですが、すみません。

今度の日曜日には滝の仲間とネネさんたち気功の会のメンバーたちの合同で、高千穂参拝に行きます。
天岩戸神社の川原で禊もします。
高千穂神社でネネさんの巫女舞の奉納もあります。
幣立神社の若宮司さんのお話も聞けます。
なかなか盛りだくさんで、楽しみです。

寺と神社というのは、上手くいえませんが、感じる空気というか、肌合いというか、感触が違います。
寺は内奥に気というかエネルギーが集中していくような感じがあり、
神社は外側にエネルギーが放出されているような感じがあります。
あくまでも漠然とした感じなのですが。

寺にお参りするときは自分の内面から集中力を高めていくような感じがするのに比べて、
神社にお参りするときは自分を全面的にお任せするような感じになります。

ま、あくまでも個人的な感想なんですが。

近頃、本当に節目に立っている人が多いように感じます。
もちろん、ぼくも含めてですが。
身近に会う人会う人のほとんどが次のステップを踏もうとしています。
時の流れ方がちょっと今までと変わってきたのかもしれません。
時の流れが変われば、生き方も修正なり、ステップアップが必要だったりするのは、当たり前でしょう。
上手く修正なり、ステップアップができないと、流れに呑み込まれてしまうこともあるでしょう。

ピンチはチャンスでもあります。
こういうときは、次から次へといろいろなチャレンジがやってくるものです。
臆せず、舐めず、正面から突破していければいいのですが。
胆力が必要ですね。
そういう意味でも、丹田に意識を集中する気功や滝行というものを、有効活用したいものです。

どんなに長いトンネルも、明るい世界に通じていないトンネルはありません。
暗闇の中にいながらも、挫けぬ意思と覚悟で、闇を抜けるためのスピードアップを図り続けるというのは、
口で言うほど簡単ではありません。
簡単ではないからと言って、歩みをやめたら闇から抜け出せなくなります。
下手をすると、どちらへ行っていいのか、方向性を失うこともあります。
そんなときに、傍に導いてくれる人があれば、幸いですが。

流れが変わる時というのは残酷なものです。
人の歩みに流れがあわせるのではなく、流れに合わせて人は歩まなければなりません。
流れとは何かと言えば、一言で言えば、天意ということができるかもしれません。
軽々と天意に沿うて、生きることができれば、言うことがないのですが。

心して高千穂参拝に臨みたいと思います。




不況の巷

2005年11月26日 | 雑感
今朝は二週間ぶりに滝に行きました。
さすがに冷たかったです。
冬の滝恒例の焚き火も始めました。
服が燻製臭くなっています。

それにしても、今年は紅葉が綺麗です。
滝場の周りのイチョウやなんやらが黄に、紅にと、鮮やかに色づいていました。

近い将来、仏像中心の和物の骨董の店を出そうかと思っています。
で、いろいろ機会を狙っては、いろいろ仕入れています。
その中で、多分大正期くらいの渋い神棚が届きました。
これは骨董の店ができたら、そこに据えようと思っています。

アンティークや骨董の店というのは、ディスプレイにお金がかかりません。
商品がそのままディスプレイになるので、めんどくさがり屋のぼくには大変楽です。
埃が積もっても、「古いものですから」と言えばノープロブレムです。←強引

ところで、昨日の夜、お客さんとフランス料理を食べに行ったのですが、
金曜日だというのに、最初から最後まで、お客さんがぼくら一組だけでした。
街の中心にあり、味もこの辺りでは手の込んだ上等なものだったのですが、そんなありさまでした。
その料理店は三階建てですよ。
おカミさんに聞いてみたら、クリスマスの予約も一個も入っていないのだそうです。
重ねて言いますが、雰囲気も、ロケーションも、味も、接客も何一つ問題ありませんでした。
今はそんなものなのですかね。
いい店が次々となくなっていくので、どうかあの店は生き残って欲しいものですが。

人の心配をしているうちにぼくの店がなくなっていたら、笑ってください(笑)



祈り

2005年11月25日 | スピリチュアル
作用・反作用というのがあります。
エネルギーが動く時には、必ずそれに見合う対抗エネルギーが生まれます。
要は、エネルギーが一方向に動いて消えてなくなるということはありえないということです。
エネルギーはその姿を変えて、どこまでも存続します。

よく、人は生かされていると言い方をします。
人間は、一方的に生命エネルギーを与えられて、それを消費しているだけのように見えますが、
エネルギー自体は形を変えて存続するという法則からしますと、
単に摂取したエネルギーを消費しているわけではなく、日々何らかの形でエネルギーを違う形に変換しているわけです。

何かを生産したり、人に奉仕するというのもエネルギー変換のあり方ですが、
いがみ合ったり、愚痴を言ったり、傷つけあったりというのも、やはり生きるうえでのエネルギー変換のあり方なのでしょう。
どちらが生産的で、豊かな結果を生み出すのかは言うまでもありませんが。

で、祈りというのも、本来は双方向的なものだと思うわけです。
一方的に、願望や欲求を訴えても、おそらくそれは一方的であるがゆえに回路が開かれず、
聞き届けられることはないのではないかと思います。

どういうことかというと、願いを掛けるのはいいのですが、その結果は祈る対象である神仏あるいは天に、
お任せするという心掛けが必要なような気がします。
その時に初めて、双方的な回路が開かれるのではないかと。

お任せしきるという心持がないと、神仏が本来的な意味でその人を援助することができないのではないかと思います。
祈る人のほうに、勝手な思い込みやら、見当違いやら、計算違いがあるときに、
その人の祈りをそのまま聞き届けることがいいとは限らないというか、そういう勘違いをして祈る場合のほうが多いのだと思います。

要は、人間の意識のあり方というのは、自分の都合による一面的な方向性をとりがちなのですが、
常に双方向の意識のあり方というのを考えるといいのかなと、ちょっと思ってみたわけです。

すみません、ネタがないのでとりあえず書いてみました(笑)




聖なるもの

2005年11月24日 | スピリチュアル
今日はなんか慌しい一日でした。
で、なにも書きたいことが思い浮かばないので、日めくりから。

「『聖なるもの』を見る視座がなければ、人間の尊厳という思想の根はできない」 A. アタイデ

A. アタイデという人物をぼくは知りませんが、その通りだと思います。

理屈や理論をいくら敷衍しても、人間の尊厳やら人権やらといった理念には辿りつかないと思います。
理念が法理論に基づくのではなく、法理論が理念に基づくべきであろうかと思います。
その理念が、恣意的な時代的・社会的制約を受けたドグマやイデオロギーであっては、非常に窮屈な法理論にならざるを得ません。

現代では、言うまでもなく、『聖なるもの』ということについて語るのは、非常に難しくなりました。
カミと呼ばれるものについて語ることは、とても神経を使います。
あくまでも個々人の意識に基づいて思想を構成すべきなのか、
あるいは個人の意識を超越した何らかの「聖なるもの」を想定して、思想を語ることが許されるべきなのか。

難しいですね。
語ることからさえも超越するのが「聖なるもの」なのですから。

いうなれば、個々人の制約された思想信条と、「聖なるもの」の音にならない語りかけとのせめぎあいが、この世なのでしょう。







気功

2005年11月22日 | 雑感
えー、日曜日は無事、柚子狩りも終了しまして、飲み会も参加者みんなが記憶がないまま、無事終了しました。

月曜日には、滝の導師と一緒に気功のネネさん主催の講演会に行きました。
ネネさんのお師匠さんである中先生が熊野からみえられ、初歩的な気功の実習を受けました。
思った以上に気功の世界は深く、広い世界に繋がっていました。
身体作り、健康維持、免疫力増進、若返り(笑)にはとても効果的であるように感じました。
なによりも、大きな気と繋がり、心身に溜まった毒気や疲労を吐き出すのは、とても気持ちが良かったです。

滝行とも合い通じるというか、重なり合う部分も多く、なかなか面白かったです。
お互いのよさを吸収しあえば、より効果が高まるのではないかという感触を持ちました。

滝にも参加しているSさんの歌と踊りもありました。
ダイナミックで、迫力がありました。
なんか化粧をしたSさんは、ジュディ・オングに似ていました。

いろいろなところで、いろいろな人が、いろいろな素晴らしい世界を作っているんですね。
ぼくなんか、店に閉じこもっているものですから、一生懸命に外に開けた世界を作っている人を見ると、素直に驚きます。
自分の無為無策が恥ずかしく思えてきます。
運気を見極めた無為無策と、運気から外れた無為無策とでは、雲泥の違いがあります。

そこで、今日の日めくり。

「人生の本領は未来にあり。
 昨日までは人生の序幕で 今日以降が其の本舞台だ」  尾崎 ガク堂

渋い言葉です。
ついでに、もう一つ。

「運命は 自分で形づくるものであり
 運命の織物は 自分で織るものである」   オ・ツティア

毎日毎日過ごしているこのあり方が、そのまま自分の生き方という織物になっているわけです。
ぼくの織物はものすごく気まぐれな段だら模様になっているに違いありません。




 


柚子

2005年11月19日 | 雑感
今日は寝坊して滝に行けませんでした。
反省。

今から知人のファッションショーに行って、それから滝仲間A氏の田舎に泊りがけで行って、明日は柚子狩りです。
燻製は今回はなしの予定ですが、流れによっては再チャレンジするかもです。
どうも仕込やら入念な準備を必要とする物事全般が苦手というか、飽きるというか、根気が続かないというか・・・
農漁村再生プロジェクトの危機です。

でも、明日は柚子狩り頑張ります。
柚子といえば、鍋です。
市販のポン酢など、食べれなくなります。
あれは化学合成物です。

ぼくの店の入っているビルには、お受験のための塾や、バレエ教室や、ダンス教室が入っています。
子供、特に少女の出入りが多いです。
ぼくの店が1Fのエレベーターのまん前にあるがために、いやでも応でも、彼女たちの群れを毎日目にします。
元気がいいです。
はきはきしゃべり、卑屈なところがなく、回りを気にしません。
それに比べて、群れに混じる男の子たちは、元気がありません。
人はよさそうなのですが、大人しく、控えめです。

塾にせよ、ダンス教室にせよ、母親が付き添ってきます。
ぼくが子供のころには、子供の趣味に親が付き添うということは考えられませんでしたが。
それで気がつくのは、少女たちの行動が母親そっくりなのだということです。
母親たちも、大声でしゃべり、周りを気にしません。
ということは、子供たちの父親は、大人しく、控えめなんでしょうか(笑)

なんか、気分が冴えません。
今朝、寝過ごしたくせに異様に眠いです。
昨夜、ワインを飲んだかもしれません。
焼酎ではこうはならないのですが。

ろくなことを書けそうもありませんので、今日はこの辺で。




時の流れ

2005年11月18日 | 雑感
今日、店にクリスマスツリーを持って来ました。
車のトランクの中で一年を過ごしたやつです。
光ファイバーが隅々まで通っており、七色に煌きます。
でも、DCアダプターがどこにあるのか、見当たりません。
まぁ、どこかにあるでしょう。

というわけで、今年も暮れかかっています。
月日の経つのがひときわ早く感じられるわけですが、じゃあ、時間がもっとのろのろ進めばいいかというと、
そういうわけではありません。
なにもすることがないのに、時間がのろのろ過ぎたんでは、いらいらするばかりです。
時間の流れの速度など気にすることなく、夢中で生きられたら、幸いです。

念ずれば花開くといいますが、ぼくの場合、こうなりたいとか、ああしたいとか、真面目に念じたことというのがありません。
ちょっと人生を舐めすぎていたようなところがあるんです、はい。
何の根拠も脈絡もない楽観さで、この年まで生きてきました。
そうすると、だらだら時間を過ごしているくせに、気づいたときになんて月日が経つのは早いんだろうと月並みに驚くような、
そんな間の抜けた羽目に陥るわけです。

ここらで目標を定めて、ギアチェンジを計らないといけません。
生まれてこの方、自分なりのトップスピードというのは、経験していないかもしれません。
いつも下り坂を探し出しては、ニュートラルでだらだら下っていくような生き方をしていたかもしれません。

「勝彦よ
 この旅は 感動探しではなく
 小さなことでも 感動できる
 自分磨きの旅なんだぞと
 親父の声が 聞こえた
 はっきりと天の父の声がした」

これは、大野勝彦さんという、熊本在住の詩人兼画家の詩の一部です。
カナリヤさんに貰った画集を先ほどぱらぱらめくっていたら、心が留まりました。
ニュートラルで、楽して走ろうなんぞと思ったら、自分を磨くどころか、エンジンが錆びてしまいますね。

それでは、今日は知人の店にボジョレー・ヌーヴォーを飲みに行ってきます。









2005年11月17日 | 
許すことができなくて、聡子は死んだ。
愛されることができなくて、達男は死んだ。

二人は一つの墓に入り、風雨に晒された。
盆暮れに参る人も年々少なくなり、ついには訪れる人も絶えた。

油蝉が鳴き騒ぐころ、二人の墓石は、無縁仏の墓石が積み上げられた墓地の一角に運ばれた。
その苔むした石積みの前で、お地蔵様が静かに微笑んでいた。

無縁墓にも、日が照り、日が翳り、夕暮れになり、夜が訪れた。
お地蔵様の足もとの、抜いても抜いても生えてくるタンポポの葉に、夜露が宿った。

朝日が昇り、てんとう虫が夜露をなめた。
タンポポの葉が、かすかに揺れた。

月日は流れ、お地蔵様も苔むした。
聡子と達男の墓も苔むした。

そうしてさらに月日は流れた。
かつての墓地は雑草に覆われた荒地になった。

人々の想いや願いが陽炎のようにその場に揺らめき、
草むらの中で息を潜めていた。

いつしか大地は割れ、
かつての墓地も海の底に沈んだ。

すべての記憶が泡となって、
ぷくぷくと陽光煌く海面へと昇っていった。















褒める

2005年11月16日 | 雑感
今日の日めくりです。

「人間の最大の魅力は その人の成し遂げた仕事である」 ピカソ

ピカソに言われてしまっては、一般ピーポーはぐうの音も出ないわけで。
まぁ、仕事という意味を広義に捉えればいいわけです。
子供を育て上げるのも、作物を作るのも、人間関係を実り豊かなものにするのも、
おいしい料理を家庭で作るのも、みな大切な仕事です。
重要なのは、どんな些細な仕事でも、それをきちんと評価してあげることかもしれません。

なにもみながみんな天才的な仕事をする必要なんてもとよりありません。
食事を作ってくれたら、「おいしい」の一言が。
自分のために手を回してくれたら、「ありがとう」の一言が。
そういう一言を惜しむ人が、結構いるかもしれません。
特に親しい間柄になると、きちんと評価してやることに手を抜きます。

今日の一言(by ピカソ)に従うとすれば、自分のすることが身の回りの人にきちんと評価されれば、
その人は魅力的だあるということになり、自分も身の回りの人もハッピーだということになります。
どんなにこつこついいことを積み重ねても、誰にも評価されなければ、自分の存在価値を確かめることができません。

「褒める」ということが、一般的に日本人は苦手かもしれませんね。
お世辞は言いますが。
欧米人はその辺りは上手いですよ、ほんとに。
ちょっと何かすると、「Good job!」とか「Great!」とか、聞いているこっちが気恥ずかしくなる位に褒めます。
そういう環境でいると、自己承認の感覚が自然と身に備わり、
どこへ行ってもアメリカ人はアメリカ人として振舞うといわれるように、
自信に満ちた態度で過ごせるようになるのかもしれません。
アメリカ人特有のそういう態度は、尊大だとか、傲慢だとか、揶揄される場合もありますけれども。
ぼくは基本的には、自分に自信がないよりも、ある方が好ましいと思います。
自信のなさが深まると、心理的に病的に錯綜してきますから。

学校でも職場でも家庭でも、もう少し褒めあうことを大切にしてもいいかもしれません。
「ありがとう」「上手だね」の一言が、どれだけお互いに救いとなるか分かりません。
きちんと褒めあって、意見はきちんとお互いに言い合うと、他者との関わりにおいて、ずいぶん風通しがよくなるでしょう。

なんでもそうなんですが、手を抜いたらだめなんですね。
特に、人間関係においては、いろいろな考え方やら性格があるもんですから、
なおさら手を抜いてはだめなんでしょう。

別に手を抜かないといっても、なにも複雑なことをして相手に合わせるわけではなく、
「ありがとう」「上手だね」というべき時に言えばいいだけのことなのですが。

でも、最近チェーンレストランやチェーン居酒屋なんかで働く人の中には、
ちょっと驚くくらいに機転の効かない人がいて、どうしても「ありがとう」の一言が出なくなることも、ままありますが。
まぁ、それはそれです。
無理してはお互いによくありませんから。

大いにすべきことをして、たくさんの人から褒められましょう!←無理やりな展開


風邪

2005年11月15日 | 雑感
今朝は早く目が覚めたので、滝に行きました。
恒例の土曜日以外に滝に行くのはホント久しぶりです。
したがって、一人で滝に入るのも久しぶりです。
緊張するものですね、やっぱり。

作法も最初から最後まできっちりします。
最初から最後まで滝と自分だけですから、緩んだ時間がないです。
思った以上に冷たく感じましたが、久しぶりに「行」をしたという感じにはなりました。

そういえば、滝に入る前に滝場が一瞬ふわっと明るくなりました。
滝場は西に面している斜面にあるので、朝は暗いのですが、
滝場の真上の雲に朝焼けが反射して、滝場をオレンジ色っぽく染めました。
お不動様達も、普段と違った生き生きとした雰囲気で(上手く言えません)、滝場を囲んでおりました。
水は冷たかったですが←シツコイ

紅葉の山に朝焼けが映えて、九州では初めて秋らしい風景を見ました。
東北育ちのぼくには、九州の紅葉は紅葉ではありません。
強いて言えば、茶葉ですね(笑)

一日の始まりをかように爽やかに始めたらさぞかし気分が良かったのでしょうが、
家に帰って一寝入りしたおかげで、いつものようにだらだらと出勤しました。
こういうところが、我慢と気合が足りません。

あさて、そういうわけですが、今日はお客さんと話しているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
話題は団塊の世代の悪口です(笑)
内容は言えません。

その人もストレスが溜まりに溜まっています。
団塊の世代の上司たちの(略)
それで、お払いをしようと、店にある神棚に向かって、二人で禊の祓いを上げました。
自慢ですが、これで結構元気になってくれるお客さんがいるんです。

それにしても、風邪を引いている人が多いです。
店に3時間いたお客さんも風邪を引いていました。
ちょっと喉が怪しい雰囲気ですが、滝に打たれていて、風を引いた人はいませんので、大丈夫でしょう。

皆様も気をつけてください。





環境

2005年11月14日 | 雑感
うちのすぐ近所にガソリンスタンドがあります。
朝の6時半くらいになると、元気のいい男の声で「・・・オー」とか「・・・アー」とか聞こえてきます。
何を言っているのかは不明ですが、挨拶やらお礼やらなのでしょう。
窓を閉めていても聞こえてくるのですから、腹の底から声を出しているのでしょう。
別に不愉快だとかうるさいだとかではありません。
元気がいいなぁ、気持ちがいいなぁといつも思います。

先日、車で出かけるついでに、どんな人なのかガソリンスタンドを観察してみました。
あの同じ声が聞こえます。
思わずにやりとしてしまいます。
中肉中背のメガネをかけた普通の中年の男の人でした。

あんなに毎日気持ちよく仕事をしたら、ストレスも溜まらないだろうなと思います。
大声を出しながら、丹田も鍛えているので、病気にもかからないだろうなと思います。
他にも従業員がいるのですが、彼の声だけが聞こえてくるので、社命で大声を出しているのではないと思います。
自発的の、自らの快感原則に素直に従って、大声を出しているのだと思います。

前にもちょっと書きましたが、この辺りは、あまり治安のいいところではありません。
どうしようもなく荒んだ少年少女もよく見かけます。
彼ら彼女らも、この男性の丹田を震わせた大声を聞いているのかと思うとうれしくなります。
うるせーなー、クソ親父とか思っているのでしょうが。

不思議なことに、どんな職場や地域や環境に行っても、こういう人を元気付けるというか、
ほのぼのさせれくれる人というのがいます。
反対に、どんなところに行っても、人を不愉快にさせずにはおかない人というのもいるのですが。
どちらに同調するかは、こちらの心持しだいです。

で、その環境、環境で、なんというか善悪、美醜、明暗のバランスが取れているものです。
ある地域に行けば、善人だらけ、ある地域に行けば悪党だらけ、ということはまずありません。
評判のいい地域に行っても、意地悪な人もいるし、小ズルイ人もいます。
評判の悪い地域に行っても、親切な人もいるし、おおらかな人もいます。

学校でもそうです。
どこへ行っても、虐められる子がいて、虐める子がいます。
度量の大きい先生もいれば、人格障害者みたいな先生もいます。

職場もそうです。
有能な上司がいて、無能な上司がいます。
見込みのある部下がいて、どうしようもない部下がいます。

どこへ行っても、学ぶことはみな同じということです。
そういう意味で、受験や就職という進路選びに過度に神経質になるのは感心しません。
「お受験」などということになると、親の子供に対する自信のなさのほうが心配になります。
幼児のうちなど、母親が夢のある物語でも聞かせてあげたほうが、余程幼児の想像力や感受性が高まると思うのですが。

世の中捨てたものではないというのは、そういう意味では本当にそうです。
どこへ自分が行こうが、そこで吸収すべきものをし、反面教師とすべきものを知り、そうしながら自分の道が見えてきます。
アメリカやヨーロッパに留学すれば、人格陶冶が進んで、度量が広くなるかといえば、決してそんなことはありません。
外的条件次第で、人間が進歩すると思うのは幻想です。
どこからでも、どこにでも道は繋がっています。

外的条件にこだわればこだわるほど、進める道幅が狭苦しくなります。
狭苦しい道を通り抜けた人は、エリートと呼ばれ、賞賛されますが、まぁ、それはそれです。
エリートと呼ばれる人たちが組織する会社・官庁でも、やっぱり無能な上司がいて、あがき・もがきがあるのです。

えらそうなことを言いますが、ほんと、そう思います。

できれば、それぞれの環境で、ガソリンスタンドの彼みたいに、腹の底から声を出して働くような、
そんな人生を送れれば、なにも言うことがありません。

かな(笑)

2005年11月12日 | スピリチュアル
このところ少年少女による異様な事件が立て続けに起こっています。
詳細を知れば、少年少女の心の闇が覗けるかというと、そうはいかないとぼくは思います。
テレビのレポーターやらコメンテイターやらがいくらほじくっても、殺意の在り処は見つけることができないでしょう。

こういう異様な人間の造形は、ドストエフスキーが鬼気迫る才能を発揮しました。
「罪と罰」のスヴィドリガイロフや「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフなどという、
地獄の闇から抜け出てきたような人間を描き出すのがとてつもなくリアルで上手でした。

絶望と虚無による殺人というのは、怨恨や金銭がらみなどによる殺人よりもはるかに闇が深いです。
虚無的人間は、自己存在の「試し」として、人を殺すことがあります。
他者の生命を断ち切るという行為に参加することにより、自己の生命を確認できるかのような幻想を持ちます。
そこに、憎いとか、どうしたいとか、感情的なものは介在しません。
殺す手ごたえ、それ自体が目的化されるのです。

昔から虚無的な人間というのはいましたが、15,6の少年や少女がかくも底なしに虚無的になってしまうところに、
現代社会の病理があります。

動機がないままに人を殺せるというのは、生命の実感というものを完全に失った状態です。
他者や万物は記号の羅列に過ぎず、自分の存在と全くリンクしていません。
母親でさえ、空気と同じ浮遊物に過ぎません。
浮遊物が、あれこれと自分に干渉してくることに堪えられなくなります。

これ以上ないというくらいに、不愉快な話です。
そういう息子や娘の動向や性向を察知できなかった親も親だと思うのですが、
なんにせよ、薄気味の悪い話です。
聞くところによると、母親を毒殺しかけた娘の父親はパチンコ好きで、
母親は娘を医大に行かせたかったらしいです。
伝聞でこういうことを言うのもなんですが、それぞれの心がばらばらになった家族像が目に浮かびます。

日常のそこかしこに光の届かない深遠が口を開き始めたという気がします。
長年に渡って、大切にすべきものを大切にせず、倫理的感覚を失くし、宗教的な感受性を捨ててきたツケが、
これからの時代に巡ってくるような気がしてなりません。

そのような闇の波動に引き付けられないようにしなければなりません。
難しいことではありません。
「自分がよければよい」という態度は、闇の引力に抗する力がもっとも弱い態度です。
逆に、他人の笑顔に奉仕する態度は、闇の引力は及びません。
一生懸命他人に奉仕しているときに、虚無が忍び込む隙間はなくなります。
与える者と、与えられる者が共に笑う時、そこには光しかありません。

自然の懐へ飛び込むと、そこかしこに光溢れる光景が見られます。
森にも、海にも、野原にも、生命が躍動し、雲が流れ、本物の光が反射しています。
この少年や少女たちは、蛍光灯の光の下で、スイッチ一つで再生可能なバーチャルの世界で生きてきたのでしょう。
陳腐なもの言いですが。
都会は陳腐を嫌います。
陳腐を嫌って、新奇をてらったまがい物に囲まれ、大本を失い続けています。
陳腐なものに魂を込めたとき、本道になります。
家族の関係でも、作物を作るのでも、商売をするのも、工夫は要りますが、なんら新奇なやり方である必要はありません。
古来からの、陳腐な教えが、いざという時に役に立つ時が多いのです。

嫌な時代だからこそ、光の道を歩み続けようとする人たちは、いよいよ輝いて生きなければなりません。
虚無の闇の溺れかけた人たちにも、はっきり見える道しるべとならなければなりません。

大袈裟な言い方ですが、でも、それしか道はないような気がします。







課題

2005年11月11日 | スピリチュアル
人の持って生まれた運命の流れに従って人は生きます。
と、書きますと、運命というとなんか定まったレールの上を歩くのかという疑問がもたれますが、そうではありません。
前世のカルマの解消としての課題を与えられた上で、それぞれの人生の出来事がそれぞれの人にとっての解決すべき課題として、
次から次へと立ち現れてくるという意味での、運命です。
と、書きますと、前世ってなんだ、カルマってなんだという話になるんでしょうけれども、省きます。
ひとつの仮説としての話として聞いてもらえればいいかと思います。

人間関係で悩む人、自己実現で悩む人、お金で悩む人、家族で悩む人、欲で悩む人、その人の持つカルマの傾向、
現実問題に立ち上がってくる課題の傾向というのは、人それぞれにあります。

どうしてだか、自分を不幸にするようなタイプの異性に何度も懲りずに引き付けられてしまう人。
世間から身を引いて、引きこもりがちな人。
人を信じられない人。
意味もなく権威的なものに反発を感じる人。
その逆に、権威的なものに頼りたくなる人。
生きていることがすぐどうでもよくなってしまう人。
自分勝手に物事を処理しようとしてしまう人。
自分の感情を抑制できない人。
逆に、感情をそのまま表現できない人。

あげていけば、人の数だけそれぞれの人が持つ課題の傾向というのがあります。
それが前世のカルマとかいうものではなく、遺伝とか、幼少期の育てられ方だとか、人間関係のトラウマだとかという捉え方で、
人間性の傾向を捉えようとするのが心理学なのでしょうが、何でもかんでもそれぞれの持つ人間性の傾向が、
幼少期の遺伝だとか環境だとか人間関係に帰納できるとは思いません。
帰納できるようなこともあるにはあるのですが、そういう遺伝を受け、体験を幼少期にするということを自体が、
ぼくはカルマ的なものだ思うわけです。

そういう意味で、近頃は「前世療法」などといって、退行催眠などの方法を使って、
過去生まで記憶を辿り、今生の課題を認識することなどが試みられるようになりました。

こういう試みのベースとなる考え方は、生命というのは、魂の進歩のための舞台装置であるというか、
目に見えない生命エネルギーが、その進化のために、より粗雑な物質界で自らを挑戦させるためのもの、といえるかもしれません。

言うまでもなく、現世にはいろいろなタイプの苦悩、苦しみ、悲しみというのがあります。
それを乗り越えれば、人は新たな精神的境地を得ることができますが、
乗り越えられなければ、己自身の生を、あるいは他者を、世間を恨んだり呪うこともあります。
普通に生きていれば、いやおうなく次から次へと不幸の種となるようなことはやってきますが、
人間的に成長するにつれて、不幸な種になりえるような種を、幸福の種に転化でるような知恵や能力がついてくるのも事実です。

こういう考え方から言えば、解脱というのは、現世において不幸の種となるべきものが一切消えた
意識のあり方を言うのかもしれません。

物事は、心の持ちようでどうにでも見れるのは周知の通りです。
で、その心の持ちよう、心の傾向というものがどこから来るのか、というのが分からないと、
なかなか心のあり方というのは変えられるものではありません。

自らの心の傾向を知り、なぜその心が次々と課題を必要とするのかを知り、
課題を乗り越えた先に何があるのかを知りたいと思うわけです。

ぼくが何を言いたいかというと、こういうことは、求めれば、知りたい時に知れるようになっている気がするということです。
求める気持ちがない時に、あるいは必要ではないときに、こういう情報は無価値かもしれませんし。

なんかこの辺りの情報が、このところ急速に流れ込んでいるものですから、ちょっと書いてみました。
書名などの具体的な情報にかんして知りたい方は、メールくだされば。

torut21@mail.goo.ne.jp










シルバー・バーチ

2005年11月10日 | スピリチュアル
シルバー・バーチの霊言集という本があります。
20世紀初頭、ロンドンの霊媒師に降りたアメリカ先住民の古代霊の言葉を集めたものです。
ずいぶん昔に読んで、これはすごい本だと驚いたことがありますが、
今回読んでみて、やっぱりすごい本でした。

今でこそ、霊媒の口を借りて、霊が言葉を残す(チャネリング)はポピュラーなものになりましたが、
なんというか、霊格の高さや言葉の的確さ・深遠さが群を抜いています。
言うことに、濁りや迷いが全くありません。

今の宗教の状況に対する指摘も的確です。

これからおいおい紹介していきたいと思いますが、今日はもう帰らなければなりませんので、また明日。

ところで写真は、熊野に行ったとき、電車の車窓から撮った雲です。


分別

2005年11月09日 | スピリチュアル
最近、坐禅をします。
ちょっと前までは15分位がやっとだったのですが、一時間位は坐っていられるようになりました。
結跏趺坐も10分位なら我慢できるようになりました。
だからと言って、別段心境に変化があったわけではないのですが。
ま、体がやっと坐禅できる体になったということです。
ぼくみたいな体の固い人が座禅を組むのは容易ではありません。
長い間、文字通り4の字固めを掛けられているような状態でした。
これはぼくとしては非常に大きな進歩です。
坐禅をしようと思えば、いつでも苦痛を恐れることなく、できるわけですから。

雑念がわらわらと沸きます。
かまわず、吐く息、吸う息に集中します。
ちょっと油断すると、また雑念が沸いています。
また吐く息、吸う息に戻ります。
すると、徐々に視界に焦点が合わなくなり、息だけの世界になります。

それだけのことなんですが、それだけでいいのが坐禅です。
もちろん、ほんの入り口にようやく辿りついたという感じです。
とにかく息だけの世界から離れないこと。
そんな感じでやっています。

自分の感情や、体の訴える苦情に耳を貸さないという点では滝行と一緒です。
滝行は一瞬の意識の集中が必要とされますが、坐禅は徐々に集中を集めていきます。
どちらも無念無想が理想的です。
無念無想の先になにかがあるもよし、なにもなくてもよし、という感じで座に坐り、滝に入ります。

人の頭の中は、ほうっておくとあっという間に雑念が跳梁跋扈します。
考えることより、考えないことのほうがはるかに難しいです。
ぐるぐるぐるぐると、いつまでもどうでもいい考えの断片が頭の中を駆け巡っています。
どうでもいいことはどうでもいいと認めるところから始めなければなりませんが、
どうでもいいと認めようとしないのが、雑念であり、感情です。
どうでもいいことに振り回されて時間を費やしてしまうのが、人の常です。

こうやって、いろいろ修行しなければ、無念無想になれないというのも本来的にはおかしな話ではあります。
子供のころ、森の中で昆虫を取ったり、川で魚を取っている時は、雑念もなにもなかったはずです。
カブトムシになりきり、鮎やドジョウになりきっていたはずなんですが。

自我が発達するにつれて、「分別」というやつが身に染み付いてくるんですね。
これをいったん解体しないと、対象と一体となるという境地は不可能になります。
厄介です。
坐禅をしたり、滝に打たれる自分とは何かなんてやりだしたら、それこそ分別の渦に飲み込まれてしまいます。

心と体が澄み切ったときに、おそらく自然が自分に入り込んでくるのだと思います。
自然を対象として見ているうちは、「分別心」で自然を見ていることになり、
人に「分別心」がある限り、自然は人の心に入って来れないのだと思います。

人と万物は本来一体であるという境地は、はるか遠くにありそうなのですが、この間近の心次第だということなのでしょう。