風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

陰謀

2009年09月30日 | 雑感
すっきりしない空模様です。
南太平洋で大きな地震がありました。
災害規模は今のところ分かりませんが、決して小さくない規模の災害のようです。
逃げ場のない小さな島に住む人々が大きな地震とそれに続く津波に襲われたのはさぞかしの恐怖であったでしょう。
こういうときにさっと日本の海上自衛隊などが救援隊を組織して向かえばいいのになと思います。
法律上の手続きやら外交ルートのもたつきやらで、四川大地震のときのように派遣が遅きに逸しないようになればいいと思います。

実はネット上などでは先週ごろから日本に地震が来るという情報が飛び交っていました。
アラスカにあるHARRPという軍事施設だか研究施設だかよく分からない施設から放射される電磁波だかを、
測定ウオッチしているサイトがあり、四川大地震のときと同じようなグラフの動きを見せたので大騒ぎになりました。
先日鳩山首相が演説した国連で、リビアのカダフィ大佐が、新型インフルエンザはアメリカの軍事施設で作られたものだと
熱弁をふるったりしました。
もう真偽の不明な情報がこれでもかと溢れ出ています。
情報が公開されなければ、噂が噂を呼ぶのは仕方がないことです。
今度アメリカでは新型インフルに対するワクチンを強制的に全国民に打つ法案を通そうとする動きがあるみたいですが、
その安全性に対する疑問やら、法案を通そうとする動きの不穏さや不透明さに対する疑問の声も高まっています。

HARRPが仮に軍事施設で天候や地震を自在に操る全く新しい概念の兵器であり、鳥や豚の新型インフルエンザなんかも
細菌兵器であるのなら、オバマが世界中から核廃絶しようと唐突に訴え始めたのは、筋が通ります。
核兵器などがなくても、HARRPや軍事研究所で作られたウイルスで世界を支配することが可能になります。
逆に第三国などが獲得した核兵器をかさにあれこれ口を出してくる煩わしさを切り捨てることもできます。

情報源が錯綜してますから、真偽は分かりません。
ネットで簡単に証拠をつかめるほど、ことはシンプルでも浅くもないでしょう。
ただ、9.11に関しては、どの本を読んでも辻褄の合わないことばかりです。

巨大な陰謀があるのかないのかはおそらく誰にも確証できないだろうとぼくは思います。
陰謀に対処するには、陰謀から目を背けず、おかしいことはおかしいとはっきり意思表示することでしか防げません。
おかしいことはおかしいと思うためには、正確な情報に目を通すことが必要です。
そのための情報源としては残念ながら日本に限らずメディアは全くその機能を失っています。
正確な情報がないままに陰謀論にいたずらに巻き込まれるのもある意味陰謀の一種です。
なかなか大変な時代になってきました。

目の前に起こることに誠実に対処しつつ、おかしいことにはおかしいと感じるセンサーを磨き続けるしかないのかもしれません。


熊野

2009年09月27日 | スピリチュアル
すっかりご無沙汰してしまいました。
盛りだくさんだった熊野ツアーのことやら、桜井よしこさんの講演会のことやら、いろいろ書きたいこともあるのですが、
いっぱいありすぎて書く気が失せます(笑)

今回のツアーはネネさんが主催でしたが、コンダクターを務めてくれたのが気功で有名な中健次郎先生ご夫妻でした。
熊野在住で、あちらこちらのパワースポットを惜しげもなく紹介してくれます。
とりわけ強烈だったのが、熊野本宮の近くにあります地元の人にも知られてないような井戸でした。
普通、龍脈上に顕れる竜神様などを祀る場合は、祠を建て、結界を結び、
さらには眷属神にその領域を守らせたりするものなのでしょうが、そこは竜神様がなんのお守りもなく直に
地上に現れている様な感じでした。
その井戸の周りで何分か瞑想しましたが、体が自然にぐらぐら揺れてきます。
そこまでダイレクトな神気というのは初めてでした。
さすが熊野は奥が深いです。
場所は書かないほうがいい気がしますので、書きません。

修業場になっていない自然のままの滝にも入りましたし(足場がなかったので禊でしたが)、
何時間入っていても湯疲れが全くない温泉にも入りました。
中先生からはみっちりと初心者向きの気功も教えてもらいました。
深い森と鮮烈な水の熊野でした。

帰ってきたらさっそく深酒の毎日ですが、来月は禅の摂心が始まります。
毎日一回は菅生の滝に入ると導師に約束させられましたので、滝にも定期的に行きます。
冬場の滝は月一回行くと決めたからとすんなり入れるものではありませんから、
身体を慣らしておくために週に一回は入りにいかなければならないでしょう。
ましてや菅生の滝においてをや。

仕事も夏以降は停滞気味です。
当然ですが、精神の充実は実生活が伴ってこそです。
実生活が充実してれば、精神なんかほうっておいても充実するもんです。
精神ばかりが肥大して、実生活が荒んでいるのなら、早晩精神は破綻します。
何事もバランスです。
日々陽射しを浴びて健康に手足を動かし、精神が嬉しさと豊かさのうちにたゆたうという感じが理想でしょうか。
ま、いつも言うばかりでゴメンナサイという感じです。


清か

2009年09月08日 | 雑感
「清か(さやか)」という言葉があります。
古語の部類に入るのでしょう。
確か神道の理想の道筋は「明るく楽しく清かに」だったと思います。

ぼくは基本的に正しい道筋というのは必ず「気持ちよさ」を伴っているものだと思っています。
肉欲とか飲酒とかドラッグとかの一時的な快楽ではなく、状況がどうであれ永続する気持ちよさ。
雨が降ろうが、食い物がまずかろうが永続する心地よさ。

肉欲とか飲酒とかドラッグ゛とかは確かに刹那的には「明るく楽しく」なれますが、
決して「清か」にはなれません。
ですから、「明るく楽しく清かに」ということを自分の行動の選択基準にすえると、
たいていは間違いのない行動ができるように思っています。

明るく=前向きに(心の方向性)
楽しく=人々と調和して(心の目的・結果)
清かに=一切の罪悪感から解放されて(心のあり方)

というふうに言い換えてもいいかもしれません。

「明るく楽しく清かに」生きればいいのなら、例外なく誰にでも選べる生き方ではあります。

もともと人の心はそう素直にできているのでしょうが、自分の心を捻じ曲げたり、
捻じ曲げられたりするのが好きだとしか思えない人もかなりいます。
人は単純ではなく、いらぬ苦悩のうちに美を見たり、神聖を求めたりなんかします。
誰も彼もが無駄に文学的なのでしょう。
自ら苦悩を求め、苦悩を作り出し、その解決を夢見てじたばたするというのが、たいていの文学のテーマです。

ぼくが無駄に酒を飲むのも、無駄に文学的であるからだという自覚はあります。
「清かに」なろうとしてなれない自分を予期して、どうせなれないならと自らを「汚す」。
よくある陳腐なパターンです。
このパターンに慣れると大変です。
「どうせおれは○○だから」と自分に閉じこもり、「あいつは○○だから仕方がない」と他人からはラベルを貼られます。
こうなると果てしなく自虐の泥沼にはまり込んでいきます。
「清か」な境地が全く失われていきます。

「明るく楽しく清かに」
それだけのことなんですけどねぇ。
娘なんか当たり前にそれだけのことを思い切り楽しもうとします。
天才的に、その道筋を嗅ぎ分けます。
その道筋をなんだかんだ愚にもつかない理屈を並べて寸断するのが周囲の大人です。

分別というのは厄介です。
分別できなければ愚か者と蔑まされるし、分別が過ぎればひたすら嫌味です。
分別を拡大しきって、無分別の笑顔を浮かべることができれば、初めて幼子と同じ世界を見れるのかもしれません。

打ち震える

2009年09月07日 | 雑感
昨日は滝の最終日でした。
「行」に入るつもりはなかったのですが、結果的に酒も肉も絶つ「行」になりました。
導師に普段は鍵が閉まっている滝のお堂の扉を開けていただいて、ご本尊の観音菩薩様にご挨拶申し上げることができました。
ありがたいことです。
言葉で言うのは簡単ですが、本当にあ・り・が・た・い・ことです。

その後、友人が蕎麦を打つというので食べに行きました。
友人お手製のドブロクを飲みながらすする手打ちの蕎麦は極楽の食べ物でした。
地獄というのはたいてい折り重なってやってくるものですが、極楽も折り重なってやってくるのかもしれません。
地獄にしても極楽にしても人間の都合で成り立っているわけではありません。
あるがままにあるだけです。←ナンノコッチャ

思うに、乗数的に加速度を増しつつあるこの今を乗り切るためには、余計な重荷を片っ端から放り投げる必要がありそうです。
何が重荷になっているのかは、人それぞれです。
なんにせよ重いと思うのなら、背負いきるか、放り投げるか、の二者択一です。
背負うことが尊いことでもありません。
放り投げることが不道徳だというわけでもありません。
背負えるものを背負うと決めて、正々堂々と強がりの口笛を吹いて背負えばいいのです。
背負うのが嫌だ、あるいは背負うのが無理だと思うものを、背負ったフリをするのが一番精神上によろしくないです。

自分の都合などどうでもいいと思えれば、人の都合などさらにどうでもよくなります。
どうでもいい人間同士が出会って、なにかささやかな光を生み出せれば、すべては甲斐があるというものです。
誰かの都合ではなく、生命の喜び、豊かさ、美しさを基準にするとき、人の心に不安はなくなります。

生命の営みというのは、元来ささやかなものなんだと思います。
ささやかだけれでも、粘り強く、強情で、誇り高いものなんだと思います。

あるがままに生きるということを簡単に言いますまい。
あるがままでいられるということは、完全に自由であるということです。
自由であればあるほど、何かを選ぶという行為が尊いものになりえます。
何を選んでもいいのでしたら、自分の心が打ち震えるものを選んだらいいというだけです。
打ち震えましょう(笑)。

新宿

2009年09月05日 | 雑感
18、9歳のころ、新宿の某有名居酒屋でアルバイトをしていました。
そこの店長が育ちのよい少年をそのまま大人にしたような、色白でハンサムな人でした。
そのころ彼は20台の中頃だったと思いますが、声を荒げることもなくいつもニコニコしている人でした。
仕事中しょっちゅう生ビールを盗み飲んでいたぼくにも小言ひとつ言ったことはありません。
そういう店長の人柄もあって、みな仲良く働いていました。

同じ東北の出身ということもあり、何度か一緒に飲みに行ったりもしました。
何のついでか忘れましたが、一回だけ彼のアパートに遊びに行ったことがありました。
たしか下落合辺りの薄暗いさびしい通りに面したアパートだったような気がします。
彼が中原中也という詩人が大好きであることをはじめて知りました。
何篇か中也の詩を読んでくれました。

 「雪の宵」
      青いソフトに降る雪は
      過ぎしその手か囁(ささや)きか  白秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突煙(けむ)吐いて、
  赤い火の粉も刎(は)ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのをんな、
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐(しづ)かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

詩集というものを読んだことのないぼくにとっては、新鮮な驚きでした。
彼の部屋の壁には真っ赤なワンピースが吊るされていました。
誰のだと尋ねると彼女のだということでした。
さらに詮索して彼女のことを尋ねました。
なにしろぼくも10代でしたから、男と女の話には無条件で好奇心満々です。
彼女が3歳年上であること。
夜は水商売をしていて部屋にはいないこと。
彼女が大好きだということ。
そんなことを彼はテレもせずに教えてくれました。

ぼくは自分の彼女が水商売をしていて平気だという心の境地がさっぱり分かりませんでした。
そのあたりの事情をなおも食い下がって訊こうとしましたが、さすがに彼は黙って微笑んでいました。

中原中也の名前を何かで目にするたびに彼の顔を思い出します。
まっすぐに朗らかに、薄汚い新宿で生きていました。

思い込み

2009年09月04日 | スピリチュアル
昨日は休日、朝は滝行、昼はジム、夜は座禅道場に行きました。
狙ったわけではないのですけれど、結果的に心身再生プロジェクトみたいな一日でした。

一週間前見たときは青々として実がついていなかった稲穂が、ここのところの晴天続きで実を垂れ始めました。
涼しい風に揺れ、かすかに色づき始めてもいました。

まぁ、いろいろありますが、要は簡単なことだと思うのです。
「幸せだと心から思えば幸せだ」ということです。
そう思えれば、どんな状況であれ、幸せです。

幸せだと思えるか思えないかを、自分を取り巻く周囲の条件次第にするから、人はいともたやすく不幸感に囚われます。
お金がないとだめ、素敵な伴侶がいないとだめ、やりがいのある仕事がないとだめ、際限なく自分の生きる条件にだめ出しをします。
そういう条件は大抵は体制の都合や企業の都合や誰かの都合にいいように押し付けられた条件です。

一人ぼっちで孤島に暮らしても、幸せだと思えば幸せです。
今日食べるものもなく水ばかり飲んでも、幸せだと思えば幸せです。
それは極端すぎる話にしても、今時一人ぼっちで孤島で暮らすほうが難しいでしょうし、生活保護もありますから
何も食べるものがないということもまれな話でしょう。

生きているだけで幸せならば、食べ物があればありがたく嬉しいし、ともに生きる人がいれば喜びの輪が広がります。
それだけのことなんだと思います。

そんなのは空論だと言う人が多いかもしれません。
でも、こうでなきゃだめだ、あれがなきゃだめだ、こうしなければいけないなどと際限のない心のおしゃべりこそ、
仏教なんかでは愚痴といいます。

人の心に訴えかけるものでこの世は満ちています。
たいていは誘惑という形で人の心に侵入してきます。
もっとお金持ちになって、豊かな生活をして、おいしいものを食べ、素敵な人と付き合い、健康で長生きして・・・。
もうキリがありません。
人の心というのは実にいい加減なものです。
いったん心が思い込んだら、思い込んだとおりに人生が進まないと気がすまなくなります。
年をとりたくないといったん心が思えば、整形を繰り返して化け物みたいになったり、
出世が命と思えば、家族を犠牲にしても気がつかない。
自分が好きだと思い込んだら、相手がどんなに悪党でも嫌われたくない一心で言いなりに堕落していく。

そういう心の思い込みをいったん外してみるのが、禅や滝行などの修業なわけです。
修行中は食事もうんと質素なものになりますが、ご飯でもうどんでも漬物でもとてもおいしいご馳走です。
ただ食べられることが本当にありがたいとおもいます。
心から思い込みという思い込みをすっかり掃除してしまって、ぽかんとまっさらになった心でみる風景が悟りと呼ばれる境涯なのだと思います。

まっさらになってみれば、世界はただただひたすらありがたく輝いています。
死のうが生きようが、病気であろうが貧乏であろうが、ひたすらありがたく輝いているわけです。
もうそうなると、不幸になりようがありません。
条件の出しようがありません。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」

この良寛さんの言葉は、決してシニカルに言っているのではなく、大真面目に言っている言葉です。
災難にあって、天や他人を恨んだり責めたりしても、心がますます荒んでいくだけです。
死ぬときにじたばたする心が苦痛なのであり、死そのものは肉体が死ぬだけです。

死のうが生きようがどうでもよいなら、何もする気が起きなくなるじゃないかという疑問も出るでしょう。
何でわざわざこの世の苦界で七転八倒しなければいけないのかと。

しなければならないことなどありません。
したいからするだけです。

何もしたくないという人がいます。
たいていは自分が思い通りの人生を送れていないと感じるときに出る言葉です。
何もしたくないと思うということを「している」だけです。
いずれにせよ、人は自分の心がしたい(~しなくないということも含めて)ということしかしません。
よきにしろ、あしきにしろ、人の心のありようがその人の行為を選択させます。
その大切な心が見当違いの思い込みで縛られていたら、人生が台無しになってしまうこともあるでしょう。

自分が主体になるということは、自分の心を自由自在に解き放ち、「自分が」コントロールすることです。
だれかの教えやイデオロギーや宣伝に載せられて生きることは、自分の心の自由を手渡してしまうことです。

自分の心がいつも何を思い込み、何を選択しているのか、それを見据えていきましょう。
ぼくなんか自分の心を見るたびにがっくりとうなだれてしまうことが常ですが、なぁに、負けません。

目前の行為

2009年09月02日 | 雑感
今朝も快晴、気持ちのよい滝でした。
頭のぐらぐらする感じはだいぶ収まってきました。
心身内に溜まりに溜まった毒素が少しは抜けたのでしょう。
写真は滝の仲間が撮ってくれたものです。

時の流れが恐ろしいほどの勢いで加速している感じですが、流れに流されっぱなしになるのではなく、
しっかりと舵を切りながら、急流に乗るスリルを楽しみ味わって行きたいと思っています。
9月の連休には熊野に行きます。
10月には禅の接心があります。
節目節目も大事ですが、節目と節目の間を大切に生きなければ、せっかくの節目が空疎なものになるでしょう。

時を大切にするということは、目前の行為を大切にするということ以外にありえません。
時をどう大事に過ごすかと考えることほど無駄な行為はありません。
考えというのは、次々と新たな考えを際限なく引き寄せるだけです。
花や果実がほしければ、土を耕し、種を植え、水をまいて、雑草を抜き続けるだけです。
机に頬杖をついて、いくら壮大な農園の設計図や効率的な作業方法を考えても、ただひとつの花も果実も実りません。

土を耕すというのは地味な作業です。
花や果実どころか、緑の色の影もない土くれが広がっているだけです。
そこに勇気を出して最初の鍬を入れます。
黙々と、額に汗をかいて、誰の声援もなく鍬を入れ続けます。
果たしてうまく花や果実が順調に生育するかどうかさえ分かりません。
天候も不安です。
それに加えて、経済的なことやら将来性やら尽きぬ心配も次から次へと頭に浮かびます。

そして祈る思いで、種をまき、水を注ぎます。
地面の中から、かわいらしい青々とした芽が頭を出します。
日照りが続けば、せっかくの新芽が枯れてしまわぬかと心配で、台風が近づけば土ごと流されてしまわぬかと不安になります。
自然の脅威が過ぎ去れば、雑草がはびこり、虫たちが作物を狙い始めます。
来る日も来る日も、心休まることはありません。

そして、秋風が吹き、空の青さが目にしみるころ、一年かけて慈しんだ作物が実ります。
実ったところで、相場の下落やらなんやらの不安定材料は尽きません。
でも、大輪に咲いた花を目にするとき、たわわに実った果実を手にするとき、生きる喜びと感謝に心が満ち溢れます。
そして年が明けると、また地道に土地を耕しに空の下に毎日出かけます。

農業に限らず、人生はすべからくそういう流れをたどるものだとぼくは思います。
例えば、水商売にしても、ゼロからはじめるわけですから、耕すことが新規顧客の開拓であり、
種をまくことがサービスや商品の内容を決めることであり、水を注ぐことがサービスの質を高めることであり、
雑草を引き抜くことが上質・悪質の客の選定であり、収穫が店の評判であり売り上げです。

どれひとつとっても、地道な行為です。
その地道な行為の積み重ねをなくして、花や果実は実りません。
どうせしなければいけない行為ならば、集中して工夫して中身の濃い行為に仕上げていけば、退屈ではなくなります。
退屈ではない行為の瞬間が積み重なれば、充実した人生になり、結果も伴い、幸福感が訪れます。

それだけのことなんですが、ややもすれば簡単に楽にお金を稼ぐ方法というものが、どんな時代にも吹聴されます。
そして、そういう甘い話に飛びつく人もやはりどんな時代にもいるものです。
挙句の果てに、騙されただの、全財産を失ってい待っただの、騒ぎ立てます。

厳しい労働や不安や心配に打ち勝って、作物を実らせた人の心の豊かさに比べると、あまりにも貧しい心根です。
例え経済的な見返りがいかに少なかろうが、作物を実らせたその心の豊かさと誇りは、何にも変えがたいものです。
今時の金融資産家は当然お金で人心を弄しまくりますから、自ら進んでお金の誘惑の罠に飛び込む必要はありません。
まずは、どんな物でもサービスでもいいですから、自分で作物を作ることです。
工夫に工夫を重ねて、いいものを作れば、必ずそれを欲しがる人が出てきます。

こう考えてみると、人間は地球に蒔かれた種なんでしょう。
土壌は荒れ、水は汚染され、雑草がはびこっていますが、人間の種としての強さと作物としての多様性と魅力は無尽蔵ですから、
大きく咲いて、ぷりぷりの果実を宿してやりましょう。

ぐらぐら

2009年09月01日 | 雑感
今日は風がからっと涼しく、見事な快晴でした。
滝も朝日が当たって最高に気持ちよかったです。
滝の中で目を瞑っていると、水を通した(と思われる)七色の光が目の中でめまぐるしくフラッシュします。
お経を称えながらも、あまりにもまぶしい光の点滅に眩暈がしそうになります。
それでもお経に心を集中しようと頑張っていましたら、光はますます強くなり、七色どころか何百色かの色彩の光の洪水です。
しかも点滅の時間がますます早くなっていきます。
うわ~と思いながらも滝に入り続けました。
作法を終え、目を開けてみましたら、普段の水でした。
日光が当たって、きらきらしているわけでもありません。
あれっと拍子抜けながらも、今日の滝行が無事に終了しました。

その後、今日は一日なのでお宮参りです。
すがすがしい空気に包まれた二つの神社を巡りました。

で、店に出るころには身体はグタグタです。
早く帰って寝たいのですが、家に帰れば娘がてぐすねを引いて待ち構えています。
小一時間は高い高いをしたり、プロレスごっこをしなければいけません。
娘は「未来少年コナン」のコナンとジムシーが格闘するシーンが大好きで、ぼくがジムシー役です。

酒を飲まないと頭が動き続けます。←アタリマエ
アルコールの切れない普段は車の運転にしても自動操縦状態で、考えるということなどほとんどないのですが、
今朝などは車外に広がる青空を見ては子供のころの記憶をたどったり、虫の音を聞いては森の生活を想像したり、
まぁそんな感じで動かしたくもなくても、頭は動くわけです。
ほとんど断片的なイメージやら感想やら思いつきやらで瞬時に消えていくものばかりですが、
ボーっと綿人形みたいな無表情で運転しているよりはましな経験をしているかもしれません。

もう少し心身の状態が安定してくれば、車の中でも少しはまとまったことを考えられるのかもしれません。
酒は飲んでいませんが、とにかくここ数日は滝で頭がぐらぐらします。
酒を飲んでは頭がぐらぐら、滝に入っては頭がぐらぐら、いつになったらしゃきっとするのかという話です。