風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2011年11月30日 | スピリチュアル

前にも書いたことがあるかもしれませんが、以前あるスピリチュアル系のイベント会場で瞑想をしたことがあります。
イメージ上の自分の部屋でリラックスした後、扉を開けるとその外には何が見えるか、という瞑想でした。
見える光景は人それぞれで、お花畑が見えたり、草原であったり、日差しの注ぐ庭であったりしました。
ぼくが見た光景は紺青の空でした。

昔「ライトスタッフ」という映画があり、宇宙空間に飛び出す前の人類がジェット飛行機で大気層の極限まで、
高度を上げていくという映画でした。
ジェット飛行機では、酸素も薄くなり、温度も低くなりますから、肉体の限度が飛べる高度の限界になります。
その限界ぎりぎりまで高度を上げた飛行士が観た地球の空の色がぼくが瞑想で観た紺青色でした。

さらに瞑想を続けていますと、その空の下方になにか動くものの気配があります。
姿は見えませんが、巨大な龍が、深海のような色をした空中を、悠然と身をくねらして飛んでいるのが分かりました。
姿が見えないのになぜ巨大な龍だと分かるんだと聞かれても困ります。
そのイメージが心にダイレクトに飛び込んできただけです。

龍の色はメタルブルーに近い色です。
おそらく身長は数百メートルから数キロメートルです。
地球を覆う大気の中を楽しげに、堂々と、気高く泳いでいます。
そして、龍はその一匹だけではなく、離れたところに何匹かが同じく悠々と泳いでいるのが感じられました。

行きたいところに行くという瞑想のワークショップでしたから、なぜぼくが行きたいのが紺青色の遙か上空であったかは分かりません。
だた、ひたすら心が震え、爽快感に満ちたのは覚えています。

もう5,6年前の話です。

なんていうこともないふとした瞬間に、その時に見た紺青の空を思い出すときがあります。
色々な鬱積した感情やらなんやらが一気に引いていきます。
なぜだか知れない平安さが一瞬にせよ訪れます。
次の瞬間現実に帰ると、たちまち一気に引いたはずの色々な感情やらなんやらが押し寄せてきます。
そうして、その感情やらなんやらに溺れ埋没していきます。

そういう感情やらなんやらを味わうのはいいのですが、溺れ引きずられてはいけないでしょう。
溺れ引きずられるのが人間の常とは言え、度を超すと文字通り感情に溺れます。
感情を過度に抑制した冷たい人間になる必要はありませんが、感情は溺れる対象でもありません。
感情は自分の立ち位置を示す敏感なコンパスみたいなもので、上手くコントロールできればよりよい方向性を示すことが出来るでしょう。

龍のごとく、楽しげに、堂々と、気高く。
そう生きたいのは山々なのですが、情けなくも悪戦苦闘してばかりいます。

 

 


一歩

2011年11月29日 | 雑感

今日は春先みたいな感じの陽気で、いわゆる小春日和という感じの日でした。
店の表に出してあるテーブルにボ~っと坐っていたら、なじみのお客さんにサボるなと叱られました。

大阪のW選挙戦、維新の会の快勝でした。
でも、その結果に物言いを付けたい識者が結構いるみたいですね。
昨日たまたま観ていたテレビでも当選した新知事に少々ヒステリックに注文を付けている学者さんが出ていました。
おそらくその学者さんにはなぜ維新の会が躍進しているのか、そこの辺りが見えていないのだろうと思います。
各政党の応援も、労働組合の応援も、経済界からの応援も受けながら、なぜ現職があっけなく破れたのか。
小泉さんの時みたいに劇場型だとかなんとか揶揄する声も聞こえますが、ピントが外れています。
まぁ、あれだけはっきりものを言っている橋下陣営の言葉が通じていないのですから、
ここでぼくがとやかく言ったところで通じるものでもないのでしょう。

改革というのは一気に最終段階まで成し遂げないと、あらゆる傷口が膿んでいきます。
これからが正念場でしょう。
政治を「闘い」の場として位置づけた政治家が、全うに戦い抜けるか、大いに興味を持っています。
あらゆる手段の妨害が入るでしょう。
でも、橋下さんという人は、妨害があればあるほど燃えるタイプの人のようです。
胆力が常人とは違っていますね。
若いからと舐めてかかると痛い目に遭うでしょう。

ぼくはといえば、政局がどうのこうのと言っている場合では全然ありません。
いろいろと火の車です。
火の車に乗っていながら、新しい事業を興そうと思っています。
窮地の破れかぶれというのではありません。
かなり慎重に事を進めてはいます。
そして必ず成功させなければなりません。
そして、きちんと段取りを踏んで進めば、成功するでしょう。
こういうチャンスが、こういう状況でやってきます。
こういう状況を戦い抜ければ、チャンスを掴めます。
チャンスを掴むためには、やはりどうしても天のお試しがあります。
そのお試しに何が何でも合格しなければいけません。

こういう時には自分の弱点がすべてさらけ出されます。
誤魔化しようがなく、積もり積もった弱点が目の前に具現化していきます。
精神的にはとてもしんどいものがあります。
順調なときは目をつぶってやり過ごせたものが、一つ一つ解決しないことには一歩も前に進めなくなります。
普段の人間関係、時間の管理、酒やたばこの不摂生、すべてが一挙に解決を迫ってきます。
ここでめげたら終わりです。
苦しくとも、苦しさを覚悟して、火の車にどかりと座り直すしかありません。
まったく先が見えないような状況で、火の車に敢えて座り続けるというのは、勇気というよりは無謀に近いです。
それでも逃げるわけにはいきません。

特効薬はありません。
目の前に積み上げられたやるべきことを、心を奮い起こして、片付けていきます。
バケツで一杯一杯水を汲んで、プールを一杯にしようとしているような気になりますが、それでもやらなければなりません。
なぜそんなにしてまでやるのか。
逃げ出したらどうなるのかが分かるからです。
やり抜いたらどうなるのかも分かるからです。

一歩一歩、なんとか前に進むにつれ、やり抜く苦しさよりも、やり抜く喜びが大きくなっていくでしょう。
明日もまた、なんとか一歩を前に進めようと思っています。

 


求めないということ

2011年11月28日 | 

いつの頃からか、何かを求めてはいけないような、そんな気分を引きずった
何かを求めれば、求めた瞬間にその何かが壊れるような気がしたからだ
そうして何も求めないまま年月を経た

我が子を授かったときでさえ、自分が求めたわけではないと、言い訳をした
ぼくが求めるものは必ず壊れる
だから決して子を求めるわけにはいかなかった

何も求めずとも、周囲に人々の往来はあり、四季は移ろっていく
笑い声もあり、恨み言もあり、怒鳴り声もある
なるべく目立たぬように物陰に隠れ、人々の感情のおこぼれを拾って生きていた

求めないことに慣れ親しむと、毎日の空の色の移り変わりや、時々の風の匂いに敏感になる
求めずとも常にそこにある世界
なにものにも絡め取られない解放された五感の世界

それでも周囲の人々はぼくに何かを求めるように助言し続け
ぼくのなかに何か求めるものはないかを探り続けた
求め、求められるのが人の世だとぼくを説得し続けた

すべては与えられているじゃないかと言い返そうとしたが
あまりにも自分の実感にそぐわず顔を赤らめた
ぼくの、ただ求めないなどということは、宗教的境地にはほど遠いのだ

誰にも何をも求めないという態度は、周囲の人々を苛ただせる
誰一人価値というものを創造するチャンスを奪われてしまうからだ
お金を作る価値、優しくする価値、綺麗でいることの価値、料理の旨いことの価値

自分という人間の価値を創造するように人は仕込まれた
そうではあるのだが、価値というのはそれを求める人がいなければ、ただのゼロになる
つまり、求めないという態度は、限りなく世界の存在価値をゼロにしていくことではある

でも、世界は求めようが求めまいが、世界は常にそこにある
風が吹き、雲がちぎれ、鳥が鳴き、人々が苦しむ
価値を離れたときに、世界は世界のありのままでそこにある

 


登山道

2011年11月26日 | 雑感

来週は十二月になります。
なんだかもうひと月経つのが、一週間経った位の感じで過ぎていきます。
きちんと流れを見据えていないと、どこかわけの分からないところへ押し流されてしまいそうです。
崩れかけた体勢をきちんと立て直し、流れの方向を捉え直し、きちんと船首をしかるべき方向へ向けなければなりません。
エンジンの不具合も調整し、燃料も確保しなければなりません。
色々やることが重なると、頭も心も麻痺します。
目の前の一つ一つを片っ端から片付けていくことが当面のやるべきことです。

どうも時間の使い方が下手くそになってきています。
もしかして老化現象なのでしょうか。
放っておくとあっという間に何もしないままに数時間が過ぎています。
別に思い出に浸ったり、空想に耽ったりというのではありません。
ひたすらぼうっとしたまま、気がつくと時間だけが過ぎています。
ちょっと自分の心を取りだして、この手でコネコネと練り直したい気分です。

昨日は店でパーティーでした。
小人数のパーティーでしたが、12時近くまで話で盛り上がりました。
皆はあまり飲まず、ぼく一人で焼酎をがぶがぶ飲んでいました。
いつものことですが、このパターンも賞味期限を過ぎています。
そろそろテーマをもった話を展開するというワザをマスターすべき時にきているような気がします。

こうやって、日々反省すべきことだらけで自分の心の周囲が埋まっていきます。
これは楽しくありません。
すべきことをすかっと片付けて、呵々大笑して次のステップへ進む。
そんな感じにとっととしたいです。

若いときは無駄な動きにこそ、ユーモアや雅気がありましたが、年を取るにつれ気力体力が衰えます。
気力体力が衰えれば、無駄な動きをすればするほど、消耗感だけが残ります。
無駄な動き、心労を削りに削り、的確な動きで出来事を捌いていく。
そういうのがかっこいい年の取り方なのかも知れません。
そう考えると、あえて無駄な言動でしか喜びを感じられなくなっているようなところがあるぼくには、なかなか大変な道なのかも知れません。
切るべきものは切る。
常に、言うは易し、行うは難しです。

なにはともあれ、人の情熱を支えるのはヴィジョンです。
本当のヴィジョンさえ持てれば、後のゴタゴタはすべて枝葉末節です。
やるべきことはやる、登るべき登山道は登るだけです。
いまから本当のヴィジョンを持てるのか。
そもそもヴィジョンというのは、持つとか持たないかというよりも、生来的にその人にあるかないかなのではないのか。
その辺りのグズグズを吹っ切って、登山道に向かいます。

 

 


戦局

2011年11月22日 | 雑感

昨日辺りから急に寒くなりました。
コートを引っ張り出して着ています。

先週いっぱい禅の摂心期間でした。
仕事を終えて道場に行って坐って参禅をし、雑魚寝で泊って、5時に起きて坐って参禅をして、仕事に向かう毎日でした。
10時間くらい寝ないとてきめんに不機嫌になるぼくとしては、なかなか大変な修行です。
朝、皆を起こすための版木というものを叩くのですが、その係がぼくでして、最初の二日は目覚ましをかけたのにもかかわらずまったく目が覚めず、
見かねた他の人が版木を叩いてくれました。
それから以降はちゃんとぼくが版木を叩きましたが。

まぁ、今は色々な意味での転換期です。
転換すべきものは大胆に確固とした信念で転換しなければいけない時期だと思います。
習慣、生活態度から、目標の設定の見直し、方向性の修正等々、一から点検修正補強が必要となるでしょう。
そのためにもこの摂心の期間はいいチャンスととらえるしかありません。

ぼくにとっては今までにない正念場になりそうです。
何となくのチャンスは期待できそうにありません。
確実に何を自分が積み上げていくのかだけが問われているような気がします。
そういう積み上げが不得意でありましたから、なかなか厳しい局面の連続になりそうです。
これは愚痴ではなくて、戦局の冷静な分析です。
状況というよりは、戦局といった感じがぼくにとってはフィットします。
それだけ厳しい状況です。

今まで長年平和な時代をのほほんと生きてきました。
のほほんと生きてたくせに、自分は平和な時代よりは混乱の時代を切り抜けていく方が得意だと思っていました。
で、この今の混迷の時代です。
切り抜けるどころか、一歩間違えれば、腑抜けの青びょうたんです。

すべては大丈夫だという根拠のない自信は失われてはいません。
でも、自分の中にあるゴミやら泥やらはすべて掻き出してしまわなければ、闘う前に自滅しそうな予感があります。
10時間寝ている暇は当分ありそうもありません。
そうと決まれば、早起きするだけです。
早起きして、お日様を拝んで、腕を振って、仕事に向かうことにする。
それだけのことをスッキリ爽やかに出来ない、心に溜ったヘドロを一掃しなければなりません。


なし崩し

2011年11月09日 | 雑感

今にも雨が降りそうなどんよりとした空です。
秋が一番好きな季節なのですが、よく堪能しないままなし崩し的に冬に入ってしまいそうな感じです。

先週末、風邪を引いてしまって、家で寝ていました。
ちょっと寝不足するとたちまち身体に来ます。
ほかのどんな不摂生も大概大丈夫なのですが、寝不足だけはからきし弱いです。
一日寝不足すると、数日その影響が残ります。
今週末から禅道場の摂心です。
睡眠時間が5時間くらいになります。
以前は一旦家に帰って2~3時間の睡眠を取ってから出社していましたが、
今回はそのまま道場から直接店に出ようかと思っています。
追い込まないとないといつまでもぐうたらなままです。

で、週末終日家でゴロゴロしていたわけですが、たまたま観たNHKで、自力で復興を図る岩手の漁村を映し出していました。
無為無策の行政に頼らず、自分たちで移転先の候補地を選び、山を切り開いて道路を作り、中古の舟を北海道まで探しに行っていました。
道路に敷くアスファルトはどこかの有志が寄付してくれたものです。
報道されるまでもなく、半年以上も経って、すっかり復興して活況を呈する仙台から車で数十分のところでも、
手つかずのところがあるのを目にしていますから、行政が機能不全になっているのは明らかです。

前から言っていますが、もう政治や行政や組織やなんやらに頼る時代ではありません。
彼らは組織に維持で手一杯になっており、お国のためだとか、誰かのためだとかいう大義名分はとっくに失われています。
例えそう思う職員がいたとしても、予算を取り、執行する手順の中で、その志は失われていくような仕組みになっているのでしょう。

大王製紙、オリンパスと、大手企業の不祥事が相次ぎます。
なんか不祥事というのもはばかられるほど、幼稚なお金のゴタゴタです。
しかも長年にわたって、大の大人たちがそれを是正できない。
大王製紙、オリンパスだけの問題であるとは到底思いません。
どこもかしこも似たような問題を抱えているような気がしてなりません。

要は、政治に限らず、組織という組織が腐り始めているのでしょう。
日本という国をどうするのか、日本国民にいとって一番いい選択肢は何なのかを明確に示す組織というのは存在しえなくなりました。
価値観のカオスの中で、それを単なる利益追求集団に求める方がおかしいとも言えます。
ですから、自分の生き方は自分で選択し、自分で防衛しなければなりません。

そうではあるのですが、なんだかなし崩し的にTPP参加の方向へ行っているようです。
なんでこうも今まで無自覚であったにせよ日本を日本であらしめた枠組みを壊したい連中が多いのか理解に苦しみます。
というか、確信犯なのでしょう。
今まで日本企業が強かったのは、日本という風土と枠組みがあったからです。
それを取り払ったら、有象無象の容赦ない策略が渦巻く野生の荒野です。
経団連の連中も、推進する政治家も、そこで戦い抜く能力と胆力が今の日本人にあると本気で思っているのでしょうか。

あれほど苦労して獲得した関税自主権を放棄し、治外法権をなし崩しに認めていくようになるのが見えているのですが。
何でもかんでもなし崩しです。

 

 


どうでもよさ

2011年11月04日 | 雑感

アメリカのドラマ「プリズン・ブレイク」、ついに見終わってしまいました。
「ロスト」に続いて何を借りようか迷って選んだのがこのシリーズでした。
登場人物たちと共に生きているような感じで観てしまいますから、終わると寂しいです。

ここ数日暖かすぎます。
この時期の生ぬるい風というのはあまり気持ちの良いものではありません。
ぴりっと肌を刺すくらいに冷たい方が好みです。
寒くなって、ネットでアメリカから取り寄せた中古のジャケットやコートを着るのが楽しみです。
ぼくは無駄に身長が高いので、アメリカのLサイズだと、ちょうどピッタリです。
ぼくは服装に凝る方では全然ありませんで、私服はほとんど全部ユニクロです。
買ったものが色褪せや、すり切れて着れなくなれば次のものを買うくらいです。
スーツも売り場に行ってこれは着たいというものが全然ありませんし、あったとしても法外に高いので、
一万円均一セールの時に買ったものを主に着ています。
そういうセールも別に狙っているわけではなく、あまりにも服に無頓着なぼくのことを心配してくれるお客さんが教えてくれたりします。
ワイシャツなどは千円のもので十分です。
それもいつも同じワイシャツを着ているぼくを見て、デパートでお客さんが千円シャツを何枚か買ってきてくれてそれで十分なのだと知りました。
そういうぼくですが、先日たまたま見ていたネットで、アメリカの中古服屋さんを見ていたら、とても欲しくなるような服が数点ありました。
それで思わず買い込んだというわけです。

まぁ、どうでもいい話ではあります。
そうは言いながら、お客さんなど他人に着ているものに関しては、どうせ着るなら品質の良いものを、
さりげなく着ていて欲しいというものはあります。
まぁ、男が何を着ていようがどうでもいいですが、女性に関してはその人が何を選んできているのかというのは、
結構大きなポイントになるのはしかだがないような気がします。
だからこそ女性のファッション市場は大きく活力があるわけです。
流行に流されず、しかも自分らしさを見つけた女性というのは、なんというか女性の世界特有のあり方の中で、
さらに光り輝くポジションを得ることが出来ているような気がします。
誰かの真似をした狙った個性というのは、男女を問わず底が透けて見えて、お洒落ではありません。
その人の道を歩んできた結果、そういう服装をするしかなくなった到達点としての服装こそ格好いいのだと思います。
ぼくの一万円のスーツは、ぼくの歩んできている道の途中経過のありのままの姿ですから、なんら恥じるところはありません(笑)。

まぁ、本当にどうでもいい話です。
なにか本当に言いたいことを、まとめて話すというのは結構エネルギーと集中力が要ります。
何かを表現しようとするエネルギーというのは、年々衰えていくような気がします。
その衰えをそのままに表現する様式を掴めば、それはそれで楽しいような気がしますが、表現という創造的手段を磨いてこなかった人間にとっては、
表現すること自体がだんだんと億劫になってきます。

誰にも言ったことはないのですが、これでもぼくは昔は映画監督になりたいと思っていました。
若造ですから、その辺の監督よりも絶対に才能があると思っていました。
そりゃあ、頭の中で自由自在に思い描くだけなら誰でも天才映画監督になれるわけです。
映画監督というのは、映像に対するこだわりだけではなく、あらゆる人間が行き交う現場を取り仕切るプロデューサーでもなければいけないわけです。
めんどくさがりやのぼくは、その辺りで徐々にその道を諦めていきました。
妥協もなく数十人の役者やらスタッフやら部外者やらを取り纏めていく信念と根気にぼくは欠いているからです。

まぁ、こういうのもどうでも良い話しではあります。
でも、こういうどうでも良い話しをいけしゃあしゃあとブログでつぶやく境地というのも、ぼくはだんだん好きになっているのかも知れません(笑)
好きとはいかないまでも、自分に許せる。
年を取っていくというのは、悪いことばかりではありません(笑)。