風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

不況

2008年12月16日 | 雑感
ニュースは見ていませんが、輸出型の産業と広告業界とメディア関係は大幅なリストラが進行中みたいですね。
その流れは当然、飲食産業、小売産業まで迅速に波及するでしょう。
我慢のし時です。
円が強いのなら、資源が安く買えます。
一等地の商店街に100円ショップが立ち並ぶ状況からの脱皮ができるチャンスです。
安く買った資源に日本人らしい技術の粋を凝らして、世界に打って出るチャンスです。
この状況ではこれまでのような輸出型の産業は持たないでしょう。
日本がこれからのロールスロイスやマイセンやバカラやルイ・ヴィトンやボルドーワインを作る時代にすれば日本は生き残れます。

本物だけが生き残れるでしょう。
本物志向というのは、もともと日本人が強く志向するものです。
創意工夫の限りを尽くして、新たな本物を作り出していけばいいです。
間違っても、豊潤な国内資産をグローバル金融投資に回さないことです。
日本の資産はこれから激しく狙われるに決まっています。
きな臭い時代に入っていくでしょう。
アメリカ一極主義が終焉しつつある今、選択肢は意外とあります。
したたかさと信念と決断力が要ります。
日本を守るという確固とした信念しか、日本を守るすべはないでしょう。

守りと同時に、あらゆる分野で進化させなければいけないです。
まずは教育です。
今の教育は、行政の一部でしかありません。
日本人が日本人としてあろうとする姿を構想するのさえ、妨害されます。
妨害の為の妨害にはもう付き合う必要がありません。
歪んだ教育によって産みだされるグロテスクな人間像が新聞に毎日のように載っています。

それから、国土の回復です。
国土全般に渡って、荒れ果てています。
国土が産む、主に食物資源が量的に圧倒的に貧弱です。
農業、漁業に携わる人が、生きがいを持てる産業構造にしなければいけません。
補助金行政に戻ったら、もう終わりです。
流通を整理し、無駄なコストを削減した分を生産者に還元する仕組みを作らなければいけません。
こういうときは、政治主体では相反する利害関係の調整に延々と忙殺されるだけです。
つまりはなにもしないままで終わります。
一人一人が意識を持つしかありません。
その土地に住む人間が豊かさを享受するのはその国土からというのが基本であるのは間違いないでしょう。

こういうのは、円が強い時しかできません。
ポンドが強い時にはイギリスが、ドルが強い時にはアメリカが、その栄華をホシイママニしましたが、
何故日本では円が強くなるとこぞって悲観的になるのでしょう。
円が弱くなれば、資源のない日本はたちまち資源のある国へ従属するだけの三等国となるでしょう。
円が弱くなったら輸出が伸びるというような時代ではありません。
ものは基本的に過剰に生産されている時代になってきています。

ものだけではなく、人も生き方として本物にならなければいけないのでしょう。
楽して儲けることはすっぱり諦め、人々に世界になにを本物として提供できるかを考え続ければ、道はあるのだと思います。

何十回目かの冬

2008年12月15日 | 雑感
テレビがない生活が一月以上経ちました。
テレビがないお陰で夜が長くなりました。
仕方がないので本を読みます。
お酒を控えれば、長い夜を利用して何かまとまった研究かなんかができるかもしれません。

北国ではもう雪が降っていることでしょう。
水溜りに氷が張っているかもしれません。
九州に来てからは、水溜りに張る氷というのは見たことがありません。
子供のころ、それを長靴でふんずけてパリパリ割るのが妙に楽しかった覚えがあります。

そういえば、雪虫というのもいましたね。
雪が降る頃になると、綿毛をまとったようなふわふわした羽虫がどこからともなく現れて、飛んでいました。
つるべ落としの夕暮れに、魚屋からカレイの干しものかなんかを焼く匂いが漂っていたのも懐かしく思い出します。

人恋しくなる季節でもありました。
巷のクリスマスムードも人恋しさを切なく煽りました。
今のほうが電飾も派手で凝っていて、格段におしゃれにはなりましたが、昔の方が世間全般にクリスマスの情感が
溢れていたように思うのは、ぼくが子供だったからかもしれません。

こうやって100回足らずの季節の巡りを経験して、人はこの世での生を卒業、或いは中退していきます。
何度冬を迎えても、同じ冬ではありません。
10歳の時に迎えた冬と、13歳の時に迎えた冬とでは、その迎える心境がまるで違ったりします。
同様に、同じ春、同じ夏、同じ秋というのもありません。
巡り来た季節の顔は、いつだって新しい顔をしています。

今年の冬は皆さんにとってどんな顔をしているでしょうか。
ニコニコしている冬の顔というのは見たことがありませんが、どんな顔をしているにせよ、
自らは晴れやかな顔をしていたいものです。


子供たち

2008年12月14日 | 雑感
今日は早めに帰ろうと思ったら、外は雨です。
昨日も夕方から雨が降り始め、一本しかない傘を家に持ち帰ってしまっているので、傘がありません。

仕方がないので、今日こそ飲むまいと思っていたのですが、焼酎の水割りを作って飲んでいます。

今頃の子供たちは、今の大人たちの作った世の中を見てどう思っているのでしょうか。
政治、企業、行政の不祥事が毎日新聞に載り、下らないテレビ番組に囲まれ、なにを思っているのでしょうか。
今の学校に行って、塾に行って、夢やら希望やらをもてるのでしょうか。
親とはどのような会話がなされているのでしょうか。
こういう世の中を作り上げた大人たちが、あいも変わらず目先のことで悩んだり苦しんだりする姿を見て、
彼らはどう感じているのでしょうか。
生きるとはそんなものだと彼らが思ってしまうのなら、大人たちの責任は重大です。

昨日、家内が近所のスーパーで見た光景だそうです。
2歳にもならない女の子が、店内の階段をヨチヨチ歩いていたそうです。
傍にいた母親が、うろちょろするんじゃないとかなんとか、とにかく怒鳴るそうです。
女の子は泣きだします。
母親は女の子に罵声を浴びせてその場から立ち去ったそうです。
女の子はさらに大声で泣きながら、それでも必死に母親の後を追いかけて、スカートの端を掴んだそうです。
その幼い手を母親はビシャリと叩いて払いのけたそうです。

それに似たような光景にはぼくも何度か遭遇したことがあります。
で、父親は傍にいたのと家内に聞くと、年下風の男が傍にいたとのことです。
それがショックでした。
母親が子育ての疲れとストレスで切れやすくなることはあると思います。
でも、傍にいて、わが娘に対する仕打ちを見てなにも感じない父親がいるということはショックでした。
母親がいらだち、娘は心に深い傷を負い、父親は度し難い無能ブリを晒す。
年月が癒すどころか、年月が経つにつれ、状況は悪化していくとしか思われません。

ぼくもかなり精神年齢が低いという自覚はありますが、これほどではないです。
そして、これが特異の例ということでもなさそうなところが、現代の怖いところです。
モンスターペアレントとか、異常なクレーマーとか、実際に身近の人の話にも出てきます。
成熟していない人間が、未成熟な人間を導く先は、どこまでいっても未成熟です。
肉体的には成熟していきますから、問題はさらに複雑でヤッカイなものになっていきます。

時として、政府や企業を叩きまくり、世の中の風潮を嘆くテレビやメディアの人たちの倫理観が強いという説も聞いたことがありません。
その逆なら、いやというほど聞いたことがありますが。

こんな状況で、子供の教育云々を語る馬鹿馬鹿しさをぼくたち大人は思い知る必要があります。
どんなに口先で立派なことをいっても、子供たちが目にし、聴き、体験するのはこの大人の作ったウンコみたいな現実です。
自分で撒き散らしたウンコをまず掃除する大人にならなければ、子供たちの目は輝くはずがありません。

ぼくとしては、いつまでもいい気で酒を飲むことは控えなければ、と反省します。



忍耐

2008年12月13日 | スピリチュアル
ここ数日小春日和が続いています。
うららかな空をぼんやり眺めていますと、心がホッコリします。
世間は師走で、厳しい冷たい風が吹いています。
こんなご時世に職を失うのはさぞかし辛いことだと思います。
先行きが不透明ですから、なおさら心が折れてしまいそうになるでしょうが、なんとしても明るい春を迎えて欲しいものです。

忍耐というのはどの宗教でも美徳の一つとして数えられていますが、ただじっと我慢するという受身の忍耐には、
自ずとその効能に限界があるでしょう。
我慢するしかないから我慢するのではなく、我慢をするという積極的かつ明確な意図を持って我慢することにより、
我慢をすることの効能が最大限に引き出されるのではないかと思います。
そのポイントは、自我の抑制、コントロールにあるわけですから、受身的な我慢ですと自己をコントロールすると言うよりは、
否定的な外部環境や条件にひたすら耐えるだけという感じになります。
ひたすら耐えるだけというのは、それが如何に大変な努力を要することであろうとも、なかなか事態を好転させません。

例えば、貧乏をひたすら我慢しているだけでは、貧乏という状況は好転しません。
貧乏という状況を甘受しつつも、そこから抜け出す階段を一歩一歩歩むという行為がなくてはなりません。
今現在の状況を受け切り、より望ましい状況を作り出すということでなくてはなりません。
今現在の状況を受け切ることも自己コントロールですし、より望ましい方向へ向うのも自己コントロールです。
自己コントロールの力としての忍耐はとても大切ですが、忍耐のための忍耐はかえって状況を深刻化させる場合もあるでしょう。
なんでそこまでと傍から思うくらいに我慢に我慢を重ねている人がいますが、大抵は事態が硬直したままです。

何事も思うように行かないのは世の常です。
その辺りを余裕を持って眺められるようになるには、忍耐力というのはどうしても必要でしょう。
ただし、忍耐力でものごとを改善することはできません。
忍耐力の上に、向上を、改善を諦めない意志があって初めて人生が前進します。

昔なら「石の上にも三年」という諺も真実だったのでしょうが、今は違うと感じます。
3年でも5年でも10年でも、創意工夫がないと石の上は石の上のままです。
石の上から飛び立つための創意工夫がどうしても必要とされる厳しい時代だと思います。

この厳しさを否定的に捉えると、厳しさは苛酷さに代わるでしょう。
この厳しさを肯定的に捉えれば、厳しさは試練であり、試練に耐え切った暁には大いなる実りがあるのでしょう。
実りの大小はどうでもいいことです。
試練を味わい、さらには試練を越えていく喜びを味わえれば、その他に言うべきこともありません。
この世に生きるということはそもそも試練なのですから、その試練を越えるという当初からの課題をこなすだけです。

誰かの助けが必要ならば、助けを請えばいいです。
誰かが助けを請うているなら、できることはしてあげればいいです。
こういう時代は、無意味なプライドと孤独にこもってしまうのが一番いけません。
誰か身近な人の握る手がある人は幸いです。
握り締めて、共に歩めばそれほど怖い世の中でもないとぼくは思います。
いつもと変わらぬ空があり、せせらぎがあり、笑顔があり、花々が咲き誇る春が来ます。

お互いに頑張りましょうね。



信仰心

2008年12月09日 | スピリチュアル
ご無沙汰してしまいました。
厳しいながらも、状況から逃げまいと日々やれることをやろうとしている毎日です。

さて、以前に、ぼくは愛が分からないと書きました。
それも当然なのでしょう。
自我からは愛というエネルギーは出てきません。
自我から出てくるのは、執着とその反対の無関心だけでしょう。

愛というものを自我の都合で解釈しようとしても、愛というエネルギーは解釈・分析の網の目をすり抜けます。
愛というのは、生命エネルギーそのものであり、そのエネルギーの向う先は成長と調和であり、人間はそのエネルギーを
地上に流す最もパワフルで洗練された媒介のはずだったみたいです。
自らに流れ込む生命エネルギーを信頼しきって、心を解放すれば、自ずと愛のエネルギーがその人から流れ出すはずなのです。
その流れを阻害するのが、例によって、自我、我執です。

エネルギーというのは循環しますから、鉱物、植物、動物、人間のエネルギーは互恵的に交流して
生命体系は螺旋的に進化を進めます。
ところが、生命体系の頂点に立つ人間が自分さえよければよいという我執の迷路に迷い込んだために、
生命体系は混乱し、ご覧のような地球の状態になったわけです。

人が自らを生命体系から分離独立した特権的な存在と考える限り、生命体系の衰弱とほころびは拡大していくでしょう。
人は生命体系から大いなる恵みを受けてこそ存在を許されているわけですが、
本来ならは人は生命体系全体に対する奉仕者となってこそ、生命体系全体の豊かな進化が可能となるみたいです。

愛のエネルギーの循環を滞らせず、潤滑に循環させることが、どうやら天の摂理、神の摂理と呼ばれる宇宙の摂理みたいです。

人は自我で埋まった心を何かのエネルギーや摂理やなにがしかに明け渡すということが、大変ヘタになりました。
場合によっては、心を何かに明け渡すということが、屈辱的なものでさえあるという風潮もあります。
個人というものを「ある」と仮定し、心というものを「ある」と仮定し、頭脳が苦し紛れに割り出した理屈を
合理的だとする底の浅い科学が、現代人間の常識ある考え方の基盤とすべきだという風潮があります。

元に戻りますが、頭脳や科学や個人という枠組みの中では、「愛」は捉えられません。
そういう枠組みをぶち壊せば「愛」が分かるのか。
ぶち壊すことではないのでしょう。
頭脳や科学や個人という観念を作るような意識作用は、それなりに必要性のあるものです。
そういう枠組みをぶち壊すのではなく、そういう枠組みを越え出て行こうとする意志と勇気が必要なのかもしれません。

その越え出て行こうとする意志と勇気を、信仰心というのでしょう。
一つの恐れを前提にした偽善的な世界観に捉われることを教え導くような宗教組織に属することを信仰心とは言わないでしょう。
何か人為的な組織に属して安心するような心は、明らかに自我の都合の範疇です。

愛のエネルギーの奔流を心の扉を明け渡して受け入れ、溜め込まずに心の扉から外に奔出させれば、
生命エネルギーとの一体、愛と一体という法悦を感じることができるのかもしれません。

ま、偉そうなことを書いていますが、まだ「愛」という実感がつかめずにいるのが実情ですが。