風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

招き猫

2006年05月31日 | 雑感
昨日一日で何とか決算片付きました。
税理士事務所のスタッフには大変ご迷惑を掛けました。
ありがとうございました。

自分も煮詰まり、人にも迷惑掛け、数字の調整も出来ず、何やってるんですかね、まったく。←ヒューザー小嶋調で
笑い事では全然ありません。
不愉快、不誠実、不利便、不合理、不利益です。
反省します。

昨日はそんな中、ネネさんに貰った紋付の羽織をどうにかしてもらおうと、ネネさんの家に行きました。
Aちゃんのお母さんが、そういう着物やなんかを仕立て直しておしゃれな衣装を作るのが得意なので、ネネさんの家に来てもらっていたのです。
お昼時なので軽食を用意していると聞いたのですが、手の込んだご馳走がこれでもかと並べられていて、眩暈がしました。
3方に素晴らしい景色が開け、素晴らしい気の流れのなかで、食事をいただきました。

ネネさんの自分の羽織をどうこうする相談を黙ってみていました。
真っ赤だの、紫だの、ピンクだの、金だのの生地を使うみたいです。
黙って見ている以外に何を言えるというのでしょうか。
ついでに、気に入って買ったという羽織を見せてもらいました。
黒地の背中にどーんと虎の顔が描いています。
その虎の目玉にはきらきら光るガラス球まではめ込まれています。
それを羽織ったネネさんはうっとりとしています。
黙って見ている以外に何を言えるというのでしょうか。

それから、カナリヤさんの家に行きました。
招き猫を届けに行ったのです。
この招き猫は絶対に売るつもりがなかったのですが、背に腹は変えられなかったんです。
でも、招き猫、カナリヤさんの家にぴったりでした。
本当に生きているんです。
カナリヤさんとこの19歳の飼い猫も、匂いをかいだり、じっと見つめたりと、素焼きの人形とは絶対に思っていません。
寂しくも辛い、招き猫との別れでした(笑)

それから、あるお宅に伺って、焼酎を貰いながらへらへらおしゃべりし、
店に戻ると、前に勤めていた会社の社長が寄ってくれて、おしゃべりし、
そのうちに前の会社の同僚が遊びに来て、一緒におしゃべりし、
社長が帰ったので、元同僚と一緒にカクウチに飲みに行きました。

そんななかでも、税理士のスタッフの人とは提出書類の最終調整もし、何件かにメールもしました。

忙しい方が、返って色々するものだということは、経験上は分かっています。
昨日は朝3時から起きて最終の決算書類を作りました。
それから、朝早くから店に出て、コピーしたり、ファックスしたり、電話したりしました。
普段のぼくの一か月分くらい働いたんじゃないかと思います。







ぐずぐず

2006年05月29日 | 雑感
暑くもなく快適な気候です。
店には冷房が入り始めました。

実はまだ決算が終わっていません。
今日在庫をチェックし終えましたので、後は売り上げのチェックと、売掛、買掛のチェックです。
税理士事務所の担当者には素直に怒られようと思っています。

は~ぁ、しんど。

店でやろうと思っていても、ちらほらと人が来るんで、やっぱり出来ないです。
家にもって帰ってやろうとしても、どうしても一杯二杯と呑んでしまって、グタグタになります。
石野弱蔵と呼んでください。

なんかフロッピーディスクも見当たらないし。
用はないときはあれほどいつも目に付いていたのに。

今日は徹夜です!←多分ウソ



暴風

2006年05月27日 | 雑感
昨夜は台風並みの風が一晩中吹いていました。
他所はそうでもないらしく、この地域だけのことのようです。
雨も止みません。

子供のころ、台風の日は父親のカッパを着て外に出て、舗装されていない道を流れる濁流でダムを作って遊びました。
石や土で流れを堰き止めます。
水がどんどん溜まります。
水位が限界を越え、堰き止めた土や石ころを崩し始めます。
出口を見つけた水は、一気に堰を破って、どっと崩れ流れます。
それが面白くて、何度も何度も作っては破られ、破られては作るを繰り返しました。
何時間後かに雨脚が弱まり、ダムに溜まる水の勢いが衰え始めます。
そうすると、ダムを破壊する勢いも当然弱まりますので、つまらなくなって帰るわけです。

濁流の力というのは侮ってはいけません。
昔サーフィンをしてたことがあるのですが、初心者ゆえ、海に落ちて波に呑まれて、もみくちゃにされます。
もう、水の中では何も出来ません。
自分が立を向いているのか横を向いているのかも分かりません。
もみくちゃが収まって、海面に自然と浮上するのをひたすら待つだけです。
そこで海水なんかを呑んでしまった日には・・・。

雪崩というものに出会ったことはありませんが、あれも見た目とは全然違うと思います。
雪渓を滑り落ちたりなんかした経験から言いますと、あれは雪と思ったら大違いです。
小石や砂利が大量にもの凄い勢いで叩きつけてくると思った方がいいでしょう。

なんにせよ、自然がその威力を発揮したというときというのは、人間は子猫みたいに背中を丸めて穴倉にでも篭っているしかありません。

背中を丸めて穴倉に篭る。
なんかいい響きじゃないですか。



2006年05月26日 | 雑感
雨です。
涼しくて、気持ちがいいです。

飾り棚の上に置いていた五人のガラスの天使が落ちで、全部片方の翼が折れてしまいました。
ぼくが外に出してあるテーブルを仕舞うときにぶつけたからです。
幸い、根元からぽきりと折れているので、作った人に治してもらえそうです。
右の翼や左の翼を失った天使たちは、それでも無表情でガラスの玉を両腕で抱えています。
もう空を飛べないかもしれないのに、ガラスの玉を手放しません。
ぼくがガラスの玉をつまんで取ると、片翼を失った天使たちはとても悲しそうに見えます。
だからぼくはまた元通りにガラスの玉を天使の腕に載せてあげます。

表の商店街は一日中にぎやかです。
この時間になると、酔っ払った人々の嬌声やら、怒鳴り声やらが聞こえだします。
ぼくはといえば、なんだか心晴れないままに、机に坐っています。
今朝起きがけに、かなり面白い夢を見ていたのですが、思い出せません。

少し思い出しました。
矢沢栄吉の家に行きます。
もう一人古株のミュージシャン(ニューミュージック系)も遊びに来てました。
矢沢栄吉の家ではいつも矢沢栄吉の曲を流しっぱなしなのですが、ぼくたちが遊びにいったので矢沢栄吉は遠慮して曲を止めました。
夢の中では、矢沢栄吉はとても気の使う、シャイな人間でした。
それではと、ぼくは古い女のミュージシャン、そうそうカルメン・マキを勝手にかけました。
ジュークボックスみたいな機械の「カルメン・マキ」というボタンを押すと、「時には母のない子のように」がもの凄くいい音質で流れます。
すると、ソファの隣に坐っている誰かが啜り泣きを始めたので、目を向けると色のもの凄く浅黒いガッツ石松が俯いて泣いています。
へぇーと、ぼくは思います。何に感心してへぇーなのかは、ぼくにも分かりません。

なんかその前後も面白かったのですが、まったく思い出せません。

全然面白くないって?
ああそうですか。

とにかく、巷は夕暮れです。
あれやこれやと事件やら、出来事やら、揉め事やら、色恋沙汰やら、誕生やら、死やらが巻き起こっていたのでしょうが、
今日も一日が何事もなかったかのように暮れて行きます。





忍耐力

2006年05月25日 | 雑感
まだ届いていなかったオークションの最後の一点が今日届きました。
買い手も決まっており、一番重要なものです。
それなのに、違うものが小包のなかに入っていました。
別の日に行われたオークションの、同じロット番号(オークションの出品番号)の物が入っていました。
もーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!という感じです。
これだけトラぶっているのだから、少しは気をつけてくれれば簡単に防げるミスなんですが。
というか、もともとありえないミスではあるんですが。
何でこうなるんですかね。
また送り返して、正しいものを送ってくれるのを待ち、税関に関税を払い、という手続きをしなければなりません。

クリスティーズという世界的に有名なオークション会社ですよ。
信じられません。
信じられなくても起きたことには対処しなければなりません。
忍耐力だけは鍛えられますが、なんだかなーーーーーーーーーーーー!

他の商品なら別にどうってことはないんです。
でも、それを買うお客さんが決まっている商品だと、非常に痛いんです。
それで資金繰りも立てているわけだし。
この事態をプラスに転化するのは正直言ってなかなか厳しいです。

でも、これを読む方はこういうスケールの小さい愚痴は聞きたくありませんよね。
でもなーーーーーーーーーーーー!

しつこくてゴメンナサイ。

日々これ精進。←小声でボソッと

前を向いて歩こうとすると、こうしてこかされます。

う~ん。

思うに、反省すべきところをきちっと反省しないままに前に進もうとしてるからかもしれません。
誤魔化したまま前に進もうったって、そうはさせんぞ、みたいな。

でも、ぼくがこのところずっと気に病んでいたのは、その商品一点がいつ来るかだったんですよ。
それほど、いろいろな意味で重要な商品でした。
その商品一点に限って、何で最初の荷物に入れられるのを忘れられ、二度目の荷物には違うものが入れられするんでしょう。
向こうの担当者は、「ちゃんと送ったよー!」「今度は大丈夫だよー!」みたいなノリで、なんというか・・・。

日日これ精進。←棒読み



記憶

2006年05月24日 | 雑感
店のプリンターが使えなくなっていたので、家で決算書類をプリントアウトしていました。
窓の外からは女の子たちが大きな声を出して歌っているのが聞こえてきます。
山には夕日が当たり、かすかにモヤがかかっています。

別の窓からは前に住んでいた家が遥かに見えます。
今頃の季節、その家のバルコニーから見た海峡の景色は最高でした。
天気の良い日はケヤキに覆われたそのバルコニーでワインを飲みながらスパゲティなんぞを食べたものです。

気候が気持ちがいい日は何故だか過去をふと思い出します。
記憶が過去に遡れば遡るほど、胸が切なくなります。

で、思わずビールを3缶空けてきました(笑)

現金と通帳の方はどうやら片付きました。
あとは、仕入と売り上げを仕上げるのみです。
在庫も同時に片付けてしまいます。
先が見えたので、胸のつかえがが下りました。

なんだかどっと疲れたので今日は帰ります。





決算

2006年05月23日 | 雑感
今日は自宅にこもって決算業務をしていました。
今日中に片付けたかったのですが、資料が無かったり、記憶が戻ってこなかったりで、片付きません。
心底うんざりして、家を出て、自転車で店まで来ました。
青空が広がって、傾きかけた日差しが街を金色に照らしていました。

なんかいろいろなことをきちっとしなければなりません。
このところいつも些細なことで足をすくわれっぱなしです。
疲れます。
ズボラで許される時期は過ぎたのでしょう。

時々自分で自分の持続力の無さに呆れたりなんかしてみるのですが、持続力というのは目標があってこそのものだと今思い当たりました。
目標を立てないものですから、思いつきはあまたあるものの、意志が続きません。
なんか小学生並みの気まぐれさです。

そういうこともあり、今年は年頭に目標を立てたのでした。
すっかり忘れていたわけです。
読み返すともっともなことが書いてあります。
紙に書いて目の前に張っておく必要があるのかもしれません。

それにしても、記憶力の低下というのは本当に起こります。
アルコールで脳細胞が大量死しているのもあるのでしょうが、何かを覚えようとする意志が日に日に希薄になります。
つい昨日のことも思い出そうと努力しないと片端から虚空に消えて行きます。
やれやれです。


ちょっと今夜は徹夜しても決算を片付けようと今思いました。
もう嫌です、こんな感じ。
それでは皆様、また明日。

輪廻Ⅱ

2006年05月22日 | スピリチュアル
お二人の方からコメントをいただいたので、今日はその返事みたいなものをここに書いてみたいと思います。
でも、ぼくが今まで本を読んだり、感じてきたりしたなかでの、ぼくなりの考えに過ぎないということを念頭においてください。
前世や霊魂というものに関しては、伝統仏教などでは「無記」ということで、あまり語りません。
軽々しく言葉で語り尽くせるものではないということもあるのでしょうが、
そんなことを知ろうとする前にすることがあるだろうがということなのかもしれません。

akemiさんのご質問の「感謝」ということですが、これはぼく自身も実感としてはよく分からない境地です。
周囲の人々、自然、環境、あらゆる存在のお陰をこうむって、ぼくがここに存在し、感じ生きているのはよく理解できます。
でも、その事実を受けて、心から感謝しているかというと甚だ弱々しいものでしかないのも、よく自覚しています。
感謝すべきことを知りながら、感謝の念が湧いてこない。
それほど、人は(ぼくは)身勝手だというふうに、思うわけです。
akemiさんの言葉で言うところの、「情けなさ」がここにあるんですね。

で、ぼく自身の少ない経験からも言えることなんですが、何かの機会に自分の過ちやら思い違いに深いレベルで気が付いたとき、
心の底でなにかが爆発し、感情が溢れ出します。
自分の身勝手ゆえに誰かを誤解していたことへの後悔の念と、それと同時にその人に対する感謝の念が同時に溢れ出します。
腐りかけた心が一気に浄化されるような経験です。
常日頃、生きていることへ感謝しましょうといった単なるスローガンではなく、
何の作為も無しに、否応なく「ああ、ありがたい」という気持ちで一杯になります。

でも、ぼくの場合、そういう感謝の気持ちというものが持続しません。
一過性です。
感謝の念で洗い流されたと思っていた身勝手さが、あっという間にむくむくと頭をもたげ始めます。
周囲に対する感謝よりも、自分の都合が頭を占め始めます。
そういう「情けない」人生を、ぼくもやっぱり送るわけです。

akemiさんの「謝る」という感覚は、なんか正しい感じがします。
どいつもこいつも基本的には恩知らずですから(笑)

ももさん。

>死んだら、永遠に静かに眠りたいと思っています。それだけが救いなのに、又、生まれ変わるなんて嫌です。
>どんなに良い環境に産まれても、もう結構です。輪廻転生とは本当にあるものなのでしょうか。

お釈迦様は、この世に生きることは「苦」だと言い切りました。
輪廻転生の際限のない輪から抜け出すことを、「解脱」と言いました。
ぼくも、何度、生まれ変わるなんて真っ平ごめんだと思ったことか知れません。

でも、近頃思うのですが、こういう悩んだり、苦しんだり、絶望したりというのは、この世に生きているからできることなんですよね。
例えば、あの世というものがあって、静かに眠りたいと思ったら、いつまでも眠り続けていられるとします。
千年でも、万年でも、眠り続けられるとします。
でも、ふと、この世(あの世から見た現世のことです)で、ああすればよかった、こうすればよかった、
今度はこうしてみようという思いが芽生えないとも限りません。
そう思ったときに、再度この世に生を受け、チャレンジできるというのは、もしかしたら凄いことなのかもしれません。

ぼくはももさんのことを知りませんから、筋違いなことを言っているのかもしれません。
でも、悩みや、苦しみや、絶望がなければ、解放や救いや慈悲も感じられません。
永久にじりじり焼け付くような日の下にいたら、お日様の有難さは分かりません。
身を縮ませる寒さがあるからこそ、お日様の有難さが実感できます。
そういう「実感」を得るために、この世に生を受けたのではないかと考えています。

苦しみがなければ、平安を感じません。
痛みがなければ、安楽を感じません。
不安がなければ、安心を感じません。
ひもじさを知らなければ、豊かさを知ることが出来ません。
不信が無ければ、信頼のありがたを知りません。
絶望が無ければ、愛を信じることが出来ません。
そういうマイナス要素を一身に経験するためにこの世に生まれ出てきているのではないかと思います。

ぼくの今思っている、知っている限りでは、この世に生まれ出て、そういう経験をしろとは誰も強制していないはずです。
それぞれの思惑で、それぞれの霊が(魂が)選択したのだと思います。
あの世で永遠に静かに眠りたいと思う霊を邪魔する存在というのは、ぼくの知る限りでは、いません。

ぼくはももさんの置かれている状況知りませんから、おそらく無責任なことを言っているのだと思います。
でも、ぼくは今、そういうふうに思っているのです。












輪廻

2006年05月20日 | スピリチュアル
低気圧が過ぎて、爽やかな風が吹いています。
ぼくはといえば、決算をいやいや進めています。

さて、今日たまたま読んだ記事(致知6月号)を紹介します。
稲益和夫氏の講演です。
「人は何のために生きるのか」という真正面からの演題です。
ご承知のように稲盛氏はビジネスで大成功を修めたあと、仏門にも入って更なる生き方を追求し続けています。

・最近の物理学的理論から言っても、地球上に存在する森羅万象は、この宇宙を作るために必要欠くべからざるもの
・自然界は命の連鎖で繋がっている
・生物界の頂点に立つ人間に必要なのは「利他」の心
・「利他」の心を持つためには、自分が生きていることへの感謝が必要
・因→縁→果の法則
・「この現世で人間が作る原因の最初にあるものは何かといえば、それは人間の思いです。われわれは自分の
  心に思ったことを実行するのであって、心に思わないことは実行しません」
・心に思うことをよくすること(因)で、人生のあり方(果)をよくする
・人生の目的は「魂」を磨き続けること

以上、きわめてまっとうな正論です。
これらのことは抽象論ではありません、もちろん。
ビジネスという戦場で戦いながら、苦しみもだえながら、掴んできた人生哲学ですから、シンプルかつ説得力があります。

「魂」を磨く行為というのは、どうしても苦痛が伴います。
温泉に100日浸かっていたって、「魂」は磨かれないでしょう。
時には激痛もあるでしょう。
そういう時はどうしたって逃げたくなるものです。
その激痛に耐え、乗り越えたときに、同じ痛みで苦しむことはなくなるのかもしれません。

なかなか大変ですが、大変だからこそ、大変なことを乗り越えるというスリル満点のチャンスをいただいたことに感謝できるかどうかが、
人生に対する態度の分かれ目のような気もします。

「望んで生まれたわけじゃない」と、人生を有難がらない人がよく言う台詞です。
でも、もし敢えて望んで生まれてきているのだとしたら、様相が変わります。
自分の両親、環境、能力等々を自ら選択して生まれてきているのだとしたら・・・。

「神との対話」の「神」も、シルバー・バーチも、口を揃えて、人は自ら望んで今あるような人生を選択して生まれてきていると
断言します。
また、そうでないと、因果の法則が一度きりの人生で完結しないまま終わってしまいます。
例えば、今生で人殺しをするとします。
で、来世でそんなことに関係なく、ゼロからスタートするような環境に生まれたら、その因縁を解消する機会はなくなります。
それでは因縁の法則の意味が失われます。

そういう意味から言いますと、輪廻転生の意味は、やり残したこと、心残りなこと、後悔することなどを、
次の人生で挽回すべく、それぞれの目的を遂行するのにふさわしい環境を自ら選んで生まれ変わるということらしいです。
逆に言いますと、「解脱」というのは、この世にやり残したこと、心残りなこと、後悔することがなくなる状態だともいえます。

じゃあ、自分の人生の目的(前世の因縁)を知っていた方が、道を誤らなくてすむじゃないかという意見もあるかと思います。
でも、そこが微妙なところで、あくまでも現世での自己意思の選択で、歩むべき道を歩むことに神のというか仏の慈悲があるらしいのです。
失敗すれば苦しいし、歩むべき道を歩むのもまた楽ではありません。
それでも、今生かされている、生きているということに感謝できるかどうかが、ほんと、分かれ目みたいです。



巡礼

2006年05月17日 | スピリチュアル
昨日の早朝にフェリーで帰って来ました。
スケジュールは以下です。

一日目 夜行のフェリーで神戸着→長谷寺→室生寺→伊勢外宮・内宮→鳥羽(泊)
二日目 鳥羽→猿田彦神社→滝原宮→吉野・金剛峰寺→高野山(泊)
三日目 高野山・水行→和歌山→神戸→夜行のフェリーで帰途に着く

三日目は粉河寺、根来寺も寄る予定でしたが、その代わりに和歌山ラーメンを食いたいという人が多勢を占め、省略しました(笑)

朝は毎日五時ころから活動開始です。
迷惑かけるわけにも行きませんから、ぼくも不愉快なのを押し殺して早起きします。
夜は宴会です。
みな体力があります。
ぼくが一番ないかもしれません。 

二日目の滝原宮というのは予定にはなかったのですが、道に迷ったお陰で偶然立ち寄りました。
宮司さんの話によると、なんでも今の伊勢の地に神様が落ち着く前に、その地にお宮を構えていたのだそうです。
当然、主神は天照大御神です。

それぞれ見所、感じるところが多々あったのですが、長くなりますので止めます。

わずか三日の間に、神道、修験道、密教の総本山を巡ったわけですから、そりゃ疲れます。
ゆっくり回る余裕はありませんから、仕方がありません。
でも、じわじわとこの経験が生きてくるのだとは思います。

高野山では早朝の勤行も参加し、水行も経験し、猿田彦神社では正式参拝もしました。
新緑真っ盛りで、風は爽やかでした。
初日は雨も降りましたが、伊勢神宮の森に吸い込まれていくような雨でした。
お酒もたくさん飲みましたが、さすがに泥酔ということはなかったです。

高野山の宿坊の精進料理は上手かったです。
伊勢うどんと和歌山ラーメンは、もう食べることがなくてもかまいません(笑)

それから、誰かが高野山の宿坊の高名な画家の書いた襖絵に体当たりをかましたらしく、襖絵がひん曲がっていました。
何人かが事態に気づき、青ざめていたそうです。
みな、ぼくが酔っ払って蹴飛ばしたのだと主張しました。
ぼくはまったく覚えがないのですが、覚えがないだけに違うとも主張できずにいました。
でも、ある人がふとある人の所業を思い出し、ぼくの濡れ衣が晴れました。
襖も元通りになりました。
めでたし、めでたしです。
詳しいことはある人の名誉のために伏せておきます(笑)







夢の続き

2006年05月12日 | 雑感
今夜フェリーで伊勢、高野山に向かいます。

今日商品が通関を通りました。
やれやれです。
貴重な経験というか、なんというか。
諸々のことも重なり、かなり心が疲弊しました。
でも、明日から聖地を巡って、心機一転です。

雨が降るみたいです。
それもまた風情です。

水曜日にまた。


神殿

2006年05月10日 | 雑感
雨降りです。

お客さんが持ってきてくれた美輪明広と江原宏之の本を一晩で一気に読んでしまいました。
目新しいことは何も書いていないのですが、やはり「困難」に対する対し方は共通でした。
困難こそ神からのプレゼントだというのです。
他人事だと諸手を上げてその通りだ、がんばれ、がんばれとなるんですが、どうも自分のことだとしんどいです。

でも、困難の真ん中に入ってしまうと何とかなっていくものなのですが、
困難が差し迫ったときというのは、もうなんというか、憂鬱にはなるし、逃げ腰になるし、不安材料を次から次へと思いつくし。

成田で止まったロンドンからの荷物の件にしても、通関業者からうんともすんとも言って来ません。
今回ばかりは参りました。
ありえね~と叫んだところでしょうがありません。
あさっての夜から伊勢・高野山に向かうのですが、諸事情、どう考えてもそれどころではないのですが、どうなりますやら。

ところで、オークションで神棚を買ったのですが、これがとんでもない大きさでした。
思っていた大きさの5倍はあります。
神棚というよりミニ神殿です。
こんなものに入れ奉る神様とか、ちょっと思い当たりません。
しばらく家に置いておきますが、ちょっとスペース取りすぎです(笑)
でも、雰囲気や味はあって、好きですが。

と、言っているうちにネネさんが来て、信じられないことが起こって、伊勢・高野山に行けることになりました。
なんか、今は呆然としてしまいました。

合掌










困難

2006年05月09日 | 雑感
なんか世の中すごい事件の連発ですね。
大阪の方でもとんでもない事件が発覚しているにもかかわらず、全国ネットのTVニュースではなぜか流れません。
いわゆる闇の組織というものに、検察が手をつけ始めた感じがします。
どこまで膿を出せるのかは分かりませんが、戦々恐々としている人たちが一杯いるであろうことは予想できます。

ところで、信じられないことに、ロンドンで買った商品まだ届きません。
日本には着いているのですが、今度は税関で止まっています。
インヴォイス(送り状)の商品内容の記載が不正確だったので、止まっているのですが。
買ってから2ヶ月経ちます。
100年前の商取引じゃあるまいし。
予定では買ってから遅くとも2週間くらいで手元に来るはずでした。
それが2ヶ月も狂うと、ホント何もかもが手につかなくなります。

なんか今回は最初からスムーズに行かなかったです。
妙な些細なことで引っかかっては、停滞します。
それなりの手を打って、もう大丈夫かと思うと、また何かが引っかかってきます。
それが何度も繰り返されて、最後の最後にまた引っかかっています。
こういうことって、世の中あることはあるのですが、ここまで意味のない、腹の立つのは初めてです。
これでインヴォイスの再発行なんかになりますと、もう手元に着くのは一月以上先になってしまうでしょう。
ぼくのような資金のない零細業者は、商品が滞ると致命的です。
その商品を売って、初めて資金を次に繋げることが出来るからです。

誰が悪いのかという問題でもありません。
ひたすら流れが悪いとしか言いようがない感じです。
誰を恨むわけでもないのですが、正直しんどいです。
こういう事態からでも何かを学ぼうとしているのですが、そのポイントがちょっと分かりません。
忍耐でしょうか。
いくらでも忍耐は出来ますが、資金繰りのほうは待ってくれません。
う~ん、なんなんだろう。

と、思わず愚痴ってしまいました。

こういうときに腐ってはいけないと、何かの本に書いていました。
霊性の向上は困難の中にこそあると、何かの本に書いていました。
霊性の向上を妨げるいかなるものもこの物質界にはないと、何かの本に書いてありました。
でもなぁ~~~~~~~、という感じです(笑)
思わず明日を思い煩います。

買い付けてきたことを知っているお客さんから、もう何度も「もう着いた?」と聞かれました。
そのたびに、今週中には着くと思いますとか、来週には間違いないでしょうとか答えてきました。
このごろでは、「もう着いた?」と聞いてくれるお客さんもいなくなりました。

これって、霊性開発に資する困難なのでしょうか?
それとも、ただのトラブル?

う~ん、しんど。

この困難をチャンスに変えることが出来たら、ぼくはぼくを褒めます。
褒め称えてやります。
誰がなんと言おうと、ぼくはぼくを褒めます←ヤケクソ







宗教観

2006年05月07日 | スピリチュアル
今日も出勤しているわけです、これが(笑)
冗談ではなく、決算をちゃっちゃと片付けなければならないのですが、例によって身が入りません。
中旬には伊勢神宮、高野山と巡る予定なのですが、それまでには何とかします。

ちょっと、宗教めいた話が続いたので、その気がない人には胡散臭さ爆発になってしまいますね。
ここでぼくの宗教的なものとか霊的なものに対するスタンスをちょっと語っておきます。

そういういわゆるスピリチュアルなものって、必要な人には必要なんだろうし、そうでない人には必要でないということだと思います。
身も蓋もない話ですが、事実そうなんだろうと思います。
必要になれば、必要な情報なり導きなりが入ってきて、必要でなければそういういかがわしさ満載の情報には触れずに済む。
つまりは、知らなければならないことでもないし、知らなければ一歩も前に進めなくなることもある。
もうそれは人それぞれとしか言いようがありません。

また、そういう類の情報というか、知識を吸収したところで、精神的な波動が高まるかといえばそうでもありません。
やはりどう生きるか、生きているかがすべてのような気がします。
机上では学べません。
個々人の生きる意欲、動機、などなど人々に与えられた自由意志の選択が、その類の情報に接近するか否かを左右します。

神はいないという人にとっては、神はいないのだと思います。
神はいるという人には、やはり神はいるのだと思います。
どちらが正しいかどうかの判定は、少なくとも科学的なというか、3次元的な意味では決して不可能です。
死んだら終わりというとと、輪廻転生というのは実は同じことの裏表でしかないと思います。
ここが説明の難しいところなのですが。

つまり、人がどう考え、どう感じ、どう生きるかはまさに当人次第です。
当人次第ということは、その感じ方なり、生き方なりを第三者に判定される必要もないし、判定を下すことも不可能です。
何を持って自分の生きる指針にするかは、誰がなんと言おうと、当人の心が決めるしかありません。
その当人次第だということが、自分という存在の自由の証と見るのか、その責任の重さの苦しみの源泉と見るのか、
そういう見方の違いがあります。
それでさえ、第三者がどちらがいいとかどちらが間違っているということは言えません。
まさしく、当人次第です。

で、その当人次第という無限の選択肢の中に、宗教という分野もあるわけです。
その宗教という分野の中でも、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教とたくさんあるわけです。
それからまた、仏教一つを取ってみても、密教、念仏、禅、チベット仏教、インチキ教とたくさんあります。
こんなもの、どれを信じればいいかなど、分かるはずもないし、分かるという人は、
その人にとってはそうだという以上の事は言えるはずもありません。

じゃあ、お前は何を持って自分の宗教観とするのかという話になります。
ぼくの場合は、シンプルです。
自分の可能性というものを過大評価しません。
人は無限の可能性を持っていることは、ぼくもそう思います。
でも、ぼくという「現象」の可能性は、無限でも何でもありません。
欲に縛られ、勘違いに踊らされ、いい加減な自意識で時間を空費しています。

このぼくという「現象」を冷静に眺めた時、なんというか、つくづく救われないな~と溜息が出るわけです。
で、あとは自分の判断、思考、感じ方に過大な期待をすることを放棄します。
放棄して、何かの流れ、天の摂理、宇宙の意思みたいなものに身をゆだねようと思ってみたりするわけです。
そんな時に出会う人、出合う本、出合う出来事に謙虚に向き合ってみようと思うわけです。
それが宗教的なものであればそれに対してそのまま受け取るというだけです。

そんななかで、驚くようなことがあったり、いろいろな人と出会ったりします。
驚くようなことがあって欲しいとも、いろいろな人と出会いたいとも思っていません。
ただ、出来事が起こり、人と出会い、何かとつながっていくという感じです。

でもまぁ、あれです。
ぼくはぼくという「現象」にうんざりしたから、こういう感じで生きているわけであって、
自分という可能性をとことん追い求めていくというほうが健康的だなとは思っています。
そういう風に人は作られているわけだし。

ここ数年ぼくはよく神社や寺に行きますが、何かを欲しくて、願って行くわけではありません。
ただ、行くとホッとするというような感触が好きになってきているだけです。
中年男のディズニーランドみたいなものでしょうか(笑)

宗教的な感覚や経験というのは、なんか人と分かち合えるのは難しいです。
分かち合えなくたっていいとも思っています。
それぞれの人生の中で、それぞれの出会いや出来事をどれだけ楽しめるかということに尽きると思います。
その中で、宗教的なものがあろうがなかろうが、それはちっとも重要な話ではありません。
宗教的なものがあればあるでよし、なければないでいいと思います。
ようは、自分が心の底からいい人生であったと言えればいいだけです。





機縁

2006年05月06日 | スピリチュアル
今日も決算に手がつきません。
こんなことがあるのかというようなことが起こります。
ちょっと伝えるのが躊躇されるようなことですので控えますが、いずれ整理できたらお話しするかもです。
前世と因縁と天の摂理に関することなんですが、まだ整理がつかないというか、なんというか。
思わせぶりは基本的にしないつもりなんですが、何をどう切り出していいのか分かりません。
要は、もうそろそろ飛び込む時期が来たぞと。
観音様でもマリア様でもいいのですが、そういう慈悲の世界に飛び込むのか、それとも今までどおりに斜に構えて、
虚無の世界でイビキをかき続けるのか。
そういうことなんですが、何のことかわかりませんよね、当然。

ある人にずばずば核心中の核心を突かれたわけです。
一つ残らず。
なるほどと思い、摂理の深さ・確実さを思い、悔しさ悲しさと共に、有難さが湧き上がりました。
今度ばかりはズシッと来ました。
自分でも疑問に思うような、形を取り繕うような生き方をそろそろ清算せよ、ということです。
形を取り繕うのが上手くなればなるほど、心は空虚になっていきます。
なぜ形を取り繕うのかといえば、本物を追う勇気を失っているからです。
では、本物は何かというと、やはり「愛」とか「慈悲」とかしか言いようのないものです。
取り繕うということは、欲しいものから目をそむけながら、欲しいと陰から叫んでいるようなものです。

そういう無意識ながらも欺瞞に満ちた生き方から、ぼく次第によっては、決別できるのだと知らされました。
実は、ぼくはもう無理なんじゃないかと半ば諦めていました。
本物に手が触れそうになると、その手をさっと引っ込めて、その場を逃げ出すのが常でした。
自分でもどうして逃げ出すのかさっぱり分からないままにです。

う~ん。

ここ数日、シルバー・バーチの本をなぜか繰り返し読んでいました。
それこそ前世と因縁と天の摂理の話です。
で、そのシルバー・バーチの言葉が、今日一日で全部ぼく自身の魂の話として当て嵌められてしまいました。

ひとりで興奮して書き散らしても、要領を得ませんね。

う~ん。

もしかすると、人の人生は、とてつもなく素晴らしいものであるかもしれません。
と、今頃言ってみたりします。