風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

年の瀬に

2007年12月29日 | 雑感
今日は仕事納めで、挨拶回りで久しぶりに車に乗りました。
車に乗っていると考えごとが出来るような気がしますが、実は雑念がグルグル回っているだけなのに気が付きました。
海が見えても海を見ていませんし、人を見ても障害物だという認識しかありません。
ドライブすると同乗者との会話は覚えていますが、風景などはさっぱり覚えていないのもなるほどです。

年の瀬も年の始めも、それなりの心構えがなければあっけなく過ぎて行きます。
自分の足下の点検と自分がどこへ向いたいかをしっかり確認できれば何よりです。
足下がグズグズで希望ばかりが肥大すると悲劇ですし、足下ばかりに拘っても面白くありません。
その辺りのバランスを上手く取れるようになるのが年の功というやつなのでしょう。
ぼくはムダに年を取ってきたように思えてなりません。
小学生の頃から中身が変わっていないのが、よ~く分かるこの頃です。

自分の中身を変えようなんていうのは傲慢なことだし、無駄なことです。
このままの自分で堂々と世の中に出て行けばいいだけなのです。
嫌う人は嫌うだろうし、好く人は好いてくれるでしょう。
あれこれ他人の視線、評価を気にすると疲れます。

自分の中身って、なんでしょうか。
あるクセのあるの思考と行動を取りたがる「傾向」でしょうね。
いい傾向もあるでしょうし、悪い傾向もあるでしょう。
その傾向を生きるというヤスリにかけて、ニュートラルになること、自由自在になること、が目的なんでしょうか。

自分の人生を自由自在にコントロールできたら、そりゃあ、一安心です。
他人の人生をコントロールしようとしたら、そりゃ悪人ですが。

ま、来年もいろいろあることでしょう。
すべてを真正面から受けていくだけです。

皆様、良いお年をお迎えください。





唯識論

2007年12月28日 | スピリチュアル
いよいよ営業は明日一日を残すのみとなりました。
だからと言ってなにをするわけでもなくボ~っとしているんですが。

ここのところ続いていた忘年会も今夜で最後です。
飲み過ぎないようにしようと思っていても、飲み始めてしまうと水の泡です。

仏教の教学に唯識論というのがあります。
水も漏らさぬ精緻な教えで、読んでいて嫌になるような教えです。

人間は「五感」と「意識」(合わせて六識)と「マナ識」と「アーラヤ識」の八識でものごとを判断して生きています。
五感と意識というのは普段人が感じる、考える、思うということが意識上に現れた認識作用です。
唯識論では、その六識の下層にマナ識という「私」というものにどうしても拘って判断しようとする心の層があると言います。
身体にいいことや、人のためになることをしようと思うのは誰でも簡単に思えるのですが、
いざ実行段階になると、そんなことをしたって「私」のためにならないとか、「私」が疲れるから嫌だとか、
「私」「私」がどんどん出てくる層です。
自我の層といってもいいかもしれません。

更にその下に「アーラヤ識」というのがあります。
熱いものを触ったときに無条件に手を引っ込めたり、危険なそうなところには近づかなかったり、
自分の命の維持というものに拘る心の層です。

現代の心理学で言いますと六識が顕在心理で、あとの二識が深層心理と呼べるかもしれません。

五感(五識)+意識+マナ識+アーラヤ識の八識で判断して生きる人間を八識の凡夫と呼びます。
アーラヤ識が自己の命にこだわり、マナ識が自我に拘り、意識や五感は自分があるという前提で物事を認識し、判断する。
その判断はどうしても利己的になり、生命の実相というものから遠ざかって行きます。

生命の実相とは何かというと、これまた膨大な論証が必要になりますから割愛しますが、
要するに、生命は自己・自我というようなものに囲われているものではなく、縁で生じ縁で滅するだけのものだということです。
更に言うなら、「空」に生じた幻のようなものであり、その「空」をそのまま感得すれば、生命は広大無辺の宇宙と一体となる。
そんな感じです。

こういうことを書き出すとキリがないからやめますが、そういう凡夫の八識を、修行を通じて四つの智慧(四智)に変えていく、
というのが唯識論の眼目です。

八識→四智とは

1.アーラヤ識 命に拘る→宇宙のありのままを映す鏡のような智慧
2.マナ識 自分に拘る→すべての存在は一つであることを深く分かる智慧
3.意識 自分というものに拘らない透明に世界を見通せる智慧
4.五感 ありのままの「今」というものを正確明朗に捉える智慧

ということです。

要するに、禅で目指す境地を、徹底的に分析記述したものが唯識論と言ってもいいかもしれません。
アーラヤ識という一番底の心が曇っていますと、上層の心が次々と曇って行きます。
禅は「非思量」という考えないという行為を徹底的にすることによって、
「宇宙のありのままを映す鏡のような」心を目指します。

もう一つ方法があるかもしれません。

「生かして頂いて有難う御座います」というような言葉をどんどんアーラヤ識に投げ込んでいくことです。
自分の命の持続ということや、自我に拘らない感謝の言葉をどんどん心の底に投げ込んでいくこと。
「自分」や「自我」ということに拘らない感謝の言葉でアーラヤ識が一杯になれば、宇宙のありのままを心が映すのかもしれません。

年の瀬

2007年12月27日 | 雑感
いろいろありまして、今年も後残すところ数日となりました。
今年は、ぼくも隠し持っていた負の傾向が一気に表に出された感じがありますが、
ぼくの周囲の人も問題の性質や在り方はそれぞれ違いますが、大きな課題に直面させられた人が多いです。
後にも引けず、前にも進めず、どこにも行けないというところまで追い詰められて、残すところは上方への大ジャンプ。
そんな感じです。

この師走の忙しい中、小さな店をもう一軒開くことにしました。
表通りに面していますから、人通りは申し分ありません。
住んでいる人間だけが心地よい洞窟のような今の店とは違う感じになるでしょう。
夕方からはワインなども出そうかと思っています。
十人に言ったら十人が口を揃えて「自分で飲むつもりだろう」と言うのがしゃくですので、店では飲みません。
よほどのことがない限り。

駅前の一流デパートが撤退を宣告しました。
開店してまだ数年です。
何の未練もなく撤退して行きます。
その事情もある程度分かっています。
地元の三流デパートが資本参加していて、その一流デパートにいろいろ縛りをかけていました。
一流ブランドは置かせない、宝石や美術品も置かせない、外商も置かせない、当初はお客様カードさえ作らせませんでした。
よくもまぁ、そんな無茶苦茶な条件を飲んだものだと思っていました。
一流デパートが本領を発揮できる手足をもぎ取ってしまっていましたから、こりゃしんどいだろうなと同情していました。
地元の人も一流のデパートが来てくれた、応援するぞというような感じは一切ありませんでした。

その地元の三流デパートはもうなんというか行政からのベタベタの厚い支援を受けていますが、赤字だそうです。
もう、中央から地方の末端まで、ベタベタです。

そんなのには関係なく、ぼくはぼくの店に力を注ぐだけです。


景気

2007年12月15日 | 雑感
クリスマスという感じも師走という感じもしないまま、寒さだけが募ってくるような今日この頃です。
ぼくの周囲だけかもしれませんが。

今朝ぼんやり空を見ていましたら、割れた雲から光線が放射状に降り注ぐ「レンブラントの光」が見れました。
なんというか、神聖な気持ちになりました。

日本の景気はこのままよくなることはありそうもないですね。
海外資本を含め、ファンド系が日本の実体経済を食い荒らしているだけの見せ掛けの景気が東京の一部にはあるようですが。
日本の富の蓄積がどこかの国に急速に流失しているのでしょう。
そういう仕組みががっちり日本経済を押さえ込んでいる感じが強くします。
ま、こういうときにはマイナスの感情を持つと思うツボです。
明日の米にも事欠くと言うような事態には当分なりませんから、日常を豊かな気持ちで生きるのが一番です。

のらりくらりの柳腰というのが一番強いと昔からいわれてます。
絵的には美しい姿ではないのですが、確かに生き残るという戦略においては一番有効でしょう。

いろいろ事情を知りつつも、呑気でいるというのが肝要かと思います。
ここで騒ぐと悪人に仕立て上げられます。
あくまでも観察鋭く、何が起きているのかを見極めつつも、呑気でいることです。
そうすれば、自滅すべきものは自滅します。
愚かしいことに巻き込まれることだけはやめましょう。
愚かしいことに巻き込まれることも愚かしいことですから。

生きているだけで丸儲け。
こんな時こそ、そんな感じで生きるのがいいのでしょう。

チャンス

2007年12月14日 | 雑感
今日も明け方に起きて、坐禅を組んで、散歩に出かけました。
分厚い雲が二つに割れて、ほのかに白みかけた空が覗いています。
風が冷たく、頬が赤くなるのが分かります。

800メートルを歩いて3周した後、走ってみます。
前に試したときは50メートルくらいしか走れず愕然としましたが、一周800メートルを余力を持って走れました。
しつこいかもしれませんが、これでも中学のときは野球部だったわけです。
毎日少なくとも5キロは走っていました。
それが50メートルで足腰がガタガタになる有様でした。
まぁ、一日中店に坐って、ヘラヘラするだけの毎日ですから当たり前といえば当たり前です。
ヘラヘラするのは止められないでしょうが、足腰は鍛えなおします。

ところで、同じビル内にある店舗に空きが出ました。
人通りの多い通りに面しています。
借りることにしました。
臨時収入がまた底をつきかけますが、勝負する時は勝負しなければなりません。
今の店は昔からの常連さんで98パーセントを占めています。
みなさん、買うものは満杯に買っていただきました(笑)
新しいお客さんに来て頂けないと先が見えてしまう状況でしたので、臨時収入がある今がチャンスと踏みました。

なんせ激しい逆境を抜けた後なので、心は慎重でありながら前向きです。
ビジネスマン向きの心境になっています。
色々アイディアが浮かんできます。
こういうのは実行する前に得意げに言いふらすとどうも駄目になるようですから、堪えます。

まぁ、なんにせよ、仕事のことを前向きに考えている稀なケースですから、大切にしていきます。

2007年12月13日 | スピリチュアル
【魔】〔梵 マーラ の音訳「魔羅」の略〕
(1)仏教で、教えに親しんだり、修行に励むことを妨げるもの。悪神である天魔、内面に生ずる現象である煩悩魔、出来事である死魔など。
(2)人に害悪をもたらす神。また、その不気味な力のはたらいていること。悪魔。魔物。
「―よけ」「―の踏切」「―の十秒間」
(3)度を超して、一つのことに熱心な人。
「メモ―」「電話―」
――が差・す
ふと、邪念が起こる。出来心を起こす。

三省堂提供「大辞林 第二版」より


魔が差すということは人間よくあります。
ぼくもしょっちゅうあります。
で、「魔」とは一体なんなのでしょうか。

「魔」は心を揺さぶります。
心のちょっとした隙間にスルリと入り込んで、道を外させます。
しかも、そのちょっと道を外れただけが、後で大きな大きな代償を生んだりします。
どれだけ普段は正義感であろうと、善人であろうと、一瞬のスキに入り込んだ魔のために人生を棒に振る人も少なくありません。

「魔」とはどこから来る誘惑なのかよく分かりませんが、ただ、一つ言えることは、魔のささやきに耳を傾けなければ、
「魔」はなんの効力も持たずに消えます。
ということは、あくまでも「魔」に耳を傾け、行動に移す自分の選択の結果だということです。
「魔」とても狡猾で、人の弱みやスキを狙ってきますが、耳を貸さないことは出来ます。
「魔」におそろしい実行力を与えてしまうのは、あくまでも人間自身なのだということです。

釈迦もキリストも最終解脱の前に壮絶な「魔」との戦いを経験しました。
戦いを終えてみると、「魔」は嘘のように消えてなくなります。
「魔」がもともと人の心の中に潜むものなのか、あるいは悪魔という存在の囁きなのかは分かりません。
でも、言えることは、「魔」は人がその声に耳を傾けない限り、人の選択に影響を与えることは出来ません。
逆に、「魔」が自分の心に囁きかけてきた時に、自分の弱点やら欠点を知る手段にさえできます。

「魔」に操られないで、逆に「魔」の囁きを自分を磨く声とすることさえ出来るということです。
まぁ、おそらくそんな徹底した覚悟を持つ人間になれば、「魔」が囁くということはなくなるのだと思いますが。

人は、光にも空気にも水にも食物にも地球にも、あらゆる恩恵という恩恵の存在するありがたさをすぐに忘れます。
そういう呆けた状態を警告するために、「魔」というものがあるのかもしれません。


遺伝子の眠り

2007年12月11日 | スピリチュアル
「致知」で、サムシンググレートで有名な遺伝子工学の村上和雄博士が、なるほどと思う話をしています。
眠っている遺伝子をONにするために、ということでいくつかの項目を挙げています。

・陽気な心、感謝の心
・高い志
・深い祈り
・逆境

逆境というのがいいですね。
経験すると分ります(笑)

これらの項目は互いに密接に関連していますね。
前向きな心(高い志)がチャレンジ精神(陽気な心)を呼び込み、試練(逆境)をめげることなく幾度も潜り抜け、
潜り抜けた時の喜びと感謝から大いなるものに身を委ねて(深い祈り)いく。

逆に、高い志がないと、チャレンジする目標もありませんし、目標がないと試練はただの苦痛だし、
ただの苦痛からは憂鬱しか生まれませんし、大いなるものに対する崇敬の念も心の底からわきあがるような実感としては
経験することもありません。
「志を持て」と以前の勤め先の社長から顔を合わせる度に言われていたぼくは、その辺りの負のサイクルには詳しんです(笑)

でも、志というのは、人から持てといわれて持てるようなものでもありません。
自分の道を自分で決めて突き進む覚悟ですから、理屈を超えた情熱が必要です。
本を読んで自分の志を決めるということにもなりません。

そこで逆境の出番です。
にっちもさっちも行かなくなった時、ひとは己のぐうたらさを思い知ります。
あぁ、なんて人生を無駄に過ごしてきたんだと悟ります。
どん底の底で立てた誓いははじめて本物の「志」になります。

なにもどん底に落ちなくたって、爽やかに志を立てたらよさそうなものですが、そこは人間ムダに複雑です。

志が低い人間にとっての逆境が、志が高い人間にとってはステップアップへのチャレンジとして目に映るというのもありますね。
要は、人間は考え方次第で、よいサイクルにも悪いサイクルにも入れるということです。
よいサイクルに入ってどんどん眠っている遺伝子を叩き起こしていくというのは、アセンションというものがあるかないかはさておき、
面白そうです。







加速する時間

2007年12月10日 | 雑感
あれよという間に、師走です。
それも3分の一が過ぎました。
ちょっと待ってと言いたくなるような、時の速さです。
もちろん時は待ってくれませんから、こちらの行動パターンを変える必要があります。

ぼくの場合は、朝の行動が大事ですね。
昼近くまで布団の中にいるものですから、一日があっという間に終わるわけです。
たまに4時とか5時に起きますと、散歩はできるわ本は読めるわ娘と遊べるわ、そりゃもう充実します。
最近テレビを見なくなりましたから、9時ごろに寝てしまえばどうしても早起きします。
その線で行きましょう。
こういうことはさっさと結論出して、さっさと行動に移すことです。←よく言うわ(笑)

「明日ありと思ふ心にひかされて
  今日も空しくすごしぬるかな」 『ますほのすすき』

時間に対して、「もったいない」と思うのは、この年になってはじめてのことです。
今回の一連の試練が効きました。
今まではぬくぬくとした無為の時間に身も心もどっぷりと浸かっていましたから。
その日一日のうちに、することをし尽くしてこその「日々是好日」です。

「ただ今がその時、その時がただ今なり」 『葉隠』

こういうシブイ境地には甚だ遠いのですが、それに近づければ御の字です。

それにしても、早朝の散歩です。
これは文句なく気持ちがいいですね。
まだ、夜が明けぬうちの空気の張りつめた冷たさや、白々としてきた東の空をバックに浮かび上がる山のシルエットや。
自分が散歩して喜ぶようになるとは思ってもいませんでしたが。
年相応の時の過ごし方というものがあるもんです。

ところで、そのぼくが散歩に行くトラックコースなんですが、行く度に二人で黙々と併走する姿があります。
二十歳前位の男性と、小学校の上級生位の女の子です。
兄と妹なのか、選手とコーチなのか、その関係は分りません。
その女の子が凄いです。
フォームも抜群にきれいなんですが、何より速い速い。
兄だかコーチだかの男性をぐんぐん引き離して走ります。
てくてく歩いているぼくを何度も追い抜いて行くわけですが、後姿が、なんというかチーターみたいな野生動物を思わせます。
顔見知りに会うと、彼らは大きな声で挨拶をします。
いずれ近い将来、一流選手として世の中に登場するはずだとぼくは確信しています。
ぼくは走るということに興味を持ったことはないのですが、彼女の走る姿の美しさには感動しました。

う~ん、ぼくの人生もまだまだ捨てたものではないと思えてきました。





銀河

2007年12月08日 | 
風呂の水が溢れるように感情が溢れだしたなら
手を水の中につっこんで栓を抜けばいいのだよ
感情は生きている証だからとても大切なものだけれども
心に溜め込んでおく必要はないのだよ

すっかり水を抜いてしまって空っぽになった心のなかを覗いてごらん
青い空間の中を無数のティンカーベルが虹色の光を点滅しながら飛んでいる
心の中は宇宙空間よりも広く深いんだ
よくもまぁ下らない色付き水で埋め尽くしたもんだ

空っぽになった心の中の空間をティンカーベルと一緒に飛んでごらん
無数の星々の瞬きが見えてくる
その光に近づいてごらん
その一つ一つの光が銀河であり、恒星であり、惑星であることが分るだろう

そう、君は大宇宙を自由に飛んでいるんだ
ほら、ティンカーベルが笑っただろう?
そんなことも知らなかった君のことが可笑しくてたまらないんだ
はじめから君は大宇宙の冒険者だったわけさ

君はこれからどこへ行くのも自由だ
どれだけワクワクしても代償は取られないから大丈夫
さっき栓を抜いて流した感情はどこへ行ったのかって?
そら、君の前に見えてきた不思議な色をした惑星に見覚えはないかい?




日々

2007年12月07日 | 
石畳が夕日に染まり、あちこちの教会の鐘が一斉に打ち鳴らされる。
ゴーン、キーン、カーンと乾いた音が茜色の空に響き渡り、鳩たちが用もないのに飛び立つ。
農夫は鍬を納屋にしまい、事務員は帳簿を書棚にきちんと並べ、雑貨屋の親父は表に出していたリンゴの木箱を店の中に入れる。
夕暮れは誰の心にも懐かしい灯がともる。

女たちはそばで走り回る子供たちを叱りながら、シチューの鍋をかき回している。
あれほどあったすべてに対する不平不満が消えている。
ジャガイモとニンジンがたくさん入ったシチューをゆっくりゆっくりとかき回す。
過去や未来がこの一瞬に溶けていく。

村にただ一軒の食堂にも灯がともる。
炭鉱で働く流れ者やら、一人身の老人やら、やもめやらが集まってくる。
ほっぺの赤い若い女給は遠くはなれた故郷を思いながら、客の注文を聞く。
店主や女将は女給に愛想がないと裏の台所でひそひそ悪口を言う。

女たちは帰ってきた旦那の顔を見るなり、忘れていた不平不満を思い出す。
ワインが進むほどに、誰もが口が軽くなる。
噂話に花が咲き、別れ話に毒が咲く。
ワインが一瓶空くころには、お互いが無口になり、明日のあれやこれやが気にかかりだす。

食堂は大声で歌うもの、喧嘩をするもの、不機嫌に黙り込むもの、それぞれの色に染まる。
店主は委細かまわず空いた皿を下げ、女将は客に酒を勧める。
若い女給は皿を洗いながら故郷で飼っていた犬のことを思い出している。
若い男が頭をよく見せようと聞こえよがしに冗談を言うのだが、彼女の耳には届かない。

やがて夜の喧騒も冷めていく。
子供はベットにもぐりこみ、男は暖炉の火を見つめ、女は皿を洗う。
店主はかまどの火を消し、女将は売り上げを計算し、女給は床を拭く。
銀色の月が街を青白く照らし、教会の尖塔がぬらりと光る。




観音様

2007年12月06日 | スピリチュアル
さて、危機を脱するといつもならグタグタと気を抜くところなのですが、今回ばかりはそんな気になれません。
改めて自分の周囲の点検をし、現実にも心の中にも積もり積もったガラクタを整理したくてたまりません。
ムダ、ムリ、ムラの徹底的大掃除ですかね。

最近、観音経についての本を読んでいたのですが、観音様は誰かというと、一人一人の人間です。
その他に観音様はいません。
その人の状況により、三十三種の姿になって人に救いの手を伸べるとされています。
時により、菩薩に、僧侶に、夜叉に、羅刹に姿を変えて、臨機応変に衆生を救います。
観音様は優しいだけではないのです。
時には、夜叉や魔になって煩悩に悩める衆生の心を更に悩ませます。
悩むだけ悩ませて、その悩みの果てを見せようとします。

これは今回の件でつくづく実感しました。
朝晩限らずしつこく催促の電話をかけてくる人も、説教をしてくれるお客さんも、毎日愚痴を浴びせてくる家内も、
こちらの心の状態に関わらず笑顔で駆け寄ってくる娘も、すべて観音様でした。
これは危機を脱した一時的な浮ついた気持ちで言っているのではなく、本当の実感です。
観音経の通りなんだなと深く納得しています。

う~ん、ちょっと感動です。

追い込まれる

2007年12月05日 | 雑感
う~ん、ここ数ヶ月に渡ってかなり鍛えられました。
「お金」というものに対するリスペクトの無さが全て仇となって悪循環で襲ってきました。
万時窮すかなと何度も思いましたが、何度もその事態を上回る試練が追い討ちをかけてきました。
こんなの初めてです。
もう手も足も出ず、心から一切の余裕も無くなり、心の操作で事態をごまかすことも出来ず、極まりました。
お手上げです。
と、心から思った今日、ある程度まとまったお金の入金がありました。
通帳に記された金額を見て、キャッシュディスペンサーに両手を突いて、しばらくうなだれていました。

今回の事態は、なんだか意味は分からないけれども健全な感覚を「お金」に持てないカルマというか、業というか、
自分に巣食っている心の傾向に嫌というほど向き合いさせられました。
今までの「ナントかなるさ」戦法が全く通じませんでした。

この一連の流れは、ぼくは生きかたをワンランク上げるための試練だったと思っています。
お金というのは、イコール仕事のあり方でもあります。
お客さんはみな知っていますが、ぼくは何事においてもいい加減で有名です。
商品の金額を忘れ、仕入れ値を忘れ、お客さんの顔を忘れ、伝票も書かなければ、日報も書きませんでした。
それでいい気になっていましたが、どうもその段階は卒業しろということみたいです。
こう書きながら、この段階を卒業って、どんな段階にいたんだおれは、という感じなんですが。

ま、卒業するならきっぱり卒業です。
さてさて、どうするかですが、実はこうしようああしようとはかなり前から考えてまいたんです。
健全な会社が当たり前にしていることばかりですが。
それを実行します。

要は、生きるということを、仕事ということを「舐めるな!」です。

気付かせていただいて、ありがとうございます。

仏教

2007年12月03日 | スピリチュアル
ぼくの経験から言いますと、仏教というのは寺に数週間篭ったところで、何一つ分かりません。
ひたすら坐るなり、作務をしたりするのですが、その意味も感触もつかめないまま、長い数週間が過ぎます。
坐ると一言で言いますが、足は4の地固めを決められているのと全く同じ状態になりますし、
頭の中は妄想がグルグル渦を巻きっぱなしです。

それでホウホウの呈で寺を出て、世俗にそそくさと帰還するわけです。
寺を出るときにお世話になった和尚さんには合掌してお礼を言ったりはするのですが、心はホッとしているばかりです。
何かを体験した喜びの笑顔ではなく、ひたすらホッとした笑顔を浮かべたりします。

寺では「提唱」といって、毎日説法もあります。
分かったような分らないような気分で聞きます。
ということは、何も分かってはいないということなのですが。

こんな不埒な心の状態であることは和尚さんはもとよりお見通しであったことはずいぶん後になって気が付きます。
泥のような煩悩で目が塞がれている内は、何も見えず、何も経験しません。
泥のような煩悩まみれであることさえ気が付かない馬鹿者は、放って置くしかありません。
目にこびりついた泥を拭い去りたいと当人が心から思わない限り、坐るのも作務をするのも本気になるはずがないのです。

坐ることを苦痛と感じる当体は誰か?
作務に集中できない心とは何か?
そんな疑問が自分の中にむくむくと起こってくるまでは、泥を分厚く引っ付けたままのコチコチの分からず屋は放っておくしかないのです。

仏教は子供から老哲学者まで、全ての縁あるものが完全に理解できるようにという慈悲心から、それはそれはたくさんのお経があります。
全てに通底することは、「自分」というものを知れ。
「自分」という幻から、去れ。
悉皆成仏(すべては本来仏)である理を知れ。
ということだと思います。

で、今の深層心理学などよりも遥かに深い唯識論をはじめ、その人間の目にくっ付く泥の成分を一つ漏らさず説明に説明を重ねます。
なぜくっ付くかの理由も微に入り、細に入り説明します。
そして、仏教はここで終わりません。
泥など初めからないものをあると思って自らメクラになっているのが凡夫だ、という風になっていきます。
泥も幻、メクラも幻、あるもないも幻。
ここからは、色即是空、空即是色の話しになって行きます。

とにもかくにも、初心の者はまず己の眼にこびりついている泥の自覚から始まらなければなりません。
見えているつもりが迷いの迷路にはまり込んでいく理由だからです。
今見えている(分っている)と思うことをとにかく捨てさせます。
計算、打算、計らいを捨てさせます。

そういう「捨てる」という行為は日常の中にはなかなかないので、それを「修行」と呼ぶといってもいいのかもしれません。
「捨てる」という行為の向こうに何があるのか。
それは体験した者でしか窺い知れません。
そこのところが教外別伝、不立文字と言われるゆえんの一つでもあります。
しかも、その「捨てる」という段階はまだまだ仏道の入り口にしか過ぎず、広大無辺の世界がその向こうに広がっています。

いやはや、大変な世界です。