風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

大晦日

2010年12月31日 | 雑感

いよいよ大晦日です。
家内と娘は病院で年を越す羽目になりました。
今日は午後いっぱい娘と過ごしました。
娘としては、すっかり元気なので病室から出たくてたまらないのですが、伝染病の肺炎ですので、軟禁状態です、

二人で折り紙を折ったり、youtobeでアンパンマンを見たり、なんやらかんやら工夫して過ごしました。
病院の給食がだめらしく、腹を空かせています。
蒸しパンのおやつが出ましたが、それも二口食べたらもういらないと言います。
もっと腹が空いたらなんでも食べるのでしょうが、飽食の時代、あまりいいことではありません。

なんにせよ、みなさん一人一人がいろんなことを経験したこの一年であったことでしょう。
なにを考え、なにを思い、どうしていくのでしょうか。

全国的に雪が舞っています。

良いお年を!


医療現場

2010年12月29日 | 雑感

昨日、お客さんからいただいた超特大クマさんのぬいぐるみを自転車に積んで急いで家に帰ったら、
娘が熱を39度6分の熱を出して、ゴホゴホと咳き込んでいました。
急いで支度させ、救急病院に行ったら、肺炎になっているとのことで緊急入院となりました。

容態もだいぶ落ち着いているみたいで、命の別状はありませんから一安心です。

それにしても、緊急医療の現場が大変なことになっているというのは報道や噂では知っていましたが、
いろいろと感じることはありました。
まず診療を受けるのに一時間以上待ちます。
診療を受けて、レントゲンと血液検査を受けるのに、さらに一時間くらい待ちます。
その監査の結果を受けて、再度診療を受けるのにさらに一時間くらい待ちます。
やっと再度診療を受け、入院することとなり、入院病棟から看護師さんが迎えに来るのにさらに一時間くらい待ちました。

患者さんの数がそれほど多いというわけでもなく、ぼくらが到着したときは数組(付き添い含む)でした。
それでも、診療から入院まで、合計4~5時間の時間を要しました。

お医者さんは、若い丁寧な人で別に不満はありませんが、なにせ青白い顔をして疲れ切っている様子でした。
看護師さんたちもやっとのこと笑顔を浮かべて娘に接してくれている様子でした。
医療の現場が、いろいろと荒廃してきている感じがしました。
現場の人たちは一生懸命その中でも頑張っているのだとは思いますが。

実のところ、数日前に娘は行きつけの医者に診てもらっていました(とても評判の良い小児科医らしいです)。
何とかという感染症だという診断で薬ももらいましたが、その薬を服用してもどんどん咳はひどくなり、熱も出始めました。
今日、精密検査の結果が出たところでは、その感染症にはかかっていないとのことでした。
その小児科医のところに行っても、2時間待ちは当たり前らしいです。
誤診と言えば誤診でしょうが、責める気にはなれません。
小児科医の数がどんどん減ってきているという話は以前から耳に挟んでいましたし、なにかシステム的に無理な負荷が
医療現場にかかっているのでしょう。

前にもこのブログで書いたような記憶があるのですが、近頃の組織という組織の管理責任者は、システムの不都合や矛盾点を、
現場に丸投げして頬被りしているところが多いような気がしてなりません。
医療現場に限らず、教育現場、役所の現場、さらにはJALをはじめデパートなどの販売サービス業にまで、
そういう責任の所在を曖昧にしたやり方が蔓延しているような気がします。

娘には診療を受けたらお薬をもらって帰るからね、それまで頑張るんだよと言ってありました。
39度を超える熱を出しながら、娘はけなげにはしゃいで元気なところを見せていました。
ところが急に入院が決まり、点滴を手の甲に刺され、入院病棟から迎えが来るまでの一時間くらい、
娘はヒンヒン泣いて、帰りたいよう、この病院嫌いだよう、(点滴が)痛いようとぐずり始めました。
ママが一緒に泊まるからと言っても、帰りたいよう、帰りたいようとしくしく泣き続けます。
その状態での一時間は正直きつかったです。
もうこのまま帰ってしまおうかと何度か思いましたが、肺炎を処置する術は我が家にはありません。

深夜に一人で我が家に帰り着いて、焼酎の水割りを何杯か飲みました。
適当に食事を作って食べました。
超特大のクマが所在なさげにソファに座っていました。

 

 


味噌

2010年12月25日 | 雑感

今日、仕込んだ味噌の壺の封を開けましたら、カビも一切生えておらず、香り高い上質の味噌ができていました。
底の方から混ぜ込んで、落ち着いたらもう食べ頃でしょう。
畑の作物も、味噌も、糠床も、順調に育っています。
なにも難しいことはありません。
やってみたら、ことはあっけなく簡単で、なにがあっても生き抜く勇気が沸いてくると思います。

深夜遅くに、娘の枕元に包装したプレゼントを置いておきました。
朝方、ぼくの部屋に飛び込んできて、「サンタさんが~!」と言って一つ一つプレゼントを見せびらかします。
とりわけクマさんのアップリケが付いた手提げバックがお気に入りで、家の中でも肌身離さず持ち歩いていました。
胸がきゅんとなります。
こういうのがいつまで続くのかは分かりませんが、続く限り続けばいいと思っています。

それにしても、政治はグダグダですね。
関心の持ちようも、関わりようも、どんどん無くなっていきます。
別世界の古くさいゲームにしかなっていません。
ぼくはそんなゲームに参加するつもりはありません。
離脱します。

払えと言われれば、税金も払いますし、社会保険料も払います。
でも、心は離脱します。
なにも期待しませんし、誰も責めもしません。
もう、そういうのにかまっている時間はありません。

これから国内の中小企業は、ぼくの店を含めて、なすすべもなく立ち往生していくでしょう。
上層の金融機関をぐるぐるお金が回っているだけで、人々が現実に営む市場にはお金が回っていません。
でも、そういう文句を今更言う気にもなれません。

次のスッテプを模索し、淡々と歩んでいく準備をするだけです。
そして今日、とても香しい味噌ができました。
完全無添加ですから、酒のツマミでもいいし、おにぎりに塗って食べてもおいしく、栄養満点です。
とにかく今は事業で儲けることよりも、事業をする内に膨らんだ債務を全力で弁済しておくのが吉でしょう。
口で言うのは簡単ですが、そうは分かりつつも、債務を片付けるどころか、事業を継続すればするだけ、
債務が膨らむというのが実態かもしれません。

誰かに期待したり、誰かを責めたり、そういう時間はもう残されていないような気がします。
自分がなにに焦点を合わせ、どこに向かって歩くのか。
一人一人にそれが問われている時期にさしかかったのだと思っています。


日はまた昇る

2010年12月24日 | 雑感

今日は晴れ上がっている割には風が冷たいクリスマス・イブです。
皆さんはどう過ごすのでしょうか。
家族や友達や恋人と過ごす人もいるでしょうし、仕事や受験勉強に追われる人もいるでしょうし、一人で過ごす人もいるでしょう。
なんにせよ、メリークリスマスです。

日本でもクリスマスで盛り上がろうとして久しいわけですが、クリスマスの由来を知らない人が案外多いのではないでしょうか。
キリストの誕生日が12月25日だと言われているわけですが、聖書にはどこにもそんな記述はないらしいです。
どうも古代から行われていた冬至のお祭りと混同されてきたようです。
冬至を境に、すべての生命の源である太陽の日照時間が延び始めます。
日本(天照大神)でもそうですが、太陽を神格化していたのはどこでも同じです。

今頃農家の田んぼも畑もしんと静まりかえっているのでしょう。
懸命に植えられた作物に養分を補給し続けてきた土もほっと一休みです。
先日、ジャガイモの収穫を終えた畝をスコップで掘り返していましたら、冬眠中のカエルやミミズがびっくりしていました。
もう春先まで土を掘り返したりしないから、ぐっすり眠れ>カエルとミミズ

クリスマスになんですが、狂った流れを知る入り口になるようなわかりやすい動画を少しだけ。

9.11
http://www.youtube.com/watch?v=KEc5t-m-8_c&feature=related

ユナイテッド航空93便
http://www.youtube.com/watch?v=2I9sugpHhLs&feature=related

より詳細な究明(Part1~10)
http://www.youtube.com/watch?v=66FTTJVGWe8&feature=related

 

 


狂った流れ

2010年12月23日 | 雑感
昨日は冬至でした。
今日から少しづつ日が長くなります。
昨日冬至についていろいろ文章を書いて、ブログに載せようと思ったら誤って文章を削除してしまいました。
どのキーを押したらそうなったのか今でも分かりませんが、まぁ、改めて書く気にもならなかったので。

今日は天皇誕生日です。
晴天です。
畑に行きたかったのですが、店に出てます。
ヒマです。
畑に行けばよかったなどと思っています。

先日採れたジャガイモをザルに入れてベランダに放置していたら、3分の一くらいが青く変色していました。
青くなったジャガイモは食べられません。
アチャー、です。
来春の種芋にでもするしかありません。

ヨーロッパにも寒波が来ているようで、真夏のはずのオーストリアでも雪が降ったそうです。
世界各地で地震も多数観測されています。
そのうちこういうニュースにもすっかり慣れっこになっていくのかもしれません。
アデン海に原因不明の大きな渦が発生したり、日本でも確か宍道湖で原因不明のアオコの渦が発生していましたね。

そういう現象に敏感すぎるのもなんですが、鈍感すぎるのもなんです。
きちんとなにか異変が起きていることを受け止めつつも、むやみに恐れたり憤ったりせず、自分のすべきことを積み上げていく。
そうなればいいのですが、ぼくの場合はたいてい絵に描いた餅で終わります。
餅はつくもので、描くものではありませんね。
要は、思ったことはこの身体を使って実行に移してこそ、物語も結果も生まれます。
物語が生まれれば、その物語を種として新たな物語が生まれ、一つの結果が次のプロセスと新たな結果を生んでいきます。
ただの一歩を踏み出すことがすべての始まりです。
その一歩を惜しんでいるようでは話になりません。>おれ

何事に対しても億劫だと思い始めますと、それこそすべてが億劫になります。
手紙を書くのも、ブログを書くのも、電話をするのも、町に出かけるのも、誰かと食事することさえも億劫になってきます。
億劫かどうかを気にすることもなく、手紙を書き、ブログを書き、電話をし、町に出かけ、誰かと食事すれば、
何かが生まれ、その生まれたものがさらなる新たななにかを生み出していきます。

ぼくの場合は、かろうじて農作業というものに巡り会いましたから、重い腰を上げるきっかけができました。
そうでなければすぐにも何事も億劫病の渦に呑み込まれていたかもしれません。
農作業以外は未だに気が乗らない、億劫だというところが強いのですが、まぁ、ぼちぼち修正します。

なんにせよ、ぼくの知る限りどうやらこの世は狂った仕組みで動かされています。
まともに働いても安心して暮らせなくなってきていますが、これが本当に異常なことだと思わない世の中になってきています。
経済大国と呼ばれる日本でそうなのですから、世界標準の状況はさらに酷いのかもしれません。
この狂った流れから離脱する人が増えることを願うばかりですが、その手の情報が一切大手メディアには流されません。
その気になれば、本屋でもネットでもいくらでもその手の情報を探せますが、その気になる人がまだまだ少なすぎます。

にわかには信じがたいことばかりですから、人々がその手の情報から遠のいているのも分かります。
ただ、ぼくが思うに、今現在のこの現実の状況こそがまさに信じがたい状況であると思うのですが。
健全に働いて、健全な暮らしを享受するだけのことが、日ごとに難しくなっていきます。
どうしてこうなるのかを徹底的に突き止めていくと、あるからくりが見えてきます。

日本という国は計画的としか言いようがない完璧な流れの中で、徹底的に骨抜きにされてきました。
道徳観、国家観という国民の意識基盤が骨抜きにされ、教育が骨抜きにされ、政治が骨抜きにされ、メディアが骨抜きにされてきました。
そういう一貫した流れの背後にはなにがあるのか。
国民自らそう望んだ結果なのか。
それとも・・・。

そういう流れと闘うのではありません。
闘おうとした瞬間にその流れに取り込まれます。
流れから静かに離脱すればいいのです。
ただ、その流れの正体を見極めておきませんと、うまく離脱できないのではないかという気がします。
離脱するタイミングや目的を見失うのではないかという気がします。

もはや政治的運動でどうなるようなことでもないような気がします。
どんな陣営の政党にしても、どうしてもその流れの中で勢力を強めて発言力を高めていくしかありようがないのが、今の政治です。
同じ流れに乗りながら、喧嘩しているような見せかけを作っているのが今の政治だとしかぼくには思えません。

2012年という年号がその筋では話題になっていますが、その当否は別として、ここ数年が大きな山場であるような気はしています。
このままこの狂った流れに押し流されて、狂った結末にたどり着くのか。
それとも、黙ってこの流れから抜け出し、自分の足で自分の歩きたい方向へ一歩を踏み出すのか。
国や政治が問われるのではなく、一人一人が問われているのだと思います。



シンプル・ライフ

2010年12月15日 | 雑感
急に本格的な冬になった感じです。
なんか今年の冬は寒くなりそうな予感がします。
夏はくそ暑く、冬はくそ寒いのでしょう。
体調管理ができていないと、なかなか厳しい今日この頃です。

一昨日数ヶ月ぶりにジムに行きましたら、体中の筋肉が痛いです。
年をとると、肉体の強化というのはなかなかできないようです。
これ以上弱らないように現状維持、というのがせいぜいのようです。
そうとは分からず張り切ってしまうと、ひたすら筋肉を痛めるだけのようです。

それにしても、ジムの後のホッピーはうまいです。
ホッピー二杯と枝豆と煮込みで千円ちょっとです。
前にも感動しましたが、改めて感動します。

まぁ、何でもそうでしょう。
畑仕事をして、梅干しのおにぎりとたくあんと麦茶があれば、満足でしょう。
夜には3合くらいのお酒と、ご飯と具だくさんの味噌汁と、焼いた干し魚でもあれば十分です。
体を動かせば、食べるもの飲むものはおいしく消化されます。
体を動かさないから、だらだらと無意味に焼酎を飲み続けるはめになります。

なんか、シンプルな生活をしたくてたまりません。
掘っ立て小屋で寝起きして、一日中畑の世話をし、日が暮れたら自家製のどぶろくを飲んで、訪ねてきた誰かと語らい、
重たく湿った綿の布団にくるまって、ぐっすり眠る。
起きたら起きたで、やることはたくさんあります。
数羽の鶏を囲いから放してやり、井戸水を汲んでエイヤと身体にかけて禊ぎをし、米を炊いて湯を沸かします。
お日様を拝んで、神棚に感謝を捧げ、朝飯前に畑に出て全体を点検し、今日一日のやるべき日程を決め、
まずは片っ端から雑草を抜きます。
抜いた雑草だって無駄にはしません。
堆肥小屋に積み上がった堆肥の上に積み上げます。
その頃になると、東の空に上った太陽がじりじりとした感じになってきます。
朝食の時間です。

小屋に戻ると、竈では米がシュンシュン炊きあがり、湯がゴボゴボ音を立てて沸き上がっています。
湯を鍋にとり、残りはポットに入れます。
鍋にいりこのだしを入れ、朝にとってきたホウレンソウと豆腐屋で買った油揚げを入れて、自家製の味噌を溶きます。
糠床から、昨晩漬けた大根と大根の葉を取り出し、3年ものの梅干しを一個壺の中から取り出します。
古道具屋で買った漆塗りの「膳」を用意して、熱々のご飯と味噌汁と漬け物と梅干しのごちそうです。
大きな声で「いただきます」と言い、一口一口味わいながら、食事を終えます。
食事を終えたら、片付ける前にお茶を一服します。
知り合いから分けてもらった無農薬のお茶の缶を開け、少し節約気味に茶碗に茶杓で入れます。
茶筅でシャカシャカするわけですが、できるだけ無心になるように、余計な筋力を抜きに抜きます。
朝日が差し込む居間に、ほんわりとと湯気が立ち上る様を味わいます。
泡の立った茶の様子を愛で、なにか俳句が浮かばないものかと自分の心を味わいます。
茶を啜ります。
啜った後の、茶碗の内部の残った茶の緑と茶器の地肌の織りなす文様をひとしきり眺めます。
そうこうするうちに、そとにはいろいろな音がし始めます。
鳥やカラスが鳴く声、遠近から聞こえる自動車の音、遠くで子供が上げる歓声。

まぁ、こういうふうにシンプルな生活も、きりがないわけです。
そういう生活をするためにも、今の生活の段階をクリアしなければいけません。
そう思うと、がんばろうと思えます。




思い出

2010年12月11日 | 雑感
今し方、20代後半くらいの女性客が店に入ってきました。
両手に荷物をいっぱい抱えています。
ぼさぼさの頭で、顔はすっぴん、上はピンクのダウンジャケット、下はパジャマみたいなものをはいています。
一通り見た後、「こういうきれいなものに囲まれていいですね」と言いますから、
そうでもないですよと答えたら、びっくりしていました。

テーブルの周りをぐるぐると歩き回りながら、どこの商品かと聞くので、主にイギリスのですと答えました。
そしたら顔を思い切りほころばせて、イギリスに行ったことがある、コベントガーデンというところがあって、
観覧車があって、花火大会があって、楽しかった~と言います。
何時行ったの?夏?と聞くと、クリスマスに向こうで過ごすという企画があって、クリスマスの時期に行ったとのこと。
今はお金がないけど、また行きたい、と言います。
店に入ってから、ずっと歩き回っています。
携帯を片手に持っているのですが、その持つ手がぶるぶると震えています。
おそらく、薬物中毒かなにかで、入院中に抜け出してきたのだと思われます。

イギリスの思い出を語るときだけ、初めてこちらの顔をまともに見て、顔いっぱいに笑顔を浮かべます。
なにもしてやれませんが、彼女の胸の中にあるイギリスの思い出が、何時までも色あせませんように。



あれこれ

2010年12月10日 | 雑感
昨日は畑に行ってジャガイモを掘ってきました。
あっという間に大ザルがいっぱいになったので、残りは次回です。
握りこぶし大のジャガイモがたくさんとれました。
小さいのも混じっていますが、それは次回の種芋にしようと思っています。
畑でとれたものは、どういうわけかお裾分けしたい衝動に強く駆られます。
農業をすると、なにかしらの眠っていたDNAが目覚めるのかもしれません。

ぼくが子供の頃も農家の親戚に遊びに行ったり、遊びに来たりするたびに、どっさりとなんやらかんやらをもらったものです。

それで思い出しました。
ぼくがまだ幼稚園に行っているかいないかくらいの頃だったと思います。
誰か見知らぬおばちゃんが母親を訪ねてきて、なんやらかんやら相談事をしていました。
ぼくの母親の周りにはいつも誰かしら相談事を持ちかけてきていました。
ぼくは母親の周りをうろちょろしながら、なんとはなしに聞くでもなく話を小耳に挟んでいました。
どうやらそのおばちゃんの子供か誰かが血を吐いたとかなんとか、深刻な顔つきで言っていました。

おばちゃんの目の前には新聞紙に包んだホウレンソウが置いてありました。
ぼくはその根本の赤い部分を見て、その子が吐いた血があそこにかかって赤く染まったんだとすっかり思い込みました。
その晩だか、次の日だったかは知りませんが、ホウレンソウのお浸しが出ましたが、食べませんでした。

まぁ、それだけの話なんですが(笑)

今朝は城跡の庭園で坐禅と写経の会に出席。
普段は立ち入り禁止の座敷での坐禅と写経ですから、贅沢です。

もう12月も3分の一が過ぎました。
やはり時間の流れの速さが異常です。
一週間が2~3日の感覚です。

ここしばらく霊的な話というものから遠ざかっていましたが、どうやら知人がその手のものに憑依された感じです。
宗教がらみで、第三者がなかなか手を出せません。
前々からこのままだとやばいと感じて、病院に行くよう当人にも周囲にも勧めていたのですが。
困ったものです。
背後にあるものは、当人だけではなく、その周囲の人間をも巻き込んでいこうとしますから、事態は深刻です。
知人のお姉さんに伊勢白山道式の先祖供養の仕方を教えましたが、さぁどうでしょうか。
ちょっと心が重くなります。
この期に及んで、そんなものに引っかかりやがって、というのもあります。
もう少し水が温んだら、お姉さんに滝行も勧めますが、間に合えばいいのですが。





修羅

2010年12月08日 | 雑感
世間には、きな臭いニュースであふれています。
国家間でも、芸能界でも、一般社会でも、修羅の世界ばかりです。

「修羅」の世界というのは、何でもほしい「餓鬼」の世界と違って、ある意味での美学があります。
「誰かに負けない力」です。
自分が勝てばいいのです。
意味もなく頭を下げるくらいなら、死んでもいいというところまで行きます。
ただし、自分より力があると相手に認めた存在には完全に服従するのも、その美学です。
「力」の美学です。

でも、昨日たまたま帰ってみたニュース番組で、延々と芸能人の記者会見を放映しているのには驚きました。
前々から腐っているとは確信していましたが、ここまでとは思いませんでした。
報道番組のトップニュースで、20分以上一芸能人の喧嘩沙汰の弁明会見を流すのは日本だけでしょう。
まぁ、これがメデイアの現実です。

今、誰が考えても、この日本には問題が山積です。
今まで日本を支えてきた製造業の先行きが見えない、農業問題の深刻さ、経済界の混乱ぶり、
若者の志気の低さ、結婚に対する男女間の意識の隔離が広がっていること、道徳心というものが
社会から消えつつあること、学力、教養の低下、累積する領土問題、思いつくだけでも山ほどあります。
最近頻発される政治家の失言自体が問題のなのではなく、そういう軽率きわまる発言が連発される
風土に日本がなってしまっているということの方が問題でしょう。

まぁ、そういう流れにものを申すつもりはありません。
ここまで流れが偏向してしまえば、なにを言っても無駄です。
無駄なことにエネルギーを使うくらいなら、そういう流れから抜け出す人が、
一人でも現れればいいというのがぼくのスタンスです。
誰かに「抜け出せ」、というのではありません。
ぼくが抜け出したい、というのが第一義です。
誰かやなにかを攻撃する時間とエネルギーを使うつもりはありません。
ただ、なにが起きているのかをきちんときちんと見ておこうと思っています。

で、無駄でないことは、なにかということです。
自分が生を承けているということは、なにかということです。

これは、軽々に言葉にできるものではありません。
でも、一人一人が受け止めるしかありません。
そういうめんどくさいことを受け止めないこともできるのが、人間です。
すべてを受け止めきるのも人間です。
すべてを放り投げることができるのも人間です。

一人一人の選択というのが、かくも重いものではあります。
その選択を、選択の自由の喜びとするのか、はたまた人に背負わされた重責と見るのか。
どうするかは、その人次第です。
それが、「自由」ということです。

喜ぶのも自由、苦しむのも自由。
したいようにすればいいのだし、言われなくたって、ほとんどの人はしたいようにしているわけです。
あとは、そこに喜びがあるのかどうかだけなんだと思います。
もうそこには理も非も、善悪の理屈も介入できません。

あなたがしたいことはどこに向かってるのですか。
そう問われて、どう答えられるかだけでしょう。



奉仕

2010年12月06日 | スピリチュアル
光を外に求めると、外に光が見当たらなければ不安になります。
でも、一人一人の命が光だとしたら、外が闇であろうと、内には喜びしかありません。

なにを言っているんだと思うでしょうが、どうも最終的にはその結論しかないような気がしています。
人の脳の機能を10数パーセントしか使っていないとか、DNAの90パーセントは眠ったままだとか、そんな話を聞くにつれ、
ますますその感が強くなります。

今、我々が普通に考え、感じることを元にしていたのでは、当然その意識には到達しません。
喜びどころか、不安や恐れやいらだちや怒りといった感情が隙あらば入り込んできます。
そう感じ、そう感じたことに対応するだけでアップアせざるを得ない仕組みの中に生きているからなのでしょう。

金融資本経済というのは、間違いなく人々をお金の奴隷にするシステムです。
まともに稼いだら、堂々と心豊かに生きられるという仕組みを徹底的に破壊するシステムです。
1から5までありますが、観てみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=iqlxMp3dR7Q&feature=player_embedded

人の意識というのはとてつもないパワーを秘めているのではないかと、前々から感じていました。
チャネリングやなんやらで盛んに繰り返し発せられているメッセージです。
要は使われていない脳機能の80パーセントをどう活用するのか、残りの90パーセントのDNAが活性化したらどうなるのか、
そういう話になるのだと思います。

ヒントになるのは、そういう宇宙存在のコンタクティーの話によれば、彼らの社会にはお金というのは存在しないということです。
じゃあ、働くというのは何かというと、自分の可能性に対する自発的な挑戦でしかない、ということです。
そういう社会ですから、自分という存在を傷つけたり、搾取する存在というのはいませんから、あくまでも全体の奉仕のために、
自分の想像力や意志の力を費やすのだそうです。
そういう社会においては、全体への奉仕は義務ではなく、喜びなのです。

なにか人々の意識がその段階に到達したときに、脳機能もDNAも眠りからら目覚め、フル回転を始めるような気がしてなりません。
ただ、フル回転を始めた人間の意識のパワーというものがとてつもない影響力を秘めているがために、
宇宙存在が息を凝らして人類の行く末を見守っているという感じがします。

人は本来スーパーマンなのかもしれません。
それを悪用されれば宇宙全体が破壊されかねません。

さてさて、全体への奉仕が喜びとなるような段階に、人々は到達するのでしょうか。
ぼくの個人的な感触としては、手が届き始めているような気がします。
あとは実践の段階にうんこらしょと重たい腰を持ち上げるだけのような気がします。






フィルター

2010年12月05日 | スピリチュアル
もう10日以上咳が止まりません。
ひっきりなしに咳が出るというわけではないのですが、時折発作を起こしたようにゴホゴホと出ます。

目の前の壁に、知人が作った日めくりが貼ってあります。
「手放すことが 時には人を強くする」と書いてあります。
日めくりなのですが、めくってなかったのでずっとこの文字が壁にありました。
「手放すことが 時には人を強くする」
その通りでしょう。

手放すことの反対は、溜め込む、執着する、こだわる、などでしょうか。
手放してしまえば、それに伴うかもしれない執着心や愛憎のあれやこれやも手放してしまいます。
ある意味で、無敵の処世術です。
何でもかんでも手放してしまえば、無責任のそしりを免れませんから、その兼ね合いが難しいところではありますが。

で、手放すというのは、その人であったり物であったり状況であったりする対象を手放すのではありません。
あくまでも、その対象に執着しようとする自分の心を手放すのです。
自分の心を手放さずに、対象を手放すとということは、心が引き裂かれるような思いがするだけです。

自分の心を手放すことに慣れていない人にとっては、自分の心を手放すという意味がうまく飲み込めません。
自分が自分でなくなるような不安感もあるでしょうが、自分の心に背くという感じがどうしてもするのだと思います。
自分の心の動きというものを、疑いもないものとして受け入れているのでしょう。
その心の動きをもって、自分は自分でありえるのだし、これからもこの心の動きとともに生きるしかない。
そんなかんじなのでしょう。

でも、そうでもないんです。
心(心といっても複雑な層をなしていますから一概には言えませんが、表層に浮かぶ意識の流れです)というのは、なかなかの策士です。
五感を通して感得した世界を解釈し、判断し、選択するのが、人の心です。
なぜかくも人それぞれに人の世界観というものは違ってくるものなのでしょうか。
それは、それぞれの人が持つ心というフィルターが違っているからです。
心というのは、世界を見る各々のフィルターです。
ところが、人は己のフィルターを通した世界しか見えませんから、
そうでないフィルターを通してみている人の意見に違和感を感じるわけです。
そして、各自自分のフィルターを通してみている世界こそ正しいと主張するわけです。

ですから、ここでいう手放すというのは、そのフィルター、あれこれ選別する自分の心を手放すということです。
心というフィルターを手放すとなにが見えてくるのか。
花が咲いて、蝉が鳴いて、落ち葉が舞って、雪がしんしんと降るだけです。
人は、生まれてオギャーと泣いて、喜怒哀楽に転々とし、ことりと死ぬだけです。
そして見上げるといつだって空が広がり、風が吹いているだけです。

いったんフィルターを外した世界垣間見て、再度己のフィルターを通した世界を眺め直してみるのも一興です。
その変にねじ曲がった世界もこれまた風流という感じになるんだろうと思います。



UFO

2010年12月04日 | 雑感
唐突ですが、世界各地でUFOの目撃詳報がいよいよ活発です。
ぼくも東京にいた頃、一度だけ見たことがあります。
夕方、窓の外にオレンジ色の発光体が見えました。
円盤形ではありません。
楕円形の光でしたが、見ているうちにどろりと形が崩れました。
知人と一緒に見ていたので、なんだあれは、と顔を見合わせました。
それは形を微妙に変えながら、ゆっくりと西の空へ消えていきました。

UFOについてはいろいろな説があります。
遙か遠くの宇宙からやってくるというのが通説でしたが、最近は違う説が有力です。
異次元からというかパラレルワールドからやってくるという説や、地球の内部からやってくる話もあります。
時間と空間という概念はこの我々が生きる3次元特有の認識システムであるらしいので、
時空を超越した存在としてUFOをとらえた方が、いろいろな辻褄が合いそうです。

より高次元の存在であるUFO並びにその操縦者は、この3次元に出現するために波動を大幅にダウンさせなければいけません。
逆に、波動を高めて元に戻してしまえば、この三次元空間においては補足不可能な存在になります。
ラジオのAM電波で受信できていた放送が、FM電波に切り替えたとたんに受信できなくなることと同じです。

波動数の高低は無限にあるわけですから、それぞれの波動域にそれぞれの生命体が生息している可能性があるわけです。
ですから、世界各地で観測されるUFO現象が一様でないのも、どの波動域からの訪問者であるのかによって、
いろいろとその形や現象に違いがあるというようなことのようです。

まぁ、諸説あって、3次元にすんでいる人間の想像力では、より高次の世界での現象は理解できないのももっともです。
モグラに飛ぶ鳥の世界は理解できないし、魚に陸上での生活は理解できません。

高次元がどうなっているのかということももちろん興味深いことなのですが、
何よりも興味深いのは彼らの知識や高い意識にもかかわらず、
この地球上の人間の行く末にとても大きな関心を彼らが寄せていることです。
人類の行く末が、何か大きな宇宙の行く末の鍵を握っているかのようなのです。

彼らが残す一致した人類へのメッセージというのは要約すればこうです。
「変わりなさい、残された時間はあまりありません、意識を変えなさい」ということです。

彼らが直接人類にああしろこうしろと指示することはないみたいです。
あくまでも、人類の意識的・自発的な精神の転換を求めているようです。

さて、人類は意識を解き放ち、高次元の大宇宙に飛び出すのか、それともあらゆる面で限界を迎えつつあるこの3次元的意識に縛られたまま、
なすすべもなく天変地異や紛争や食料・水不足といった各種問題の発生するままに、地球もろとも衰退していくのか。

誰かリーダーが必要だというような話ではありません。
一人一人が自分の意識の可能性の大きさに気がつくべき時のようです。

ところで、今朝道場で、100名を超える予備校生の坐禅研修を手伝ってきました。
全員が医・歯学部志望で、受験まで一ヶ月ちょっとで、態度は真剣そのものでした。
座る習慣のない現代人にとっては、初めての坐禅は大変に苦痛なものです。
でも、一人も音を上げず、がんばっていました。
この足の痛みもバネにして、張り切って受験に挑戦してもらいたいものです。
年のせいか、20代そこそこの若者たちがとてもかわいく思えました(笑)






踊る

2010年12月03日 | 雑感
今朝たまたま目を覚ましていましたが、大地を突き刺すような雷が鳴り響いていました。
なんのためらいもなく、大地を突き刺していました。

ためらい。
人が生きていく以上、いつでもどこでもまとわりつく感覚的なもやもやです。

ためらわない、というのはどういう状況なのでしょうか。
一言で言えば、「惜しまない」ということでしょうか。
地位財産をはじめ、自分の命さえ惜しまない。

嘘くさいですね。
でも、そういう嘘くさいことをやりきった人が偉人と呼ばれている事例は事欠きません。

逆に言えば、「惜しむ」というのはどういうことなのでしょう。

何を惜しむのでしょうか。

本来、惜しむべきことなど何もありせん。

そのことを思い知ったときに、初めて「自分は何を与えられるのか」という逃げようのない局面に立ちます。

与える、与えられるの交錯のまっただ中で、改めて、生きるとは何か。

すべては眼前にあります。
すべてが眼前にあると知ったとき、全身全霊をあげて踊り始めるしかありません。

観客はもちろん星降る宇宙です。

ヤーレンソーラン ソーラン ソーラン ヨイヨイ


流れ

2010年12月02日 | スピリチュアル
暗い空から雨が降り、風邪も治らぬままのさえない一日です。
雨が降っては畑に行っても何もできないので、風邪でも治そうと終日寝てましたが、熱も出ず、治りそうもありません。
風邪はがーっと熱を出して治すものだと僕は思っています。

師走に入ったわけですが、もう言葉を絶する時間の流れの速さを感じるばかりです。
ますます加速するのだろうと思います。
気を抜いていたら、そのまま流れに押し流されていきます。
「今ここ」にいるという訓練を本気で成熟させておかないと、えらいところまで押し流されてしまいそうです。

国会は与党の乱行ぶりが酷いですね。
いちいち取り上げてコメントする気力も失います。
己の損得勘定や、どっちがいい悪いという旧態依然の思考の枠組みで動いていますと、ああいう状況になるのでしょう。
ああいう状況に、誰も何も施す術もなく流されていくのが、「今ここ」から引き裂かれていく流れに乗るということです。
ああいう状況に対して腹を立てたり、批判したりしても、おそらく流れは変わりません。
流れを変えようとするのではなく、その流れから身を離すということが賢明です。

流れから身を離して、冷静に自分の周囲を見回してみる。
自分が何をしようとしていて、どこに流れ着いてしまっていたのかを、しっかり確認してみる。
方向が間違っていたのなら、しっかり行くべき方向を見据えて、新たな一歩を踏み出す。
一歩を踏み出すごとに、あれほど抗いがたい力を持っていたかのように見えた流れの音が背後に消えていく。
無味乾燥に思えた周囲の景色が見え始める。
昔懐かしい大地の匂いが風に乗って流れている。
もはや恐れや不安や焦燥はない。
目指す頂上が彼方に朝日に照らされて金色に輝いている。

そんな感じで、一人一人が流れから身を離し、自分自身の意志で、自分自身の足で、一歩を踏み出すことが大切な気がします。