風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

心の流れ

2010年05月27日 | 雑感
決算も山場を迎え、明日で片がつきそうです。
事務処理を明快に簡単に処理するシステムを構築するのに10年以上もかかるとは夢にも思っていませんでした。
システムなんかのせいではなく、普段から怠けていたからだといわれればそのとおりなのですが、
怠けようがなにしようが、きちんと日々の処理システムさえ整っていれば、何てことないはずなんです。
もう大丈夫、なはずです。

来週末から一週間の禅の接心が始まります。
北九州で年3回、福岡で年2回ありますから、休むまもなく次々と接心があるような感じです。
地方にいながらにして、本格的な禅の修業ができることはありがたいことです。
先週は3日間連続して滝にも行きましたが、車で数十分で滝に打たれることができるということも、これまたありがたいことです。
それに加えて、仕事も順調なら言うことはないのですが。

自分で会社や事業を経営するということは、自分の欠点やら力不足と真正面からぶつかるということです。
自分の欠点やら力不足が否応なく結果としての数字として現れてくるものです。
そこでひるんだり、あきらめたりすれば、たちまち行き詰ります。
逃げ場がない毎日を背負うことになります。
それでも背負い続ければ、時には結果としての数字に恵まれることもあります。
いいことも悪いことも、すべてを受け入れつつ、できるだけ豊かな心でいたいなと思うばかりです。

生きがいというのは遠くに探すと見つかりません。
自分の近くに、心の中に見つけるものです。
何気なく町を歩いていても、楽しくなることはできます。
そのあたりは禅の修業はよくできていて、廊下を拭いていても、庭の雑草を抜いていても、雑念を追わずにその行為に集中しますから、
拭き上げた廊下が見る見る黒光りしていくのを見たり、雑草についた土の香りを嗅いだりしていると、心が楽しくなっていくものです。
普段の生活は雑念におわれまくり、町を歩いていても彼女や彼のことを考えたり、車を運転をしていても資金繰りのことであれやこれやと
頭をぐるぐると巡らしていたり、そんな感じでちっともその瞬間を楽しんでいません。

電車に乗れば車窓を流れる風景を味わい、町を歩けば季節の風を感じ、空を見上げて色の移ろいを味わう。
人に会えば、その時のその人の心を感じ、自分の心の反応を眺め、お互いに気持ちのよい心の流れができるように工夫してみる。
そんな感じになれればいいなと思います。

なんにせよ、政治も経済も社会生活も、なにもかもがガタガタになって行ってるようです。
いろいろな意味できつい局面を迎えている人も多いことでしょう。
周囲がどんな流れになろうとも、自分の心の流れだけは気持ちのよい流れでいられるように、工夫して生きていきましょう。


健康

2010年05月17日 | 雑感
一ヶ月あまり休みを取っていなかったので、さすがに朦朧としてきました。
ボーっと一人でいるのが何より好きなぼくにとっては、休みがないと心がミシミシとなります。
で、身体も心も嫌がっていたのですが、無理やり夕方ジムに行きました。
行けばスッキリ、爽やかミントの風です。

汗を流すというのは、全身の細胞単位で老廃物を排出するのだと思います。
ところが汗を流すこともなく、ひたすら毎日アルコールを摂取し続けると、一気に排出器官である肝臓の負担が増えるのだと思います。
なんか肝臓がやばいなぁ~と思っていたのです。
そんなわけで、今日は久しぶりに全細胞から老廃物を排出してきました。

先日、数十年間飲まず食わずのインドの行者が、どこかの研究所で隔離され観察研究の対象になり、その結果、
やはり飲まず食わずのままだったというニュースがありました。
そのメカニズムに関しては不明ということでした。

以前も書いたことがありますが、意識の振動数を上げ、身体の細胞の振動数を上げることができたら、
食物や飲み物からではなく、ダイレクトにエネルギーを取り込むことができるのではないかと思ってはいます。
振動はエネルギーですし、光もエネルギーですし、想念もエネルギーです。
何かのエネルギーに身体の周波数を合わせることができたら、食物とか飲み物に頼らないでも身体を構成する細胞にエネルギーを
供給できるなんらかの意識のあり方があるような気は強くします。

比叡山の千日回峰の行もそうですが、真冬の滝行だって、どうしたらそういうことを可能ならしめるのか、
そのメカニズムは謎のままでしょう。
現代医学は「意識」とか「想念」を身体機能のメカニズムの重要なファクターとして取り上げることはできません。
物理的化学反応の結果としての病であり、物理的化学反応としての薬物による治療です。
自分でも経験がありますが、例えば数ヶ月間動物性蛋白を一切摂らず、うどんやら蕎麦やらご飯と漬物みたいな生活をしても、
身体はかえって頑健になっていきます。

でも、現代の栄養学を勉強した人が、毎日うどんやら蕎麦やらそんな生活をしたら、たちまち病気になってしまいそうな気がします。
そういう人の頭には、炭水化物、蛋白、必須アミノ酸、ビタミン群、カルシウム、鉄分、などなど、
そういうものを摂取するのが絶対に必要だと刷り込まれています。

自分の身体にあれこれと神経質に気を配る人ほど病気になりやすいとも聞いたことがあります。
何を言いたいのかといいますと、要は、「意識」とか「想念」のエネルギーの圧倒的な力を活用すべきなんだろうということです。
栄養剤を飲んだから健康になるわけではありません。
本当の意味での健康な状態を「意図」できるかどうかなんだと思います。
自分の意図をいい加減にしておいて、サプリメントやあれやこれやの健康法を試すのは時間の無駄のような気がします。

しからば、健康な状態というのは、どのような状態なのでしょうか。

・生きることに喜びがある
・好奇心、冒険心がある
・心と身体が一体である
・他人を応援する
・謙虚である

ざっと今考えてみたところ、そんな状態が心が健全であるような証のような気がします。

で、そう考えると、ぼくの考える健康な状態というのは、「身体」のことではありません。
以上に挙げた5項目、すべて「心」のあり方です。
身体というのは、決して「主」にはなれません。
食べたいものを食べたいだけ食べる、飲みたい物を飲みたいだけ飲む、セックスをしたいだけする、眠りたいだけ寝る、すべては可能です。
それをしたところで、「それで?」という問いが残るだけです。
主が空虚になれば、身体が空虚になっていくのは当然の理です。

あくまでも「心」が身体の主です。
その心がなにをしたいのか、なにをしたくないのか、それでもなにをするべきなのか。
あくまでも、自分の心が大切です。
誰かや、どこかに書いてあった心のあり方などではなく、自分自身のリアルな心を手に掴むことです。

だれにでも、子供の頃とちっとも変わっていない心があるはずです。


情報戦

2010年05月16日 | 雑感
いよいよ例年の決算の締め切りが近づいてきました。
資料を整え、あとは入力をしながら次々と繰り出してくる不明点を解明していくだけです。
今日はその前段階として、山積みになっていた数年分の不要な資料を分別して捨てまくり、爽やかなオフィス環境にしました。

去年はホテルに丸2日間缶詰になって決算をこなしましたが、今年はずいぶんとましになりました。
決算が終わっても、この爽やかなオフィス環境を持続できれば完璧です。
完璧の母です。
作業自体はどうってことないのですが、そのどうってことのなさが、経理事務を後回し後回しにする理由でもあります。
坐禅で鍛えた平常心とか無心とか、そんな感じの動じない心でこの際一気に経理事務の鬼、別名マスターになってやろうと思います。

物を売るという脳の使い方と、経理事務での脳の使い方は、全然別物です。
集中する心のベクトルが違います。
山に登山に行くのと、夜飲み屋街に繰り出すことほどの違いがあります。

外は爽やかな五月晴れが続いています。
それがなにほどのことかというのでしょう。
ぼくは事務所に篭って、カタカタという華麗な入力音を響かせ続けようと決意も新たです。
事務所の蛍光灯の4本のうち3本が切れていて、とても薄暗いです。
なぁに、負けません。
「人間は負けるようにはできていない(by ヘミングウェイ)」です。
蛍光灯など、買い換えればいいことです。
事務所が薄暗いからといって、へこたれるような人間ではぼくはありません。
チカチカする画面に向かって、カタカタ入力することだって、なぁに大丈夫です。
臥薪嘗胆、石の上にも三年、雨滴石をも穿つ、です。

なんにしても、現政権の体たらく、意図的なら高度なテクニックだし、あれがそのままの姿なら言葉を失うばかりです。
政治に哲学などを持ち込むほうが野暮なのかもしれませんが、哲学、信念のない政治ということほど恐ろしいものもありません。
党利党略を超えた力学が政治の現場から一掃されてしまうからです。
どこかの利権なり、票田なりと手を結ぶことだけが優先され、国全体の舵取りは不在になります。
政治が党利党略に走れば、企業は自分の会社の利益に走り、個人も自分の損得に走ります。
真・善・美が消えていきます。
そんなものはないという言説も可能です。
でも、そんなものがあると思う人たちが、芸術、学問、哲学などを通じて、人々の心を耕してきました。
そういう真・善・美に裏打ちされたような文化的背景が失われていくと、思ってもいない功利的で野蛮な社会風土が現れてくるものです。
そして今のような混乱は、どうも意図的に導かれているとしか思われません。
宮崎の口蹄疫に関する報道の異様な関心度の低さは、どうやっても説明がつきません。
政権と報道のあり方が、タッグを組んで異様な方向へと導いているとしか思えません。
どういようなのかは、具体的に挙げようと思えばいくらでも挙げられるのですが、2チャンネルではその異様さが共通認識になっていますが、
ネットをしない人たちにとっては、2チャンネルこそ異様な世界だと思い込まされている節があります。

数万人以上の一般社会人が集まる2チャンネルでは、各種各層の社会人が好き勝手なことを言っているわけです。
でたらめもあれば、なるほどという言説も入り乱れて飛んでいます。
ただ、どんなに無秩序に見えても、そこは人間の集まりですから、ソース(情報源)やら論拠のあやふやなものは冷遇されます。
う~ん、いまさらここで2チャンネルの解説をするまでもないですね。
ぼくは全然嫌いではないです。
悪意のある人間も少なからずいますが、それは現実の世の中と同じです。
嗅ぎ分け、選り分ければいいだけです。

そこで溢れるソースつきの情報と、テレビや新聞が伝える情報との乖離がここ最近きわめて大きくなっています。
さらにはネットには海外の情報の紹介のブログやHPもたくさんありますが、そこで語られる世界情勢に接すると、
まるで今の日本は情報の鎖国体制をしいているかのようです。

近代の戦争は、情報戦争でもあります。
日本人は情報戦ということにかんしてあまりにも無防備で、戦う前から負けてしまっている感があります。
正しい情報なくして、正しい判断はありえません。
日本に正確な情報を遮断しようとすれば簡単です。
新聞もテレビをそれを報じなければいいだけです。

言論統制はなにも誰かの意見や考えを弾圧することばかりではありません。
誰かの考えや、出来事を報じないというのも、きわめて有効な統治支配です。



委ねる

2010年05月15日 | 雑感
今朝新聞を見てましたら、日付のところで「ん?」と目が留まりまして、何の日だっけと思い返しましたら、会社の創立記念日でした。
12年前の今日、会社を設立して、一ヵ月後にはアメリカに旅立ちました。
そういうわけで、会社は設立したものの、2年ほどはまったくの休眠状態でした(笑)

それから帰国してさて何をしたものかと思いました。
何をするもしないも、とりあえず自分が作った会社があります。
マンションの一室を借りて事務所としました。
古いお客さんがぽつぽつと連絡をくれて、商売を始めました。
それから最初の店を持つまでには二年ほどかかったような気がします。

商売というのはこちらの都合のいいようには物事が動きません。
お金がないからといって誰かが買ってくれるわけでもありませんし、お金があればいい品物を仕入れられるわけでもありません。
特に、ぼくが扱うようなアンティークのジュエリーやら美術品というものは、まったくの生活非必儒品です。
仕入れたからといって、いつ誰にいくらで売れるのか、計算できるはずもありません。
こつこつ真面目に働けばいいものでもありません。
不真面目に働いたら、実も蓋もありません。
じゃあどういう心構えでいたらいいのか。

もうなんというのか、「委ねる」というしかありません。
信じるというのとはちょっと違います。
ただただ、委ねるだけです。
たまたま手に入ったものを、誰かがいくらかでいつか買う。
そんな感じです。

もちろん、これを誰にいくらで売ろうとするビジネスらしいことができることも年に何回かはあるのですが、
そればかり狙うといろいろな意味でコケます。
前職では、ぼくの役目はそれをひたすらすることでしたから、不得意ではありません。
ただ、それをし続けると、お客さんもぼくも心が疲弊していきます。
お互いの心にゆとりがなければ、アンティークの存在意味さえ失われていきます。

とにかく、資金ゼロどころかマイナスから始めたこの会社ではあります。
多くの方々の支えと援助と叱咤激励があってこそ何とか生き延びてこられました。
ひたすら感謝していればいいものを、調子に乗ったり脇道にそれたりばかりしています。
これからますます状況は厳しさを増すのは分かりきっています。
だからといって、あわてても仕方がありません。
いったん委ねたのなら、最後まで委ねるのが筋というものでしょう。
なにに委ねるのか。
天に、人に、自分の心に委ねるのでしょう。

そんなわけで、土曜日の夜、店で焼酎を飲みながら創立記念日を祝してひとりで乾杯をしています。


尽きる

2010年05月07日 | スピリチュアル
前回のブログの記事の訂正です。
「踊るカルマ」ではなく、「カルマは踊る」でした。
しかも、「カルマは踊る」と「魂との会話」は同じ本を翻訳したものでした。
翻訳者が違うために、読んだ印象にかなりの開きがあり、前者はやや硬く、後者はこなれていました。
それに加えて、前者は2003年出版の本ですから、もう20年近く前の本です。
そのとき読んだときとは、僕自身もずいぶん変わっているのでしょう。
最後まで同じ本だとは気がつきませんでした。
それにしても「カルマは踊る」と「魂との会話」というタイトルの二冊の本が誰が一体同じ本だと思うでしょう(笑)

ところで、今朝、うちの店の裏に住んでいる猫の正体を先日ちらりと見ることができました。
灰色と白の斑の一歳未満であろう子猫でした。
餌を取り替えようとしたぼくの足元をさっと通り過ぎて行きました。
あっという間にいなくなりましたが、挨拶の仁義を切ったのだと思います。
何も心配要らないからおいでと言っても、決してこちらに近づいてくることはないでしょう。
こちらが餌を与えられるだけ与えている限り、元気でいてくれればそれだけで嬉しいです。
わずかな時間でも共に生きていけれれば、それだけで嬉しいいです。

人生いろいろあります。
ぼくだっていろいろあります。
辛いこと、苦しいこと、悔しいこと、腹が立つこと、そういう類の思いはそう思えばきりがなく立ち現れてきます。
誰かや何かのせいにすればその苦悩はエンドレスに自分の心を蝕みます。
誰かや何がその苦悩の原因ならば、誰かや何かがこの世から去るしか、消えるしか原因がなくなることはありません。
誰が悪い、これが悪い、あのタイミングが悪い。
そういうきりのない反射的情動にぼくは興味がありません。

その一方で、すべては自分の心が「(苦しいと)思う」ということが苦悩の原因であるという考え方があります。
自分の心こそが楽しいだの苦しいだのをいちいち分別している。
その分別心が、自分の心を分別し、追い込む。
自分の心こそが苦しい。

それに比べて、どんな状況であろうとも、苦しいとも思わず、ことさら楽しいとも思わない。
自分が「~と思う」ということにまったく信頼を置かない選択もありえます。
どう思うのではなく、どう行為するのかという先鋭化した意識の元で生きる行き方。

それが実体だと思わなければ、実体がどこにもないことを、あれこれ思っては、結局人のせいや、状況のせいにするのが、
自分の心が「思う」という状態を正当化する実態です。
あなたの思いが、あなたの現実を作っているということです。

何を言っているのか分かりませんね。
思いは思いでいいのですが、なにを思っているのかに責任を持つスタンスというのが、成熟した人間のあり方なのでしょう。
人ができるのは、何を「思う」のか、何を「思える」のかということに、結局は尽きます。