風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

東北巡礼

2005年05月31日 | 旅行
東北巡礼の旅は、天気にも恵まれ、申し分なしでした。
湯殿山で、雪解け水の滝行も出来ました。
滝の仲間のほとんどが九州人なのですが、なんというか、キャラが濃いです。
どこへ行っても、だれかれなしに、なれなれしく話しかけます。
それから、特に料理屋では、やたらと注文が多く、細かいことを言います。
九州人たちは、従業員とのコミュニケーションを楽しんでいるのだと、言い張ります。
東北人のぼくとしては、冷や冷やものなんですが、一顧だにしません。

まぁ、とにかく、無事に帰ってきました。
やる予定のことはすべてやれました。
めでたしです。

で、今日は月末です。
なかなか忙しく金策です。
今日の今日になって、銀行から融資が下りました。
綱渡りの毎日です。
綱渡りでも、落下しないで済んでいることを、おかげさまと思う気持ちが大切なんでしょう。

ちなみに、東北旅行の日程を書いておきます。

一日目
福岡→仙台空港→ぼくの父方の墓→達谷窟(毘沙門堂)→中尊寺

二日目
中尊寺→毛越寺→羽黒山

三日目
羽黒山→湯殿山→山寺(立石寺)→仙台・青葉城→ホテル

四日目
ホテル→ぼくの母方の墓→松島・瑞巌寺→仙台空港

四日目、みなに迷惑をかけてもいけないし、時間もないから父親に会うのは半ば諦めていたのですが、
みなの強い勧めがあって、父親に短い間ですが会いました。
半分ボケているのですが、ぼくの顔を見るなり今まで見たこともないような顔で、ニコニコ笑いました。
会ってよかったと、心のそこから思いました。
これも、九州人たちのお陰です。
個人的な墓参りも気持ちよく付き合ってくれましたし。
こういうところは、濃いキャラの九州人たちも侮れません(笑)

それから、早起きの訓練になりました。
同行者の皆様、ありがとうございました。



出羽三山

2005年05月26日 | 雑感
明日から滝の仲間と出羽三山に行きます。
月曜に帰ってきます。

あわただしい月末ですが、何とかいけることになりました。
おかげさまです。

何か書きたいのですが、東京から友人が来ましたので、この辺で。

アメリカⅢ

2005年05月25日 | 旅行
2000年の大晦日はニューヨークにいました。
タイムズスクェア周辺は、カウントダウンを一緒にしようと溢れんばかりの人々が集まっていました。
人ごみで、タイムズスクェアの見えるところまではいけませんでしたが、カウントダウンの瞬間の
歓声やら花火やらはビルの谷間の向こう側から聞くことが出来ました。
その瞬間、みなが抱き合います。
その瞬間だけは、新しい年をいい年にしようと、みなが本気で思います。

アメリカ人というのは、大雑把で傲慢なところがあると同時に、
フェアプレーの精神と基本的に他者を受け入れるおおらかさを持ち合わせています。
日本人みたくおせっかいな親切心はないので、それに慣れた人には不親切と映るかもしれませんが、
各個人がしたいことをしたいようにすることには基本的に干渉しません。
干渉しませんが、自分の主義主張は明確に主張し、他者もそうすべきだと考えます。

いちいち言葉で自他との区別をつけることのない日本社会と、
自他との区別は当たり前だとの前提に立って、構成されるアメリカ社会。
コミュニケーションの形が違って当然ですね。
好みの問題もありますが、一長一短あるわけでして。

黙して語らぬ禅の世界に興味を持つアメリカ人がいることも分かるような気もしますが、
いざ実際の修行に入ったら、その苦痛度は、日本人の感じるそれの比ではないでしょう。
なにしろ、いちいちの行動について質問が許されませんから。
分からないことは、分からないとはっきりさせなければならない教育を受けてきた彼らにとっては、
問答無用の日本式修行のコミュニケーションの意図的な断絶は、なかなか厳しい関門であるはずです。

クリスマスから、大晦日にかけて、アメリカでも人々の心は浮き立ちます。
5番街のショウウィンドウは趣向を競い合い、老若男女、白人も黒人もヒスパニックも、
労働者も資本家も、同じ街を、同じ視線で、微笑を浮かべて歩きます。
過ぎし年を振り返り、来る年を熱い想いで待ち望みます。
どこの国でも、どこの人々も、形に違いはあれ、年の変わり目には同じような思いが交錯するのでしょう。

そんな風景の中で、東海の島国からやってきたぼくは、日本に所属する意味を考え、
日本で生まれ育った意味を考えます。
それぞれの土地の意味について、考えます。
出稼ぎで、今、この厳寒のニューヨークにいるプエルトリコ人には、カリブの島々が彼らの永久の心象風景です。
ぼくにとっての心象風景というものが、いつの間にか、とても影が薄く、存在感のないものになっていたのに
気がつきます。
どこかで、心が追うべきものを取り違えたままになっているのを感じます。
追わなくていいものを追い、追うべきものを見失ったような感覚。
そんな喪失感と浮遊感がありました。

ぼくのなかから「日本」というものを、失いつつあったのですね。

酒を飲んで、おおはしゃぎで歓声を上げる彼らの姿を見て、そんなことを考えました。

妙子

2005年05月24日 | 
雨が降り出した夕暮れ、妙子は母の帰りを待ちます
しんとした青い闇が、家の中に流れ込んできます
トタンの屋根を雨が叩き、ガラス戸の向こうに人の気配はありません

妙子は古びた人形を抱いたまま、廊下に立って庭を眺めます
柿の木も、胡瓜と茄子の苗木も、雨煙りのなかで青白くゆれています
隣の家もしんと静まり返っています

妙子は居間に戻って、仕舞い忘れられた炬燵に入ります
炭火が入れられていない炬燵の中は、ひんやりとして、湿っています
人形に子守唄を歌おうと思いましたが、うまく声が出てきません

妙子は炬燵にもぐりこみ、仰向けになって天井を眺め、雨の音を聞きます
あたりは暗くなり、白い指で玄関がからりと開けられるのを、待っています
母が帰ってきたら、思い切り泣いてやろうと、妙子は思います



決算

2005年05月23日 | 雑感
どうやら前期は大幅赤字で申告します。
売り上げは数百万増えたのですが、在庫バランスが悪いのと、利益率が悪すぎました。
これはこれでしょうがないです。

起死回生の一手などというのを狙うとろくなことがないので、
地道に赤字分の回復を図っていくつもりです。
大胆に、心細やかに、ってところです。
とにかく、日々の数字をきちんと把握していれば、意識の持ち方が変わってきます。
幾ら利益があり、幾ら在庫があるのかなどをほうっておくと、だらしない意識のまま、赤字が膨らみます。
そういう当たり前のことを、だらりだらりと先延ばし、見えないふり、をするから、この体たらくです。

今週末には東北を旅行します。
来月9日からは、ロスアンゼルスにちょっと行かなければなりません(正直、これは行きたくありません)
そんなことをしている場合ではないと心から思うのですが、
そういう風に、行くことになっているのかもしれないという気持ちも少しだけします。
行くなら、有意義な旅行にしたいですが、なんだか心がすっきりしないのは確かです。

生活でお金に窮しても、何とかなるのですが、
商売上でお金に窮すると、いろいろ責任問題に波及するから大変です。
お金の問題は頭を下げればいいというものでもありませんからね。
当たり前ですが。

このあたりのだらしのなさが、常に足を取り、それでも放置しておくと命取りになります。
心しなければなりません。

負うものは負い、それでも楽しく軽やかに歩みを進めないと、人生がもったいないです。

今日の教訓は、負うものは負う、でした。



芸術家

2005年05月22日 | 雑感
昨日は山口県立美術館で開催されている興福寺の仏像を見に行きました。
福岡に来たときに一度見ていたのですが、再見しました。
運慶や快慶たちの慶派の作る仏像は、それまでの穏やかな平安仏とは表現方法を革新的に変えました。
技法だけではなく、内面に迫る深度も、格段に深く、豊かになりました。

西洋のルネッサンスのときもそうですが、ある一時期に圧倒的な天才が集結する時ってあるんですね。
どうしようもなく時代が硬直してしまうというような時に、圧倒的な天才たちが、信じられない力量を持って
さっさと時代を刷新してしまう。

政治や体制で時代を刷新しようとすると、粛清やら戦争が付き物です。
そうして有形無形の莫大な負債を次世代に残さずにはおきません。
そういう意味では、芸術家の刷新は精神・魂の刷新ですから、壮快です。

そろそろ、そういう芸術家が出てきてくるのでしょうか。

今日はお客さんが来るというので、わざわざ店を開けて待っていましたが、
3分居ただけで帰ってしまいました。

呆然とコッピーに餌をやります。
水を汲みに行きたかったのに・・・ぶつぶつぶつぶつ


大道

2005年05月20日 | 雑感
昨夜、遅くに内村鑑三の「如何にして余は基督教徒となりしか」(岩波文庫)をパラパラと読んだのですが、
何よりも感じるのは、彼、或いは彼らのひたすらな生真面目さです。
あれかこれかの分裂に、ひたすら立ち向かっていきます。
まあ、いいかという曖昧さを自らに許さぬ厳しさを己に課していきます。

こういう心性を持った人たちが、幕末を駆け抜け、明治維新を成し遂げたのでしょう。
旧体制に対する忠義と、新時代を切り開いていかなければならない使命感の分裂に志士たちは悩み抜き、
没落していく武士階級を横目に、日本国のためという大義に奉じた明治の青年たち。
内村鑑三にあっては、それまで自分の身体に染み込んでいた、祖国の神仏への慣れ親しみを断ち切り、
より理念的に整合性が取れているように思えたキリスト教へと帰依していく。

思うに、その精神風景を支える大きな柱として、彼らには男たるもの「大道」を歩まねばならぬという、
儒教的な強い使命感があったのでしょう。
今時、「大道」を歩むなどと言ったら笑われますが、彼らは大真面目で「大道」を探し続けました。

漫然と日々を空費している人間に、地平線にまっすぐ向かっている「大道」を目にすることはありません。
つくづく、そう思います。
他人からどう思われようとも、「大道」を歩んでいる自覚がある人間の内部には、
深い誇りと、なんというか、生きがいめいたものを感じるに違いありません。

そう考えると、「大道」という理念から、遠く離れてしまっているぼくなどが、
生きがいが見つからないなどと愚痴るのは、とんだお間抜けな話です。
農民には農民の、職人には職人の、商人には商人の大道があったはずです。
それぞれがそれぞれの道に誇りと生きがいを見つけるすべを代々教え継ぎました。

自分を取り囲む「世界」は、自分の「思い」が作っているとの認識をますます強めて生きつつあるぼくには、
理念=大道なき生き方は、そろそろ限界を迎えつつあるように思えてなりません。

もちろん、理念というものの持つ危険性も視野に入れなければなりません。
自分勝手な理念を持った人間は、この世で最も危険な存在となりえます。
だからこそ、師から弟子へと「教え継ぐ」という伝統を持つことが、その危険性を回避するために有効でした。

限りなく、個人個人の理念がばらばらになり、自分ひとりが歩く道さえ、見つけることが出来がたくなって
来ているこの時代、明治初期まで残っていた「大道」などという理念が受け入れられるとも思いません。

さて、どのような道を歩むことが、ぼくなどに可能なのでしょうか。


馬鹿犬たち

2005年05月19日 | 雑感
今日は古いお客様のところへ行きました。
武家屋敷が残る地域で、広く立派な庭と井戸があります。
居間からも、廊下からも、奥の和室からも、風にそよぐ新緑が見えます。
その方は常に穏やかで、気品があって、活力があります。
しなければならないことを当たり前のようにして、したいことも当たり前のようにしてきた方です。
見事な生き方だと思います。
ご主人は、これまた、笑顔の耐えない穏やかな人です。

成功する人は、こういう風に、当たり前のように成功します。
どこにも、無理がありません。
気を配るときは気を配り、がんばるときはがんばり、楽しむときには心から楽しみます。
見事としか言いようがありません。

そのご夫婦と比べると、自分がひもじい野良犬のように思えてきます。
少なからず、ひねこびた野良犬。
腹が空いているくせに、腹が空いていないふりをし、
撫でて欲しいくせに、ぷいと横向いてしまうような馬鹿犬。
困ったものです。

ところで、そのあたりの武家屋敷ですが、次々と古い土塀や瓦屋根が潰され、
更地になっています。
なんでも、高級住宅地にするのだそうです。
土地の値段も、今時珍しく、10年前より倍近く上がっているのだそうです。
ばかばかしい話です。
そういう風情が残されていたからこそ、質の高い住宅地が形成されていたのに、
わざわざ叩き潰して、得体の知れない金持ちを他所から招致ですか。
世の中、圧倒的に馬鹿犬のほうが多いのでしょう。

馬鹿犬同士が、キャンキャン吠えあっているうちに、今日も日が暮れます。
馬鹿犬の群れから離れて、孤高の野犬にでもなれればいいのですが、どうしたものですかね。

と、ここまで読み返してみると、心からはさほど怒ってもいないことを、
よくこういう風に怒った振りして書くもんだと我ながらあきれます。
こういうところが、無理があるんですね。
無理やり不自然な筋を立てる必要なんかないんです、本当は。

今から焼き鳥屋に行ってきます。
ひたすら、おいしく食べ、おいしく飲む。
それだけでいいはずなんですけど、常に余計な計算やら感情やらがくっついてくるから、
話がややこしくなるわけです。
こういうところが、ぼくが馬鹿犬たるゆえんなのでしょう。








2005年05月18日 | 雑感
ピンチはチャンスと言いいますが、ピンチの最中は、先が見えない状態になります。
深呼吸をして、波立つ心を鎮めて、ピンチを装って脅かす仮面を剥ぎ取ると、
確かにそこには自分にとっての重要な課題が、潜んでいるものです。
いずれは解決しなければならない課題が、ピンチという形で解決を迫ってくるわけです。
そういう天の采配を、ありがたいことだと思えればいいのですが、なかなかそうは思えないのが人の心でして。

ともかくも、どうなるかと思われた状況も何とか一息つきました。
こうなると、素直にありがたいと思えます。
いろいろ、これでもかと課題も見えましたし(笑)

ピンチに度を失わないためには、「胆(はら)」が必要ですね。
こればっかりは、理屈で鍛えることは出来ません。
立ち現れるピンチや難局に、逃げずに立ち向かっていく経験をつむしかありません。
そこが弱いです。
すぐ、小ずるさを発揮します。

どうせいつかは越えなきゃならない課題なら、前向きにばんばん超えていくくらいの気位が必要でしょう。
そういう風に考えて、実行に移せる人を賢い人と呼ぶのでしょう。
そういう意味で、ほんとに馬鹿だなぁーと思います。
馬鹿は馬鹿と知ることから第一歩が始まります。

それが今の第一の課題といえそうです。

招き猫

2005年05月17日 | 雑感
どうやら、やっと決算の書類が準備できました。
心底ほっとしています。
赤字でしたが、まぁ、いまさら仕方がないことです。
明日からまたがんばります。

今、知人と立ち飲み飲み屋で、ビールを4杯飲んできました。
本当は、ある会合に出なくてはならなかったのですが、知人と話し込んでしまいました。
それほど、決算の準備が大変でした。
納品書も領収書も計算書もありませんでしたから。
でも、今日で終わりました。

目の前に、オークションで落札し、昨日届いた招き猫が二体います。
土を焼いた上に、お洒落な彩色した、明治か大正のものです。
たぶん同じ作者です。
非常に、上品でかわいいです。
お客様の評判もいいのですが、売りたくありません。
二度と手に入らない筋のものです。
そのかわいい猫たちが、おいでおいでをしています。
素直な好奇心のある人はみんなやってきて、この上品な猫を見てもらいたいです。

とにかく、なんだか、ほっとしました。
正直、しんどかったです。
税務署の査察が入った経験があるぼくとしては、決算処理は神経が高ぶります。
日頃事務処理を、何もしていないからこうなるのですが。

赤字でも、怠け者でも、ここから立ち直ります。
招き猫が、運やら、人やら、お金やらを招き寄せてくれるために、この時期にやってきてくれました。
嘘だと思うでしょうが、この猫を見たら、誰でもそう思いますよ。
写真を見せられないのが残念です。


生と死

2005年05月14日 | スピリチュアル
昨日は外回りの途中に友達の家に寄ったら、例のごとく酒盛りになってしまい、
ブログを書くことが出来ませんでした。

今朝も滝行。やはり頭がボーっとします。
ほかでもない、体力が落ちているのに気がつきました。
気力とか、なんとか、そういうこと以前の問題です。
早起きして、滝に行くだけで疲れてしまう。
お話になりません。
ちょっと身体を鍛える必要があります。
年を取っている自覚がありません。
心は成熟しないまま、体だけが確実に老いていきます。
生き方がお粗末ですね。

あるホームページで紹介されていた自分のミッションを見つける方法。
自分が死んでいくところをイメージする。
死んで、魂が身体を抜け出し、自分の体を見下ろす。
魂はどんどん浮上していき、自分の家、住んでいた街、日本、地球と視野が高く広くなる。
そのとき感じるものに耳を澄ませよ。

そういった内容でした。
ちょっとだけ試してみたら、胸が苦しくなるくらいに、愛しく切ない思いがしました。
それをもっとクリアに、深くイメージしたら、或いは「ミッション」が見つかるかもしれません。

「死」から「生」を捉えるというのは、なかなか勇気の要ることです。
「生」が「死」に試されます。
いわば、一切の言い訳の効かない試しです。

ぶおーんと街の鼓動が聞こえています。
車が流れ、人が流れ、雲が流れます。
若い娘の甲高い笑い声が聞こえ、携帯電話で大声で話すおばさんの声が聞こえます。
誰もが「死」を素通りにしていきます。
それでも、「死」はあらゆる流れの傍らに、青白い沈黙の中に身を潜めています。
いつかその声を怖がらずに聞いてくれる人が現れることを待ちながら。


2005年05月12日 | スピリチュアル
今まだ店にいます。
売り上げを入力し終わりました。
気力がわかず、帰ろうと思っていたのですが、ある人が食事を持って尋ねてくるというので、
思い切って入力を片付けました。
ありがとう>ある人

今日、滝の仲間の一人がふらりと尋ねてきてくれました。
会うごとに、滝に対して熱心さが増して行く感じです。
もちろん、気負ったところはなく、楽しげで、自然体です。
ああ、いいなぁと思いました。
その人は、店に来るほとんどの人が胡散臭げに見る店の神棚に、きちんと拍手を打って、
祝詞を上げてくれました。
暖かい気の流れが店内に吹き込んできました。

また、これも今日の昼間ですが、知人の女の子と、いろいろ話しました。
その子は昔から霊感があり、そういう類のエピソードには事欠かないのですが、
4歳のとき、熱病にかかったときにすとんと「カミ」が身体に入ったそうです。
そのときの恍惚感や安心感を話したところで、もちろん誰にも受け入れてもらえませんでした。
その安心感は、小学生の高学年頃に消えたそうです。

彼女は今、キリスト教の洗礼を受けようとしています。
そうなるべくして、そうなっている気がします。
疑うことをせず、哀れみ深く、世の中に横行する人を傷つける行為が理解しがたい彼女には、
キリスト教の愛と受容の心はふさわしいように思いました。

みんな、一人一人が歩むべき道を歩んでいます。
そんな彼女も、時には苦しみ、ののしり声を上げることもあったのを、ぼくは知っています。
それでも、いつの間にか、道に戻り、静かに歩き始めています。

弱いのは、ぼくです。
いつまでも、いつまでも、愚痴を振りまいています。
振りまかれた愚痴が、道に積もって、どろどろのぬかるみになります。
ぬかるみに足を取られて、前に進めないよーと、泣き叫びます。
なんというざまでしょうか。

さりげなく歩き続けること。
出来れば、大きく手足を振って、明るい挨拶を交わしながら、
風の匂いや、鳥の歌声を感じながら、歩き続けられれば言うことはありません。

と、思いました。

神秘

2005年05月11日 | スピリチュアル
今、ブログはものすごい勢いで増え続けていますが、
試しに「精神世界」や「滝行」というキーワードで検索してみましたら、
おびただしい数のブログがありました。

みな求めて、求めきれず、迷ったその先が見えないといった感じです。
このブログなんかまさにそうなんですが(笑)

即身成仏にせよ、煩悩即菩提にせよ、色即是空、空即是色、すべてその通りなのだと思います。
想念はその通りだと思っても、すべてを投げ出してそこに行こうとしない「我欲」が、
最後の最後までじたばたします。
じたばたしているうちに、年を取り、ため息をつき、天を仰ぎます。

「我欲」のゲームには、仏様のおっしゃるとおり、苦しみが付き物です。
幾ら苦しくても、そのゲームに参加し続けることを、諦めきりません。
それだけ、そのゲームは、魅惑的で、心をひきつけます。
魅惑こそ悪魔の囁きであり、心こそ妄想だと、仏様はおっしゃいます。
その通りなのだと思います。

その通りだと思いながらも、ゲームに参加しつつ、弥陀の誓願を一心に信じるのが、真宗なのでしょう。
ゲームに参加することをきっぱりと捨て、心身脱落、空を観じ、空に座するのが禅宗なのでしょう。
ゲームをゲームと割り切り、心身の修行により、仏の意に沿いきることによって、
仏と一体となるのが密教なのでしょう。

どの道も、仏の世界に確かに通じているのでしょう。
ところが、我々凡夫には、自分の足で歩むには、どの道も険しすぎ、複雑すぎるように見えてしまいます。
自らは、これ以上複雑なゲームはないというほどの複雑怪奇な「我欲のゲーム」には、
喜んで参加しているのですが。

その通りだと思いながらも、その通りだと思う世界に入れない苦しみ。
これを地獄というのかもしれません。

しかし、家族や伴侶を愛し、その平安を願う心、現実の世の中で立身出世を願う心、おいしい自然の恵みを
食べたいと思う心。
それらの心を、煩悩として断ち切る勇気は凡人にはなかなかもてません。
執着しなければ言いといわれても、執着をなくして、世界に参加することはなかなか至難の業です。

だからこそなのでしょうが、古来からの修行は一度心身が死んでしまうような神秘的体験を求めます。
一度死んでしまえば、執着に執着する心が脱落するのでしょうか。

「ありのまますべてが仏だ」と知るために、すべてを捨てるという道を通る。
ここが我欲のゲームのロジックでは、絶対に解けない神秘なのでしょうね。


新緑

2005年05月10日 | 雑感
久しぶりに外に出て働くと疲れます。
二件のお家に行ったのですが、一軒目で1万2千円の日本酒をいただき、
二件目で珍しい韓国の焼酎をいただきました。
ありがとー>二件目のMさん(笑)

でも、動くだけ動くとやましさが消えます。
銀行に支払いを延ばしてもらったのですが、びくびくせずに電話できました。
担当者の態度が感じ悪かったのですが、きっぱり支払いを延ばしました。←威張ってどうする

なんかこういう状況だと、占いと言うものに興味を持ちます。
自分に金運というものが全くないのならないで、別の道を探せます。
金運があるんだか、ないんだか、よく分からないから困ります。
と、ここまで書いて、備わった運を無駄に放り投げてきたのだということを再確認します。
ぐたぐた言わず、がんばります。←予防線を張るのがうまくなりました

新緑の木陰に入ると、五月らしい涼しい風が吹きます。
アスファルトの上に立つと、途端に不愉快な熱が照り返します。
透湿性のアスファルトというのが開発されているはずです。
何で日本みたいな湿度が高い国に、国中べっとりとアスファルトで覆ってしまうのでしょう。
車のためではなく、生活する人のための国づくりを考えないといけませんね。
幹線道路はアスファルトでいたしかたないとしても、住宅地は透水性のレンガみたいなもので
道を敷き詰めれば、見た目も、涼しさもかなり改善されるはずです。
そういう公共工事を率先してする国が、先進国と呼ばれるべきですね。

近い将来、人口が激減します。
土地にゆとりも出来てきます。
コンクリートやアスファルトで際限なく国を覆っていく行為は本当に止めて欲しい。
無駄に放置されている杉をどんどん利用して欲しい。
水路を活かして欲しい。
と、暑くなる季節がやってくるたびに思います。

ところで、風に揺れる新緑の葉をそよぐのをじっと見てみてください。
喜びを感じているのが分かります。
比喩ではなくて、本当に喜んでいます。
風と会話しています。
人間の悪口を言っているに違いありません。

とりとめなく、あいすみませんであいた。



商売Ⅱ

2005年05月09日 | 雑感
今日は半年ぶり位に外に出てお客様のところへ行きました。
資金繰りに詰まってきたからです(笑)
あいにくお目当てのお客様は留守で、別のお客様のところへ行きました。
3時間くらい庭に咲く花や、役所のいい加減さなどについて話をしましたが、
気に入っていただく商品はありませんでした。
シャープな感じのブローチが欲しいと言うことでした。
こうして商売のネタを仕込んで行きます(笑)

今乗っている車が調子が悪く、車検も近いので、知り合いの整備工場に持って行きました。
代車の軽に乗って久しぶりに仕事で街を走ります。
道を流れるように走る車に乗っている人たちも、大方は仕事中なのでしょう。
当たり前ですが。

ここ1年ほどいつも店にじっと座って、コーヒーを飲んだり、お客様と冗談を言ったり、
インターネットで遊んだりしていました。
今月から週に2回ほど女の子がアルバイトで店番をしてくれるので、そういう日は外に出ることにしました。
そうです、仕事をします。

外に出ると、考えることが現実的になります。
詩が書けなくなります。
現実に追い込まれると、怠け者のぼくは、異常にストレスを感じます。
途端に、逃げ出したくなります。
状況が、逃げ出せる状況ではないので、諦めて立ち向かうことにしました。
どうせなら、現実に追われるのではなく、現実をコントロールする立場に立たなければ面白くありません。

端的に言って、仕事上の現実はイコール金策です。
どうもすんなりやる気になれないのですが、やるなら成功しなければ意味がありません。
今まで克服できずにいた最大の難関です。
この期に及んでの挫折や逃走はしないつもりです。
難関をうまく超えようと思うのではなく、超えるまでやればいいだけの話なんですが。
その辺がどうも小ずるくて困ります。

明日は海峡を渡って集金に行きます。
10年来のお客様です。
耳も遠くなり、商品の値段を言ったそばから忘れてしまいます。
仕方が無いから、メモに書いて渡します。
それでも、「で、それは幾らなんだい?」と最低5回は聞きます。
そういうお客様に集金に行って、物を売ろうとするのはどうかと自分でも思います。
お客様の顔から笑顔が無くなったら、行くのは止めますが。

また商売の話になってしまいました。
仕方が無いんです、今余裕が無いんですから。