風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

食糧危機

2008年04月19日 | 世相
食糧危機が現実化してきましたね。
穀物をエタノール燃料として転用するという馬鹿げたことが進展しています。
金になる穀物を植えるためにアマゾンの森林が大規模に伐採され、温暖化が加速されます。
穀物が値上がりすれば、それを飼料とする家畜の値段も上がるでしょう。
どう考えても馬鹿げたことが進行しています。
あるコングロマリットが増えすぎた地球上の人口を10億人程度まで削減するために、
意図的に食糧危機を起こしているという噂も、あながち荒唐無稽ではないように思います。

環境問題というのも、環境問題という名目の利権がすでに派生しているみたいです。
環境を守るためにという名目で、どの国も国家予算を使わざるを得ない状況になっています。

こういう状況に対して、国連とか各国政府とかが口裏を合わせているかのように無策です。
やれやれです。
国連や政府が無策であろうとも、一人一人の人間は無策でいるわけには行きません。
環境が破壊され、食料の収奪争いが起きるであろうことを、黙って見ているわけには行きません。

どうすればよいでしょうか。
地域の食糧自給力を上げることと、質素な食事に慣れることでしょう。
ご存知の通りに長年放置されてきたせいで日本の森林は荒れ放題です。
森の健全な植生を復活させることで、食料も水もより豊かになるはずです。
森が活力を取り戻し、川に豊かな養分を含んだ水が流れるようになると、海も豊かな漁場となるみたいです。

それから、質素な食事ということです。
人間が必要とする栄養分というのは、対外から取り入れることに慣れてしまうと、
体内でその栄養素を合成する能力が衰えてしまうそうです。
肉食に慣れてしまうと、野菜だけでは肉体の活力を維持するのは困難になるでしょうが、
しばらく野菜だけの生活をしていると必要な筋力も持久力も充分に身に備わります。
特に牛肉というのは牛を育てるために大量の穀物と森林を切り開いた草原が必要になりますから、
ただでさえ狭い日本に普及させるのはこれからは無理になると思います。
どうしても食べたい人のための特別なご馳走という感じになればいいかと思います。

ぼくの百日間の肉断ち経験から言いますと、肉を食べなくてもそれこそ何の問題も起こりません。
久しぶりに肉を食べると、毒素が身体に溜まる感覚があるほどです。

温かいご飯と、具沢山の味噌汁と、納豆か何か一品あればおそらく健康な生活が送れるとぼくは思っています。
ただし、調味料なんかはできるだけ添加物のないものでないとだめでしょう。
最近は手作りのミソなんかも簡単に手に入るようになりましたから、いい傾向だと思います。

そう考えれば、国連や国が無策であろうがなんであろうが、ある程度は自衛できるかと思います。

グローバル化の名の下に、怪物化した資本は地球の資源を次々とターゲットにして食い荒らすでしょう。
誰がなにを言おうが、しようが太刀打ちできる相手ではありません。
日本の国もそんな流れにいったん飲み込まれるでしょうが、見事に国土を復活させてやりましょう。


宮沢賢治

2007年07月05日 | 世相
今朝4時ごろ目が覚め、焼酎を飲もうか、滝に行こうかの二者択一です。
で、どんな水量になっているのかにも興味があったので、滝に行きました。

久しぶりに大水量の滝でした。
以前、100日行に入ったとき、4回だか5回だかの台風が来て大水量には慣れていたはずですが、
久しぶりなので少し緊張します。
まず、音が普段とは全然違います。
お堂でお経を唱える声もかき消される感じになります。

今日の滝は、なんか「揉まれる」という感じでした。
まず、滝場の周囲の仏様に線香を上げて回るのですが、水に足をとられて流れの中に転びました。
服はずぶ濡れになり、肘と腰を川底の石にしたたか打ち付けました。
めげずに服を滝着に着替え、作法を続け、大水量の滝に入りました。
轟音の中から、時折、誰かが叫ぶ声が聞こえます。
それにもめげずに、滝に打たれ続けます。

最後は、気持ちよく滝から上がりましたが、まぁ、なんとなく日頃の溜まった「厄」というか、
「澱」というか、そういうものを流してくれたんではないかと思いました。
濡れた服に着替えて車で帰ったわけですが、暖房を入れずにいられませんでした。
それでもまだ身体は冷えていて、帰り着くなり熱いシャワーを浴びました。

朝食を食べて、出勤まではたっぷり時間があるので、布団にもぐりこんで、
古本屋で買った宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読みます。
昔、読みかけてちんぷんかんぷんで放り出した本です。
もう、なんという愛しい本なんだろうか、と今回は思いました。
理屈で読む本ではなく、心の奥底の感情で読む本だったんですね。
高校生のころから宮沢賢治が好きって言っていた人は、ある意味天才だったんじゃないかと今は思います。

そこで描かれる舞台は、ぼくの生地と距離的にはとても近く、懐かしい言葉と情景です。
忘れていた子供のころの繊細極まりない心の動きを少しだけ思い出しました。

早く亡くなり、顔も見たことがないのですが、ぼくの母方の祖父が宮沢賢治と親交があったという話は聞いたことがあります。
祖父も児童文学を書いていたらしいです。
ぼくの父親が資料を集めて、その辺りのことを説明してくれたことがあるのですが、
そのころのぼくはあまり興味がわかずにふんふん聞き流していました。
改めて話を聞いてみたいと思うのですが、その父も今ではボケが進んでいて、それも不可能でしょう。
なんでも祖父も酒の飲みすぎで早死にしたらしいです。

過ぎてしまえば、人の一生は切ないほどにあっけないものです。
憶えている人さえいなくなります。
それでもいいのですが、それでもいい人生だったと心から思って死にたいですね。


先物

2005年11月08日 | 世相
昨日古い友人が訪ねてきてくれたので、つい昔のペースで酒を飲みました。
ちょっと前まで酒が残っていて、往生しました。

しばらく鳴りを潜めていたのですが、先物取引の勧誘がまたしつこくなってきました。
まず本人か本人の兄弟がぼくの高校の後輩だということで電話をかけてきます。←もちろんウソ
で、近所に来る用事があるから挨拶に来たいという手法です。

何年か前、見事に騙されて会ったわけですが、ぼくの後輩のはずなのに、高校の話は一切しません(笑)
勢いに任せて、とにかくしゃべるわけです。
勢いで契約してしまう人もいるんでしょう。
あくまでも契約を断ると、悲しそうな顔をします。
一契約いくらで、かなりの額の歩合を貰い損ねるからでしょう。

もう、気合だけで人様の金を分捕るという仕事ですね。
これだけ気合と情熱があれば、他のまともな仕事をしたほうが余程収入にも、出世にもなるだろうにと思いますが、
彼らはそうは思わないのでしょう。

今日も飛び込みで先物セールスマンが来ました。
物腰ですぐに先物セールスマンだと分かります。
名刺をくれたのたので、すかさず「先物でしょ?興味も金もないから話はいいよ」と言ってやりました。
そういう断りの話は耳を貸さないという彼らのマニュアルどおり、灯油がお勧めだとか何とか話し出します。
「話は聞かないよ」と3度はっきり言ったら、ようやく話をやめました。
では、名刺だけでも下さいと言うのですが、名刺は切らしていたので、名刺は切らしていると言いました。
彼の顔が少しびっくりしています。
多分ぼくが意地悪していると思ったのでしょう。
その時にちょうどお客さんが入ってきました。
彼は、机の上にあった彼の名刺をひったくるようにして取ると、店を出て行きました。

彼らが世の中をどういう風な目で見ているのか、少しだけ興味があります。
元気溌剌に、世の中にだぶついているお金を毟り取るということなんでしょうか。
彼らを見ていて、ちっとも不快にないのは、彼らに罪悪感がないからなのでしょう。
なんだかもったいないなぁとはいつも思います。
ぼくの扱っている商品を、彼らの情熱で売れば、彼らはすぐにでも金持ちになれるのに、と思います。

なかなか世の中は面白いです。
みな何かを過剰に持っており、何かが欠落しています。
具足円満への道のりはそれぞれ辛くて遠いものなのでしょう。
勘違いを積み重ねて、それでも一歩一歩前に踏み出していかなければなりません。
勘違いを勘違いと知るまでが長いんですね、これが。

ぼくなんかちょっと肩を叩けば、勘違いが肩からばさばさ地面に落ちます。
頭を叩けば、やっぱりばさばさ落ちます。
どこもかしこも勘違いだらけです。
勘違いで全身を簀巻きにしているようなものです。

ま、頑張りましょう。



メディア

2005年11月05日 | 世相
今朝は一週間ぶりの滝行でした。
水の冷たさに体が慣れるまで、少し時間がかかりました。
これから冬に向けて、週一日ではだめかもしれません。

で、フランスでの暴動、8日経っても収まらず、1200台の車が破壊され、身体障害者の女性が焼き殺されたそうです。
移民の鬱積したストレスが暴発しているのでしょうが、事件の詳細はどこかで報道されましたか?
いろいろな問題を含んでいますよね。

・パリとその近郊での暴動を治安当局が一週間以上にも渡って収めることができないという事実
・移民と地元住民との軋轢
・警察権力の移民に対する対応
・発端となった事件の詳細
・女性が殺された理由

パリだったら特派員も大勢いるだろうし、ロンドンからもすぐ行けるだろうし、
どうして事件の詳細が伝わってこないのか、不思議というか、相変わらずというか・・・

殺人が主体ではなく、車の破壊ということが主体だとすれば、
武器を持った暴徒ではなく、一般市民が暴れているのでしょう。
ぼくがジャーナリストなら、張り切ってパリ市警と暴徒にインタヴューを取りに行くんですけどね。

北朝鮮に亡命して昨日帰国した女性のテレビ朝日のインタヴューも見ましたが、
その女性の異様さに加えて、インタヴュー自体からして明らかに異様ですよね。
そもそもなぜ亡命したのかという理由も聞かないし、コメンテーターは歯切れが悪いこと甚だしいし。
監禁状態にあったという当の女性に、数ヶ月前、あの北朝鮮でテレビ朝日は独占インタヴューしているし。
監禁状態の女性に日本の一民間テレビ局がインタヴューを許すような北朝鮮ではないことは誰でも知っていることなのですが。
なにもかも、水面下で取り決められた茶番だともろ分かりです。

ま、いつものことですけど。

それから、ネット上では、関西のジェンダーフリー論者の女性が、地元民の涙ながらの制止の懇願を振り切って、
女人禁制の奈良県天川村の大峰山に登頂したことが話題になっています。
後でお互いに話し合いをしようと取り決めておいて、地元民がその場を離れた隙に目を盗んで登頂したのだそうです。

大峰山は修験道のメッカで、1300年ほど前から女人禁制を貫いてきました。
男でも奥駆けと呼ばれる修行には、壮年の男でも命の危険が付きまとう厳しい山です。
己の煩悩と命懸けの戦いを挑む修験の山に、なぜ禁制だからという理由だけで、彼女らは結界を破ってまで
山に入らなければならないのでしょうか。

宗教に合理性を求めるほうが無理というものです。
その実、宗教を知れば知るほど深い合理性がある気づくこともあるのですが、
頭から宗教なんて迷信だと思っている人に、どんな説明も通用するわけがありません。
また説明する必要もありません。
違法行為をしない限り、信条信教の自由を「お互いに」尊重するのが民主主義です。

策略ばかりです。
政治的な策略を暴くのがマスメディアの特性だろうに、メディア自ら策略を弄する姿が目に付きます。

正々堂々した議論からしか、正々堂々とした民意は育まれるわけがありません。
何を報じ、何を報じないのかはメディアの特権です。
その特権を独占的に利用して、民意を操ろうとして恥じない勢力が予想以上に根深くあちこちの団体やら組織に巣食っています。
ここではこれ以上書きませんが。






流れ

2005年09月13日 | 世相
政治状況だけではなく、どうも大きな流れの曲がり角であることは間違いなさそうです。
仕事の環境の変化もそうですが、出会う人との会話の内容も、人々の好奇心の向かう方向性も、
みな一様に未来にあるべき姿を模索始めたような気がしています。
変化を望まぬ者は、変化を恐れますし、変化を望む者も、その行方を把握しきれずに、戸惑っているところでしょうか。

こういう時は、受身一辺倒では時代の流れに太刀打ちできません。
積極的に、流れの一端にでも参加しないと、取り残されます。
で、どんなエネルギーが、どんな方向に流れ出しているのかがわからないと、
参加すべき流れの一端さえ見つからなくなります。

落ち着いて、身の回りを観察してみます。
いつもと変わらぬ風景が展開しています。
でも、そのなかに今まで心のどこかで気になりながらも、見過ごしていた何かがあるはずなのです。
それが何なのかは、その人自身が、探し当てなくてはいけません。
パートナーとの関係なのか、隠されていた趣味なのか、自然と向き合うことなのか、仕事の方向性なのか、
それは、その人それぞれのオリジナルな意識で、再発見されることを待っているはずです。
それは、決して、目新しいものである必要はないと思うのです。

こういうときは、事象を安易に記号化(レッテル張り)してはいけません。
善悪、損得、美醜、と物事を安易に二分しないでください。
あの人は○○だという前に、その人を深く感じることが必要です。
この出来事は○○だという前に、その出来事の意味をじっくり味わう必要があります。
身の回りで起きるあらゆる出来事の意味を知る必要があります。
自分に関係のないことは、自分の身の回りには起きません。

自己防衛のために、感情を、好奇心を、正直さを、勇気を押し殺すことに慣れすぎた人間は、
ありのままの人間になれることを思い出さなければいけません。
ありのままの人間が、ありのままの流れを理解しないと、流れは暴力的な激流にしか見えなくなります。
流れの意味を掴み損ねると、その人は激流に呑み込まれてしまいかねません。

手放すことを覚えなくてはいけません。
今での考え方、感じ方、行動の仕方、ものの言い方。
考えて嬉しくなること、感じて楽しくなること、行動して人が喜ぶこと、言って感謝されること。
それが、流れに沿った行為・行動の指針と言えるかもしれません。
流れに沿わないと感じたら、ためらわず過去の行動様式は捨てたほうがいいかもしれません。

手放す感触を掴むためには、伝統宗教のノウハウを借りるのがもっとも効果的かもしれません。
「禅」は、後から後からわいてくる雑念に徹底的に取り合わないという工夫を通じて、
雑念以前の自分(本来の面目)を知ろうとします。
「念仏」「祈り」は、念を一転に集中することにより、雑念からの干渉を離れた境地に進もうとします。
「滝」は、心身を完全に水流に委ねることにより、五感と意識(六根)の純一化を体験しようとします。

なんにせよ、漫然と流れる日常の意識の流れに乗って時を送っても、こういう時代はどこにも行けなくなります。
個々人の望みや観念の意味というのは、時代の変動期には相対的にその価値が著しく低下します。

厄介な時代だと取るか、楽しい時代だと取るかは、人それぞれでしょう。
ただ、人がその流れをどう解釈しようが、流れは流れ続け、抵抗するものは押し流され、
流れに乗ったものは、そのダイナミズムを感じることが出来るのではないかと思います。

何一つ根拠のある話ではありません。
ただのぼくの思いつきのままだらだら書いているものです。
でも、思ったことをそのまま書くということが、ぼくは大切だと思うわけです。
それが流れに沿った行為なのかそうでないのかは、天のみぞ知るということで、
ぼくはいいのではないかと思っているわけなんです。


農村ビジネス

2005年08月31日 | 世相
どうも体調が悪いです。
酒のせいかもしれません、それほど量は飲んでいるつもりはないんですが。
飲めなくなるのはいやなので、少し減らします。←口だけ番長

東京で、選挙演説の最中、若い男が候補者に暴力を振るって逮捕されました。
何でも、名前の連呼ばかりで、政策を語らないことに腹を立てたのだそうです。
この若い男に同情してしまいます。
政治に興味を持ち、どんなヴィジョンがあるののかと聴いてみようと思い立ち、
聞いてみれば名前の連呼。
これじゃあ、ふざけんな、ひっこめ、ばかとぼくでも言いたくなるでしょう。

あの選挙カーの名前の連呼は腹が立つだけです。
夜勤で昼に寝ている人や、赤ん坊を寝かしつけたお母さんにとっては、殺意さへ沸くでしょう。
選挙運動の方法って、どうにかならないもんなんですかね。
広場を開放して、日替わりに候補者の演説を聞けるようにするとか、公共のホールで討論会をするとか。
真昼間に選挙カーでがんがん喚いたって、そんなもの勤め人やら学生は聴こうったって聴けないんだし。
選挙に行こうキャンペーンってどうも本気でやっているようには思えません。
投票率を高めたくない、組織票だよりの人々の思惑が働いているのでしょうか。

ところで、話は変わりますが、農業をビジネスとして取り組む何かいい方法はないかと考えています。
ただ作物を作るだけでは、報われない重労働と、低収益性に泣くことになります。
付加価値を高め、既存のルートではない方法が必要です。
ちょっと考えていることがあり、実験段階に踏み込もうかと思っています。
唯一の心配なところは、ぼくの怠け病です。
まぁ、だけど、やってみます。

農業ビジネスで大事なことは、近辺のジーさん、バーさんにフルに手伝ってもらうことができると、
非常にコストパフォーマンスが良くなります。
また、ジーさん、バーさんでもできることでないと、農村部でビジネスはできないことだと思います。
少子化の今、若者を農村に縛り付けておくのは土台無理な話です。

農村に限らず、漁村というものにも、もっと可能性があるように思うのですが、
漁村に関しては知らないことが多すぎます。
いつかイカ釣り船かなんかに乗ってみたいと思ってはいるのですが。

農村にしろ、漁村にしろ、そろそろ垢抜けて欲しいです。
自然はおしゃれだと気がついて欲しいです。
今最もドンくさいのは、都市部です。
時間に追われ、金に追われ、流行に追われ、心が貧乏です。
田舎に住んでいる人の豊かさを再発見することができれば、農村ビジネスは成立します。

楽しみだなぁ←ヒトゴト


町おこし

2005年07月16日 | 世相
今朝は2週間ぶりに滝に行きました。
水量が多くて体全体ががくがく揺さぶられましたが、気持ちはよかったです。
導師の言うとおり、水量の多いのをそのまままともに受けると、さすがに疲れが出ます。
嫌な感じの疲れでは全然ないのですが、なんかだるい感じが残ったまま、仕事に出ました。

街は祇園祭りです。
山車が街の隅々まで練り歩き、太鼓の音に混じって子供たちの囃子の声が聞こえます。
子供のころ見た風景というのは、その子の原体験になっていきます。
今の子達が、この不況の街で何を見、何を感じているのかは知る由もありません。
それがいい思い出となって、今の子達のその子供たちまで祭りが引き継がれていく
原動力になればいいと思います。

ぼくは東北の田舎に育ちました。
幼いころ、そんなド田舎の町内でも、山車を引いた祭りがありました。
山車を引くのに参加すると、なんやらかんやら食べ物やら飲み物がもらえました。
小僧小娘一同こぞって参加しました。
気がついたら、その祭りもなくなっていました。
今となっては、どこの神社に奉納する祭りだったのかも定かではありませんが、
たぶん大人になって行ってみてそのあまりにもな荒みように驚いたことのあるあの神社だと思います。

祭りも消え、産土の神社さへもお参りする人がいなくなるような土地で町興しなどできるはずがないと
ぼくは思います。
うちの父親なども参加して、さんざん町おこしのプランを練っていたようですが、
どれもこれもものになりませんでした。
田舎の町おこしには大体二つの流れがあります。
土建屋と結託した箱物プラン。
文化人の名前を利用したトラの威プラン。

こんなものはだめだめです。
町そのもを死なせといて、箱物作ったところで誰が来ますか。
産土の神様ほっといて、著名人を参拝するなんてのはナンセンスです。

で、人が来たので、今日はこれまで。









テロ

2005年07月11日 | 世相
本来なら、今日からロンドン、ローマに行く予定でしたが、気が進まなくて先週キャンセルしました。
そしたら、ロンドンでテロ事件が起きました。

弱者が強者に武力的に立ち向かおうとすれば、今日ではテロという手段しかないでしょう。
小勢力の軍隊が強国の軍隊に立ち向かって勝ち目はありません。
いくら卑怯だといわれようが、無差別に爆弾を仕掛け、あるいは自爆します。

強者と弱者の武力に差が大きく開き、強者が弱者の声を拾わなくなった時、テロは生まれます。
憎しみの連鎖は拡大し、ますますテロの土壌は広がります。

「平和、平和」の念仏は、死を覚悟したテロリストには無意味です。
自分の命が消えても、テロの理念に共鳴するものが一人でもあとに続けばいいと、彼らは思っているからです。

外部の人間の言葉は無意味でしょう。
イスラム教徒がイスラム教徒を説得する以外には道はないと思います。
イスラム教徒も各派に分裂し、いがみ合っていますが、その足元の崩れがキリスト教徒や仏教徒の無関心を呼んでしまいます。

パレスチナの問題にしても、善悪の問題では捉えられません。
歴史の積み重ねと、プライドと、利権がぐちゃぐちゃに絡み合っています。
単なる政治的・思想的理念ではとても仲介できないほどに、問題が絡み合ってしまっています。

歴史を遡った根本的解決などありえないように思えます。
これからどうするか、で理念を共有する以外にないはずです。
理念を共有することを阻むものは何か。
テロや内戦により身内が殺され、友人知人が殺され続けていくと、ますます理念を共有するどころか、
憎しみと殺意が拡大していきます。

この問題は、放置すれば収まるような話ではありません。

新たな救世主が必要なのかもしれません。




不登校児

2005年07月07日 | 世相
昨夜も深夜目が覚め、眠れそうにもないので焼酎のお湯割を作り、テレビをつけました。
番組の途中からでしたが、岡崎市の寺の住職が不登校児を引き受けているドキュメンタリーをしていました。
虐めやら、引きこもりやらで不登校になった少年少女が、共同生活しながら、寺の地元の学校に通い、
そこから進学やら就職やらの道筋を見つけ出していく、という筋書きです。

少年や少女の大半は茶髪やピアスといったお決まりの姿です。
子供から大人になりきれず、真面目と不真面目の境も曖昧のままに、世に出て行く不安が隠せません。
住職は慕われていました。
そういうことには敏感なはずの少女たちも、平気で住職と手をつなぎ、抱擁しあいます。
そういうスキンシップに飢えていたのかもしれません。

立ち直り、福岡の学校に通い始めた少年が、寮で同室の同級生から虐めにあっているといって、住職に相談に来ていました。
住職は、じゃあ俺が一緒に学校に行って、校長でも寮長でも誰とでも掛け合ってやると約束しました。
その少年は、次の日自宅で首を吊って死にました。
葬儀の時、住職も、寺で共同生活していた仲間も、気持ちを分かってあげられず、何もしてやれなく、申し訳ないと泣きました。

住職は、二人きりで住む盲目の夫婦のところにも、毎日のように食事を届けてあげています。
住職がその夫婦のところに行くと、決まって部屋に電気はともっておらず、二人ともコタツに寝ています。
住職は快活に声をかけ、弁当を温め、お茶を入れてやります。
盲目の夫婦は、それを黙って食べ始めます。

昔同棲していたボーイフレンドから携帯に電話があり、たまらず寺を出て行こうとする少女もいました。
仲間から辛いのはあんただけじゃないのよと諭されても、住職から甘えるなと叱られても、結局彼女は寺をあとにしました。
住職は彼女を駅まで送っていく道すがら、やるだけやってみろ、行き詰ったらいつでも帰って来いと、
彼女の手を握りながら言っていました。

若い少年少女が次から次とやってきて、ごちゃごちゃ暮らし、その面倒をみるだけでも大変なのに、
進路の相談、傷ついた心の癒し、誕生日を迎えた者に対する心遣い、季節の行事、目が回るような毎日だと思います。
この住職の、少年少女の姿を、テレビの画面で見ているだけの者は、言葉がありません。
当事者にとっては、絶望か、希望かの瀬戸際を歩いているはずなのです。
画面に映るどたばたした日常に中に、繊細な心が波打ち、不安と疑心が湧き上がり、欲求不満が爆発しそうになっているはずなのです。
住職は、そんな少年少女の変わりやすい心を、祈る思いで見守っているはずなのです。

これは善行などというものではなく、ともに苦しみ、ともに引き受けるものができる菩薩行です。
ありとあらゆる矛盾がその住職の行為からは生じてくることでしょう。
心無い視聴者なんて、何とでも言うのです。
人を簡単に批判し、侮蔑する類の人間がこの世の中には確かにいます。
その矛盾さへも引き受ける覚悟がなくてはできないことです。

季節は巡り、寺の境内にも桜吹雪が待っています。
少年少女もその景色にさすがに感動したのか、携帯のカメラに収めます。
何年か何十年かしたら、その写真を見るとき、彼らもまた、人に手を差し伸べずにはいられない
覚悟のある人間になっていることだろうと思います。








反日

2005年04月16日 | 世相
決算の準備が手につきません。
領収書も紙袋の中にぐしゃぐしゃに放り込んでいるままだし、売り上げの集計も手付かずです。
寝不足のまま滝行に行ったので、頭が尋常じゃなくボーっとしてます。
それなのにお客さんがちらほらきていただき、長い間お話をされます。
ボーっと聞いて、愛想笑いをしてました。

中国のデモはどう収束するのでしょうか。
小泉首相が靖国参拝を止めるわけもなく、検定を通過した教科書に文句を言われる筋合いもありませんし。
第一、彼らは日本の教科書なんか本当に読んでいるのか?
ぼくらだって現行の教科書を読むことなんてありませんし、ましてや他国の教科書をや。←反語
逆に、中国と韓国の教科書の内容を伝え聞くところによれば、なんというか、すごいものでして。

いずれにせよ、こういうメディアコントロールによる外国勢力からの工作活動に対しては
日本の外交当局というものは、唖然とするほど無力無能なわけでして、
今が目を覚ます転換期であることは間違いないところです。

取るに足らぬ噂や、捏造を、いずれ話せば分かるとタカを括って放置してますと、
どんどん炎が大きくなり、手がつけられなくなることもあります。
そういう噂や、捏造がある意図を持って、ある勢力が広めようとすればなおさら事態の収拾が困難になります。

中国や半島と敵対する理由は少なくとも日本側には全くありません。
つまらぬ誤解や曲解は、どんどん火消ししておくことが肝要です。
世界が注視している中で、堂々と違うことは違う、認めるべきは認める、そうやって事実認識の基盤をある程度
共有しておかないと、わけの分からぬ反日という情動が、お互いにまともに対話することさえ不可能にしてしまいます。

もはやイデオロギーが世界を変革するエネルギーはありません。
そんなこと(知的遊戯)をしている時間は、今の地球に残されていません。
新潟で、スマトラで、福岡で地震が起き、三宅島や阿蘇山が活動を始め、地球がぶるぶると身を振るって、
表面にこびりついた汚れを振り払おうとしているかのようです。

アセッションという言葉があったと思います。
人類の意識レベルが一段階上がるということだったと思います。
意識レベルがどのような方法で、どのような方向に引き上げられるのかは知る由もありません。
現実の世界では、大混乱、大破壊という過程を経るのかもしれません。
来るかもしれない大破壊を嘆き恐れるのではなく、その大破壊を招いている張本人が自分たちなのだという自覚こそが必要なのだと思われます。

それにしても、いまダライ・ラマが来日中のはずなのですが、
メディアは全くの沈黙ですね。
こういうところが、いらぬ誤解と曲解と工作を生む土壌なんですけどね。







税金

2005年04月04日 | 世相
3月決算なので、そろそろ一年分の経理資料の作成に取り掛からなければなりません。
毎日は無理にしろ2-3日に一度、コンピューターに入力すれば、何てことないのですが、
一年分をまとめて入力しなければならないので、なかなか面倒です。
細かいところは忘れていることも多くなりましたし、収支を合わせるのが大変です。

去年から晴れて(?)税金を納めるようになりました。
なけなしの経常利益が、ばっさりと取られます。
経常利益には売掛金も含みますので、手元にお金がないのに、容赦なく税金は取られます。
その上、初めて知ったのですが、12月になると、来期の予想納税額の半分を前納として収めなければならないのですね。
つまり、5月に3月末決算に基づき、利益の約半分が持っていかれ、12月にさらに来期分のの前払いとして利益の20%
位持っていかれるわけです。

簡単に言うと、利益を出しても、利益の60%くらいは税金に取られます。
経費を切り詰め、給料をまともに取らず、やっと利益を出しても、税金で取られます。
うちみたいな零細企業は、運転資金の確保に追いまくられ、少しでも多く手持ち資金を残しておきたいのですが、
事業を大きくしようとすればするほど、税金の負担が大きくなるシステムになっています。

もちろん、どの企業もこういう厳しさを耐え抜いてこそ、一人前の企業に育っていくのは承知してますし、
税金は国家基盤を育成維持するためには払う必要があります。

ただ、こうなると黙っていられないのは、税金という大甘な砂糖に群がっている輩の好き勝手し放題です。
何をしているのか分からない特殊法人、第三セクターという無責任体制によって、勝手気ままに街を破壊していく
無用の箱物群、機構によって社会保障という隠れ蓑に跋扈する自称弱者たち、人里離れた山々に、
人の目を盗んで作られた無用の林道や防砂提やあれやこれや。
もっともっと上げればきりがなく、官僚たちはそういう税金食いつぶしシステムを管理している張本人であり、
情けないことに、そういうシステムのおこぼれを犬のように貪る政治家と結託しています。

たまりませんね。
国会議員に対する目はやや厳しいのかもしれませんが、地方自治体の政治家や行政の胡散臭い不可解な裏取引に関して、
人々の目はほとんど無関心です。
このまま地方分権なんてことになったらと思うと、心からげんなりしてしまいます。
一部の土建利権を握った人たちと、それと結託する田舎代議士の好き勝手にされます、間違いなく。

そういう人たちは、今最も緊急な課題と思われる「教育」とか地方独自の文化的独自性とかいうものには無関心です。
金になりませんから。
政治を住民の手に取り戻さないと、気がつかないうちにどんどん嫌な世相になって行きます。
荒廃しているのは大都会ばかりじゃありません。
いやらしさの上では、地方のほうが腐敗度が高いかもしれません。

どうしたらいいか。
とりあえず、現実の情報把握と、一人一人の意識の変革からでしょう。
間違っても、誰か優秀な政治家を選べば、世の中が変わるなんて幻想は持たないほうがいいです。
一人一人の政治、社会に対する意識と監視。
これを鍛えていくしか道はないと思うのですが。

お金

2005年03月22日 | 世相
先週の木曜日からバーチャル株式投資をしています。
1000万円の資金を投資して、資産の増減をバーチャルで楽しむインターネット上のゲームです。
株価は実際の株価とリアルに連動しています。
まだ実質3日間の取引ですが、現在の資産総額は10,078,265円です。
つまり、78,265円儲けています。
1万6千人ほどの参加者の中で、8千番位のランクに入りました。
わずか数万円の資産の増加で上位50%の中に入ってしまうのですから、殆どの人が損しているのでしょう。

世界的に資金の流れが滞っているようです。
健全な生産活動に健全な資金が流れていません。
もちろん市井の人々の話ではありません。
資本主義が1980年代ころからアメリカを尖兵として新たな段階に入ったようです。
金が金を生む仕組みがインターネットをツールとして容易になってきました。
ライブドアがその典型ですね。

嫌な世の中ですが、この流れは何らかの大きな破綻があるまでは続くでしょう。
世の中に不公平感が広がっていくでしょう。
お金のあるなしだけの話ではなく、教育的不均衡、地域的不均衡、機会的不均衡が拡大していきそうです。

お金というものに対しては常に距離感を感じていました。
どううまく受け入れていいものか、分かった試しがありません。
必要だから、稼ぐ。
こういうお金に対してポジティヴでない人間はお金持ちにはなれません。

じゃあ、お金持ちになりたいのか。
なかなか難しい問題です。
お金で苦労はしたくはないが、お金で振り回されるのはもっと嫌だ。
そんなところです。
頭が悪く、スケールが小さいですね。
先回りして、とっととお金を作ってしまえば、こんな愚痴をたらたら言う必要はないわけです。

お金の難しさは、立派に生きればお金がついてくるわけでもなく、
追いかければ追いつくわけでもなく、逃げたら悲惨になるだけです。
どうしろというのか?
ここで僕はお手上げです。

で、成功した人の話に耳を傾けるわけです。
斉藤一人さんは「仕事は成功するための舞台」と言ってます。
納税額日本一の人なんですが、そういう人もお金を追っているのではなく、「仕事」を追っているのですね。
八木宏之さんという人は「円はすなわち縁。お金は縁をつなぐ道具だ」と言ってます。
結局は、自分とかかわる人間関係を豊かにした人に、お金がついて来るということなんだろうと思います。

お金だけに目を向けている人は、もっとも肝要な人間関係をすっ飛ばして、果実だけに目を向けているのですね。
水をやって、肥料を根元にあげて、枯れた葉を刈ってやってという面倒くさいことだけれども欠かせない作業を
すっ飛ばしてしまっているわけです。
作物を好んで育てている人になぜと聞ききますと、「楽しいから」と言いますね。
その一見めんどくさい作業の一つ一つが、「そのまま成長に現れるから、楽しい」と言います。

難しい教訓では決してないのですが、なんだか実行が難しい教訓になってしまってます。
それほど、現代人の意識は手間を省くことに集中しています。
とくに人間関係の煩わしさから目を背けがちです。

考えてみると、仕事にせよ、人間関係にせよ細々とした手間そのものが人生の一瞬一瞬なわけですね。
一つ一つの些細な手間をかけなければ、人間は何をし、何を考えるというのか。
ブロイラーのごとく、温度調節されたゲージに押し込められて、何もせずとも、餌を貰って死にたいと言うのか。
お金だけに執着すると言うのは、そんなブロイラー化の道を自ら歩き始めていると言ったら、言い過ぎですか?
言いすぎですね(笑)

最後に、斉藤一人さんの詩です。

 花があり
 水があり
 歌がある
 私はまた
 天国に生まれた