風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

アンティーク・ディーラー

2005年04月30日 | 雑感
今朝は3時頃に目が覚め、「朝まで生テレビ」を見た後、眠れずそのまま滝行へ。
眠れないくせに、眠いから嫌になります。
眠いとたちまち不機嫌になってしまいます。
それでも、水もすっかりぬるみ、気持ちのよい滝でした。

今日はロンドンのアンティーク・ジュエリー・ディーラー(日本人女性)がいきなり訪ねてきました。
ロンドンのアンティークショップに行けばよく見られるような中級品ばかりでした。
それでも、カメオを3点預りました。
東京がまあまあで、あとはどこも不景気だそうです。
この不景気な状態が普通だと思えば、どうってことはないんですが。
バブル期を経験した人は、この状況が苦しくてたまらないだろうと思います。
特にこの業界は濡れ手に泡でしたから。

ぼくはバブルがはじけた後にこの業界に入りました。
バブルの余韻はありましたが。
独立したのは、その余韻もすっかり消えた後です(笑)
ですから、なんか儲けに関してはそれほど執着はありません。
とりあえず食べていければと思っています。
ただ、美術品というのは儲けられるチャンスがあったときは、堂々と大儲けできます。
そういうチャンスをつかめるか?
日頃の陰徳を積んでいるかどうかでしょう。
陰徳を積んでいないものですから、何回か大きなチャンスを棒に振りました。
どう転んでも失敗する余地がないような話が、ころりころりと転びました。
それからは、大きなチャンスを狙うのは止めにしました。
大きなチャンスを追うと、心がいろいろな意味で非常に疲れます。
だから、止めました、とりあえず。
成功する心の準備が全く出来ていませんし。

ぼくをこの業界に導いてくれた師匠は、驚くような大胆さで大きなチャンスをものにしてきた人です。
押しも押されぬ、この業界での世界的な第一人者になりました。
だらしのないぼくを、いつもあきれながらも、叱咤激励してくれます。
感謝はしているのですが、ご恩に報いることができずにいます。

まぁ、あせらないで、やるべきことをやるべきときに黙々と積み重ねていけるかどうかです。
事務は嫌だと、3月決算の書類にいまだに手付かずなんていう様ですから、なにをかいわんやです。
道のりは遠く険しいです。
でも、なんだか楽しいのはいいことですね。
うん。←一人納得

いつも、帰り間際にこのブログを書きます。
ブログを書き始めるとエンジンがかかり始めます。
エンジンがかかり始めて、急いで家に帰って、酒を飲みます。
どうにかならないのか、この無益無駄なサイクル>おれ



ジンギスカン

2005年04月29日 | 雑感
今日も水シャワー滝行。
こんなにあったかいと、出た後も気持ちがいいです。

文化人類学者・岩田慶治とう方の本(「カミと神」講談社学術文庫)を読んでいるのですが、
かなり面白いです。
文化人類学というと、記号論的、構造主義的な、知的遊戯風なアプローチが多かったように思いますが、
この本は道元や、空海の言葉を紹介しつつ、文化・文明の背後にある形も色もない「何か」を
探り当てようとしています。
その「何か」がなければ、表層の色や形が存立し得ないような「何か」。
表層と深層とが表裏一体であるところの「何か」。
学者の本でこんなに面白かったのは初めての経験です。
ちょっと、まじめに読み込んでみようと思っています。

今日は決算の準備をしようと休日出勤したわけですが、コッピーに見とれてしまったり、
パラパラ来る知人と話しているうちに、帰りたくなる時間になってきました。
港のほうに地ビールを飲ませ、ジンギスカンを食べさせる店があるそうです。
そこに行ってみるつもりです。
ジンギスカンというと、学生時代バイト代が入ると、新宿で食べ放題をよく食べました。
張り切って食べ始めるのですが、タレが辛いのと、あまりおいしくないのとで、さほど量は食べれません。
それでもなぜだかしばらくすると食べたくなってくるのでした。

仕事で大きなトラブルになりそうなことが起きたのですが、何とか沈静できそうです。
ぼくが悪いというよりは、善意の第三者、第四者が絡んで、ややこしくなりかけていました。
こういうときは、決して嘘をついたり、ごまかしの言葉を言ってはいけません。
事実を述べ、相手の判断に委ねきることです。
一時的には悪く思われても、時間の経過とともに、事実が余計な憶測を吹き飛ばしてくれます。
正確な事実を伝え、冷静に誠意を持ってあたれば、大抵は解決します。
当事者の数が増えると時間はかかりますが。

なにはともあれ、Qちゃん、再度のブログの紹介ありがとう。
それから、インド、ディープな経験を一杯してきてください。
年取ると、ああいうディープさは、もういいやという気になりますが、
行くなら今のうちでしょうから、腹を壊しながら、がんばってきてね。




掃除

2005年04月28日 | 雑感
今朝、ガスが止められていたので、水シャワーで滝行しました。
きちんと作法をして入りましたが、実際の滝よりシャワーを浴びるほうが勇気がいるのはどうしてでしょう。
明日朝もたぶんガスが止まったままでしょうから、シャワーで滝行です。
うれしいです。←ウソ

今日は助っ人を頼んで、店を掃除しました。
領収書の一部がまだ行方不明です。
そのうちどこからか出てくると思います。
疲れます。

ネットオークションで10円で落札した経机は評判が悪いです。
机の上に置いているのですが、不釣合いに大きいことは大きいです。
個人的には気に入っています。
その上に古い神棚と、江戸時代の阿弥陀様と、古銅の恵比寿様と、コッピーを置いてます。
なんか気持ちのよい世界が出来てます。
ピンクの線香立てが不似合いなので、渋い香炉を買わなければなりません。
なかなか楽しいです。

まだ4月なのに27度もあったそうです。
半袖を着ている女性もちらほらいました。
だから、異常なんですよ、このままではいけないんですよと言っても無駄なので言いませんでしたが。

コッピーは元気です。
いろいろ書きたいことがあるのですが、かなりやさんが心配するといけないので、書きません。
見ていると面白いです。
深いコッピーワールドが展開しています。
あんまり人間と感情の動かし方は変わらないのじゃないかと思ったりします。

月並みですが、人生には波があります。
意図と予想を超えて、波が来ます。
見たこともない大きな波が迫ってくると、もう駄目だ、溺れてしまうと思います。
ところが、溺れてしまうことは滅多にありません。
波が迫ってくる恐怖感さえなければ、もしかしたら波を超えることも楽しいことに出来るかもしれません。
人生の波乗りサーファーになるって、かっこいいですか?
語感がダサダサですね。

掃除をすると、すっかり記憶から消えていたものがいろいろとでてきます。
心の掃除も同じことです。
以前、「内観」という修行をしに道場に行ったことがあります。
無理やり記憶の奥に押し込めていたものを探り当てたとき、感情が渦巻き、涙と共に浄化されます。

今日は掃除の大切さについてでした。←唐突


2005年04月27日 | スピリチュアル
「すべてはわれわれの夢であり、どれもがわれわれのもっとも美しい夢だ。」  

                        ヘルマン・ヘッセ

「メルヒェン」というヘッセの短編集があります。
草花や森の中に神秘を感じ続けたヘッセらしい短編集です。
芥川の「杜子春」みたいな話もあり、東洋の影響もかなり濃厚です。

東洋精神と一言で言っても、その内容はなかなかつかみづらいです。
明快な設計図を拒絶するような精神の構造を秘めています。
要するに、二分論を超えようとする精神運動そのものが東洋精神といったらいいのか。

善悪、彼我、要不要、物質と精神、様々な二分論を超越する精神的な場に東洋人は安らぎます。
そこが唯一神を持った文化文明とは違うところです。
論理と合理性を駆使する西洋からは、東洋はあいまいな、不徹底なものに見えます。
不徹底な心情に豊かさを見出す東洋人は、にやにやと微笑みます。

最近の科学理論は限りなく物質と精神との境目があやふやな、というか、互いに干渉するような
領域に踏み込んでいっています。
「光あれ」と大いなる意志が発せられたときに、宇宙が誕生した可能性は大いにありえるようになりました。

理論はどうあれ、人々は毎日毎日を、それぞれの夢を見ながら一生を送ります。
人生はゲームなのか、舞台なのか、それとも試練なのか。
どんな夢を見るのも自由です。
楽しい夢、悲惨な夢、無残な夢、途方もない夢。

どんな夢でもいいから、心躍る夢が見れたらいいですね。


コンスタンティン

2005年04月26日 | スピリチュアル
どうも尼崎の電車事故はぴんと来ません。
わけもなく事故が起き、わけもなく人が死んだという感じがしてなりません。
かわいそうという気持ちを起こすことも、怒りがわくこともできないでいます。
何が起こっているのでしょうか。

「コンスタンティン」という映画を観ました。
天使と悪魔との壮大な戯れにも似た闘いと、その間で苦悩する人間の映画です、簡単に言えば。
天界が動き始めたら人間は全く無力ですね。
飛行機を飛ばそうが、火星まで行こうが、人間の尊厳を叫ぼうが、全く無力です。

たまりに溜まった人間の傲慢のツケがどっと押し寄せたときが怖いです。
一人一人の良心や善意などというものは、何のためらいもなく押し流されるのでしょう。

なんか暗い話ですが、悲観はぜんぜんしていません。
自分の命がある限り、自分を全うすればいいのですから。

今日も珍しく早起きして、朝日を拝しました。
小鳥たちが鳴き、すがすがしい朝でした。
味噌汁を沸かして、納豆ご飯も食べました。
不足はありません。

湧き水

2005年04月25日 | スピリチュアル
二週間に一度は水を汲みに行きます。
感じのいい小さな神社の足元からこんこんと湧き水がわいています。
たくさんの人が争うように水を汲みに来てますが、神社に挨拶する人はまれです。

昨日はたまたま春の祭りで、お神楽が催されていました。
何十人かの村人たちがはっぴを着て周りで見物していましたが、皆老人ばかりです。
聞くところによると、神輿も担ぐ人間がいなく、トラクターに載せて村を回るのだそうです。
お神楽を演じている人たちも、村の住人ではなく、どこからか出張してもらっているのだそうです。

この神社の境内には見事なケヤキが左右に聳えています。
新緑の若葉が、青空の下に爆発するように噴き出しています。
惚れ惚れするような黄緑色です。
若いうちは新緑のきれいさというのはぴんと来ませんでしたが、
今は心にしみるように感動します。

境内の横手に、その湧き水を利用した冷泉があります。
以前は冷泉とその冷泉を利用した蒸気風呂があったのですが、
どういうわけか蒸気風呂がわざわざ改築されて、どこにでもある普通のサウナになっていました。
冷泉の蒸気がよかったのに台無しだと、サウナで一緒になった常連さんたちがぶーぶー言っていました。
同感です。

水風呂を上がって、近所にある茶店でビールとうどん定食を頼みます。
窓からケヤキを眺めながら、しみじみとビールを飲みます。
満足感が腹の底から広がります。
ここに来ると、大抵は深い満足感を得ることができます。

その後、ワンカップを二本買って、竜神様とお神様に供え、祝詞を上げました。
帰り道、道端にお不動様の社があったので。立ち寄ってみると、
ちょうど村人数人が集まっていて、ご開帳しているところでした。
なんでも、平安時代のお不動様だそうです。
ご尊顔は拝見しませんでしたが、ありがたくご真言を上げました。

一日中爽やかな風が吹き、気持ちのよい一日でした。

オークション

2005年04月23日 | 雑感
今朝も滝行に行ったので、ふらふらです。
こういう日にはお客さんがニコニコしてやってきます。
ふらふらしながら対応をしました。

最近ネットオークションにはまっています。
結構拾い物があります。
経机を10円で落札しました(笑)
さすがに一流の仏像なんかはそれなりの値に上がりますが。

古い神棚なんかはいいものがでます。
今の東南アジアかどこかで作った薄っぺらなものではなく、
細部まで手の込んだ重厚なものです。
欲しいのですけども、置く場所も保管場所もないので諦めます。
一般的に家を建て替えるときやなんかに、やはりどの人もそういう神棚やなんかの設置場所を
設定する精神的・金銭的余裕がないから、こうやってオークションに流れ出てくるわけです。

今価値が暴落しているものとしては、掛け軸があります。
一流の手になる掛け軸がただみたいな値段です。
床の間のある家庭がものすごい勢いで減っているからですね。
これはネットオークションでは怖くて買えませんが。

古いものだからいいのではないのは言うまでもありません。
ただ、いいものをひたすら作るという環境があった昔のものにいいものが多いということです。
お金と時間に糸目をつけずにいいものを作らさせた階級があったから、職人が腕を思う存分振るえました。
そういう時代は終わりました。

何か欲しいものがある人は、ぼくに連絡下さい(笑)


定食屋

2005年04月22日 | 雑感
今日中国関連記事をネットで調べていたら突然PCの電源がバチッと切れたので、
ハッカーかと思ったらコンセントが抜けていました(笑)

それにしても、連日報道される企業や行政や法人の綱紀の緩み具合は酷いですね。
これが氷山の一角かと思うと、今の組織の中枢にいる人間の意識というのは、なんというか、
語るのも嫌になるほどのレベルなんでしょうね。
それでも会社のためだ、組織のためだ、生活のためだという見苦しい言い訳つきなんでしょうね。
なんか、ほんとに語るのも嫌です。
公金にたかる輩の多いこと・・・

潔さというのは必要です。
腹に誤魔化しや、後ろめたさを抱えて生きるよりは、貧しても潔く生きたほうがいいです。
勝負をかけ、勝つもよし、負けるもよし。
勝負する勇気もなく、ごにょごにょ言い訳だらけの人生は一番見っともない。←ドキッ

さて、最近の学生は定食屋ではなく、コンビニの弁当で食事を済ませるのだそうです。
ぼくが学生の頃は日替わりで、和洋中華と安くてうまい定食屋がたくさんありましたが、
なんかそういうのは減っているのだそうです。
カツ丼とニラレバ炒めで5、600円で食べることができました。
家で弁当を一人食うというのは、味云々よりも、文化の程度が低くなっていると思うのですが。
土方の親父や、素性の知れない男などと知り合えるのもそういう定食屋でした。
薄汚い厨房の奥からはトランジスタラジオから歌謡曲が流れ、無愛想な親父がフライパンを振り、
生活に疲れたおばちゃんが丼に親指を入れて、ラーメンを運んでくるのでした。

便利さというのは、それが当たり前になったときに、選択の余地をなくしただけだと知ります。
コンビニ弁当で育った人間が、食材を吟味したり、ほうれん草をお湯から取り出すタイミングを
計る達人になるとは思われません。
自家製の味噌と、ファミレスの味噌との味の違いにこだわるとは思えません。
食事が、限りなく「餌」に近づいていきます。
便利さというのは、そういうことも意味します。

皆さん、食事はちゃんとしましょう。←手抜き

カミ

2005年04月21日 | スピリチュアル
カミは偏在します。
それを昔の人は感知し、対話しました。
対話が行われた場所を聖地とし、イワクラを置き、祠を建てました。

今でもまれに修行を通じて小賢しい自我を乗り越えられた人が、カミに選ばれて、
カミと通話します。

カミとはなにか。
雨だれの音。
刻々とその色を変える空。
森の匂い。
大地を清め続ける小川の流れ。
人々の争い、和解、笑顔。
そして、すべてがあるようにあること。

今日はとりあえずこの辺で。←手抜き

それにしても、Q氏、今回の福岡地震の件、見事に予見しましたね。
別に不思議ともなんとも思わないのが不思議ですが(笑)
Q氏周辺ではそういうことが今後ともますます重なりおきていくのではと思います。

コッピー

2005年04月19日 | 雑感

お客さんにコッピーというメダカの一種を貰いました。
瓶詰めで、蓋をしたままで、水は一ヶ月に一度くらい替えればよく、餌も3-4日に一度やればいいらしいです。
酸素は水草が供給し、排泄物は底に敷かれた砂利についているバクテリアが食べてしまうそうです。
完全リサイクル環境です。

で、そのコッピーなのですが、2匹います。
二匹とも元気で泳ぎ回っていたのですが、数日前から一匹が水面近くから降りてこなくなりました。
弱ってきているのかなと思っていましたが、餌をやると元気はつらつです。
妙だなと思って観察したところ、ほんの少しだけ大きいほうが、小さいほうを虐めています。
小さいほうが降りてくると、執拗につつきまわしています。

小さいビンの中でストレスが溜まっているのか、縄張り意識が目覚めたのか。
なんにせよ、大きいほうが悠々とビンの中を泳ぎまわり、小さいほうは水面近くでじっとしています。
やれやれ、です。
環境がいくら整えられたところで、生き物は感情や本能が波立ち、争いを起こします。

唯物論に違和感を覚えるのは、感情や本能といったものを上部構造と捉えているらしいことです。
ぼくには、システムや制度のほうこそ、感情や本能の流れに沿った上部構造のように思えて仕方がありません。
ただし、かなり気ままで流動的な感情や本能が、硬直化したシステムや制度にしょっちゅう反抗するわけですが。

今も、大きいほうが、水草の根元あたりをつついています。
餌のおこぼれでも探しているのでしょう。
小さいほうは水面にいるので、ふたの陰に隠れてその姿が見えません。
やれやれ、です。

赤潮

2005年04月18日 | いい加減

昨日は海辺をドライブして、夕日の浴びた屋台でワンカップを頼んで、サザエのつぼ焼きと刺身を食べて、
何の不足もない休日でした。

まだ4月なのに、夕方になっても海風がちっとも寒くありません。
それよりも、道沿いの海が延々と帯状に赤くなっていたのが気になりました。
屋台のおばちゃんにそのことを聞くと、プランクトンが死滅したもの=赤潮だとのことです。
良く知りませんが、赤潮って、内湾に、暑いときに発生するものだと思っていました。
外海に面した海岸に、しかも春に発生するものなのでしょうか。
現に発生していたのだから発生するものなのでしょう。

何度か通った観音堂にもお参りに行きました。
日本海が眼下に広がり、足下から潮騒が聞こえます。
和尚さんにせんべいを貰いました。
仕事は順調ですかと聞かれたので、お陰さまでと答えたら、うれしそうににっこり笑いました。
今の状況を順調と答えるのは嘘なのですが、こまごまと仕事の不順調振りを訴えても仕方がありません。

夕暮れの田舎道をよく知らないギター奏者の曲を聞きながら、帰宅しました。
映画「マスク」を見ました。
ジム・キャリーの天真爛漫ぶりはちょっと日本人の役者で真似できる人はいないでしょう。
前日の深夜にも彼の主演映画(動物を探し出す専門の探偵役)をしていましたが、
大真面目にああいう濃いドタバタ映画に出資するハリウッド映画というのもある意味懐が深いわけで。

深夜、ドキュメンタリー2005という好きな番組を見ました。
新宿・歌舞伎町の隣、大久保の小学校の日常風景を切り取ったものです。
そこの生徒の半分以上だか、3分の2だかはもはや海外からの出稼ぎでやってきた外国人の子息です。
親たちの大抵は水商売で生計を立ててます。
日本語もままならず、生活習慣も違い、親も深夜まで働いているというような環境で、
周囲の人たちに支えられながらも、徐々に日本の生活になじんでいく様を丁寧に追っていました。

見終わり、窓を開け、春の夜の空の下に眠る街の灯りを眺めながら、焼酎のお湯割を2杯飲んで寝ました。
今日は珍しく9時過ぎに、自然に目が覚めました。
なかなか順調です。





反日

2005年04月16日 | 世相
決算の準備が手につきません。
領収書も紙袋の中にぐしゃぐしゃに放り込んでいるままだし、売り上げの集計も手付かずです。
寝不足のまま滝行に行ったので、頭が尋常じゃなくボーっとしてます。
それなのにお客さんがちらほらきていただき、長い間お話をされます。
ボーっと聞いて、愛想笑いをしてました。

中国のデモはどう収束するのでしょうか。
小泉首相が靖国参拝を止めるわけもなく、検定を通過した教科書に文句を言われる筋合いもありませんし。
第一、彼らは日本の教科書なんか本当に読んでいるのか?
ぼくらだって現行の教科書を読むことなんてありませんし、ましてや他国の教科書をや。←反語
逆に、中国と韓国の教科書の内容を伝え聞くところによれば、なんというか、すごいものでして。

いずれにせよ、こういうメディアコントロールによる外国勢力からの工作活動に対しては
日本の外交当局というものは、唖然とするほど無力無能なわけでして、
今が目を覚ます転換期であることは間違いないところです。

取るに足らぬ噂や、捏造を、いずれ話せば分かるとタカを括って放置してますと、
どんどん炎が大きくなり、手がつけられなくなることもあります。
そういう噂や、捏造がある意図を持って、ある勢力が広めようとすればなおさら事態の収拾が困難になります。

中国や半島と敵対する理由は少なくとも日本側には全くありません。
つまらぬ誤解や曲解は、どんどん火消ししておくことが肝要です。
世界が注視している中で、堂々と違うことは違う、認めるべきは認める、そうやって事実認識の基盤をある程度
共有しておかないと、わけの分からぬ反日という情動が、お互いにまともに対話することさえ不可能にしてしまいます。

もはやイデオロギーが世界を変革するエネルギーはありません。
そんなこと(知的遊戯)をしている時間は、今の地球に残されていません。
新潟で、スマトラで、福岡で地震が起き、三宅島や阿蘇山が活動を始め、地球がぶるぶると身を振るって、
表面にこびりついた汚れを振り払おうとしているかのようです。

アセッションという言葉があったと思います。
人類の意識レベルが一段階上がるということだったと思います。
意識レベルがどのような方法で、どのような方向に引き上げられるのかは知る由もありません。
現実の世界では、大混乱、大破壊という過程を経るのかもしれません。
来るかもしれない大破壊を嘆き恐れるのではなく、その大破壊を招いている張本人が自分たちなのだという自覚こそが必要なのだと思われます。

それにしても、いまダライ・ラマが来日中のはずなのですが、
メディアは全くの沈黙ですね。
こういうところが、いらぬ誤解と曲解と工作を生む土壌なんですけどね。







日本

2005年04月15日 | 


その木の葉には、熱帯の逞しさはなく、寒帯の厳しさもない。
透き通るような花びらを持った花々。
季節の温度を敏感に感じ、その想いを色に現す葉。
数センチにも満たない、風に揺れる高い山に咲く花。

そういう自然の中でぼくたちは育まれた。
谷川の水。
木漏れ日。
水穂。
腰の曲がった、豊かな皺を刻んだ老人たち。

何の不足もない天と地の間に、生まれ育った。
水と地熱とが豊かに巡り、四季が踊り、人が微笑む豊かな大地に、
ぼくらは生まれ育った。

甘酸っぱい山葡萄を食べ、
枯葉の匂いを胸一杯に吸いこみ、
金色の木漏れ日を浴び、
雪に覆われた遠くの山の頂きを見る。

春の風が沈丁花の香を運び、
夏の宵には蛍と蛙が小川で協奏し、
熟れた柿が夕日に赤く染まり、
しんしんと降る雪の日には息を凝らして炭火を見つめた。

薄っぺらになった時代が、
灰色のコンクリートが、
次から次へと川原を、小川を、鎮守の森を覆ったが、
人々の心は森の奥を、泉を、しわくちゃな笑顔をいつまでも求め続ける。

時代の深層には深い森から流れてくる清冽な水が流れ続け、
こだまが響きあい、
嘆きも、恨みもせず、
微笑み続けている。


スズメ

2005年04月14日 | 雑感
大抵は夜中の2時か3時に目が醒めて、眠れなくなり、酒を飲んで二度寝して昼近くに起きますが、
ごくごくまれに5時とか6時にふいと目が醒めることがあります。
カーテンを開けると山の向こうの空がピンク色に染まり、窓の下の公園で鳥たちが騒いでいます。
なんて気持ちがいいんだろうと心の底から思いますが、次の日になるとまたどろどろになって、
昼過ぎに起きる羽目になります。

今日はそのまれな日でした。
仏様にお水をやり、空をオレンジ色に染めて昇るお日様に拍手を打ちました。
打ち合わせを終えた鳥たちが、張りきって飛び立ち、曙の空を飛んでいきます。
毎日毎日、食べ物を探し出すのはさぞかし大変だろうななどと無責任に思ったりします。
仏様のお下がりのご飯や、釜の中で黄色く変色してカピカピになったご飯は、
夜中にこっそり公園に播きます。
次の朝には綺麗さっぱりなくなっています。
まずそうにグズグズものを食べるぼくが食べるより、鳥たちに食料を与えたほうがよっぽど
食べ物冥利に尽きるかも知れません。

今の人たちのほとんどが、飢えという飢えを経験したことはないでしょう。
ぼくもありません。
腹が減ったという状態を煮詰めていくと、理性のコントロールが利かなくなりそうです。
そのうえ、幼い子を抱えて、乳も出ず、気力も体力も消耗していくなかでの飢えは、
形容できる言葉もないでしょう。
そういう残酷な状態のアフリカ大陸の人々をブラウン管で眺めては、ふーんと放置しています。
飢えを知らない人間は、飢えで苦しむ人間に冷淡です。
ぬるま湯に浸かった人間の想像力は、怠惰です。

それでも鳥たちは、明日とも知れぬ命を張りきって空に羽ばたかせます。
一瞬一瞬に集中します。
飢えで死ぬ人たちの地獄の時間は誰にも償えません。
それでも、かれらの死ぬ間際、五感も麻痺し、薄れ行くかれらの意識が、
苦痛と恨みから解き放たれ、光りのもとへと羽ばたいて行くことを願うばかりです。


青の色

2005年04月13日 | 

窓の下をトラックが雨上がりの高速道路を走っていく
昭和の舞台の書割みたいな街の背後の山には、灰色の雲が棚引いている
誰にも会わず、手紙もこない
記憶も薄れ、感情も擦り切れた

窓を閉め
ただ青黒い石のようにうずくまる
体温が冷えきり、音が遠のき、なにもかにもの輪郭がぼやけてくる
重力が増し、螺旋を描いて青の色に沈下する

かすかにブーンという音が耳の底で聞こえる気がする
茶色い沼のような風景が目の前に広がっている気がする
遠い昔の白壁の蔵のかび臭いにおいがする気がする
僕の肘を誰かの人差し指が触れているような気がする

時は止まり、今となっては全てのものとの距離はない
全ては一点の青の色に吸いこまれた
深く深く呼吸を繰り返し、波形のものとなる
呼吸する意志も持続しかねて、波形は消え、ぱちんと弾けた