風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

前世

2006年04月24日 | スピリチュアル
土曜日にある人から紹介されて、霊感のある人に過去世を見てもらいました。
その人によると、ぼくの今生に関わる前世は虚無僧だったとのことです。
独特な編み笠を被って、尺八を吹きながら各戸を乞食して回った、あの虚無僧です。
もともとはれっきとした普化宗という禅宗の一派で、世を「虚仮」とみて、世を漂泊して暮らした僧侶です。
幕末くらいになりますと、身分正体を隠すために虚無僧の形を真似て、隠密やら悪党やらが世に跋扈したので、
明治になってから厳しく取り締まられてしまいましたが。

その方によると、ぼくは何でもひどく貧しい農村で、なにやら説法していたそうです。
ぼくの放浪に対する憧れは、そういう前世の因縁つながりだと思えばすとんと腑に落ちます。
それから、付いてくださる守護霊も坊さんなのだそうです。

で、ぼくの長年の悩みというか、未解決な心の状況というのが、仕事に対する情熱の欠落です。
10人中10人はもっと仕事に打ち込めというし、ぼく自身もなんで前向きに仕事に向き合えないのかが疑問でなりませんでした。
それを霊能者の方に聞いてみました。
その方によると、今の仕事は食い扶持を稼ぐためであって、魂はもっと精神的な豊かさを追い求めているということでした。

これもすとんと腑に落ちました。
今の仕事は全然嫌いではありませんが、仕事として拡張したり、お金を稼いだりということに対しては自分でもうそ臭いほど、
情熱が湧きませんでした。
お金がなくなりいよいよ困ると、ぽんと何かが売れ、何かが売れてたからと、もっと仕事に打ち込めるかなと思うと、
その流れが見事なほどに途絶えました。
要するに、食うには困らないほどの収入はありつつも、仕事上の展開を望めるほどの収入はありませんでした。
自分としてはそれで十分満足していましたが、周囲の人たちから見ると、なぜもっと真剣に状況を切り開いていかないのかという、
なんというか、歯がゆさがあったのだと思います。

食い扶持を稼ぐためだとするなら、きちんとプロフェッショナルな仕事をすればいいだけです。
それほど気の進まない仕事の拡張やらなんやらを無理して図る必要はありません。
一つ一ついい仕事をしていけばいいのです。
きわめて当たり前のことで、何をいまさら言っているんだということなのでしょうが、ぼくにとっては新鮮な開き直りが出来ました。
なんか仕事をするなら、なにがしかの境地を開拓するくらいの心意気がないと駄目なような気がしていましたから。
前に勤めていた会社が、見る見るうちに日本一になって行く姿も見てきただけに、仕事の上での自分の志のなさを、
何とかしなければいけないものと思っていました。

自分で仕事上の志が希薄なのを知りつつも、志があるような振る舞いをすることはもうありません。
ただ、逆に、今の仕事を今まで以上に丁寧で、内容の深いものにしたいという気持ちは強く生まれました。
そうでないと、仕事が仕事として成立しなくなるし、何より楽しくないからです。

そのほか、二三、ヒントになる言葉も聞くことが出来、ここ最近のもやもや解消に向けて、大きくステップアップできた感じがします。

というわけで、昨日は自然と朝早くに目が醒め、山登りをしました。
車で10分もかからない公園に車を止め、ほとんど散り終わった桜の森を抜け、雑木林を抜け、一つ目の山頂に立ちます。
それから、尾根筋にひたすら歩き、二つ目の山頂を超え、三つ目の山頂を目指します。
三つ目の山頂はガスに覆われ、周囲では鶯が鳴いています。
鶯の鳴き方もいろいろあるのに気がつきます。
「ホ、ホ、ケキョ、ホ」と鳴いたり、「ホーケキョ、ケキョ、ホー」と鳴いたり、中にはひたすら「ケキョ、ケキョ、ケキョ」と、
鳴いているのもいます。
音程さえもいろいろ変えて鳴いています。
三つ目の山頂で、持ってきたコーヒーを飲みました。
海側から、ガスが山肌を這い上がるように登ってきます。
半袖一枚ですが、なんだかとても心地がいいです。

下山途中、偶然にもぼくの産土の神様としてお参りしている神社の上宮というのが、ひっそりと森の中にありました。
小さな祠ですが、厳かにしっかりと深い森の中にたたずんでいました。
心を込めてお参りし、下山したところが、その産土の神様のお宮でした。
何かありがたいものを感じ、そこでも心を込めてお参りをしました。

なんというか、こういう爽快感を感じたのは久しぶりです。
久しぶりの山歩きのせいで、膝ががくがくしましたが、どうってことないです。
帰ってから、水シャワーを浴びて、ビールを3缶飲んで、極楽気分です。

こういう風に、簡単に幸せになれることを、仕事の上でも、私生活の上でも積み重ねて生きたいものです。
自分を勘違いすると、いともたやすく迷いの道に入ってしまいますから。












ブロークバック・マウンテン

2006年04月15日 | 雑感
なんか雨がざあざあ降っています。
しばらくお日様を拝んでいないような気がします。

一月以上前にロンドンのオークションで落札した商品がまだ届きません。
先方の手続きに手間取り、何度もEメールのやり取りをして、どうやらようやく来週には届きそうですが。
物事の推移に何かの弾みで引っ掛かりができると、次から次へと引っかかり続けるということがあります。
そういう時に限って、同時進行で他の事柄でもつまらないことで引っ掛かりが次々と発生するということも重なります。
このところ、そういう状況でした。
でも、ようやく一段落つきそうな気配が見えてきて、一安心しているところです。

さて、しばらくブログを書くのをやめていましたが、特別な理由はないです。
なんとなく書く気がしなくなっていました。
それでというわけでもないんですが、映画をたくさん観ていました。

「ショコラ」
「8マイル」
「ブロークバック・マウンテン」

他にも数本見ましたが、記憶に強く残ったのが上記3本です。

それぞれの作品について解説めいたものを書きたい気もするのですが、止めときます。
まだ見ていない人もいるでしょうから。

最近の映画の見方はこうです。
まずコンビニで缶のウイスキー水割りを二本と柿の種一袋を買います。
ビールだとどうしても上映途中でトイレが我慢できなくなるからです。
それを持って、映画館に行くわけですが、できるだけ木曜日に行きます。
メンズデーで、1000円で観れるからです。
近頃の映画館はなんだか空いています。
で、中段よりやや高めの真ん中の席に坐ります。
ウイスキー水割り缶を開けます。
柿の種は予告編が始まってから開けます。
そうでないと、バリバリ食べる音が目立つからです。

で、本編が始まります。
二本目のウイスキー缶を開けます。
いとも簡単に映像の世界に入ります。
誰にも邪魔されず、誰のことも邪魔することもありません。
楽しい時間が過ぎます。

基本的には、ほろ苦い話やら切ない話を好む傾向にあります。
「サウンド・オブ・ミュージック」や「E.T.」みたいな、ビューティフルな話というのはあまり得意ではありません。
だからなんだと聞かれても困りますが。

最近の日本の映画とアメリカのそれとの一番の違いは、脚本の練度でしょうね。
日本の映画の台詞というのは、説明や感情の直接的な表出が多すぎます。
要するに、台詞が筋やら背景やら感情やらを説明するために使われることが多いんですね。
誰か大切な人が死ぬと取りすがって耳障りなくらいの大声で泣く。
日本映画でよく観られる演出ですが、言葉にならないショックを受けたとき、人は声が出ないことも多いと思うんですが。
 
ヘミングウェイの文学理論に「氷山理論」というのがあります。
氷山は海面上にその2割くらいしか姿を現していません。
その2割を的確に書くことによって、海面下に沈んでいる8割を想像させるというか、表現させるという理論です。
映画は映像表現なのですから、一つの目配せ、身のこなしの瞬間を捉えることによって、
何万語を要する感情だって表現できるわけです。
日本映画は、過剰な台詞、過剰な演出が多すぎるように思います。
テレビドラマの悪影響もあるのかなと思ったりしていますけど。
殺人者が延々となぜ殺そうと思っているのかを説明してから、人を殺そうとするなんてのは日本のドラマではおなじみですが、
映像からはリアルさと情感の深みとがどんどん失われていきます。

そいう意味では、「ブロークバック・マウンテン」は本当に秀逸な映像表現を成し遂げていました。
無言の男の顔が語り、山や湖が語り、一つ一つの仕草が、小道具が能弁に人生を語っていました。

うん、いい映画を観ると、いい余韻が心に残って、なんか得した気分です。
毎週木曜日は映画の日と決めました(笑)








第三の心

2006年04月14日 | 雑感
聞き流すということがあります。
世の中にはいろいろな情報や感情や思いに溢れかえっているわけですが、
ある程度の大人になりますとそのいちいちに付き合っていられなくなります。
いちいち付き合ってムキになっていると、こちらの身が持たなくなります。
で、適当に相槌を打って聞き流すという技を覚えるわけです。

聞き流す技に習熟してきますと、いろいろなことが身の回りに起きても自分の心まで揺らすことはありませんから、
非常に楽になります。
楽にはなりますが、その一方で真剣に身を入れて何かに打ち込むという姿勢が弱まってきます。
例えば、ビジネスで何かの商機があるとしても、食い付きが弱くなってしまいます。
人の深刻な相談を受けても、どこかしら醒めた目で見てしまいます。

何事も良し悪しがあり、バランスが必要です。
なんでもかんでも真剣に受け止めていくことは無理ですし、その必要もないのでしょうが、
ここぞというポイントを見分ける目の涵養を怠ると、つまらない木偶の坊になりかねません。
ここぞという場面では、豊かな心を発動し、真剣に物事に対処する心構えというのを常に保持していければいいのですが。
軽く受け流す心と真摯に物事に対峙する心と、両方のバランスを取る第三の心が必要です。

その第三の心が宿るところというのは、感情や意識ではありません。
感情や意識というのは、まぁ大体はやすきに流れがちです。
強いて言うなら、天の摂理を感じる心とでも言うのでしょうか。

例えば、何かで心身ともに疲れ果てているとします。
そんな時に、ある抽象的な心の悩みで苦しんでいる人の相談を受けるとします。
感情は「勘弁してくれ、おれだって疲れているんだから」と不平を言います。
意識は「そういう問題は相談して解決するものではない」と突き放そうとします。
で、心を落ち着けて、相談する人間と相談を受ける人間の関係の中から、何が生むことが出来るのかを考えます。
これを考えられるのは、感情や意識ではありません。
感情や意識というのは、自分の損得、快不快から離れることはないからです。
自分を含めた他者との関係そのものを冷静に眺められる心の場というのが必要になります。

まったく違う個性を持ったAさんとBさんがいます。
お互いに関わりあうということは、AさんとBさんが共通の価値Cを生み出せることが出来るかどうかにかかっています。
この共通の価値Cを生み出そうとする心の場を第三の心と言ってもいいかもしれません。

で、常に共通の価値Cを生み出せるわけではありません、もちろん。
そこを判断するのが第三の目であるゆえんです。
どんなにこちらの状態が良く、相手の悩みが真剣に聴くべき要素があったとしても、
天の摂理というか、なんというか、早急に共通の価値Cを生み出す可能性がない、或いは生み出すべきでないということがあります。

AさんはAさん、BさんはBさんとしてじっとそのまま存在する以外にない時というものがあります。
お互いの感情と意識はなんとか脱皮したくて、状況を変えたくてしょうがないのに、どうしようもない時というものがあります。
第三の心がそのままで「耐えろ」ということがあります。

感情や意識が先に進みたくてしょうがない時に「耐えろ」ということが出来る心。
感情や意識がめんどくさがったり、不快に思う状況でも「打開しろ」という心。
そういうことが判断できる心を第三の心と言っているわけです。

この第三の心が弱まると、もうぐずぐずになります。
切りなく酒を飲んだり、睡眠をむさぼったり、意欲を失います。←丸きり誰かさんに当てはまります(笑)

で、この第三の目を涵養するにはどうしたらいいかということになります。
日常生活を漫然と送りますと、それはもう人間のサガで、損得、快不快の世界に飲み込まれます。
どうしても自分がどうしたこうしたから離れて、天から自分というものを見る視点が必要になります。
一言で言うと、宗教心といってもいいかも知れません。
哲学でもいいじゃないかと言われるかもしれませんが、哲学は無条件に「天」というものに視点を放り投げることが不可能です。
あくまでも、「我考える」の立場を放棄するわけにはいかないからです。

「我考える」の立場を否定するわけではもちろんないのですが、それでは立ち行かないことが日常に次々と起こってきます。
理不尽を理不尽としながらも、受容し、解決していかなければならないことがたくさんあるわけです。

植物でも何でもそうですが、すべての生き物は完璧な連鎖を描いて生命を営みます。
その完璧な連鎖の叡智に、「我考える」の延長線上では触れられない叡智を認めたときに、
第三の心の可能性というか、「天」という視点の可能性が開けるのだと思います。

すべての生き物は、感情や意識にお構いなしに完璧なサイクルを描いていきます。
己の感情や意識に囚われやすいのが人間です。
その利己的な人間が、どうやってその神秘的なサイクルの叡智に触れることが出来るのかという問題でもあります。

なんか、久しぶりにブログを書いたので、長文になってしまいました。














縁側

2006年04月01日 | 雑感
今日はお宮参りの日。
大体の神社の境内というのは、桜が植えられています。
まだ5分咲きくらいでしょうか。
関東よりも九州の方が今年は開花の進展具合が遅いみたいですね。

桜が散ると、それから鶯が鳴き始めます。
虫たちが穴から出て活動を始め、ツバメが飛び始めます。
森の中やら川の中がいろいろな生命の躍動で賑やかになってきます。
更に陽射しが強くなると、あちらこちらの木々から新緑が吹き出します。
なかなか楽しい季節を迎えます。

体がだるくて堪りません。
昨日珍しく日本酒を飲んだからでしょう。
最近日本酒が美味しくなりました。
焼酎人気に危機感を抱いた蔵本さんたちが、美味しい酒を作り始めたみたいです。
でも、日本酒飲むと、なんというか、どろどろになってしまうんですね、これが。
次の日も残るし。

ということで、今日は早めに帰ります。

結局、西澤某の証人喚問は取りやめになるようですね。
民主党は禍根を残したと思います。
今後、他党に真相究明の要求など、どの面下げて、ということになります。
西澤某の背後に何があるのでしょうか。
いまだにテレビなどでは顔にモザイクがかかっていますし。
これだけ国会を空転させた西澤某の責任が追及されることもなく、幕が引かれようとしています。
やれやれですね。
民主党の執行部全員の首と引き換えに、なにを守ろうと、隠蔽しようとしているのでしょうか。

子供のころ、ぽかぽか陽気の下、何時間も縁側でごろごろしていることがありました。
何を考えていたのか、思っていたのかは覚えていません。
庭に何か変わったものがあるわけでもありません。
でも、なんか退屈していなかったです。
眩しい光の下にずっといて、何かの用事で立ち上がって、家の奥に入ると真っ暗で何も見えないというような瞬間がありました。

ふと、縁側があるといいなと思っただけです(笑)