風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

寒い日に

2012年01月30日 | 雑感

日射しが少しずつ明るくなっているような気がしますが、寒い日が続きます。
九州でもこの辺りは玄界灘に面していて、冬は曇天が続きます。
何となくぱっとしない冬の日々です。
店の中でも暖房を付けていますが、セーターとジャケットだけでは寒いので、マフラーを巻いています。
そうしたら、咳が出なくなりました。
まだ咳を引きずっています。

昨日の深夜、地震を感じました。
グラッとひと揺れして、いよいよ来るかと思ったら、それきりでした。
なんか変な感じで、ピタリと止りました。
もはや死んだら嫌だというようなことはあまり考えません。
娘を救うための脱出経路やら、水の確保などは考えます。
ただ、大きな地震の際には、そういう予備知識もなんの役にも立たないような気もします。

なんだか頭がグラグラします。
風邪気味でジムに行って、汗を無理矢理出して、今店で焼酎を飲んでいます。
身体も頭もグラングランします。
でも咳は止っています。
世紀末の甘美な退廃の煙の中にいるような気分です。

ここ数ヶ月ずっとある意味ハードな精神状況下にいましたから、今は少し緊張が抜けているのかも知れません。
楽しいというよりは、手足も何も大地の上に放り出している感じです。
こういう時には、意味もなく休むと、せっかくの流れが途絶えます。
明日からまた自分に負荷を与えて、うんこらよっこら背負っていきます。
自分に負荷を与えるというようなバカなことは止せという人もいますが、
今の時点では負荷を背負った方が、確実に足を前に出していけます。
離陸してしまえば、余計な重荷は片っ端から捨てた方がいいでしょうが、まだ離陸さえしていません。
着実に滑走路に一歩一歩近づいていくだけです。

すべては人間の意識が決定しています。
喜びも、悲しみも、憎しみも、無関心も、蔑みも、崇拝も、楽しみも、苛立ちも、
すべては人間の意識が選択できます。
パブロフの犬のように、状況次第で人は悲しんだり、怒ったりすることはありません。
常に、いかなるときも、至福の中にいることは可能です。
すべては人間の意識が決定しています。
これはもう間違いないでしょう。
それでも敢えて、悲しみや苦しみを選択することだってあります。
選択したい経験を、自由自在に選択する力が人間にはあります。
それを本当に思い知ることを、悟りというのだと思います。
禅の悟りとは少し違いますが。

まぁ、ちょっと感動した映像です。
言葉よりも、人々のちょっとした仕草や表情がどれだけ世界の人々の心に訴えることができるのか。
震災後の被災地の人々です。
コメント欄に賞賛の声が溢れています。

http://www.youtube.com/watch?v=SS-sWdAQsYg

 

 


思い出

2012年01月17日 | 雑感

どうやら風邪を引きました。
熱はないのですが、咳が止りません。
病院に行って薬を貰いました。

幼稚園かそのくらいだった頃です。
たしか大晦日の頃で、家族で居間で食べたり飲んだりしながらテレビを見ていました。
紅白かなにかだったのでしょう。
9時か10時になって、父親から寝るようにいわれました。
渋々布団に入りましたが、なんだか寒気がして身体の震えが止りません。
そのまま眠ろうとしましたが、咳も出始め、寒気が酷くなり、とても眠れません。
隣の居間からは歌番組の音と、家族の談笑する声が聞こえてきます。
起き出して風邪を引いたというのもなぜか気が引けて、そのまま布団の中でがくがくと震えていました。
ちょうどその時、なにかのきっかけで母親が家にいなかったのです。
父親の不機嫌な顔を見るのも怖いし、兄弟たちからうるさがられるのも嫌だったので、
とても辛く寂しい気持ちで布団の中で一人で震えていました。

そういう思い出がありますから、去年娘が肺炎で入院したときは、娘の心細さや悲しみがどっと胸に伝わってきて、
こちらの方が辛くなりました。
できるだけそばにいてあげようと思いました。

それとは逆の思い出もあります。
風邪を引いて幼稚園を休むと、一日中母親のそばにべったりとひっついていました。
リンゴのすったものとか、カスタードクリームとかを、母親は作ってくれました。
なんかとても得意げな気持ちになり、有頂天になったことを覚えています。

そんな母も、いろいろな諸事情があり、ぼくが小学一年の頃に家を出て行きました。
それ以来、母親の温もりというものを知らずに生きてきましたが、幼稚園の頃に母親に甘えた数えるほどの記憶が、
ぼくの中にしっかりと根付いています。
だから誰かを恨んだり、妬んだりということはしないで今まで生きてこれました。

ぼくの娘も、ちょうどその頃のぼくと同じくらいの年齢になりました。
親が子に無条件に与えたいと思い、それを子が無条件に受け取とれる時期というのは、案外と短い期間なのかも知れません。
数えるほどの記憶でもいいですから、ぼくとの楽しかった思い出をしっかりと胸に刻んでいって欲しいです。

そんな母も父も姉も亡くなりました。
ぼくもいずれは死にます。
皆それぞれのかけがえのない思い出だけを抱いて、たった一人で死んでいきます。
その時に、一つでも多くのかけがえのない思い出を抱いて死ねれば、それでいいのだと思います。
この世は思いで作りの遊園地みたいなものです。
泣いて、笑って、苦しんで、自分だけの大切な思い出を積み重ねていきましょう。

 


今ここ

2012年01月16日 | 雑感

新規事業のための店舗探し、あっちによろよろ、こっちによろよろで、大変難航しました。
どの店も帯に長し、たすきに短しで、往生しました。
普段は割と直感が利く効く方だと思うのですが、今回はどういうわけかまったく直感が働きません。
新しい店舗を見つける度に、ああでもないこうでもないと迷いが深まるばかりでした。
でも、最終的にある店舗に絞り込むことが出来ました。
汚くて小さな店です。
でも、元々そんな店で良かったのです。
今になって考えてみますと、なんの不足もありません。
欲やら見栄やらが増長して、ついふらふらと出口にない迷いの世界に入り込んでしまっていました。
自分の出来ることを、自分の出来る範囲の内で精一杯にする。
それだけのことを思い知るのにずいぶんと回り道をしました。
有り難い学びの道を歩ませてもらっています。

知人が借りた100坪ほどの新たな畑も耕し始めました。
この畑は畑をしたい人に開放していく方向性ではありますが、まずは知人と土作りから始めます。
知人の友人が放置された草地だった土地をトラクターでぐんぐん耕してくれたおかげで、楽に畝作りまで出来ました。
先日は有機石灰を畑に混ぜ込みました。
春先になったら、堆肥と肥料を鋤込みます。
楽しみです。

話は変わりますが、昨日下関の長府というところで、新春恒例の落語を聞いてきました。
もう19回目だそうです。
ぼくが参加したのはここ4回でしょうか。
生で間近に落語を聴くというのは、とてもいいです。
しかも、お酒を飲み、たらふくごちそうを食べた後ですから、なんというか、身も心も幸せになります。
そのあと高杉晋作の奇兵隊が蜂起した功山寺にお参りに行き、下関駅前の安食堂で焼酎を飲んで帰りました。

慌ただしくひたすら月日は流れていくわけですが、「今ここ」に全身全霊を注ぎ込めれば、それでいいわけです。
全身全霊というほど大袈裟なものでなくても、きちんとこの大地の上に立ち、周囲の人の表情を見逃さず、
やるべきことをきちんとやり、気がつくべきことにはきちんと気がつき、出された食べ物は深く味わって食べ、
今このときにここで生きるというチャンスをくれた全存在に感謝することができ、不幸がどこかであると聞けば、
誰かや何かを攻撃するのではなく、自分に何が出来るのかを考え、それを実行に移し、過去のことも未来のことも思い煩わず、
今が無限に拡がっていることを空に感じ、万物が繋がって天に昇っていく生命のダイナミズムを大地に感じ、
すべての形象は移り変わっていく儚さと共にあることを風に感じ、
それでも生命は決して途絶えることなく力強く連続していくことを海に感じ、
自分の力強さと無力さを自信と謙虚さに置き換え、
幼い子供たちを遠くからそっと見守り、老いた人々の昔話に耳を傾け、仕事に忙殺される人々の愚痴を聞いてやり、
決して言葉を荒げることなく、すべては光の戯れであることを、五月の若葉が陽光に翻るのを呆然と眺め・・・。

まぁ、きりがありません(笑)

人は状況を変えることは出来ません。
人の心を変えれば、状況が変わります。
すべては自分の心のありようです。
心には無限の可能性を秘めています。
そろそろその可能性を秘めたままにするのではなく、その可能性の中で思い切り遊ぶ時が到来しているような気がしてなりません。

 


流れ

2012年01月09日 | 雑感

いよいよ最終局面になってきているのは間違いがないように思います。
あと、かの勢力の思いのままにならなずに最後に残ったのが、イランなのでしょう。
イランも潰す、ですか。
でも、そうはならない気がします。
そうしたときに、かの勢力の終わりを告げるんだと思います。

あらゆるところにまで工作は進んでいます。
デフレの日本で景気浮揚策よりも増税を言い出す。
しかも円安を放置しながら。
世界的には食料不安のリスクが高まっているときに、TPPを言い出す。
鳥エンフルエンザや狂牛病で、ズタズタになっている畜産業者にどうしろというのでしょうか。
8割が輸入に頼ってる大豆というのは、醤油、味噌、納豆などの原料です。
それがTPPの法案を通したら、国内の大豆生産者が、保つわけがありません。

国内産よりも安く買えるからいいという論者がいます。
国力があるから円が高いのであって、自国の食料も自力で賄えない国になれば、円はどん底に落ちます。

なんだか、当たり前の話しを当たり前にする人がいなくなりました。

円を刷らなければ、デフレは進行する。
市場に金を回さなければ、景気は停滞する。
景気が停滞すれば、税収は落ち込む。
そういう時に増税すれば、市場は死ぬ。

でも、このままでいけば死ぬことに分かっている政策を、臆面もなく公表するのが今の政府です。
で、どういうわけか、そういう政府に対して、ものを言わないのが今のマスコミです。
まぁ、工作がこれほど、どの分野にも浸透したということでしょう。

それで、重要なことは、こういうなんだかわけも分からない国力の低下政策は、
日本だけに起こっているわけではないということです。
世界中で同時発生的に先行き不安が発生しています。

ぼくはそういう流れに憤りを覚えているわけではありません。
ただ、その流れは、かの勢力が仕組んだとおりに流れてきているというだけを指摘しておきたいです。
そういう流れの中で、自分が何が出来るのか。
何をしたいのか。
それを問い続けたいです。

前から言っていますが、まずはその流れの邪悪な意図に気づき、その流れから離脱すること。
今まで気を停めなかったかも知れない日本という国の本流に戻ること。
そうは思うのですが、力足らずの故に、強いて人を説得する術も性根もありません。
あとは皆さん方の心の羅針盤に従うばかりです。
願わくば、幸多かれ!

もうそういうしかありません。

 


即今

2012年01月04日 | 雑感

あけましておめでとうございます。

正月があっという間に過ぎていきました。
なんなんですかね、この加速度。

今朝一時雪が激しく降りました。
そのまま積もるかと思っていたら、まもなく太陽が雲の切れ間から顔を出しました。
なんだか世間も空も荒れ模様です。
冬の夜長、ストーブの上に置いたヤカンのシュウシュウという音をぼんやり聴いているというような
のんびりした時間はどこにもなくなってしまったのでしょうか。
ミカンさえたちながら慌てて食べます。
別に慌てる理由などどこにもないのですが、なぜか2、3個まとめて立ったまま食べます。
なんなのでしょかね。

家族と外出したのは、元旦の朝の初詣と、3日に近場の温泉に出かけた2回だけです。
それだけで正月は終わってしまいました。
ぼくはいいとして、5才の娘も同じような慌ただしい時間の流れを感じているのかどうかが気になります。
のんびりゆったりした時間が永遠に続くかのような、ぼくの幼い頃の正月という経験を、
はたして娘はしているのでしょうか。

この時間が加速しているという感じは、もしかしたら地球の振動数と、ぼくの振動数がずれ始めているのかも知れないと、
ふと今思いました。
地球の振動数が上がり始めているのに、ぼくの意識の振動数が上がっていないために、
時間が早く過ぎるように感じるのかも知れないなと。
なんだか大いにありえる話しです。
外界の動きから取り残されつつある個人の意識。
このままズレが広がれば、精神分裂病に似た心理的様相を帯びてくるだろうと思われます。
世の中にリアリティを感じなくなる。
他人との繋がりを感じられなくなる。
だれかの得体の知れない悪意の存在を感じ始める。
そんな感じでしょうか。

なにか大きな修正がぼくの日々の行動に必要です。
ということで、どういう修正がぼくに必要か考えてみました。

ぼくは自他とも認める極度の面倒臭がり屋で、なんでも後回しにしたり、省いたり、無視したりしてきましたが、
それでも物事はなんとか回ってくれていましたが、どうも一切そういうのが通用しなくなりました。
後回しにしたり、省いたり、無視したりすると、その対象が虚空に消えてしまう感があります。
ちょっと分かりづらいですね。
例えば誰かに礼状を書かなければならないとします。
今まではそれを数日から数週間引き延ばしても、なんとかなった感じがあるのですが、
今は、数日引き延ばせば、それを書かなければならない理由も動機も意義も消え失せてしまう感じがあります。
つまり、数日引き延ばすことによって、何かをする口実も、何かをしたという実績も、なにひとつ積み上がらないまま、
終了してしまう、そんな感じが強くします。
何かを引き延ばしたり、省いたり、無視すれば、そのまま何かはなされるという経験をごっそり欠落させられます。
なさなかったという反省さえ残りません。

ということで、意識をこの時間の流れから引き離されないためには、やろうと思ったことは即座にやるというスタンスを
堅持する必要を感じるわけです。
面倒くさいという言葉を直ちに放下する必要があります。

面倒くさいというのは、時間の引き延ばしですが、対人関係でもぼくは引き延ばす癖がありました。
手紙やメールに返事を出さなかったり、電話を折り返さなかったり、まぁそんなのがとても多かったです。
何か意味があるのかと問われれば、まったく意味などないのです。
すぐさま対処すれば何でもないようなことを、引き延ばせば引き延ばすほど億劫になり、疎ましくなっていきます。
そういうのが続き、重なっていくと、結局その人とも疎遠になっていきます。

要は、時間にしても、対人関係にしても、そのとき即対処しなければ、時間も人もぼくの視野から消えていくわけです。
時間も人も消えれば、ぼくは行動する「今」という瞬間を失うわけです。
「今」という瞬間を失えば、ぼくの思うこと、なそうとすることは、すべて空論になってしまいます。
これがこのところぼくが感じていた空虚感です。

人のためにどうすればいいかなんていうのは、その先の先にある話しです。
自分が空回りしていたのでは、人のためになるどころか、人の迷惑になる可能性が大です。
ちょっと馬鹿げた話しなのですが、酒を毎日飲んでいる内に、これに気がつくのに大分時間がかかりました。

口で「今しかない」とかいう理屈は得意なのですが、とっくに「今」など失っていることに気がつきませんでした。
いや、気がついてはいたのですが、どうしていいか分からなくなっていました。

逆に考えると、今までよくあんなに何でもかんでも面倒くさがっていても、やってこれたものだとある意味驚きます。
でも、もうそれは絶対に通用しないであろうことを骨身に感じています。

やろうと思ったら即やる。
なんだか健康的な一歩をやっと踏み出せそうです。