滝行もしましたし、禅の修業も経験しました。
その最中には本物を手に掴んだ感触が間違いなくありました。
でも、諸事情でそういう修行というか実体験からしばらく遠ざかると、
本物の実体験であったはずの尊い実感が言葉に置き換えられ、脳内にしかないただの概念に堕します。
いくら概念で「今、ここしかない」と言ったところで、実感のない戯言に化します。
概念で「今、ここしかない」と言った刹那に、今という瞬間も、ここという貴重な場所にも在りません。
「今、ここしかない」とキザなセリフを発言する自分の概念に閉じこもっているだけです。
本来の「今、ここしかない」というのは、概念という概念を脱皮し去ったときの境地です。
すべての価値判断が消え、暑いも寒いも、都合がいいも悪いも消え去った、清澄な世界です。
風が枯葉の匂いを運んでくるのを感得しただけで、忘我になれる境地です。
それに反して、概念の世界というのは、つねに己の概念の価値基準に合うかどうかをひっきりなしに
気にして、くよくよする泥沼のような世界です。
言葉とか概念とかをいくらこねくり回してみても、泥沼からは抜け出せません。
泥沼の粘度が増し、深度が深まるだけです。
さて、どうしたものでしょうか。
人の意識は、そう簡単にコントロールできるものではありません。
誰もが成功して豊かになりたいと表層の意識では思うでしょうが、そうならないのはその意識の裏に
「でも自分は無理だ」とか「自分なんかが成功してはいけない」などとかいう表層の意識では
感得できない、いわゆる深層意識があります。
さらに、そんな深層意識を抱合するようなレベルの意識、さらに、そんな個的な意識を超えた
集合的な意識などもありえるのですが、話が逸れますので割愛します。
要するに、人の意識は幾重もの層があり、人が意識しているのは一番表層の意識であると言うことです。
誰もが表層の意識では幸せになりたいと願っています。
それではなぜ自分が幸せと感じられない境遇に自分はいるのか。
大方は、その答えに窮して、政治のせいにしたり、境遇のせいにしたりします。
自分の概念が自分の境遇を創っていると思う自分は、そういう外部に原因を求める姿勢には懐疑的です。
もしそうなら、逆に自分が幸せだと思ったとしても、それは自分由来ではなく、
政治や境遇のなせる業だということになります。
そんな主体性の許されない世界観はぼくは受け入れることができません。
それでは、表層の意識とさらに奥に潜む深層意識とを統合することができるのか、ということになります。
禅ではそれができます。
それは確信しています。
いずれ近いうちに、禅の体験を再開しようとは思っています。
ただ、今思うことは、こうして禅を離れて生活しているこの心理状態をきちんと整理しておきたいのです。
それならば、禅を知らない人間は救われないのか。
ここでいう「救われる」というのは仏教的な意味での「救い」ではありません、念のため。
仏教的には、救われていない人間などいません。
そうではなくて、心理的にしんどい人たちの「救い」です。
禅を知っているぼくには、救いの道が一筋見えています。
そうでない人は、どうすればいいのか。
救われていない人間などいない、と本当に実感したのは事実です。
で、再び迷いの世界に迷い込んでいるのも事実です。
「救われたい」と思う心こそが迷いの本体です。
でも、人は迷うのです。
そのときにどうすればいいのか。
探検は続づきます。