風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

猿田彦とヤタガラス

2017年01月31日 | ストーリー

猿田彦「どうだ、このありさまは?」

ヤタガラス「いつものことです」

猿田彦「うん、そうだな。おまえの言うとおりだ。なにも変わっていない、何千年前も何千年も。でもなぁ・・・」

ヤタガラス「それよりも大神様、今は変わり目でございます。本当の変わり目でございます」

猿田彦「それは知っておる。で、このありさまだぞ。民がみずから変わろうとしなければ、なにも変われない。誰も手出しができない」

ヤタガラス「大神様はあきらめなさるか?」

猿田彦「あきらめたことなどない。ただ、いつになったら機が熟するのだと・・・。永いこと待ちすぎた」

ヤタガラス「あらあら、いつから大神様は時間などを気にするようになったのですか?」

猿田彦「ハハハ。民を見すぎて、感じすぎて、このごろは民とおんなじ心持ちになってしまう」

ヤタガラス「民こそはお宝、そうですね?」

猿田彦「うん、そうだ」

ヤタガラス「民を憐れんではいけません。そうなったら、いけません。民は憐れむべきではなく・・・」

猿田彦「うん、おまえの言うとおりだ。民を導くのがわしの使命だ。尊い尊い民の幸を願うのがわしの使命だ。だが、民はなかなか導かせてはくれんからのぉ」

ヤタガラス「百も承知のことではありませんか」

猿田彦「もうよい、わかった。それでは行くぞ」

ヤタガラス「行きますか?」

猿田彦「くどい!」

ヤタガラス「あら、怒っているんですか?」

猿田彦「こやつめ。わしが悪かった。許せ。役目を忘れかけていた。支度せよ」

ヤタガラス「はい!」

 

*昨日、宮崎で撮った写真を見ながらの妄想です(笑)

 

 

 

 

 

 

 


雪虫

2017年01月28日 | ストーリー

わたしが生まれたのは、北海道の十勝の音更という町です。
一人っ子です。
正確には、一人っ子ではなく兄がいたらしいのですが、兄がまだ赤ん坊のときに亡くなったらしいです。
なにが原因なのか詳しいことは両親から聞いていません。

音更は、見わたすかぎりジャガイモやらトウモロコシの畑が広がる何もないところです。
わたしの両親は、その小さな小さな町で魚屋をしていました。
ほんとに見わたすかぎりなんにもない場所で、魚屋なんておかしいでしょう?
海なんて、ずーっとずーっと遠くにあるんですから。
わたしが中学生のときに、町にもスーパーマーケットができまして、両親はその数年後に店をたたみました。
店をたたんで、二人で近所の牧場で働き始めました。

そんなこんなで、すっかり元気のなくなった両親にまさか高校に行きたいとも言えず、
わたしは中学を卒業すると帯広の製紙工場で働き始めました。
会社の寮住まいです。
幸い、先輩方いじめられもせず、休日には同期の子達と植物園に行ったり、糠平湖におにぎりを持って行ったり、
それなりに楽しみました。
両親のことは気にはなりましたが、毎月給料のいくらかを送ってやれるだけで、あとはどうしようもありませんでした。

仕事にも慣れたころ、父親が肺炎にかかり亡くなりました。
父の看病をしていた母にも肺病が移り、その三月後に母もあの世に行ってしまいました。
突然独りぼっちになってしまいました。
数ヶ月のうちに両親を立て続けに亡くしたわたしを、上司や同僚はとてもよく気遣ってくれました。
でも、気遣ってくれればくれるほど、わたしの心は寂しくなってたまりませんでした。

そのころを思うと、今でも胸がいっぱいになってしまいます。
こうして夫も二人の子供もいる今の自分がときおり夢ではないかと思うときもあります。

冬になると十勝では雪虫が舞います。
ええ、ユ・キ・ム・シです。
本当に雪が舞っているようにゆらゆらと飛びます。
雪の匂いってわかりますか?
初雪が降る前に、大気中に雪の匂いが満ちるのです。
ちょうどそのころ、雪虫がどこからともなく大量に現れて、そこらじゅうを舞い飛ぶのです。

子供のころ、不思議でたまりませんでした。
雪が本格的に降るようになると、ぱったりと雪虫たちはいなくなります。
どこかに消えたようにいなくなるのです。
雪虫は動きが鈍いのでかんたんに捕まえることができました。
捕まえてみると、ふわふわの真っ白い毛の中に、ちゃんと黒い羽も胴体もありました。
あれはなんだったのでしょう。
冬の訪れを告げるためにだけに舞い飛ぶなんて、そんなことありえるんでしょうか?

十勝には夏のお盆には何度か墓参りに帰っていますが、冬には帰る用事もないため、20年ほど帰っていません。
いつか息子たちを連れて、冬になりかけの十勝に帰ってみたいです。

 


迷いと探検

2017年01月27日 | 雑感

滝行もしましたし、禅の修業も経験しました。
その最中には本物を手に掴んだ感触が間違いなくありました。
でも、諸事情でそういう修行というか実体験からしばらく遠ざかると、
本物の実体験であったはずの尊い実感が言葉に置き換えられ、脳内にしかないただの概念に堕します。
いくら概念で「今、ここしかない」と言ったところで、実感のない戯言に化します。

概念で「今、ここしかない」と言った刹那に、今という瞬間も、ここという貴重な場所にも在りません。
「今、ここしかない」とキザなセリフを発言する自分の概念に閉じこもっているだけです。
本来の「今、ここしかない」というのは、概念という概念を脱皮し去ったときの境地です。
すべての価値判断が消え、暑いも寒いも、都合がいいも悪いも消え去った、清澄な世界です。
風が枯葉の匂いを運んでくるのを感得しただけで、忘我になれる境地です。
それに反して、概念の世界というのは、つねに己の概念の価値基準に合うかどうかをひっきりなしに
気にして、くよくよする泥沼のような世界です。

言葉とか概念とかをいくらこねくり回してみても、泥沼からは抜け出せません。
泥沼の粘度が増し、深度が深まるだけです。

さて、どうしたものでしょうか。

人の意識は、そう簡単にコントロールできるものではありません。
誰もが成功して豊かになりたいと表層の意識では思うでしょうが、そうならないのはその意識の裏に
「でも自分は無理だ」とか「自分なんかが成功してはいけない」などとかいう表層の意識では
感得できない、いわゆる深層意識があります。
さらに、そんな深層意識を抱合するようなレベルの意識、さらに、そんな個的な意識を超えた
集合的な意識などもありえるのですが、話が逸れますので割愛します。

要するに、人の意識は幾重もの層があり、人が意識しているのは一番表層の意識であると言うことです。
誰もが表層の意識では幸せになりたいと願っています。
それではなぜ自分が幸せと感じられない境遇に自分はいるのか。
大方は、その答えに窮して、政治のせいにしたり、境遇のせいにしたりします。
自分の概念が自分の境遇を創っていると思う自分は、そういう外部に原因を求める姿勢には懐疑的です。
もしそうなら、逆に自分が幸せだと思ったとしても、それは自分由来ではなく、
政治や境遇のなせる業だということになります。
そんな主体性の許されない世界観はぼくは受け入れることができません。

それでは、表層の意識とさらに奥に潜む深層意識とを統合することができるのか、ということになります。
禅ではそれができます。
それは確信しています。
いずれ近いうちに、禅の体験を再開しようとは思っています。
ただ、今思うことは、こうして禅を離れて生活しているこの心理状態をきちんと整理しておきたいのです。

それならば、禅を知らない人間は救われないのか。
ここでいう「救われる」というのは仏教的な意味での「救い」ではありません、念のため。
仏教的には、救われていない人間などいません。
そうではなくて、心理的にしんどい人たちの「救い」です。
禅を知っているぼくには、救いの道が一筋見えています。
そうでない人は、どうすればいいのか。

救われていない人間などいない、と本当に実感したのは事実です。
で、再び迷いの世界に迷い込んでいるのも事実です。

「救われたい」と思う心こそが迷いの本体です。
でも、人は迷うのです。
そのときにどうすればいいのか。
探検は続づきます。

 

 


試み

2017年01月26日 | 雑感

年が明けたと思ったら、もう1月も終わりです。
車の運転は年々速度が遅くなりましたが、時の流れは年々加速します。

認めようが、認めなかろうが、自分の今いる状況というのは間違いなく自分が作ったものです。
未来に途方もない期待と夢を膨らませていた若いころとは違って、今は等身大の自分がいます。
膨大な時間を無為に過ごした自分。
膨大な時間をアルコールに費やした自分。
暇さえあれば寝ていた自分。
最悪の等身大が今の自分です。

このまま規定路線で終わるのかという一抹の不安を覚えながらも、それだけじゃないだろ生命の秘蹟は、
と思う自分もいたりします。
で、答えを探しに本屋に行ったりします。
思いはエネルギーだ、おそらく最強最大のエネルギーだというのは、ほぼ確信しつつあります。
人はその人が思ったとおりになるというのは、たぶん本当です。
では、こんなアル中まがいの生活をぼくが本当に思い描いたものなのかということです。

全否定したいところなのですが、半分は本当で半分はごまかしています。
中高生のころ、例に漏れず、芥川龍之介やら石川啄木などの破滅型の文学に嬉々として耽溺した結果、
ずっと破滅的なイメージがぼくの存在を包み込んでいます。
若いときはその世界観が背伸びした格好よさっぽさもあって心地いいものですが、
年を経るにしたがって、自分がその世界観であること自体がひたすらうっとおしいものになって行きます。

うっとおしいと思いながらも、その思い癖はなかなか直りません。
出世したり、金をもうけたりして、それがどうなる?
どうせ死ぬだけだ、とういうおなじみのイメージ展開です。
そこには、「豊かさ」というものに対する大いなる肯定がありません。
豊かになりようがないし、なるわけもありません。

イメージトレーニングやら、成功哲学で変わるような底の浅い話でもありません。
自分の生きているという事実に対する実感の問題です。
実感は、実感です。
誤魔化すことができません。
さて、どうしたものかと、本屋に行きます。
アナスタシアとか、ラムサとか、刺激的で豊かな世界に浸ります。
興奮もしますし、納得もしますし、瞬間的には本気にもなります。
でも、数日たつと、ぼくのきわめて個人的な観念は変化していないのに気がつきます。
依然として、やってもいいけどやらなくてもいい的な中途半端なニヒリズムから脱しません。

こういうパターンをひたすら繰り返して、今まで生きてしまいしました。

さて、どうしましょう。
生命の秘蹟とやらをつかめるのでしょうか。
乞うご期待(笑)。

ちょっと待ってて下さい。
ある試みをしようと思っています。