われわれの周りは、言うまでもなく、様々な色、音、匂い、手触り、味に満ちています。
感受者の心の状態によって、同じ対象でも感じ方が違います。
快不快が分かれ、好き嫌いが分かれ、良し悪しが分かれます。
滝の導師の教えですが、お経なり祝詞なりを心を込めて読み込むうちに、お経、祝詞の音程というか波動というのが
神仏と通じる「音」になるのだそうです。
口だけ真似事で唱えていても、神仏と共鳴はしないということなのだと思います。
最も真似事からはじめて、暗証して、読み込むうちに、心境の進展とともにそういう境地に至るわけなのでしょうが。
神仏と共鳴する「音」ということになりますが、最近思うには、神仏と共鳴する「色」「匂い」「感触」「味」も
ありえるのではないかと思います。
刻々とその色を変える朝夕の空の色、深い森の匂い、赤ん坊を抱いたときの感触、炊き立ての新米の味。
五感が完全に開かれれば、あるいはこの世は、神仏と共鳴する色、音、匂い、手触り、味で充ちているのかもしれません。
世の中が楽しくないのではなく、世の中を楽しく感受できない濁った心があるだけなのかもしれません。
世の中が厳しいのではなく、森羅万象を豊かに感受できない貧しい心があるだけなのかもしれません。
ぼくなんかは、すぐ心が干からびた感じになります。
疲れて、面白くなくなります。
濁った、貧しい心があります。
そして、なにこれでいいんだとやせ我慢をします。
つまらないことです。
一つ一つの出来事に、五感をふるに動かして、味わいつくすことが大事なのかもしれません。
日々出会う人、聞く音、風の匂い、用意される食事、木々の葉の色。
みな、するすると後ろへ通り過ぎていきます。
前に前にと急ぐ心だけがあります。
前になんか何もないのですが。
優れた芸術作品は、人の五感を通して、神仏との共鳴を目指しているように思えます。
その話は、また長くなりそうですので、また別の機会に。
神仏との共鳴を目指す「味」というのはちょっと思いつきませんが。
料理と捉えるから無理なので、取れたての湯掻いた竹の子や、何やらかんやら、精妙極まる味はいっぱいありますが。
そういえば、雪の匂い、というのもあります。
雪が降りそうなとき、その前に大気に雪の匂いが満ちます。
これは北国の人しかわからないかもしれません。
考えてみると、神仏と共鳴しそうな五感の対象というのは結構いっぱいありそうです。
共鳴しないものの方が少ないかもしれません。
ぼくのようなひねくれ者は、得てして神仏と共鳴しないものの方を好んだりするから、厄介なだけですね。
あははははは←乾いた笑い
感受者の心の状態によって、同じ対象でも感じ方が違います。
快不快が分かれ、好き嫌いが分かれ、良し悪しが分かれます。
滝の導師の教えですが、お経なり祝詞なりを心を込めて読み込むうちに、お経、祝詞の音程というか波動というのが
神仏と通じる「音」になるのだそうです。
口だけ真似事で唱えていても、神仏と共鳴はしないということなのだと思います。
最も真似事からはじめて、暗証して、読み込むうちに、心境の進展とともにそういう境地に至るわけなのでしょうが。
神仏と共鳴する「音」ということになりますが、最近思うには、神仏と共鳴する「色」「匂い」「感触」「味」も
ありえるのではないかと思います。
刻々とその色を変える朝夕の空の色、深い森の匂い、赤ん坊を抱いたときの感触、炊き立ての新米の味。
五感が完全に開かれれば、あるいはこの世は、神仏と共鳴する色、音、匂い、手触り、味で充ちているのかもしれません。
世の中が楽しくないのではなく、世の中を楽しく感受できない濁った心があるだけなのかもしれません。
世の中が厳しいのではなく、森羅万象を豊かに感受できない貧しい心があるだけなのかもしれません。
ぼくなんかは、すぐ心が干からびた感じになります。
疲れて、面白くなくなります。
濁った、貧しい心があります。
そして、なにこれでいいんだとやせ我慢をします。
つまらないことです。
一つ一つの出来事に、五感をふるに動かして、味わいつくすことが大事なのかもしれません。
日々出会う人、聞く音、風の匂い、用意される食事、木々の葉の色。
みな、するすると後ろへ通り過ぎていきます。
前に前にと急ぐ心だけがあります。
前になんか何もないのですが。
優れた芸術作品は、人の五感を通して、神仏との共鳴を目指しているように思えます。
その話は、また長くなりそうですので、また別の機会に。
神仏との共鳴を目指す「味」というのはちょっと思いつきませんが。
料理と捉えるから無理なので、取れたての湯掻いた竹の子や、何やらかんやら、精妙極まる味はいっぱいありますが。
そういえば、雪の匂い、というのもあります。
雪が降りそうなとき、その前に大気に雪の匂いが満ちます。
これは北国の人しかわからないかもしれません。
考えてみると、神仏と共鳴しそうな五感の対象というのは結構いっぱいありそうです。
共鳴しないものの方が少ないかもしれません。
ぼくのようなひねくれ者は、得てして神仏と共鳴しないものの方を好んだりするから、厄介なだけですね。
あははははは←乾いた笑い