風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

五感

2005年06月30日 | スピリチュアル
われわれの周りは、言うまでもなく、様々な色、音、匂い、手触り、味に満ちています。
感受者の心の状態によって、同じ対象でも感じ方が違います。
快不快が分かれ、好き嫌いが分かれ、良し悪しが分かれます。

滝の導師の教えですが、お経なり祝詞なりを心を込めて読み込むうちに、お経、祝詞の音程というか波動というのが
神仏と通じる「音」になるのだそうです。
口だけ真似事で唱えていても、神仏と共鳴はしないということなのだと思います。
最も真似事からはじめて、暗証して、読み込むうちに、心境の進展とともにそういう境地に至るわけなのでしょうが。

神仏と共鳴する「音」ということになりますが、最近思うには、神仏と共鳴する「色」「匂い」「感触」「味」も
ありえるのではないかと思います。
刻々とその色を変える朝夕の空の色、深い森の匂い、赤ん坊を抱いたときの感触、炊き立ての新米の味。
五感が完全に開かれれば、あるいはこの世は、神仏と共鳴する色、音、匂い、手触り、味で充ちているのかもしれません。

世の中が楽しくないのではなく、世の中を楽しく感受できない濁った心があるだけなのかもしれません。
世の中が厳しいのではなく、森羅万象を豊かに感受できない貧しい心があるだけなのかもしれません。

ぼくなんかは、すぐ心が干からびた感じになります。
疲れて、面白くなくなります。
濁った、貧しい心があります。
そして、なにこれでいいんだとやせ我慢をします。
つまらないことです。

一つ一つの出来事に、五感をふるに動かして、味わいつくすことが大事なのかもしれません。
日々出会う人、聞く音、風の匂い、用意される食事、木々の葉の色。
みな、するすると後ろへ通り過ぎていきます。
前に前にと急ぐ心だけがあります。
前になんか何もないのですが。

優れた芸術作品は、人の五感を通して、神仏との共鳴を目指しているように思えます。
その話は、また長くなりそうですので、また別の機会に。
神仏との共鳴を目指す「味」というのはちょっと思いつきませんが。
料理と捉えるから無理なので、取れたての湯掻いた竹の子や、何やらかんやら、精妙極まる味はいっぱいありますが。

そういえば、雪の匂い、というのもあります。
雪が降りそうなとき、その前に大気に雪の匂いが満ちます。
これは北国の人しかわからないかもしれません。

考えてみると、神仏と共鳴しそうな五感の対象というのは結構いっぱいありそうです。
共鳴しないものの方が少ないかもしれません。
ぼくのようなひねくれ者は、得てして神仏と共鳴しないものの方を好んだりするから、厄介なだけですね。
あははははは←乾いた笑い





2005年06月29日 | スピリチュアル
今日激しい通り雨があり、水のからからに干上がった田んぼには恵みの雨だったでしょう。
来週には雨が本格的にきそうで、それまでの辛抱です>農家の皆さん、カエルども
今日の一雨で滝の水量も増えているといいのですが・・・

さて、すべての存在、現象はエネルギー(=光)がその表現形態を変えたものであることは
科学的な常識になりつつあるようです。
光の振動レベルの変動により、物質になったり、気体になったり、電気になったりということらしいです。
つまり、万物、万象の元は「光」。

別な言葉で言えば、もともと「光」しかないわけです。
僅かな量の物質の、物質たらしめている束縛を解いてやると、原子爆弾みたいに巨大なエネルギー(光)が放出されます。
莫大な量の光が物質という姿に封じ込められているわけです。
人間も光がいろいろに姿を変えた諸物質なり、諸波動で構成されています。
この人間という構成をなさしめている束縛を解いたとしたら、どれくらいのエネルギーが放出されるのでしょうか。

その光の凝縮体である人間の思うことといえば、疲れただの、面白くないだの、金がないだのと甚だ後ろ向きなことばかりです。
自分がもともとは「光」でできているというようなことは夢にも思いません。
振動のレベルが下がりっぱなしです。
振動を上げることができれば、活力も出るし、意識も前向きになるのでしょう。

何かいい映画を観たり、適度な運動をしたり、いい曲を聴いたりすると確かに意識の振動が上がり、前向きになった気がするものです。
酒をだらだら飲んだり、ごろごろ無駄寝をしたり、不平を垂れ流すと、とたんに振動レベルが下がり、後ろ向きになります。
そういう意味では、ぼくは後ろ向きのマスターです。
後ろ向きになったときの人間の意識が向きがちな方向や癖はいやというほど知っています。
自分が「光」であることを知れば、自分の外に「光(=希望)」をきょろきょろ探すことが如何に無駄で、
ばかげたことであるかがわかりますが、後ろ向きになったときに限って、自分の外にいる人や偶像や金に救いを求めます。

日ごろから振動レベルを上げること。
そんな方法はいくつもあるのでしょう。
それが何でもかまいませんが、自分の心から陽気に、さわやかになれることであるはずです。
振動レベルを上げに上げ、透明人間になれたら楽しいかなと、今ふと思いました。






雲消し

2005年06月28日 | スピリチュアル
やっとPCも直り、ブログも復活させます。
いろいろなことがあったのですが、なかなか書ききれません。
アメリカでの話や、梅もぎの話や、いろいろあるのですが、まぁ少しずつ小出しに書いていきます。

それにしても雨が降りません。
先日の滝は風呂場のシャワーくらいの水量でした。
それもまた経験なのですが。
100日行をしたとき、台風が5回も来て、文字通り怒涛のような滝もまたあれなんですが。

日曜日の明け方、明け行く空をぼんやりと眺めていたら、ふと雲を消してみようと思いました。
もちろん、Qちゃんのブログを読んでいたからです。
最初は手のひらを向けて念じてみました。
回路が通じたと感じると、するすると雲が消えました。
今度は指二本を指して念じてみました。
やはり、回路が通じたと感じると、雲は数秒で消えました。

じっと見ていると、雲は当然、生成消滅を繰り返しているわけで、必ずしも念のせいではないかもしれませんが、
狙いをつけた雲が消え、そのすぐ隣の雲は変化がないというのを見てますと、念のせいかもしれません。
ベランダから見える雲はわずか数センチほどなのですが、実際の雲はおそらく何百メートル、何キロという大きさのはずです。

雲を消すことができるのなら、雲を発生させて雨を降らすことも可能のような気がしました。
ただ、どこにどのように念を向けていいのかわからないので、どうしようもないのですが。
念の向け方が的確であれば、可能である可能性を十分に感じました。
気まぐれで雨を降らしたりしたら、多くの生き物に迷惑がかかる恐れもあるから、だめかもしれませんが。

人の念がかくも強力なパワーを持っているとするなら、
日々人がどのような念を抱くかはとても大切な問題です。
愚痴不満も念、感謝感激も念、勝った負けたも念。

それぞれの人が持つ念が、その人の声色となり、表情となり物腰となり、
社会に影響を与え、世界に影響を与え、地球に影響を与えます。
陽気で明るい念もあれば、陰気で曇った念もあります。
さまざまな念の交差路で、ぼやぼや不注意に立っていると、種種雑多な念に当てられふらふらします。

ふらふらしていると、誰かに念を送られ、雲のようにするすると消えてなくなります。
それは嘘ですが、自分の念のあり方をもう一度チェックしてみたほうがよさそうです。


出張

2005年06月08日 | 雑感
明日からロスアンゼルスに行きます。
昔の友人から商談の通訳をしてくれと頼まれました。
旅費宿泊費は友人持ちですが、正直、行きたくありません。
ロスアンゼルスは、なんと言うか、殺伐とした町です。
行く前から疲れそうな気がします。

しかも、友人の扱う商品が大人のおもちゃです。
大人のおもちゃの大展示会がロスアンゼルスであるわけです。
非常に気が重いです。
いちいち、その性能やらセールスポイントやらを拙い英語で聞きだしている自分の姿を想像しただけで、
憂鬱になってしまいます。
引き受けたからには、行きますが、でもやっぱり嫌です。

というわけで、明日から来週の14日まではブログをお休みします。
このPCも調子が悪いので、ついでに修理に出します。
おそらく各種データは失われることになるでしょう。
また各種設定をやり直さなければならないのも、気が重いです。

カリフォルニアの青い空を見て、爽やかな気分になれればいいのですが。
年を取ると、明るすぎる空というのにも魅力を感じないもんですね。
冬の山陰あたりの陰鬱な空のほうが落ち着くのは否めない事実です。
せめてラスベガス辺りまで足を伸ばせれば、楽しみがあるのですが。

うーん、やっぱり気が重い。
まぁ、何とかがんばってきてみます。



文化レベル

2005年06月07日 | 雑感
ここ数ヶ月で周囲のコンビニ、本屋、ブティックが次々と撤退していきました。
急速に淘汰が進んでいるようです。
今はどう儲けるかではなく、どう生き残るかの競争です。
なかなか厳しいですが、もともとそれが商売の本筋でしょう。
淘汰されないよう、生き残れるだけの価値創造をしていかなければなりません。

コンビニが撤退し、空っぽになったビルは早速けたたましい音を立てて、取り壊されている最中です。
最近の工事は、建物を建てるのでも、壊すのでも、やかましすぎます。
コンクリートとドリルが擦れ合う音は神経に障ります。
そんなことを言っても仕方がないのですが。

今はどうか知りませんが、つい数年前まで、香港などではどんなに高いビルの建築現場でも足場は竹組みでした。
少しの隙間もなくびっしりと建物が隣接するような香港などでは、竹組みの足場は応用が利ききそうで、
感心したことを覚えています。
だけど、竹って滑るのではないかという心配は、おそらく無用なんだと思います。
竹組みの名人がいて、地上何十メートルかの竹の上で、自在に作業をこなす名人がいるのでしょう。
コンクリートをドリルで穴を開けるのには、名人である必要はありません。
名人たちがいなくなると、文化はつまらなくなっていきます。
便利だけど、つまらないというのは、なんか本当につまらない感じがします。

お客さんに詳しい人がいて聞いたのですが、店にある招き猫は粘土をこねて整形し、軽く焼き締め、
胡粉(貝殻を細かく砕いた粉)を塗って、仕上げの彩色が施されているそうです。
作業工程にやかましい騒音やら、産業廃棄物を発生する余地はありません。
作業をしている傍らで、子供が昼寝をしていたってぜんぜん平気そうです。
そういう普通の生活が、常軌を逸した騒音やらダイオキシンやらで描き回されているのが現代なのでしょう。
こんな世の中を便利と呼ぶこと自体が、文化レベルが下がった証拠なんでしょう。

風鈴の吊り下げられた縁側もないし、金魚売も姿を消したし、スイカを冷やす井戸も埋められました。
温暖化でただでさえ暑くなってきているのに、ますます街が暑苦しく、風通しの悪いものになって行きます。

そういいながら、ぼくも燃費の悪い車に乗って、クーラーを効かせ、鼻歌を歌うわけなんですが。



感謝

2005年06月06日 | 雑感
土曜日は珍しく仕事が忙しく、ブログはお休みしました。
なんか一時の金銭的な窮状が打って変わって順調になりつつあるのですが、
こんな時こそ気を引き締める必要があります。
怠けたい、自慢したい、遊びたいという自堕落な欲求が、たちまち頭をもたげます。
人間性がまだまだ甘く、浅く、小ずるいです。

と言いつつも、今のところ早起きは持続中です。
無理して起きるわけではなく、すっと目覚めます。
これはぼくにとっては奇跡に近いです。
ぼくの眠り病の実態を知っている人が知ったなら、驚くでしょう。
東北巡礼が何かぼくの気がつかないところで大きな意味を持っていたのかもしれません。

以前、滝の導師が、ぼくの先祖の誰かが中尊寺の造営に関わったことがあるかもしれなというようなことを、
ちらりとおっしゃってくださいましたが、ひょっとすると今回、中尊寺近辺をお参りしたことが、
幼少の頃からの頑固な眠り病治癒に、関わりがあるかも知れません。
両親それぞれのお墓参りに行ったこと、ボケかけた父親の溶けるような笑顔を見れたことも、
何か関係があるのかもしれません。

なんにせよ、今まで心から離れなかった得体の知れない「後ろめたさ」みたいなものは
なくなったか、薄くなったかのような気がしています。

こうなれたのも、皆様のお陰だとはつくづく思ってはいるのです。
関わるすべての人々に、神仏に、世界のすべてのことに、心からの感謝をささげられればよいのですが。
まだまだ心の中に、過去から引きずっている「澱(おり)」みたいなものが、こびりついています。
心から感謝するためには、もっともっと透明にならなければいけません。

すくなくとも、前を向いて歩いていく準備はやっと出来たような気がします。
馬鹿みたいな話ですが、そんな段階です。
そんな段階でも、ぼくとしては、なんだかうれしいです。

雑念

2005年06月03日 | 雑感
早起きすると、今まで知らなかったことを見聞きします。
住んでいるところのベランダから眼下に公園が見えます。
そこで、毎朝8時から中高年の人が集まり、ラジオ体操をしています。
それから、砂場の周辺に飼い犬を連れた人たちが10人程度集まって、
お互いの犬の品評会でもしている雰囲気です。
こういう光景が毎朝繰り返されていたわけです。
その一方で、毎日昼近くまで、ぼくは泥のように寝腐っていたわけです。
これで夢や情熱がもてるわけはありませんね。
あはははは←乾いた笑い

さて、厄介なのは雑念です。
怠惰な時間をすごしていると、頭の中はセイタカアワダチソウのごとくに雑念だらけになります。
雑念だらけで、まともな意志やら想念やらが育つ隙間がなくなります。
焼き鳥を食いたいだの、今日は何時から酒を飲もうだの、今通り過ぎた女性の後姿だのばかりが、
脈絡なく頭の中を次から次へと繰り出してきます。
そうして気がつかないうちに一日が終わります。

雑念は夢の中にも入り込んできます。
ユングがその分析の対象にしたような、まとまったイメージを構成するような夢は見ません。
途切れ途切れのろくでもないイメージが、消えては浮かび、浮かんでは消えます。

頭の中もきちんと芝刈りをしないといけません。
そうしないとまともな樹木が育ちません。
禅の初心者に対する注意としては、雑念を起こさないということも執着の元になるから、
雑念が起きてもそれに捕らわれない、雑念を起こるがままにとことん流し去ってしまう、と言います。
すると、ぼくとしては日常の頭の中は雑念しかないので、雑念を流し去ってしまいますと、
頭の中が空っぽということになります。
頭の中が空っぽでもいいのだと言われても、さすがに不安です。
じゃあ、雑念に身を任せれば安心なのかと聞かれれば、それは違うんですが・・・としか言いようがないのですが。

雑念の雑念たるゆえんは、雑念は幾らそれを追いかけても、どこにも連れて行かないということです。
心地よさそうな幻想の中に放り出されて、おしまいです。
何も実らせないくせに、生命力だけは旺盛な雑草です。
虫除けにもなりませんし、保水力もありませんし、ましてや食べられません。

雑念で頭をパンパンにさせて、何か考えているつもりになることもあります。
厄介ですね。

早起きついでに、座禅もちょっと本気をだしてしてみようかな、とちょっと思います。




情熱家

2005年06月02日 | スピリチュアル
だんだん蒸し暑くなってきました。
クーラーではまだ寒いという人もいるため、店の入っているビルはクーラーではなく送風です。
狭い店の中はハロゲンライトに暖められた空気が、送風の風でかき回されています。

世の中には情熱家と呼ばれる人々がいます。
具体的なものであれ、抽象的なものであれ、対象に向かって一心に向かっていく人々です。
芸術家なんかは、情熱家でなければ、作品が形になるまでとても辛抱が続かないと思います。
こういう人たちにとっては、この世は大いなる晴れ舞台です。
思い切り自分の役を演じきるだけです。
演じきるための困難をものともしません。

一方、あの世の「本当のこと」に情熱を傾ける人々もいます。
この人たちは、この世の情熱家たちとは違って、この世に深く悩み、絶望したからこそ、
あの世の「本当のこと」を追い求めるようになりました。
彼らは影のような「本当のこと」を求め、時には身を削り、時には瞑想し、時には山に籠ります。

上記二種類の情熱家の、情熱を向ける方向は全く逆方向です。
逆方向なのですが、その方向性を極めたところで、二者のあり方は一致するように思われます。
前者はこの世の自分の行いを通じて、あの世の「本当のこと」を感受し、後者は「本当のこと」に行き着いたとき、
この世の尊さを再認識します。
二者とも、あの世もこの世も一体不二であることを、深い感慨を持って知るにいたります。

そして、情熱家には程遠いぼくがいます。
無駄な考えや思いにがんじがらめになっています。
無心に何かを追い求めることが出来ません。

道元禅師は、何かのために座るのではなく、座るそのことのみのために座るみたいなことを言っています。
「何かのため」という功利臭さが残る行為は、無心を妨げ、情熱を妨げます。

子供の頃から、「何かのため」になるかならないかで価値判断を強いられてきた習性は、
なかなか断ち切れません。
ここに「在る」ことそれ自体が恩恵であり、祝福なのだと、全身で受け止められる日が来ればいいのですが。




早起き

2005年06月01日 | 雑感
なんと今朝は5時に起きました。
東北巡礼の旅の大きな成果です。
この調子で、早起きするといいんですが。

そのまま調子に乗って7時前に店に行ったら、まだビル自体が開いていませんでした。
近くの神社に行ってお参りしたり、川端を自転車で走ったりしてビルに戻ったら、開いてました。

早起きすると、時間がたっぷりすぎるほどあります。
張り切ってなんかしようと思うのですが、することがありません。
なんでもぎりぎりになってからしか、頭も身体も動かない習性がついていますので、
計画を立てたり、経理をしたり、掃除をしたりというのは苦手で困ります。

ボーっと、コーヒーを飲みます。
9時になるのを待って、銀行で何件かの振込みを片付けます。
いよいよすることがありません。
また、ボーっと、コーヒーを飲みます。

旅行中は、A氏が細かく計画を立ててくれたので、スケジュールが詰まっていましたが、
店では何でもかんでもぼくが考えて、動かなければなりません。
だいたいのお客様が、ぼくが昼過ぎからしか来ないと思っているので、午前中はお客様も来ません。
インターネットショップでも開くしかなさそうです。

勉強しなければならないこともたくさんあるのですが、
午前中から1-2時間も勉強すると、一日にすることがそれで手一杯と思ってしまうから、不思議です。
許容量が狭いのでしょう。

今まだ2時です。
まだたっぷり時間があります。
普段の三倍くらいの時間がある感じです。
それだから、こうやってもてあました時間をブログ書きに費やしているわけです。
緊張感がないことはなはだしいです。

どうも切羽詰らないと頭が回転しない癖がついています。
へこたれず、修正していかねばなりません。
狩猟民族型の思考から、農耕民族型の思考へ。

できるかなぁ・・・