風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

焚火

2016年02月05日 | 雑感
というわけで、今日も山に登ってきました。
歳を取るとどうしても膝が弱くなり、特に下りでは膝が壊れてしまうんじゃないかと思うくらいに
がくがくになっていましたが、登山用のステッキを持つようになってから、登りも下りもへっちゃらになりました。
便利なものがあったものです。
ステッキと軽登山靴をいつも車に積んでおいて、隙さえあればいつでも登れる体制にしようと思っています。

山といっても、近郊の標高数百メートルの低山ですから、往復数時間もあれば登れます。
おにぎりとお茶をリュックにいれて行けばOKです。
実はこういう低山は冬場がベストシーズンです。
歩き出したら体がポカポカして暑いくらいですし、冷たい風が心地よいです。
逆に夏場などは暑さと湿気と虫でウンザリします。

東京にいたころは、月に一二回は信州に山登りに行ってました。
新宿発の夜行列車で早朝に現地に着き、日帰りで山頂を往復し、駅前で信州そばを食べ夜の列車で帰るというパターンでした。
ゴールデンウィークと11月の連休は泊りがけでどこかの山を縦走するのが何年かの習慣でした。
ですから、九州に着たてしばらくのうちは、登りたくなるような高い山がないのがとても寂しく感じたものです。
そのうち山に登る習慣もなくなり、すっかり体力も気力も衰えました。
で、ふと見回せば、老体が登るのに格好の低山が周りにあるのに気づいて登り始めたという次第です。

そういえば、海で泳ぎ始めたのもここ数年のことです。
若いころはもちろん潜ったり泳いだりしていましたが、そのうち海はバーベキューしたり、不純な動機にまみれたり、
そんな感じで過ごすことが多くなって行きましたが、娘を連れていくようになり、どせならとクロールでしっかり泳ぐように
なりました。
どんどん無駄に健康になる中高年です。
娘がまだパパというものにポジティブな幻想を抱いているうちに(あと数年?)、キャンプと登山だけは教えたいです。
あと、神社参拝の仕方といろいろな形の雲があるということを教えておきたいです。
以前は仕事柄一年に数度は海外に行っていましたが、ここ数年はとんとご無沙汰です。
娘を連れてイタリアとロンドンに行きたいです。
これはどうかな。
今のところその可能性は見えません。

まぁ、なんでもいいです。
全ての経験は本来平等に尊いです。
畑で草をむしる喜びも、パリのカフェで街行く人々を眺める喜びも、「喜び」です。
全ての瞬間を喜べる人になるのを、「悟り」といいます。
悟りはある状態や段階ではありません。
悟りは「行為」です。
誰でも可能な行為です。

なんだか合掌したくなりました(笑)








消え方

2016年02月04日 | 雑感
一昨日近辺の山に登ったのですが、風は冷たいのですが陽射しが春めいてました。
節分、そして立春と暦の通りですね。

四捨五入すると還暦の歳になりました。
自分が年寄りになるというのはまだなじめません。
いずれ何もかもが弱って、否応なしになじんでいくのでしょうが。

何かをし遂げようとか、残そうとか思ったことがありません。
いつも目の前に起きる事象を楽しんで消化しようとしてきたような気がします。

でも、最近ふと思います。
なにもし遂げる必要も、残す必要も無いとは思うのですが、足跡すら残さず消えてしまうのだろうかと。
うちの娘はぼくの母親のことも父親のことも全く知りません。
両親とも東北で生まれ育ちあの世に逝きましたから、仕方がないとは言え、
九州生まれの娘は彼らに会ったことも、彼らに関する話を誰からも聞いたことすらありません。
おそらく彼女はぼくの母親や父親の存在を全く知らないまま成人していきます。
彼女にとって僕の母親、父親という存在は無です。
ぼくの両親の足跡を知らないどころか、その存在すら知りません。

娘が成人するころには、ぼくは70近くの老人です。
自分の若いころをを振り返ればわかりますが、成人するころの青年にとって70近い老人の心境など、
まったくどうでもいいです。
若い人間というのは、自分の進路と自分の伴侶だけが関心の的です。
そういうものです。

人間も年取ってそのまま煙のように消えてなくなればいいのですが、そうもいかないから始末に困ります。
葬式だのなんだのになります。
このまま死んで、葬式などされるなどと想像しただけで、恥をさらすだけじゃないかという気がします。
野山に捨てられて、朽ちていくというのが一番親切なんじゃないかと思ったりします。

立派な足跡を残して死ぬ人もいます。
周りに迷惑ばかりかけて死ぬ人もいます。
誰にも気が付かれずひっそり死んでいく人もいるでしょう。
なんにせよ、人は死にます。

そして、なんにせよ、人は死ぬまで生き続けます。
人がコントロールできるのは、おのれの生き様だけです。
焼酎を飲みながらぼんやりそう思います。

この例に寄った感傷パターンがたまらなく月並みなわけです。

それで、そんなこんなが嫌になり、月を見ます。
真正面から、じっと月を見つめます。
とりあえずぼくはうなだれて見せます。
その次に、顔を上げて歯をむき出しにして月に向かって笑って見せます。
そして月から目をそらし、星々を仰ぎます。
大きく仰ぎながら、深く深く深呼吸をします。
何があるのでもなく、何もないのでもありません。
ぼくの呼吸と星々の光の明滅のリズムが溶けあいます。
時は止まり、微笑みだけが天空に満ちます。

明日も山に登ってこようと思っています。