風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

底を抜く

2009年02月28日 | 
底が抜けまいと頑張るからくたびれる。
底が抜けたらさぞかし風通しがよくなって、気持ちが良かろう。
春風が吹きぬけ、蝉の声も、落ち葉のささやきも、雪の舞いも、抜けた底を通り抜けていくだろう。

底に溜まっているのは、感情の泥。
誰にも振り返ってもらえなかった熱く積もった感情の泥。
底を抜いてしまえば、大空と繋がる空間、

底を抜くのは少しの勇気。
底を本体に止めているネジ釘を一本一本緩めて抜き取ればいい。
底が抜けた時、何のために溜め込んで溜め込んだものの重苦しさに何のために耐えていたのかが分からなくなる。

分かったつもりの感情。
分かったつもりの集積。
底を抜いてしまえば、どこまでも広がる大空ばかりがぽかんと広がる。


則天去私

2009年02月25日 | 雑感
夏目漱石の有名な言葉に「則天去私(天に則り私を去る)」というのがあります。
漱石が、晩年に辿り着いた境地といわれています。
高校生の頃、この言葉を知ってかっこいいと思ったぼくは、ノートの表紙にこの言葉を大きく書いたりしてました(笑)

「大いなる天の摂理に身を任せ、私利私欲を離れて伸び伸びと生きる」というような意味でしょう。
自らのエゴイズムと格闘し生涯苦しみ続けた漱石が、すべての苦しみの根源である「私」から去ってしまいたかったのは、
魂の切実な叫びであったでしょう。
「行人」などの小説を読みますと、エゴイズムの底なし沼です。
漱石は大変に真面目な人でしたから、エゴイズムから全く目を反らすことなく、沼の底を苦しい手でかき回していきます。
そんな人ですから、当然のごとく神経を病み、胃を患いました。
「去私」という願いは本当のことであったに違いありません。

ですが、「則天」の境地は終に漱石が参入し損ねた言葉のような気がしています。
自我に苦しむ漱石は、実際に鎌倉円覚寺の門を叩いて、禅の世界を覗いてみようとしました。
けれでも、頭脳の働きを放擲せよと迫る禅の世界に手ぶらで入るには、彼の頭脳は明晰すぎました。
頭脳の世界も地獄、禅の世界も閉ざされ、漱石はそれでも自我の追及をやめませんでした。
そんなことをしていれば、誰だって神経衰弱になり、身も痛めます。
修善寺の大患と呼ばれる大吐血をします。

おそらく「則天去私」という言葉は、その大患後辺りに漱石の口から出てきた言葉なんだと思います。
「天」という概念は、中国の古典に造詣の大変に深かった漱石には大いになじみのある言葉でした。
心身とも疲れ果てた真面目な漱石は、そのなじみ深い「天」に身を任せたくなったのでしょう。
でも、漱石の悩めば悩むほどに強化された自我は、漱石をそう簡単に手放してはくれませんでした。
天に身を任すというのは、文字通り全身全霊をあるがままに投げ出すことです。
ところが、自我というのは、投げ出すにしても投げ出す場所や時や理由をあれこれと詮索するものです。
つまり、自我というのは詮索が仕事なのであり、投げ出すという決断をする能力は与えてられていません。
結局、漱石は再度吐血し、この世を去ります。

「則天」という境地を本当の意味で体感したのなら、すべては「則天」の一語ですむはずなんです。
そのあとの「去私」というのは、蛇足になってしまうはずなんです。
「私」なんていうのは去ろうが去るまいが、「天」の摂理に包含される一機能に過ぎないはずなんです。
漱石は、「天」と「私」という二項対立から終に自由になれなかった人だとぼくは見ています。

かくも真面目な人が、その不自由な二項対立から自由になることができたら、おそらく日本中に風が吹いたでしょう。
なんともいえない爽やかな風が吹いたに違いありません。

でも、漱石の初期の小説には、その爽やかな風があちらこちらに吹き抜けているんですけどね。
その当たり前に彼の心の中を吹き通っていた風を、彼は当たり前すぎるが故に見逃し始めたんだと思います。
爽やかで豊かなユーモアという風。

「何のためでもない息吹、神の中のそよぎ。風。」  リルケ


接心

2009年02月24日 | スピリチュアル
先週一杯、禅道場に通いました。
接心といわれる期間で、多くに人たちは泊り込みで参禅します。
ぼくは仕事があるので夜だけ参加しました。

臨済宗の流れを汲んだ禅堂ですので、ほとんどの人が老師から公案を頂いて参禅します。
ぼくはどちらかというと只管打坐の曹洞宗式に憧れを持っていたので、老師との接見は望みませんでしたが、
何人かの強い勧めもあって、日程の途中から老師との接見をさせていただきました。

公案を頂き、文字としての答えはすぐ浮かびました。
どう考えてもその答えしかないように思いました。
次の接見のとき、その答えを携えて老師の下へ参上しました。
「それは説明だ!それになりきって来い!」と一蹴されました。

なりきること。
これがぼくにとっては難しいことでした。
イメージとしてはどういう状態に自分がなればいいかは分かるのです。
大根役者が役になりきろうとするような意味では分かるのです。
でも、身命一体となって本当になりきることというのは、なりきるのみです。
文字面の解釈、分析を一切ぶん投げて、ひたすらなりきるだけです。

次回の接心は4ヶ月先です。
それまでに、なんの衒いもなくすぅ~っとそれになりきる心境になっているのかどうか、ぼくには分かりません。
分かろうとすること自体が、小賢しいだけです。
だからこそ、坐るということが大切になってきます。
あれやこれやと動き回る頭を静める状態になることが絶対に必要となってきます。

完璧な修行法だと痛感しました。
正師につくというのが絶対条件であるという意味も初めて腹に収まりました。
正師に対する完全な信頼感がなければ、なりきることなどできるはずもないのです。

なんにしても、大したものです。
公案を練るというという言葉がありますが、あと4ヶ月、ぼくは一つの公案を練り続けるわけです。
油断したら、クズグズになってしまうのは明らかです。
自然な緊張感というのは、なかなか持続するのが難しいことです。

己の心の気紛れブリというのを思い知ることになるでしょう。

振動

2009年02月23日 | 
喜ぶとは、命が振動すること。
苦しむとは、命が硬直すること。

喜ぶとは、全細胞が己の役割を知ること。
喜ぶとは、役割を知った全細胞が融けあうこと。

愛とは、限界を超える意志。
その意志を支えるのは、喜び。
喜び、それが命のエネルギー。

空を見て振動せよ。
人の笑顔を見て振動せよ。
大地を渡る風を感じて振動せよ。
心臓の鼓動を感じて、身もだえして振動せよ。

硬直した命はぶつかり合い、振動する命は融けあう。
ただそれだけのこと。
ただそれだけであるからこそ、合掌して振動せよ。


魂の色

2009年02月15日 | 雑感
自分の子供のころの記憶を辿っても、娘を見ていても思うのですが、
誕生して人間界に放り込まれて、親や周囲の感化で会話や作法や感情の表し方を一つ一つ覚えていくというよりも、
もともと持って生まれた魂に、それぞれの環境で育つ過程でその環境なりの流儀を刻み込んでいくという感じのほうが
しっくりするような気がしています。

氏より育ちとか、血は争えないとか、素質と環境と関係に関して全く逆の見解を表す諺があるように、
素質と環境、どちらも人の人格形成に大いに影響を与えるのでしょうが、
その大元に持って生まれた魂というものを考慮に入れると、より分かりやすくなるかなぁと思ったりします。

持って生まれた魂の色合いとでも言うのでしょうか。
知性やら経験で培われる技能というのは後天的に増幅可能でしょうが、魂の色合い、微妙な感性みたいなものは、
先天的なものの方が強い気がします。

娘などを見ていても、ぼくら親の真似をして学習したというよりも、誰に学んだのか検討もつかないような
独自的な表現の方が遥かに多いです。

で、一人一人のその魂の色合いみたいなものを見てあげる余裕が今の世の中にはあまりにもないのかもしれません。
学歴と表面的な容貌・所作で一生の就職を決められるというのは、あまりにも窮屈な仕組みです。
知性の評価というのは、基本的には記憶力と分析力の評価ということになるのでしょうが、
感受性やら洞察力やらユーモアとかいう大切な人間性はなかなか評価の対象にはなりません。

人間が人間を評価するというのは、とても難しい話です。
わが子でさえ理解するのは難しいことなのだと思います。
なんだかわけが分からないうちにダメな子だと評価された子供は未来に希望をもつことが困難になるでしょう。
勉強だけで評価されてしまった人間は、その逆に傲慢になるかもしれません。

それでも現実には、人は自分の付き合う人間を評価し、選択せざるを得ないところがあります。
他人を評価し、選択するということは、自分も評価され、選択されるということです。
低い評価をされ、選択されなかった人間の魂はひたすら深い傷を負うことになるでしょう。

正規に就職できなかった人間は、負け組みと呼ばれ、フリーターやらニートといった社会の低層に沈められます。
選択肢の幅が狭すぎるのです。
就職など、ある程度の社会経験を送った後に、自ら湧きあがる意欲を持って会社なり社会なりに貢献した方かいいです。
それを大学途中から皆一様に同じスーツを着て就職活動して、勝ち組、負け組みを決めるなんていうのは馬鹿げています。
卒業後就職したい人がいてももちろんいいのです。
どの分野が自分に向いているのかよく分からない人間がいて、色々猶予したい人もいていいのだと思います。

ぼくは30過ぎまで具体的になにをしたいとか、何が出来るなんて事は皆目分かりませんでした。
いまになって、こんな感じでいいのかもしれないとぼんやり思う程度です。

学問を評価の対象にすると、学問の底が浅くもなります。
学問は学ぶ喜びとして教えるべきだと思います。
漢字を覚えるのも、数式を解くのも、歴史の群像を知るのも、喜びです。
大いに喜び学んだ人間の結果としての点数評価はその価値が大いにありますが、
点数の低い人間への人間としての低評価を避けなければなりません。
学ぶ喜びを知らないだけなのです。
本を読むことが苦手なのかもしれません。
誰しも何かしらの得意分野があるものです。
得意分野を伸ばすと、自然とその他の分野にも興味が湧くものです。

実社会でも売上げやら給与やらで数値で評価されます。
学校も点数で評価するのは仕方がないことではあります。
ただ、その数値では決して捉えられない魂の色合いというものを、すべての人が一人一人持っているのだという視点を
忘れなければいいのですが。

2009年02月13日 | 雑感
朝方、風のうなり声で目が覚めました。
妙に生ぬるい風がビュンビュン吹いていました。
なんでも春一番だそうです。
二月の半ばに春一番って、聞いたことがないような気がします。

新聞では連日政治家や行政や企業の不祥事が報じられています。
バレればまずいと知りながら、平気でアクドイことをする人間がこれだけいるということです。
人間の尊厳やプライドといったものは何の価値もないということを世の中の若い世代にこれでもかと教えてくれています。
たいした大人たちです。

日本から恥という文化概念を抜き取ったら、おそらくたいしたものは残らないだろうとぼくは思っています。
法律に触れるからとか損するからではなく、天に恥ずかしいことはしないという世界に冠たる文化です。
多少の無茶や悪さは多めに許容するが、本当に恥しらずなことはしないというプライドです。

道徳教育さえ価値観の押し付けだといって排斥される時代の当然の結果でもあります。
教育というのは価値体系の伝授以外にありえるのでしょうか。
価値体系そのもはいろいろな側面から多様であってしかるべきですが、価値体系を教えることを否定されたら、
教育の現場で教えることのできることっていうのは何が残るのでしょうか。

共産主義の考え方を教えるのもいいし、神道の考え方を教えるのもいいし、イスラム教を教えるのもいい。
その価値観の多様性の中から、自ら生きる上での精神的支柱を探り当てていくのが学問でしょう。
道徳というのは、その多様性をどう生かすかという心の基本姿勢の涵養です。
心の姿勢ができていない人間に多様性ばかりを与えたら、デタラメになるだけです。
なにをどうしようが、どう考えようが、それを肯定も否定もできないカオスになります。
で、まさに昨今の状況はカオスの様相を呈してきました。

こういう状況に対して苦々しく思っている人のほうが多いのだとは思います。
でも、メディアはさも正義を主張するかのような顔を装いながら、カオスを助長としているとしか思えません。

これだけ不祥事が多いにもかかわらず、当事者たちが厳しく処断されないというのも、近頃の風潮です。
恥という概念が見事に踏み潰されています。

昔の方が良かったという風には思いません。
でも、これだけ学ぶ機会が与えられているのに、成長どころか退歩する無様な爺どもはさっさと散れ、と思います。

穏やかな笑みを湛えた立派な爺様がたくさんいる国になって欲しいです。



国力

2009年02月11日 | 雑感
娘が喋るようになりました。
朝、布団にもぐりこんできます。
その時に二人でする会話の時間が至福の時です。
一瞬たりともじっとしていない娘の注意を引き付ける話題を繰り出し続けること。
反応が素晴らしく早く、冷徹で(笑)、面白いです。

自動車、家電をはじめ輸出形の企業が続々と赤字です。
生き残りをかけてどこも必死でしょう。
ここで円安誘導のためと称して、アメリカ国債やらドルを買うような政策で誤魔化そうとすれば、
日本経済はおそらく立ち直れません。
円安にしたから売れるというような世界の状況ではありません。
円高をテコにするような経済政策が必要です。
国内を思い切って潤わすことです。
豊かな実感のない国民に、豊かさを与えることです。
しようと思えば、今でこそそれができるのですが、そういう動きは政財界にありません。

結局、そうはならない可能性が強いのでしょう。
日本にためてある国富が、分けの分からないうちに消えてなくなる公算のほうが大きいかもしれません。
それでいいならそれでもいいのです。
貧乏になっても、誇り高く豊かな心で生きる心構えさえあるのならそれでもいいです。

クリントン女史が民主党の小沢代表と会談をしたいという申し出があったそうです。
きな臭い話です。

朝日新聞の「経済気象台」という小さなコラムは朝日新聞らしくなく(笑)、非常に公平的確な記事なのですが、
その国の通貨の価値が高い時の経済学というのは、かつての英国や米国では論じていられた分野であるが、
日本にはそれがないというような記事でした。
その通りだと思います。
英国は大英帝国の栄華をほしいままにし、アメリカはご存知の通り世界中に絶大な影響力を及ぼし続けました。

今、世界で一番強い通貨は円です。
日本という国の生産力が半端でないからです。
その生産力を生かすためには、国外に輸出するか、国内で消費するしかないわけです。
国外の需要が見込めないのなら、市場は国内だとするしかありません。
でも、国内には一部の金持ちと、大多数の困窮者がいます。
国全体から見れば、大金持ちの国民であるにもかかわらず、です。

お金というのは相対的な価値しかありません。
国力が豊かなら、その国の通貨は強くなりますが、このまま生産力が落ちれば、通貨の力は弱まります。
生産力が弱くなった段階で、通貨の力が弱くなった段階=円安を迎えても、ますます経済力が落ちるだけです。

今がとても大事なときです。
景気がどうのこうのよりも、日本の進路の問題ではないかと思います。


2009年02月09日 | 雑感
雨が降っています。
この時期に降る雨を氷雨というのでしょうか。

雀の生息数が数十年前から比べて20パーセント位にまで激減しているという記事を読みました。
身の周りから消えた生き物としてゲンゴロウ、メダカ、ドジョウ、ミズスマシ、モンシロチョウ、赤とんぼ、そして雀まで来ました。
その次は、ウサギ、イノシシ、鮎、鯉、鮭、鹿、熊ときて、最後に人間に来るのでしょう。

アセンションという話があります。
そういう絶滅しつつある動植物こそ続々とアセンションし続けてているのかもしれません。
最後までエゴにしがみつくのが人間だったということにはなりたくありませんけど、さてどうでしょうか。

戦争が嫌だと言って戦争がなくなるわけではありません。
贅沢をしたいと思って贅沢をできるわけでもありません。
平和に暮らしたいと思えば、平和になるわけでもありません。

戦争を起こす人の心を突き止めれば、それを阻止することができます。
贅沢という幻想を打ち破れば、人は常に贅沢な存在です。
平和な暮らしというのが、すべては自然の恵みの上に依存していることを知れば、受身の平和などないことを知るはずです。

雀が身の周りから消えたら、そりゃ寂しいです。
人の姿が見えなくなっても、雀の姿が見えたほうがいいです。


雪の夜

2009年02月08日 | 
嫌いなものから逃げたら、嫌いなものから追いかけられる。
好きなものを追いかけたら、好きなものは逃げる。
追いかけもせず、逃げもせず、人は陽だまりの下で微笑んでいればいい。

冬には雪が舞い、春には桜が舞い、夏にはタンポポの綿毛が舞い、秋には枯葉が舞う。
じっと坐っていればこそ、世界は舞い続けるのだから。

雨の日は雨だれの音を聴き、嵐の日には風のうなり声を聴けばいい。
炊き立てのご飯をほおばり、味噌汁の匂いを吸い込めばいい。
天気が上機嫌なら畑を耕し、種を植え、実った野菜を取り込めばいい。
時には街に出て、道行く人と挨拶を交わせばいい。
味噌や醤油をくれる人がいればありがたく頂いて、たっぷり仕込んである漬物をお礼に差し上げればいい。
米を買うために、週に三日は道路工事に出ればいい。
あれやこれやら嫌味を言われても、笑って聞き流せばいい。

朝は早く起きて、目くるめく天空の色彩の移り変わりを眺めるといい。
寝る前に外に出て、星星のささやきに耳を傾けるのもいい。
寒い夜には焚き火を焚いてみるのもいい。
炎は思いのほかに雄弁だ。

雪が降り積もる日は大切な日だ。
降り積もった雪の上に大の字に寝転んで、空を見上げてみよう。
白い空間から、際限もなくひらひらと舞い落ちる雪。
水の精が思いのたけを尽くして舞い踊る日だ。
その優雅さを、その謙虚さを、その清冽さを、その軽さを全身で受けてみよう。

そして、ひとしきり雪を楽しんだら、家の中に入ってうんと薪を燃やしてみる。
それに昆布を敷いた鍋をかけ、酒と醤油を入れて、大きめにぶつ切りにした大根を炊く。
煮える間、少し贅沢してお酒を3杯ほど飲む。
生きているということがそのまま至福であることをしみじみと味わう。
熱々の大根ができたら、遠慮なくふーふーいいながら頬張る。
外では音もなく雪が降りしきり、時折屋根からどさりと雪が落ちる。
大根を食べ終えたら、残った汁のなかに冷や飯とみじん切りにした大根の葉を放り込む。
雑炊をすすって、至福の宴は終了だ。

冷え切った布団にもぐりこむのも、火照った身体には心地よい。
ここには好き嫌いがない。
祝福があるだけだ。

時折、パチパチとはぜる焚き火の音を聴きながら、音のない雪の夜に紛れ込んでいく。

チェ・ゲバラⅡ

2009年02月06日 | 雑感
「チェ」の第二部を見ました。
キューバの時と違って、共産党の支持も民衆の支持も得られず、苛酷な条件の中で消耗戦を強いられていく。
一説によりますと、ゲバラがキューバを出てボリビアに向ったのは、歯に衣を着せずものを言うゲバラはソ連共産党に嫌われ、
ゲバラが交渉相手なら物資の援助を止めるといわれ、キューバ人民のことを考えて政権から身を引いた、
という話もあります。

大袈裟なBGMも効果音もなく、ゲリラが次第にボリビア政府軍に追い詰められていく様を淡々と描いています。
状況は日に日に悲惨になっていくのですが、ゲバラは喘息に苦しみながらも最後まで人間味を失いません。

この映画には大袈裟な主張も教訓もありません。
ゲバラという魅力的な男の姿が淡々と描かれていくだけです。
淡々と描かれているからこそ、見ている者の心にじわじわとゲバラという人間が入り込んできます。
死ぬことを本当に怖れずに生き切った男でした。

昨日はメンズ・デーでしたので、もう一本「シャッフル」という映画を見ました。
全く予備知識がないままに見たのですが、これも面白かったです。
ホラー映画ではあるのですが、心が空虚になると闇が心に忍び込むというようなことを言いたかったのでしょう。
その空虚を埋めるのは、愛しかないという感じで。

その後、歩いて足腰を鍛えなきゃと思って公園で歩きました。
意志と身体を使わなければ、人は誰にも貢献できません。
怠惰という大きな罪をぼくはしょっちゅう犯します。
冷たい2月の大気を吸い込み、ゲバラの一生を考えながら歩きました。



薫陶

2009年02月02日 | スピリチュアル

久しぶりに雲ひとつない陽光溢れる空が広がりました。
明日は節分です。
すべての人にとって良い節目となれば何よりです。

映画「禅」を見ました。
日本映画の例によってベタベタの出だしで、どうなることやらと思っていましたが後半は持ち直しました。
エンディングは?でしたが。
まぁ、いいです。
「只管打坐」の境地を映像で表現するというのは、そりゃ無理というものです。
でも脇役陣がいい味出していました。

2月15日から市内の坐禅道場で一週間の練成会があります。
仕事を終えてから、夜だけでも行こうかと思います。

春になったら滝行も再開したいと思います。
本当は冬こそ滝行の醍醐味なのですが、まぁあれです(←モゴモゴ)

考えてみると(考えてみなくても)、ぼくはずいぶんと幸せです。
資金繰りには苦労していますし、この先も苦しみ続けるでしょうが、それでもずいぶんと幸せです。
こんなに幸せでいいのだろうかと思うくらいに幸せです。
何一つ不足を感じません。
その上、坐禅やら滝行やらに参加できる自分の身の上をありがたいなぁと思うばかりです。

滝行のお陰で、焼肉やらステーキやらを食べなくても、炊き立てのご飯さえあればご飯がおいしいと感動できるようになりましたし、
坐禅は人の心という複雑怪奇な罠から抜け出る道筋を見せてくれます。

不足というのはないにせよ、物足りないのは「成長」ということかもしれません。
物足りなくはないのですが、惰性に乗った人生というのはつまらないというよりも、もったいないかなと思わないでもありません。
成長をさもしく求めるという心はないのですが、人や事象に真剣に関われば否応なく人の心は成長するでしょう。
その人や事象に関わる真剣さがぼくには欠けている気はします。

ま、ヘタに真剣になると、うっとうしい人間になる可能性も無きにしも非ずですから、その辺りのバランスは難しいところです。

うろ覚えの話ですが、良寛さんのエピソードです。
良寛さんの実家を継いだ良寛さんの弟の息子(つまり甥)の放蕩を諭してやってくれと良寛さんは頼まれました。
良寛さんは実家に出向き泊まリますが、酒を飲むだけで、一向に甥に向って説教らしいことを言いません。
そのまま帰ることになった良寛さんは、土間に下り、甥に草鞋の紐を結んでくれと頼みます。
甥が草鞋の紐を結んでいると、その手にポタリと冷たいものが落ちました。
甥が見上げると、良寛さんは何もいわずに涙を流していました。
それから、甥の放蕩はピタリと止んだそうです。

こういう感じって、もの凄く奥が深くて、心が豊かですね。

そうそう、先日はお話したNHKに取材された滝行の動画が見れます。

http://jp.youtube.com/watch?v=xUwQOqa_MjE

一生に一度は体験する価値ありですよ。