風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

シオカラトンボ

2009年07月31日 | 雑感
このところずっと厚い雲が空を覆っていましたが、今しがた見た空はすっかり夏空でした。
厚い雲が覆ってたせいか、例年になく涼しい夜が続いていました。
梅雨が明けたとなれば、それはもう熱帯夜を覚悟しなければならないでしょう。
まぁ、暑いときは暑く、寒いときは寒いというだけのことです。

昨日は久しぶりの休みで、泉の湧き出るいつもの神社に家族で行きました。
相変わらず、ありがたくもがすがしい神社です。
約一か月分の水を汲まさせていただきます。

娘は傍らを流れる川で大はしゃぎで遊んでいます。
ぼくはその様子を眺めながら、茶屋の座敷で冷奴にビールです。
酔い覚ましに水風呂にも入りました。
水温は湧き水というだけあってかなり低温です。
ここの水風呂は、ぼくが滝行をしようと決心した水風呂でもあります。
すべたがありがたく感じます。

人の心ほど厄介で素敵なものはありません。
不平不満の塊になるかと思えば、すべてを祝福し讃美するエネルギーにもなります。
気まぐれな心のままに振り回されたら、そりゃあ人生は気苦労が絶えません。
でも、心がなければ人生の途上で出会うすばらしい経験に感動することもありません。
自分の心を荒れ狂う奔馬にするか、聞き分けのよい駿馬にするか、それが人生の要諦なのでしょう。

そう言えば、水汲み場でシオカラトンボを見ました。
おそらく何十年ぶりで見ました。
青に灰色を混ぜたような色をした懐かしいシオカラトンボです。
政治や経済がどんなに混迷を深めようとも、「生きる」ということは不変です。
政治や経済の作り出す渦に巻き込まれることが不幸なのであって、
巻き込まれなければ目の前に陽光まぶしい自然が広がるばかりです。

一人ひとり自分自身の心の使い方がますます大切になってきたのだと思います。
愚痴不平不満に流れる心と、楽しさ嬉しさ豊かさに向かう心。
自分の心をコントロールするのは自分です。
わけの分からない理屈でコントロールされるのを断固拒否すればいいことです。

金が必要か?
そうでもないです。
地位が必要か?
そうでもないです。
本をたくさん読まなければいけないか?
そうでもないです。
異性にもてなければいけないか?
そうでもないです。

自分の心がどんな状態でいれば豊かでいるかを知ればいいだけの話しです。
シオカラトンボを見ているときは、疑いなく心は満ち足りていました。


阿修羅

2009年07月25日 | 雑感
昨日は博多のある篤志家の豪邸を解放してもらって、そこでの参禅会でした。
参禅の前に、最初の関門を通過した(見性した)ということで、晴れて道号をいただく式典もありました。
ぼくがいただいた道号は「宝雲」です。
大変ありがたい気がします。

実は参禅会に先立つ数日前、道場長よりメールがあり、その宛名が「○○(←ぼくの苗字)宝船」となっていました。
あれ、今度いただくぼくの道号は「宝船」なんだ、だれにも教えられないじゃないかと思っていました(笑)
タカラブネではなくホウセンと読むのでしょうが、ちっとも玄妙な気配を漂わせていません。
そんなこともあって、「宝雲」という名がいっそうありがたく思える今日この頃です。

ところで昨夜は坐禅するころから、激しい雷と雨が降り出しました。
その雨は床に入っても衰えることなくビタビタと降り続けました。
街頭のテレビのニュースでチラッと見ただけですが、どうやら死者も出たようです。
乱れたダイヤ運行の電車を乗り継ぎながら先ほど店に帰ってきました。

巨大な竜が身をくねらして暴れているような空模様です。

あ、それから九州国立博物館で「阿修羅展」も観てきました。
朝一番で行ったのにもかかわらず混雑していました。
先週の週末などは2時間待ちだったそうです。
入り口から比較的すぐのところに阿修羅像がありますから、そこで人がつかえるのでしょう。

九州国立博物館は興味深い企画が多いのですが、いい印象を持っていません。
以前わざわざ車で行ったときは、駐車場まで後数百メートルのところで車の行列がピタリと止まってしまいました。
1時間ほど待って数十メートルしか進みませんでしたので、狭い道を無理やりユータンして帰りました。
混雑は仕方がありませんが、警備員がうろうろしているのですが、何の説明も指示もありません。
今日も黄色いTシャツを着たスタッフがこれでもかと大勢いました。
推測ですが、いろいろなサービスや対応を現場スタッフに丸投げし、的確・柔軟な指示系統は
ないように思えて仕方がありません。

それにしても、興福寺の仏像の充実振りは質・量ともすごいです。
以前に見た無著・世親像などもすごかったですが、今度は阿修羅のお出ましです。
仏教美術は精神の宇宙的表現とでもいうしかないような深度と広がりを持っていますね。


梅雨前線

2009年07月21日 | 雑感
ぼくの部屋にはクーラーがありません。
ですから、今の時期は窓を全開にして寝るよりしかたがありません。
深夜遅くまで高速を走るトラックの音が聞こえ、酔った若者の怒鳴り声や嬌声が聞こえ、風の唸る音が聞こえ、
朝になればカラスの騒ぐ音が聞こえます。
屋根こそあれ、音に関しては野宿しているのとさほど代わりのない状態です。

だから、風の動きには敏感です。
ここ数日、風の吹き方が妙でした。
朝から晩まで渦巻くような風が踊っているような感じでした。
今朝も窓ガラスがガタガタいう音に目が覚め、外を見ますと真っ黒な雲が西から東へと流れています。
そのうちに雷が鳴り出し、土砂降りとなりました。
その雲がさらに東の山口に流れて大雨を降らせたようです。
ぼくの子供路のころには、ドボドボと降るような雨の記憶はありません。
台風のときのような激しい雨とか長雨の記憶はありますが、今の大雨は天が破れたようにドボドボと降ってきます。

明日は日食だそうです。
天が動くとき、天災といい、政局といい、地も動きます。
人の心も動いていかざるをえません。
こんなときこそ、動くべき方向性をきっちり把握しておくことが大事です。
方向性が危ういと、流れに翻弄されるばかりになりかねません。

今夜も暑苦しい部屋で風の動きに耳を澄ましてみます。
というのは嘘で、眠くて仕方がないのに、風の音やら何やらで寝不足をかこつ今日この頃です。


祇園祭

2009年07月19日 | 雑感
今日は3日間続いた祇園祭の最終日です。
店の前を次々と太鼓を載せた山車が通っていきます。
狭い商店街に熱気があふれます。

どういうわけか、今年は太鼓の音があまり心地よく感じません。
目の前でひっきりなしに鳴っているからでしょうか。
なぜか心がざわつきます。
厄払いのための太鼓のはずなんですが。
このところ商売のほうが忙しかったので、心がガサガサしているのかもしれません。

ぼくとは反対に、娘は太鼓の音を聞くと興奮するようです。
昨夜も町内を回ってきた山車の太鼓の音が聞こえてくると、見に行こうといってききません。
暗い住宅街野中を進む明かりをいっぱいにつけた山車はなかなかきれいです。
娘はニコニコして夢中で眺めていました。

今から山車を見に娘が店に来ます。
娘はこの地がふるさとになります。
きっと夏が来るたびに太鼓の音が懐かしくなるのでしょう。

仙台で育ったぼくは遠い地の風に吹き流される七夕飾りを一人ぼんやりと思ったりしています。

人間的

2009年07月13日 | 雑感
昨日から梅雨が明けたような空と雲です。
ここ数日、夕暮れ時からあちらこちらで祇園太鼓を練習する音が聞こえてきます。
その実感もなく、いきなり夏の真ん中に踊りこんだような気分です。

目の前に咲いていた花が散るのを悲しみ哀れむのが人の心だとします。
花は散り、実を実らせて、次に巡りくる春を待つだけです。
そこにはいささかの悲しみも哀れみもありません。
かように、人の心は万事に執着するものです。

自分の命だって同じようなものでしょう。
万古の昔から先祖代々受け継がれたDNAの発現たる肉体に宿り、ああでもないこーでもないといかにも人間らしくじたばたし、
それでも縁があればDNAの引き継ぎ手である子供ををもうけ、時が来れば肉体を去ります。
生命が循環しているというだけの話です。
そこに悲しみやら哀れみを持ち出してくるところがきわめて人間的だということでしょう。

人間的であるのは大いに結構だと思うのですが、人間的であるというだけの境涯にとどまると、
これまたきわめて人間的な苦しいだの悲しいだのという不幸を勝手に作り出してしまいがちです。
人はあくまでも人間的でありながら、人間的なるものであるがゆえのあれやこれやの難儀をを越える道があるとするならば、
それを宗教というのだと思います。

人間的なものを否定したところで、われわれは徹頭徹尾人間的であるしかありません。
いくら科学が人間の肉体が物理的メカニズムで動いていると証明しようとも、悲しみとか哀れみを催す人の心の所在は、
科学の立ち入る隙を与えません。

人間的なるものを人間的なるものと尊びつつ、科学の目指す普遍性とも抵触せず、何よりも目の前に開けた道を嬉々として、
心いっぱいに広がるありがたさを感じながら歩んで生きることの道を指し示すことができるのが、宗教なんだと思います。
是が非かの道はいずれ行き詰まります。
是是であり非非であり、是非などどうでもよいという絶対の道。
自由自在の道。
歩こうと思うまでもなく歩く道。
誰彼がどうの、自分がどうのという際限なく噴出すエゴの毒ガスが吹き払われるところ。

そんなところに至りますれば、おそらく神も仏も人間も一体です。

まぁ、例によってたわごとです。
でもそのたわごとをこの身に実現することが出来たなら、安心立命が言葉だけのことではなくこの世で実現することだと思います。

政局が騒がしいようです。
選挙にはもちろん行きますが、今の政局には関心がありません。
なるようになってから分かるというの様なこともたくさんあります。
政局に期待する時期ではありません。
自らの歩む道に対して、改めて点検する時期なのだとぼくは思っています。
この期に及んで、政局に絡んでだれそれがどうのこうのという床屋談義に沈してはいけないとぼくは思います。
一人ひとりが何ができ、何をするかという決断のときだとぼくは思います。

信仰

2009年07月11日 | 雑感
今日もぶあつい雲が終日空を覆っていました。

世の中に生きている限り、いろいろな人と交わっていかざるをえません。
敏感な心の持ち主ならば見知らぬだれそれと交じり合うことは苦痛でしょうが、その交じり合いから恋愛も生まれ、
仕事も生まれます。
心の持ちようによっては、人との交じり合いにこそ宝の山が隠されているともいえないこともないでしょう。

ぼくにとって、交じり合うことが困難な種類の人というのは確かにいます。
ひとつは無神論者です。
無神論に立つということは、己の論理、理性のみを支柱にして生きるという選択をすることです。
ぼくは己の論理やら、理性というものに全く信を寄せることが出来ません。
自分の都合によってそれらはころころと態度を変えるものだということを嫌というほど知っています。
そんなものを信じようとすれば、自分勝手な幻想でしかないかもしれない己の論理性、理性というものに、
自分の人生をコントロールさせることになります。
うまくコントロールしおせればそれでもいいのでしょうが、その論理、理性から逸脱した出来事に遭遇したときに、
避けがたい破綻がきます。
論理、理性というのはその性質上、破綻というのがもっとも避けたい出来事です。

もうひとつの種類の人は、神あるいは救世主を外部に求める人です。
ほとんどの新興宗教というのは、現実に生きている教祖を崇拝します。
他人によって救われる人生というのは、ぼくにはうまく想像がつきません。
それではその救世主に出会わない人は救われないのか?

すべての人間の心に神の王国があるとしたキリスト教、衆生本来仏なりとした仏教とは真逆の教えです。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、その教えはあくまでも一人一人の心の中にある神聖で犯さざるべき尊い光に対する語りかけでした。
自分についてくれば幸せになるなどという悪魔的なことは一言も言っていません。
主人公はどこまでいっても一人ひとりなのだとしつこいくらいに言っています。

無神論者とカルト信者というのは共通項があるのかもしれません。
「正しさ」といういことに対する執着です。
この世はこの世のままで浄土になりうるという心境を決して認めないでしょう。
自分以外の人間は誤謬や迷信に犯されたかわいそうな人間としてみるのでしょう。

ぼくは誰からもかわいそうな人間としてみてもらいたくはありません。
ぼくはぼくを信じます。
それがぼくの信仰の原点です。


良寛さん

2009年07月10日 | スピリチュアル
昨夜は一晩中妙な風が吹き荒れて、今日は一日中ビタビタという感じで雨が降っていました。

さて、ぼくは良寛さんにまつわるエピソードは大概好きです。
酒にまつわるエピソードもたくさんあります。
が、とりわけ一番好きなのは、次のエピソードです。

良寛の甥に馬之助という放蕩息子がいて、良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛に説教を依頼します。
良寛はしぶしぶ故郷の由之の家に出向き、説教するべく馬之助の前に座らせられましたが、良寛は酒を飲んでばかりで
いつまでたっても説教しません。
とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとした。
そのとき馬之助の母は馬之助に良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけた。
馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始める。
それでも良寛は黙ったまま。
と、そのとき馬之助は自分の首に何か落ちてくるのを感じて不意に顔を上げた。
そこには、目にいっぱい涙をためた良寛さんの顔があった。

これで馬之助の放蕩はすっかりやんだということです。
その良寛さんの姿を見てしまった後で、放蕩を続ける神経を持つ人間はなかなかいないでしょう。

良寛さんは、馬之助の苦しさや悲しさやそれを放蕩で紛らわさずをえない苛立ちやらをただじっと見ていました。
煩悩と知りつつも煩悩に引きずり回されるのが凡夫の常です。
人の悲しさはいつでもそこから生まれてきます。
悲しい人間に愚にもつかない説教をくどくど言ったり、とげとげしい小言を言う良寛さんではありませんでした。
馬之助とともにじっと悲しみ続けるだけです。

馬之助の父親の由之や母親はわが息子の表面的な損得やら世間体やらをそりゃ心から心配してたでしょうが、
馬之助の心とじっと一緒にいてあげたのは良寛さんでした。

本当の禅僧の教化というのはこういうものでしょう。
いろいろな本で読みますところ、修業中の禅の師家というのは鬼のように容赦がありません。
大事な一生命たる弟子の一大事を預かる身です。
意味もなく容赦してしまったら、弟子の人生を台無しにしてしまうことになりかねないから、真剣勝負なのです。

そのかわり、修業を離れたときの禅の師家の弟子に対する繊細で行き届いた深切心というのは、
いろいろその類のエピソードを読んできましたが、無条件に涙腺が緩みます。
人が人にとことん真剣に対するというのは、今ではすっかり失われつつある気風です。
今、流行の生き方であろうがなかろうが、良寛さんのような美しい生き方というのは真似できるものならばしたいものです。


格闘

2009年07月04日 | スピリチュアル
禅の老師が近くの道場に来ていらっしゃいますので、今夜から泊りがけで行こうと思っていました。
でも、やめました。
そうすると明日は店を閉めなければいけないし、あまり心境の進展を求めるのも美しくないなと思ったからです。
まずは店の営業をしっかりとする。
その基本を崩し始めたら、本末転倒です。

すべてはなるようになっていく姿を愛でることが出来るようになることこそ肝要なのだと思います。
でも、なるようになるためには、何かをならせようとする人々の普段の尽力があってこそです。
なるようになるために、無数の人々が今日も世界の大地の上で意識的にせよ無意識的にせよ格闘しているわけです。

格闘は疲れますが、格闘があってこそのこの世の人生です。
ただ、大切なのは何と格闘するか、なんでしょう。
他人や社会のシステムと闘うというのは、幻想の世界で質のよくない負のエネルギーを産み出すだけでしょう。
幻想の世界で産み出された負のエネルギーというのを侮ってはいけません。
いまだにその種の負のエネルギーが強力に世界を覆っています。

闘うべき相手は唯一自分の心です。
弱さ、ずるさ、傲慢さ、わがまま、冷酷さ、それらは全部自分の心の中にあります。
他人や社会のシステムを変えたところで、それらの負の感情が自分の心から一掃されるわけはありません。

自分の心と闘うというのは、魅力的な行為ではありません。
とても気の進まないいやな行為です。
だから、「楽しむ」「感謝する」という行為が尊ばれます。
闘う必要もなく、「楽しむ」「感謝する」という行為が、蓄積した負の感情を溶かしていきます。

「楽しむ」ということが誤解の元ではあります。
他人を利用した快楽とは無縁の境地です。
自分の命を楽しめるようになったら、格闘のための格闘も苦悩も無縁になります。

ま、なんにせよ、地べたにきちんと足の裏を引っ付けることが最初なんでしょう。


コントロール

2009年07月03日 | 雑感
明日滝に行こうと思っていたら、滝の仲間からの連絡によると滝は危険ゆえ立入禁止になったそうです。
危険かどうかは考えもしませんでしたが、考えてみると大木がお堂と滝場に実際に倒れ掛かってるわけですから、
危険でないはずはありませんね。
現場の痛々しい惨状を思うと心が痛みます。

近頃、娘がやたらに早い時間(3時とか4時)に目を覚まし、元気に走り回ります。
家内からは「寝なさい!」とか「一人で遊びなさい!」とかさんざん叱られ、べそをかいてはぼくの部屋にやってきます。
ぼくが寝たふりをしていますと、そっと足元の布団の上に横たわっています。
ぼくが薄目を開けて様子を見ますと、横向きに寝転んで、べそをかきながら暗闇をじっと見ています。
3歳にもならない娘が寝ようと意図したとおりに寝たり、しんと静まった家の中でたった一人で遊べるわけもありません。
思わずぼくが起き上がりますと、満面の笑みを浮かべて、「パパ!」と抱きついてきます。

でも、それからが大変です。
家内に言わせると娘は無限の体力を持っています。
アンパンマンのパズルで遊び、電車のパズルで遊び、yuotobeで「トムとジェリー」と「機関車トーマス」を観て、
「ポニョ」の歌を聴きます。
それでも飽き足らず、「トトロ」を観るだとか「バイキンマン」を観るだとか、際限がありません。

そうこうするうちに起きだした家内に後は任せます。
寝不足で不機嫌な家内に「どいて!」だとか「だめ!」だとかずっと大声で小言を言われています。
寝ようにも寝れません。
家内にもう少し優しくしてやれと言いたくなりますが、放縦なエネルギーの塊と四六時中一緒にいる家内のイライラに、
さらに油を注ぐようなものだと思って我慢します。

したいようにさせればよいというのでは、幼稚園に入ったときに手の負えない子になってしまうでしょう。
我慢をする必要があるときがあるということも、体で覚えさせていかなければならないでしょう。
そういう理屈はわかりつつも、娘からすれば、ひたすら楽しいエネルギーの発露を何の疑問もなく求めているだけです。
それを押さえ込まなければいけない、この世に生きることの抑圧を思うと、ブルーになります。

ま、誰しも青春時代にブルーになりまくって、そのブルーを引きずる人生もあり、吹き飛ばす人生もあるわけです。
いろいろな意味で、人は強くならねばいけません。
強いというのは、自分のことは自分でコントロールできるということ。
3歳児に求めることではありませんね。


倒木

2009年07月02日 | 雑感
今朝は久しぶりに滝に行きました。
大雨が降った後でしたので、水量の多い滝に打たれてみたいと思いました。
滝場に続く参道に入ると、普段とは違うゴーという音がします。
100日行に入ったときには4~5回の台風に見舞われましたので、水量の多い滝には慣れているつもりでしたが、
少し怖さを感じました。

参道を登りきり、観音様がおわす広場を越えて橋を渡って階段を上ると、左手にお堂があり、右手奥に滝があります。
階段を上りきって目に飛び込んできた光景にびっくりしました。
お堂の上にかぶさるように大きな木が立っているのですが、滝場に続く道をふさぐようにその木が倒れていました。

うわ~と思いましたが、お堂の観音様にもお参りを済ませ、道を塞いでいる倒木の間を潜り抜け、いよいよ滝に入ります。
思ったよりも冷たい水で、水量は申し分ないです。
今日は気持ちよく入り切るぞと張り切って入ったのですが、水の中で称える観音経が途中でつかえます。
普段つかえたことのない場所で言葉が出なくなります。
あれと思い最初からやり直すのですが、やはり言葉が途中で出なくなります。
4度やり直しましたが、結局最後まで称えることができませんでした。

こんなことは初めてでした。
観音経は空でそらんじてましたから、間違えるとか字句を考えるとかいうことが長い間ありませんでした。
さすがにこれはどういうことだろうと滝の中で考えました。
滝に入ってしまえば、一切何も考えたくはないのですが、今日は考えました。
考えたとたん、不吉なことばかり頭によぎります。

倒れた木をそのままほったらかしにして滝に平気ではいる不遜な態度がいけなかったのではなかろうか。
滝場の周囲には石仏が並んでいるのですが、枝の破片やら木の葉やらで埋まっています。
それもほったらかして気持ちのよい滝に入ろうなんぞと考えた警告なのではないだろうか。
そんなことばかり頭をよぎりました。

一人でどうすることもできない状況ではありましたが、滝に入るよりは出来る範囲で片づけを黙々とすべきであったかなと今では思います。
土曜日には仲間も滝に来ますから、出来るだけ行って片付けを手伝おうと思います。