風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

幻想

2009年01月31日 | 雑感
数日続いていた雨もどうやら止んだみたいです。

しかし、なんです。
ここのところ国際金融資本家といわれる人たちの行状をいろいろ読んでいたのですが、
なんというか読んでいて何かが穢れていくというか、蝕まれていくというか、言いようのない不快感を覚えずにはいられません。
事実があまりにも不快だから人々は目を反らし続けているとしか思えません。

なぜ日本は世界第二位の経済大国であるはずなのに、国民一人一人は貧乏なのか。
なぜ日本の街の景観は都市部の一部を除いて貧相で、国づくりのグランドデザインがいつまで経っても示されないのか。
どうみても自国の破滅を目指しているとしか思えないアメリカの諸々の行動を誰も止めないのはなぜなのか。
税金の使い道についてなぜこれほど議論が複雑怪奇に混迷するのか。
メディアの呆れるほどの隠蔽・歪曲報道の意図はなんなのか。
誰でも分かる教育の荒廃に手を付けられないままなのはなぜなのか。

そんなこんなの見取り図が見えてきます。
驚くほど彼らの思い通りに世界は動かされているようです。
本を読む限り、それに反証する材料というのをぼくは持ち合わせていません。
そういう本に反証した本というのもぼくは知りません。
そういう本はここ数年堰を切ったように世間に出てきました。
堰に切ったように世間に出てきたということも、何かの意図があるかもしれないと一応頭に入れておく必要はあります。

要するに、彼らは世界のほとんどの国家の中央銀行(紙幣を印刷する総量を恣意的に決められる)を支配します。
それを受け入れない国は(イラク、イラン、ボリビア、北朝鮮など)は米国から名指しで激しい干渉を受けました。
そして、石油をはじめとする資源を支配します。
武器製造工場を手に入れます。
最近では食料の制御権を手に入れようとしています。
で、そういう情報を筒抜けにしないために、メディアをコントロール下に治めます。

詳しいことはその類の本を読んでください。
世界中、網の目のような支配がすでにほぼ完了しています。
その勢力の背後にある目的というものを探り出しますとかなりオカルティックになるので、その辺は立ち入らない方が無難です。
ただ、そういう事実を知っておく必要がある局面になったとは思います。
そうでないと、日本も必ず彼らの見取り図に巻き込まれていきます。

戦争や紛争というのは起こるべくして起きた事例はむしろ少なく、起こそうとする勢力が巧みに起こしています。
市民や兵士がいくら死んだところで、彼らには痛くも痒くもありません。
そういう情緒的な反応を彼らに望むことはできないのだということは知っておかなければなりません。

日月神示でいうところの「イシヤの仕組み」が露になってきました。
露になれば、彼らは自分の持っている武器をフル活用してくるでしょう。

「お金」「石油」「資源」「食料」「武器」等の支配力は彼らの手にあります。
と、彼らは思っているのです(笑)
彼らがそう思わせようと我々を洗脳し続けてきました。

「お金」 足るを知るで大丈夫です。紙幣印刷の権利を私有銀行から国民の手に取り戻すことです。
「石油」 とっくに代替エネルギーは開発されているようです。
「資源」 足るを知るです。
「食料」 経済成長神話を捨て、環境破壊を止め、身の周りの豊かさに人々が気がつけば、土地や海はまだまだ食料の宝庫です。
「武器」 要りません(笑)

色々書きたいことはあるのですが、キリがありません。
そのくらい多岐多様にわたって、彼らの仕組みは張り巡らされています。

例えば深読みをしてみます。
なぜ、今頃になって、今まで決して公にされたことのない彼らの行状がバレ始めているのか。
そういう情報をわざと流し、それに反応する人間を危険人物としてリストアップするためかもしれません。
エシュロンという世界中の情報を監視するシステムがあります。
最近のスパイ映画には当たり前のように出てきます。
要するに、ある種のキーワードを使ったり、何なりの特徴を示す情報発信者を瞬時に突き止めるシステムです。
そういう普通の生活者にとっては何の意味があるのか分からないシステムが現実に作動しているのが現実の今の世界です。

間違ってはいけません。
戦う相手などいません。
ただ、彼らの振りまく幻想に騙されてはいけません。
本当に、それだけのことです。


なまもの

2009年01月24日 | 雑感

雪が降りしきっています。
今冬初めての街中での積雪となりそうです。

ぼくの目の前の壁に茄子を描いた絵が張ってあります。
色鉛筆でぼくが書いた絵です。
小学生が描いたような絵です。
茄子の深みのある肌色や浮かび上がるような輝きは何一つ表現されていません。
茄子だからと紫色の色鉛筆でゴシゴシと色をつけただけのお粗末な絵です。

でも、描こうとして初めて茄子の肌色の深さや彩取りを発見しました。
言語を絶する生き生きとしたその姿を感じることができました。
出来上がった絵がいくら下らなくても、絵を描く過程で茄子という対象と触れ合うごとができました。
ぼくにとって上手い絵を描くことなどどうでもいいのです。
絵を描こうとするぼくの心の姿勢が重要であり、対象と対峙することが重要です。

「絵」という記号があります。
だれそれという画家の名前という記号があり、描かれた作品の題名という記号があります。
「ゴッホ」の「ひまわり」という絵があります。
その絵を前にして、大抵の人は「ゴッホ」という記号に満足し、「ひまわり」という記号に満足します。
一切の記号を脱ぎ捨てたその絵自体と対峙することはかえって難しいことかもしれません。

以上は、雑誌「新潮45」一月号の、内田樹という人の記事「呪いを解く『祝福』の言葉」という記事を読んで、連想したことです。
非常に面白い記事でしたが、その記事の主題からは少し外れるのですが、現代人が記号に囲まれ記号に支配されているという視点を少しだけ敷衍してみたいと思います。

彼は現代の状況を、「『記号の過剰化』あるいは『過記号化』という枠組みで説明できる」とします。
「9.11同時多発テロ」以降、人々の意識には「テロリスト」という記号が刷り込まれ、その記号がイラク人に
「貼り付けられた」とします。
イラクという国の実情を知ろうとするよりも、「イラク=テロリスト」という記号でアメリカはイラクに攻撃を開始しました。
その攻撃さえももはや限りなく「記号」に近づいています。
コンピューター画像で攻撃地点を把捉し、ミサイル発射のボタンを押して、画像で攻撃対象の破壊を確認して任務終了。
戦争や暴力さえも、「戦争」や「暴力」という記号化が進んでいるわけです。
記号化の恐ろしいところは、イラク人も一人一人が家族を持ち、生活を営み、笑顔で暮らせる日々を待ち望む人々なのだという
創造力を枯渇させることです。

元厚生事務次官を襲った事件や、秋葉原の事件も取り上げています。

「先頃、元厚生事務次官宅を襲う殺人事件が起きました。見ず知らずの人間に向かい、あれだけの暴力を振るえるということは、
 生身の人間が生身の人間を襲っているのではなく、記号が記号を襲っていると考えるべきでしょう。一方に『諸悪の根源である
 高級官僚』という記号があり、他方に『収奪されている民衆』という記号がある。記号が記号を襲う。だから、身体の歯どめ
 がかからない。秋葉原の事件も同様です。ここでも、加害者の殺意は身体に根ざしているのではなく、脳内でこしらえられた
 記号なのです。たしかに金のないことや、他者からの敬意が欠如していることは苦しみでしょうが、その苦しみの『元凶』や
 『受益者』といった概念は現実の、個別的な苦しみからは導出されませんし、そのような概念をひっぱってきたところで現実の
 個別的な苦しみは少しも軽減されません。そのような概念装置が導き出すことができるのは記号的な『敵』と記号的な『憎しみ』
 だけです」

記号という概念装置(←言い得て妙です)は大変便利なもので、なにも思考することなく物事が分かったつもりになれます。
「自由」「平等」「権力」「正義」「悪」「神」「お金」「学歴」「出世」「愛」といった様々な記号を組み合わせて、
人は事象を理解したつもりになり、判断したつもりになります。

そこで内田氏は人間存在をはじめあらゆる事象を「なまもの」として捉える視点を提出します。
安易な記号化をすり抜ける「ノイズ」に満ちているのが、人間であり事象だということでしょう。

茄子の肌の色は色鉛筆の紫色ではありません。
茄子の肌の色は茄子の肌の色です。
記号化に慣れ親しんだ脳は、その色の複雑さを把握する努力に意味を見出さないでしょう。

テレビのコメンテーターと称する人たちに一様に得意な能力があるとすれば、唖然とするほど安易な記号化です。
「なまもの」である事象から、息遣いが抜き取られ、思いが抜き取られ、叫びが抜き取られます。

「なまもの」である自分が「なまもの」である世界に遊ぶというのが、今一番贅沢なのかもしれません。
千変万化する空の色を感じる心をなくしたくはないです。

最後に懐かしいやつをどうぞ
http://jp.youtube.com/watch?v=pbFqYtxOmYw&feature=related

 


新大統領

2009年01月23日 | 雑感

アメリカに若い新大統領が誕生しましたね。
世界中が彼の今後の動向を注視していますが、誰よりもアメリカ国民が彼に変革を期待しているのでしょう。
一般のアメリカ人というのは、フェア精神を大切にする正義感の強い人が多いです。
で、そういう国が有り余る力を背景に世界中で横暴に振舞ってきました。

それに断固として抵抗し続けたのがキューバという国でした。
キューバという国はアメリカの長年に渡る経済封鎖ですっかり貧乏になりましたが、
独裁国歌というネガティヴキャンペーンにもかかわらず、心は豊かな貧乏国になったようです。
以下のサイトでそのあたりの事情が詳しく解説されています。
日本の今後のあり方にも大いに参考になる点があります。

http://310inkyo.jugem.jp/?eid=835

で、オバマ新大統領は大変な難局の舵取りを引き受けました。
次のクリントン政権への繋ぎ役でしかないという説もありますが、
大統領の演説を聞いた限り、ひょっとして彼は本気で変革するつもりかもしれないと思いました。
アメリカ国民ももちろんそれを望んでいるでしょう。
でも、アメリカという国の裏側には、そういう大望を持った人物を容赦なく暗殺してきた歴史があります。
そういう裏の勢力のことは日本のメディアが報じることはありませんが、以下のような本に詳しく書いています。

「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」(五次元文庫)
 書評 http://www.book.janjan.jp/0810/0810088968/1.php
「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」(五次元文庫)
 書評 http://hon-ga-suki.at.webry.info/200709/article_7.html

こういう裏の勢力の情報が表に出だしたという言い方もできるかもしれません。
その情報の真贋は読んだ人の判断に任せられます。
いずれにせよ、環境的にも、経済的にも、生物学的にも、人類は危機を迎えているわけです。
知らぬ存ぜぬですめばいいのですが、一人一人がなにを選択するかがいまだかつてなく大きな意味を持つ時代になりました。

「神は人を通じてその栄光を現す」 ヒマラヤ大師の言葉

家手を変え品を変えたプロパガンダに導かれるままに、家畜のように従順でいれば安全な生を送れる時代は終わったのかもしれません。
人が人であることの価値をもう一度発見し、本来の喜びと栄光を取り戻すかどうかの瀬戸際です。

彼らが利用するのはひとの「恐れ」や「憎しみ」という感情です。
人は弱いものだと思わせ続け、あとは脅かしで支配しようとします。

貧乏になるのは怖いことではありません。
キューバを見習えばいいことです。
恐慌になろうが、恐れずに目の前のやれることをやれば、食べていくだけのことはできます。
そこでうろたえて略奪やら暴動に走れば、彼らの思う壺です。

嵐はいずれ過ぎ去ります。
夜が寒くて深いほど、朝日の輝きは格別です。

人類の一員として、なにができるか、なにを思えるかを日々大切にしていきましょう。

 


チェ・ゲバラ

2009年01月20日 | 雑感
風は冷たいですが、日々陽射しは強くなっていく今日この頃です。

映画「チェ(・ゲバラ)」の第一部を見ました。
繊細で、大胆で、正義感とユーモアに溢れ、一級の男でした。

「1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのレジャーボート「グランマ号(Granma)」
に乗り込んだ。しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、
7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、
計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。
結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった。」

                                      以上引用『ウィキペディア』

わずかに生き残った12人で始まったキューバ革命ですが、カストロは革命の成功に自信満々だったそうです。

やがてバティスタ政権の圧政に苦しむ農民やらが革命軍に参加して革命軍は勢力を増していきます。
武器も満足にない状態でしたが、ゲバラの人懐こさと人心掌握の上手さで革命軍は強くなっていきます。
革命を成し遂げ、ゲバラが仲間とともにキューバの首都ハバナを目指すところで、第一部は終わります。

ゲバラの革命への意志は、革命家にありがちな権力の横暴に対する怒りや憎悪というものではありませんでした。
農民に対する理解と同情がすべての基本だったように思います。
革命政府の中枢に入ってからのゲバラは第二部を待つとして、伝記を読みますと政権の内部に入ってもその基本は
死ぬまで変わらなかったようです。
カストロも同士ゲバラを深く愛しながらも、その理想主義的な頑固さをもてあましたことでしょう。

ぼくも知りませんでしたが、ゲバラは日本にも来ています。
大手メディアはほとんど報道しなかったらしいです。
どこかに視察に行ったついでに、スケジュールになかった広島の原爆ドームに行って、花を手向けたらしいです。
アメリカという横暴極まりない大国に怯むことなく戦い続けたゲバラは、アメリカにすっかり飼いならされたような日本の姿を見て、
なにを思ったのでしょうか。

去年くらいからゲバラの本が書店で山積みにされているのを何でだろうと思ってみていましたが、
世界的には加速する誰にも止めることの出来ない大国の横暴に対する異議申し立てが盛んになっているのかもしれません。
その理想像としてのゲバラを求める声が自然発生的に大きくなっているのかもしれません。



スローライフ

2009年01月14日 | 雑感
今日も雪のちらつく一日です。
北国では当たり前のことですが、九州では珍しいことです。

娘は2歳と数ヶ月を越えました。
予想もしない、いろいろなことを口走ります。
誰にも判読できないことを口走っては、なにやら一人遊びに熱中したりします。
祝福あれと願うばかりです。

新聞を読んでいるとこの国が壊れていくような気になります。
彼らは壊れていくところにしか興味がないからです。
創るというのは壊すこと以上に、純粋で大きなエネルギーが要ります。
彼らにはそういう大きなエネルギーをキャッチする能力がなくなったのだろうと思います。

報道以前に、現場にいる人間は不況を感じています。
不況が怖いのではありません。
不況を前にして萎縮してしまう心理が怖いのです。

やれることはいくらでもあります。
耳を傾けさえすればいいのです。
農薬を与えず、雑草だらけの農地で栄養価の高いトマトを育てている人。
牧場の囲いから解き放ち、山林の間の雑草を食べて、元気に育つ牛を育てている人。
そういうパイオニアがいくらでもいるのです。

仕事を失うのが怖いのではありません。
生きていく価値を見失うのが怖いのです。

大不況といわれていますが、この機をチャンスに国も社会も自分自身も生まれ変わればいいだけです。
兌換紙幣というのは、等価値の金の現物と交換できるという保証があった貨幣です。
その頃の貨幣というのは、世界的に価値を持ちました。

今の貨幣というのは、金の担保がないままに、銀行が勝手に輪転機を回して印刷される貨幣です。
恣意的に幾らでも刷ろうと思えば刷れる貨幣です。
そんな貨幣が、グローバリズムという名の下に、世界中の資源資産を食い散らかしているのが、今の経済です。
誰も責任を取りませんし、取りようがありません。

その黒幕というのは誰かというのは、その筋の本を読めば分かりますが、それすらどうでもいいことです。
ともかく、そういう食いつぶしの経済のサイクルから離脱することです。
国としてはそういうサイクルから離脱することは国力の衰退を意味しますから選択が難しいのですが、
個人としてそういうサイクルから離脱することはできないことではありません。

豊かな大地に目を向けることです。
特に日本に住む人々にとってはそれはとてつもなく優位なことです。
自然から収奪するのではなく、自然を生かしきれば、日本は豊かな国に生まれ変われます。

いろいろな分野での専門化が、条件付ながら、何度もそう言っているはずなのですが、国民一人一人の意識次第なのでしょう。

まぁ、ぼくはなにも悲観していません。
牛肉を食べることができなくても、チョコレートが手に入らなくなってもなにも困りません。
お酒は誰かがどこでこっそり作るでしょうから、それも困りません(笑)

要は、ものがない時代を進んで受け入れれば怖いものはありません。
国際競争力がなくなったとして、日本と言い風土の恵みを生かしきれば、まだまだいけます。
一億という人口は多すぎるかもしれません。
数十年かけて、スロースタイルの生活習慣を取り戻せばいいだけです。


舞台

2009年01月13日 | スピリチュアル
今日も雪のちらつく一日でした。
朝、台所の窓の外を見ていたら、朝日の中を金色に輝きながら雪が舞っていました。

人の一生の目的は、難儀の多い肉体をまとったこの次元で、聖性、仏性、神性、言葉は色々ありますが、
伊勢白山道氏の言葉を借りれば、「内在神」を生きながら発露するようになるということに尽きるでしょう。

神の王国なり、仏性なり、そういう生命の芯みたいなものは、外部にあらず、一人一人の心のうちにある、
というのはどの宗教でも言われていることです。
ここでいう心とは、あれが欲しいこれが足りない誰が好き彼が嫌いといった層の心ではありません。
そういう我欲の波を静止した時に姿を現す深い所に潜んでいる心です。
そういう深い心に従って生きるには、表面上の我欲の騒がしい心の波を鎮めなければなりません。
それが瞑想であり、坐禅であり、祈りなのだと想います。

愛という言葉は、何度か書きましたが、あまりにも抽象的で定義するのが難しい言葉です。
日本人としての語感から言えば、慈悲という言葉の方が理解しやすいかもしれません。
慈悲という能動的な心の活動の裏側には、感謝という受動的な心の活動があるように思います。
感謝のない心が、慈悲という心を発することはおそらくないでしょう。
慈悲の心を発すれば発するほど、感謝の心も深度と豊かさを味わい深めていくように思います。

感謝すればするほど慈悲深くなり、慈悲深くなればなるほど生きることのへ感謝が深まっていく。
そんな感じなのだろうと思います。

端的に言ってしまえば、内在神とは、慈悲と感謝の合わせ鏡が輝く、その輝きのことだといえるかもしれません。

雪でも雲の切れ間から射す陽射しに金色に輝く瞬間を舞い踊ります。
人はその気にさえなれば、輝く舞を踊り続けられるのかもしれません。
言葉を使い、笑顔を使い、全身全霊を使って、輝き続けることができたら、この世は至福に満ちます。

時として、舞台に立つ役者さんや歌い手さんたちは、観客との一体感や世界の統一感に包まれて至福を感じるそうです。
四角い壁に囲まれた舞台の上でも至福を感じることができるのなら、全世界という舞台の上に立った一人一人が、
至福を感じることもできないことではないのかもしれません。

ただ、いやいや演じていたり、中途半端にテレながら演じたり、不平不満を抱えながら演じていたのでは、、
至福の境地には到達できないのでしょう。
すべての勇気と信頼を持って、演じきるという覚悟が必要なのかもしれません。


大切

2009年01月12日 | 雑感
時折雪がちらつくここ数日の空模様です。
こんな日でもお客さんが来てくれます。
言うまでもなく、お客さんというのは個々の人間です。
個々の人間が来ていただくというのは、ある意味もの凄い贅沢なことです。

そこには、問わずもがなで、人それぞれに深い人間模様が繰り広げられています。
ぼくは何でもかんでも切り捨てるのが得意ですから、切り捨てることができずに悶々とし続ける愛のエネルギーを持つ人から、
何かを学ばなければならないのでしょう。

今の時代、物自体に興味を持つという人は少なくなりました。
その物がなにを表し、なにを志向するのかということには、辛うじて人の好奇心はついてきます。
物にも歴史があり、想いがあり、希望があります。
嘘臭いでしょうが、本当です。

もの、物、モノ、者。
すべては神の「場」です。

神の居場所を失ったような大量生産の時代が長いこと続きました。
子供でも分かる理屈で、その限界が来ました。
それだけの話です。

すべてのものを大切にするとき、自分の生命をも大切にしようと思えます。
それだけの話です。

誰もがすべてを大切にするとき、どのような不協和音がこの世に生まれようがありましょうか。
この世には大切なものしかありません。

すべては 大切 です。
大切だと思うことをしている限り、人は迷いようがありません。
何かを大切に思える人の意識が尊いのであって、自分の都合しか考えられない意識が尊いのではありません。
自分が神聖なる意志の道具だと思うことが、「道具」という言葉のイメージによって屈辱だと思うことは可能です。
でも、無限の可能性の中で、自分がこの今、なにのための道具になっているのかを考えてみたらいいです。

人は道具を如何に効果的に使いこなすかです。
人の道具としては、物質的な道具のみならず、思考、観念、芸術、すべてが道具になりえます。

最終的には、人は神の道具となれるかどうかです。
ありとあやゆる局面で、なにを思い、なにをするかです。

立派である必要があるのではありません。
魂の納得が必要なのだと思います。
神の息吹が魂なのだとしたら、魂はなにを求めるでしょうか。
神が判断するのではありません。
神の分け御魂としての、己の魂が判断するのです。

魂が求めるものは、喜びです。
自他が一体となった喜びです。

自他が一体になるなんていうことは、今日的に言えばもちろん戯言です。
その戯言と心中する気があるかないかということです。

信仰というのはそういうものでしょう。




権利と誇り

2009年01月11日 | 雑感
辛い 仕事も 花いちもんめ
故郷はなれて 花いちもんめ

夜の盛り場 一人で泣いた
故郷のあの子は お嫁に行った

あんちゃんは あんちゃんは 遠くまで行くんだ 
遠くまで

by 南こうせつ 「花いちもんめ」

ということで、みんな生き抜くために歯を食いしばってきたわけです。
なんでも、例の派遣村の生活保護申請者の全員に給付することを決定したらしいです。
生活保護は国の制度ですから給付すべき人に給付するのは何の問題もありません。
でも、これが派遣村にいる人たちだからという理由で全員給付を決めたという何らかの判断が働いたのだとしたら、大きな禍根を残すでしょう。

支給額の12万円という手取り金額は、地方の若者が必死に働いて手にできるかどうかの金額です。
一方で、生活保護を申請しても取り合ってもらえない人たちもたくさんいるわけです。
今後、その申請を受理するしないでの公正さを保てるのでしょうか。
ただでさえワーキングプアの状態で四苦八苦している人たちの労働意欲は保たれるのでしょうか。

生活保護というのは、失業者に対してカヴァーするセーフティーネットではなかったはずです。
失業者には失業保険がカヴァーするはずです。
生活保護というのは働きたくても働けない人々を救済するためのものです。
失業したら生活保護を受けられるとなれば、労働力を基礎とする国力は見る見るうちに失われるでしょう。
派遣会社でも失業保険には加入させられているはずなのですが、どうもよく分かりません。

ぼくは自営業ですから、明日にでも仕事が絶える可能性は常にあります。
お客さんがノーといえば、それまでです。
仕事というのはそういうものだと思っていますから、その状況に対して愚痴を言うつもりはありません。
そんなことで愚痴を言う経営者というのは世の中に存在できません。
お金もないし、ものもないけどなにができるのかということを徹底的に問い続けるしかないわけです。

今の時代、12万円という金額を手にすることというのはとても大変なことです。
毎日出社してくるうちの優秀なスッタフの給料もその額と変わりません。
そこから社会保険料だとかなんだかんだと引かれています。
ぼくの給料はその額に足りません(笑)
そんなものです。
でもお陰様で、楽しく毎日仕事をしています。

経済の右肩上がりの成長が不可能になった今、ダイナミックに社会の方向を変えればいいのです。
そのチャンスでもあります。
旧態依然とした社会保障制度のままに運用しようとするから、無理ばかりが出てきます。

権利というのはそれを守ろうとする全体の共通意識があってこそ成立する概念です。
共通意識を逆なでするような権利の主張仕方は、結果的には共通意識からのしっぺ返しを食らうでしょう。

ま、怒っているわけでは全然ありません。
なにをしているんだろうという感想があるだけです。
ヴィジョンもなく、筋もなく、責任もありません。

さらに言うなら、困窮するというのも一つの大切な経験です。
いくら困窮しようが、生きると覚悟を決めた限り、生きられるものです。
ぼくは、個人の自由意志で招いた困窮という状態を、国に救ってもらうという発想は好きになりません。
救ってもらってももちろんいいのですが、国が救って当然だとまでなると、国の管理強化を導き入れることになってしまいます。

個々人の事情は、個々人が引き受けるのが自由な社会でしょう。
個々人の事情が、権利意識と絡めて声高に主張される世の中が正当化されるとするなら、サル山とどう違うのかという感じです。

過程

2009年01月10日 | 雑感
最近時間を取れれば映画に行きます。
「最後の初恋」「ゴヤ」「ワールド・オブ・ライズ」「地球が静止する日」をこの一週間くらいで見ました。

前にも言ったかもしれませんが、僕にとって面白くない映画というのはありません。
それぞれ面白さの趣向が違うだけです。
そういえば、旅行などにいくと、国内国外を問わず、どんな小さな村でも興味深いです。
どの町も村もその場所なりの雰囲気と魅力を備えています。
一番その雰囲気と魅力を損なってしまったのが、日本の町や村だというのは確信があります。

タイの南部にソンクラーという地方都市がありました。
仕事で数日滞在しただけなのですが、なぜか記憶に残っています。
海辺の町なのですが、夕方になると町全体がオレンジ色に染まっていました。
ホテルのボーイさんも親切で、あれやこれやの世話を焼いてくれました。

ヨーロッパの町々は言うまでもなく個性的であることを誇りにしているようなところがありますから、
どこへ行っても好奇心を存分に満足させてくれます。
アメリカの地方の町々はどこへ行っても同じようなものなのですが、アメリカという大地が持つ風土の多様性が町を色づけています。
おなじみの香港でさえ、郊外に足を伸ばせば、庶民のダイナミックな近代的な生活様式が見られます。

一番つまらないのは日本の町や村かもしれません。
電柱と寂れた商店街と老人ばかりの町や村になってしまいました。

ぼくは幼少時代を東北の辺鄙な町で育ちました。
それでも老若男女の複雑で豊かな社会環境がありました。
毎日が冒険のようでした。
年上には虐められながらも教えられ、同級生と山の中を探索し、年下には家のおやつを持ってくるように言いました(笑)
小学校一年までしかそこにはいませんでしたが、社会というものを充分に経験していました。

成人してからその町を何度か訪れる機会がありましたが、町は死んでいました。
町に人影はなく、懐かしい商店街の店頭にある商品はみすぼらしく、小学校は廃校が決まっていました。
うっそうとした森で覆われていたはずの寺の木々は無残に刈り込まれ、プール代わりに泳いでいた水門はコンクリートで覆われていました。

日本は東京という怪物にすべてを飲み込まれてしまうシステムを創り上げてしまっていました。
怪物のご機嫌を伺わなければ、生きていけないと思い込まされていました。

ま、最近になってようやく地方に住む人々が誇りと喜びを自分の手で掴もうとする動きがでてきましたが。

その洗脳の手段としては最強なのがテレビでした。
田舎のハナタレ小僧、小娘がテレビの画面に映るこじゃれたアイドルを見たら、それはもうイチコロでした。
東京にはすべてがあると思い込んだのも無理がないことではあります。

そういう過程を経て、今があります。
アイドルが虚像の上に虚像を積み重ねているくらいは、皆が承知するようになりました。
政治も国家国民のためよりは、党利党略で動くことも皆が知るところです。
企業も労働者のためよりは株主の顔色を伺うためにあることも知りました。

でも、そういう過程を経てきたからこそ、自分のために生きようと清々しく思えるのだと思います。
自分と周囲の人のために生きる人が増えることこそが、平和な世の中の実現です。
人一人の周囲が世界につながります。
人一人の周囲が不協和音に満ちていれば、いくら世界の平和を唱えたところで絵空事です。

先ずは、自分の歩む道を自分で決めて、明るく楽しく歩くと決めましょう。
あとはどうにでもなります(笑)

テレビ

2009年01月07日 | 雑感
外はミゾレだかアラレれだかが降っています。
冬は冬らしい方がいいです。

テレビといえば、正月休み中だらだら深夜までテレビを見たわけですが、「Lost」というアメリカのドラマがありました。
以前にも夜中に目が覚めた時に何度か偶然に見たことがありました。
無人島に不時着した人たちがあれやこれやの人間模様を深いレベルで描いているドラマだなぁ~という、漠然とした印象を持っていました。
ぼくが正月に見たのはどうやらシーズン3の一部らしいです。
今月からCVTVでシーズン5が始まるらしいのですが、それは置いておいて、描かれている舞台がスェデン・ボルグが描写した、
霊界(冥界)のある一部の層の様相にそっくりで、ちょっと驚きました。
数話しか見ていないので、あまり断定的なことはいえませんが、おそらく登場人物たちは肉体としては死んでいるのだろうと思いました。
物質界にほど近い霊界(冥界)では、現実界と変わらない人間模様が繰り広げられるみたいです。
「Lost」はまさにそういう世界でした。

だとしたら、ずいぶん思い切ったドラマを作るものだなぁ~という感想です。
それに比べて、人気アイドルを使えばいいといった感じの日本のドラマの悪口を言いたくなりますが、やめておきます。

「Lost」に限らず、「24」とか「Xファイル」とか、アメリカのテレビ業界は矜持を保って頑張っていますね。
無銘の役者もたくさん登用していますし。
役者さんの名前は知りませんが、「Xファイル」のモルダーとかスカリーとか、まさに適役ですもんね。

記憶も定かでない子供のころ「コンバット」や「ララミー牧場」や「ルーシーショウ」などを見ていましたが、
ああいう番組は記憶も定かでない子供でも印象深く、楽しめたものです。
そういえば、「宇宙家族ロビンソン」とか「タイムマシン」とか「猛烈ギリガン君」などもありました。
今の大人が見ても充分に楽しめる番組だと思います。
今の日本のドラマというのは一体誰に見てもらいたいと思って作っているのでしょうか。
まぁ、悪口は止めます(笑)

テレビでやれることというのはまだまだあるはずなんです。
アメリカにいる時に見ていたのが「ディスカヴァリー・チャンネル」とか「ヒストリー・チャンネル」とか、
テレビでしかできない映像の力をフルに活用していました。
ちなみに、アメリカではケーブルテレビが主流ですから、地方と都市の閲覧可能の番組の量的・質的格差というのはほぼありません。
日本の業界にその志がないのなら、まぁ好きにしたらいいです。
スポンサーも視聴者も幼稚な学芸会レベルの媒体には見切りをつけるだけです(←結局悪口)

で、我らが導師の滝行に興味を示したNHKが、今朝の滝行に取材に来たみたいです。
土曜日にも取材に来るらしいです。
こういう地道な取材をしてくれるNHKが再評価されています。
いいことです。
滝行なんていうのは、文字でも音声でも伝えられません。
映像のインパクトに叶うわけがありません。

その節には皆さん見てください。


不毛

2009年01月06日 | 雑感
実は年末にネットでテレビを買いました。
で、買わなかったほうが良かったかなと思っています。
DVDとニュースを見たいと思って買ったのですが、DVDプレーヤーが壊れたままの上に、ニュースが酷いです。

例えば、医者なりカウンセラーがいるとします。
ここが悪い、ここも改善の必要がある、ここも放っておくと悪くなりますという告知は必要でしょう。
でも、その告知された患部を改善する対策を告げることなく、ここも悪くなった、ここも酷くなったというようなことばかり告げられたら、
患者なりクライアントはどうなるでしょうか。

政府も状況に応じて様々な策を講じてはいるのです。
現実の銀行の融資を通じて、ぼくはそれを知っています。
でも、報道でそういう現実的な策を取り上げ、改善策なり何なりを取材して提示するという報道を見たことがありません。
働く現場にいない人が、報じられているような冬空の下の派遣労働者の姿を見れば、そりゃ政府に対する不信しか生まれないでしょう。
政府を褒める必要はありませんが、政権に対する不信を無責任に煽る必要はありません。
政治は不信と盲信の戦いではありません。
あくまでも現実的な政策論争の積み重ねであるべきです。
派遣労働者は被害者ではありません。
そういう労働形態に問題があるのなら、どう解決するのかを論じていくだけです。
何でもかんでも国の責任だと糾弾する姿になったら、ただただ不毛な怨恨のエネルギーが生まれるだけです。

国というのを権力構造で捉えてしまうと、闘争相手になります。
国というのを自分が一員の共同体とすると、ひたすら自分がなにをすべきかが問われます。
ぼくはいかに自分が困窮しようが、国の責任だと思ったことはありません。
自分の生き方の選択の自由を、国に委譲した覚えはありませんから。

そりゃあ、厳しく監視しなけりゃ権力は際限なく肥大し、暴走し、圧政化するのは知っています。
でも、権力に対する不信と混乱を生み、労働者革命を実現するという夢を追う人に従うつもりはありません。
権力の主体が資本家から官憲に移し変えられるだけなのは、歴史が嫌というほど示しています。

国がどうしてくれるかより、自分がなにができ、なにをすべきかを問うべきだろうと思います。
自分がなにができ、なにをすべきかを知る人間が増えたとき、国の形も変わるんだろうと思います。

政府や資本家や誰かと戦っている場合ではないと思います。
「自分」との最終決戦に戦いを挑む勇気こそ今必要なことだと思います。

死ぬのなら死ぬだけのことです。
それだけのことです。
誰に向って「生きる権利」を主張するのでしょうか。
生きるというのは権利としてではなく、恩恵だと思ったほうが自由というものの範囲が広がります。

ま、言い出したらキリがないことです。
不毛な闘争劇に巻き込まれるのはやめましょう。


謹賀新年

2009年01月05日 | 雑感
明けましておめでとうございます。

先行きがどんどん不透明になっていく年のはじめです。
時代が変化する過渡期というのはそういうものでしょう。
安定を求めれば求めるほど、心は不安に陥ります。
安定を求める心を打ち捨てて、どんな変化にも対応してやるという柔軟性と創造力が今は必要でしょう。

イスラエルがガザに侵攻しました。
泥沼化するのを承知で侵攻したとしか思えません。
国連というものの無力さが露呈されます。
国内政治は相変わらず政権を取った取られたのレベルで争っています。
その争いを下らないとは思いませんが、参加しようと思いようもありません。
今必要のなのは日本の今後取るべきグランドデザインなのであって、それを示すことの出来ない政治的キャンペーンには興味がありません。

派遣労働者の苦境に同情しないわけでもないのですが、非正規労働者の待遇を改善すればそれでいいというわけでもありません。
単に税金の増減が問題なのではなくて、その使い道の不透明さが問題です。
何に使うか分からない税金の増減を賛成も否定もできるはずがありません。
グランドデザインを示さないまま、どの政党がいいかを選べなんというのは無茶苦茶です。
民主主義というのを最も信じていないのが今の政治家なのではないかとすら思います。
野党はとにかく一度政権交代をしてみてくれと言います。
それって、政治家の言葉なんでしょうか。
AがダメならBがいいわけではありません。
AよりBの方が悪いことだってあるわけです。
政治の言葉としては、いかにあよりBの方が優れているかを有権者に語り続けるのが正道です。
Aの政策のマイナス面だけを取り上げても、Bの政策が優れていることの証明にはなりません。

テレビや新聞の大手メディアからスポンサー離れが加速しています。
経済の状況もありますが、今の番組やら報道の質を考えると当然でしょう。
正月番組のレベルの低さはちょっと言葉が出ないくらいまで落ちました。
紅白の視聴率がよかったと言いますが、紅白が面白かったからではなく他が酷すぎたからだとぼくは思っています。

ま、なんにせよ、だれにせよ既存の生き方で安穏としているわけには行かなくなりました。
行くべき道を自分自身で切り拓く必要がありそうです。
逆に言うと、既得権益の網の目から始めて自由になって、自分自身の道を歩くことのできるチャンスが来たということもできます。

今後あらゆる既得権益というものが炙り出され、その存続に厳しい目が向けられるでしょう。
その過程で、新たな既得権益というのもまた生まれることでしょう。
そんなことはどうでもいいです。
自分の歩もうとする道筋だけはどんどん透明にしていくことです。
透明にして、その道に光を当てれば当てるほど、どんな状況になろうとも取り乱すことはなくなるでしょう。

それぞれがそれぞれの道を歩んで今の世の中という現象があります。
誰かが作った現象に巻き込まれて、にっちもさっちも行かなくなるというのが一番つまらないことでしょう。
自分の歩む道を見つけること、それが一番重要です。
自分の道を歩む過程で受ける艱難辛苦は挑戦ですが、誰かが作った現象に巻き込まれるというのは災難です。

なかなか大変ですが、大変だからこそそれを乗り越えた喜びは本物に近づきます。
困難は嫌だと思うと、少しの困難も苦痛になりますが、なんでも来いと思っていると困難はゲームのステージをクリアするのと同じことです。

こういうときこそワクワクして生きましょう。