風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

喜び

2009年05月14日 | 雑感
今朝もグズル娘の声に起こされて、起こされついでに滝に行きました。
まだ厳しい滝です。
身体が相当弱っているのかもしれません。
それでも意識的に力を抜き続けたら、楽にはなりましたが。
調子がいいときは、力ははじめから抜けているものですが。
力を抜いて、滝と一体とならないと、独特の深い爽快感は味わえません。
あと数回で調子が戻りそうな予感はしています。

それにしても爽やかな風が吹いていました。
陽射しは強いのですが、涼しい風が走る車の窓から吹き込んできました。
それはいいのですが、滝からの帰路はちょうど通勤時間に当たります。
高速道路もまぁまぁ混雑しますが、流れに乗って走っていれば何の問題もない程度です。
その流れを無視して、前の車にピタリと寄せては抜かし、抜かしてはピタリと寄せるような運転をする車が、
必ず数台見かけます。
「自分がされて嫌なことは、人にもするな」とお母さんに教えられなかったのでしょう。
そんな感じで必死に車線を変更している車を、車線の流れによってはブッチギリで抜かすこともよくある話です。

ぼくはよく「喜び」という言葉を使いますが、どうしようもない苦しみのど真ん中にいる人にとっては腹立たしいかもしれません。
苦しいときはどうぞ逃げずに苦しんでくださいと言われたら、なおさら腹が立つでしょう。
でも、ぼくは苦しみから抜け出すコツは、逃げずに苦しみぬくことと諦観しています。
苦しみから逃げようとすれば、その力を増大させて追いかけてきますが、よし分かった、じゃぁ苦しもうと覚悟を決めると、
意外とその勢力を弱めるものです。

風邪を引いた時も同じかもしれません。
ぼくは滅多に病院にいかないのですが、お客さんの紹介もあり風邪で病院に行ったことがあります。
注射も打たれ、点滴も受け、薬も山のようにもらいましたが10日ほど長引きました。
風邪を引いたと分かり、直そうと決めたら仕事を休み、丸一日とにかく寝ます。
熱も上がれ、咳も出ろ、ふらふらになって食いたくなければ食わずにおればよいという感じで寝ます。
次の日の午前中には熱も下がり、おかゆが食べたくなります。
それで治ります。

要するに、逃げずに受けきろうと思えば、大抵の厄災はひるむような感じがしています。
もちろん、舐めてはいけませんが。

日本で生まれ、生活していますと、なかなか気がつきませんが、紛争地帯に生きる人たちは例外なく
逃げようのない生死に関わる厄災に四六時中取り囲まれているわけです。
それでも生きようとする必死さ健気さにもかかわらず、巨大な厄災が来る日も来る日も彼らを襲います。
それの比べてぼくらは幸せだというようなぬるいことは言いますまい。
人生を喜べる機会がもてたのなら、どんな些細なチャンスも見逃さず喜んだ方がいいだろうということです。
寝る所があり、食べるものがあるだけで心の底から幸福を感じる人がいます。
日本に生まれたぼくらが不平不足を言ったら、そりゃあ、いろいろな意味で申し訳が立たないのだろうと思います。
喜ぶ材料に溢れているこの地に生まれて、喜ばないのは、なんというか傲慢すぎるのかもしれません。
食べられれば幸せかというとそれは違います。
でも、まずは食べられる幸せを、喜びを感じましょうよ、雨露をしのげるありがたさを感じましょうよ、ということです。

そういう惨めな境遇にならないと分からないと言うと、天はそうかそれでは仕方がないと、そういう境遇にしてくれるんだと思います。
今が幸せだと気がつけば、できるだけ苛酷な境遇は避けた方がいいのではないかと思う次第です。

誘惑

2009年05月13日 | スピリチュアル
以下は、ある有名ブログにコメントしたものをちょこっと改変して転載しました。

アセンション関係の本は、現代の地球の状況分析やら意識の拡大の必要性やらに関しては、
とても参考になることを説いているのですが、
そのための方法としてワークとか瞑想とか称して、妖しげな世界に誘導するものが多いですね。
救われよう救われようとすればするほど、誘導尋問に引っかかっていくようなものです。

仏教の根本は苦界そのものに見えるこの娑婆世界こそが(我欲=我良しの意識から解放されることにより)
仏土であることに気づきなさいというところにるようにぼくには思えます。
そのせっかくの現実世界から人の心が遊離してしまえば、この世そのまま仏土であるという足がかりを失ってしまうわけです。

リーマンさんは一貫して日常の足下からの遊離を戒めています。
その足下からの遊離を、奇異、脅かし、甘言を使って盛んに誘惑するのが、尻尾君たち(魔)の手口ですね。
尻尾君たちは、日常の足下から喜びを産みだすように人がなったら、全く付け入る隙がなくなりますから。

人がなにものにも恐れず、強制されず、卑下することも尊大になることもなく、他者とともに、
地球のすべての生命とともに、宇宙とともに、生命の本質=喜びを自在に創造することを何よりも恐れているのが、
尻尾君たちなのでしょう。

尻尾君たちがなにを恐れようがどうしようがどうでもいいことです。
人は恐れず、日々自分の足下に喜びの種を堂々と淡々と蒔き続ければいいだけです。

生かして頂いて 有難う御座います。

以上転載終了。

一人の人間の力が解放された時には、世界が動きます。
解放された人間として、仏陀やキリストがいますが、彼らは彼ら自信を特別な存在だと言ったことはなく、
あなたたちも解放されなさいと言い続けた人たちでした。
がんじがらめになっている思い込みやら、信条やら、信念やら、価値判断やらから自由になることを信じること。
無限の存在としての魂としての自分の可能性に遊ぶこと。
有限な三次元世界の存在として、その有限性に遊ぶこと。
この世もあの世も尊い尊い遊びの自在空間として遊びまわること。
それが腹の底から納得でき、足を踏み出すことができれば、人の心は大空に飛翔します。

「生きる喜び」という生命の摂理から外れない信念と、この世で一歩を踏み出す勇気が要ります。
この世で踏み出すその一歩というのが何かは、人それぞれに任されています。
こうしろああしろと誰からも言われる必要がありません。
これだと思う方向に踏み出してみればいいだけです。
今までと違う景色をワクワクとして眺めてみればいいだけです。
皆で自分が見た素晴らしい景色を自慢し合えばいいだけです。
底には自分への信頼と他者への信頼と喜びしかないでしょう。

そうするときに魔の付け入る隙はありません。
魔の力というのは必ず「誘惑」という形でしか人の心に働きかけれません。
「誘惑」にふらふらしている暇がないほど、自分の歩む道に夢中になれば無敵ですね。


濁りの日々

2009年05月12日 | 雑感
昨日は一日休んで昼から滝に行きました。
滝場は山の西側にあるので、朝は全く日が射さず薄暗い雰囲気なのですが、
昼を過ぎますと木漏れ日が辺りを金色に踊っていました。
かなりの気温は上がっていましたが、まだ足は痛いままでした。
夏場にカキ氷を急に食べるとこめかみがキーンと痛くなりますが、あんな感じの痛さです。
例年ですと、この時期の滝は至福に近い感じで爽快なのですが、身体が余程濁っているのでしょう。

帰り道は普段より遠回りをして、山裾をくねくね迂回する道を通って帰りました。
新緑が喜びの讃歌という感じで風にそよいでいます。
車を止めてゆっくりその風景に浸りたかったのですが、ついついそのまま麓まで下りてしまいしました。
実は、街に下りたらなにを食べようかとずっと考えていたのです。
せっかく滝で禊をしたのだから、シンプルにうどんにしようと思ったり、ビールにジンギスカン定食もいいなと思ったり。
結論が出ないままに車を走らせていたので、途中下車する機会を失ったのです。
バカです。
で、バカの上塗りに、結局ビールを飲んでジンギスカン定食を食べました。

こうも自分の意志というものがフラフラするものならば、意志の名に値しませんね。
意志に迷いが入り込むと心が濁ります。
せっかく滝に行っているのに、身体ばかりか心まで濁らしてどうするんかという感じです。

この迷いの汚濁からこそハスの花が咲くなどと己の口で言おうものなら、今度は口が腐ります。
濁ったり腐ったり、ゴメンね。>ぼくの身体と心

それから映画「スラムドッグ$ミリオネラー」は必見です。
お涙頂戴では全然ありません。
野太い人間讃歌です。

今日は讃歌という言葉が二度出てきました。
気がつこうとさえすれば、人は生命の讃歌に取り囲まれています。
あぁ、それなのに飲んだくれている誰かがいます。
それでも讃歌は鳴り止みません。

生かしていただいて 有難うございます。


想像力

2009年05月10日 | スピリチュアル
今日も出勤しています。
先日偉そうな口を叩きましたが、まだ決算には手をつけていません。
今日も手を付けずじまいでした。
いやはやです。
恐怖の口先男とは、ぼくのことでしょう。

銀行が金を借りないかと言ってくれていますが、財務票(決算書)ができないことには手続きを進められません。
こういう油断の連続が運気を下げます。
明日は休みを取って、山にでも登って、鋭気を養って、決算に取り掛かる所存です。←モノスゴイ油断(笑)

さて、人に与えられた大きな能力に想像力というのがあります。
自分の周囲の環境が気に食わなければ、気に食う環境というものを想像することができます。
人の想念というのは無敵のエネルギーですから、自分の想像力を疑わなければ、気に食わない環境を、
気に食う環境に作りかえることができます。
でも、大抵の人はそんなことが出来るわけがないと自分の想像力を過小評価するわけですが。

単にこうなったらいいな~というのは想像力の入り口でしかありません。
それは願望であって、想像力の発揮には至りません。
細部まで根気よく想像力によって組み上げるときに、想像力はパワーを持ちます。
例えば、三畳一間の貧乏暮らしをしていたとします。
金持ちになりたいな~と思ったところで金持ちになれるはずもありません。
金持ちかどうかは枝葉末節な結果論であることに気がつかなければなりません。

想像力がパワーを持つのは自分のあり方に関してです。
金持ちかどうかというのは自分のあり方ということに関してではなく、他者が自分を金持ちにしてくれるかどうか
他者への願望が強く含まれています。

で、想像力を働かすとしたならば、自分がどういう人間になりたいのかということに想像を巡らします。
なにをしているのか。
誰と関わるのか。
どんな結果を生んでいるのか。
さらに、どんな服を着て、どんなところに住んでいるのか。
文字通り、想像することによって自分の新たな人間像を創造するわけです。

かく言うぼくは、自分の将来像を想像するというようなことは面映くて滅多にしないのですが、
チラッと想像したりしてみたことが、ものすごい勢いで実現したりしますから、想像力は侮れません。
そんなぼくでさえも想像力のパワーを知っているのですから、いわんやぼくほどいい加減でない人においてをや。←反語

若干の注意事項としては

*空想と想像は違います。あくまでも自分という人間の可能性と喜びとに基づいたものが想像です。
*自分がよければいいという「我良し」の心に根ざした想像は、必ず他者への身勝手な期待を含みますから、願望に終わります。
*想像する世界はスケールがいくら大きくてもかまいません。想像する段階でケチケチする必要はありません。

先日店のソファにボーっと座っていましたら、あれっ、おれって背中に羽が生えてるんじゃないかと思いました。
しかも純白で、大きくて、立派なやつです。
こういうのは想像ではなく、妄想と言います(笑)





魚たち

2009年05月09日 | ストーリー
素朴で純情な魚たちがいました。
周りの景色を楽しみ、漂い来るプランクトンを食べ、それは楽しく暮らしていました。
時にはつまらない理由で喧嘩をすることもありましたが、周囲がとりなせば仲良く収まりました。

あるときを境に、海水中に妙な匂いが流れ込んできました。
長老たちがその正体を巡ってあれやこれやと議論しましたが、それが何かは分かりませんでした。
その頃から、子供たちの様子が変わって行きました。
食べ物は充分にあるのに、隣の子供の食べ物を横取りするようになったのです。
食べ物を横取りされた方の子供は分けも分からずぽかんとしていると、寄ってたかってその子を突付き回すのでした。

大人の魚たちはどうしたことだろうかと大騒ぎをしましたが、誰もその原因を突き止めることはできませんでした。
子供たちの行動はだんだんエスカレートして、ある時子供たちの集団が一人の子供を突付き回した挙句殺してしまいました。
魚社会に衝撃が走りました。
ありえないことが起きているのですが、なぜそういうことが起きるのか、誰にも分かりませんでした。

そうして時が経つにつれ、魚社会の中では充分にあろうがなかろうが、食べ物は横取りしてでも取り合うのが普通となり、
横取りが上手い魚が賞賛されるようになりました。
親も子に他の魚よりも食べ物を上手くとる方法を教えるようになりました。

子供たちは幼いころから楽しむことよりも、奪う技術を競うようになりました。
長老たちは何かが違うと盛んに警告を発しましたが、誰も耳を傾けるものはいなくなりました。

ある時風変わりな子供が生まれました。
食べ物を取り合うことに熱中する仲間たちとは離れ、仲間たちが決して近づかない海域まで一人で泳いで回りました。
自分が見た素晴らしい光景や感動を仲間たちに伝えようとしましたが、仲間たちは彼を馬鹿者としてせせら笑うばかりでした。

ある時、その風変わりな子供は体力の続く限り遠くまで行ってみようと決心して泳ぎだしました。
水は冷たくなり、食べ物も見る見るうちに少なくなっていきました。
日ごとに募る心細さと戦いながら、それでもその子は泳ぎ続けました。

そしてある日彼は透明な壁に突き当たりました。
その透明な壁の向こうには、彼が見たことも想像したこともない世界が広がっていました。
彼は驚愕し、混乱しました。
それでも彼はめげずにさらに探求を続けました。
そいて彼はついに知りました。
全世界だと思っていたこの水中の世界が、実は透明な壁に四方を囲まれた作為的な世界であるということを。
うかがい知れない誰かの作為でこの世界が作られているということを。

彼はそれまでの経験で、その知ってしまったことを仲間たちに伝えても無駄なことを知っていました。
そしてその自分の無力さを嘆きました。

(続く)




右脳

2009年05月08日 | スピリチュアル
今日知人から聞いた話です。
昨日NHKで、病気か事故かは知りませんが、左脳の働きが一時的に麻痺してしまった人を紹介する番組があったそうです。
で、右脳のみが活動する状態の人の意識というのは絶対的な幸福感に包まれていて、他者との境界も消えて、
それこそ「涅槃」の境地にいるようだったとその人は語ったそうです。
そういうふうに自分を客観視できるくらいですから、今ではその人の左脳も麻痺から抜け出して健全に働いているのだそうですが。

左脳というのは分別、分析、解釈、価値判断などを主に司っているといわれている脳の分野です。
簡単に言ってしまえば、個体としてのアイデンティティを守ろうとする機能を司っているのでしょう。
この三次元世界で生き抜くためには、個体としての人間であるという条件は外せませんから、
左脳の役割はそれなりに評価されるべきでしょう。

興味深いのは、禅の修業に代表されますが、宗教的修行が目指す方向性として、左脳の機能の一時的な停止を目指すということです。
左脳が最も得意とする「分別知」というものを片っ端から否定あるいは無視していきます。
そして「分別知」では決して捉えることのできなかった自他が融合した絶対肯定の境地、いわゆる「悟り」という境地を目指します。
番組のその人は西洋人だったそうですが、「ねはん」という日本語を敢えて使ったのもなるほどと頷けます。

人の苦しみの大方は左脳の分別、解釈によって引き起こされます。
「自分」というものが疎外され、不当に扱われ、思い通りに行かない理不尽に迷わされ・・・。
それに対して、「分別する」ということを知らない右脳は、ただただ生命に対する肯定感があるだけです。

さらに言うならば、「自我」というのは左脳が作り出した幻影だとも言えるでしょう。
己の我欲を正当化し、外部世界を我欲の利用対象とみなすために、クルクルと働くのが左脳といえるかもしれません。

左脳の悪口をいいたいのではなく、左脳を生命の主体にすえるとそうなるのだろうということです。
右脳=生命の喜びを主体にすれば、左脳は極めて優秀なサポーターになれるのではないかと言いたいわけです。

喜びが主体であれば、左脳が作り出す幻影=不安や不足感が行動の動機になることがありませんから、
したがって、他者との比較や優越感の争いに基づいた不毛な行動がありえなくなります。
他者という存在が競争相手や比較対象でなくなれば、他者を利用しようとする心もありえなくなります。
自分が喜びなら、他者の生命も喜びであることを喜び合うだけです。

現代の教育体系では主に左脳の働き(分別・分析・記憶)で評価されますから、左脳が人生模様の主役に居座っています。
だれそれは賢い、偉い、バカだ、つまらぬ、何が価値がある、あれが成功だ、あいつは負け犬だ、とやるわけです。
生きる喜びというのを評価の基軸にすれば、世間で言われる勝ち組といわれている人々の後生大事に抱えている価値観は
あっけなく崩壊するような気がします。

喜びというのはすでに勝っている状態です。
負けるという状況がありえない心のあり方です。
他者との比較で生きるというのは、負けるかもしれないという不安と恐怖の中で生きることです。

喜び(右脳)を主体として、更なる喜びを高めるために状況を分析・判断(左脳)できるようになれば、人は無敵になれます。
不安(左脳)を基にして、さらに不安を増長させるような状況判断・分析を左脳にさせておくと、人は病気になるのでしょう。

不安というのは現実ではありません。
左脳が作り出す幻影です。
喜びというのも幻影でしょうか。
そうかもしれません。
でも、どうせ幻影に踊るなら、不安という幻影に踊らされるよりも、喜びというダンスを踊った方が楽しいです。
楽しいダンスを踊るという幻影を経験する。
それがこの世に生きるということなら、ぼくはそれで充分です。


シンプル

2009年05月07日 | スピリチュアル
ゴールデンウイークも終わりました。
屋外の爽やかな大気を胸一杯に吸い込むには最適の季節です。
というわけで、ぼくも滝にも行き、山にも登りました。

約半年ぶりの滝でしたが、水が冷たく感じ、足が冷たさで痛いままでした。
血液の循環が悪くなっているのでしょう。
滝から出ては入るということ何度か繰り返し、最後には滝の真下で久しぶりに水の感触を味わいました。
やはり滝の爽快感は半端ではありません。

山は手近な数百メートルの低山歩きでしたが、弱った足腰にはちょうどいい感じでした。
尾根筋の木陰で昼寝もしました。
青い空に雲が流れ、時折風が吹き若葉がさわさわと揺れます。
ウグイスが競うように鳴いています。
地球が、大地が生きているということは確かに違いありませんが、その生命の鼓動と一体になるというのがまだまだです。
世界から孤立した自己という自我意識をこの期に及んでまだ手放すことができないでいます。
それでもいいやと手足を思い切り伸ばして、完全無欠の空の下で転寝をしました。

奪い合う世の中はもうとっくに終わっています。
いまのところ前時代の惰性で奪い合うことが有効なように思えないこともないわけですが、尻すぼみの結果になるでしょう。
与え合う時代と言うのは易しいですが、なにを与え合うのかということに関して、人々は自信がもてないという感じです。
秘められた自分の力を信じて、あなたそのものを人と分かち合えばいいと言っても、それも言うは易しです。
自分そのもの、あなたそのものというのを発見し掴み取る作業は、個々人の生きる道程に委ねられています。
人とは何か。
永遠のテーマを解かねばならない時代になったのでしょう。

ここでも何度か言っていると思いますが、本当のことというのはシンプルです。
生きるということもシンプルです。
生きて、チャレンジして、死ぬ、ということです。
何にチャレンジし続けるのかということがとても重要です。
チャレンジがない人生というのは、養鶏場のニワトリや檻の中の狸みたいなものであって、餌を食うだけの生存に過ぎません。
チャレンジを通じて人は成長します。
でも、何のために成長するのでしょうか。
人に与えるものを持つために成長するのだとぼくは思います。

言い方が難しいのですが、人に与える「ために」成長するのではありません。
~のために成長するというのは、成長の邪道のような気がします。
成長が喜びであるから成長するだけのなのですが、その喜びを分かち合いたくなるのが人の幸福の真髄であるような気がします。

花は咲くのが嬉しいから咲き、鳥は飛ぶのが嬉しいから飛び、風は吹くのが嬉しいから吹く。
そしてそれらの喜びが一体となって、地球の喜びとなる。
そんな感じなのだと思いますが、今までの人間の硬く重い自我意識がその調和を乱しに乱してきたのだと思います。

シンプルにチャレンジし、成功しようが失敗しようがシンプルに成長の喜びを味わって、大地とともに笑えばいいだけです。
生きようが死のうが、すべては喜びとともにあれば、言うことなしです。



老人と海

2009年05月02日 | 雑感
桜が咲いたのがつい先日のことだったのように思っているうちに、すっかり新緑の頃となっています。
新たな日々に慣れてしまっては時間はあっという間です。
忙しければ忙しいほど、気を丹田に鎮めておかなければ人生を空費してしまいそうです。

仕事もまあまあ忙しかったのですが、地元のFM局に出たり、ネネさんの講演の前座をしたりとちょっと慌しかったです。
ぼくは忙しいという状態が全く好きではありません。
無駄に回転速度を速めているような気がします。
ぼーっと空を見ているほうが好きです。
でも、人生というのは嫌いなものを無くすというのも大きなテーマの一つだと思っていますので、忙しくなれば忙しくするだけです。

滝にも行きたいのですが、体力の衰えが半端ではありません。
朝起きてから一時間もするともう疲れている感じです。
原因ははっきりしています。
酒です。
内臓を侵食し始めている感触があります。
明日から連休ですのでその間にうまく調整できればいいのですが。

新型インフルエンザが世間を騒がせています。
あのウイルスが自然界でできる可能性は0.01パーセントくらいしかないのだそうです。
ま、そのあたりの事情を知っている人にとっては、このニュースを聞いた瞬間にピンと来るような話です。
AIDS、SARS、鳥インフルエンザ、エボラ熱、そして豚インフルエンザときたもんです。
でも自然界というのはどこかのろくでもない研究室の計画を越えて、浄化・淘汰作用がはるかに強力らしく、
いずれのウイルスも弱体化していくらしいです。
自然を悪意を持ってコントロールしようとする輩は最後には必ず敗北するのでしょう。

とはいっても、娘もインフルエンザにかかりました。
風邪かと思っていたのですが、衰弱振りが酷いので病院に連れて行ったらインフルエンザでした。
親としてはなすすべもなく心配するばかりでした。
今ではけろりと元気に走り回っていますが。

得体の知れないウイルスがうようよ大気中を漂っているのでしょう。
負けない体力と気力を培っておきましょう。

「人間は殺されることはあっても、負かされることはない」というような「老人と海」のサンチャゴ老人の言葉がありました。
死ぬことは時の運として誰にでもあることです。
でも、運命を受け入れることはあっても、運命に負ける必要はありません。

その意気でお互いに頑張っていきましょう。