風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

言葉

2011年04月30日 | 

そのひとはなにかを言いかけては止める癖があった
口を開いてなにかを言おうとしては、ふっと笑ってうつむいてしまうのだった
彼女の胸の中に次々生まれる言葉の光が、生まれたとたんに消えていくかのようだった
生まれ出た言葉の数々がどこに消えていってしまうのか、彼女にも分からなかった

そのひとはますます無口になっていった
人の挨拶には控えめな笑顔で応え、仕事の指示には頷いたり首を振ったりした
そんなに無口でも
周囲の者は彼女が無口であることさえも気がつかなかった

一度だけそのひとを食事に誘った
ぼくはビールを飲んで、彼女は白ワインを頼んだ
彼女の表情からは嬉しいのか気まずいのか、さっぱり分からなかった
それでも頬をピンクに染めて彼女のことを少しだけ語り出した

そのひとは北海道の奥尻島の出身で、両親が津波にさらわれた
そのとき彼女はたまたま友達のささやかな誕生日会でショートケーキを食べていた
その後は神奈川のおじさんの家に引き取られて東京の女子大を出た
好きな曲はカーペンターズ、好きな映画は「冒険者たち」

彼女の話にぼくも頷くばかりだった
ぼくもなにか気の利いたことを返そうとしたのだが
言葉がどこかに吸い込まれていった
どんな言葉も綿埃のように軽かった

今でもそのひとを見かけ、目が合うと彼女はほんの少しだけ微笑んでくれる
ぼくはなにかを言いかけるが、言葉は出ない
彼女の周囲ではすべての言葉が虚空に消えていく
冷たく静まりかえった湖面のように、その虚空は広がっている

 


スピリチュアル・ウォーカー

2011年04月25日 | スピリチュアル

だんだん気持ちのいい初夏の訪れを感じる今日この頃です。
「ヤスの忘備録」というブログからの引用です。
長くなりますが、読んでみてください。
以下引用。


プロの人類学者

ハンク・ウェセルマンは、コロラド大学ボーダー校で動物学を専攻し、カリフォルニア大学バークレー校で人類学の博士課程を終了したバリバリのプロの人類学者である。昨年の10月、エチオピアで約440万年前の人類、アルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)の全身化石が発見され、猿人と人類とを結ぶミッシングリンクが見つかったとされたが、ウェセルマンはこれを発見した国際調査隊のメンバーでもあった。ラミダス猿人の特徴はこの調査隊に参加した人類学者たちが書いた11の論文に詳しくまとめられているが、ウェセルマンもこの論文の執筆者の一人である。現在はハワイ大学などで教えているようである。

ウェセルマンの別の顔

しかし、ウェセルマンには人類学者とはまったく異なった顔がある。それはシャーマンとしての顔である。いや、ウェセルマンがシャーマンの研究者であるというのではない。彼自身がシャーマンなのだ。

30歳の時の体験

今回、アメリカの深夜ラジオの「Coast to Coast AM」に出演し、自分の体験を詳しく語った。

おそらくウェセルマンは60代前半であろうと思われる。ウェッセッルマンが博士課程に在籍していた30歳のころ、彼はスーダンで行われた人類学の調査に参加した。目的は猿人の化石の発掘である。調査隊は現地に長期滞在するため、現地人のとはひときわ友好な関係を結ぶように努力したという。発掘にも多くの現地人が参加した。

あるときウェセルマンは、発掘のあと現地の人々とくつろいでいた。すると急に、明らかに誰かに見られているという強い実感に襲われた。その感じは時間が経つにつれ強くなったという。すると、目の縁にちらっとトラの皮を被ったような生き物の姿が見えた。そばにいた誰にも見えないようだった。すると、近くにいたシャーマンだけには見えるようで、その生き物を自分とともに凝視していたという。

ウェセルマンは現地語で「いまのはなにか?」とシャーマンに聞いた。すると、「霊だ」という答えがかえってきた。

ウェセルマンはこの体験をしてから、たびたび同じような生き物と遭遇するようになったという。それはまさに、自分が人類学者として研究している伝統的な部族社会の神話に出てくるような生き物を、じかに体験するようなことだったという。

スピリチュアルウォーカー

しかし、ウェセルマンの体験はこれに止まらなかった。これはほんの始まりにしかすぎなかったのだ。

1994年の夏のある日、深夜ハワイの自宅の寝室で妻と休もうとしていたとき、心臓の鼓動が頭の中で鳴り響いたかと思うと、いきなり鼓動が止まったのだ。するとウェセルマンは、自分の体を抜け出て別の人間の体に入ったのに気づいた。それとともに、ハワイの自宅とはまったく異なる環境にいるのが分かった。それは、自意識が二つあるような状態だという。向こう側の世界にいる別の人物の意識があるが、それをウェセルマンの意識が客観的に観察しているというような状態だ。

ウェセルマンが成り代わった相手は20代後半の屈強なハワイ原住民の青年だった。彼の名前はナイノアといった。ナイノアは、自分が所属する部族から、この部族にはまだ未知の土地の探索を命じられ、長期間の旅に出た。そこは、熱帯雨林の原生林に覆われた土地だった。

これ以来、ウェセルマンは幾度となくナイノアになり、彼の世界を体験した。体験は、たいてい寝る前になんの予告もなくいきなりやってきたという。そして、ナイノアとして熱帯雨林のジャングルを探検するうちに、ナイノアが「偉大な時代」と呼ぶ大昔の過去の時代があったことを知った。それは249世代前、つまり約4900年前であった。ナイノアの探検している熱帯雨林のジャングルにはときおり、巨大なビルの残骸のようなものが見られた。

そこは、4900年後のカリフォルニアであった。現在のカリフォルニアのかなりの部分は水没しており、ところどころに陸地が残っているような状態だった。

ウェセルマンは幾度となくナイノアになり、ナイノアの世界を体験した後、これを本にまとめた。これが「スピリチュアルウォーカー」だ。1995年にベストセラーになっている。読んだ方も多いと思うが、プロの人類学者が自らの実体験を綴った名著である。お勧めの本である。

ウェセルマンのその後

「スピリチュアルウォーカー」の執筆以降、ウェセルマンはプロの人類学者らしく、自分の体験した世界がいったいなんなのかその解明に情熱を注いだ。自分の体験した世界は、特定の周波数の脳波のもとで現れる世界であり、現実というのは、異なった種類の脳波に合わせて複数存在していることが分かった。

ウェスルマンが体験した世界は4から7ヘルツのシータ波のもとで現れる世界だという。ウェスルマンの脳に興味をもった大脳学者が彼の脳波を計測したところ、シータ波の数値が異常に高いことが分かった。

さらにウェスルマンは、シータ波から現れる世界は、多くの伝統的な部族社会でシャーマンが体験している世界であり、そしてそれは、どの部族社会でも行われているドラムの特定のリズムを再現することで、現代のわれわれも比較的に難無く体験できることを発見した。

ウェスルマンのワークショップ

いまウェスルマンは、古代から延々と受け継がれてきたドラムのリズムに合わせ、自分が体験した世界を多くの人々にも体験してもらうワークショップを多数開催している。そうしたワークショップでは、普通の現実とは異なった次元に存在する新たな世界と、そうした世界に存在する生き物たち(霊たち)と直接出会うのだという。

いつものワークショップは、大学や学校などの普通の環境で行われる。だがときおり、遠方の霊と出会うためにエジプトなどにツアーを敢行し、ピラミッドや古代の神殿の中で行うのだという。

ウェスルマンは自分の体験をブログで詳しく報告している。その報告には驚愕するものがある。

エジプトの体験

2009年12月8日、ウェスルマンは王家の谷の近くにあるラムセス3世の葬祭殿、メディネト・ハブに立ち寄った。そのときウェスルマンは、暗がりから自分を見ている目を発見したという。その日は大人数のツアーをガイドしていたので、翌日の9日、ウェスルマンだけで再度訪れた。

ウェスルマンを見つめていたのは、明らかにこの現実には属さない生き物であった。彼はコーランに記載されており、イスラム教の創始者のムハンマドも交流したといわれるジンという存在だった。男性はジン、女性はジニーと呼ばれる、アラビアンナイトに出てくる存在である。

ウェスルマンは、ジンとの間の実に興味深い会話を記録し、これをブログに発表している。以下がその簡単な要約である。

ジンとの会話

最初にジンは蜂蜜を欲しがった。そこで私はジンに、彼の名前を教えてくれれば蜂蜜を渡すことを約束した。ジンは自分の名前を知っているものに対してはウソをつくことができないと神話にあるからである。ジンは同意したので、私はボール一杯の蜂蜜をイメージすると、それを目の前のジンに差し出した。するとジンはそれをゆっくるりと飲み干した。

ジン:
私はジンである。人間こそが創造者であり、われわれジンにはそのような能力はない。模倣するだけである。だが、これで私はあなたに仕えることができる。

ウェセルマン:
私に仕えるといっても君は何ができるのか?

ジン:
あなたを敵から守ることげできる。

ウェセルマン:
私は他者を傷つけるようなことはしない。君はヒーリングのようなことはできるのか?

ジン:
人間の魂には運命が刻まれている。同意を破ることなくして、人間の運命に介入することなどわれわれにはできない相談だ。

ウェセルマン:
それは誰との同意なのか?

ジン:
世界を監視している上位の存在との合意だ。

ウェセルマン:
ジンはその上位存在よりも下位の存在なのか?

ジン:
もちろんそうだ。若いジンはときどき常軌を逸した行動をとるが、上位存在たる監視者は彼らにアプローチし、適切に行動するようにたしなめる。

ウェセルマン:
君のいう監視者とは誰のことか?

ジン:
高い知性をもった上位存在でこの世界に責任をもつ存在だ。われわれジンは人間の運命には介入できない。

ウェセルマン:
それはグノーシスでアルコンと呼ばれる支配者のことなのか?

ジン:
あなたはアルコンのことを知っているのか?だがアルコンは霊ではないぞ。上位存在ではない。彼らは人間の思考が作り出した産物だ。それらは人間の思考に寄生してる存在だ。

ウェセルマン:
思考に寄生している?どうやってそんなことをするのか?

ジン:
人間の思考や、人間が信じている信念の体系から直接エネルギーをもらうことによってだ。彼らは、人間が彼らに関心をもっている限り生き続けることができるが、人間が関心をもたなくなるとエネルギーがなくなり消え去ってしまう。彼らは本当の霊ではない。こうしたアルコンをわれわれジンは「欺くもの」と呼ぶ。ジンと同じように彼らは模倣はできるが、創造はできない存在だ。

ウェセルマン:
ならば彼らは地球外生物のような存在なのか?

ジン:
「欺くもの」は人間の信念体系からエネルギーをもらい、さまざまな姿形で現れることができる。そうした存在の中には他の世界からやってきたものもいる。

ウェセルマン:
他の世界?なぜこの世界にやってくるのか?

ジン:
彼らは訪問者としてやってくる他者である。

ウェセルマン:
そうしたエイリアンはなぜ人間を拉致して実験などに使うのか?

ジン:
彼らはそんなことはしない。そのようなことをするのは「欺くもの」である。

ウェセルマン:
「欺くもの」?なぜ彼らはそんなことをするのか?

ジン:
人間は「欺くもの」よりも偉大である。あなたは彼らのことをアルコン(支配者)と呼ぶが、彼らは人間のように創造することができないのだ。彼らができることは模倣することだけであり、そのエネルギーも人間から引き出しているのだ。人間だけが力があり、「欺くもの」はその力が欲しいのだ。

ウェセルマン:
君のいう監視する上位存在はなぜそのようなアルコンが人間に介入するのを止めさせないのか?

ジン:
「欺くもの」は霊ではない。それは、人間の思考に住んでいる存在だ。だから上位存在は影響を及ぼすことはできないのいだ。

ウェセルマン:
ところで、君達ジンはもともとどこから来たのか?

ジン:
すべてのジンはグノーシスではソフィアと呼ばれている精神の現れである。ジンだけではなく、この世の存在すべてがソフィアの現れである。

ウェセルマン:
ソフィアとはなにものなのか?

ジン:
ソフィアはこの世界を作り出している精神である。

ウェセルマン:
ソフィアは物質的な存在なのか?

ジン:
そうだ。この世界そのものがソフィアの物質的な現れである。

ウェセルマン:
ではソフィアは女神なのか?

ジン:
分からない。ソフィアは意識のある光として出現した。ソフィアが夢に見るすべてのことが現実となる。

ウェセルマン:
ところで、ジンは魂をもっているのか?

ジン:
あらゆる存在は魂をもっている。

ウェセルマン:
では位の高いジンと低いジンはいるのか?

ジン:
いる。

ウェセルマン:
君は位の高いジンなのか?

ジン:
いや違う。

ウェセルマン:
では位が低いジンなのか?

ジン:
いやそうではない。

ウェセルマン:
位の低いジンとはなんなのか?

ジン:
位の低いジンとは、自己意識が芽生えつつある魂のあるエネルギー体のことだ。

ウェセルマン:
彼らはどこで生まれたのか?

ジン:
ソフィアからだ。ソフィアは夢を見る。その夢の産物がジンだ。

ウェセルマン:
ということは、位の低いジンというのはオーブのことか?

ジン:
オーブというのは、魂をもった成長過程の光のことだ。彼らは人間の感情と思考に興味を持ち、人間に引き寄せられる。

ウェセルマン:
彼らはジンなのか?

ジン:
これからジンになろうとしている存在だ。

ウェセルマン:
話は変わるが、クロップサークルは君達ジンが作ったものなのか?

ジン:
いやそうではない。おそらくクリップサークルは人間とは異なる高度な知性が、人間に警告するために作ったものだろう。

ウェセルマン:
ところで、神が人間を作ったのだろうか?

ジン:
いやそれは違う。人間はソフィアの現れである。

ウェセルマン:
ということは人間はソフィアの創造物ということか?

ジン:
いやそれも違う。ソフィアは創造はしない。ソフィアは夢を見て、その内容を発散するだけだ。意図的に創造するのは人間だけだ。

ウェセルマン:
ならば、人間の魂もソフィアの夢の発散で誕生したのか?

ジン:
いや違う。人間の魂を創造したのは創造主だ。感情は人間の身体と一体化し、それは人間に属している。魂はそれとは異なる。魂は魂である。それは霊であり、人間ではない。

ウェセルマン:
ではキリスト教やユダヤ教などの一神教のとなえる父なる神は君のいう創造主のことなのか?

ジン:
いや違う。

ウェセルマン:
では一神教がヤハウェ、エホバ、アラーなどと呼ぶ神はなにものなのか?

ジン:
こうした神こそ先に述べた「欺くもの」である。それらはグノーシスの言葉でいうなら、支配者アルコンのことだ。

ウェセルマン:
支配者アルコンとはなにものなのか?

ジン:
それは人間の思考に寄生している存在で、作られたときから人間の敵として機能している。

ウェセルマン:
ということは、そうした一神教の神というのは、人間が信じているように創造主ではないということなのか?

ジン:
これらは「欺くもの」であり、なにも創造することはできない。これらはアルコンなので、模倣しかできないのだ。

ウェセルマン:
ではこうした一神教の神はなぜこれほどまでに強力で、人間が崇拝する存在なのか?

ジン:
これらは「欺くもの」であり、それらこそが創造主だと強く信じる人間のエネルギーで生かされているだけである。それらが創造主であるはずがない。

ウェセルマン:
それらは創造主ではないのだな?

ジン:
その通りだ。それらは支配者アクロン(欺くもの)だ。

ウェセルマン:
ではそれらは悪魔なのか?

ジン:
そうではない。

ウェセルマン:
それらは善悪を対立させ、否定的な状況を作り出すのか?

ジン:
そうだ。それらは人間に道を誤らせる存在だ。

ウェセルマン:
なぜそんなことをするのか?

ジン:
それがそれらの性質だからだ。それらは「欺くもの」なのだ。

ウェセルマン:
では、悪のもともとの源泉はなにか?

ジン:
悪の源泉は人間そのものだ。一神教の神として現れる「欺くもの」は人間に過ちを犯すように働きかけ、人間が自分で過ちを正すことができない地点にまで人間を追い込んで行く。ここにきて人間は悪を行うのである。人間こそが創造者なのだが、人間は「欺くもの」に影響されている。

ウェセルマン:
ということは、悪というものは人間が創造しない限り存在しなかったというわけだな?

ジン:
そうだ。

ウェセルマン:
では一神教の神として現れている支配者アクロンは悪なのか?

ジン:
いやそうではない。それは人間の敵として機能している「欺くもの」だ。

ウェセルマン:
宗教戦争があまりに多いのはこれが理由なのか?また、中世にはあまたの女性が魔女狩りの犠牲者になったが、それが理由なのか?

ジン:
そうだ。ユダヤ、キリスト、イスラム教の神は支配者アクロンであり「欺くもの」なのだ。これらの影響で人間はとてつもない悪を行うようになったのだ。だが、それらはまだ人間に悪い影響を及ぼしている。

ウェセルマン:
それらはまだそんなことをする力を持っているのか?

ジン:
「欺くもの」である支配者アクロンは力など持ってはいない。それらは創造者ではないのだ。人間こそが創造者であり、なにを創造するのかは人間次第なのだ。人間が、自分自身に悪影響を及ぼすものをものを作ったのだ。

ウェセルマン:
ということは、選択は全部人間にかかっているということか?

ジン:
まったくその通りだ。人間は悪も創造できるし、善も創造できる。

ウェセルマン:
では、悪にはどうやって対処すればよいのか?

ジン:
私には分からない。それは人間の責任である。もし悪を創造できるなら、それを消すことだってできるはずだ。

ウェセルマン:
どうやって消すのか?

ジン:
悪の反対を創造することでだ。人間の思考を変えればそれはわけがないことだ。一神教の神は「欺くもの」なので人間の思考と感情からすべてのエネルギーを得ている。人間こそが創造者なので、すべての選択は人間にある。だが、「欺くもの」を信じてしまうと、これらの言うなりになり、悪い影響を得てしまう。一神教の神は、人間の貪欲、競争心、自己欺瞞などを喜び、戦争と暴力を引き起こす。

ウェセルマン:
もう一度聞くが、われわれ人間が神を作ったということなのか?

ジン:
その通りだ。

ウェセルマン:
では創造主とだれのことなのか?

ジン:
誰も知らない。大いなる神秘だ。

ウェセルマン:
では、創造主はどこにいるのか?

ジン:
あらゆるところに存在している。

ウェセルマン:
創造主があらるゆところにいるということなのか?

ジン:
いや、創造主は意図して創造はしない。発散するだけだ。意図的に創造するのは人間だけだ。

ウェセルマン:
では、そうした創造主をわれわれ人間がコミュニケーションをとることは可能なのか?われわれ人間の祈りを聞いてくれるような存在なのか?

ジン:
いやそれは不可能だ、創造主は存在し、自らを発散しているだけだ。

ウェセルマン:
では君の言うこの創造主が本来の神のことなのか?

ジン:
いいや、違う。それは創造主だ。神ではない。

ウェセルマン:
ではわれわれ人間の祈りの声を聞き届け、それを実現してくれる神はいるのだろうか?

ジン:
もちろんいる。そのような神こそ人間自身の魂だ。人間の中で死なない部分こそが魂だ。人間の魂は本物の霊で、霊の世界に住んでいる。それはいつもまどろんでおり、夢を見ている。

ウェセルマン:
何の夢を見ているのか?

ジン:
自分自身の夢だ。

ウェセルマン:
ということは、われわれが大いなる神に祈っているときは自分自身に祈っているということなのか?

ジン:
その通りだ。人間は自分自身の魂、つまりハイアーセルフといわれる神としての自己自身に祈っているのだ。魂をもつ霊的な存在である人間は、神的な存在になる過程にいるのだ。そして君達が夢をみるとき、その夢はハイアーセルフの夢なのだ。

ウェセルマン:
ジンは人間のような神的な存在なのか?

ジン:
われわれも神的な存在であり、霊である。そして自由意思をもっている。

ここでこのユニークな会話は終わった。

以上である。一神教の神が人間の創造物であり、一度創造されると逆に人間の思考や感情に悪影響を及ぼすというのは、実に面白い描写である。

ただ、ウェセルマンのこうした体験がどこまで現実のものでどこまでがウェセルマン自身が想像したものなのかははっきりとは確定できない。

しかしウェセルマンがいうには、われわれが普通に日常の世界を体験するように、あまりにリアルな体験として経験されるのだそうだ。そしてそうした体験の引き金になるのは、ドラムによる特定のリズムで脳に与える振動なのだという。

スピリットワールドに覚醒して

この3月に入ってから、ウェセルマンは新著「スピリットワールドに覚醒して」を出した。ウェセルマンが経験したシャーマニスティックな世界の集大成であるという。

そしてこの本にはCDがついてくる。それは、脳を刺激しシータ波の発生を促進させるドラムの音だという。ウェセルマンがいうには、横たわってリラックスして、ヘッドフォンで10分も聞くとたいていは誰でも何か大きな変化が感じるそうである。

本はいまアマゾンでめちゃくちゃ売れている。ベストセラーになること間違いないようだ。

筆者もさっそく注文した。体験はブログで報告する。

引用以上。
ウェセルマンとジンの会話は非常に含蓄が深いです。
なんかいろいろスピリチュアルの世界を覗き見てきて、これが最終章のような気がします。
「この世」を創造しているのは、「人間」だと。

このブログを読んで、「スピリチュアル・ウォーカー」を買って読みました。
「スピリットワールドに覚醒して」もアマゾンで注文しました。
人の精神の覚醒の先にはとんでもない広がりと深さを持った世界が待ち受けているようです。

 

 


ワイン

2011年04月16日 | 雑感

今日、お客さんに誘われて店を30分ほど抜け出して、ワインの試飲会に行ってきました。
ある酒屋さんが企画して、10社ほど集まって試飲させてくれます。
本来は業者さん向けの試飲会ですが、潜入しました。
さすがに、そこそこの値段のものはうまいです。
主催者の酒屋さんからこっそりお値打ち品の情報を貰ったこともあり、結局7本買いました。

卸価格で一本2万円超のワインもちょこっと飲みましたが、まぁ、流石でした。
ワインに嵌るとこだわってしまうのは、こういうワインを飲んでしまうからでしょう。
上品で、芳醇で、奥が深くて、さらりとしている。
おそらく西洋人はワインに人格に対するのと同じものを追求しているのだろうと思いました。

ものすごく有名なワインでも、何十年も経ったものは、香りも味も枯れます。
安物と違って酸っぱくなったりはしません。
かつてのふくよかさや奥深さの余韻を感じさせながらも、さらさらとした淡水のようなワインになります。
まるで、人の上質な一生と同じような過程を辿ります。

通になりますと、どこの畑のどの作り手のものしか買わないというようなことになります。
なかなかエライ世界です。
ただ、本物になりますと、その期待を裏切らないどころか、さらに上を行ったワインの世界を醸成するから、流石なのですね。

前にも言ったかもしれませんが、元妻がソムリエでした。
つきあい始めた頃、彼女がコレクションしていたワインの中で気に入ったものがありまして、会う度に一本空けさせて貰いました。
あとで知ったのですが、スフインクスの絵の描いてあるラベルで、有名なシャトーなんとかというワインだったそうです。
カルベネ・ソービニヨンという名前はそのときに覚えました。
これまたあとで知ったのですが、レストランで飲めば一本数万円はするワインだったそうです。
まぁ、色々あります。

明朝は畑に行きます。
苗というのは土に移植したあとしばらくぐったりするものです。
植物もいろいろショックを感じるのでしょう。
キュウリとナスとトマトがちょっとぐったりしてました。
植えるのが少々早すぎたようです。
様子を見てきます。

 


2011年04月15日 | 雑感

水曜日に最後になるであろう花見をしました。
当日になって連絡をした性もあるでしょうが、集まった人員は3名でした(笑)。
広い城内の桜は葉が出始めではありましたが、花吹雪の風情は格別でした。
それにしても、自粛とやらで城内は閑散としていました。

いろいろ意見はあるのでしょう。
日本人には被災者に対する「悼む」という心があります。
それはそれで尊いことです。
でも、東北人のぼくとしては、ぼくが風邪を引いたら即座に家族全員実家に帰ってもらいます。
風邪を引いたら、ゴホゴホいって、布団の中で熱を出し、ふらつく頭で自分でおかゆを作るだけです。
同情されても困りますし、風邪を家族にうつすのが何よりも避けたいところです。
そういう状態になったことを申し訳ないと思いこそすれ、一方で家族が楽しく団らんすることを邪魔したいとは一切思いません。
自分が被ったものは、自分が受けるだけです。

九州は幸いなことに無事でした。
九州の人々が桜を愛でたからといって、酒を飲んだからといって、羽目を外したからといって、怒る人はいないようにぼくは思います。

さて、さすがに3カ所に畑が分散するといろいろな意味で無理が来ます。
でも、一旦耕し始めた畑というのは愛着が湧きますから、放置する気にもなれません。
3カ所目は広いです。
500坪、あるいは1000坪以上あるのかも知れません。
畑をやりたいという人が一気に増えたので、どうその土地を割り振るのか、管理していくのかという問題も発生します。
タダでいいと言われてはいますが、何事もタダの方がトラブルになりやすいです。
少しの金額でも、最小限妥当な金額を払うのが筋でしょう。
屋敷周りの雑草を抜くのも、時々は広大な屋敷に風を通してやることも必要でしょう。
まぁ、色々あります。
それでも一歩ずつ前に進むだけです。


交流会

2011年04月11日 | 雑感

桜も盛りを過ぎようとしている感じです。
今週いっぱい持ちますでしょうか。
畑のシーズンも始まり、道場の行事も目白押しで、早朝の写経会もあります。
ヒマなのは店だけです(笑)
この時節、美術品や宝石に興味を持つ人はとても少ないです。
しかも、この状態が長期化しそうです。

先週、ある交流会を立ち上げました。
今回の大災害をきっかけに大きく人々の意識が変わりました。
生活スタイルも社会の構造も否応なしに変化していくでしょう。
既存の組織に頼ることはできなくなるでしょうから、有意の人々のネットワークを活かすことが大事になっていくと思われます。
そこで急遽立ち上げのパーティーをしたのですが、数人集まればいいかなと思っていたところ、20名くらいの人が集まりました。
一声かけると、あっという間に集まります。
FMのゲストに来る人たちを見て前々から思っていたのですが、女性はフットワークが軽いです。
楽しそうなこと、おもしろそうなことには躊躇なく参加します。
まだまだネットワークは広がりそうです。

その交流会を通じて何をしようのかというと、数年前に農漁村再生プロジェクトというのを冗談半分に考えていましたが、
それを自ら産地に乗り込んで実行していこうと思っているわけです。
産地をただ産地として閉じられたものにするのではなく、産地でもあり諸費地でもあり文化交流の場所にもする。
畑で仕事をしていると分かりますが、終日辺りはしーんと静まりかえっています。
子供の笑い声も、井戸端会議の声も聞こえてきません。
自然はありますが、人々の営みが限りなく非文化的になっているのです。
非文化的といってしまうのは大変語弊はあるのですが、国土の根っこである第一次産業の地場の農漁村はどこもかしこもひっそりしています。
都市部と農漁村部が乖離してしまっています。
これでは都市部を中心に金融資本がいくら肥大しようと、多くの人々の生活実感はますます惨めなものになっていきます。

どうして農漁村にはおしゃれなカフェやレストランが一件もないのか。
簡単なことです。
彼らのほとんどが食べるのが精一杯だからです。
心を込めて生産したものを農漁協なり、市場に納めて、ぎりぎりの収入を得て生活しています。
そんな生活ですから、自分たちの子息に後を継がせようとも思わず、子息も後を継ぎたいとも思わなくなったのが、今の現状です。

なんとかならないのか。
行政や誰かや何かを待っていたのでは、このまま衰退していく可能性が大きいです。
ならば自分たちで何かをしてみよう。
幸いなことに、先週たまたまそういう試みをしてみるのにすばらしい候補地を見つけました。
都市部からそれほど離れていないのに、ひっそりと山に囲まれた豊かな耕地です。
とんでもない規模の大地主の旧宅が付帯していますが、いずれそれも使わせてもらえるかもしれません。
何はともあれ、一歩を進めてみることです。
一歩を進めるごとに、新しい次へのステップが見えてくるかも知れません。

マルセイユやオンフルールなど、フランスには漁村でありながら有名な観光地になっているところがあります。
農村に行っても、おしゃれなレストランやリゾートがたくさんあります。
日本でもそういう村作りができないわけがありません。
ただ、そういう村作りをしようという発想がないだけなんだと思います。

 

 

 


これからです

2011年04月04日 | 雑感

ちょうどこの頃は朝晩に冷え込み、日中は強い太陽光で地表の温度が上がります。
そんなこんなを植物たちは、地面の下でじぃーっと察知しています。

本気を出さないと行けません。
あらゆる方面で部品の調達が難しくなっているようです。
漁業や農業の一大食料生産地であった東北が被災したのですから、その影響はこらからが本番です。

慌てることはありません。
一人一人が何ができるのかを考えれば、答えはそう難しいものだとも思いません。
人は一汁一菜でも十分に生きていけます。
あらゆるシステムの変更が求められます。
古人の知恵と、洗練された科学技術の融合が計られるべきでしょう。

今回のことでも分かるのですが、行政というのは肥大化すればするほど機能不全に陥ります。
行政に限らず、組織というのは必要最小限の規模で動く方が効率的で目的に素早く到達しやすいです。
意志を決定するということは、その決定に責任を負うということです。
肥大化した組織では責任を負うものが曖昧になります。

なんにせよ、これからです。
なにひとつ片はつきません。
一つ一つ片をつけていく強い意志と胆力と勇気が必要です。
目の前のやれることに取り組みましょう。

 


どうれ

2011年04月02日 | 

耳を澄ませば 古の音が聞こえ
目をこらせば 古の草花が咲く

時が騒がしいのではない
人の心が騒がしいのだ

畑に放っておかれたキャベツが鮮やかな黄色の花を咲かせる
冬のくびきを脱した黄緑色の風が揺れる

どこへでも行けるし どこへも行けはしない
なにがどうあれ 決めるのは人の心

心に弄ばれて 心に途を失う
ため息をついて 見上げれば青い空

いっそ青い空に途を通してしまえばいいだろう
感電しないように気をつけて

そうとも言いながら、感電こそは命のスパーク
死ぬも生きるも スパークの過不足だったりする

開き直るも途ならば
考え込むのも途なんよ

開き直るも 考え込むも 夢の途
どうせ歩くは 夢の途

せめて見上げよ 空の青
せめて味わえ 風の匂い

今日もどこかで 誰かが囁く
クスクス笑いで 誰かが囁く

腹を立てるのは 筋違い
我慢するのも 筋違い

轟く声で 「どうれ!」と叫べ
誰かの耳に 「どうれ!」と叫べ
  


桜が咲き始めました

2011年04月01日 | 雑感

すっかり日差しが強くなり、そんな中昨日は畑に行きました。
古い畑には、ちょっと早いかなとは思いましたが、ナスやトマトやトウガラシの苗を植えました。
先日耕したばかりの新しい畑では畝立てをしてきました。
5メートルほどの畝が7本できました。
この季節ですから手作業で7本も畝立てができましたが、夏場には絶対無理です。
次回には堆肥を撒いて、いよいよ植え付けです。
何を植えようか思案中ですが、イモ類をあれこれ植えてみようと思っています。
まだまだ土地はありますから、順次耕す範囲を拡げていこうかと思っています。

先日FMのゲストに来た方が農作業に非常に興味があるようで、今度一緒に畑ツアーです。
被災者に限らず、経済的な被害もこれからじわじわと拡大していくでしょうから、失業者も増えるでしょう。
そんな人たちの中でも働く意欲のある方々を受け入れることのできる農場的なものを作り上げられればいいなと思っています。
金銭は与えられませんが、住むところと食べるものは提供できる感じの、未来への橋渡し的な機能を果たせればいいなと思っています。
何度も言いますように、農業はお金にはなりませんが、なんとか食べていくことはできます。
食べられることが一番重要なことになっていきそうな予感がします。

この大震災をきっかけに日本は大胆に構造を変える必要に迫られるでしょう。
エネルギーの使い方、食生活のあり方、首都機能のあり方、水資源のありがたさの再認識、都市と周辺部の関係のあり方、
たくさんの問題を思い切って考え直さなければいけません。
もちろん農村の構造の自己改革も必要だと思います。
そこに住む老人が亡くなれば、後を継ぐものもなく放置される空き家が今でも増えています。
今の農村部では子供の歓声を聞くことなど滅多にありません。
シ~ンと不自然に静まりかえっています。
その一方で、滅多に車の通らない立派な農道ができていたり、川の土手が削り取られ大袈裟なコンクリートで覆われていたりします。

もうそろそろ健全な暮らしの流れに取り戻さなければなりません。
きちんと働けば親子が一つ屋根の下に住んで、食べて、談笑できる暮らしを持続することがそんなに難しいもであるはずがありません。
普通に暮らそうと思っても、先行きの不安やストレスで身も心も苛む現代の社会あり方が異常なだけです。

桜もちらほらとほころび始めました。
被災地でも急ピッチに復旧が始まるのでしょうが、誰か新しい町作りのグランドデザインを描いているのでしょうか。
今までのように、なし崩しに旧来型の町作りが行われるのでしょうか。
今の政府がそのようなソフト面にまで目を配っているとはとうてい思えません。
政府に頼ることなく、気持ちのある方々が立ち上がり、連動して、チームワークよく、素敵な町作りをしてほしいものです。