風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

青い鳥

2017年12月02日 | 雑感

メーテルリンクの有名な童話「幸せの青い鳥」は、ぼくも読んだことがあります。
おそらく小学校低学年のころだったと思います。
今考えると、すごい話です。
それにすべてが尽きているというような話です。

「いま、ここ」の外に幸せの答えを探しても、決して見つからない。
外の世界は常になにかありそうなそぶりを見せ続けるけれども、夢の如くこの手に掴めるものは何もない。
「いま、ここ」から逸脱すれば、過去・未来に、あるいはここではない架空の場所に答えを捜し求めることになる。
まさに禅が厳しく戒める逸脱です。
そして、今でも多くの人が逸脱し続けているありようでもあります。

「いま、ここ」が掴めれば、人は安心します。
逆に言えば、それが掴めなければ、どんな境遇にいようとも、人の心は安んじることができません。
「いま、ここ」を掴むためにはどうしたらいいのか。
その、どうしたらいいのかという「計らい」を捨てきることなんだと思います。

「計らい」は自らの計らい通りになるように、自分と周囲の行動を自らの想定通りに流動することを「期待」します。
誰が期待するのかといえば、期待するすなわち計らう当人「だけ」です。
周囲の人や環境が、一個人のきわめて恣意的な計らいに一々考慮しながら流動するはずもないのです。
ところが、「計らう」人は、自分の計らい通りになった、ならないと一喜一憂して日々を過ごします。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」
これまた有名な良寛さんの残した一切の「計らい」を捨てきった尊い言葉です。
一見、常識的な見方からすれば、この言葉は非情で無責任な言葉に思えるのかもしれません。
昨今の震災で亡くなった人たちに、この言葉を誰かが紹介したらその誰かは間違いなく袋叩きに遭います。

「妙法」という言葉の重厚さを分かれというほうが無理があるのかもしれません。
「計らい」を捨てるという意味も、おそらくすこぶる分かりづらいです。
「計らい」ばかりで現実の経済活動も、婚姻生活も、教育システムも、なにもかもが成り立っているわけですから。

「計らう」前から、幸福はそこにあった。
それに気がつくというのがメーテルリンクのお話でした。
お話としては誰もが分かります。
でも、自分自身のリアリティとして、この世の幾人かがそれを実感して生きているでしょうか?
それは自分自身が生きるという唯一無二の物語の中で、各々が感得していくしかないでしょう。

こうなればいいなぁ、ああなれたらいいなぁという夢想に「いま、ここ」はありません。
ああすればよかった、こうすればよかったという後悔にも「いま、ここ」はありません。

「いま、ここ」はどこにあるのか?
その質問自体が砕け散る必要があるのでしょう。

 


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