風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ドイツ

2016年06月16日 | 旅行

アメリカも好きですが、ヨーロッパも好きです。
アジアも好きですが、インドはちょっと・・・でした(笑)。

で、ドイツです。
このブログを書こうとドイツの写真をネット上で探してみたら、もう堪りません、胸が詰まります。
ドイツは、元の奥さんがとてもとても縁が深く、留学もし、ドイツとの仕事をしていた人でした。
そのご縁で、ドイツの素敵な田舎町の教会で結婚式も上げ、そこに数週間習週間滞在もしました。

新婚旅行は、北のハンブルグから南のロマンティック街道まで、彼女の両親と共に車で移動しました。
運転はぼくです。
ドイツ国内を網羅する高速道路、アウトバーンは速度規制がありません。
行く先々でワインやらビールやらをしこたま飲みながら、町から町へと移動です。

ドイツは一つ一つの街がとても個性的です。
おそらく条例かなんかで厳しく統制をかけているのだと思います。
ケルンはケルンです。
ニュルンベルグはニュルンベルグです。
ハイデルブルグはハイデルブルグです。
同じ壁の色、同じ屋根の色、窓には同じ種類の花がずらりと吊り下げられています。
それで、一つ一つの街に、それぞれの自慢のビールとワインがあります。
旅行者には堪りません。

ドイツから帰ってくると、日本の街づくりは絶望的になります。
北海道から九州まで、どこへ行っても同じスーパーマーケット、同じつくりの家、同じ外食チェーン店、・・・。
昔の日本は藩ごとにとても個性のある国づくりをしていたと思うのですが、すっかり均質化してしまいました。

まぁ、そんなこんなでドイツには何度か長めの滞在をしました。
さすがにヨーロッパ一の経済優等生だけはあります。
地域文化と伝統がとても強く根付いています。
農村地帯がフランスと同様に豊かです。

そのほかに、ドイツに関してはいろいろ思い出があります。
ありすぎます。
そのどれもこれもが元の奥さんに関わりますから、切ないです。

ドイツからアルプスを越えるとイタリアです。

なんか、遠い遠い昔の思い出です。

 

 

 


サンタ・フェ(初めてのアメリカ5)

2016年06月09日 | 旅行
「初めてのアメリカ」シリーズは書いていても面白いのですが、行った町順に書いていくというのは面白くないので、
アトランダムに思いついたまま、思いついたときに今後は書いていきたいと思います。

今日はサンタ・フェです。
まだ宮沢りえの写真集で有名になった「サンタフェ」は発売されていませんでしたので、何の予備知識もなく行きました。

バスディーポからその夜の宿のユースホステルまでは地図で見てもかなりの距離がありました。
そこはどういうわけか予約なしでも泊まれるユースホステルでした。
重い荷物を持ってそこまでテクテク歩いたわけですが、期待に膨れ上がっていて苦痛でも何でもありません(笑)。

ようやくそこに着き、チェックインをしました。
詳細は覚えていませんが、何かフレンドリーな雰囲気が溢れかえっているようなところでした。
荷物を置いて、ラウンジに出ていろいろ見てみると、毎日毎日いろいろなイベントを活発に催しているユースでした。
たまたま次の日はプエブロ・インディアンの遺跡を巡るツアーというのがありましたので、迷わず申し込みました。
プエブロ・インディアンという名称は聞いたこともありませんが、値段も安く、参加しました。

で、次の日、世界各国からの旅行者と共に、遺跡巡りのツアーに出ました。
15-6名の人数で2-3台の車に分乗したような記憶があります。

赤茶けた広大な大地に、しっかりと遺跡の痕跡がありました。
巨大な洞窟を利用した小さな都市です。
英語がよく理解できなかったため、詳細はよく分かりませんでした。
砂漠を車で移動しているわけですが、当然喉が渇きます。
何も用意していなかったぼくは困ったなーと思っていました。
すると前の席にいたイギリス人の若者が飲むかと言って、水のペットボトルを差し出してくれました。
この人は人の心を読むことのできる超能力者かと思いました。
サンキュー、サンキューとへいこらしながら、ぐびぐびと飲ませてもらいました。

何か所か遺跡を巡りました。
それはそれ自体でとても興味深かったです。

で、最後にホットスプリング、温泉に行くということでした。
砂漠に温泉、全く想像が付きません。
車はどんどん砂漠の奥へ奥へと行きます。
温泉というのは、なんの施設もなく、池みたいなところに湯が沸いていました。
日も暮れて、月も出ていました。
なんというシブいシチュエーションなんだろうかと思いました。

で、みんな何の躊躇もなく素っ裸になってその温泉に入り始めるわけです。
世界各国の男女の若者が主体です。
ぼくは仮にも日本男児です。
眼鏡をかけたまま入りたかったのですが、動機が見え見えなので、潔く外しました。
何も見えません。
インドから来た信じられないようなグラマラスな身体をした女性が月明かりの下で、ぼくのすぐ横の今に腰かけています。
何も見えません。
あーあと思いながら、どうせ見えないのならと後方にじりじりとにじり寄って行ったら、白人男性の身体に身を寄せていました。
ぼくもびっくりしましたが、彼もその上をいってビックリしていました。
ソーリーソーリー、とヘコヘコ謝りながら平常心を取り戻そうとしました。
赤茶けた大地を照らすサンタフェの月です。

ちなみに、先導役のユースの主人はいつの間にか消えていました。
フランスから来た若い女性も消えていました。
数十分後に何事もないように、全員で帰路につきました(笑)。

そこのユースはほぼ毎日いろいろなイベントを企画実行しているようでした。
次の日、少し遅く起きたらだれもいませんでした。
どこかにみんなで出かけたのでしょう。
ロービーには飲み放題のコーヒーがありました。
コーヒーを飲んでいると、そこにしばらく住んでいるという若い白人女性が大きなテーブルに同席しました。
なんかいろいろおしゃべりしました。
「大草原の小さな家」というテレビドラマが好きだといったら、とても喜んで「私もだ」と答えました。

その他、つたない英語で
もう行かなくちゃと言うと、バスディーポまで送ってくれるといいます。
支度をして、彼女の車に乗り込みました。
後部座席にはごみ溜めの様に一切合切が積み込まれています。
おそらくこの車が彼女の家なのでしょう。
言葉を失いながらも、彼女にバスディーポまで送ってもらいます。
バスディーポに着いて、荷物を背負い、さようならというと彼女は両手を広げて、「ハグ!」と言います。
ぼくは当時ハグという言葉の意味を知りませんでした。
彼女はさらに腕を広げて「ハグ、ミー!」と言いました。
さすがにぼくも察しました。
手を回すと彼女の身体は意外にも細く、もろそうでした。
何か言葉をかけたかったのですが、英語ですからどうしようもありません。

そのまま彼女と分かれました。

バスに乗ってから、彼女のやせ細った身体を思い、ごみ溜めの様なボロ車を思い、彼女の表情を思いました。
出発前のユースのロビーで、神とは何かという話になりました。
ぼくは知りもしないくせに「宇宙の意思だ」と答えました。
彼女はふふっと笑いました。
何かとても切ない思いになり、しばらくその切なさは消えませんでした。



初めてのアメリカ4

2016年06月08日 | 旅行
ちなみにぼくが辿った大まかなルートを紹介しておきます。
LA、サンフランシスコ、ポートランド、シアトル、バンクーバーと西海岸を北上し、
ソルトレイクシティ、デンバー、サンタフェ、エル・パソ、サンアントニオ、ニューオリンズと中西部を南下し、
フロリダ・キー・ウエストから、サバンナ、ワシントンDC、ニューヨーク、ボストンと東海岸を北上し、
最後はシカゴからラスベガス、グランドキャニオンと大陸を横断し、LAに帰着するというものでした。
ルートはすっかり忘れていましたが、今地図を見て思い出しました。
当時は毎日が楽しくてたまりませんでしたが、今同じルートを辿れと言われましても、絶対に無理です。
3日で音を上げる自信があります。

長く連泊したのは、知人のいたワシントンDCと、当時どこよりも行きたかった憧れのニューヨークです。
ニューヨークには10日ほどいたような気がします。
あとは、バスが町に着いたら、「地球の歩き方」に乗っていた安そうなホテルを探し出して、一、二泊だけ泊まります。
ホテルにチェックインしたら、荷物を部屋に置いて、とにかくひたすら町の中を歩き回ります。
歩き回ることで町の全体像と大体の雰囲気を掴みます。
日本ではあまり知られていないのですが、とても雰囲気のいい町というのがいくつか記憶に残っています。
クリーブランドとか、サバンナとか、決して大きくも、特別な何かがあるわけでもないのですが、良い思い出として残っています。
その反対に、ソルトレイクシティとかエル・パソとかセントルイスとかは大きな町でしたが、それほど印象に残っていません。
まぁ、いろいろなタイミングもありますし、相性というのもありますし、一概には言えないんですけどね。

カメラは持って行ってたのですが、途中でフィル物入ったバッグを紛失してしまい、すっかり写真を撮る意欲をなくしてしまい、
多分1枚も残っていません。
その他に、トラブルというよなことはなかったように思います。
というか、英語もまともに話せず、お金もなく、初めてのことばかりなのですから、毎日がひたすらチャレンジなわけです。
お金も一度だけ東京の姉にお送金してもらいました。
どういう方法で送金してもらったのか、全く覚えていません。
クレジットカード会社を使ったような気はするのですが、どういう方法だったのかは思い出せません。

食べ物はバスで移動中はハンバーガー、街にいればベーコンエッグとコーヒー、あとオレンジの生ジュースがあちこちで売ってます。
ニューヨークでは屋台のホットドック、ベーグル、ちょっと奮発してTボーンステーキ、これは安いけど見た目とは違い固くてまずいです。
ニューヨークの牛丼屋と思ってもらえばいいと思います。
和食の店にも何度か入りました。

確かポートランドだったと思います。
雨が降っており、暗く寂しい街並みに、日本語で書かれた赤い提灯がぽつんと雨に打たれていました。
店名やらなんやらは覚えていません。
入ってみると、ぼくの他に一組の日系のお客さんがテーブルに、大柄の白人男性がカウンタ‐に座っていました。
ぼくは何を頼んだのか覚えていませんが、多分天ぷら定食か何かを頼んだのでしょう。
ご主人は日本語が上手ではなく、おそらく日系の方なのでしょう。
壁に貼ってあるメニューも統一感がなく、たどたどしい感じで、何か間に合わせで店を開いてみましたという感じでした。

日系のお客さんは何かを食べていましたが、カウンターの白人男性はカウンターに肘をついてじっとしています。
ぼくは内心どうしたんだろうと思っていましたが、もちろんそんなそぶりを見せずビールかなんかを飲んでいたんだと思います。
だいぶたってから(10分以上?)カレーライスがそのお客さんの前に持ってこられました。
サンキューといってその白人男性は食べ始めました。

カレーライスで何分待たされたのだろうとすこしその白人男性に同情しました。
日系のご主人にはまったく悪びれた様子がありませんでした。
人のよさそうな上品なご主人でした。
ぼくも何かを食べたのでしょうが、全く記憶にないということは、まぁそういうことなのでしょう。

まぁ、今はどうか知れませんが、海外で過剰に期待して日本料理店に入ると決まって痛い思いをしたものです。
それでも、そんな店でも結構人でにぎわっています。
それ以来、美味しい日本定食屋を海外で展開すれば、間違いなく流行ると確信していましたが、とうとう今に至っています(笑)。



初めてのアメリカ3

2016年06月07日 | 旅行
もとより貧乏旅行ですから、移動手段は乗り放題のバスです。
確か30日間乗り放題のパスというのが海外からの旅行者用に売っていました。
期間内なら。どこからどこまで行こうが完全にフリーパスです。
グレイハウンド・バスです。
いくらかは忘れましたが、貧乏なぼくでさえ安いなと思ったくらいの値段でした。

とてつもなく広大なアメリカ大陸をバスで移動するというのは、なんと言いますか、低所得者層の手段ではあります。
言わずと知れた車社会のアメリカですから、ほとんどの人は車を持っているわけですし、
急ぐ人用には飛行機なり鉄道なりも国土を網羅しています。
というか、アメリカの広大さというのはちょっと体験した人でないとなかなか感覚的に理解が難しいかもしれません。
町から町に移動するのに平気で数時間を要します。
強いてバスを利用するという人は、まぁだから、そういう人たちなわけです。

都市から都市へ移動するのには夜行便を利用して、宿代を浮かすというのがぼくの基本戦略でした。
ぼくは当然のごとく貧乏小僧でしたから、おそらく貧乏であろう人たちと同じバス内で数時間か数十時間かを
過ごすのは少しも不快なことはありませんでした。
それよりも、パック旅行では得ることのできない素のアメリカというものを感じられたような気はしています。

バスは町ごとにバスディーポと呼ばれる停留所に止まって行きます。
たいてい、そこにはファストフードの店が24時間体制でオープンしています。
マクドナルドもありましたが、大方バーガーキングでした。
よって、バスの移動中はバーガーキングのハンバーガーとポテトばかりを食う羽目になります。
若かったので、ハンバーガーを食べることに別段抵抗はなかったので、まぁ、どうってことはなかったです。
ただ、気が付いたのですが、ハンバーガーばかり食べてると腋臭がし始めます。
自分でわかります。
なるほどなぁ、と思いました。

どこからどこへ移動中かはすっかり忘れてしまいましたが、深夜にどこかのバスディーポに停車しました。
例のごとく、みんな降車してトイレに行ったりタバコを吸ったりバーガーキングに行ったりします。
ぼくもタバコをたらふく吸って、バーガーキングでポテトのチーズがけだか何だかを買って、車に乗り込みました。
隣の席には中年の黒人男性が座っていました。
それより数時間前にどこかの停留所から乗り込んできていました。
挨拶もするわけでもなく、不機嫌そうにぼくのとなりにどさりと座りました。
ぼくも余計なことは言わず、何時間か隣同士でバスに揺られていたわけです。

その彼が、休憩を終え、バスに乗り込んだぼくが手にしていたポテトをちらっと見ました。
そして憮然とした顔をして前を見据えています。
なるほどなぁ、と思いました。

意を決して、食べるか、と聞きました。
黙って頷いたので、そのまま手渡しました。
その食べ方が、いかにも何時間も食べてなさそうな食べ方でした。
ああよかったなと思い、またこれはすぐ寝たふりをしなければいけないと思って、目をつむりました。

そうしたら、しばらくバスに乗りっぱなしで疲れていたのか本当に眠っていました。
気が付いて目覚めた時には、隣の席に黒人男性の姿はありませんでした。


初めてのアメリカ2

2016年06月06日 | 旅行
次へ目的地はサンフランシスコだったと思います。
幼い子供の頃なぜか耳にしていた「思い出のサンフランシスコ」という歌が耳にこびりついてまして、
ものすごく大きなロマンティックな期待を抱いて、その地に向かいました。
思った以上に素敵な町でした。
とにかく、いろどりがきれいな街並みが続きます。
日本では見れないパステルカラーの競演です。

サンフランシスコは坂道の街です。
その坂道をケーブルカーが走っています。
急斜面を走る路面電車といった感じです。
大きなリュックを背負いながらそれに乗ってみました。
どうやって乗るのか、どうやって降りるのか、どこで降りたらいいのか、緊張の連続です。
そんなことよりも、今こうやってこの俺がサンフランシスコにいるという至福感で一杯です。
なんたって、ダーティハリーが暴れていた町にぼくがいます。

たしかフィッシャーマンズ・ワーフという港のエリアに行って、シーフードを食べたような記憶があります。
奮発しました。
そのあと山の手にあるユースホステルにてくてく歩いたんだと思います。
ガイドブックは「地球の歩き方」一冊です。
安く泊まれる宿として、ユースホステルが紹介されていたんだと思います。
今ならとても無理な距離を歩いたような気がします。
ところがそこいざ着いてみると、前もって予約しなければ泊まれないシステムでした。
今ならユースホステルというのはそういうものだと知っていますが、その時はショックでした。
炎天下の中、必要以上に重くて大きいリュックを背負って数時間上り坂を登ってきての、その結果でした。
でも、グズグズ言わないのが日本男児だとは心得ていました。
踵を返して、ダウンタウン目指して坂道を下り始めました。

「地球の歩き方」に乗っている一番安いクラスの宿を訪ねて、どうやら泊まるところを確保しました。
そのあたりの細かいやり取りは全く記憶にありません。

でも、サンフランシスコという町はとても気に入りました。
何か懐かしいような、不思議な感覚を覚えました。
その当時はまだヒッピー崩れみたいな人も街中をウロウロしていました。

10数年後、再びかの地を訪れましたが、初めて訪れた時に感じた懐かしさみたいのものは失われていませんでした。
中華街の中華料理が絶品です。
いつかまた行ってみたいです。
その時も懐かしい感じがするのでしょうか。
わかりません。

若干1名(しかも身内w)から続きを読みたいという希望がありましたので、アメリカシリーズ書きます。
自分で書いていてもなんだか新鮮で面白いです(笑)。
遠い昔の誰か他の人の話のような気がします。


雨の高千穂

2007年07月09日 | 旅行
雨が降り続いています。
梅雨というよりも「雨期」って感じですね。

そんな中、週末はネネさんのグループと高千穂に行ってきました。
雨雲は終始低く垂れ込めていましたが、神社参拝の段になると降り止み、傘もいらずに参拝が出来ました。
初日は高千穂神社に行って、恒例のネネさんの舞(「君が代})の奉納です。
君が代を全員で合唱しましたが、なぜか涙が出ます。
今の世が荒れ放題だから、なおさら尊く思えたのかもしれません。
後藤宮司さんのお話も相変わらず淡々としながら情熱的でした。

その後は荒立神社です。
宮司さんは席を外していましたが、ちょうど茅の輪が正面に飾られていたので、皆でわいわいいいながら潜り抜けました。
茅の輪をくぐって心身の穢れを祓い清めるのです。
神社の裏手の山を見ましたが、霧雨にけぶってしんとしており、いつもの凄い神気が感じられませんでした。
木漏れ日や、木々が風に揺れる様から、神気というのは感じやすいようですが、霧雨にぐっしょり森全体が濡れていますと、
なかなか感じるのは難しいのかもしれません。

その後は宿へ。
国民宿舎ですが、広大な敷地の上にキャンプ場やらテニスコートやらプールやらなんやらが贅沢に散在しています。
晴れていれば、目の前に阿蘇の山並みが見えるはずです。
夕食後、宿舎から徒歩で数分のところにある体育館で、アイカさんのコンサートです。
前半はギターとドラムのセッションです。
ギターの音というのは生で聴くのが一番ですね。
ところで、滅多に使用していないからだと思うのですが、演奏中何度もマイクの音が途切れ、
ついには、ステージ全体の電源もヒューズが切れたとかで落ちました。
誰も怒る人もなく、電源が復旧する間人々は野外に儲けられた振舞い酒や地元の人々の手作りの料理で楽しみます。
振舞い酒はカッポ酒です。
カッポ酒というのは、竹にお酒を入れて直に火であぶり、竹の香りとエキスの染み込んだお酒を竹の割ったコップで飲みます。
ぼくは調子に乗って5~6パイ飲みました。

そして、電源も復旧し、アイカさんのコンサートです。
以前よりも、声に豊かさと深みと力が加わったように思います。
いつものことですが、みなシーンとして聴き惚れていました。

帰り道は、竹をスパリと斜めに切った中にロウソクの炎が入れられた灯りが、宿舎まで延々と続いていました。
その幻想的な美しさもさることながら、その作業と手間を考えると、頭が下がります。
実は、ステージの装飾も竹を使ったライティングで飾ったのも、カッポ酒の竹を用意してくれたのも、
竹の照明器具を作っている作家の七谷さんでした。
ネネさんとアイカさんたちの思いつきのような話を、町全体を巻き込み、ここまでハートフルなイベントに仕上げたのは、
七谷さんでした。
実行力のある人というのは、物事を成し遂げるものですね。

その後、例によってグダグダ飲んでいたら、ステージを終えて帰ってきたアイカさんも合流し、その代は更けました。

次の日は幣立神社に行きます。
境内で気功をし、正式参拝をし、竜神様を拝み、森の気を一杯吸い込みました。
春木宮司さんのお話は、マスコミを鵜呑みにするな、でした。
常々ぼくも思っていたことなので、頷きながら聞きました。

最後に、ついでかどうかは知りませんが、サントリー熊本工場に行って、ビールの試飲です。
サントリーは金持ちです。
おいしい生ビールを若くてきれいな女性のお給仕つき、おつまみつきで3-4杯飲ませてくれました。

途中、がけが崩れて道路の半分を覆っているようなところもありましたが、全員無事に戻りました。
酒も飲まずに夜中の2時まで道路上情報を調べ、何から何まで手配してくれたN夫妻、ありがとうでした。
幣立神社では「素足の参殿禁ず」と書いてあり、素足のぼくは参殿を諦めていたところ、
バックから予備の靴下を取り出して、貸してくれたのには驚きました。
靴下(男物)の予備をバックに入れている女性を見たのは、生まれて初めてです。

山登り

2005年07月08日 | 旅行
若い時はしょっちゅう山登りに行っていました。
特にお気に入りは、八ヶ岳でした。
五月と11月の連休には必ず八ヶ岳に行っていました。
五月は残雪が豊かに残り、11月はそろそろ雪が舞うころだったからです。
なぜか雪がすきなのです。

八ヶ岳のお気に入りのルートに白樺尾根というのがありました。
文字通り、白樺並木の中を尾根がゆるゆると勾配を上げています。
秋には落ち葉の絨毯が敷き詰められ、こんな気持ちのいい登山道があるのかと感動しつつ登ったものです。
あるとき鉄網のフェンスが右手にあるのに気がつき、何事かと思ったらスキー場ができていました。
こんな山奥まで切り開かなくとも、周辺にいくらでもスキー場なんかあるのにと思いました。

それから、もうひとつお気に入りの山は剣岳です。
立山連峰を縦走し、槍ヶ岳を右手に見て、さらに進むと畏怖堂々たる山容が目に入ってきます。
厳しいルートですが、最初から最後まで何かわくわくする感じをしながら登れるルートでした。
立山と槍ヶ岳をつなぐ鞍部で、テントで宿営したことがあります。
その時の夜空のすごさはちょっと表現できません。
プラレタリウム的夜空というよりも、銀河がきらめく宇宙空間が手の届くところに迫っているといった感じでした。
このあたりではカモシカの姿や、雷鳥の姿もちょくちょく見ることができました。

山に登る時は、大抵は新宿発の夜行列車を利用していたように思います。
電車の床に新聞紙を敷いて、リックを枕に寝たものです。
信州に入ると空気の匂いが一変します。
森と水の匂いがします。
信州そばも大好きになりましたし、雪をいただいた北アルプスを背後にした松本城や、長野の善光寺あたりも好きでした。
小諸に行くことがあれば、島崎藤村を真似て、必ず濁り酒を飲みました。
電車を降りてから、どの山に登るにしても、山裾の集落までバスを利用することになります。
地元の幼稚園児やら老人たちに混じってキャベツ畑の横だの、渓流沿いだのを走るのは楽しい思い出です。

九州に来てからは山に登りたいという気が全くしなくなりました。
一度、正月に由布岳に登ってやろうと、由布院の知人の別荘に泊りがけで行ったのですが、
正月の3日間、どうもその気になれず、酒を飲み続けていただけで終わりました。
九重の山も登ったらいいのかもしれませんが、まだその機会を見ずにいます。
本州の山に比べて、迫力に欠けるのは否めません。
分け入ればいるほどその景色を変えていくというような深度も足りないです。
まぁ、足腰も昔ほど強くはないので、そのうち九州の山こそ最高だと言うかもしれませんが。
ただ、どこもかしこも麓の山の手入れのされていない杉林で覆われているのは感興を削ぎます。

「自然がすき」とか「環境保護」とかいった手垢がついた言葉は使いたくありません。
自然丸ごとは好き嫌いの対象であるとか、保護すべき対象であることから超越しています。

深く湿った樹林帯を抜け、雪混じりの風が吹き付け、やっと今日目指すべき山頂がそのむき出しの姿を見せます。
枯れた木がぎしぎし風にあおられ、雲が恐ろしい速度で山頂をかすめ流れていきます。
地に伏すように葉を這わせるダケカンバの間を縫うようにして、山頂を目指します。
ダケカンバも途切れ、うっすらと雪が積もり始めた瓦礫の中をさらによじ登ります。
山頂に辿り着くと、横殴りの風が吹き付け、足元がぐらつきます。
眼下に雲が大河の流れのように波打ちながら押し寄せ、尾根を越え、瀑布のように流れ落ちています。
その流れに一瞬の雲の切れ間から陽射しが当たり、金色の大瀑布となります。
そんな一瞬を見るために、山に登るのでした。






東北巡礼

2005年05月31日 | 旅行
東北巡礼の旅は、天気にも恵まれ、申し分なしでした。
湯殿山で、雪解け水の滝行も出来ました。
滝の仲間のほとんどが九州人なのですが、なんというか、キャラが濃いです。
どこへ行っても、だれかれなしに、なれなれしく話しかけます。
それから、特に料理屋では、やたらと注文が多く、細かいことを言います。
九州人たちは、従業員とのコミュニケーションを楽しんでいるのだと、言い張ります。
東北人のぼくとしては、冷や冷やものなんですが、一顧だにしません。

まぁ、とにかく、無事に帰ってきました。
やる予定のことはすべてやれました。
めでたしです。

で、今日は月末です。
なかなか忙しく金策です。
今日の今日になって、銀行から融資が下りました。
綱渡りの毎日です。
綱渡りでも、落下しないで済んでいることを、おかげさまと思う気持ちが大切なんでしょう。

ちなみに、東北旅行の日程を書いておきます。

一日目
福岡→仙台空港→ぼくの父方の墓→達谷窟(毘沙門堂)→中尊寺

二日目
中尊寺→毛越寺→羽黒山

三日目
羽黒山→湯殿山→山寺(立石寺)→仙台・青葉城→ホテル

四日目
ホテル→ぼくの母方の墓→松島・瑞巌寺→仙台空港

四日目、みなに迷惑をかけてもいけないし、時間もないから父親に会うのは半ば諦めていたのですが、
みなの強い勧めがあって、父親に短い間ですが会いました。
半分ボケているのですが、ぼくの顔を見るなり今まで見たこともないような顔で、ニコニコ笑いました。
会ってよかったと、心のそこから思いました。
これも、九州人たちのお陰です。
個人的な墓参りも気持ちよく付き合ってくれましたし。
こういうところは、濃いキャラの九州人たちも侮れません(笑)

それから、早起きの訓練になりました。
同行者の皆様、ありがとうございました。



アメリカⅢ

2005年05月25日 | 旅行
2000年の大晦日はニューヨークにいました。
タイムズスクェア周辺は、カウントダウンを一緒にしようと溢れんばかりの人々が集まっていました。
人ごみで、タイムズスクェアの見えるところまではいけませんでしたが、カウントダウンの瞬間の
歓声やら花火やらはビルの谷間の向こう側から聞くことが出来ました。
その瞬間、みなが抱き合います。
その瞬間だけは、新しい年をいい年にしようと、みなが本気で思います。

アメリカ人というのは、大雑把で傲慢なところがあると同時に、
フェアプレーの精神と基本的に他者を受け入れるおおらかさを持ち合わせています。
日本人みたくおせっかいな親切心はないので、それに慣れた人には不親切と映るかもしれませんが、
各個人がしたいことをしたいようにすることには基本的に干渉しません。
干渉しませんが、自分の主義主張は明確に主張し、他者もそうすべきだと考えます。

いちいち言葉で自他との区別をつけることのない日本社会と、
自他との区別は当たり前だとの前提に立って、構成されるアメリカ社会。
コミュニケーションの形が違って当然ですね。
好みの問題もありますが、一長一短あるわけでして。

黙して語らぬ禅の世界に興味を持つアメリカ人がいることも分かるような気もしますが、
いざ実際の修行に入ったら、その苦痛度は、日本人の感じるそれの比ではないでしょう。
なにしろ、いちいちの行動について質問が許されませんから。
分からないことは、分からないとはっきりさせなければならない教育を受けてきた彼らにとっては、
問答無用の日本式修行のコミュニケーションの意図的な断絶は、なかなか厳しい関門であるはずです。

クリスマスから、大晦日にかけて、アメリカでも人々の心は浮き立ちます。
5番街のショウウィンドウは趣向を競い合い、老若男女、白人も黒人もヒスパニックも、
労働者も資本家も、同じ街を、同じ視線で、微笑を浮かべて歩きます。
過ぎし年を振り返り、来る年を熱い想いで待ち望みます。
どこの国でも、どこの人々も、形に違いはあれ、年の変わり目には同じような思いが交錯するのでしょう。

そんな風景の中で、東海の島国からやってきたぼくは、日本に所属する意味を考え、
日本で生まれ育った意味を考えます。
それぞれの土地の意味について、考えます。
出稼ぎで、今、この厳寒のニューヨークにいるプエルトリコ人には、カリブの島々が彼らの永久の心象風景です。
ぼくにとっての心象風景というものが、いつの間にか、とても影が薄く、存在感のないものになっていたのに
気がつきます。
どこかで、心が追うべきものを取り違えたままになっているのを感じます。
追わなくていいものを追い、追うべきものを見失ったような感覚。
そんな喪失感と浮遊感がありました。

ぼくのなかから「日本」というものを、失いつつあったのですね。

酒を飲んで、おおはしゃぎで歓声を上げる彼らの姿を見て、そんなことを考えました。

アメリカⅡ

2005年04月06日 | 旅行
それから、モンタナ州からニューヨーク州へと移りました。
3000キロの距離を、ポンコツフォードで大移動です。
一週間以上かかったように記憶しています。
途中、あちこちの国立公園に寄ったり、シカゴに寄ったり、いろいろ記憶は甦りますが、省略します。

今日の話は、IT の活用方法の日米の違いです。
5年前のアメリカでの話です。

ニューヨーク州立大学の図書館をよく利用したのですが、
読みたいトピックを検索し、出てきた関連書籍名をクリックすると、その本の全文、或いは要約を読めました。
わざわざ本を読まなくても、コンピュータ上で必要な情報は手軽に入手できました。
クリックすれば、全文を瞬時に、無制限にコピーできましたし。

日本の図書館でのコンピューターでは、関連する本の題名と著者の検索ができるくらいです。
内容本文はおろか、内容の概略も読めません。
わざわざコンピューターである必要は全くありません。
書棚に行ったほうが早いです。
コピーする場合も、1ページ、一ページめくって、労力とお金をかけてコピーするしかありません。

チケットやホテルの予約も便利で、簡単で、安かったです。
今でこそこの分野は日本でも大分便利になりましたが。。

アメリカでの便利な実態を体験すると、なるほどIT革命だなと思いましたが、
日本でのIT業界は、コンテンツがまだまだ不十分だと感じます。
情報の大部分が、エロと個人のホームページ主体です。
公的機関のホームページは面白みにかけ、無機質です。
学術的な情報検索はまだまだコンテンツが足りません。

技術的、ハード的には日米の差があるとは思えません。
どう使えば便利かという、柔軟な活用術に決定的な差があるように思います。

日本にも活字をスキャナで読み取って、電子情報化する技術はあるはずですが、
蔵書の電子情報化を、図書館や行政機関は進めているのでしょうか。
そうでないなら、ITは何も革命なんか起こしていませんよね。
本は相変わらず本として読む、いろいろな行政書類も手でめくって調べるしかないのなら、
何をコンピュータ化しているというのか、さっぱりわからなくなります。
エロ画像の取得や、こういうブログやホームページを作ることは確かに格段に便利になりましたが。

必要な情報を、必要なだけお客様に提供するという商売も成り立つのではないかと思ったこともあったのですが、
日本のIT産業界のコンテンツの遅れでは、自分で十分に調べられてしまうほどの情報量しかありませんから、
まだ無理そうです。

話は変わりますが、ポンコツフォード、やっとのことで目的地の駐車場に辿り着き、エンジンを止めようとした瞬間に
ボンネットから黒煙を吹き上げました。
嘘のような話ですが、本当です。
それでも何とか走ることはできたので、知り合った人に1100ドルで売りました(笑)


アメリカ

2005年04月05日 | 旅行
5年ほど前に、3ヶ月間ほどアメリカのモンタナ州の小さな町に滞在していました。
国立公園のイエローストーンやグレイシャーも近く、何よりモンタナ自体が大西部そのままで、
ハイキングやら、釣りやら、リフティングやら、アウトドアで遊び放題でした。

ホームステイした家族は、熱心なクリスチャンで、家の中では酒もタバコも禁止でした。
これはきつかった。
慣れるにしたがって、夜は外食を多くし、映画を見たり、バーに行ったり、本来のペースに戻ることができました。
最初のうちは、一緒に教会に行こうと誘われていましたが、そんな生活態度を見て、誘われなくなりました。

さすがにアメリカでは車がないと手も足も出ないので、ぼろぼろのフォードを買いました。
1200ドルでした。
ますます家にいる時間は短くなり、週末になるとあちこちに車で出かけました。
イエローストーンへは5回くらい行きました。
キャンプにも行きましたし、山登りもしました。
ちょうどその頃、獅子座流星群がやってきていた時期で、テントを抜け出て、
即席の彼女と、森の中から見上げた流星の群れは感動しました。

そんなふうな生活でしたが、心は今ひとつ没頭できず、波立っていました。
仕事を強引に辞め、妻を残して単身アメリカで一年ほど好き勝手にしようとやってきたのですが、
うしろめたさがどうしても心を離れません。
今後やりたいことも見つからないままです。
アメリカでやりたいことを見つけるつもりではあったのですが、遊んでばかりいて見つかるはずもありません。

一つだけ興味を引いたのは、アメリカ・インディアンです。
その風俗、宗教、神話、生き方はどこか気高いところがあり、学んでみたいと思いました。
西部には、アメリカ・インディアンの居留地が今でもたくさんあります。
体のいい隔離政策ですね。
アルコール中毒やら、失業やらたくさん問題を抱えています。
独自の文化がすごい勢いで消えていくのに焦った老人たちが、若い人たちにインディアンの言葉を教え始めていますが、
一度衰退した民族力というのは、復興するのは難しいようです。
文化は狩猟や宗教的儀式と密接に関わっているものですから、ライフスタイルが、車の中でハンバーガーを食べながら、
では、なかなか失われた文化のコアを取り戻すのは難しいでしょう。

インディアンの聖地は、何か神殿のようなものがあるわけではありません。
だだっ広い平原だったり、森だったりします。
自然のスピリットを感じ、敬っています。
日本の古来の神道に似ています。

インディアンの人口が激減したのは、白人との戦闘によったのではありません。
白人が持ち込んだ伝染病が、インディアンの総人口の80%もの人々をあっけなく殺しました。
戦いを恐れなかったインディアンの人たちも、なすすべもなくころりころりと死んでいきました。

今でもインディアンの人たちは、辺鄙な居留地で身を寄せ合うようにして、生きています。
彼らの目に、現代アメリカのブルドーザーのような姿が、どのように映っているのかは、知る由もありません。


放浪

2005年03月23日 | 旅行
最初に一人旅をしたのは、中学三年の夏休みでした。
三年生になり野球の部活も引退になり、思い切ってテントを担いで北海道一周の旅に出ました。
言いにくいところを頼んでみると、親父が一万円くれました。

国鉄の周遊券で回るわけですが、駅に着いたらまずテントを張れる場所を探します。
そんな場所が見つからないこともあります。
駅のベンチで寝たり、襟裳岬では屋根がついていると言うだけの理由で、岬の見晴台で寝ました。
夏とはいえ、寒さで一晩中寝れませんでした。
キャンプ場でお兄さんに食事を分けてもらったり、連絡船の中で、なけなしのお金で熱い石狩汁を
買って食べたりしました。
見るもの、感じるものすべてが楽しくてたまりません。

それからというもの、一人旅が癖になりました。
高校に入っても、夜行列車を乗り継いであちこち行きました。
入場券で駅の構内に入り、目当ての列車に乗り込みます。
何度か乗り換え、どこかの田舎の無人駅で降ります。
そうすると、改札もないので数十円(入場券分)で旅ができるわけです。
そういうのんびりとしたシステムがまだ残っていました。

何がそんなに楽しかったのか。
夜行列車の独特の匂い、未知の街の佇まい、車窓を流れる風景。
いろいろありますが、何よりも一人っきりになり、何かを感じ続けること。
それが、一番好きだったように思います。

何を感じていたのか。
親のこと、将来のこと、友達のこと、付き合っている女の子のこと。
頭の中を流れるとりとめもないイメージのどれもが、どこか哀しい影を引いていました。
そのころ感傷的な演歌やフォークソングが好きだったのはそんな性格だったからでしょう。
単純ですね。

それから、大学に入り、社会人になっても、旅行好きは止まらず、
山歩きは八ヶ岳から南北アルプス、旅行はアジアからヨーロッパまでと行動半径が広がっていきました。
未知の人々や風景に対する興味は尽きませんでした。

今でも興味はありますが、昔みたいな情熱はありません。
行けたら行ってもいいという感じになりました。
どこへ行っても、その風景に溶け込むことができなくなりました。
どこに比べてどうだとか、ああだとか、そんな分別臭い雑念がシンプルに感じることを妨げてしまいます。
宇宙空間に飛び出して地球を眺めたら、宇宙飛行士たちが感じたような強烈な感動を
今の僕でも感じるのかもしれませんが。

思えば、子供のころからあちこちをうろうろするのが好きでした。
学校の裏山に分け入って、どこまでも森が続くと思って不安になったころに、
森が突然途切れて見知らぬ集落が現れて驚いたり、
古い寺が立ち並んでいる山の裏手を、墓石の間を縫うようにして徘徊するのがやけに楽しかったり、
自分の周りの世界に対する好奇心がいつも駆り立てられました。

アラスカやシベリアなど、人のいないところをうろついてみたかったです。
人のいるところにいると却って人から気持ちが遠ざかり、人のいないところに行くと逆にあれやこれやの
人々の顔が浮かんできます。
たった一人で狼の遠吠えを聞きながら焚き火でもたいたら、気分はヘミングウェイです。←クサイですね

結局のところ、対人関係に安心感を抱くのが下手糞なのでしょう。
それよりも、めんどくさいほうが先にたつのかな?
どっちもどっちです。

先日、歌人の山頭火が気に入ったという温泉に偶然行き当たりました。
乞食坊主の癖に、悟りを求めるどころか、酒を飲んでは感傷にどっぷり浸った困ったオヤジでした。
その気持ちは痛いほど分かります(笑)
分かりますが、全然偉くない人でした(笑)

僕の場合も、このまま世俗の中をしっかりと渡っていけるかどうかの瀬戸際です。
瀬戸際から転がり落ちたら、乞食坊主にでもなろうと思うのですが、今の時代、乞食坊主って成り立つのでしょうか。
一夜の雨をしのぐ寺先の軒下もありそうもありませんしね。
今のお寺やなんかは、ほら、普通の家族が住んでますから、警察に通報されちゃいます。
山だって何だって誰かの所有物になっているんだろうし、勝手気ままにうろついたらいろいろ問題がありそうですし。
放浪する場所もないっていうのは、かなりきつい状況です。
真っ直ぐまともにしっかりと歩いていける人ばかりじゃありません。
ふらふらと横道に逸れるのも、また、なんというか、人生の妙味だと僕なんかは思うのですが。