風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

俳句

2010年01月29日 | 雑感
まもなく1月が終わります。
日に日に陽光がまぶしくなっていきます。
東京に住んでいた頃は、通学・通勤も地下鉄で、季節の微妙な移り変わりを感じることはできませんでした。
九州の空は狭いですが、狭いながらも空の色や、雲の形や、風の匂いが移り変わっていくのが分かります。

禅道場の方針で、今後は季節季節に俳句を提出することになりました。
意識的に季節というものに注意を向けることになります。
ぼくはどうも花や木々の種類の区別をすることが苦手です。
ニレの木とクスの木とブナの木の違いがさっぱり分かりません。
名前を知っているだけです。

植物がダメなら、人間に季節を感じるかというと、そうもいきません。
人間は季節に関わらず年中同じような顔をしているのが常です。
そうすると、なにを季語にするかというと、ぼくの場合は風とか空とか雪とか海とか、そんなことに感じていくのでしょう。

ちなみに、今度提出する俳句を恥ずかしながらここで晒してみます。

「子のあとを 追いかけながら 枯葉踏み」
「思いきり 窓を開ければ 冬の雲」
「蒼白に 冴えきる月に 影深し」
「ふらふらと 道に迷いて 冬河原」
「白子鍋 娘を膝に 手酌酒」

まぁ、あれです(笑)

ともかくも、季節が巡ることを体感し、感応できることは、この世に生まれた恩寵です。
恩寵ならば、受け取れるだけ受け取ってみたいなぁと思う今日この頃です。


占い

2010年01月28日 | スピリチュアル
近頃ぼくの周辺では占いが流行っています。
なんでもものすごくよく当り、そのアドヴァイスも的確だそうです。
ぼくの名前を見ただけでも、いつ肝臓をやられて死んでもおかしくはないのだそうです。
自分でもこのままだとそうだろうと思います。
だから観てもらえと言われましたが、断りました。

当る占いがあるというのはぼくは否定しません。
占いで観てもらって、姓名を変えることによって運勢がよくなるというのもありえないことだとは思っていません。

でも、自分で運命を選び、さまざまな障害を越えることによって魂の成長を図るというのが生きるということだと思っていますので、
病気やさまざまな苦難を占いによって回避するというのがどうも腑に落ちません。

このブログでも何度も紹介してきました良寛さんの言葉です。
「 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候死ぬ時節には死ぬがよく候」

生老病死から逃げようと思えば思うほど、生老病死はリアリティを持ってその存在感を増していきます。
生老病死とともに生きざるを得ないのが人間です。

例えば、姓名を変えることによって、運勢が向上したとします。
金運が上がっただとか、恋愛が成就したとか、まぁいろいろあるでしょう。
言ってみれば、目の前に立ちはだかっていた課題が、姓名を変えることによって解消する。
それは誰でもほっとしますし、喜ばしいことかもしれません。
でも、目の前に立ちはだかっていた課題を克服するというテーマはどこに行ってしまうのでしょうか。

もし生まれたときに授けられた姓名が、克服しがたい課題を与えられるという運命を背負わせられているのなら、
背負うしかない、というか、背負おうとして生まれてきたのではないかと、ぼくは思うのです。
克服しがたければしがたいほど、克服したときの喜びと魂の成長は格別だと思うのです。

もちろん、課題があまりにも複雑だったり、重すぎると感じることもあるでしょう。
どんなにその課題が重く苦しくとも、自分でそれを負うと選んだとぼくは信じたいです。
その課題に現実に心身ともに押しつぶされそうになったら、占いで観てもらうことによって、あらたな活路を見出すのも悪いことだとは思いません。
ただ、あらたな課題が来るたびに、占いに頼るようにはなっては欲しくはないということです。

金運があろうがなかろうが、心身が健康であろうがなかろうが、生きている限り課題は次々と発生するものです。
正面から課題を克服するという正道を歩むチャンスを自ら失うことは避けたいな、と思うばかりです。




サイン

2010年01月27日 | スピリチュアル
今日は晴天で気持ちがよい天気でしたが、いわし雲がこの季節には珍しく空を覆っていました。
いわし雲というのは秋の空によくかかる雲みたいなのですが。
先日も一筋の雲が一直線ではなく、九の字に曲がって空を横切っていました。
明らかに飛行機雲ではありませんでした。

アメリカの西部で見る雲と、島国日本の九州で見る雲とは、そのスケールも流れ方もぜんぜん違います。
どちらがどうだということではありません。
どちらもその風土に合わせた雲の紋様であり、動き方です。
一番美しかったと個人的に思うのは、北海道をバイクでツーリングしているときに見た富良野の空です。
天空いっぱい鮮やかな茜色の雲が覆っていました。
天も大地も文字通り茜色に染まり、思わずうっとりしてしまいました。

3千メートル級の山に登ると、夕方になるとものすごい勢いで目前に雲が流れますし、朝方には眼下に雲が谷底に眠っているのが見ることができます。
時々刻々と移り行く日差しの加減で、雲はその色を変え、流れの向きを変え、発生量を変えます。
昔の人は雲の形状や流れを読んで、天候の変化を先読みしていたに違いありません。

自然界は常に何かのサインに満ちているわけです。
もちろん人々の動きも流れも何かのサインであるわけです。
そのサインを無視して、誰かの強引な意図とか計算とか策略とかが社会の流れをコントロールしようとすればするほど、
自然界に内包される人間の社会が混乱するのでしょう。

農民は日々植物からのサインを見続け、漁民は日々海からのサインを受け続けます。
都会に住む人間は、テレビや新聞の意図的に操作された情報だけは蓄えますが、自然からのサインからは遮断されています。
なにをどう受け取るか。

自然はサインを発し続けるだけです。
それをどう受け取るか、あるいは無視するかは完全に受け取る側に委ねられます。
テレビや新聞は、これをこういうふうに受け取りなさい、あるいは受け取るべきだと誘導します。
誘導しようとすることこそが、何かを書いたり報道したりする動機だからです。
その動機に曇りや偏りや誤りがある場合が、大変多くなってしまいました。

この世はサインに満ちています。
そのサインを読み取れる能力を大いに広げる必要があるように思います。
誰かの都合のいい誘導には気をつけたほうがいいです。
人は誰かの都合に従わなければならないほど、弱い存在ではありません。
一人ひとりの心の選択の自由を手放してはいけません。

こういうふうに書くとこれも誘導です。
ですから、自分の心と直に対面する必要が出てきます。
自分の心とはなにかと問えば問うほど、心は行方をくらまします。

心の自由といいながら、心の正体をつかめない。
なかなか厄介です。
その厄介さを身にしみて分かったときに、おそらく「禅」の世界が開けます。
なんだか誘導ここに極まれリ見たいなオチでした(笑)

破壊

2010年01月25日 | 雑感
だいぶ日射しが暖かく感じられるようになってきました。
まぁ、まだ寒いのですが、着々と春に向かっています。
年を取ると春が恋しいのです(笑)

個人にも、歴史にも、自然環境にも、時の流れのサイクルというのがあります。
創造と破壊と再生が繰り返されます。
創造と再生の時は楽しいことのほうが多いでしょうが、破壊のときは我慢のしどころです。
破壊が深いほど再生はスムーズに行くといえるかもしれません。
破壊が不徹底だと、いろいろなものごとがスムーズにスタートできないということがあるからです。

個人の生きる過程に起きる破壊の経験は辛いものです。
「なぜこんなことが自分に?」という疑問に答える者はどこにもいません。
全く意味を見出せないまま、破壊の渦に巻き込まれます。
誰にも手助けすることはできません。
残酷なものです。

でも、破壊が通り過ぎた後、ある種の開き直った空っぽの心境があるはずです。
ゼロからのスタートです。
茶色く枯れ果て、雪に覆い尽くされ、すっかり沈黙のうちに閉ざされたはずの木々が、春になれば再び芽吹くようなものです。
陽光は決して見捨てません。
時が来れば、燦燦と天空に輝くだけです。

我慢強さというのは、本来ならば農耕民族である日本人が最も得意とした美点だったはずです。
ぼくを含めて、日本人からその美点が消えさってしまったような気がしてなりません。
破壊の段階に入ると辛抱しきれず、すべてを投げ捨てる、あるいは攻撃に転じる。

破壊を怖がらない。
勇気を持って、その過程をじっと見つめる。
そこにしか再生のヒントはないのですから。


皮膜

2010年01月24日 | 
どこかで聞いたことのあるような言葉が聞こえ、
いつか見たような風景ばかりが目の前に広がる。
突き破っても突き破っても、ゴムのような皮膜に覆われて、
人は夢を見ることをすっかりあきらめる。

ゴムのような皮膜は、おそらくは精神を鍛え上げるエキスパンダーだ。
突き破り続けた果てに見える風景は、宇宙に充ちた静寂だ。
やさしさとよろこびに充ちた静寂だ。
それが生命だということを知る瞬間だ。

ゴムのような皮膜は意地悪で人を覆うのではない。
慈悲の心で人を覆い続ける。
その仕組みを知ろうとしてはいけない。
楽になりたいという思いを捨てて、突き破り続ければいいのだ。

月や星は無駄に闇夜に光っているわけではない。
太陽は無駄に毎日光を注いでいるわけではない。
人は、動物は、植物は、鉱物は、地球は何一つ無駄に生きているわけではない。
ありとあらゆるものが無駄に皮膜に覆われているわけでもない。

真理は時としてエベレスト山頂のように尖って冷たい。
尖って冷たい真理から身を守るためには、時にはゴムのような皮膜が必要だ。
どこかに迷い込んで疲れ果てたときには、その皮膜にくるまって眠るだけでいい。
でも、目が覚めたら、またそのゴムのような皮膜を突き破っていけばいい。


舟形山

2010年01月23日 | 
いつも地平線に見慣れた山の青白い姿があった。
舟形山と呼ばれるその山は、文字通りに舟をひっくり返したような台形の山だった。
子供の頃、その姿を見るたびに、何かが胸の中に満ち満ちて何かを表現したくなるのだが、その何かが分からず表現すべき言葉も知らなかった。

今見る舟形山は、それでも昔のままの舟形山のはずだった。
でも、それは全く違う山だった。
青白くもなく、ありきたりの緑に覆われた、普通のなだらかな山だった。
それを見ることによって、胸が熱くなることもなかった。

どうしても今のぼくにとって解せないのはその色だ。
舟形山は、いつ見ても青白かったはずだ。
舟形山は青白い、それが子供の頃に明確に抱いた印象だ。
その山が今では緑に覆われているありきたりの山だ。

それが舟形山だと教えられたのは、ぼくが5歳の頃だったと思う。
フナガタヤマ。
舟というものを見たことのないぼくは、フナガタという言葉に青白いイメージをそのまま託した。

青白く、誰かが何かをたくらんでいて、こちらの世界を見てはくすくす笑っている人たちが住んでいる世界。
それがぼくにとってのフナガタ山だった。

今になって問えば、舟形山はブナの木で覆われているという。
宮沢賢治が好きそうな森だ。
尾根伝いに北に辿れば、イーハトープの森も一日もかからない。
木々が盛んに囁きあっている世界だ。
動物たちが首をかしげて里の人間どもを見下ろしている世界だ。

くすくす笑いが消えた今、舟形山は青白くなくなった。
ただの緑の平凡な山だ。

舟形山を見るたびに、ぼくは耳を凝らす。
くすくす笑いはもう聴こえない。
それでも、何かが聞こえて気はしないかと、耳を凝らす。


休日

2010年01月22日 | 雑感
昨日は休みで昼過ぎまでごろごろして、夕方からジムに行って、夜は禅道場に行きました。
見たい映画があるときには、上記のコース+昼に映画を見る、というスケジュールになります。
とても幸せな気持ちになる休日の過ごし方です。
もちろん夜はたっぷりと娘と遊びます。
自分のしたいことばかりしないで、娘をどこかに連れて行けというご意見も数多く賜ります。
しかしながら、木曜日は娘が幼稚園に朝から行く日なのです(体験入学?)。
しかも木曜日は映画館のメンズデーです。
なんというか、ぼくにとっては完璧な休日です。

そういうスケジュールですから、朝、昼の食事は自分で用意します。
昨日は朝は納豆と漬物とご飯と味噌汁。
昼はレトルトのミートソースを掛けたスパゲティ。
パルメザンチーズが買ってあったので、たっぶりと振り掛けます。
レトルトのソースだとやはり味はがくりと落ちます。
食べて損したような気になりました。

ぼくはけっこうその気になれば料理は上手です。
マーボー豆腐とか、チキンのトマスソース煮込みとか、おいしいと評判です。
学生のとき炉端の居酒屋でバイトもしていましたので、魚の焼加減なんかも上手です。
それからものすごく手早いです。
いくら料理自慢したところで実際は何の役にも立ってはいないのですが(笑)

年のせいか、ドライブに行きたいとか、レストランに食事に行きたいとかはぜんぜん思わなくなりました。
何もしないで、じっとしているのがどんどん好きになります(笑)
嫁さんからすれば、最悪の旦那だとは思います。
家族でピクニックに行ったり、食事に出かけたりという光景を夢見ていたはずなのです。
滝に行ったり、禅道場に行ったりということを旦那に求めていたわけではないはずなのです。
なにを考えているのか分からないとよく文句を言われます。
何も考えていないのだから、始末におえません。

そんなこんなで大寒も過ぎ、今年も少しづつ春が近づいて来ます。
桜が咲いたら、花見くらいは娘を連れて行ってやろうと思います。
3歳の娘が見上げる桜は、どんな光景に写っているのでしょうか。

想像力

2010年01月20日 | 雑感
昨日知人に誘われて、今朝も滝に行きました。
家を出るときには4度だった温度が、山の奥にある滝場に着いたときには14度でした。
南からの風が急激に吹き込んできたのでしょう。
水は冷たかったですが、一月の滝とは思えない風情でした。

別の知人に段ボール箱一箱分の絵本をもらいました。
昨夜遅くに取りに行って、居間に置いておきました。
朝方、娘が騒いでいるので目が覚めました。
何十冊もある絵本を見て娘は興奮してました。
十数年前の絵本ですから、今のとは作風も違うでしょう。
娘の喜び具合からすると、貰ってよかった、ありがたかった絵本でした。

ぼくも幼稚園の頃は絵本が大好きでした。
今でも覚えている絵本があります。
ある少年が自転車を買ってもらいます。
少年は嬉しくて堪らず、町中を乗り回します。
そこで少年はいろいろな景色や人に出会います。
それだけの話なのですが、その絵本を見るたびに躍り上がるようなワクワク感を感じたものです。

ぼくが若い頃、世界中を見て回りたいと熱望していたのは、その絵本の影響だったのかもしれません。
それとも、生まれつきそういう性向があって、感覚的にマッチしたのがその絵本だったのかもしれません。
どちらでも構いません。
なんの知恵も分別もないない幼少の頃に見る絵本の世界というのは、幼児にとってはとてもリアルな世界です。

幼児の想像力というのは制限なく羽ばたきますから、ひとつの絵から感じとる世界は大人が思う以上に深くて広いのだろうと思います。
いい絵本に出会うというのはとても大切なことに思います。
ぼくから見ても、今回いただいた絵本の中には面白いなぁ~という絵本がたくさんありました。

大人になると意味もなく分別くさくなりますが、大人は大人で存分に想像力を巡らすことはできます。
いい映画もありますし、いい本は無論たくさんあります。
想像力が巡るうちが生命が躍動する期間といってもいいのかもしれません。
想像力がその役割を停止し、現実の生命を維持することだけが関心事になったら、そりゃ人生は乾燥していきます。

想像力を縦横無尽に駆け巡らせる。
思う存分、誰にも遠慮せず、駆け巡らせる。
それっておそらく人間だけに許された恩寵です。

若いときには、若いときなりの想像を巡らせる。
年取ったなら、年取ったなりの想像を巡らせる。
老いも若きも自在に想像を巡らして、心の世界で自由に飛び回ればいいのです。

おやおや

2010年01月19日 | 雑感

今日は日差しが暖かく、昼食後に公園のベンチに坐ってボーっとしていました。
何羽かの鳩が芝生の上を所在無さ気にうろうろ歩き回っています。

そこへ3人の警官が現れました。
路上で電力会社の車が何かの工事をしており、その車の周囲を警備しているガードマンとなにやら言葉を交わすと、
3人はまっすぐ公園の中央にあるジャングルジムと一体となった滑り台へと向かいました。
滑り台の傍らには自転車がぽつんとあります。
3人は滑り台の上に上り、何かを取り囲むようにしゃがみこみました。
「○田さん、○田さん、大丈夫ですか!?」と警官の一人が大声を上げました。

誰かが滑り台の上で倒れこんでいるようでした。
警官は声を掛け続けますが、返答がないようです。
「死体遺棄」というような声が警官の一人から聞こえたように思いました。
ぞっとしました。
一人の警官がどこかに電話を掛け始め、一人は自転車を丹念に調べ始め、一人はその誰かの傍らにあったらしい紙袋の中身を点検しだしました。

再び警官たちは滑り台の上に集結し、再度倒れている人に声を掛け始めました。
するとぼさぼさの長い茶髪を振り乱した人間の頭がムクリと起き上がりました。
「動いちゃダメだ!今動いちゃ危ないからダメ!」と警官たちがあわてて制止しました。
「みんな心配してたんだよ」とか「気分悪いの?」とか警官たちが言っているのが聞こえます。

程なくして救急車が到着しました。
一人の警官は先ほどのガードマンから何かを聞いて書類に何かを書き込んでいます。
あとの警官二人と救急隊員たちは、その倒れた人を滑り台を滑らせて下に下ろし、担架に載せました。
中年の女性のような感じでしたが、離れていたので確かなことは分かりません。
両腕がだらりと担架から垂れ下がっていました。

確かなことは分かりませんが、雰囲気やらなんやらを総合して推察しますと、誰かが自殺の恐れがあると誰かの知人が警察に捜索願を出した。
そこへガードマンから誰かが公園の滑り台の上に倒れているという通報が警察にあった。
それで警官3人が駆けつけたという流れのようでした。
おそらくその誰かは一晩をその滑り台の上で過ごしたのでしょう。
命に別状がなければいいのですが。

 

ところで外国人参政権ですが、相変わらずその中身がまともに国民に知らせられないまま国会に提出されようとしているみたいです。
どんな法案でも国民が知った上で堂々と通すのなら民主主義ですから仕方がありませんが、
まともに国民が知らないうちに通そうとするのだけはやめてもらいたいです。

外国人参政権
http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10434146608.html

ドイツ移民問題
http://www.youtube.com/watch?v=y-pVuiMzvq4&feature=player_embedded

この民族をシャッフルしようとする動きは、日本だけではありません。
アメリカでもヨーロッパ諸国でも移民問題では大きな社会不安を抱えており、暴動もたびたび報道されてます。
上に挙げたドイツの国営放送のレポートをぜひ見てください。
そういう状況になって、誰にとっていいことなのか、さっぱり分かりません。
こういう法律は一度成立すると廃案はきわめて困難になります。
実際に入ってきた移民を排除することは、「人権」上不可能だからです。

日本人のほとんどが積極的に望んでもおらず、その中身さえよく知らない法案を「誰が」強引に通そうとしているのか。
なぜ?

さらにその先には、「外国人基本法案」というすさまじい法案が民主党の議員によって用意されています。
日本国解体することが、日本人にどんなメリットがあるのかを誰かに説明してもらいたいのですが、そんな説明は皆無です。
しかもこの法案は「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」というよく分からない団体が私案をまとめたということです。
まともに考えれば???だらけです。

これらは陰謀論でもなんでもなく、現実に与党の議員が公式に推し進めている法案です。
検索してみれば一目瞭然に大問題であることは分かります。
ただ、メデァがどういうわけかさっぱり報じません。
知ればびっくりする法案なのですが。
右翼とか左翼とかいう問題ではぜんぜんありません。
日本をどういう国にしたいのかという国家戦略の根幹に関わる問題です。
やたら急いで通そうとするのも怪しさがいっぱいです。

注視していきましょう。

 


小沢幹事長

2010年01月17日 | 雑感
今朝は滝でした。
車の温度計によりますと、外気温は-1度でした。
水に足をつけると、もうあれです。
菅生の滝は、滝に入って冷たいからといってパッと出るわけにはいかない構造の滝です。
覚悟を決めて、とっとと入ってとっとと出ました。
いや~、あれです(笑)

小沢さんというのは興味深い人物ですね。
「自民党を焼け野原にする」とか「自民党はだらしがない。おれが自民党の幹事長をしたいくらいだ」とか、
その真意が測れないことをいろいろ言います。
理念とか理想を全うするとか、そういう抽象的なことにはまったく興味がなさそうに見えます。
子供手当て、農家への補償、韓国や中国への気遣いなどなど、自民党が手が届かなかった票田をごっそり奪いました。
本来は政策面で一致するはずのない社民党とも組みますし、日教組とも、連合とも、民団とも、どんなとこでも笑顔で手を組みます。
自民党だけは今では徹底的に潰そうとしていますが、福田政権のときはその自民党と大連立を組もうとしていました。←ここ重要w
理念で政治をしているわけではないですから、どこと組もうが勢力の拡大さえ達成すれば、あとは自分の手加減しだいなのでしょう。

その勢力拡大の先に彼がなにを見ているのかに興味があります。
彼の吸引力に引かれて今でも彼に多くの人がついて行きますが、数年も経つと彼の元から離れていくのがパターンです。
おそらく彼には彼しかわからないヴィジョンがあり、周囲に集まる人間は徹頭徹尾、彼の駒でしかありません。
彼がどんなヴィジョンを描いているのか、大変興味があります。
そのヴィジョンをおそらく彼は側近にも漏らしません。

戦国時代みたいに、国盗り合戦をしたいだけなのか。
あるいは、どこかのだれかの指示に従っているだけなのか。
下野しようとも、与党になろうとも、強固な彼の勢力を支えるものはなんなのか。

田中角栄や金丸信といった自民党の長老たちからかわいがられるだけの何かを彼は持っているのでしょう。
その何かを決して彼はオープンにしません。
金に対して強欲だとかそんなレベルでないのは確かだと思います。
今は、そんなレベルで追い詰められていますけれども。
金の力や恫喝だけで長い間権力を維持できるものではありません。
人間的な魅力の何かがないと、人は長期間に渡ってついていこうにもついていけないものです。
その何かが謎です。

今までのパターンどおり、古くからの盟友であった渡辺恒三や、藤井元蔵相が袂を分かったみたいです。
そういう過激、過酷な人生をあえて小沢さんを歩ませる情熱の裏には、どんなヴィジョンがあるのでしょうか。
その是非は知らずとも、興味があることではあります。

アバター

2010年01月16日 | 雑感
そういえば先週「アバター」を見ました。
わざわざメンズ・デーに行ったのですが、3Dは割引なしとのことで2千円取られました。
あれだけの映像を作ることができるのなら、もうどんな映像でも作ってしまえますね。
例えば、地獄と冥界と天界を描き分けるとか、もうなどんな世界も表現できてしまいます。
今後の映像表現は無限に広がっていきそうです。

そういえば「パブリック・エネミーズ」も見ました。
マイケル・マンという監督は、「銃」のリアリティにとてもこだわります。
銃の口径やタイプによって違う炸裂音や破壊力や、そんなこんなの違いを丁寧に描写します。
そういうのは、実際に戦場に出たことのあるような人にとっては、とても気になるポイントだとは思います。
銃声で敵のものか味方のものかを聞き分けなければならなかったでしょうから、気になる人には気になって当然ですね。
ジョニー・デップはカッコよかったです。
何でもこなしますね。
へんてこな味を出す役柄のほうが好きみたいですが、この映画では渋く決めていました。
そういえば、ジョニー・デップの次回作は3Dの「アリス」ですね。
予告編だけでも存分にへんてこな味を出してました(笑)

何の映画にせよ、これだけ大金と労力と才能をつぎ込んだ映画とういうものを見れるというのは、文句なく幸せです。
映画というものをなめていない映画は、どんな映画でも好きです。
企画ありきで、主人公をどのアイドルにするかを最初に決め、適当に監督を頼み、脚本をやっつけ仕事で書かせ、
編集もずさんに、スケジュール通りに一丁上がりなんていう映画は見るだけ損です。
映画というのは原作の持つ世界の確かさと、監督の想像力と、役者の存在感と、各スタッフの職人技と、全員の情熱が合わさったものだと思います。
そんな映画なら何本でも見たいです。

何かで読んだ話ですが、黒澤明が線路を走る列車を撮ろうとしていました。
ところが、線路の後方に写る民家の存在がどうしても気に入らない。
大金を払ってその民家を買い取り、解体してしまった。
そんな話だったように記憶しています。

そこまでするのは無理だとしても、学ぶべきは自分が撮るべき映像への情熱のすごさです。
黒澤はエキストラに対する注文も大変うるさかったようです。
何十人といるエキストラの誰一人にも一切の不自然な動きを許さなかったそうです。

ぼくにとっては芸術性が高いかどうかというのは、あまり重要ではありません。
ヴィスコンティも未来少年コナンも、作る人の本物の情熱を感じられれば、心地よく見られます。
芸術性が高い=難解ではないことは言うまでもありません。
絵画にしても、映画にしても、前衛芸術の名の下に難解さが前面に押し出された時代がありました。
精神を切り開いていくのは究極のシンプルさだと思っているぼくからすれば、そのようなポーズとしての難解さは精神のフン詰まりにしか見えません。

まぁ、とにもかくにも今後の映画界は「アバター」を契機にその表現領域を飛躍的に拡大しました。
志ある人にとっては大いに表現するチャンスの到来です。

魔球

2010年01月15日 | 雑感
携帯がメールを受信したり着信したりしますと、PCのスピーカーから大きな雑音がバリッバリッと発せられます。
そうとう強力な電磁波が大気中を飛び交っているのでしょうね。

昨日何気なくテレビを見ていたら、統合失調症と診断された女性が、自分を見つめなおしていく過程を写したドキュメンタリーをしていました。
統合失調症という病名からはなにがなんだか分からない病気ですが、要するに本来の自分を見失ってしまっている状態のように感じました。
自分で自分が自分であるように思えない。
だから、自分がすることなすことに意味を感じなくなってしまう。
意味を失った灰色の世界に、意味を失った灰色の自分がぽつんといる。
そんな感じなのでしょうか。

まぁとにかく、何度も自殺未遂をした彼女が、本当は自殺をしたいのではなく、
誰かと繋がりたいというのがその行為の裏に隠された本当の自分のメッセージなのだと気がついていく。
「当事者療法」とかいう療法で、自分がなにをしているのかを深く掘り下げていくことによって、
自分の本当の姿を見つけ出していくというような感じでした。

「誰かと繋がる」ということが、それが叶えられなければ死んでしまいたいと思えるほどまでに、人の心にとって大切なことであるということですね。
それで、どうして彼女は「誰かと繋がること」ができなかったのか。
彼女は自分で答えを探し当てます。
「相手に魔球ばかりを投げてきた」と。
つまり、ストレートに思ったことを言わず、言えず、誤解が積み重なって、誰ともうまく人間関係を築くことができなかった。

「魔球」という言葉は興味深いです。
変化球を投げてもそれほど自分を追い込むことにはならなかったでしょうが、「魔球」を投げていた。
彼女が魔球と呼んだ言葉が、実際どんなものであったのかは知りえませんが、なんとなく想像がつきます。
自分がしたい、して欲しいことを相手にストレートに言わない。
相手がそれを察知して、相手から自分のしたい、して欲しいことを言わせようとする言い方ってありますね。

「明日は(一所にドライブに行きたいんだけれど)休み?」
「休みだよ」
「(じゃあ、一所にドライブに行こうよ!)ふ~ん」
「・・・」

カッコ内を言わないわけです(笑)
お互い疲れますね。
疲れるだけならいいのですが、伝えたいことを伝えない習慣がつきますと、誰ともよそよそしい関係になっていきます。
一番大切なカッコ内を言わないわけですから、誰だってこの人なにが言いたいわけ?、となって行きます。
大切なことは全部自分のカッコのなかにしまいこんでしまい、大切でないことばかりを言うようになる。
そうなれば、人は離れます。
大切でないことばかりを言う人と一緒にいても楽しくないのは当たり前のことです。

原因はよく分かっていないといわれる統合失調症という病気ですが、そんなに難しい方向へ持っていく必要もないのではないかと、ぼくは思います。
偽者の自分を出せば、偽者とは付き合いたくない他者から疎外される。
まだ、この段階では病気にはなりません。
そういう自分に気がついて修正すればいいだけです。
自分で表現する偽者を偽者と感じなくなったときに、自分が分からなくなり、自分を疎外する他者を分からなくなるのだろうと思います。

正直な自分に帰ること。
その正直な自分をそのまま表現すること。
そうできるようになるまでは、根気よく彼なり彼女なりを見守ってくれている人が必要ですが。

ぼくが言いたいのは、統合失調症とか、精神を病んでいる方の症状を軽く見ているのではありません。
得体の知れない心の症状に苦しんでいる方々に掛けるべき言葉も知りません。
でも、テレビに出た彼女が自分の心に向かい合ったときに涙を流しながら発した言葉がすべてのポイントに思えてなりません。
「さびしい」

「寂しさ」というのは、薬や治療法でその感覚を緩和することができるのだとしても、根本的治療にはなりえません。
自分の寂しさと真正面から対する。
自分の寂しさから目をそむけ続けると、あるいは心を病むという状態になるのかもしれないなと思いました。

登る喜び

2010年01月13日 | スピリチュアル
今日は朝早めに起きたら外は一面の銀世界。
九州に来て初めての本格的な雪景色のような気がします。
本格的といっても5センチくらいの積雪でしかないのですが。
明日の朝が寒波のピークとなるそうです。
今朝もベランダの水溜りが凍っていましたから、明日予定していた滝行は中止します。
水が冷たいのは仕方がないのですが、道の凍結で山の中まで車で入れないだろうと思うんです。
でも、明日滝に入っていないと、日曜日の菅生での滝、厳しいだろうなぁ・・・
まぁ、そういう流れなのだから、流れに任せるしかありません。

先日も紹介した「宇宙となかよし」の著者でもあるQちゃんが坐禅会に出て、そのレポートをブログで書いてあるので読んでみてください。
Qちゃんは何事によらずなんでも真正面から物事を捉え、捉えたものをそのまま正直に書きますから、禅のレポートなんかはホント適役です。

>一つだけ問題点をあげるとすれば、それは「楽しくない」こと(爆)。

ここは笑いました。
ぼくの行っている道場では、昔はもっと厳しかったらしく、接心中は一切の私語が禁じられていたそうですし、
「他人に気に入ってもらおうと思うな」という標語があったほど、媚びへつらいが嫌われていたそうです。
ですから、新到者(初心者)なんかは大変です。
なにをどうすればいいのか皆目見当がつかないまま、誰からも言葉を掛けられず、見よう見まねで道場で坐るというところから始まったらしいです。
参禅(老師と相見すること)が許されるのも、今みたいに門を叩いたその日からなんていうものではなく、半年なり一年なりその修業振りを見て、
見込みありと判断されて初めて許されるものだったらしいです。

確かに一般的な意味ではまったく楽しくないです。
特に最初のうちはすることなすことすべてが苦痛といってもいいかもしれません。
でも、その雰囲気に慣れ、坐禅に集中できるようになりますと、誰かと世間話しようとも思わなくなります。
余計な配慮をするのもされるのも邪魔になるようになります。

ただ、接心が終わり、親睦会が開かれると様相は一変します。
ただの酔っ払いどもの集団になります(笑)
そこがまたいいところです。

道場で同じ釜の飯を食い、一緒に修業する仲間ではありますが、その道のりも、歩む速度も、たどる境涯も、みな人それぞれなのが禅です。
人みなそれぞれというところが禅の広さ、深さ、公平無私なところです。
もちろん言葉にすれば、同じ道程を目指し、同じ境涯を目指すのですが、あくまでも今ここに生きている人間が歩くのですから、
速度も道のりも見る風景も違ってくるわけです。
あくまでも生きている人間が主体であるということから決して外れないのが、禅の道です。

Qちゃんのブログは読者数が多いですから、あのブログがきっかけで禅に入門する人が増えるかもしれません。
ぼくは縁がある人には片っ端から禅道場に通うことを勧めています。
誰でも彼でも声を掛けているわけではありませんが、今のところ声を掛けて行かないと言い張ったのは一人だけです。

本物の世界に触れるチャンスというのはそうそうあるものではありません。
近所に歴史ある本格的な道場があり、格安で食と寝床を提供してもらい、命がけで真剣勝負をしてくださる老師や諸先輩方がいる。
もう行かないのがもったいないとしか思えません。

ただ、老師のスケジュールをみると、驚くほど過密です。
あのご高齢を考え合わせますと、これ以上むやみやたらと初心者を増やすのは身体に毒ではないかとどうしても要らぬ心配をしてしまいます。
全国の道場で待ちわびる何十人もの修業者一人ひとりと毎朝、毎晩、真剣勝負に命を掛けておられます。
右も左も分からないきょろきょろと落ち着かない初心者ども(笑)がやたら増えるのも困りものかもしれません。
それでも、行きたいと思う人はどんどん遠慮せず門を叩けばいいのです。
老師は自分の身体よりもなによりも、禅の道を歩む人が一人でも多くなることを祈願していることは間違いありません。

まぁ、ぼくも新参者なんで、あんまり偉そうな口はききますまい。
ただ、本気で登り甲斐がある、本当の山に出会ったという揺るぎのない感触がぼくの中にあります。
もう頂上に辿り着けるかどうかなどはどうでもいいことです。
登ることの出来る喜びがあるだけです。


そろそろパッチリ目を覚まそう

2010年01月12日 | 雑感
昨日は成人式でした。
大盛りに
盛り上がった茶髪に、羽織袴というのが流行のスタイルなんですね。
道の横幅いっぱいに徒党を組んで、やたらに叫びながらねり歩いていました。
誰もが彼らに視線を向けることを避けていました。
成人式おめでとう!と、彼らを応援するような雰囲気は微塵もありませんでした。
成人したことを周囲がみんなで祝福する意味でない成人式をする意味を全く感じませんでした。

ということで、「外国人参政権法案」が今国会に提出されるそうです。
この法案のいかがわしさについては、ネットではずズ~ッと主張されてきましたが、案の定メディアで詳しく議論されているのを聞いたことがありません。
詳しく議論されたら、反対する人間が増えるからでしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9

さっさと法案を提出して、国民の理解と議論が深まらないうちに、衆議院の圧倒的な議員数を背景に法案を通そうとしているのが見え見えです。
どうも民主党の若手議員の中には、そのコメントを参照する限り、この問題の本質を理解していないような人がたくさんいるみたいです。
日本国民にとって、どんなメリットがあるのか、そのメリットを説く人を見たことがないというのもこの法案の特徴です。

この法案の成立を小沢幹事長は訪韓の際に約束してきているそうです。
国民の意見も訊くことなく、一政党の幹事長が参政権を外国籍の人に与えるという重大事項を、他国と約束してしまう。
一度これを許してしまえば、組織的に、なし崩しに日本という国の枠が融けて行きます。
日本という国体なんかないほうがいいんだというイデオロギッシュな人たちが盛んに推進を叫んでいた法案でもあります。

これが通ったら、次は「人権擁護法案」です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%93%81%E8%AD%B7%E6%B3%95%E6%A1%88

それも国会を通過したとしたら、「日本人の日本人による日本人のための」政策というのは、おそらく不能になります。
その方がグローバル時代にはいいじゃないか、という考えは甘すぎます。
どこかの国の、どこかの組織的な運動が日本の政策を大いに左右することになります。

20世紀後半はアメリカの時代といってもよく、彼らの掲げる「自由と正義と民主主義」の旗印の下、多くの人々が戦乱に巻き込まれ、
国の富を奪い取られ、自由も時には命さえも奪われてきました。
そして今や「グローバル時代」の美名の下、国々が何世紀にも渡って育んできた文化伝統が無価値なものとして捨て去られようとしています。
国々の枠をはずしたら、世界人類が仲良く暮らすようになるなんて、ありえません。
どこかの国の誰かが、そうしたほうが安定的な搾取構造を維持できるからに他なりません。
世界中が人間牧場になるのが、グローバル主義の裏の目論見です。
世界統一政府の言うことをきけ、そうすれば飢え死にしない程度の食い物と住処は保障してやる。
ただし、逆らうな。
お前たちには娯楽(テレビ、映画、セックス、酒)を楽しむくらいの自由は与えてやるが、それ以上は求めるな、考えるな。

この件は、なにをいまさらという感じで知る人は知っているのですが、知らない人はほとんど何も知らないという状態です。
自民党が骨抜きにされた今、野党にこれを阻止する力はなさそうです。
国民が駄目なものは駄目といい続けない限り、日本解体というシナリオは最終段階に入ります。
陰謀論と頭から否定する人もいますが、陰謀論で唱えられていたとおりに実際に世界の流れは動いているようにしか見えないのも事実です。

ヒトラーの狂気も毛沢東の狂気も、民衆の圧倒的支持があったからこそ実現してしまいました。
日本はそういう狂気とは無縁だと思っていますと、そういう油断に狂気は忍び込んでくるものです。
首相と幹事長の政治資金の問題にしても、メディアの追及の甘さは自民党時代には考えられないことです。
すでに狂気の渦の中に巻き込まれつつあると見ていたほうがよいと思います。
狂気は美辞麗句の甘い顔をして近づいてくるものです。

所有

2010年01月05日 | 雑感
与える、貰うという行為はなかなか難しいものがあります。
どちらかが引け目を負ったり、負わしたりというという関係になりがちです。
貨幣経済のなかで生きていますと、どうしても「所有」という概念から離れられません。
どちらかが所有しているものを、善意なり、哀れみなり、計算なりで他人に与えてやるという感覚になります。

でもこれは天の摂理からは外れている心のシステムなんだと思います。
太陽が輝き、植物が育ち、その植物を食べ動物が育ち、その動植物を人間が食べ、その排泄物は大地に帰って肥やしとなる。
そこにはエネルギーの「循環」があるだけで、どこにも「所有」という滞りがありません。
人間だけが作物を所有し、土地を所有し、権利を所有します。

よく熊やら猪やら猿らが山から下りてきて害獣として駆除されますが、「所有」という概念のない熊や猪や猿からすれば、
なんで殺されるのかさっぱり分からないまま殺されていきます。

別に共産主義を推奨するわけではありません。
ぼくとしてはいかなる「~主義」という概念体系からも自由でいたいです。
でも、否応なしに資本主義という概念体系からは抜け出すことの出来ないのが、今に生きるということです。

すべての生命が生きていくために必要なものは十分に地球上にはあるではないか、という趣旨のことが日月神示には書いてあります。
その十分な食料の循環を妨げているのが、人間の「我欲」に根ざした資本主義経済です。
誰かが自然界からの贈り物である食物なり貴金属なりを独り占めし、それを元手に困った人に貸し出しを行い、利子を取り始めました。
それが金融ということの事の起こりです。
今や経済の主流産業は金融です。
金融とは利子を奪い合う業態に他なりません。

いまさら資本主義を否定したところで、暴力的金融業界に支配された世界は行くところまで行くでしょう。
ただ、心はその激流に巻き込まれないことは出来ます。

太陽は来る日も来る日も黙って地に降り注ぐ。
月も沈黙のうちに空に上って闇夜に浮かぶ。
植物はありのままに生き、ありのままに花を咲かせて実を太らす。

そこには「与える」などという意識すら存在しません。
生命の輝きがあるだけです。
なにかの、だれかの、すべての生命の輝きを、誰かの「所有」にされてたまるものか、と思えばいいのです。