風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

天国への階段

2008年11月23日 | 雑感
夢を見ました。

透明な箱が10個横一列に並んでいます。
最小はどうすればいいのか分かりませんでしたが、学んだ教訓や経験を文字にして箱に入れていけばいいのです。
そうすると、箱の中に文字が空中に浮かびます。
文章が中途半端でもいいのです。
あとでその文章を修正したり、追加したりできるからです。

最初の箱が文字でイッパイになると、次の箱に文字を入れていきます。
それもイッパイになると、次の箱という具合です。
経験や教訓によっては、途中の箱をすっ飛ばして、あとの方の箱に文字を入れるのも可能です。
箱の並びは、成長の段階によって序列的に並んでいるようです。
向って左から右に向って、成長の段階が進んでいくようです。

要するに、小学生くらいの年齢で経験するべき内容や教訓は、左から二番目の箱に書き込んでいく、
青年になったら左から4番目の箱に書き込む、という感じです。

で、全部の箱がイッパイになると、一列に横に並んでいた箱が、右上がりに形を変え、階段状になります。
階段の先には、光溢れた入り口が現れます。
逆に、文字でイッパイにならないと、箱はいつまでも横一列に並んだままで、階段にはなりません。

ま、非常に分かりやすい象徴的な夢でした。
こんなに分かりやすい夢って、普通見ませんよね(笑)

最近、分かりやすい夢をよく見ます。
現実の人間から現実に言いそうなことを夢の中で説教されたりもします。
目が覚めた時に、現実の記憶だったのか、夢だったのかを判別するのに少し時間がかかるくらいです。
脳がアルコールで浸されているかもしれません。

飛ぶ夢も最近また見始めました。
不安定に浮遊する感覚というのは、いつもとてもスリリングです。


東京

2008年11月22日 | 雑感
東京では出来事が盛り沢山で、かいつまんで。

「ホッピー」
何はともあれ、浅草のホテルに荷物を預けて、ホッピーを飲ませてくれる屋台を探しました。
浅草寺のすぐ近くに見つけ、先ずは浅草寺の観音様にご挨拶に行きました。
平日だというのに、境内は人でごった返していました。
前日まで、観音様がご開帳されていたらしく、手を合わせ目を瞑ると強力な光を感じました。
あぁ、観音様が活動していらっしゃると、ありがたく参拝を済ませました。
で、急いで屋台に戻り、モツ煮込みとホッピーを頼みます。
空は麗らかで、風もなく、いかにも下町の路地裏で、深い幸福感に包まれながらホッピーを飲みます。
最近九州でもホッピーを飲ませる店が出始めていますが、妙に凝った味で好きではありません。
やはりオリジナルのすっきり素朴なホッピーが一番です。
煮込みのあまりの旨さに一同感激。
ネネさんはお代わりまで頼み、汁まで全部飲み干していました。
煮込みのお代わりをする人を見たのはこれがはじめてです。
汁を飲み干す人を見たのもはじめてです。

「明治神宮」
朝一番で地下鉄で向いました。
表参道で降り、真っ青な空の下をぶらぶら歩いて行きました。
境内は3重くらいの結界で仕切られ守られているように感じました。
一番外側の森はやや重苦しい感じがし、二番目、三番目と進むにつれて森の空気が軽くなっていきました。
最後の鳥居を境に、その内部に入ると透明で明朗な空間が広がっていました。
参拝するのは初めてでしたが、これほどの爽やかで暖かい空間が東京の真ん中にあるとは思いもしていませんでした。
本殿で参拝している時に踵が浮くくらいに引っ張られる感覚があったのですが、全然嫌な気持ちはしませんでした。
中国や韓国からの観光客が多かったです。

「出版記念パーティー」
今回の上京目的は、ホッピーを飲むことではなく、これでした。
ネネさんの友人のアイカさんがムック本を出したので、そのお祝いのパーティーでした。
作家の神渡良平さんが主賓の挨拶をされました。
ネネさんもパーティーの終わりに締めの挨拶をしました。
アイカさんから羽目を外さず、まじめに挨拶してくれと釘を刺されていたらしく、ネネさんなりに精一杯大人しめのスピーチをしました。
それから編集長なども交えて、有楽町のガード下に飲みに行きました。
その前に日比谷公園に立ち寄り、編集長の案内で巨大なイチョウの樹を見に行きました。
編集長自慢の秘密のパワースポットです。
皆(8人)で手を繋いでイチョウの樹を取り囲みましたら、ちょうど皆で両手を伸ばして取り囲めるほどの太さでした。
自転車で通りかかった警官が何かを言いたげにこちらを見ていましたが、編集長がヘコヘコ言い訳をして追い払いました。
真夜中の公園で大の大人が手を繋いで樹を取り囲んでいたら、そりゃ何か言いたくなるでしょう。
お目当ての焼き鳥屋みたいなところはすでに閉店しており、イタリヤ料理店に入りワインをカプカプ飲みました。
その後は、もう一軒ということで、九州の食べ物を出す店に行って、焼酎をダラダラ飲みました。
昼に浅草でホッピーを飲み、夜はパーティーでビールと水割りを飲み、その後はワインを飲み、焼酎を飲み、
飲んでばかりの一日でした。
そうそう、朝、東京に向う飛行機の中でネネさんは日本酒を二本も飲んでいました。

「上野公園」
開催中のフェルメール展を観にいったのですが、もの凄い人が並んでいるのですっかり見る気を失ってしまいました。
平日だというのにこの人出です。
年恰好から退職した団塊の世代の人たちだろうと思います。
それでぶらぶらアメヤ横丁まで歩いて、好みの屋台を見つけて、ホッピーと煮込みです。←こればっかりです
まさに頭上を山手線がガタゴト走るガード下の屋台です。
アイカちゃんも参加していたので、クサヤとか畳みイワシとか、珍しいものを食べさせました。
テーブルを10人くらいでギュウギュウ詰めに坐って飲むのですが、いい感じです。
気取ったり、暗く俯いている人は誰一人としていません。
他人をじろじろ観察する人もいません。
フランス人のカップルがフランス語で(笑)なにかアイカちゃんに話しかけてきましたが、
対面に坐っていたTシャツ姿のお兄さんがフランス語でなにやら返していました。
シブイです。

他にも色々ありましたが、書くのが面倒です(笑)
ただ強く感じたのは、東京から毒気が抜けているということでした。
満員電車に乗っていても、以前なら終始感じていた不快感やイライラ感を感じませんでした。
下町中心に動いていたせいかも知れませんが、それだけではないように思います。


2008年11月16日 | 雑感
なんとなく寒々しい感じの空模様になってきました。
でも、こういう季節こそ味わおうと思えば味わい深いものです。
味わいましょう(笑)

善悪という言葉があります。
善をなそうと思えば、悪をすべからずという心が当然心の裏に生み出されます。
そうやって、悪が生まれます。←もの凄い乱暴な展開です(笑)

本来の生命からいえば、善悪はありません。
生態系があり、自ずから定まるヒエラルキーがあるだけです。
そこで決められるヒエラルキーには、価値のヒエラルキーではありません。
役割分担のヒエラルキーです。

善悪というのは、「我」の意識によってはじめて作り出される価値判断です。
「自分にとって」都合がいいか、悪いかです。
「我」によらない善というのもありますが、そこには「悪」というものは存在しません。
多少お酒が入っているので、詳述はしません、できません。

要するに、善というのは善を追求する道があるだけです。
悪というのは悪を追随する道があるだけです。
善という光があり、悪という煌くネオンがあるわけです。

善とは何か。
簡単です。
喜ぶことです。
笑顔になることです。
感謝でイッパイになることです。

そうできないのなら、そうできない人生を選んでいるだけです。
するとすぐ病人ならどうするのか云々を言い返そうとする人がいます。
病人が笑顔を浮かべることはできないのですか?
病人は感謝することはないのですか?
そう聞きたくなります。

自分の苦しみなんか誰にも分からないと嘆く人がいます。
それなら、あなたはあなた以外の苦しみを分かるのですか、と聞きたくなります。
fdghs
病人でなくとも、生きている限り苦しいことだらけに決まっています。
生きているというのは苦しいものだとお釈迦様が言っている通りです。
その苦しい中で咲かせる花だからこそ尊いのだと、ぼくは思います。

明日から懐かしき東京です。
楽しんできます。

化繊

2008年11月15日 | 雑感
あれほど酷い予感がしていた風邪が一晩で治りました。
昨日は飲まないでおこうと思っていたのですが、しこたま飲んだのでこりゃ風邪は長引くだろうと諦めていました。

ポイントは布団です。
寒くなったので毛布をかけていたわけですが、それが化繊で暖かいことは暖かいのですがどうも寝心地が悪かったです。
フリースを着たまま寝るとダルさが残るのは気になっていましたから、そのせいかと昨夜は綿入りの布団と敷布だけで寝ました。
そうすると、なんとまぁ快眠でした。

化繊の毛布をかける前は、綿のタオルケットだけでしたので問題なかったのですが、おそらく化繊の毛布というのは、
磁気的に問題があるのだろうと思います。

麻とか絹とか綿が身体にいいのは確かでしょう。
山小屋なんかの湿った汗臭い綿入りの布団ではぐっすり眠れます。
化繊は活動中の身体を保温したり、湿気を逃したり、色々な利点があるのでしょうが、
睡眠中の身体を覆うのには適していないのでしょう。

布団で風邪が治るというわけではないのですが、自然素材の布団で寝ることは身体的にはとても重要なのだと思います。

すくすく

2008年11月14日 | 雑感
風邪を引いたみたいです。
なんか重くなりそうな予感です。
娘にうつるといけないので、嫁さんの実家にしばらく行ってもらいます。
みなさんも気をつけてください。

子供を持つ親は誰でも自分の子がすくすく育つことを心から願うでしょう。
変な脇道や迷路に迷い込まないように願うでしょう。
できるならば、心が傷付けられたり、誰かと諍いを起こしたり、生きる目的を失ったりしないよう、願うでしょう。

誰もがそう願う親に育てられ、今があるわけです。
でも、ほとんどの人が道に迷いっぱなしだし、無闇に傷つけ傷つけられ、生きる目標を見失うなんてことは、
現実の身の周りの人々を見渡してみるとごろごろしています。

現実の世界は、親が子に願うようなすくすくと育つ道が用意されているわけではありません。
前に進もうと思えば、障害だらけだし、足を引っ掛けられることもしょっちゅうだし、適切な道標も、
ガイドも見つからないことがほとんどです。
若いうちには、何故すくすくと生きられないのかが上手く呑みこめません。
なにも悪いことをしているわけではないつもりなのに、思い通りに物事が進みません。
思い通りに物事が進まないのは、ひょっとして親が悪いんじゃなかろうか、学校が、社会が悪いんじゃなかろうかと、
他人のせいにしてみたりもします。

そのうち、頭の整理が上手くいかないうちに、社会に送り込まれます。
すくすく育つはずが、怒鳴られ、叱られ、意味なく肥大していたプライドがズタズタにされます。
救いは、周囲の人間のほとんどが、そんな感じで社会というものに扱われている姿です。
この段階に到っても、親が子にすくすく育って欲しいという幻想に浸っていますと、子は社会に一人立ちすることができず、
社会から離脱し、やがては一人立ちできない苛立ちから親を恨むようになります。

親が子がすくすく育つことを心の底より願うのは当然です。
寄り道や迷路や甘い道に潜む害毒に触れて欲しくないと切に思う気持ちは当然です。

でも、そんな親の思いに係わらず、人は害毒を知ればこそ、それを飲んだときに服用する良薬を知るのですし、
絶望の闇に沈むことによって、人の何気ない親切が発する光に気がつけるようになります。

ぼくも一人娘の親として、娘が迷路や闇にさ迷い歩き出した時、必要な冒険なのだと割り切れる自信はありません。
割り切る必要もないのかもしれません。
親の思いと裏腹に娘が闇の世界に沈んだとしたら、思い切り取り乱してやればいいのかも知れません。
そういう姿を見せることも、いずれ人の親になる娘のためなのかもしれません。

実際には、どこにもすくすくという道はないのでしょう。
ごつごつと困難が続き、悲しい、苦しい、嫌だ、退屈だという感情の沼に取り囲まれて人は道を歩み続けます。
だからこそ、ほんの時折前方に広がるお花畑や、青空や、神々しく雪を頂いた山容を見たときに、
心が打ち震えるのでしょう。


厳しさ

2008年11月13日 | 雑感
ここ数日、雲ひとつない青空が広がっています。
言葉で形容できない青です。
こういう空を見ていると、心がむずむずします。
なんとかどうにかして、この青に溶け込んでしまいたいと想うのです。
言葉による表現は、溶け込むためには壁にしかなりません。
言葉を一切介在させず、溶け込みたいと思うのです。
言ってることが変ですね(笑)

ということで、なかなか大変です。
新店舗の感触はいいのですが、国民金融公庫の担当者が呆れるくらいの資金のなさですから、そりゃ厳しいです。
事業におけるお金の厳しさというのは、有無を言わさない厳しさですから、鍛えられます。
本当は、お金なんかに鍛えられたくはないのですが、そう思えば思うほど、お金は厳しくなります。
そういうものなのです。

でも、めげない自分がいます。
根性論ではどうにもできないお金の問題を、どうやって解決するか。
解決する、と決めるだけです。
話にならない話ですね(笑)

でも、まんざら嘘ではないのですよ。
自営業というのは、来月がどのくらい売り上げがあって、どのくらい利益があるかというのが、
全く予想の立てられない世界です。
特に、ぼくのところが扱うような趣味性の高い商品は、売上げの計画性というものを拒絶します。
いくらいい商品を仕入れたところで、それをいいと思う人が現れなければ、それまでです。

こういう商売をしていますと、自分の気の持ちようがすべてであるということを体感します。
売ろうという気は何の役にも立ちません。
自分に都合のいい気なんていうのは、お客様からみれば知ったことではありません。
売ることにより、お客様との間に何が生まれ、どう育てていくのかということにまで焦点を合わせる必要があります。

ウソくさ~と思うでしょうが、本当です。
売上げ計画を立て、仕入計画を立て、日々のスケジューリングを合理的なものにしていくということは、
基本中の基本ですし、無駄になることは決してありませんが、それだけで売れるほど甘くはない時代です。

と、基本中の基本を無視しまくるぼくが言っても説得力はないのですが、なんというか、商売が「厳しさ」という
ことから抜け出せない状況がどうも納得できません。
厳しくてもちろんいいのです。
厳しくとも、「楽しさ」があるはずなんです。
それを目指して、なんとか生き抜いていきます。

それ

2008年11月10日 | 
溢れ出るもの
常に溢れているもの
無尽蔵に湧き出るもの

すべての時空に充ちてあるもの
「空」と呼ばれ「無」と呼ばれ、「ありとしあるもの」と呼ばれるもの
形なきが故に、いかなる形をも採りえるもの

本源のエネルギーであり、末端のエネルギーであり、永遠に交互に還流するエネルギーでもある
所有はできず、誰のものということのないエネルギー
光の中にはむろんのこと、闇の中にも貫流しているエネルギー

断ち切ることができない流れ
貯めておくことができない流れ
枯れることのない流れ

それは「想い」に寄り添う
「想い」が肯定すれば光となり、否定すれば闇となる
肯定されようが否定されようが、無尽蔵に湧き続けるもの

それは摂理とよばれるもの
生命と呼ばれるもの
神と呼ばれるもの

そして、それは人
それは空
それはすべて

宗教心

2008年11月06日 | スピリチュアル
ダライ・ラマの講演会を主催したお坊さんの最初の挨拶は次の言葉から始まりました。
「宗教心のない教育は、賢い餓鬼を作る」

過激な言葉ですが、その通りだろうと思います。
金融工学とやらを駆使して何億というサラリーをなんの疑問も無く追求する姿は、まさに餓鬼でしょう。
ポイントは「何の疑問も無く」ということです。
多少の疑問は感じるのでしょうが、理不尽さを押してでも、自己の利益のみを追求するというのは、
餓鬼の姿だと言われても仕方のない姿です。

経済活動をしているだけだと開き直るのは簡単ですが、自らの行為に疑問を感じることが出来るか否かが、
やはり「宗教心」の有無なのだと思います。

宗教心というのは、なにも特定の宗教の教派や教条に拘ることではありません。
すべての生命は支えあい、循環し、助け合うことこそが人間の叡智であるということを教えることです。
生命という尊いエネルギーに感謝することを教えることです。

コンピューター上の数字を弄くりまわして、石油を高騰させ、食料を高騰させ、
経済力のない人々の生活を脅威に晒し、一転して暴落させれば世界中の社会不安を一気に煽る。
どこにも叡智も感謝もありません。
生命の舞台である地球上の生きとし行けるものを不安に突き落とすだけです。

「賢い餓鬼」
その賢さが武器になる世の中です。
日本の状況も、賢い餓鬼が起こす事件や不祥事にまみれています。
汚染された米を売るだとか、組織的に公金を使いまわすだとか、教師が教え子に欲情を催すとか、
その手の話に充ちています。

宗教心というのは、もちろん法律や教条ではありません。
なにをして良いか悪いかを己の叡智で抑制・判断できる心を涵養することです。
極めて曖昧な心ではあります。
曖昧だからこそ、日々自分のする行為の是非を問いかけ続けることの契機となるのが、宗教心です。
法律というのは、心に問いかけるものではありません。
法律に触れなければ、誰がなにをしようと問うことが出来ないのが法律です。

法律に触れなければ、なにをしてもいいじゃないかという発言に抗する言葉というのは、法律にはありません。
自分がよければいいじゃないかという言葉に抗することが出来るのは、宗教心です。
また、そうでなければ、宗教心と呼ぶ必要もなくなります。

宗教心とか道徳心ということが、日本の教育の現場から締め出されようとして、久しいです。
誰よりも苦しむのは、そういう中で世の中に放り出される「賢い餓鬼」なのではないかと思うのですが。

ダライ・ラマ

2008年11月04日 | スピリチュアル
今日はダライ・ラマ法王の講演会に行ってきました
ネットで偶然見つけた講演会でした。
メディアは相変わらず法王には冷たいです。

高野山の僧侶による御詠歌から始まりました。
高野山の僧侶の声明は定評があります。
法王も身をゆすって聴いており、流石でした。

ここ数日「ヒマラヤ聖者の探求」を読んでいました。
全五冊のうち、三冊目まで読んでいました。
キリストが現れ、仏陀が現れ、神通無碍の聖者たちが次々と現れます。
凄まじい本です。
しかしながら、これを信じないわけにはいかない本です。

で、そういうこの日に顕れたのが、ダライ・ラマ法王です。
講演の内容は省きます。
いずれ公になるでしょう。
あくまでも精力的で、ユーモアを忘れず、話す相手に相対して合掌を欠かさない人でした。
その姿に思わず涙しました。
法王の主張の通低するキィは「compassion(慈悲)」でした。

最後の最後に、ある出来事がありました。
質問の時間はとうに過ぎ、司会者も終わりを締めくくろうとしていた時に、法王は「もう一つの質問を」と促したのです。

そこで、法衣を着た僧侶と思しき人が質問に立ちました。
「動物を殺すなということですすが、それは動物を殺すことを生業とする者にとっては大変心が痛むことです(長い間)、
私が言いたいことは、そういう者たちに法王の慈悲を下さい」

法王は、一般的には生き物を殺生することはいいことではないと言い、それを職業とするものは生きるためにはで仕方がないことだ、
肉屋は肉屋で生きていくしかないみたいなことを言って、笑ってその質問をやり過ごそうとしました。

質問した僧侶の顔はこわばったままです。
スタッフの一人が、法王に何らや耳打ちします。
法王は驚いたように聞き返します。
その間、質問した僧侶の翻訳が通訳によってなされてる間に、法王は合掌して何かを念じていました。

通訳の翻訳が終わり、法王は口を開きます。
「私も機嫌がいいときは、腕に止まった蚊を息で吹き払います。でも、機嫌が悪い時は、パチンと叩き殺すことがあります。
そういうときには、観音様に許しを請いて、真言を唱えます。生業で生き物を殺さざるを得ない人たちは、
寺に行ってその筋の供養をした、何らかの救いになるとは思います。合掌」

想像以上に、陰日なたのない人でした。
過密なスケジュールの中、反応の薄い聴衆に向って、ひたすら勢力の限りを尽くしていらっしゃいました。
精神の種子を蒔くというのは、本物でなければ出来ないことだと、つくづく思いました。