風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

一人の一歩

2008年05月31日 | スピリチュアル
一昔前までは、世の中にはたくさんの情報が隠されていたように思います。
でも、今は必要な情報は全て出揃った気がしています。
後はどの情報とコンタクトし、取捨選択していくかの段階なんだと思います。
だから人によって歩く道が全然違ってくるというのありえる話です。
獣のように人を欲望の対象にするものも出てきます。
聖人のように世の片隅でひっそりと生きている人もいるのかもしれません。
もうどちらがどうという段階は過ぎたように思います。
好むと好まざるとにかかわらず、自分で道を選択する時代が本番を迎えて来ているように感じます。

こういう時代に入りますと、「説得」とか「啓蒙」というのは不毛になります。
Aさんに有効なことが、Bさんには有効でないということが普通になって行きます。
AさんはAさんの道を究めるしかなく、Bさんも然りです。
情報を欲しがられたら、惜しみなく与えればよいのですが、それ以上の介入は難しくなっていくでしょう。

なぜこんな風に個人の進路の選択を迫られているかと言うと、マス社会の流れが行き場を失って、
大きな濁った澱みになりつつあるからでしょう。
タカを括ってなんとかなるさで生きていると、澱みにはまってにっちもさっちも行かなくなるかもしれません。
政治はその場限りのやっつけ法案で急場をしのぐことばかりで、未来への展望などとうの昔に失っています。

これは別に悲観的な話ではありません。
「個性、個性」と口先だけでもてはやしながら、その実どっぷりと体制漬けの人間を大量生産してきた時代よりも
ずっと健康的でさえあります。
その時代は個性さえ大量生産できました。
ただ、今度はその代わり、自分の生き方は自分が責任を取るという強い覚悟と勇気が必要になってきます。

そう肩肘張った話でもありません。
自分の手で自分の喜びを作っていくしかないということです。
極めて当たり前の話なんですが、まぁ、色々な意味での網の目ががんじがらめに張り巡らされていた時代には、
意外と難しかったです。
今でも網の目は張り巡らされて入るのですが、大分タガが緩んできたという感じでしょうか。

さて、自分の目の前に広がる風景をどうみますでしょうか。
環境破壊の解決のめども立たない先行き不安な重苦しい風景に見えますでしょうか?
それとも、大転換のときが来たとワクワクするでしょうか?
メディアを頼っても、本を読んでも答えはありません。
一人一人が、それでも先に一歩一歩を歩みだすしかありません。

どんと大きな一歩を踏み出しましょう。

夢うつつ

2008年05月30日 | 雑感
ご無沙汰してしまいました。
決算やら風邪やらなんやらで、てんてこ舞い(←死語)でした。

決算はホテルに2日間こもって怒涛の勢いで書類の山を片付けました。
で、家に帰ったら、妻と娘が一晩中ゲホゲホと部屋にバイ金を充満させ続けます。
一時間ほど一緒に寝ているうちに、喉がイガイガし始めました。
あぁ、これはもらったなと観念しました。

で、案の定次の日起きたらくらくらします。
声が出ません。
店にいけそうもないと電話して、葛根湯をのんで寝ました。

外は気持ちのよい空が広がっていますが、ぼくは毛布に包まって熱で頭がふわふわしています。
ちょうどいいやと思って、色んなイメージを浮かべてみます。
面白いほどスルスルイメージが浮かびます。
なんだか楽しくなってきます。

そのうち、光の玉のイメージが勝手に出てきます。
ふんわり地上に降りてきます。
その横に、また上から光の玉が降りてきます。
二つの玉がほんの一瞬探り合ってから、二番目の玉はす~っと虚空に消えます。

どうやら、最初に降りてきた光の玉がぼくみたいです。
で、次から次へと順繰りに光の玉が降りてきます。
輝きの強いの、濁ったの、弱々しいの、色んな玉が順番にぼくのそばに降りてきては、探って、消えます。
おもしろいなぁ~、と熱に浮かされた頭で考えています。

それから、色々なイメージで遊びました。
「ああ、こうやって身体を癒せばいいんだ」と納得するイメージもあったのですが、
詳細はきれいさっぱり忘れてしまいました(笑)
でも、次の日からはとても元気です。
特に心が元気になりました。

ま、そんな感じの数日でした。

土いじり

2008年05月20日 | 雑感
定年後はのんびり土いじりでもしながら自然の中で暮らそうと思っている人は多そうです。
でも、土いじりにしてもなんにしても、自然の中で暮らすというのは大変体力が要ります。
炎天下での雑草抜きや、限られた期間内に収穫しなければならない収穫時や、なんやらかんやら結構重労働です。
大根でも、みかんでも、竹の子でも、数がまとまれば重たいものです。
そうして、大変な思いをして実らせた収穫も市場に出せば手間賃程度です。
クーラーの効いたところでデスクワークしていた人には辛い作業になるでしょう。

それでも3ヶ月、半年と筋肉痛や日焼けから逃げずに自然と格闘していけば、身体は慣れるでしょう。
あとは過度な効率意識から自由になれるかどうかですね。
工場で製品を生産するのなら、無駄のない効率性の追求は可能ですが、自然相手では相手のリズムに合わせるしかありません。
そこでイライラしてしまったら、身が持たなくなるでしょう。
農家の方の動きを見ていますと、淡々としかも着実に粘り強く作業していますね。

なぜこんなことを書いているかと言うと、体力の低下が本当に心配になってきました。
手軽なキャンプすら疲れ果ててしまいそうです。

食糧不足というのは間違いなく世界中で顕在化するでしょう。
そのときは誰にも頼ることができません。
狭い土地でもいいから、野菜なり何なりを育てるスキルと体力があると不安が大幅に軽減できると思います。
野菜というのは実を付け始めると面白いほど実をつけます。
取れたての生野菜が春から秋まで楽しめます。
冬に備えて、漬物を作るスキルも覚えたくなるでしょう。
こういうことを考えるのは楽しいのですが、なんせ体力が不安になってしまいました。

ということで、今日はお酒を控えます。



存在

2008年05月19日 | 
どこにでも必ず人の喜ぶものがある。
どこにでも必ず人の喜ぶ食べ物のがある。
どこにでも必ず人の喜ぶ言葉がある。

だれかが遠いところからあれがいいこれがいいと囁き続けるが、
大きくかぶりを振って振り払えばいい。
どこにでも必ず誰もが喜ぶ全てがある。

人ができることは喜ぶこと。
満面の笑みを浮かべて受け取ること。
差し出されたものには必要なすべてが詰まっている。

足りないと思うのはあなたの心が足りないから。
足りないものなどなにひとつ存在することはない。
足りているからこそ存在になるのだ。



四川大地震

2008年05月17日 | 雑感
中国の被災地の映像を見るとやり切れませんね。
日本の救援隊が徹夜で掘り出した遺体の前で黙祷を捧げる映像もやり切れません。
天災に対して不平を言っても詮無いことですが、あれだけ広い国家になりますと、人災的な二次災害、三次災害が広がりそうです。
もう少し日本への救援隊への要請が早ければと、救援隊の人たちは思っているそうです。
二次災害の疫病とか、マラリアとか、家を失った人たちへのケアも、早ければ早いほどいいそうです。

災害時に一番必要なのは「水」です。
飢えよりも渇きというのが一番きついみたいです。
飲料水の豊富な日本人には一番想像しがたいことなんでしょうが。
飢えというのは2~3日は持ちそうな気がしますが、飲み水が一切ないというのは考えただけでも苦しそうです。

都市部などで水道管などが断裂した場合、もう水の問題というのは深刻です。
都市部を流れる生活汚水て汚れきって下水みたいな水は煮沸しても飲む勇気がなかなかわかないでしょう。

中国の辺境の町でももうすでに自然の力を頼むことはできないのが今というものなのでしょう。
街中がコンクリートの瓦礫に埋まって、なすすべもなく人々は路頭に迷います。
コンクリートの瓦礫はなにひとつ人々に恵みを与えることができません。
復旧には膨大な対価を支払わなければいけません。

すべての人々が、このような生活システムで生きていていいのかを考え直すときなのだと思います。

江戸時代というのは何度も大地震に襲われました。
でも、しぶとく再興しています。
そこに学ぶべきヒントがたくさんあるように思います。





10周年

2008年05月16日 | 雑感
昨日は当社の設立10周年でした。
フランス料理店でささやかなパーティーをしました。
言うまでもなく、会社なんていうのは、出会う人々一人一人とのご縁で支えられているものです。
ありがたいことですが、この会社を支えようとする気持ちがお一人お一人から失われた時に、会社はあっけなく倒産します。
そういう厳しさをきちんと自覚した上で、「楽しさ」を提供していきたいと思います。
会社を存続させることが目標ではありません。
存続を支えてくださるのはお客様です。
そうお客様に思っていただく何かをこの会社が提供し続けられるかどうかだけです。
格好をつけた言い方ですが、でもほんとそれが事実です。
経営者やら従業員の思惑やらで会社を存続させられるほど今の世の中甘くはありません。
支えてくださるすべての方々、有難う御座います。

というわけで、11年目がスタートしました。
節目ですが、特別なにかを考えているわけでもありません。
ことらが考えたことをそのまま実行する力もありませんから、流れの中でできることを積み上げていくだけです。
流れを読み間違っても、見失っても、命取りです。
だからと言って、萎縮して守りに入っても、流れは見る見る衰退します。
流れを信頼し楽しむということしかできません。
それでいいのだと思っています。

さて、決算に取り掛かりますか(笑)


絶食

2008年05月13日 | スピリチュアル
昨日はある方から面白い話を聞きました。

真空中にある仕方で電気を流すと、真空中から水素(H)が発生するのだそうです。
水素というのは一番シンプルな構造を持つ原子で、一個の原子核と一個の電子を持っています。
原子核とその周りを回る電子の数が違うと、違う元素になりますが、最も基本になるのが水素ということです。
その水素の持つ原子核や電子の数を何らかの方法で組み合わせを変えれば、異なる元素が次々とできることになります。
実際の話としては、水素にも三種類あるらしくて、そう簡単ではないのですが、ま、簡単に言ってしまえばそういうことです。

つまり、すべての物質は水素(H)に還元できるということですね。
その水素が、真空中から電気の刺激によって生まれ出てくると。

これはもう、無の状態から物質が無尽蔵に湧き出てくるということです。
「電気」という刺激が必要ですが、電気の代わりに「想念」でそれが可能だとすれば、サイババの「物質化」です。

近頃、ちらほらと「食べない人」という噂を聞くことがあります。
水しか飲まないだとか、一ヶ月以上も食わず飲まずだったとか、そういう話は身近にもあります。
今までの概念からいうとありえない話です。
で、「全く食べないで生きている人という話を聞くことがありますが、そういうことなのですか?」と聞いてみました。
「その通りです」という答でした。
そういうことというのは、水素(H)をすべて思い通りに操って、必要な元素を体内で作るということです。

これは信じろという方が無理でしょうね。
でも、ぼくは一理も二理もあるかな、と思っています。
眠っている遺伝子というのはその辺りの管轄かなと思ったりします。

逆に言いますと、その辺りの管轄の遺伝子が目覚めますと、もう自由自在になるということです。
作りたいものは自ら作れるわけですから、誰かのものを奪う必要もなければ、奪われることもありません。

科学的には何の説得力もない話です。
絶食という体験をしてみると面白いかもしれません。
毎日、うどんと納豆ご飯という経験はありますが、絶食は経験ありません。

でも、肉を食べたいと思うのなら肉を食べればいいのだとは思いますよ、念のため。
ぼくも今朝なんだか知りませんが、ベーコンが無性に食べたくなって、食べましたから。
何がいい、何がダメ、ということからの解放ですね。


地震

2008年05月12日 | 雑感
中国内陸部でかなり大きな地震があった模様ですね。

う~ん。
コメントは控えますが、ミャンマーのサイクロンといい、今回の地震といい、最終警告のような気がします。
こういうときには怖れるのが一番ダメです。
恐怖というのは恐怖の対象を引き付けるエネルギーを持ってしまいます。
死ぬ時は死ねばいいだけですから、今どんな意識を持てばいいのかに集中するといいです。

意識の可能性を信じきれるかどうかが試されているのだと思います。
人の意識というのがとてつもないパワーを秘めているということを信じきれるかどうか。

なんいせよ、震源地に近い成都に住む1000万以上の人々が気になります。


次元

2008年05月11日 | 雑感
今日は晴天、風はからりと肌寒い位に涼しく、気持ちのよい日です。
決算作業をしようと店に出てきましたが、手が付きません(笑)

時間というのはこの三次元にしかない概念らしいです。
おそらく一次元というのは時間も空間も他者もない世界です。
二次元は時間も他者もいませんが、空間だけがあります。
三次元になりますと、自他の区別が生じ、時間の流れと空間の広がりが生じます。
四次元、五次元になりますと、三次元の人間が語る言葉がなくなります。

この辺りは数学者に聞いてみたいのですが、一次元が点だとします。
二次元が線だとします。
三次元は立体になります。
四次元というのはその立体の次元にどういう軸が加わるのでしょうか。
おそらく立体そのものが変化する軸なんだろうとは思います。
その軸は時間でも距離でもないとすればなんなのでしょうか。

意識という軸がありそうな気がします。
意識によって自在に変容する立体。

こうなると分けの分からない話になりますね。

ということで、結局決算には手が付かない一日となりました。







アセンション

2008年05月09日 | 雑感
アセンションという言葉かその筋の世界では大いに語られています。

アセンション(ascension) - 上昇、即位、昇天を意味する英単語。 by Wikipedia

ずいぶんとアッサリとした定義ですが、それ以上はなかなか説明が難しいことは確かです。
この地獄的様相を呈してきた現世からの離脱というような観点からの見方が多いように感じます。
ようするに、そこから抜け出したいということです。

僕はそうは思いません。
この世がこのまま天国になる思考回路を持つことができるようになることが、アセンションだと思います。
死ぬことが辛い、貧乏が辛い、好きな人と一緒になれないことが辛い。
古くから人の心の中に畳み込まれた不幸の回路です。

その点、禅宗というのは画期的な視点を提供していました。
「すべて捨ててしまえ」という視点です。
死ぬ時は死ねばいい、というだけです。
不幸の回路の入り込む余地がありません。
もちろん禅宗というのは、すべてを捨てればいいという次元で終わるはずもありません。
「利他」という境地が、仏の境地と一体となる鍵だとしています。

不幸の回路というのは必ず「自分」というものを中心に考える時に発生します。
逆に言えば、「自分」というものを外した時に、不幸というものはありえません。
その「自分」というのものをどうでもいいと捨てるときに、「不幸」というものは存在しえなくなります。

人はせっせと自分が不幸だと嘆く材料を見つけたがります。
如何に自分が恵まれ、助けられているかを知ることが、アセンションだとぼくは思います。

これからおそらく大変な時代に加速度的になっていくでしょう。
本来は、時代がどうなろうが関係ありません。
そのなかで、自分がなにを選択するか。
なにを感じるか。
それだけが人に託されている真実だとぼくは思います。

真実というのは極めて個人的でもありますよ。



心のままに

2008年05月08日 | 
人は心にもないことを言う
心にもないことを言うから、心が空っぽになる
心にもないことを言うから、人を傷つけ、自分も傷つく

心にあることを言おうとすると、人は口ごもる
自分の心を信じることを、いつかの昔にやめてしまったからだ
自分の心のつぶやきや叫び声に、耳を貸すことをやめたからだ

心が心のままなら空の色は空の色
風の音は風の音
果てしなく広がる祝福された空間が目の前に広がるはずなのに



連休

2008年05月07日 | 雑感
今年の連休は天候に恵まれましたね。
特に昨日は見事な青空の下を涼しい風が吹きぬけ、完璧な行楽日和でした。
行く先々でツツジが満開でした。

休みの間、毎日近場の穴場スポットに娘を連れて出かけました。
探すといろいろな場所が隠れているものです。
大抵は行政がこっそり作った緑地やら植物園やらでしたので、なんというか無駄に贅沢な空間でした。
外食するわけでもありませんから、安上がりでした。

一歳半になる娘は片言の言葉を話し始めています。
ママ、パパはもちろん、飲み物の自動販売機を見るたびに「あっ、ジューシュ(ジュース)!」と叫びます。
皆さん気にかけたことがないでしょうが、車で走ってますと自動販売機の数というのは驚くほどです。
片田舎のまさかこんなところにという感じの物陰にも自動販売機網は張り巡らされています。
娘は決してそれを見逃しません。
数秒ごとに「あっ、ジューシュ!」と叫びます。
対象を認知して、言葉に出して、その発した言葉を誰かに認知してもらう喜びで溢れかえっています。
ですから、「あっ、ジューシュ!」と叫んだら、それを無視してはマズいのです。
「ジュースあったねぇ、よく見つけたねぇ」と褒めることで一連の行為は完結します。
それが飽きるまでの15分間ほどは、「あっ、ジューシュ!」「ジュースあったねぇ(笑)」と繰り返す必要があります。

昨日は海にも連れて行きました。
ベタ凪でしたので、砂浜に下りて、水に入るよう促しましたが、最初は後さずりしました。
ぼくが抱っこして海にジャブジャブ入って、足で波を蹴上げたりしているのを興味深そうに見ていました。
波べりに戻って砂の上に娘を下ろしたら、今度は恐る恐る水の中に入って行きました。
しゃがんで手のひらで水をぱちゃぱちゃしています。
そろそろいいかなと抱っこしようとすると、ぎゃーぎゃー抵抗してすっかり水遊びに夢中になっています。
お陰でズボンやらオシメやらがすっかりビチョビチョになりましが、なんのそのです。

こうやって人の親になると他愛もない話で日々が埋まって行きます。
親も親バカと言われるうちが一番幸せな時なのかも知れません。

ということで、天気に恵まれた連休も終わりました。
いよいよ恒例の決算に取り掛からなくてはなりません。
こればっかりはひたすらやりとおすだけで、一切のコツとかなんとかいうのがありません。
また書類の山と格闘です。

闇の勢力

2008年05月02日 | 雑感
明日から4連休ですね。
一年で最も気候が安定している休日です。
戸外で思う存分リフレッシュしてください。
ぼくは娘を連れて近場を散策するくらいになりそうです。

投機マネーの矛先が燃料と食料に向けられていますから、この先は大いに剣呑です。
世界中の人々の生活必需品が投機対象になると、その値上がりに耐え切れない貧乏な国から順番に、
世情が不安定化して行きます。

アメリカの紙幣というのは、アメリカの連邦準備銀行(FRB)が発行しています。
1913年、ロックフェラーら財閥企業家が主導し設立したものですが、実態は「連邦」とは名ばかりの、
単なる私有銀行です。
私有銀行が紙幣を発行し政府に有利子で貸付け、その利子の支払いのために政府は国民から税金を取ります。
その私有銀行のネットワークは世界中に網の目を張り巡らしており、紛争があればその当事国に戦費を貸付け、
利子を懐に入れます。
紛争が長期化、深刻化すればするほど、当事国の資金の需要は多額に膨らみ、更に利益は膨らみます。
先の両大戦、ヴェトナム戦争、イラク戦争などもそういう勢力の後押しがあって引き起こされた、
という情報がネット上ではかなりの精度で語られています。

厄介なのは、その勢力は巨大な資本力でマスメディアも押さえ込んでいることです。
だから、こういう情報は人々には伝えられません。
陰謀論として一笑に付す人が少なくありません。
時々、ガス抜きのために、この構図に影響がないような形でスキャンダラスな陰謀が意図的に暴露されます。

ま、これは語ればキリがないし、興味ある方はネットで探せばいくらでも出てきます。
デリカプリオ主演の「ブラッド・ダイヤモンド」という映画がありましたが、今アフリカで何が起きているのか、
が垣間見られます。

ぼくが言いたいのは、その勢力を糾弾し、戦うことではありません。
糾弾、戦うという姿勢を取ったとたんに取り込まれるか、抹殺させられるようです。
一国家の問題でもありません。

ぼくはなんとなく思っているのですが、今世界中で起こりつつある中国バッシングというのは、
次の展開への布石のような気がしています。
今までのやり方から言いますと、次々と中国が苛立ちそうなことを仕掛けて行きます。
それに耐え切れず、中国が暴発するのを待つのです。
そして暴発した暁には、中国を悪者に仕立て上げ、世界中が連合を組んで・・・

さて、日本に住む我々がどうしたらよいか、です。
中国は隣国ですから影響がないわけがありません。
国連などに参加しても取り込まれるだけです。

馬鹿げた話に聞こえるかもしれませんが、昔の日本を取り戻すしかありそうもありません。
ここで読むのをやめる方が大半かもしれませんが、あえて書きます。

日本というのが幕末の時、内乱状態なのに列強を相手に独立国足りえたのはこれはもう奇跡です。
武力でもって本気で列強にかかって来られたら、そりゃひとたまりもなかっただろうと思います。
独立を守れた理由は2つあると思います。

1.西洋の示す物質・物量に動じなかったこと
2.文部両道の武士道

1.は日本はまだまだ西洋に比べれば貧しいとはいえ、質の高い文芸・商品があったこと。
  西洋の暮らしぶりに比べて、なんら日本の着物、食器、絵画をはじめ文化的生活様式に遜色がなかったこと。
  逆に、日本のそれは、ゴッホをはじめ大きなインパクトを西洋に与えた。

2.人のあり方として、西洋人と接した日本人がなんら卑下する理由を見出せなかったこと。
  簡単に言えば、サモアの誇り高き酋長と同じだったわけです。
  戦うなら徹底的に戦う覚悟は持っていましたし、もとより寛容の心は養っていました。

ちょっと疲れましたので、今日はこの辺で。


パパラギ

2008年05月01日 | 雑感
誰かに借りたまま放っておいた「パパラギ」を昨夜本棚に見つけ、読みました。
薄い本で一時間ほどで読みました。
「パパラギ」とはサモア人から見た白人種のことです。
20世紀初頭、サモアの酋長ツイアビがヨーロッパを訪れ、西洋文化の限界と悪弊を鋭く見抜いた本です。

時間に追われ、労働に追われ、機械に追われ、青白い不健康な顔をしているのがツイアビが見た西洋人でした。
一部のものが金を独占し、その金の力で人々をそのような境遇に追いやり、
だれもその事態を異常と思わぬ卑劣で汚らわしい世界が彼にとってのヨーロッパでした。

もう、そのとおりですね。
背後で一部のものが新聞を通じて大衆を操作しているところまで見抜いています。
不必要な情報で頭を一杯にし、強迫観念のように「考える」ことを誇り、機械の力で物を作り続けます。
ツイアビから見たら悪魔の仕業としか思えません。

サモアでは食事は自然が充分に与えてくれるもので、独占したり人よりも多く持ちたいと思う対象ではありません。
したがって、誰かのものを「盗む」とか、自分のものだとか所有を主張する発想がありません。

南国の風土とヨーロッパの寒冷な風土の違いだと説明されそうですが、
アイヌやエスキモーやネイティブ・アメリカンなどの風習を見てみますと、やはり助け合いが普通です。
やはり西洋流の金銭システムと労働の搾取からの強迫観念なのだと思います。

まぁ、今ではすっかり日本もそういう西欧システムにどっぷり浸かってしまいました。
いい悪いの議論をはるかに超えて、進行しています。
共同体は消え、互助精神も消え、自然も消え、好き嫌いに関わらずお金の威力が増しました。

一度は日本にもキリスト教宣教師の先導によって西洋文明が日本に入りかけましたが、
八百万の神々のご加護か、根付かずこの国土から締め出されました。
それが明治維新になって新しもの好きの日本人の気性もあいまって、急速に西洋文明が流入しました。
そして、先の大戦後、あらゆる精神的防波堤が一気に崩されて、お金第一の高度経済成長に突入して行きました。

そして今です。
政治家と官僚自ら率先して国民のお金を搾り取るような国になってしまいました。

誰かがけしからんとかそういうことではないです。
そういう流れに日本も乗ったということです。
そろそろその流れの行きつく先も見えてきているようです。

体制というのは人々の期待をエネルギー源とし、逆用して太るものです。
一人一人が、一人一人の選択の自由と豊かなイマジネーションを持っている一個の独立した人間になりましょう。
なぁに、大丈夫です。
人一人の力が解放されると、もの凄いらしいですよ。