風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

疑惑

2007年02月28日 | スピリチュアル
昨夜は淡路に一緒に行った仲間とフグを食べに行きました。
フグといっても、エビスビールの飲み放題付きで、5千円です。
フグよりも、飲み放題に釣られてネネさんが企画した食事会です(笑)

淡路での神事の写真が出来上がっていましたが、強烈な光が写っていました。
神社な聖地で光が写るのはもう珍しくもないこととなっていますが、その光がなんなのかは興味があります。
やはり霊能のある方でないとそれは分かりません。
そのうちわかるでしょう。
光ではない妙なものも写っていたので、それも正体が分かるでしょう。

その飲み会に関西から来たゲストの方も参加していました。
ネネさんに合いに来て、急遽食事会にも参加することになったそうです。
話はすこぶる面白かったです。
滝行を30年以上もしていたのだそうです。
神様ごとにも非常に詳しい人でした。

でも、後半になって様子がおかしくなってきました。
あるものに投資をしないかという話になって行きました。
必ず儲かる話だというのです。
倍以上の儲けを保証すると言うのです。

一同、半信半疑の者、疑惑のてんこ盛り状態の者と二分されました。
変な雰囲気になりかけたその時、突然ネネさんが「次の店の予約の時間だから、もう行かなくちゃならないよね」とぼくにフリます。
「ああ、○○(店の名)ですね、もう行かなくちゃなりません」とぼくも嘘を言います。
要するに、無理やり話を中断して、お開きにしてしまおうということです。
結局、話を続けたがるその人を無理やり立たせ、駅まで強引に連れて行き、新幹線に乗せました。

話の前半までは、一同一人残らずその人の話に引き込まれていたのは事実です。
すごい人もいたものです。
非常に説得力のある神様ごとを話ながら、投資話(マルチ商法に近いものです)を持ちかける。
しかも、神様ごとを続けたくても、金銭的な問題で続けられない人がいるという前置きがあるから、もうあれです。

今でもその話の真贋は分かりません(と、言っておきます)。

それにしても、ネネさんです。
にこやかに嘘をついて、次の店も付き合うだのなんだのとごねるその人を無理やり立たせ、改札口でにこやかに手を振って「さようなら~」です。
無敵です(笑)

汚い焼き鳥屋に行きたいというネネさんたちと次の店に行ったのですが、30分ほどで閉店だということで店を追い出され、帰りました。

いろいろなことがあるもんです。




2007年02月27日 | 雑感
今朝はストーブも要りませんでした。
春ももうすぐです。

穏やかな大気の中に何かを感じれればいいのですが、その余裕があるでしょうか。
心を空っぽにすると言いますが、いつも心の中にはなにが詰まっているのでしょうか。
心配、不安、疑い、恐れ、迷い、妬み、全ては我欲、我執が創り出した幻だとある人は言います。
幻に振り回されずに、ぽかんとした気持ちで春の大気のなかに何かを感じることができる日が来るのでしょうか。

子供のころ時間がたつのを忘れるほど空を流れる雲を眺めていましたが、
その時の心にはなにが宿っていたのでしょうか。
楽しいという感情も自覚もなしに、ただ雲を眺めていたいから、雲を眺めている。

今なら、雲を眺めている自分の心理を探り、そんな姿を人にどう見られているかを気にし、そうしているうちに雲のことなど忘れてしまい、
照れ笑いをしてその場を去るのがオチです。
計算高く、不自由で、こそこそしています。
どの瞬間も、「自分」が顔を出します。
「自分」がどう思うのか、どう思われるのか、どうすべきなのか。
雲をみたいから見るが、いつのまにか雲を見る自分についての考察にすりかわっています。
まるで神経症にかかっているみたいです。

ぽかーんとしたいことをするというのが、こんなに難しくなってしまっています。

旅行に行っても落ち着かないという人がよくいます。
ぽかーんとできなければ、知らない土地にいったらなおさら神経を使うのでしょう。

どんな小さな行為をするのでも顔を出さずにはいられない「自分」というもの。
子供のころになにをするのでも夢中になることができた経験から言えば、その「自分」は後々の教育、経験で作られたものです。
何のために?

今はぽかーんとなれれば、どれほど楽しいかと思います。
酒飲んで、だらーんとなるのとは全然違う境地です。

すみません、ダラダラ書いてしまいました。

楽天的

2007年02月26日 | 雑感
今日、大手企業を退職し、町おこしや寺の活動を手伝っているお客さんが久しぶりに見えました。
行政のあり方を嘆き、寺院の堕落を嘆きます。
誰も責任をとらない行政システム、大学で履修した「仏教」で寺の跡を継ぐ「家業」としての仏教のあり方。
その嘆きはもっともであり、よく分かります。

役所に限らず、組織という組織が硬直し、責任どころか目的さえ見失っているような状況です。
出家も修行も悟りもない「仏教」というのが、そもそも「仏教」と呼べるのかどうかも、甚だ疑問です。

でも、だれかを責めている時間はもうないような気がします。
政治に期待できるようなシステムというのはもうこの国にはないような気がします。
政治の原動力が、正義でも人々の福祉でもなんでもない得体の知れない権力闘争にとっくの昔になっている気がします。
「仏教」が檀家制度と家督制度で保護され、すっかり力を失っているのは今更始まった話ではありません。
誰かが立ち上がっても、圧倒的な出来上がった本山システムには対抗すべきもありません。

政治の問題にせよ、宗教のあり方にせよ、このようなことはもうかなり前から問題視され、疑問視され、議論を繰り返してきたことです。
でも、だれがなにを言おうが、なし崩しにこうなってきたという事実が重く目の前にあります。
だれかに改革させようという望みは、ここまで来た状況では不可能ではないかと思います。

一人一人が当事者になるしかありません。
誰かがどこかで改革するだろうという時代は過ぎました。

当事者とは行政や寺の制度に文句をつけることではありません。
その文句を受け付けるような、行政や寺の主体者というのが今は見当たらないからです。
だれになにを言っても、ああそうですか、検討しなければなりませんねで、うやむやにされるのがオチです。
誰かが悪いというのではなく、組織という組織がそういう無責任体質にどっぷりと飲み込まれてしまった感があります。

では、なにの当事者のなるのか。
自分の周囲のありかた、起こることの当事者になることからはじめるしかありません。
ゴミ問題にしても、行政に任せていてる姿から、自ら考えゴミの削減・有効利用を考えたり、
地域に共同体を作るなら、自ら有志を募り、議論を深めて自らの手で立ち上げることでしょう。

仏教に興味があるのなら、自ら本を手に取り読み込んで、その本質を探るということです。
あれこれの宗派の違いを知るために、実際にあちこちの寺を回ることも必要となるかもしれません。

政治や宗教に限らず、自らが立ち上がり行動を起こすことがすべてであるといっても過言ではないと思います。
だれか有徳な偉い人が上のほうで適当にうまくやってくれるという時代はもうありません。
自分の生活を自分の手に取り戻さなければならないです。

世の中に流布される情報も自分で吟味する必要があります。
嘘や捏造や単なる煽動が溢れています。

嫌な時代になったかもしれませんが、自分を取り戻すチャンスであるともぼくは思います。
政治とか社会とかに身をゆだね、そのままうまいこと生きられる時代もあったのだと思いますが、今は身を安易にゆだねると、
どこへ連れて行かれるか分かったものではありません。

ぼくは全然悲観していません。
暗い気持ちにもなっていません。
そういうものならそういうものとして、どうすればいいのかを考えてみるだけです。
嫌なものからは目を離し、楽天的に考えます。
物事は必ず明暗両面ありますから、明るい方に目を向けます。

ここまで事態が煮詰まりますと、だれが悪い、これが悪いというやり方はおそらくまったくの徒労に終わります。
じゃあ、お前は正しいのか、正しい道を示せるのかと問われれば、だれもが言葉に詰まるからです。
常日頃誰にも誇れる正しい道を歩んでいるものなどおりませんし、状況はあまりにも複雑だし。

善悪で考えない方がいいと思います。
明暗で考える。
美醜で考える。
そのほうが効果的だと思います。

嘆いたり、怒ったりしても、だれも耳を傾けない世の中になったということです。
それでも明るく楽しく生きていくすべを手放してはいけないと思うのです。


洗脳

2007年02月23日 | 雑感
洗脳という言葉があります。
何かを判断する際に、刷り込まれた思い込みで判断してしまうことです。
自分は洗脳なんかされていないと思い込んでいる人ほど、洗脳されている可能性が高いような気がしています。

洗脳はどういうふうにするかというと、要するに情報を断片的に、恣意的に加工して人に与えることです。
国家が民衆を煽動する時にも使いますし、ニセ宗教家が人々からお金を巻き上げる時にも使います。
テレビでいえば、情報の切り取り方、BGMの使い方などを駆使して、視聴者にある印象を与えようとします。
そんなに簡単に騙されないと思うでしょうが、牛乳が身体によいと思っている人はたくさんいるでしょうし、
納豆を食べれば痩せられると聞けば、スーパーの棚から納豆が消えるのが現実です。

もっともらしい顔をしている新聞だって当てにはなりません。
どの情報をどういうスタンスで取り上げているかは、編集者や社の意向次第でどうにでもなるわけです。
公平な報道を謳っているから、新聞記事は公平なんだろうと思っている読者の裏をかくなんて、やろうと思えば朝飯前です。

じゃあ、どうしたら真贋を見極められるのか。
仕事でくたくたになって帰宅し、スイッチをひねれば流されるニュースのいちいちを疑えということでしょうか。
ぼく個人が思うには、「疑う」という行為は精神衛生上甚だよろしくありません。
では、どうすればいいのか。

ぼくみたいな自営は、自由な時間もたっぷりありますからネットや関連書籍で確かめることもできますが、
勤め人の方や忙しい方はそれもできない人のほうが多いでしょう。

理想を言えば、知識の基礎にホンモノを置いておくことです。
ニセ宗教家に騙されないためには、仏教、キリスト教、神道などの基礎的な知識をしっかり入れておけば、そうそう騙されません。
テレビや新聞の報道に接する時も、テレビ局も新聞社も利益追求団体なのであり、スポンサーや興行関係者の意向を気にするものであり、
視聴率を取る為にはある層に迎合するものであり、プロデューサーや編集者の志向や思想が反映されることもあるという事実を、
しっかりと知っていればいいのです。

ニセ宗教家は信者から金を掠め取るために洗脳します。
「~しなければ地獄に落ちる」だの「~すれば先祖が成仏する」だの、人の恐怖心と幸福になりたい心を操ります。
報道は自分たちに都合のよいことを言ういわゆる識者とか評論家を好んで使い、一般の人々をそんなものかと思わせようとします。

今は、教育現場も大変怪しげな状況だと思います。
「個性を伸ばせばよい」「自分の好きなことをすればよい」などと耳障りのいいスローガンが、今の社会の無軌道を産む温床になっています。
無軌道こそ人間らしいという考え方もあるのですが、その結果の混乱と怠惰には誰も責任を取りませんから、要注意です。

民主主義、人権、平等といった一見もっともな言葉は、これまた注意が必要です。
民主主義が「みなそれぞれ自分の都合で好きなことを思い、言い、行動していいんだ」と解釈されると、
その結果がどんなに世の中の乱れになろうとも、その状況を甘受するしかなくなります。

「みなそれぞれ自分の都合で好きなことを思い、言い、行動していいんだ」
これって言葉自体は全然間違いではないですよね。
間違いではないから厄介です。
ただ、解釈の仕方によっては、無責任、悪行、デタラメ、を容認する言葉にもなりうるから、厄介なんです。

人権、平等もそうです。
解釈の持って行き方で、権利を超えた利権、逆差別、混乱を生むことができます。

こういう言葉の裏に「利他」の理念がないと、めちゃくちゃ自分勝手な人で溢れかえる世の中になりうるわけです。
民主主義、人権、平等という言葉の裏に、「利他」の精神があれば、どれもが大切なスローガンにはなりえます。

でも、「利他」の理念というのは、宗教的な概念でしょう。
宗教的概念というのは、政教分離を立て前とする政治の現場からは排除されますから、「自由」と「自分勝手」の違いというのは、
なかなか分別されるのが難しい話になってしまいます。
他者の幸福に配慮しつつ「自由」に自分を実現することと、わがままほうだいに振舞うことと、「自由」に違いはないということになります。
わがままを自由と履き違えた人(洗脳された人)は、成長過程でたくさんの摩擦を生み出していくでしょう。

なにが洗脳で、なにが洗脳でないかはとても難しい話です。
なにがホンモノでなにがニセモノかもとても難しい話です。
そんなときに立ち返ることができる知識を、ホンモノの知識と呼ぶのかもしれません。

食べ物

2007年02月22日 | 雑感
言うまでもないことですが、食べ物というのは大切です。
添加物や農薬まみれの食物は言うに及ばず、肉食や牛乳もよくないみたいです。
バターより健康にいいとさえ言われていたマーガリンなどは、トランス脂肪酸といい、化学構造式上、機械油と一緒なのだそうです。

明治時代か何かに、西洋からやってきた科学者が日本の車夫を雇って、体力の測定をしました。
一人には普段どおりの穀類中心の食事をさせ、もう一人には肉食をさせ、持久力を測ったわけです。
穀類中心の食事をしている車夫は持久力に何の変化も見られませんでしたが、
肉食をさせた車夫は日に日に、しかも急激に持久力が衰えて行ったそうです。

栄養についてあれ摂らなければ、これも摂らなければとあれこれ言われますが、話半分で聞いていたほうがよさそうです。
日本の菜食の禅僧は驚くほど長生きな人が多いですし、
一昔前のチベット人の食事などは、来る日も来る日もそば粉を捏ねたものと、バター茶だけだったと思います。

戦国時代の武士の食事も驚くほどに質素で、名だたる武士の酒のつまみも味噌だけだったりします。
戦時中の兵隊さんなども、梅干とおにぎりだけでタフに戦っていました。
カルシウム不足に牛乳というのは大きな間違いで、かえって骨粗鬆症にかかりやすいとも聞きます。

シンプルにおいしくいただくことが何よりなのでしょう。
今は大根や白菜やキャベツが安いですから、味噌汁にしても漬物にしても大変おいしいです。
それと豆腐か油揚げがあれば十分なおかずを作れます。
季節は移ろいますから、春になれば菜の花や山菜を食べればいいし、
夏にはきゅうり、トマト、秋には茄子、果実、冬には干し大根や白菜の漬物。
時にはイワシやサンマやアサリなどの貝。

そういう生活をしていれば、おそらく成人病というのにはかかる確率がぐんと減るんだろうと思います。
それから、肉と野菜というのは持っている波動が違うんだそうです。
その波動が精神に与える影響は小さくないのだそうです。

イライラしているから肉や甘いものを食べたくなるのか、肉や甘いものを食べるからイライラするのか。
どっちもありなんでしょう。

まぁ、酒と煙草を止めないぼくが言っても説得力がないわけですが。

なんにしても、肉食なり何なり、やめなければいけないというのはあまりいい形ではないかもしれません。
食べたければ食べるでいいんだと思います。
食べたくなくなる、欲しくなくなるというのがいい形ではないでしょうか。

ぼくの場合は、酒と煙草はまだ欲しいのだということです。
欲深ですね。

神事

2007年02月20日 | 雑感
昨夜、淡路から帰ってきました。
思ったよりも広く、海のきれいな島でした。

ある神事のために全国から100人位の人が集まっていました。
旧暦の正月の一昨日、いくつかのグループに分かれて、それぞれの聖地に向い、定められた時刻に一斉に神事を執り行いました。
朝方まで降っていた小雨も止み、きれいな夕暮れ空も見れました。

詳細は省きますが、無事神事は完了したみたいです。
神々のお使いである竜神様が盛んに動き出したということです。

この神事はほんの始まりです。
全国各地で神様ごとが盛んに行われることになるのかと思います。

貴重な体験をさせてもらいました。
詳細を語れないのは残念ですが、今の段階では仕方がないかと思います。

イザナギ神宮では儀式の最中、複数の方が光の顕現を見ました。
真剣に祈れば、神々は応えてくれるのだということは、深く感じました。

なんだかわけの分からない話ですが、とりあえず報告です。

それにしても、淡路に向うまえの何日か、貪るようにいわゆるトンデモ情報を摂取していたわけですが、
そんな知識のあれやこれやが全部一つになるような体験でした。
その体験をするためには、全部必要な知識でもありました。
ありがたいお導きであったと、感無量でいるところです。



繋がり

2007年02月16日 | スピリチュアル
明日から淡路巡礼なので、禊するつもりで滝に行きました。
4~5ヶ月ぶりくらいで行くお滝です。
話になりませんでした。
水が冷たいので足が痛くて、痛くて。
それでも挫けず、滝に入っては出、出ては入って・・・。
情けない様でした。
ぼくより前に来ていた滝仲間の70を越えたおばあちゃんが堂々と入っているのに、ぼくときたら・・・。
体が慣れるだろうと粘って滝の水しぶきを受けていたのですが、最後まですっきりは入れませんでした。
最後はヤケクソ気味で、六根清浄を唱えながら、滝の真下に入りましたが最後まで辛かったです。

かつてない暖冬とはいえ、二月の滝は甘くありませんでした。
もちろん甘く見ていたわけではないのですが、どこかに大丈夫だろうみたいな慢心があったのでしょう。
滝を始めた頃の緊張感を失っていたのかもしれません。
なんか滝場を守る仏様たちに大変な失礼をしているような気になりました。
滝を出てから、仏様たちに深く頭を下げて滝場を去りました。
六根清浄どころか、軽く滝に跳ね返された感じです。
猛省です。

午後からはお客さんを連れてヒーラーのSさんを尋ねました。
いろいろなことが、いろいろなところで繋がりあい、合点が積み重なっていくのがとても面白かったです。
個人的な事柄なのでお話できませんが。

ぼくの中ではいろいろな出来事やら出会いやらなんやらかんやらが、かなり有機的に一つの方向へ繋がってきています。
一つ一つの意味に囚われず、自分を空っぽにして、流れに乗ることが大事かと思っています。
どういう繋がりなのかというのは、なかなか言葉にするのが難しいです。

世の「立て直し」があるのなら当然自分の「立て直し」が不可避になります。
というより、世の「立て直し」の前に、一人一人の「立て直し」が不可欠になります。
誰かがどこかで「立て直し」をしたって、一人一人が「ふ~ん」と感心していればよいという話でもありませんし。
とりあえず、人(他人)がどう思うかが重要ではないのは確かです。
ぼくが決められるのは、ぼくの意志だけです。
その当たり前のところに、常に戻っている必要があります。

あまりにも話が抽象的過ぎますね。

とにかく、明日からの淡路巡礼は楽しみです。
淡路島というのは行ったことがありませんし、行くことになるとも思ったことのないところです。
そんなことを言ったら、現在九州に住んでいるということさえもそうなんですが。

自分を空っぽにして、聖地を訪れてきたいと思っています。


メグリ

2007年02月15日 | スピリチュアル
ある方から聞いた話です。

天上の世界から眺めると、全ての人々の行いがとても愛しく見えるのだそうです。
善悪も、好悪もありません。
母親がわが子を見るように、ありとあらゆる一人一人がとてもとても愛しいのだそうです。
どんなに離れていても、なにを考え、なにを言っているのかも手に取るように分かります。
そういう目で、神は人間のことをみているのだそうです。

ホンモノとされるいくつかの「神示」を読んでいても、神の人間に対するその愛しさというのを感じることができます。
ぼくも人の親となりましたから、その感じが少しだけ分かるような気がします。
で、親の心子知らずで、人間社会はご存知のような有様になりました。
温暖化、イジメ、拝金主義、悪平等、無責任、刹那主義・・・。
問題はいたるところに転がっていて、あれこれ言うばかりで、問題は深刻化していくだけです。
それを一気に掃除してしまうことは簡単だが、そしたらお前たちは行き場所がなくなるぞ、と神示はくどいほど言います。
充分に与えられていることに気が付け、与えられていることに感謝することに気が付けば、
「うれしうれし、たのしたのし」で生きられるようにこの世は作られているのだぞ。
「うれしうれし」の世の中を、苦しき人の世にしているのは、人民様の勘違いが元だぞ、と神示は言っています。

その「勘違い」とは「我善し」を心の中心に据えているからだ、ということです。
つまり、我欲を元に心を自由に泳がせておくと、心は「もっともっと」と我欲をますます太らせ、際限のない不平不満を募らせます。
「感謝」を心の中心において暮らせば、不平不満はありようもなく、全てがありがたいのですから、「うれしうれし」となります。

もちろんことはそう単純ではないのは、神様ももちろんご存知です。
ひとそれぞれの「メグリ」というのがあります。
仏教で言えば、「因果」「因縁」ということになりましょうか。
人間の理知では捉えられない理不尽で、不平等で、時には厳しいものです。
ただでさえ、「メグリ」を真正面から受け止めるのは大仕事です。
それに加えて、人間の頭が作り出した「神は死んだ」「平等」「博愛」「人権」などという合理主義が、
「メグリ」を「メグリ」としてとらえる覚悟や態度を人から奪います。
「どうして私だけがこんな目に会わないといけないのか」と人は嘆き、その救いの場所はありません。

病やら事故やら、理不尽なことが襲い掛かった時、それをチャンスと捉え、「ありがとう」といえるかといえば、ぼくも言えません。
もし、わが子を殺されたら感謝なんかできません。
気が狂ったように後悔と憎悪にさいなまれるでしょう。
人の頭やら心やらをどんなに使っても、それだけ謙虚な態度にはなれません。

何かで読んだことがあるのですが、聖書に「ヨブ記」というのがあります。
これでもか、これでもかと神から過酷な試練を与えられる物語です。
それを読んだ時、なんという残酷で理不尽な話なんだという感想を持ちました。
それをあえて聖書に記す意味が分かりませんでした。

いまでも分かりません。
ただ、分かろうとする意思だけは持とうかなと思い始めています。
天から何事があろうとも、なにをしでかそうとも、慈愛の目で見ている存在を、知ることはないにせよ、感じれたらいいなと思います。
キリスト教でも仏教でもその存在なしには始まらない教えです。
キリスト教や仏教を必要としないまでの「自分」というものは、ぼくの場合、ついに発見できませんでした。

ちょっとくどい話でしたら、ゴメンナサイ。


知恵

2007年02月13日 | 雑感
昨日は快晴、思わず山登りに行きました。
風もなく、スエットの上下だけでも、汗ばみます。
木々も芽吹き始めている感じです。
いくらなんでも、早すぎますね。
すごく快適な山登りでしたが、これから先どんな天候になるのやら。

ここ数日で、トンデモ世界の奥深くにものすご~く入り込んでしまいました。
スサノオ、ユダヤ、ルシファー、UFO、龍と蛇、南米の幻覚作用を持つ植物アヤワスカ、智と胆との戦い・・・。
今まで断片的に聞きかじっていたあれやこれやの知識が統合されたような感もあります。
そんな知識は不要であることも、また気づくのですが。
要は壮大な命の営みを、壮大と感じる想像力が残っていればいいのかもしれません。

そこで気になるのは、クマを射殺することを「駆除」と言い、鳥インフルエンザのニワトリを大量することを「処分」と言うことです。
害獣とか害虫とかいう物言いも嫌です。
生命に対する想像力がまったく働いていない言い方です。
そんなことを言ったら、地球上最も凶悪で、無慈悲で、貪欲な生き物は間違いなく人間です。
「日月神示」ではありませんが、「立て直し」にあたって、このまま生き方を変えない人間はそれこそ「駆除」されてもし方がありません。
どんな事情があるにせよ、生命に対して「駆除」とか「処分」とか使うべきではありませんね。
子供がその言葉を聞いて、生き物を、食べ物を大切にしようと思うはずがありません。
因果の法則からすれば、駆除するものが駆除され、処分するものが処分されてしまうかもしれません。

なにより、そのような言葉を使う背景にある人間の傲慢さと想像力の貧困さが社会のあり方を貧しくするでしょう。
人の人権に対しては大騒ぎするくせに、動物は平気でモノ以下の扱いをする人々のあり方を、天はどんな目で見ているのでしょうか。
全てが支えあって、何一つ無駄なものがない生命サイクルを、ずたずたに切り裂いているのは人間です。
地の恵み、海の恵み、天の恵みに対して「感謝」するというスタンスがまったくありません。

そういう言葉遣いに取り立てて腹を立てているわけでもないのですが、神々がいるのだとしたら、
怒って当然のことを現に人間はしているということが、その言葉遣いにさえも現れているということです。

クマの生態を追ったドキュメンタリーなどを見ていると、なんら人間と代わらない懸命な愛しい生命があるわけです。
それを「駆除」する立場に人間はいつなったのでしょうか。
そのような感覚を容認すると、いつか人間が人間を駆除するのでさえ、理由次第では容認することになります。

畑を食い荒らされた被害者はどうなるんだとなるのでしょうが、なにが何でも人間によければよいうという発想があまり好きではありません。
役所に射殺を頼むなら、森にドングリの木を植えたりなんなり、森からクマが出てこない抜本的な対策を頼んでみたらどうなのでしょうか。
一度、アイスクリームなどの味を覚えたクマは、人間の食べ物に異常な執着を示すようになるのだそうです。
どこでその味を覚えたかというと、あたりかまわず捨てられたゴミを漁ったわけです。
クマをエサの不足する狭いところに追い詰めたのも人間です。
そうして、腹をすかしたクマが畑に出てくれば、被害者でござい、「駆除」しますって、もう・・・。

人間も動物もあらゆる生命は他の命をいただいて生きています。
クマの食い物なんかどうだっていい、ニワトリの命なんかどうだっていいのなら、人間の命だってどうだっていいとなります。
人間の命だけは大切だとする摂理はこの地球上にはないからです。
摂理に反していれば、反した結果は受けなければならなくなります。
「知恵」の使い方が、大きく歪んでしまっているとしか思えません。
自分さえよければいいという生き物が、「知恵」を使えば恐ろしいことになるのは目に見えています。
動物は「知恵」がない分だけ、自然の摂理に従順です。
自分さえよければいいと考え始めた人間は、「知恵」を使って自然の摂理を無視するどころかぶち壊し続けます。
そんなのを「知恵」と呼ぶことができればの話ですが。

自然保護とか環境保護とかを言いたいわけではありません。
愚かであることを愚かであると気がつかないことが危険だと思うのです。
愚かであることを知りながら、愚かなことを続けるのは、なお危険です。
「駆除」とか「処分」という言葉を聞いても、無感覚になることが危険だと思うのです。
「知恵」を働かせば、自然保護とか環境保護とかは、当然の帰結となってくるはずです。

別に感情的になっているわけではないのですが、こういうことを書くと言葉遣いがちょっと過激になるみたいです。
ともかくも、この国は「言霊のさきわう国」から遠く離れてしまいました。






陽気なカミ様

2007年02月10日 | スピリチュアル
ずっと不思議に思っていたことがあります。
月です。
ご存知の通り、月はいついかなる時も一面だけを地球に向けています。
月も自転をし、地球の周りを回っているわけですから(公転)、驚異的な精度の仕組みで月の裏側を見せません。
ありえますか?
こうなる確立をコンピューターで調べたことがあるのなら、知りたいものです。
二つの大きさも軌道も異なる球体が何千年、何万年もの間ある一面だけを見せ続けて、お互いに自転、公転を続ける確率。

で、トンデモ世界にさらに深入りしてしまっているのですが、もう大変です。
ちょっと書くのは憚られます。
例え事実だとしても、知らなくてもいいし、知らないほうがいいくらいの感じの話が、ぞろぞろ出てきます。
霊の次元とか、悪魔とか、UFOとか、全部ひっくるめてリンクしていく話です。
宇宙戦争まで出てきます。
大天使とルシファーとの宇宙を舞台にした戦いです。

3次元の世界であくせくする人間が知ったところでどうする話ではありません。
なんというか、やっぱり知らないほうがよさそうです。
カミ様はそんなことには関わるなといっているような気がします。
人が歩むべき道はちゃんとある、うれしうれしの世界だぞ(「ひふみ神示」)と。

そういった世界から見ると、既存の教祖を持つ宗教というのに対してはかなり否定的です。
その宗教の信者以外をどうしても排他的に見る視点があるから、紛争の原因になるというのです。
日本の古来の「神の道」に関しては、例外的に肯定的です。
明治以来の国家神道に関しては、その他の宗教同様、ばっさりと否定されていますが。

日本のカミ様というのは陽気です。
乱暴な神様もいますが、底意地が悪くありません。
お供え物を差し上げますが、そのご馳走やお酒はお下がりとして、人もいただきます。
ともに喜びを味わいます。
順序はあります。
まず、人から神様に差し上げ、そのお下がりをいただきます。
でも、考えてみれば、人がなにもしなくても、常に地の恵み、天の恵み、水の恵みを人に差し出してくれるのが日本のカミ様です。
年に数度、感謝を捧げて、カミ様と一緒に踊り騒ぐのが、日本の宗教です。
地獄に落ちるぞという脅かしもなければ、こまごまとした戒律も緩やかなものです。

それでいて、日本の大元のカミ様は、位というか次元のかなり高いカミ様でいらっしゃる様です。
次元が高くなればなるほど、カミ様の性質というものは明るく楽しいものになるようです。
ですから、日本のカミ様は、「あれするな、これするな」ではありません。
「明るく、元気に、爽やかに生きなはれ」という感じです。
そのカミ様の言うことを素直に聞いて、呑気に楽しく生きて行くことが、日本のカミ様のお望みみたいです。
うれしうれしの世界だぞ、です。

そんな感じで、難しい話ではないはずだったのですが、近頃ではすっかり難しい生き方のように思われてきています。
得体の知れない強迫観念が世間を覆い、「勉強しなければ」「いい会社に入らなければ」「人より頑張らなければ」と、
「~しなければ」と追い立てられています。
得体の知れない強迫観念に覆われれば、人同士が強迫観念で牽制し合い、競争し合い、蹴落とし合います。

なぜこうなったのかということを、トンデモ世界は解き明かします。
でも、ほとんどの人はそれを受け入れることはできないでしょう。
以下はある神示からの抜粋引用です。


神、
汝等の申せし理想語りておるのでないぞ。             
汝等食らうことなど
自然と真釣り合わせつれば足ることぞ。

神と人、真釣り合えば、
ほんのチョットの
嬉し楽しのお手伝いで済むことぞ。
汝等の時間でいうならば
日々一~二時間のことで有り余るのぞ。

後は汝等の好きなことして良いのざぞ。
食らう事から自由になれるのぞ。
食らう事から自由になるれば、
人民様ワレもワレも
ハタラクさせくれよと申し来るのぞ。
汝等のハタラキ輝くぞ。
今の今でもこれできるのぞ。
マコトぞ。

今の今も汝等の食らう分、有り余れる程に用意してあるのじゃぞ。
天恵、誰のものでもないのじゃ。
気候、風土誰のものでもないのと同じ事ぞ。
誰のものでもないが由、
そのお土に生まれし汝等、
その地にあるもの好きなだけ
自由に食らうて良いのざぞ。
人、食らう量限りあるぞ。天恵限りないのぞ。

限りあると思うこと『あやま知』なるぞ。
限りあると申しつること『あやま知』の信奉者なるぞ。
汝等働かずば食らう事出来なくなりたるは、
汝等働かずば困る者の図りし事ぞ。
                         
そは『あやま知』操りし者どもの、
成せしが悪しき業なるぞ。

幼きより黒を白と教えつられ育てつられば、
これひくりかえすはなかなかのものぞ。

オカシキ事はオカシキ事ぞ。
人民様しっかりして下されよ。

衣食住なんでも自分で出来るようにしてみてござれ、
オカシキ事のタテワケ解かりて来るぞ。


以上です。

で、「汝等働かずば困る者」とか「『あやま知』操りし者ども」とは誰のことでしょう?
周到に張り巡らされた今の社会のシステムそのもの背後には誰がいるのでしょう?
それを考えると、言葉を失うんですね。
自分が生きているシステムそのものと戦うとなると、自分の世って立つ足場も失うわけです。
社会システムの根幹を成す金融、エネルギー、メディアに大きな支配力を持つ人々がいます。
そのピラミッド上のシステムの頂点に立つほんの一握りの人々がいます。
彼らはなにを考えているのでしょうか。





自分を守る

2007年02月09日 | スピリチュアル
今朝は滝に行こうと早起きしたのですが、早く起きすぎて二度寝してしまい・・・
そんな感じで、今日も春めいた天気です。

いろいろとトンデモな世界の本を漁っていたら、ある勢力の陰謀論にまで行き着いてしまいました。
その真偽はともあれ、現在の世の中がその勢力の画策した通りにはなっているようです。
自然に対する畏怖を忘れ、人権を声高に叫ばなくても人間本来自由であることを忘れ、金銭に小突き回され、
自らの共同体への不信を募らせ、モラルが低下し、何より畏れ多きものに対する信仰心を失い・・・

まぁ、行き着くまで行き着くしかないみたいです。
でも、日本にはどんな集落にも神社が鎮座しています。
かつては確固たる共同体があり、神に感謝を捧げる祭りが行われていました。
こういう国というのは、さすがのそういう勢力も入りこめませんでした。
でも、今は、若者は出て行き、こどもの姿も無く、村落の文化パワーというのは瀕死の状態です。
日本という国全体が、そういう勢力の入り込む隙だらけの国になってしまいました。

日本のカミ様というのは、上から人を一方的に支配する存在ではありません。
祭りを通じて、カミも喜び、人もともに喜ぶという存在です。
喜こびがあるところに、邪悪の付け入る隙はないです。

「自分が」「私が」と我を通していくと、笑顔よりは苦悩が増えます。
苦悩が増えると、魔が付け入る隙ができます。
心の曇りを落とし、笑顔が絶えない生活ができるようになれば、大丈夫みたいです。

生活を営むためには、そりゃ多少の頑張りも必要です。
でも、いやいや頑張るのと、喜んで頑張るのとでは、心の風景が違います。
生活が苦しくとも、心の中に素敵な風景が広がっていれば、人は笑顔でいることができます。

下らないテレビは見ないで、星空を見たほうがいいでしょう。
今は報道番組でさえ、捏造と虚報に充ちています。
お金は溜め込まないで、入ってくるお金で、楽しく暮らすすべを覚えたほうがいいでしょう。
粗食は心身にとてもいいです。
自分に起こることは、自覚があるにせよ無いにせよ、自分が引き寄せたことですから、しっかりと立ち向かっていくことが重要みたいです。
世の中を救うために何か大袈裟な運動に参加するよりも、自分の身の回りをきちんとこなすことが、一番世の中のためになるみたいです。
美辞麗句は必要ない暮らしができるといいです。
縁側に座って、ああいい風だと嬉しくなるような暮らしができるといいです。

近くの神社の祭日には、手を合わせて感謝するのもいいみたいです。
そうすると、自分も楽しくなってくると、なおいいですね。

自分を守るのは自分です。
自分を大切にできるのも自分です。
あとは、そんな自分を天から見守っている存在を感じることができれば、とは思うのですが。
自分を見守る存在などないと思いながら、自分を守らなければならないとしたら、この世はなかなか大変です。
自分の道が正しいのか、正しくないのか、ちゃんと守りきれているのか、守りきれていないのか、全部自分で判断しなければなりません。
その判断が正しいのか、正しくないのか、そもそも自分ってなんだとか、際限のない疑問に対処しなければなりません。
哲学者ならその際限のない疑問に対処し続けることこそ哲学の道なのでしょうが、生活者はそれではなかなか大変になります。

でも、どんなふうに思い、感じ、判断するのも全部自分です。
まずは、何が何でも自分を大切にするという覚悟をしっかりと持つということからでしょう。

なんかトンデモな世界に入り浸っていたら、変な感じの口調になってしまいました。
押し付けがましかったら、ゴメンなさい。



とんでもな世界

2007年02月08日 | スピリチュアル
雨が降っています。
もうすっかり冬は遠のいたような感じです。
そろそろ滝行を復活しようかと思う今日この頃です。

先日このブログでちょこっと書いたのですが、秦氏のことを調べてみると、なんだかとんでもない世界に入っていきます。
なんでも、その出自は中近東(イスラエル)だとか中央アジアの天山山脈の麓だとか言われ、原始キリスト教を信仰していた集団みたいです。
豊前の国に宇佐神社がありますが、全国の八幡神社の総本山です。
そのヤハタ神というのがなにものなのか、諸説入り乱れていて定説がありませんが、どうやら秦氏の信仰していた神らしいのです。

京都に太秦(うずまさ)という映画の撮影所で有名な地名がありますが、そこに広隆寺という寺があります。
広隆寺は元の寺が焼失したため、再建されたものですが、そこに有名な弥勒菩薩像があります。
その右手の組んでいる印が、景教(古代キリスト教の中国での呼び名)の大教主の組む印と同じであるらしいのです。
三位一体をあらわしているといいます。
秦氏ゆかりの土地であるとされる太秦というのも明らかに当て字ですが、どうしてそういう字を当てたかというと、
唐の時代の景教の寺院は大秦寺と呼ばれていて、その寺の名から取ったらしいです。

そんなことをへ~と思いながら次々と連鎖的に他の本を読んでいくと、ユダヤと日本という話に広がっていきます。
皇室にユダヤと同じ六芒星(ダビデの星)の紋章が使われていたり、日本語と発音と意味が一緒の言葉が多数あったり・・・。
まだまだイッパイ、ユダヤとの関連の証拠と思われる事象が紹介されるわけですが、興味ある方は自分で調べてください(笑)
こういうのは正史にはまったく記述されることはありませんから、これまたふ~んと読むしかないのですが。

で、さらにいろいろ読んでいたら、「ひふみ神示」というものに突き当たりまして、これまたとんでもな世界に入っていきます。
大本教の神様と同じ神様からの神示で、美術家の岡本天明が自動書記という形で受けた神示です。
読んでいると、いろいろ面白いです。
世の「立て直し」が始まるぞ、心せよ、という神示です。
2012年という年が転換期であるらしいです。
フォトン・ベルトというものに地球が突入する年と一致しているそうです。
フォトン・ベルトというのはぼくもよく分かりませんが。
なんでも銀河系内の光の帯の一種であるらしいのです。

というわけで、とんでもワールドをふ~んとか、へ~とか言いながら、うろうろしています。
昨日もネネさんから強烈な話を聞いたのですが、頭を疑われかねないので話しません(笑)

ところで、ここでも何度かお話させていただいたエンジェルカードの中森じゅあんさんのイベントの紹介です。

「中森じゅあんさんの講演会&ワークショップについて」

☆講演会「鬼谷算命学について」
 20007年4月21日(土)13:30~16:00
 参加費 3,000円
☆ワークショップ「エンジェルカードについて」
 2007」年4月22日(日)10:00~1700
 参加費 11,000円(昼食つき)

会場 門司赤煉瓦プレイス 多目的ホール
福岡県北九州市門司区大里本町3-11-1
093-372-0962

※JR門司駅北口から徒歩1分
※小倉駅から車で10分
※駐車場 終日300円

人気のあるじゅあんさんは、3ヶ月先まで予定が詰まっていたのですが、ネネさんが半ば強引にというかなんと言うか、
引っ張ってきたイベントです。
ご興味のある方は、メールください。

torut21@mail.goo.ne.jp



なんだか

2007年02月05日 | 雑感
厚生大臣の「女性は産む機械」発言が連日取り上げられています。
全文を読むと、言い方はあれですが、別に悪意がある発言ではありません。
機械と例えたことは謝るしかないだろうし、事実何度も謝っています。
でも、それで審議拒否が許される姿だとは到底思えません。
なんでもかんでも政局にして、政権交代を図ろうとする姿は、健全な政治のあり方ではありません。
それをよしとすれば、国会の場はますます政策論争の場ではなくなり、スキャンダル暴きの場となります。

「機械」発言よりも野党党首が政治資金で個人名義の10億にも上る不動産を買い漁っていたが大問題です。
また、同じ政党の野党議員に朝鮮総連から献金があったという報道も、事実とすれば違法です。

今のメディアのヒステリックな叩き方を見て、「イジメ」問題を問うことができるのでしょうか。
厚生大臣に相応しい、相応しくないを論ずるのは大いに結構です。
発した言葉に批判を加えるのも大いに結構です。
でも、国民には発言の全文を提示した上で、その是非を問わせるのが公平な報道でしょう。
「日本を工場にたとえるならば」という前置きがあって、言葉は悪いけどと断って、「女性は産む機械」発言があるわけです。
例え方が悪かったとしても、少子化問題を重要な解決すべき問題だとするならば、理解できる言葉ではあります。
野党の言い分を聞いていると「人間として許せない」とかいう言葉が出てきます。
気に入らない人間であれ、他人を「人間として許せない」ような人間の方が政治家に相応しくないと、ぼくは思います。
そんな人間は怖いです。

今日は旧暦で新年であるらしいです。
波乱含みの年であることは間違いなさそうです。

気を引き締めて行く必要がありそうです。


てんかん

2007年02月03日 | 雑感
一日たったらすっかり雪は消えていました。
あっけないもんです。

昨夜、知り合い(女性)がうちに来て、しこたま飲んで泊まったわけなんですが、
今朝、突然うつぶせに倒れて痙攣を起こしました。
家内が慌てて119番して救急車を呼んだのですが、到着前に意識を取り戻しました。
でも、大丈夫かと声をかけたぼくの顔を見て、ギョッとしています。
家内がこの人誰だか分からないのと聞くと、わからないと言います。

救急隊が到着しました。
徐々に彼女は意識を取り戻しつつあります。
救急隊の質問に、所々あやふやになりながらも、答えています。

始めて見たてんかんの発作でした。

まだ意識が朦朧としている彼女を寝かせ、ぼくはシャワーを浴びて出社しました。
意識を失い、ぶるぶる痙攣する彼女の姿が脳裏に焼きついて離れません。

なんか生命の怖さというか、深淵というか、そういうものを見たような気がします。
本人は意識を失くしているから覚えがないのでしょうが、
あの姿をビデオにとって自分で見たらさぞかしショックを受けると思います。

ドストエフスキーもてんかん持ちだったそうです。
その瞬間、ある種独特の経験をしていたみたいなことを何かで読んだことがあります。

不思議なことに、彼女がてんかんを起こし、救急車が来て、去っていくまで、
すぐ傍で様子を見ていた4ヶ月の娘はずっと静かでした。



2007年02月02日 | 雑感
朝起きると、窓の外は久しぶりに銀世界でした。
今冬で初めての雪です。
降りしきるという感じで、視界が10メートルくらいしかないのも、いい感じでした。

今日は幣立神社の宮司さんのインタヴューを一気に書き上げました。
なかなか作業としては疲れるんですが、内容が面白いので気になりません。
録音していたので、一字一句をそのまま文章にするができます。
聞いた言葉をぼくの頭のできの悪いフィルターで通してしまうと薄っぺらいものになったでしょう。

残るは荒立神社の宮司さんのインタヴューです。
早口な方言の上に、一時間以上と長いです。
でも、内容は文句なしに面白いです。
文章にするのが楽しみです。

これから所々雪が残っているであろう町を歩いて帰ろうかと思っています。
雪が舞っていればなお嬉しいです。