風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

戯れ

2013年10月25日 | 雑感
深海と宇宙は相似形
果てに行くほど闇は濃くなり、肌寒くなる
光は光とて、自ずと限界がある
光の届かぬ領域があるからこそ、光と闇との戯れがある

波間に漂う塵のように、人は思い煩う
ただ戯れだったはずの光と闇が、人の因縁となって人を悩ます
悩みが産むものは、悩み
果てしのない悩みのさざ波が、地表を覆う

悩みながら喜ぶことはできない
悩みながら慈悲の心を持つことはできない
悩みは悩みの螺旋をえがいて下降する
戯れとは一切無縁のままに

ふと思う
すべてが戯れだとしても、そこには「上がり」があるはずだと
「上がり」のない戯れは、戯れではなく勤務になってしまう
光と闇の戯れの「上がり」とはなんなのか?

光でも闇でもないもの
そんなものをぼくらは知らない
おそらくは、それはただの「息吹」
ただ吐いて、そしてただ吸う

なにを吐いて、なにを吸うのか
それはおそらくは「思い」
思いを吐き出して、思いを吸い込む
それが「命」というものの永遠の連鎖

二つの台風が接近中
地球が自在に戯れ始めている
人は波間に漂っている場合ではないのだ
大いなる戯れに参加する時がきた






もたもた

2013年10月19日 | 雑感
近頃自分でも、もたもたしているなと思うときがままあります。
寄る年波のせいでもありますでしょうが、寄る年波のせいでしょう(笑)←ケツロン

まず関節がなめらかに動きません。
滑舌も悪いと指摘されます。
物覚えが悪いです。
その前にものを覚えようという気が希薄です。

そんな中でも、先週は禅の摂心会を終え、ふらふらになりながら今週を迎えました。
なにせ摂心中は毎朝4時起きです。
夜は店の営業で道場に行けませんから、朝しか行けません。
でも、頑張って行った甲斐がありました。
早朝の道場は独特のすがすがしさがあります。
「清々しさ。」
それが禅の目的でもあります。
日本古来の神道の流れでもあります。

夏野菜もそのシーズンを終え、トマトやナスの逞しく太った枝を抜き、土を耕して冬野菜の迎えいれ準備をします。
そして気がつくのは、トンボの姿が見えないことです。
この季節には、トンボがこれでもかと飛び回っているはずなのです。
昨日、友人の田んぼの稲刈りの手伝いに行ったのですが、田んぼの周囲に蕎麦のたのを撒いたのはいいのですが、
咲いた蕎麦の花を媒介する「ミツバチ」がいないので、蕎麦は稔らないそうです。
ミツバチは一足先にアセンションしたんだよと冗談を言ったら、友人は真面目な顔してそうなんだと言いました。

なにはともあれ、もたもたしています。
もたもたすると、周囲の人々が苛立ちます。
もたもたブルースでも歌ってやります。

ああしろ こうしろと
うるせぇな こっち見るな
おれもおまえの 傍にいたいけど
わけもない思いつきで おれを振り回すな

なにを言おうと していたのか
おれもわからん 知ったことか
分かり合おうと するの止めた
止みもせぬ心の波 心の溝深めるだけ

もたもたブルースでした。