風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

心の波

2010年03月31日 | 雑感
季節が巡るように、人の心にも波があるように思います。
調子のいいとき、落ち込むとき、やたらイライラするとき、なにを見ても幸せなとき。
波に上手に乗っていれば、たとえひどく落ち込んでも、いずれは上昇の波に乗れます。
波を信じず、ジダバタもがけばもがくほど、沈んでいくのかもしれません。

ある人を観察するに、どの視点でその人を見るかでまるきり評価が違ってきます。
自分にとっての損得で見るか、快不快で見るか、美醜で見るか、善悪で見るか。
その見方はお好みのままです。
その視点が自分の都合に偏っていると、何ごとも公平に見るということが出来なくなります。

自分にも心の波があるように、誰にだって心の波というものがあります。
上手くお互いの波長が合えば心地よい関係になるのでしょうが、相反する波長の相手の場合はなにかとぶつかってしまいます。
その場合は、その波長のズレがお互いに修正可能なものなのかどうかを見極めるのが大切になります。
どうしてもずれが大きすぎて修正の余地がないという相性もあるのだと思います。
その反面、ちょっとお互いの波長を調整すれば、とても心地よい関係を生み出すことも可能なのだと思います。

さらに言えば、お互いの波長などに関係なく誰彼と上手くやろうとおもうなら、自分の都合を捨てればいいのです。
自分が固執しようとする、人を評価する視点をぶん投げるのです。
他人を評価しようとする視点を投げ捨てれば、その人そのものが目の前にいるだけです。
男も女も、老人も子供も、美人も不器量も、ただただ生きている人が目の前にいるだけです。
なにを評価しようというのでしょうか。
人ができるのは、その目の前の人とどんな関係を築くことができるのか、というだけです。

お互いに笑顔をさらりとかわすだけで、人と人との間には何かが築かれます。
人を賢いだの馬鹿だの、美人だの不器量だの、役に立つだの立たぬだのと評価しているうちは、さらりとした笑顔はかわせません。

一人で旅行して思い出に残るのは、さりげない人々との交流です。
そこには一切の損得も計算もないからこそ、記憶に深く刻まれる何かが残るのだと思います。

今でも時々思い出すのですが、サンタフェに行ったときのことです。
サンタフェというのは独特の雰囲気を持った街で、いろいろと思い出はあるのですが、なぜかいつも念頭に浮かぶことがあります。
そのときは夏真っ盛りで、街中の公園のベンチでボーっと坐っていました。
すると長髪の金髪頭に、格好のよいスエードの帽子をかぶった若い青年が、黙々と公園内に散らばったゴミを拾い集めていました。
誰かに何かを訴えようといういうような気配は全くありません。
他人の目など全く気にせず、ひたすら陽気にゴミを拾い集めていました。
今になって思えば、かなり禅の世界に近い気がするのですが、「陽気に」というのが禅にはないかもしれません。

ともかくも、ぼくはどういうわけかときおり彼のゴミを拾っていた姿を思い出します。
人というのは、誰かの意図や思惑やらで誰かに印象付けられるものではないだろうということです。
誰かが、誰かのありのままでその姿を光らせているとき、それを見た人間はなぜか心に深く刻み付けられるようです。
素直が一番ということだけを言いたいがために、長くなりました。



2010年03月30日 | 雑感
風が冷たいです。
桜というのは不思議な花です。
春の訪れとともに一斉に咲き、一斉に散ります。
花吹雪を見れば、長く暗かった雪の季節を思い返すとともに、爛漫の春に胸がときめきます。
咲くと散る、冬と春、相反するものを一時に表現し尽くすのが桜なんでしょう。
それがまた、日本の風土でなければできない表現の仕方のような気がします。
寒さと暖かさが微妙に交じり合う日本の春です。

また、桜が咲き誇る姿は妖艶です。
いつまでもその姿を愛でていたいという人の心をあっさり裏切って、さらっと散ります。
バラも菊もボタンもきれいには違いありませんが、このさらっと感を出すのは桜だけです。
惜しみなく咲いて、惜しみなく散ります。
この惜しみのなさが、桜の真骨頂です。

「浮世から 何里あろうか 山桜」 山本常朝

山本常朝という人はあの有名な「葉隠」を書いた人です。
その人の句です。
誰が見ようが見まいが、咲くべきときに、咲きべきところでひっそり咲き誇る山桜。
その姿がぴったり日本人の美学に合ったわけです。

浮世のほうでは、浮世の都合を中心にあれやこれやを誰がこうしたああしたとケンケンガクガクしているわけですが、
一切そんなことには係わらず、山中に咲く一本の山桜。
まさに「天上天下唯我独尊」の境地を昔の人は桜の木に見たのかもしれません。

光陰

2010年03月29日 | 雑感
昨日は花見をしました。
寒いかなと思っていましたが、ぞれまで強く吹いていた風もやみ、絶好の花見日和になりました。
近頃では花見にはバーべキューがつきものみたいで、肉を焼く煙や灰ににもめげずに楽しんできました。
俳句も皆で読みあいました。
俳句というより川柳みたいなのや交通標語みたいなのもありましたが、なかなか楽しいものです。

どうやって店に帰ってきたのか、それ以降記憶がありません。
夜には夜で「宇宙となかよし」の地元のFM番組に出たQちゃんもついでに店に遊びに来たみたいですが、何せ記憶がありません。
スタッフによればそれほど無礼なことはなく、楽しく飲んでいたということですので、一安心です。
それにしてもQちゃんと飲むときは、今のところ100パーセントの確立で記憶がなくなります。
会って話をしても、その内容を覚えていないのですから、なんのために話しているのやら。

記憶がなくなるということは、脳にアルコールが回り、神経回路が麻痺する状態なのでしょうから、気をつけなければなりません。
ただでさえ減り続ける脳細胞をアルコール漬けにして台無しにしてしまっては、あまりにももったいない話です。
ほどほどに飲んで、いつまでも楽しくありたいものです。

アルコールがかなり残っていましたが、今日は店の模様替えをしました。
こういうのは思い切ってするときにしたほうがいいです。
基本的には西洋アンティークの店ですが、一区画を和ものの骨董品のコーナーにしました。
仏像とか、古い陶器とか、そんな感じのものです。
千手観音様が店に来たので、それにつられて仏像が一気に集まったという感じです。
物が物を呼ぶのです。

ほんの狭い空間なのですが、なかなかいい感じになりました。
いつも線香をたいています。
「香樹林」という白檀の香りのする線香で、評判は悪くはありません。
それから、和ものも扱うようになったので、今までは一律にコーヒーを出していましたが、抹茶も出すようになりました。
やはり抹茶を出しますとお客さんもしゃんとした気分になるようで、なかなかいいものです。
抹茶はもともと薬であったくらいですから、身体にもいいですしね。

そうんなふうにして、今月もあとわずかになりました。
光陰矢のごとしですが、つべこべ愚痴を言わず、誰かの悪口を言わず、すべての瞬間を楽しむことができれば幸いです。
雪の日には雪を楽しみ、雨の日には雨を楽しみ、嵐の日には嵐を楽しむ。
貧乏を楽しみ、時には少しの贅沢を楽しみ、喜怒哀楽を楽しみ、人間模様を楽しみ、自分の我を張る滑稽さを楽しむ。
何でもかんでも楽しんで、何でもかんでもありがたいとしみじみ思えれば、この世は極楽です。
素面でそう思えれば、ぼくもなかなかたいしたものなのですが。


示す

2010年03月26日 | スピリチュアル
陽光は眩しいのに、風が冷たい一日でした。
終日10度を切っていたようです。

どういうわけか、日月神示とかアセンションとか、そういう話に対する興味がぷつんと切れてしまいました。
その類の本を開けば今でもなるほどと思うのですが、どうなろうともこの「今」をどう生ききるかでしかありません。
それは、以前にも紹介した「伊勢白山道」のリーマンさんとも同調している気がします。
僕が紹介したと言うのもおこがましいですね、彼のブログは精神世界の分野でダントツにトップを独走していますから。

ぼくも伊勢白山道式の先祖供養は毎日しています。
しなければいけないという意識ではなく、したら気持ちがいいから続けています。
何人かの知り合いにもそのやり方を紹介しました。
いちいち手書きでそのやり方を書いて渡していたのですが、ある親切な方がそれをワープロで清書して、コピーしてくれました。
リーマンさんのブログに飛べば、話は簡単なのですが、そこはいろいろと「ご縁」というものがあるのでしょう。
ぼくがいいと思うことは、ぼくが紹介するまでです。
こういう世界のことは、あれこれ言えばいうほど警戒心を生みやすいものでもあります。
そういう入り口を探している方には、そういう入り口があるということだけを、教えることができるだけです。

昨夜も禅道場に行きました。
禅では、過去に対するわだかまりも未来に対する不安も、一切取り合いません。
普段の日常に人がどっぷりと浸かっている妄想、分別、執着を否定しますから、純一の絶対的今を掴むという修業です。
禅から言わせれば、おそらくどんな哲学も倫理学も社会学も、妄想、分別、執着の類です。
この今の「いのち」にこだわりぬきます。
この今の、そのままに「活きたいのち」にこだわります。

こうなればいい、ああすればよかったなどという戯言には一切かかわりません。
今この瞬間のお前を出してみろと迫られます。
なかなかスリリングです。
嘘のつきようがありません。

そうすると、未来に対する不安というものなんかに対しては、覚めた興味はありますが、その不安に巻き込まれることはありません。
過去にどんなに縛られようが、未来にどんなに恐れを抱こうが、すべきことは今、この瞬間の自分の行為です。

こうしてぼくはブログを書いているわけです。
これを読んで、誰かがせせら笑おうが、腹を立てようが、それはそれで仕方がないことです。
ぼくの選んだ選択ではなく、そう感じることを選択したそれぞれの読者のそれぞれの「生きる」という姿です。
ぼくはぼくの「生きる」という姿をそのままに示すだけです。
「生きる」姿そのものに、いいも悪いもありません。
池に飛び込むカエルと、夕焼け空をすいすい飛ぶトンボと、どちらがいいも悪いもありません。

生きるということは、その姿を世界に示すことです。
なかなか勇気がいることですが、示さなければいけないのなら、できうれば、堂々と示したいものです。


感謝

2010年03月24日 | 雑感
雨が暗く降っています。

3月というのはなにか人の心を刺激するものがあるのでしょうか、古いお客さんからの連絡がけっこう続きました。
古いお客さんとは信頼関係ができておりますので、商談になれば話が早いです。
数分で話が済みます。
ありがたいことです。

古いお客さんではありませんが、話だけで商品も見ないうちから前金をぽんと下さるお客様もいました。
これは自慢話ではありません。
ありがたいあなぁとつくづく思っているということです。

商売には波があります。
取り立てて理由がないままに、いいときはいいし、悪いときは悪いです。
大切なのは、悪いときの過ごしかただと、つくづく思います。
悪いときというのは、これでもかと悪い事象が続いて起こります。
思わず逃げ出したくなります。
逃げ出したいという思いを自分に許しますと、さらに大きな厄介ごとが舞い込んできます。
どうしろと言うんじゃーと天に悪態をつきます。
そこで逃げたらお終いなのは本能で知っています。
だから逃げませんが、ひたすらにキツイ時が過ぎます。
それでも逃げないと決め続けるるだけの時期です。

そうすると、あたかも何かの試験期間が終わったかのように、幸事がやってきます。
決まって、思いもかけない方角からやってきます。
そこで有頂天になると、元の木阿弥です。
なぜキツかったのか、そのキツさを招いたわけを真正面から理解することです。
なぜ幸事がやってきたのか、その恩寵の意味を深く深く理解することです。
そうすれば、有頂天になる心の隙は生まれがたくなります。

こうしてブログで偉そうなことを書いている以上、ぼくは自分で書いている以上の何ものかを現実世界で実現したいです。
プレッシャーとしてそう思うわけではぜんぜんありません。
本当にそう思うだけです。

そういう現実とはなにか。
誰に証明される必要もありません。
ぼく自身が、生きているということに深い感謝の念が湧き起これば、それだけのことです。

ありがとうございます。




老夫婦

2010年03月17日 | 雑感
街中なんかでも、とても仲のよい老夫婦に目が止まることがあります。
無駄なことはいわず、静かに微笑んでいるような、そんな感じです。
若いカップルがイチャイチャしているのとはまるで次元が違う仲のよさです。
おそらく、ギラギラした欲の類から抜け出たお二人の、信頼感やら慈しみやら安心感から醸し出される感じのよさです。
ぼくはそういう感じのよい夫婦になれる自信は丸きりありませんが、年の取り方の参考になります。

仕事やら子育てやらをやり切り、あらゆる不平不満・艱難辛苦を乗り越え、ようやく辿り着いた安心の境地に思えます。
自分が苦しんだからこそ人の苦しみが分かり、自分が逃げずに立ち向かったからこそ人にも頑張れと励ますことができる。
そういうことなんだろうと思います。

ときおり息子や娘からの迷いに満ちた苦境を聞くにつれ、心を痛めたりもしますが、孫の顔を見ればすべてを笑顔に溶かしてしまう。
そんな生きる術を持っているのでしょう。

白隠和尚の「坐禅和讃」にこんな一説があります。
「六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり」
人が迷いの六道を繰り返し歩むようになるのは、自分自身の迷いの心が創った闇に向かう道を歩むからだ、ということでしょう。
闇の道という道があるわけではありません。
心が迷っているために、闇の道と感じる迷いの道があるだけです。
自分の愚痴(迷いの心)がすべての苦しみの元です。
心が晴れ渡れば、目の前には清々しい大道が続いているはずです。
その愚痴を溶かしていくようにお互いに支えつつ生きながらえば、素敵な夫婦になれるのだろうと思います。

で、道場に提出する俳句を再度恥ずかしながら紹介します。


誰も来ず 手持ち無沙汰に 土筆煮る
夜が更けて 仕舞ったばかりの コタツ出す
桃の花 観音様も 頬染めて
酒臭い 人ごみを見ている 桜かな
問う我も 問われる我も 花吹雪




感触

2010年03月16日 | 雑感
陽光がかなり眩しかったのでコートを着ないで家を出ましたが、夜になって急に冷え込んできました。

もうすでに弥生も半分を過ぎました。
弥生の意味は、いよいよ生き栄えるという意味みたいです。
今日ベランダのコンクリートの上で、団子虫が一匹死んでいました。
生き栄えようと地上に張り切って出てきたものの、思わぬ寒さにやられたのかもしれません。

ベランダからは、なんの木かは分かりませんが、とても大きな木が数本聳えている庭だか、公園だか、空き地だかが見えます。
風が強いときなどは、見事に打ち揃って身を揺らします。
とても堂々とした格好の良い木々です。
おそらく高さは10~15メートル以上はあるでしょう。
人工的に作られた公園やらなんやらではお目にかかれない類の木々です。
おそらくそこからでしょう、今朝は鶯の鳴き声が聞こえました。

五感をフルに使って季節の流れを感じるのは本来日本人が得意とするところです。
季節の花を見、旬の食材を味わい、鶯や蝉の声に季節を感じます。
でも、現代日本で失われつつある感触が、嗅覚と触覚なのかもしれません。
目の不自由な人が人の気配や気持ちまでも察するのは、嗅覚によると何かで読んだ覚えがあります。
犬がご主人の気持ちに敏感なのは、嗅覚が発達しているからなのかもしれません。
あとは触覚です。
絹の手触り、綿、麻の手触りの違いについて語れる人はますます少なくなる一方でしょう。
茶の世界でも、茶碗の造詣もさることながら、その手触りをとても大事にしました。
伊羅保(いらほ)茶碗というのがありますが、その肌がぶつぶつしていて、イライラするから名づけられた釉薬の様式だそうです。

花の香りを嗅ぐのもいいですが、大気の匂いというのは日々違うものです。
雨の日、晴れの日、雪の日、みな匂いが微妙に違います。
石油製品やらなんやらの人工物で取り囲まれた生活をしていますと、いちいち周囲のものの匂いなど気にしていられませんが、
昔は木や漆喰や鉄やそんな自然物に囲まれていたわけですから、匂いの世界がきっちりあったのでしょう。
木というのはその種類によってその匂いにはっきり違いがあります。

あとは触覚です。
やはり人工物を触っても、感動が薄いです。
語るべき感動がありません。
鉄の感触、木の感触、生きた魚の感触、生身の人の感触、死体の感触。
とても大切な何かを伝えてくれるように思います。

スローライフ

2010年03月15日 | 雑感
ぼくの生まれ育った東北の町では、夕暮れ時になりますと魚屋さんが串刺しにした魚を炭火で焼いていたものです。
魚はカレイやニシンだったような気がします。
育ち盛りですから、その匂いをかぐとたまらなく腹が減りました。
今だったら迷わず買って酒の肴にするのでしょうが、九州のこの町ではそういう魚屋さんはありません。

スローライフと言いますが、スーパーですべて買い物を済ませてしまうようなことでは、スローライフではない気がします。
魚は魚屋に行って採れたてのものを分けてもらい、野菜は八百屋に行ってあれこれ旬のものを分けてもらう。
それぞれの店で、ベストな調理方法なども教えてもらう。
日々、店に行っては食材の薀蓄を学びつつ、食卓を健康的で楽しいものに仕上げていく。
そういうのがスローライフなのでしょう。
スーパーでパック詰めの切り身の魚や、ビニールハウスで大量生産された野菜ばかりを買っていたのでは、そうはいかないでしょう。

要するに、便利さよりも過程を重要視するのがスローライフというものでしょう。
食材にもそれぞれの食材の旬やら特性があるわけです。
産地についての情報も深いものがあるでしょう。
豊前海でカキを養殖している漁師さんと話すことがありましたが、なぜ豊前のカキが美味しいのかはきちんと理由がありました。
たくさんの川が山から流れてくる地形で、海の養分が豊富なのだそうです。
しかもその川筋には住宅などが密集しておらず、天然の養分が豊富なのだそうです。

そういう感じで、なんに限らず美味しいものはすべからくきちんとした裏づけがあるはずなんです。
そういう裏づけを生きた知識として蓄積するのも、また楽しからずや、です。

磁器や陶器といった生活用品でも、今でこそ大量生産品ですが、そりゃあ、奥が深い薀蓄ではちきれんばかりです。
しかも骨董とよばれる昔のものは、その製法が秘伝・口伝の類ではちきれんばかりですから、楽しもうと思えばどこまでものめり込めます。

人との会話でもそうです。
仕事が絡みますと、どうしてもこの人はお金になるかどうかという視点に縛られてしまいますが、
楽しむための会話というのもありえましょう。
大工の八公とご隠居さんの会話みたいなものです。
相手の何かを判断するための会話ではなく、会話の流れ自体を楽しむ。
そのためにはお互い「~のため」という策略から自由でいなければならないでしょう。

こういう不景気なときは、頑張る方向を間違えると、エライ目にあいます。
どうせ不景気なのですから、あくせくせずに、少ないお金で楽しむ工夫をうんとすればいいのだと思います。

ぶらぶら散歩し、旬の魚や野菜を家族分だけ買って、へらへら会話を楽しみ、本でも読んで、眠くなったら、寝る。
そうすれば、世の中の不景気などは関係ありません。
スーパーが追求する大量生産大量消費型の効率主義は決して悪いことではありませんが、今の時代には心の豊かさをもたらしません。

地元の商店街を見直してみましょう。
きっとそれまでの商売を通してしこたま溜め込んだ薀蓄を、披瀝したくてうずうずしている商店主たちがそこここにいるはずです。


カモ

2010年03月14日 | 雑感
最近は焼酎の炭酸割りにはまっています。
何杯でも飲めてしまうのが難点です。

ヨーロッパなどでは天然の炭酸水がどこのスーパーでも水くらいの価格で売っています。
最初飲んだときはなじめませんでしたが、そのうちにクセになります。
暑いときなどは、キンキンに冷やした炭酸水が飲みたくなります。

そこで、焼酎と炭酸水のコラボレーションです。
オシャレです(笑)。

今日、店にあった江戸時代の不動明王が貰われていってしまいました。
執着はないつもりでしたが、やたらと寂しいです。
確固としてその位置を占めていた存在がいなくなってしまいました。
最近店に来た千手観音様をお守りする気で満々でしたが、貰われていってしまいました。
千手観音様も寂しげです。

滝場に限らず、修業の場にはたいていお不動様が守護しています。
どこまでも頼りがいのある慈悲深い仏様です。
ぼくはお不動様にはなれません。
無理なのが自分で分かります。
無限の忍耐力と、無限の慈悲心とを兼ね備えていなければいけません。
お不動様の厳しさは、慈悲心ゆえの厳しさです。
プンスカ腹が立つゆえの凡夫の逆上した苛烈さとはわけが違います。

そのお不動様をさらっていったのは80を超えるお茶の偉い先生です。
一目ぼれしたのだそうです。
そりゃぁ、その方面に目が利く人なら誰だって一目ぼれするでしょう。
これは売り物ではありませんとキッパリスッパリ断れなかった自分が情けないとです。

あ、ぼくの店はあくまでも西洋アンティークの店です。
ほんの一角をぼくの趣味で和ものを扱っているだけです。
でも、このところ和ものに食指が動きつつあります。
ものすごくいい加減で、不親切で、秘密主義で、奥の深い世界なんです、これが。

和ものの骨董は人を平気で試します。
騙されるのは、己の阿呆さ加減を知ればよい、といった世界です。
だからこそ、本物は毛筋一筋ほどしかない世界でもあります。
その世界では、騙されるほうが悪いのです。
なまじ知りもしないくせに、生半可な知識で、欲の皮をつっぱらかして、買うほうが馬鹿なのです。

この世界で何とか生き抜いていくには、阿呆になりきることが肝要です。
知ったかぶりはおそらく最も嫌われ、カモにされます。

深いです。
禅の世界です(笑)。

あい

2010年03月13日 | 
flowerさんへ

吸い込まれそうな青い空に桜が舞い、人々は大きな木の下に集った。
ふだんの憂鬱顔や不平不満顔が鳴りを潜め、みな口元には笑みを浮かべていた。
みな一人ひとりと目と目を交わして挨拶をした。
言葉はいらなかった。

ときおり強い風が吹いて、梢がざわざわと揺れた。
誰かがおおきな敷物を敷いて、誰かが一升瓶と紙コップを取り出した。
みなが坐ると、誰かが重箱にたっぷり詰められたご馳走を座の真ん中にでんと置いた。
一言の挨拶もないまま、みなで乾杯した。

めいめいが、風に舞う花びらをぼんやり眺めたり、酒のお代わりをしたり、ご馳走に箸をつけたりしていた。
肩を組み合う必要もなく、歌を歌う必要もなく、ただ顔を赤くして円座になって坐っていた。
空にはトンビが旋回し、ご馳走を狙っていた。
それをみなで目配せで知ると、みなは一斉に笑った。

その大きな木はみなの座の上にのびのびと腕を広げていた。
誰かがその太い幹に両手を回して頬ずりをした。
するとみなも真似をして、両手を回して頬ずりをした。
そのうちに日も暮れかけ、みなは静かに立ち上がり、ゴミを片付け、めいめいの方向へ立ち去った。


選択

2010年03月12日 | スピリチュアル
この世にはあると思えばあるし、ないと思えばないものが多いです。
愛、信頼、信念、友情、真理などから、幽霊、悪霊から、ギリシア神話の神々、古事記の神々まで、キリがありません。
あると思って生きることもできるし、ないと思って生きることもできるということです。
どちらが良いことでも正しいことでもありません。
あると思うのか、ないと思うのか、その選択があるだけです。
あるともないとも決めないという選択もあります。
選択肢は無限ですが、選択した一つの結果を受け入れなければならないのが、この世のルールです。

永遠の愛を信じれば、裏切られましょうし、悪霊を信じれば、常に怯えて暮らすことになるでしょう。
神や仏を信じられれば安心かもしれませんが、自分という存在のアイデンティティが揺らぐかもしれません。
かと言って、何ものをも信じられなければ、自分の存在する意味さえ見失われていきます。
何かを信じるのも信じないのも、自分の一生涯をかけた真剣勝負にならざるを得ません。

何かを信じようが信じまいが、それは個々の重い選択であることには変わりがありません。
誰にもその選択の結果を尻拭いしてあげることはできません。
どんな方向を選択し、どんな結果を身に受けようとも、その結果を堂々と受けきるだけしかできません。

個々の選択ですから、世の中に流布する言説を参考にするのは結構なのですが、鵜呑みにすると後悔します。
あくまでも自分の心の奥から湧き起こる声に耳を澄ます必要があります。
心が乱れていると、ますますその声が聞こえなくなりますから、要注意です。

こうすれば誰でも上手くいく道などというのは、理論上はありえても、現実の人間の選択としてはありえないような気がします。
迷い悩むというのも大切な選択肢です。
逆に言えば、もうこれ以上ないというところまで、迷い悩んだらいいじゃないかと思ったりもします。
本当に進退窮まったときにこそ、ああでもないこうでもないというレベルの心の騒音が消え、
これしかないという選択肢が現れるような気がします。

どんな選択にせよ、その選択をするのは自分の心です。
その心が歪んでいたり、ひねくれていたりすると、正常な選択を出来なくなるのは自明の理です。

仏教に「直心是道場」という言葉があります。
自分の究極のところの素直な心こそが、選ぶべき道を選んでいく場なのだ、という意味なんだと思います。

選択肢は無限です。
無限の選択肢の中から、これだと確信を持って一つの道を選べたら、心の絶えざる妄念は消えるでしょう。
誰かや何かに選ばされるのではなく、自分が選ぶことができたら、生きるということは自由自在の境地に昇華します。
それには、日々のささやかな行いの中で、何を選択していくかということになります。
人がこの世で与えられている選択肢というのは、日常の中にしかありませんから。

日常を選択の宝庫と見るか、灰色の牢獄と見るか。
まずその選択から始めなければいけないのかもしれません。


シヴァ

2010年03月10日 | 雑感
今朝早く窓の外の雨に煙る風景をぼんやり見ていましたら、雨が雪に変わり、たちまちのうちに街が白く霞んで見えなくなりました。
そのまま布団にもぐりこんでまた寝ましたが、起きてみると吹雪模様で、街は白く覆われていました。
勘違いして咲いてしまった桜の木はさぞかし面食らっているでしょう。
もろくも散りやすい桜の花びらに積もる雪というのは生まれてこの方見たことがありません。
どんな風情なのか、ちょっと見当がつきません。

ときおり大きな雷も鳴っています。
空気がぶるぶると震えるほど大きく、長く、鳴り響く雷です。
冬の終わりを告げる雷なのでしょうか。

地球上のあちらこちらで大きな地震が発生してます。
深刻な寒波や旱魃なども起きているようです。
地球が身震いしているような感じです。
そのうちゴホンと咳でもされたら、大変なことになるのでしょうか。
いずれにせよ、過去や未来を思い煩うことは無駄なことです。
今できることを楽しんでしきれば、言うことはありません。

ヒンドゥー教の破壊神で知られるシヴァ神ですが、暴風雨の破壊のあとには大地の植物に豊潤な水分・養分を与えるという役割もあります。
創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌとともに、三柱の神々がサイクルを描くように役割を果たすことによって、
地球上のありとあらゆる生命活動が躍動し続けるわけです。
生命とは動き続けるということです。
それも決して同周縁上をぐるぐる回っているのではなく、ぐるぐる回りながら螺旋状に上昇していく、
そんな進化を目指しているのだと思います。
創造→維持→破壊→創造→維持→破壊→創造→・・・と繰り返されながらも、上昇し続けていく。
始めも終わりもないのでしょう。
何かの終わりが何かの始まりであり、何かの始まりが何かの終わり、なのでしょう。

更に言うなら、創造の中に維持・破壊の素因がすでに含まれ、維持の中にも創造・破壊の素因が、破壊の中にも創造・維持の素因が
含まれているといえるのかもしれません。
何か一つの素因で固定されるような状態は、生命とは呼べないのかもしれません。
創造だけが無限に続くのも疲れ果ててしまいそうですし、維持だけでしたら退屈ですし、破壊だけなら心が休まりません。
生と死、喜びと悲しみ、慈しみと憎しみなどなどという矛盾があっての生命ですから、人の心は安定に安息するわけにはいきません。

そういう大きな生命のサイクルから見れば、今の地球は破壊のサイクルに差し掛かっているのかもしれません。
でも、そういう時期にも必ず創造の芽が、維持安定の芽が宿っているはずです。
そこに目を向けると、破壊の否定的な要素ばかりではない面にも着目できるような気がします。



光を浴びる

2010年03月09日 | 雑感
今日は所用で隣町まで電車で行きました。
灰色の雲が町を覆っています。
電車の車窓からは、車に乗って道路から見る風景とはだいぶ違った表情をしています。
鉄の街と呼ばれただけあって、線路脇にはず~っと大小の工場が立ち並んでいます。

旅行でこの街を訪れたのなら、明治維新以来の日本の産業革命の歴史に思いを馳せるのかもしれません。
でも、ぼくはこの町に住んでいるわけですから、そういうロマンチックなことには思いが及びません。
この先当分続くであろう不景気のこの街に与える影響を考えたりします。
所用が済んで、帰りの電車では思わず缶入りハイボールを買って飲みました。
そういう気にさせるどんより曇った空でした。

猫は二日ほど姿を見せませんでした。
餌にも牛乳にも手をつけていませんでした。
でも、今ではきれいさっぱり平らげています。

日曜日には滝に行きました。
写真はいつものように仲間のKちゃんが撮ってくれたものです。
真ん中には入れませんでした。
いくら水量が多くても夏なら真ん中に入れます。
でも、寒いと身体がこわばって、無事で滝から出てこれる気がしません。
足の感覚やらなんやらが麻痺したようになってしまいます。
だから端っこのほうで、滝のしぶきを浴びただけでした。

先ほどFMの番組を終えました。
番組に出てくるような人たちは皆一生懸命生きています。
生きることを楽しんでいます。
それが当たり前のことなんでしょうが、一方で道を見失い、命のかけようがないという人もたくさんいるのでしょう。

希望と絶望の間には超えがたい深遠が広がっているように見えます。
そうでもないんですけどね。
どれほど絶望の淵に叩き込まれたって、あっけらかんと空を見上げて太陽の姿を探せばいいんです。
要らぬ遠慮は要らないんです。
誰かの目線で自分を裁くことをやめて、ひたすら太陽の姿を探せばいいんです。
冷え切った自分の心と身体を暖めてやることがすべてに率先してすることです。

太陽はだれをも裁きません。
ぽかぽか天空に輝いているだけです。
その光を身体いっぱいに浴びたらいいんです。

死ぬときには誰でも死ぬだけです。
死ぬことなど天に任せることです。
それよりも、生きている間は、太陽を浴びて、身体と心の織り成す冒険をひたすら楽しめばいいんです。

絶望などという傲慢で、陰気で、勘違なゲームだけは、何とかして卒業しましょう。
今の世の中、絶望したりするゲームをするほど、余裕はなくなりました。
余裕があるときの絶望はゲームとして成り立ちますが、余裕のないときの絶望はひたすら絶望になってしまいます。

まずはともあれ、太陽の光を浴びましょう。

いささか

2010年03月06日 | 雑感
今日は啓蟄だそうです。
土の中で冬篭りをしていた虫たちが、地表にもぞもぞと現れ始める日です。
一昨日、滝場の入り口でも枝垂桜が咲いてしまっていました。
季節の巡り方が順当ではありません。
虫たちも地表に現れていいものがどうなのか迷っているかもしれません。

今、娘が嵌っているのyoutobeで観る「アルプスの少女ハイジ」です。
朝、襖を勢いよく開けて入ってくるなり、ぼくの布団にもぐりこんできます。
もぐりこんでくるなり、娘は「ハイジ!」と叫びます。
渋々ぼくは起きだして、PCをセットします。
今朝は第15話を見終えました。

「アンパンマン」から始まって、「未来少年コナン」を飽きるほど観て、今は「アルプスの少女ハイジ」です。
なかなか順調です。
ぼくが娘に見て欲しいアニメを喜んでみてくれています。
娘はぼくに似てタラコ唇です。
そのタラコ唇をぽっかり開けて画面に釘付けになっています。
あんまりかわいくてほっぺや頭にチュッチュすると、手で乱暴に払いのけられます。
そんなことでぼくはいささかも、めげません。

ハイジに飽きたら、「フランダースの犬」もありますし、「母を訪ねて三千里」もあります。
スタジオ・ジブリ、バンザーイ!です。
そうこうするうちに、この4月からは幼稚園に行きだしますし、絵本やらままごとやらお友達やらなんやらかんやらで、
ぼくの布団にもぐりこんでくることもなくなるのでしょう。
ぼくはいろいろな修業で心を鍛えていますから(笑)、そうなってもいささかも寂しいとは思いません。
娘は娘でどんどん成長したらいいです。
ぼくもまだまだ成長の余地があると思っている親父ですから、ぼくの道を行くんです、これが。
家内の立ち位置が微妙になるでしょうが、まぁそれはそれです(笑)。

先日、道場の例会に行きましたが、例会では持ち回り当番せいで道友のミニ講演会みたいなのがあります。
その時の道友の話の一つとして、人は家族や誰かと手をつなぐと、免疫力がアップするという話がありました。
さもありなん、といささか思ったしだいです。

2010年03月05日 | 雑感
昨日は休みを取りました。
まだ暗いうちに目が覚めてしまい、そのままどうしても眠れず、これは滝に来いということだなと思いまして滝に行きました。
ところが、駐車場にいくと、車のバッテリーが上がっていました。
JAFを待つ数十分の間、どうしようかとかなり迷いましたが、せっかくエンジンもかかったことだしと、そのまま滝に行きました。

滝は思ったよりもまだまだ冷たく、なかなか滝の真下に入れませんでした。
最後九字を切るときだけ、滝の真下に入りましたが、なかなかきつかったです。
一月ほど滝に行く間隔をあけてしまうと、もうこの有様です。

家に帰り、一寝入りしようと布団に入りましたが、どういうわけか寝付かれません。
普段なら滝行のあとは一瞬で眠りにはいるのですが。
これは水を汲みに行けということだなと思いまして、布団を抜け出し、いつもの神社に水を汲みに行きました。
丁度、家の分も店の分も水を切らしていましたので。
ところが、昨日に限ってやたらめったら信号に引っかかる日でした。
何かのお試しだろうとは思いましたが、行きも帰りもすさまじい割合で信号に引っかかりまくりました。

夜には坐禅の例会があるので、ジムに行けるかどうかは微妙な時間に帰り着きました。
こういう日はすべてこういう具合に物事が進むのだろうと腹を決めて、エイッとばかりにジムに行きました。
普段より少しだけペースを速めてジムを終え、道場にもギリギリ間に合いました。

やると決めたことはなにがあろうと淡々とやるだけでいいのですが、いちいち心がざわつくのはまだまだです。

話は変わって、今朝方見た夢です。
夢ですから、脈絡のないイメージが次々と浮かんでは消えていくわけですが、要約すると以下のような筋立てでした。

ある人が取り立てて悪いこともしていないのに、次々と不運に見舞われます。
どうしてなのかとぼくもその人と一緒に悩んでいます。
そこへ、そのわけを説明するイメージが夢の中で展開しました。
その人は確かに悪いことをしているわけではありませんでした。
でも、心のなかで、他人に対してマイナスの評価を頻繁に下していました。
さらに夢のイメージが説明するところでは、その評価が的を射ていれば、マイナスの評価を下すことも不運を呼び込みませんが、
的を射ていないマイナスの評価は、行き場を失って、結局マイナスの評価を下した当人に帰ってくるのでした。
思わず夢の中で、なるほどと思いました。

つまり、悪いことをする人は、その悪いことのした反作用を受けるわけですが、それには他人からのマイナス評価も含まれます。
ですから、悪い人を悪いと評価を下すのは、別段問題がありません。
しかし、悪くもない他人の行いに対して、自分の思い込みやら偏見やら勘違いやらで、悪いとマイナスの評価を下すと、
そのマイナスのエネルギーが自分に帰ってくるということです。

夢では深く納得したのですが、こう言葉にしてみると、なんだか月並みですね。

まぁ、他人についての評価は、特にマイナスの評価は、しないにこしたことはありません。
なにもいいことがないのは確かなことのように思います。
自分が何ができるのかに専念していれば、変なエネルギーを出したり、貰ったりすることはないでしょうから。