風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ふらふら

2009年08月31日 | 雑感
自民党が大敗しましたね。
間違いなく時代の転機ではありますでしょう。
一人ひとりが自主独立の気概を持って人生を切り開き、そのサポートを緩やかにするのが立法府・行政府というのが理想の形でしょうが、
メディア主導のイメージ選挙の結果に任せ続けると、権力はあらゆる詐欺的な行為を企み続けるものです。
前回、今回のような選挙結果を民意というなら民意で結構ですが、その結果を引き受けるのも有権者です。
原因を作れば、否応なしに結果を引き受けざるをえません。
ポスターと名前を連呼するだけの街頭演説だけで候補者を選ぶというような乱暴な選挙制度は野蛮だとぼくは思います。
ぼくは新聞もテレビも見ませんが、ネットで集まる情報と新聞やテレビで得られる情報とはかなりの乖離があります。

まぁ、今回、自民党は負けるべくして負けたとぼくも思います。
小泉元首相が「旧来の自民党をぶっ壊す」と言って大勝した理由を真摯に受け止めませんでした。
民主はこれからが正念場です。
やれるだけのことはやってみたらいいです。
グズグズになってしまったら、二大政党という理念さえ崩れて政治はカオスになります。
世界経済が混迷を深めつつあるこの時期に、政治執行機関が不能になれば、そりゃあ沈没します。

ところで、今週は毎朝滝に行くことになりました。
「菅生の滝」という九州でも有数の壮大な滝に入ります。
滝に入ってしまえば、絹の糸のような気持ちのよい水なのですが、滝に入るまでの足場がかなりスリリングな滝です。
滝行の導師が3年間通いつめた滝で、大げさではなく物理的に命がけの滝行だったと思います。
あの滝に冬場とか夜とかに入る勇気はぼくにはありません。
でも、入ってしまえば、これほど心地よい滝はおそらく日本中を探してもないんじゃないかと思われます。

で、入っているうちは気持ちがいいのですが、出た後一日中ボーっとしてしまいます。
体力的なものか霊的なものかは知りませんが、何かが激しく消耗します。
それでも毎日入り続け消耗し尽くすと、体力的なものか霊的なものかのいずれかがパワーアップして、疲れなくなるのでしょう。

滝に行こうと思ったきっかけは、ズバリ酒を抜くことです。
導師に肝臓が弱っていると言われていたこともあり、その自覚もあったこともあり、日常がダレ始めていたこともあり、
丁度よい機会でした。
ということで、一週間は酒を絶ちます。
不思議なもので、絶つと決めれば酒を絶つのはそれほど苦痛ではありません。
絶つと決めないと、ホント毎晩ダラダラ飲み続けてしまうんですが。
いかに日々明確な意図を持って生きていないかが丸分かりです。

精神性が拡大すれば、意図と結果が一致すると誰かが言っていました。
意図したことがそのまま結果であるような状態です。
意図と結果にずれがないということは、意図に対する信頼性と無垢性が必要であり、結果を見る目にいかなる曇りもないことが必要です。

ダラダラ飲み続ける毎日が自分の意図だとしたら、それはさすがに嫌です。
遊びがありません。
粋じゃありません。
パワフルでもありません。
誠実じゃありません。
美しくありません。
感動がありません。
奥行きがありません。

そんな感じで、ふらふらしながら毎朝滝に行こうと思っています。

ちなみに写真は滝仲間のブログ(「宇宙と仲良し」から拝借した「菅生の滝」です。
このブログからリンクを張っていますので、読んでみて下さい。
滝に入っているのは導師です。







魂と魂の入れ物

2009年08月26日 | スピリチュアル
ここ数日例年になく涼しい風が朝夕に吹いています。
昨日朝起きましたら、空一面にうろこ雲が広がっていました。
今年の夏に入道雲を見たのは2~3度あったかないかだったような気がします。

アカシックレコードに自在にアクセスできるというゲリー・ボーネルという人の本を読んでいて、
なるほどと思うところがありました。

人というのは無垢無雑の魂という喜びのエネルギーが、人類が遺伝子を通じて連綿と繋いできた人体という
入れ物に宿ったものだと。

仏教では、「衆生本来仏なり」とか「悉有仏性」とかいいますが、すべては仏の現れであるという立場です。
それは禅を通じて、一面では全くそのとおりだと納得してはいたのですが、
人が人として転生してくる場合に、その仏そのものが纏ってくる因縁そのほかの属性は、
何に由来し、どこに記憶され、どういう仕組みで無垢無雑であるべきはずの魂を取り囲んで生まれ出てくるのかが、
よく分かりませんでした。

そういう因縁は魂が引き継いでいるのではなく、魂の入れ物たる肉体が因縁やらその他属性を引き継いでいるということでした。

例えば、前世に奴隷で悲惨な人生を送ったとします。
魂はその経験を善悪も快不快もなく、ただ純粋に経験しますが、
肉体のほうは、その痛みや辛さや恨みや怒りや、家族に対する悲痛な思いやらを経験します。
そしてその経験の波動を全細胞に刻みつけ、肉体のエーテル体にも刻み付けます。
そのような感情の蓄積は遺伝子にも刻印され、肉体的な子孫に引き継がれていきます。

そういう風にして、その人生の状況で培われた特性を肉体の遺伝子は代々子孫に引き継いでいき、
感情や記憶の特性はエーテル体が保持して次の転生までエーテル体はいわゆる冥界ということに行くみたいです。
魂は純粋無雑な光の母体に帰ります。

で、魂がある経験をしたくて、再び転生をするとします。
その経験をするのにふさわしい遺伝子を引き継いだ肉体およびそれとセットになったエーテル体に宿る。
平安無事な経験を選ぶこともあるだろうし、殺されたり殺したりという経験をしたくなることもあるらしいです。
人の数だけ経験というものがありますが、そういう経験をしようと思った魂が、その経験をするにふさわしい人間に宿るということです。

う~ん、なに言ってるか分かりませんね。
魂からすれば、どんな経験もそれを味わいたいから経験するだけで、感情を持った魂の容器である人間は七転八倒するわけです。
でも、その魂は七転八倒をするという経験したいわけで・・・
さらに言えば、その七転八倒する心のあり方を超えていくという、魂の拡大成長を魂は目指しているわけで・・・

とすると、われわれが前世の記憶とかいうものは、人間のエーテル体の記憶であるということになります。
幽界や冥界というのも、エーテル体の認識する世界であることになります。

書き始めたものの、このスペースで説明するのは無理でした。

興味ある方は直接読んでみてください。

「超入門アカシックレコード」 5次元文庫


一所懸命

2009年08月17日 | 雑感
お盆休みも終わり今日から出勤です。
なんだかだるくて仕方がありません。
休養したという感じはありません。
目的も計画もなく連休を無駄に過ごすとこの様です。

でも、娘とは出来るだけ一緒にいました。
海水浴にも行きましたし、船にも乗りましたし、川遊びもしました。
一つ一つの思い出が娘の記憶に刻まれていくのなら嬉しいことです。

ぼくの数少ない夢のひとつは、いつか娘とキャンプをしてみたいということです。
森で枯れ枝を集めて火をおこし、簡単な料理を作り、虫の音を聞きながら狭いテントで眠り、
朝起きたら川で顔を洗い、言葉少なに一緒に時間をすごせればいいです。
今のところはどこへでもついて来たがりますが、変な知恵がついたら嫌がるでしょう。
まぁ、すべてはなるようになればいいです。

変な智恵といえば、おそらくぼくも世間が無秩序に供給する変な知恵に染まって、頑なになり、
余計な迷路をあちこちとうろうろしました。
進むべき道筋をしっかりと見据えてしまえば、そういうのもひとつの笑い話ですみますが、
いつまでも迷路に迷い続けてしまえばことは重大です。
若いうちの迷路は冒険ですが、中年を過ぎてまでの迷路は、愚昧と呼ばれても仕方がなくなります。

やはり生きている限りは、「道」というか、「筋」というか、そういう自分なりの生きるうえでの原理原則を掴まないと、
なかなか先の見通しが暗くなります。
中年を過ぎても「変な知恵」頼りでは堂々と生命の野原を渡っては行けないでしょう。

「変な知恵」というのは、誰かの都合による人工的なその場限りの知恵です。
それに反して、生命の野原には荒々しくも雄大で、繊細で、ハーモニックな「智慧」が支配するフィールドです。
ちんちくりんな「変な智慧」などが出る幕がありません。
楽しい時には大笑いをし、悲しいときには悲しみの泥の中にうずくまり、弱った人を見れば手をさし伸ばし、
奢った人を見ればたしなめる、そういうシンプルな本物の「智慧」は誰かの都合を超えていきます。

そこでは何ができるかを競う合う場所ではありません。
その時々の自分がしたいと思うこと、できることを一所懸命にするだけのことです。
したいと思わないこと、できないことに焦点を合わせることを「愚痴」といいます。
愚痴を払いのけて、ここ今の「一所」に「命を懸ける」こと。
一所懸命になれたら、どんな境遇であろうと命のど真ん中に繋がったということなのだと思います。

プカプカ

2009年08月04日 | 雑感
今朝は滝に行きました。
先月の大雨で滝場の様子がかなり変わっています。
滝つぼの底を水が掘り起こして、土砂を周囲に押し出したような感じです。
どういう水圧ならそうなるのか、見当もつきません。

スポーツジムの会員にもなりました。
劣化しまくりの体力を整えたいと思います。
身体が資本だとは分かっていながら、それを失ってから後悔するはめに出来ることならなりたくないです。
爺さんになっても旅行や登山を楽しめたら、言うことありません。

ところで、「LOST」ですが、一昨日はDVDを4枚見て昨日は2枚見ました。
シーズン2を一挙に全部借りましたので、12枚組みを一週間以内に全部見ることになりそうです。
止められません。
シーズン6までありますから、この調子だと、アメリカ人が数年にわたって観たテレビドラマを、
数ヶ月で全部見ることになりそうです。
なんて便利で幸せな環境なのでしょう。

ぼくは本を読むときもそうですが、いったん入り込むと一挙に全容を知らないと気がすみません。
学生のころは夜通し読んで学校を休み、目が覚めたら更に読み続けるということを数日続けることもしばしばでした。
友人間ではそういうのを「篭る」と称していました。
まぁ、山篭りをもじっていたんですが。
数日間篭って同じ作家の本を手当たりしだい読んだり、全集を読んだり、そんな感じです。
それが明けると、また篭りたくなるまで、ぶらぶら飲み歩くという感じです。

「LOST」なんかも学生時代だったら、篭って一気に見ていただろうと思います。
今は仕事がありますからそうは行きませんが、まぁお気楽なものです。

底まで潜って暗い世界を探検し、息が上がれば浮上して飽きるまで波にプカプカ漂い、
また時が来れば大きく息を吸い込んで暗い世界に沈潜する。
そんなことを繰り返していた様な気がします。
今はもう少しお気楽です。
暗い世界の底は果てることがないことを知りました。
プカプカ漂うばかりが楽ではないことを知りました。
探求するべきは外の世界にあるばかりではないことを知りました。

今からジムに行きます。
久しぶりに汗をかきます。
何よりも風呂に入れるのが嬉しいです。
家ではジャワーだけでしたから。