風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2011年09月26日 | いい加減

何も欲しくはないが、自分の生き方の軌跡だけは欲しがる。
人の人生は水面に映った一筋の影に過ぎないのに、それだけは欲しがる。
かくも、人は生きた証を欲しがる。

生きるというのは、それだけに特別なこと。
ただ、なぜそれが特別なことなのかを言おうとしたときに、言葉を失う。
おそらくそれが特別だと言葉で言えば、その永遠に秘された特別性が失われるからだ。

生命は特別を嫌う。
普段通りに、日の下で踊り、月の下で眠るだけ。
どこにも特別の入る余地はない。

試しに、月の下で踊って、日の下で眠ってごらん。
日常は渦巻き、感覚は浮遊し始める。
誰もいない世界が狂い踊り始めるから。

狂いは地獄の入り口でもあり、救いの源でもある。
いずれにせよ、狂いの道を通過しなければ、日常の糞尿にまみれてしまう。
狂いの道を突き抜けてこそ、日常の糞尿が底光りする鉱石となる。

当たり前の道を当たり前に生きていけないこと。
狂いの道を経なければいけないこと。
ともすれば、狂いっぱなしになりがちなこと。

色々と問題はある。
いつでもどこでも問題だらけだ。
それでも、一筋の影ではない、俺の生き方を求める。

 


デモ

2011年09月19日 | 雑感

台風がゆっくり近づいているようで、湿った空気が流れ込んでいます。
前回と同じく、近づく速度がおそろしくのろいです。

巷は連休ですが、ぼくは出勤してました。
仕事に熱心というのでは全然ないのですが、休みを取ってどうこうしたいというのも特段ありません。
休みというのはやることをきっちりやって、結果もきっちり出してこそ、充実するというものです。
その辺りが甚だ脆弱な今の状況で、休みを取る気にもなれません。

ということで、おおむねネット三昧です。

フジテレビ・デモ、すごいことになっています。
この連休中に、お台場で違う主催者によるそれぞれのデモが4回、名古屋、大阪で各一回。
各デモの隊列は数百人から数千人の規模です。
特色は、老若男女が満遍なく参加していること、コーラー(主張を叫ぶ人)に若い女性が多いこと。
組織が動員をかけたデモではなく、ネットの呼びかけに自然発生的に集まった人たちの隊列であること。
デモの前後に集会などがあるわけでもなく、勝手に集まって、デモが終わったら流れ解散という形で、解散です。
いかなる政治的な色が付くのを嫌います。
大阪のデモは強烈でした。
コーラーさんの質が、さすが大阪という感じで、明快・的確でした。
今日のお台場も盛り上がったのですが、学生有志の数百人規模のデモというのがありまして、
社会人中心であった今までのデモ参加者から、彼らに対して大きな声援と拍手を浴びていました。

その後、フジテレビ側とあるデモの主催者側とでちょっとしたトラブルがありました。
まぁ、どうってことないのですが、象徴的なトラブルで、あとあと象徴的な事件として記憶されるかもしれません。

ぼくは暇ですから、どこのデモの様子もネットの生中継で見ることが出来ました。
もうこの流れは止まらないでしょう。
フジテレビの本社の真ん前で、数千人のデモ隊が取り囲み、フジテレビの警備員と揉み合いになっているのに、
それを報道しないフジテレビ、というのが問題になっているわけです。
しかも、それはフジテレビ単独の問題というわけではないのです。
すべてのメディアの問題なのですが、フジテレビはあくまでも突破口です。
フジは分かりやすい突っ込みどころを沢山しでかしました。
明日は我が身と知っているからこそ、ほかの報道機関も一斉にダンマリです。
体質はどこも似たり寄ったりです。
この都合の悪いことには黙る、隠すという姿勢こそがメディアの問題だとデモしているのに、NHKを含めてダンマリです。
これではデモが止むことはありません。

ぼくは数年前から今の一番の問題はメディアの問題だと周囲に言ってきたのですが、まともに聞いてくれた人はいません。
聞いてくれたとしても、ぼくの言葉に誇張を感じているのが明らかに表情で分かります。
でも、メディアの問題に入り込めば入り込むほど、ぼくの言葉など吹き飛ぶような、莫大な資金と思惑と操作が渦巻いています。
メデァを操作できれば、その国の政権や首相を意のままに選び、または退陣させることが出来ます。
まぁ、こういうことを言うと、また誇張を感じて眉をひそめられるのがオチです。

まぁ、この流れは加速するでしょう。
特に今回、初めての学生の有志の参加。
これは大きい気がします。
セクトとかイデオロギーとかいうのには、ほとんどの人間が嫌悪感を抱いています。
当たり前に、日本を日本人の手でよくしていきたいと思っている人たち。
そういう人がデモをするために立ち上がり始めています。


夏の終わり

2011年09月14日 | 雑感

体重計で測ったらここ数年の通常より1~2キロしか痩せていないのに、会う人会う人に痩せたねって言われます。
言われた本人としては、う、肝臓がそろそろやばいのかも知れないと思うのですが、その割には元気です。
今朝も畑に行きました。
このところ全然行ってなかった畑に行きました。
土の中に球根だらけで、そこまでしぶといとは知らずにそれをそのまま鋤込んでしまったものですから、
何を植えようが、それどころではなく畝が雑草だらけになります。
そんなわけもあって、雑草ごと畝をマルチ(ビニール)で覆って放置していました。
それで今日久しぶりに当地に赴いて、マルチを剥がし、濡れ落ち葉のように畝に張り付いていた雑草を取り除き、
石灰と堆肥を撒いて、土を起こし、際限なく土の中から出てくる球根を根気よく取り除き、ジャガイモを植えてきました。

ジャガイモは春先に植えようと用意したものを袋に入れて納屋に置いていたものですが、
すでに数センチほど芽を出していて、身の部分はブニョブニョになっていました。
それでも生きていましたので、そのまま植えました。
どうなることやら、見当も付きません。
それだけの作業で数時間かかりました。
不快なほどに汗だくです。
しばらく放置された土地を快適な耕作地にするのにはやはり時間と根気が必要です。

それを考えると、北海道の開拓民などの苦労は想像を絶するのだと思います。
おそらく入植後の数年は作物もろくに収穫できないまま、奮闘努力の連続だったのだと思います。
穀物の蓄えのないまま、彼らはどうやって長い冬を越えたのでしょうか。
アイヌの人たちを見習って鮭や木の実で飢えを凌いだのでしょう。
手作業で原生林を切り倒し、切り株を一つ一つ掘り起こして取り除いていくという作業は、過酷です。
切り株はその本体の数倍もの根を張っているわけですから、なんというか途方に暮れるような作業です。
それでも昔の開拓民の人たちは、今の北海道の豊かな食材供給の礎を造り上げました。
そのような人たちが満州に渡り、南北アメリカに渡り、どんどん大地を切り開いていきました。
口では言えないような色々のことがあったのだと思います。
それでも頑張れる家族の絆や人々の連帯があったのだと思います。

どんな時代になろうとも、基本さえしっかりと身につけておけば、生きていけます。
そういうことなんだと思います。
基本とは何か。
調子に乗ったらすぐ忘れることばかりです。

夏の終わりに。

http://www.youtube.com/watch?v=91x60tjxmXM

 

 


ボケナス

2011年09月13日 | 雑感

ナスは今でも盛んに実を付けています。
盛夏の頃にもたくさん実を付けていましたが、実りすぎというか、皮は固くあちらこちらに虫食いの跡が残っていました。
この頃のナスは違います。
皮は柔らかく、形も大きすぎず、身も甘くなってきました。
一夜漬にするととてもおいしいです。
サラダ感覚でばくばく食べています。
家族でぼくが漬けた漬け物を食べるのは、ぼくだけですが(笑)

シソはとても丈夫で、これでもかというくらいに茂ります。
とてもおいしい植物ですが、なんせ量を食べられません。
シソジュースとかいろいろ活用方法があるみたいですから、そのあたりは来季の課題です。
本当はシソは天ぷらが一番おいしいと思いますが、我が家は天ぷらというものをしません(泣)

畑を始めてから一年が経ちました。
感慨深いものがあります。
去年初めて畑を耕し、堆肥を混ぜ込み、植えたのがキャベツやらブロッコリーやら白菜のアブラナ科の野菜でした。
9月中旬を過ぎていて、少し植え付けが遅かったので、たちまち虫の餌食になりました。
それでもめげずに、春菊、ジャガイモ、ルッコラ、ダイコン、ハープ類、ニンニクと植え付けていきました。
白菜以外は無事に収穫することが出来ました。

一年を通してみて、だいぶ感触が掴めてきました。
野菜も生き物ですから、種を撒くにしても、苗を植えるにしても、時期が大切だということです。
一年中あれやこれやと休む暇もなく植えていますと、流石に土も疲労してきて、ミミズやカエルの数も減ってきます。
そこで化成肥料を使ったりするのですが、土はますます枯れていくような気がします。
堆肥を多めに撒くことと、畝と畝の間(通路)の土を掘り返して、畝に混ぜ込むと土の活力が復活するような気がします。
通路の土は踏み固められるばかりで、作物を育てていませんから、栄養分が豊富に残っているのでしょう。

収穫期が終わり、畝に立ち枯れた野菜の亡骸は、細かく切って通路に埋めるというのも雑誌で習いました。
これはとてもいいアイデアのような気がします。
何でもかんでも一切の無駄を省いて、循環すべきものは循環させる。
かといって、野菜の亡骸をそのままダイレクトに畝に鋤込んでみたところで、完全に栄養素に分解するには時間がかかることですし、
やはり通路に埋め込んで時間をゆっくりかけて分解させるのが理にかなっているでしょう。

自然農法で一番味の違いが分かるのはキャベツだと思います。
薬臭さがないのはもちろんのこと、味が濃く甘みが強いです。
虫たちがこぞって寄ってくるわけです。
一畝で数個しか収穫できませんが、しかもコストパフォーマンスは著しく悪いですが、まぁ、食べたら納得です。

野菜を作っていると、今度はその調理法に興味が移っていきます。
本業の店はどんどん暇になっていきますが、野菜関連の知識欲はどんどん高まるばかりです。

ところで、満月を見ました。
愛しいこの世の瞬間です。
一つもまとまらない欲深の心で、ものもいわない中天の満月に照らされます。
中原中也ではありませんが、「ああ、おまえは何をしてきたのだ」という気分になります。
実った先の姿を欲深に想像することは得意ですが、実るまでの過程の地味さ、勤勉さ、実直さを忘れています。
ぼくは野菜よりバカです。


茹でガエル

2011年09月10日 | 雑感

どうやら台風は九州を逸れてどこかに行ってしまったようです。
台風と共に吹き込んだ熱帯の湿った空気が流れ込んで、蒸し暑い日になりました。

畑は夏野菜から秋冬野菜への移行期です。
先日暑さでふらふらになりながら、夏野菜を片付けて空いた畝を耕してきました。
今年は雨が多かったせいもあり、雑草の育ち具合が半端じゃありません。
どれもこれも立派すぎるほどに成長しています。
しっかりぶっとく根付いていますので、手では抜け取れないくらいに育つものもあります。
鎌で片っ端から刈り取るほかありません。

世界がだいぶ騒がしくなってきているようです。
欧米の経済不安、アフリカ、中東の政変、中国、ロシアの軍事行動、日本国内だけがなんだか危機感が足りない感じです。
原発事故も収束しておらず、被災地の復興ビジョンも見えないまま、比較的のんきな日々が九州では過ぎていきます。
まさに日本は、国を挙げての茹でガエル状態なのかも知れません。

話は変わりますが、どうも雀の数が減っているような気がしてなりません。
まったくいないというわけではもちろんありませんが、見かける頻度が極端に減ったように思います。
今頃から増えるトンボの姿も先日の畑では見かけませんでした。
ヒキガエルは去年より数が少ないとはいえ、元気にぴょんぴよん跳び回っていましたが。

ヒキガエルは土を掘り起こすと寄ってきます。
たぶん土の中に隠れていた虫を補食しようとしているのだと思います。
店でたまたま入ってきた蚊をたたき殺して金魚にあげると、普段の餌の時の何倍もの速度で察知してぱくりと食べます。
土が崩れたり、洪水だったりするときは、大量の虫が水の中に流れ出します。
ある種の生物にとっては、そういう人間にとっての災害時のときこそ滅多にない餌の食べ放題の時期なのかも知れません。

昔中国で穀物を鳥たちが食べてしまって、一割くらいの収穫が減るということで悩んだらしいです。
それで指導部は鳥をやっつけようということで、どういう方法かで鳥たちをやっつけました。
すると、鳥たちをやっつけたおかげで、虫害が発生して、普段の五割減の収穫しか出来なかったそうです。

そういうことです。
それで虫害を抑えようとして殺虫剤を散布すれば、土の中のミミズなどの益虫も殺し、栄養素を循環させる微生物も殺し、
栄養不足の土地になります。
栄養不足の土地になれば、科学肥料を大量に土地に撒く必要が出てきます。
そうしてどんどんカエルも跳ばず、トンボも蝶も舞わないしーんとした土地になっていくわけです。
毎年毎年、使用する薬剤の使用量が増加するだけです。
そうして作った作物は、昔食べたキュウリやトマトやナスの味でないことは、生産者なら当然知っています。
それでも価格競争に勝ち、スーパーの苛烈な品質要求、価格要求に生き抜いていくためには、その路線をやめられません。
色々なきれい事は知っていますが、現実にその路線をやめる術はありません。

そういうのが今までの農業だったのだと思います。
それではいかんと、農家の人々も立ち上がり始めているようです。
せめて金持ちにならずとも、働いた分に見合う豊かな生活を送れる路線を手探りで探し当てつつあるように見受けられます。

第一次産業の復興こそが、日本の復興だとぼくは思っています。


アメリカ

2011年09月06日 | 雑感

今でもあるのかどうかは知りませんが、ぼくがアメリカ旅行したときはグレイハウンド・バスのフリー乗車券でした。
要するに、何週間とか何ヶ月とかその期間内は乗り放題という乗車券です。
ぼくはもっぱら町と町との間の、夜行のバスを利用していました。
町と町の間といっても、半日位は平気でかかりますし、宿代が浮くからです。

一度だけ預けた荷物が紛失した以外は、なんの不足もトラブルもなく、十分に活用させて貰いました。
長距離バスというのは、主に低所得層の人々が利用する交通手段で、まぁ、それなりに色々なことを見聞できました。
そのバスの停留所なんですが、日本ではバスターミナルというのですが、アメリカではバスディーポといいました。
また、田舎町ではそれが町のそれなりの中心地にありますが、大都市になりますと、ものすごい辺鄙なところにあります。
ロスアンジェルスやサンフランシスコのそれは、とてもとても危険な香りのする区画のど真ん中にありました。
そういう危険なところに降りたって、宿探しを始めるわけです。
そういうスリルというのは、女性にはお勧めしませんが、男性にはその片鱗でも味わっておくのをお勧めします。
アメリカの暴力を描いた映画がとたんにリアルに迫ってきます。

まぁ、アメリカというのはなんでもダイナミックなわけです。
風景も、町の人々のダイナミズムも、食べ物も、なにもかもダイナミックです。
繊細な合わない人には合わないでしょう。
ぼくは繊細でありませんから、とても心地よい空間でした。

ニューヨークに夜に着き、これまたちょっと危険な香りのする地区にあるホテルに飛び込みで宿を取りました。
すぐ近くに42丁目というポルノ街があり、そのホテルは8番街というちょっと不気味なところにありました。
心細さには慣れていましたから、エイヤと外に出て、歩いて行けるタイムズスクェアで携帯のラジオを買いました。
7ドルくらいだったと思います。
アメリカのFMの放送局は驚くほど多種多様で、チャンネルさえ合わせれば、好きな音楽が聞けないことはまずないでしょう。
中庭に面しているせいで日の当たらない小汚く狭い部屋で、そのラジオはとても重宝しました。

朝起きればどこかに朝食を食べに行かなければなりません。
朝日が輝くニューヨークは、ひたすら屈託がなく、活動的です。
近所の適当なダイナー(食堂)に入ります。
セットを頼むと、ベーコンエッグと、トーストと、フレッシュジュースと、飲み放題のコーヒーです。
バス旅行の最中には、大きなバスディーポにはたいてい付属しているバーガーキングのハンバーガーで食事で済ませますから、
そのセットの朝食はぼくにとってはとびきりおいしく感じられました。
そとには映画で見たようなニューヨークの朝の風景が広がっています。
誰もが必死に自分を支えようとしている街。

そして昼間は、地図を頼りにひたすら歩きます。
歩かないと、街の細部が分かりませんし、その頃は体力的に平気でどこまでも歩けたからです。
ブロードウェイをひたすら南下し、チャイナタウンに入り込み、リトルイタリーをきょろきょろして、
それでまたホテルまで歩いて帰ったりしました。
中華料理店やイタリヤ料理店に入るお金はもちろんありませんでしたので、ひたすらうろついただけです。
お金はありませんでしたが、美術館だけは贅沢に回りました。
なんというか、文化にしてもダイナミックなアメリカでした。

その後も何度かアメリカに行く機会はありました。
というか、一年ほどの語学留学もしました。
でも、最初のグレイハウンド・バスによる貧乏旅行に勝る経験はないかもしれません。

サンタフェ、サンアントニオ、サバンナ、ボストン、とても素敵な街でした。
アメリカ人は、多くの日本人がそうであるように良い人かどうかでは生きていない気がします。
自分をどう完全燃焼するかという真剣勝負をしている気がします。
日本人の生き方とアメリカ人の生き方を本気で融合したら、何かすばらしい人間像が見えてくるような気がするのですが。

 


無力感

2011年09月05日 | 雑感

台風一過の爽やかな青空が広がりましたが、被災した方がには心より哀悼の意を表します。
思った以上に甚大な被害でした。
那智勝浦町の町長さんのその日に結納するはずだった娘さんが亡くなり、奥さんが行方不明だそうです。
それでも被災地の行政のトップとして人々を率いていかなければなりません。
台風が遠ざかり、これからどんなに心が苦しくなっていくのかを思うと、絶句です。
だれも何もしてあげれません。

東北の震災でもそうでしたが、日本人はほんとうに心が強いです。
誰もが泣き叫びたいところを堪えに堪えて、未来を見ようとします。
そして隣人への思いやりを忘れません。

そして、そういう日本を根底から解体しようとしている勢力がいます。
今の政権与党です。
嘘みたいな話しですが、本当だから仕方がありません。

以下引用。

輿石東民主党幹事長は5日、在日外国人に対する地方参政権の付与に関する法案など、
国家観に係わる法案が出されることになった場合、党議拘束をかけるかどうかを記者団から聞かれ
「国家観が違う、違わないというのは、報道する側からの見方で、大事な方針や法案については当然、党議拘束がかかってくる」
と党議拘束がかかるのは当然との考えを示した。(編集担当:福角忠夫)

サーチナ 【政治ニュース】 2011/09/05(月) 19:31
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0905&f=politics_0905_016.shtml

引用終わり。

「在日外国人に対する地方参政権の付与に関する法案」というのは、前から言っている「人権擁護法案」とかなんとか、
要するに日本人が思っていることをそのまま言うことが大変はばかられる状況に持って行こうとしているわけです。

今ヨーロッパではどの国でも移民問題が社会不安を深刻化させて行っています。
先日ノルウェーであった無差別射殺事件も、根底には移民問題に対する鬱憤がありました。

「党議拘束をかける」というのは、当然この問題に関しては重大な影響を日本に及ぼしますから、当然民主党内でも
意見が割れるの予測して、それを封じ込めようとしているわけです。

この幹事長は、言うまでもなく、日教組のドンと言われた男です。
日教組と言えば、日の丸、国歌に反対、天皇制反対の集団です。
何を目論んでいるのか、推して知るべしです。

この手のニュースがおびただしくネット上にうんざりするほど連日流れています。
大手マスコミでは流されませんから、知らない人が多いでしょう。

政権の中枢が、国家解体を目論んでいる連中に抑えられています。
それなのに、マスコミは現政権が支持率が60%だの70%だのと言ってます。
なんだか無力感に苛まれます。

 


選択の時

2011年09月03日 | 雑感

台風は九州を逸れましたが、怖ろしい粘り腰で本州に居座っていますね。
神道でも密教でも、おそらくはどこの宗教でも、「浄化」は火か水を通じて行われます。
この世の中における「浄化」には、必ず誰かや何かの犠牲が伴います。
人の感傷を一切超えたところで浄化が行われるのでしょう。
古代、川の氾濫は多くの人々に厄災をもたらしたでしょうが、他方、その土地を肥沃にしました。

数年前、朝夜の区別なく、しょっちゅう雷が鳴っていた年が続きました。
ある晩などは、数秒おきに、しかも数時間にもわたって、ピカピカドンドン鳴り続ける
天空の雷劇場を言葉もなく眺め続けたこともあります。
雷は「神鳴り」とも言います。
なにかを人の世に懸命に伝えていたのかも知れません。

ぼくの店は一日数人の客しか来ません。
ここ数日、その数人の客が言うことのテーマがほぼ同じというのは興味深いことです。
ぼくみたいに暇人でインターネットをしているわけでもないのに、このところの日本がなにか変だと感じ始めているのです。
何がこの日本で起こっているのかという疑問が彼らの共通の話題でした。

特に彼らが危機感を覚えていたのは、若年層のものの知らなさ、好奇心のなさ、向上心のなさを憂いていました。
要するに彼女、彼らの息子や娘や嫁や従業員だったりする人たちの精神文化の貧弱さを憂いているわけです。
もちろん若者といって千差万別ですから、人それぞれなのですが、傾向としてはちょっと看過できないくらいに、
大きなそのような無気力的な傾向性を帯びてきたということなのでしょう。
うーん、無気力というのとは違いますね。
なんなんでしょう。
いかなるレールに縛られないという意味では自由なのでしょう。
でも、自分が好きなレールしか選択しないという不自由さもその裏にあるような気がします。
どんなレールも歩こうと思えば歩ける上での、自分のレールではなく、善し悪しはともかく、自分の歩きたいレールを、
自分の歩きたいペースで歩くというのが、その気風のような気がします。
それのどこが悪いのかといわれれば、まったくもって、悪くはありません。
自分の歩きたい道を、歩きたいように歩いて、誰が悪いと言えるでしょうか。

でも、どこかが、何かが、おかしいのです。
例えば、だれでもひとは自分がその道を歩きたいと自分が決めたと思っています。
では、今の小学生や中学生にアンケートを採ってみれば、おそらくなりたい将来像は芸能人、芸術家、タレント、
そんなところがトップに来るのではないでしょうか。
それが悪いことではありません。
何になりたいかはもちろん自由です。
でも、それが今の小中学生が自分で考えて選んだ進路の選択なんでしょうか。

戦前は、多くの男子は兵隊さんになって、お国のために闘うんだと本気で思っていたようです。
言うまでもなくそういう教育を受けたからです。
今の子供たちは、テレビを見て育ちます。
道徳やら修身やらをやかましく言われることもなく、今のテレビを見て育ったら、そりゃ、
華やかそうで楽しそうなブラウン管の中の世界に憧れます。

兵隊になってお国のために闘うという教育は戦後徹底的に批判されて、消滅しました。
では、なんの道徳的な道筋もなく、テレビ文化に対する耐性を身につけさせることもなく、
何か一見華やかで楽しそうな世界に憧れさせることには無批判で許されることなのでしょうか。

ブラウン管(←古い?)の中はもちろん虚構の世界です。
甘い物にはたちの悪い人々も当然沢山よってきます。
競争も苛烈です。
そこで負けた人間は、ボロ雑巾のようになります。
兵隊さんになるのが悪いことで、ボロ雑巾のようになるのは、いいことだとは思いません。
どちらもうさんくさいわけです。

戦前・戦中も新聞は戦争を煽りに煽りました。
今のメディアが、その反省から、まっとうになって公明正大の立場から物を言っていると思ったら大間違いです。
煽る方向性が180度替わっただけです。

すべての基本は、すべての人々が、すべての個人という尊厳を取り戻すことです。
メデァに扇動されて作った虚妄な個人像という物を打ち壊すことです。
と、ここまで書いてきて、正直言って、面倒くさくなります。
人の尊厳をブ一ブログで説き起こす?

一々証拠や事例を挙げてメディアの嘘くささ、胡散臭さを論証していけばいいのですが、膨大な作業になります。
今のメディアの問題点を一つだけあげます。
彼らは報道の自由を、報道しない自由にすり替えて、その権力を好き放題使い始めています。
どんなに時の権力者が国会で追及されようとも、それを報道しなければ、権力者は安泰です。
権力者とメディアがスクラムを組んでいますから、もう無敵です。
一国の総理が、外国人から献金を貰おうが、極左団体に巨額の献金をしようが、それが国会で野党から完膚無きまでに指弾されても、
メディアは完全に無視しました。

民主主義国家でありえない話しです。
ありえない話しが、現実に進行しています。

そこで、話を元に戻します。
自分の好きなことを自分の好きなペースでやれればそれで良い、とする若者が増えているとします。
そういう人々は、誰に都合が良いと思いますか?
適当な衣食住空間と、その空間内で少しだけ自由に動けるスペースがあれば満足する人々。
そうです、まるで従順な羊や牛の群れです。
あとは不満が爆発しないように、毎日毎日何らかの労働を課せ、じわりじわりと税金を搾り取るだけです。
でも、その空間にいる人々は、牧場の羊や牛のように、生きている間は自分たちのことを不幸とは考えません。

自分を取り戻すというのは、言葉で言うほどたやすいことではありません。
逆に言うと、どんなに嘘や虚偽にまみれていても、それを自分とすることは可能です。
本当の自分というのはたった一つですが、ただの自分というものなら、無限に作れます。
本当の自分というのは光源ですが、その光源は無数の嘘の自分を作ることが可能です。
誰かのろくでもない意図によって作られた自分という虚像を、自分と思い込ませる作戦が進行中です。
しかも、最終段階に入ってきているようです。

酔っ払いながら書いているのですが、書けば書くほど舌足らずになります。
なんというか、一方では「人は本来仏なり」という教えがあるかと思えば、人を羊や牛と同扱いするシステムがこの世を席巻しています。
選択の時ですね。