風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

参加

2007年06月26日 | 雑感
明け方、赤ん坊が泣いたので目が覚め、焼酎のお湯割を作ってベランダでボーっと夜が明けるのを見ていました。
空は薄雲の覆われ、街にもモヤがかかっています。
そのうちに東の空が本の少しづつ白み始めます。
空が明るくなるにつれ、山並みのシルエットが青く濃く浮かび上がってきます。

夜から朝方にかけ、山や野には昼間には顔を見せない無数の神々が躍動している。
日が昇ると、夜の神々は太陽神アマテラスオホミカミから身を隠すようにどこかへ消えうせてしまう。
そう感じました。

そういえば、夜の11時ころもベランダに出て夜景を見ていたのですが、
半月が出ているにもかかわらず、すぐ左隣に明るい星が南天に輝いていました。
月の光にびくともせず輝くあの星はなんという星なのでしょうか。

そんな感じで、神々やら星々やらは悠久の舞を舞っているわけですが、
人の世は相変わらずグタグタ感が強まってきていますね。
そこまでしてコロッケの原価を下げなくてならないものかと素朴に思います。
このままでは社会保険が成り立たなくなるのは、現場の人間はとっくに分かっていたはずです。
何が起きても、誰も明確な責任を取らないのが常態となってきました。
監督官庁というのは監督権がある変わりに、責任もあるはずなのですが、そういう話は聞いたことがありません。
どうせ配転、配属、天下りで、当時の責任担当者がいなくなってから事が発覚するのが常ですし。

そんなグダグダな流れは流れるに任せて、ぼくはぼくの歩む道を考えます。
例によって、考え付くとそれで満足してしまう癖があります。
道というのは考えるものではありません。
歩むものです。
足が退化しかかっているかもしれません。
退化しかかっていても、それでも、一歩を踏み出す。
一歩を踏み出すと、二歩目、三歩目は楽に踏み出せます。

ところで、セルシオの中古を買うことになってしまいました。
昨日見ましたが、ぼくにとってはとてつもない高級車という感じがしました。
身分不相応だと思うし、欲しいとも思わなかったのですが、色々流れがありまして。
カーナビ、サンルーフはまだしも、後部座席にはマッサージ機まで付いています。
どういう顔して乗ったらいいのか、まだ分かりません。
気楽に乗るには、4000ccもありますし。
ぼくのことですから、どうせ洗車などしません。
うす汚いセルシオを見かけたら、ぼくのだと思ってください。

なんにせよ、今年ももう半分が過ぎようとしています。
恐ろしく時の流れが速いです。
考えているうちに、出来事は次から次へと後ろに流されます。
ヘタに考えず、参加して、感じて、豊かな瞬間を積み上げて行く必要があります。

昔の実存主義哲学者が、「参加」ということを大きなテーマにしました。
そのテーマは、ますます大きく今を生きる人の方に圧し掛かっているように思います。
政治運動や集団行動に参加する形ではなく、生きることに参加するということ。
個人が個人の思いや意志に参加するということ。
簡単そうで難しく、難しそうで簡単なテーマかもしれませんね。



梅雨入り

2007年06月13日 | 雑感
梅雨入りしました。
日本は真水に恵まれに恵まれている国です。
どんどん降って、地面にどんどん吸い込まれて、いつまでもせせらぎ豊かな国であって欲しいです。

日本ではふんだんに水に恵まれていますからなかなか実感がわかないところがあるのですが、
災害なんかに見舞われますと、もっとも緊急に必要になるのが真水です。
日々生活するうえでの基本中の基本である水が、一年のある間ジャブジャブ降ってくるのは大きな恵みですね。
その水を山が蓄え、森が蓄え、湖や池が蓄え、一年中使わせてくれるわけです。

温暖化に加え、中国やオーストラリアでは、砂漠化という大きな問題が立ちはだかっているみたいですね。
いったん砂漠化しますと、緑が戻ってくるのは難しいみたいです。
砂漠というのは昼夜の温度の大きな差やら、保水力がない故に、すべてをボロボロの砂に変えて行くわけです。
砂に接した地域は、砂のその影響を受けて砂漠化して行きます。
砂漠は成長するんですね。

砂漠にたまに降る雨も、緑が根付く前にたちまち蒸発してしまいます。
養分を含んだ「土」というものが養成されませんから、砂はカラカラの砂のままです。

湿度の高い湿地や泥地というのは、実は養分と生命の宝庫です。
生き物の連鎖が多様で層が分厚いですから、生き物でむせ返ります。
そういう状況では当然病原菌も活動が活発ですから、近代以降の人間はそのような土壌を
土やコンクリートで埋め、家で覆い、折角の土壌をせっせと窒息させるようなことばかりをしてきました。

「モスキート・コースト」という小説(映画にもなりました)がありました。
アメリカの無軌道な資本主義社会に嫌気がさした主人公が、家族を引き連れてアマゾンの奥地の村を丸ごと買い取って移住します。
原始の自然こそが尊いというわけです。
しかし、一方主人公は科学者であり、発明家です。
アマゾンのジャングルの真ん中に巨大な冷蔵庫を建設します。
その冷蔵庫で出来た氷を近辺の原住民に分け与え、自宅にはクーラーを備え付け、意気高々になります。

しかし、ジャングルに逃げ込んできたならず者のせいで、その冷蔵庫が爆発炎上します。
ジャングルの中の天国みたいだった村が全滅し、村民も逃げ出します。
主人公はそれでも狂信的な夢を捨てず、家族はアメリカに帰りたがります。
主人公は、今度は海岸べりにガラクタを使って掘っ立て小屋を立て、暮らし始めます。
家族は一人残らずうんざりし、主人公を憎み始めます。
最後に主人公はある事件で死に、家族はほっとしてアメリカに帰ります。

この話は、近代西洋人の自然観をよく現しています。
原始の自然を讃えはしますが、あくまでも文明の利器を持ち込んで、そのにありのままある環境を変えることこそが理想なのです。
その理想は、一見輝かしくさえありますが、もの凄くもろいものだということです。

今でも、我々はそのもろさと隣りあわせで生きています。
自然が唸りを上げて暴れ始めたら、何一つなすすべはないままです。

自然との共生ということが言われますが、その言葉にはまだ人間の驕りが見えます。
人間もその自然そのものの一部なんだという視点で考えなければならないのだと思います。

可能性

2007年06月11日 | スピリチュアル
可能性の話です。
簡単に言ってしまえば、やろうと思えばできること、ですね。

で、たいていの人が躓くのが、「やろうと思わない」「やろうと思えない」ですね。
ぼくなんか躓きっぱなしです。
自分で自分の限界を決めてしまいます。
「しても無駄だろう」「どうせ無理だ」「するだけ損だ」などなどの言葉で、自分を制限します。
自分で制限を持った瞬間に自分の可能性も制限されます。

ある本によりますと、人は「生きられる」と本当に信じ込めば、130才位まで生きられるのだそうです。
切断した手足も、蘇生すると信じ込めば、再びはえてくるのだそうです。
その真偽は分かりませんが、眠り込んで使われていないDNAが覚醒することがあれば、そんなこともあるのかもしれません。

ここで再び「思う」ことの大切さの話になります。
できると思えばできることも、できないと思い込んでいることによって、自分の人生をとても狭いものに閉じ込めている可能性が
大いにありそうです。

「~したい」と「思う」ことができれば、それはできることなのだそうです。
それをし続けたいかどうかは別の話になります。
途中で気が変わることもあります。
それから、したいと思ったら、それをし続ける忍耐力と強い意志も必要になりますが。

それでは、人の可能性を制限するものというのはなんなのでしょうか。
それはその時々の人の社会に飛び交う言葉の力が大きいですね、やっぱり。
「男は(女は)~であらなければならない」「人というのはそういうものだ」「何々があれば御の字だ」
などなど、人を制限する言葉というのはいつの時代にも力を持って意図の意識を制限するものです。

先日、聖書を流し読みしていたら、面白い記述がありました。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10-34)

その剣で、社会とそして家族とさえ戦い、キリストの説く道を歩めと言うことなのでしょう。
社会通念と、家族の通念とも戦えということです。
剣を手にしてでも意識の制限を外せ、ということなのかもしれません。

日々流されて生きていたら、なかなか己の可能性の限界というようなところまでは見えませんが、
日々の瞬間瞬間に、自分のしたいこと、できることということに集中したら、
可能性の限界が見えてくるかもしれません。

その限界を越えるか超えないか。

それはひとえに一人一人の「思い」にかかってくるわけです。




人は神?

2007年06月09日 | スピリチュアル
えーと、「神=人」説です。

「神はこのように、人をご自身のように創造された」(創世記1ー27)

古神道でも人の魂は、根源神の分霊(わけみたま)であるとされてますし、
仏教でもすべての人に仏性があるとされます。
仏性と神というのは厳密に言えば定義に食い違いがあるでしょうが、
あるエネルギーを神と呼ぶか、仏と呼ぶかの違いかなとぼくは思っています。

ある説によりますと、エネルギーは以下のように形を変えるのだそうです。

意志(思い)>電磁波(光)>物質

右から左に行くに連れて、波動が低いものになります。
光が電磁波の一種であることは、今発売されている「ニュートン」に解説されています。

この大元の「意志(思い)」を神と呼ぶのだと思います。
光や物質に姿を変えつつ、大いなる永遠のエネルギーの循環を通して、
神が顕現している。

で、そのエネルギーの循環の一つが、宇宙であり、この人間界であり、一人一人の人間であり、動
植物であり、鉱物であり、大気であり、海であり、風であるわけです。

逆に言えば、神でないものは何一つないということになります。

さらに言えば、人間の特色として本能を制御する「理性」と「意志」が与えられています。
この「意志」をいかようにも使える自由が与えられています。

この地球上で自分の自由意志で自分の生命をコントロールすることができるのは人間だけです。
すべては神だと言うことはできますが、その生命の在り方を自由な意志に委ねられているのは人間だけです。

その意志、思いが強ければ強いほど、自由なら自由なほど、人はどこまでも可能性があります。
この可能性こそが神のフィールドです。
つまりは、人のフィールドです。

ちょっと端折りすぎですが、そんなふうに思っています。






コングロマリット

2007年06月08日 | スピリチュアル
なんか世の中、荒れている感じがするのは、狭い世界に閉じこもっているぼくだけなんでしょうか。
歯止めが効いていない感じがしてしょうがないです。

話は変わって、昨日「ザ・シューター」という映画を見に行きました。
政官財一体となった巨大な利権組織、コングロマリットと一人で戦いを挑む男の話です。
映画は面白かったです。
アメリカ映画というのは、こういう政財界の暗部を上手く描くことに長けていますね。
日本映画では自主規制なのかなんなのか分かりませんが、ここまで切り込むというのは見たことがありません。
日本も政官財の癒着と暴力組織との一体化したやりたい放題は、その筋の文献を調べればいくらでも出てきますが、
マスメディアで取り上げられることはありませんから、人々は知ろうにも知らないでいるという状況でしょう。

おそらく、日本のこの荒れ方は、日本独自のコングロマリットがのたうち始めているんだと思います。
息の根を止めるのか、さらに醜悪に太り続けるのか、今の事態を見守る人々の意識次第なんでしょう。
権力を監視すると謳いながら、実は権力機関との癒着が甚だしいのがマスメディアだという指摘がありますが、
メディアが先頭に立たないと権力と戦うというのは、個人では無理です。
その辺は、ちょっと絶望的な感じはぼくはしています。

次から次へと陰惨だったり、愚劣だったり、お話にならなかったりするようなニュースが連日断片的に流されていますが、
真相は闇から闇へと意図的に日の下に出ないまま葬られていっているように思います。

人々が意図的に骨抜きにされているんだろうと思います。
街で人に注意することも出来なくなりました。
見てみぬフリが一番だという社会は、そりゃ堕落する一方です。
見てみぬ振りしている間に、好き勝手に甘い汁を吸う人間が、残念ながら少なからずいます。
政財界+メディアが正せないなのだとしたら、社会の暗部に目を向けることは、フラストレーションを溜めるだけになります。

社会の暗部がすぐそこにあることを知りながら、なにもできない無力感というのはあります。
ありますが、そういう有様を憎んだり、嘆いたりしていれば、思う壺です。
誰の思う壺なのかという議論は、少々込み入ってますのでここでは省きます。

それでも自立して毅然と自分の道を自分で選んで歩くためにはどうすればいいのか。

いろいろ道筋はあるのでしょうが、「足るを知る」と「一人一人の人間=神だと知る」でしょうか。
人間=神というのは、別に驚くような言説ではありません。

でも、いきなりな言葉かな?(笑)

明日、気が向けば、そのことについて書いてみます。

いいことをする

2007年06月07日 | スピリチュアル
昨日買った「火の鳥]4冊読みましたが、驚きました。
ぼくがここでつべこべ言っているようなことは言うに及ばず、遥かそれ以上のものがズバズバすでに書かれていました。
今流行のアセンションも、宇宙の意志も、生命の循環も、宗教の退廃も、ぜ~んぶ見事に書きつくされていました。
以前に読んだ時、一体なにを読んだでいたのでしょうか(笑)

手塚治はおそらく天啓で描いたのでしょう。
そうとしか考えられません。
すごいなぁ~。

このブログを書き続けるモチベーションを維持するのが難しくなってしまいました。
全部書かれてしまっていますから。
あとは、個人の日々のしょぼい体験日記にしかなりません。

う~ん。

要するに、上段に構えて、大層なことを書こうとするのはやめればいいんですね。
日常の片隅に潜むきらりとしたものを丹念に拾い上げるような、そんなものが書ければ、それなりの意義は保てるかもしれません。

そうそう、あるブログで読んだんですが、「憑依」ということについて、なるほどなというのがありました。
その真偽は定かではないにせよ、迷える霊が人に取り付いて、だるくなったり、落ち込んだりさせたり、
ということがあったとします。
そんなときは、神社、寺、霊能者などに頼んでお祓いを受ける、というのが通常のパターンです。
でも、その方が言うには、そんなときは「いいことをしろ」と言ってました。

憑依というのは、その人間の波動がその迷える霊に似たものになることにより、憑依されるのだそうです。
類は友を呼ぶの法則です。
迷える霊であり続けるくらいですから、好ましい波動でないことは言うをまたないでしょう。
で、「いいことをする」です。
いいことをするにはエネルギーが要ります。
落ち込んだり、だるかったりする自分を奮い立たせて、実際にいいことをするという行動に移すとき、
その時すでにその人間の波動は変わっているわけです。
波動が変われば、取り付いた霊も居心地が悪くなって離れるだろうと。

元気に挨拶するとか、道端のゴミを拾うとか、落ち込んだり、だるい時にはなかなかできないものです。
だからこそ、する。
すると決心し、行動に移せば、確かに波動は変わるでしょう。

大体において、憑依されたとする現象の時は、その人間は悲観的、被害妄想的、消極的になるものです。
好ましくない波動がどんどん増幅されるようになっているみたいです。
「いいことをする」意欲とは、まるきり正反対の方向性を持っています。
そこで、敢えて、「いいことをする」ことで、その悪循環を止めるわけですね。

でも、これは憑依されたごく初期に有効なのであって、長年の憑依現象には難しいかもしれません。
マイナスのエネルギーに馴染みすぎて、「いいことをする」という行為に踏み込む決断が難しくなるかもしれません。

ま、そういうこと以前に、迷える霊など寄って来ないような、明るい気持ちでいればいいことです。
明るい気持ちでいるための指針というのは、色々あるのでしょうが、今日読んだ「致知」の記事からの紹介。
「人生は心の文字の制覇」という記事がちょうど読んだとことです。
「心」の付いた文字、恩・恵・感・思・徳・恕・念・志・意、こういったことを日々の中で大切にしていくということです。
心を正しく養えば、明るい人生が送れる、と。

ま、それはそうですが、なかなかあれなのも人生なんですが。

火の鳥

2007年06月06日 | スピリチュアル
今日は快晴、汗ばむくらいの陽気です。

思うところがあって、ブックオフで手塚治の「火の鳥」を買ってきました。
昔読んだ記憶があるのですが、昨日食事を伴にした知人に言われた細部を覚えていませんでした。

何でも、日本への仏教招聘の折に、四天王が日本の国土のあらゆるところに宿っていた神々の眷属というか
精霊というか、そういうものを片っ端から抹殺していったのだというようなことが「火の鳥」に描かれていたのだそうです。
仏の守護のために、四天王がそういうことをしでかすことはありえそうな話です。
眷属とか精霊というのは、その位もピンからキリまであるみたいだし、人間の手助けをすることもあれば、
悪戯や悪さもすることがあるらしいです。

その話を聞いた時、驚いた一番目のことは、手塚治がその当時にそういうことを描いたということです。
今は、眷属や精霊に関して書かれた書物というのは探せば結構あるのですが、
その当時はものすごく斬新な話ではなかったろうかと思います。
どこからインスピレーションを得たのでしょうか。

ま、四天王がそうした結果どうなったのかは読んでみないと分かりませんから、それ以上のことは言えませんが、
なんにせよ興味深い話ではあります。
全部で9巻あるうちの4巻しか揃っていなかったので、そのエピソードが載っているかどうかは分かりませんが。

海外で日本のマンガブームだそうですが、「火の鳥」なんかも訳されて売られているのでしょうかね。
どんな小難しい研究書よりも、日本を紹介するのに相応しい本ではないかと思います。

話は変わりますが、行を明けてから今日初めて牛肉を食べました。
モスでハンバーガーを食べながら、「火の鳥」を読みました。
おいしかったですが、酒を飲むより引け目を感じべきのように思いました。
引け目を感じるくらいなら食べなきゃいいのです。
でも、ちょっと食べてみようかなという誘惑があったのです。
こうして取るに足らない日常が続くわけです(笑)


小さな喜び

2007年06月05日 | スピリチュアル
今日は曇り空、厚い雲の下で今日も人々は色々な思いを抱いて生きているんでしょう。

最近関西で起きたある事件をネットで検索していたら、非常に嫌な気分になってしまいました。
近頃起きる事件というのは、その細部のどこを探しても救いのないような事件が多いような気がしています。
初めから救いとか光とかを拒絶して、ひたすら闇に吸い込まれていくような事件。
それについて考えたり感じたりするだけで、闇がひたひたと心の中に侵入してくるような気がします。

一つ一つの事件の背後には、当然、何百何千という関わる人たちがいるわけです。
その人たちも、多かれ少なかれその事件が巻き起こす闇に侵されます。
なんというか、この期に及んで、闇を志向せざるを得ないというのは、とてもきついことですね。
関わりたくない人まで、事件になりニュースになり報道されればば、その波動は日本全国を覆います。
逆に、気持ちのいいこと、爽快なことというのは、事件にならないし、ニュースになりにくいですから、
そういったいいは波動はなかなか日本全国に広がりにくいかも知れません。
何とか王子の話題もいいですが、例によって取り上げ方が浮つきすぎているんで、あれですし。

もちろん、メディアが伝える陰惨な事件にいちいち巻き込まれる必要はないんです。
一人一人の地道で、尊い毎日が営々と築き上げられていれば、重く暗い波動に惑わされることもありません。
感謝と喜びを持って朝の大気を胸一杯に吸い込むような暮らしをしていれば、なにも恐れることはないと思います。

闇があるから光の尊さが分かるというのも一理あるんですが、近頃の闇は深すぎます。
覗き込むと出れなくなるような深い闇です。
闇が心に進入してきそうになったら、笑うなり、身体を動かすなり、森林浴をするなりして、
早めに闇を追い出しておく方がよさそうです。
そして、楽しさ、嬉しさ、ありがたさの波動をどんどん胸に溜め込んでおくのがよろしいかと思います。

ある情報ですが、活動を活発化させている太陽からの電磁波がどんどん強くなっているそうです。
その意味するところは、光と闇の世界が、くっきりと分かれて表面に顕れてくるのだそうです。
そういわれれば、最近の事件なんかもそういう流れの現われなのかなと思います。

闇の世界というのは、その邪悪さ、陰湿さ、不透明さ、不快さなどでなんとなく判別できますが、
では、光の世界というのは、分かっていそうで分からないかも知れませんね。

う~ん、どうでしょうか。

「シンプルな喜び」が伴う世界が光の世界と言ってもいいのかもしれません。
シンプルな喜びって、上げてみると結構あるんですね。
小さな親切をすること、されること。
感謝すること、されること。
ご飯をおいしく食べること。
人の笑顔を見ること。
空がきれいなこと。
風が心地いいこと。
犬がじゃれあうのを見ること。

上げていけばキリがありません。
そういう小さな喜びの世界こそが光の世界なのかもしれません。

それに比べて、闇の世界はすべてが大仰で、複雑で、分かりづらくて、声がデカイです。

小さな小さな喜び。
それを積み重ねることが大切なんでしょう。


棚ボタ

2007年06月04日 | 雑感
今日は近所にトンコツでないラーメン屋(鶏ガラ)が出来たので気分がいいのでもう一つなんか書きます。
トンコツはさすがに慣れたのですが、いまだに食べたいとそれほど思うことが出来ないでいます。

自分でも思うのですが、ぼくの前世は「戦士」だったと思います。
「戦い」ということに興味を惹かれますし、戦略や戦術を考えるのはおそらく得意です。
「おそらく」と書いたのは、その戦略・戦術を実行する胆力・気力に決定的に欠ける素質を持って今生は生まれてきたからです。
こうすれば成功する、これは売れると思ったことが、程なく誰かがやって、実績を上げます。
言っときますが、ぼくだってやれば出来るというようなことを言いたいのではありませんよ。
そのような胆力・気力に恐ろしく欠けた素質というのを、実は好きだったりするわけですから(笑)

要するに、ぼくの今生のテーマが「闘う」ということにはないらしい、そう言いたいわけです。
商売にしてもなんにしても、この世で何かするに当たっては、必ず人との関係が生まれ、
損得関係、人情関係、好き嫌い関係、色々な関係を潜り抜けていかなければならないわけです。
潜り抜ける上で、その人間対人間の力学を察知する能力、いわば人間関係における戦略・戦術が割りとはっきり見えます。
でも、見える段階で、その関係自体から遠ざかってしまいたい衝動に駆られます。
その関係を構築・維持する上での「駆け引き」が、想像しただけで心底嫌になってしまいます。
人間関係というのは、それを維持する気力・忍耐力・楽天的な見通しなどが必要になりますが、
そういうエネルギーが少ないなぁと我ながらいつも思います。

ぼくにとっては、人間関係の維持することも、ある種の「策」に思えることがあり、
そのいう「策」を弄しようとする自分が嫌になるところがあります。
それは、おそらく思い過ごしであり、勘違いであり、不必要な考えだとは思うのですが、
そこで思い至るのは、過去生の戦士であった時のトラウマではないかと。

戦士として生きる上で、策を弄して、他者に勝ち続けることが一生だったとするならば、
今生はいかなる「策」を弄することも潔しとしないと決めたとか。
そんな感じがするわけです。

そんな自分の性格を思い知って、一時は野垂れ死に覚悟の隠遁者を覚悟していた時もありました。
別に、悲しいとかなんとかというい感情は全然ない上でですよ。
今回はそういう人生なんだなと、アッサリ思っていました。

そんなぼくにも子供が出来たわけです。
よく周囲の人から子供が出来れば変わると言われ続けてきました。
で、変わったか。
変わらないんですね、これが(笑)
もちろん野垂れ死にの隠遁者であることは許されない状況になりましたから、それはあれですけど。
やはり「戦い」はしたくありません。
「戦って勝ち取る」ということに対して徹底的に不信感があります。
いただいてありがとうという気持ちが、ぼくの中ではベストです。
いただけなくて、こんちくしょーという気持ちはありませんよ、念のため。
ようは、何かを自分のためにエネルギーを使って手にするということが不得意なんです。
棚ボタを待つ人生です。
棚ボタがなければなければいいやという・・・。
誰の参考にもならない話ですね(笑)

厳密に言えば、因果の法則は信じていますから、棚ボタということはないとも思っているんですが。
とにかく、勝ち取るという以外の方法で、何かをいただけるということを信じたいというか。
実際、この世に生かしてもらっているのは、策を弄して「勝ち取った」わけじゃありませんしね。
「生きているだけで丸儲け」という言葉を、実感したい今日この頃です。




散歩

2007年06月04日 | 雑感
今朝も気持ちのよい空でした。
秋を思わせるようなからりとした涼しい風が吹き、高層の雲が棚引いていました。
山を覆う緑は、新緑の明るいグリーンから、深緑色に装いを変えていました。
ベランダに置いてある物入れの箱に坐って、コーヒーを飲みながら、ぼんやりそんな風景を眺めていますと、
とても幸せな気分になります。

日本の都市作りのコンセプトというのは、とても貧弱です。
大きな客寄せの箱物があって、導線沿いに商業施設があって、適当に街路樹を植えてという、
極めて浅薄で、味気のない規格で日本全土が覆われています。
道という道がアスファルトに覆われているため、夏は耐えがたい暑さで、冬は寒々しいです。
散歩という、味わい深い趣味が叶わぬ叶わぬ国になってしまいました。

ヨーロッパの町々では、夕暮れ時になりますと、仕事を終えた住民たちがぞろぞろ街に繰り出してきます。
そこかしこのカフェやなんかのテラスで、ワインやビールを片手に常連同士が冗談を言い合います。
どんな田舎の小さな町でも、そんな光景が見られます。
街が街として、生きています。
ヨーロッパだけでなく、中国、東南アジア、おそらく中東でも、それなりのやり方でまだ街は生きていると思います。
日本の街は、大都市を除いては、夕暮れ時の街は死に絶えた感があります。

古い町並みの石畳の上をぶらぶら歩く。
夕暮れ時の田園をぶらぶら歩く。
日が暮れるまで遊び騒ぐ子供の歓声を聞きながら、川岸を歩く。
夕日の残照に照らされた山並みを眺めながら、歩き慣れた道をぶらぶら歩く。
そんな「散歩」というのが身近なところで出来ない国になってしまいました。

日本というのは四季折々の自然の美しさで、訪れた人の目を見張らせる国でした。
今では、人里離れた辺鄙なところにでも行かないと、そんな風景はみられません。
田舎と呼ばれるところでも、電柱、電線、看板、コンクリートだらけです。
日本人が一番自然の美というものに対して鈍感になってしまったかの感があります。
建物もどこへ行ってもお決まりの建売住宅だらけですし、地域の特性というのがねこそぎ掘り返されてしまっています。
大都市の混沌は、混沌としてみれば面白いところもあるのですが、美とは程遠いです。

人の暮らしにたいそうなものが必要だとはぼくは思いません。
仕事を終え、懐かしんだ往来の人の行き来を眺めながら、ゆっくりした時間を過ごすことが出来れば、
大抵のストレスはなくなるんじゃないかと思います。
朝夕のきれいな空が見れる時間に、満員電車に詰め込まれていたら、そりゃぁストレスがたまる一方です。

特に子供にとって、今の環境は劣悪です。
自然に親しむどころか、友達と遊ぶこともなく、コンビニのおにぎりをほおばりながら習い事で日々を過ごしていたら、
自由に夢を野山に馳せることのできる子供の想像力が育つはずもありません。
今の子供の親の世代から、いわゆるカギっ子とか言われて、自然や共同体に親しんでこなかった世代ですから、
さもありなんなんですが。

これから、老人が急速に増え続けていくわけです。
せめて、散歩できる町並み、散歩して楽しい気分を味わえる町並み、それがないと老人たちはどこへ行けばいいのでしょう。
なかなか普通に生活するにも過酷な環境になってしまいました。


スリル

2007年06月02日 | 雑感
今日は青空こそ見えませんが、涼しく気持ちのよい日です。
滝行もありがたく満了させていただきました。
合掌、低頭、です。

滝から家に帰って、ビールを飲みました。
ハラワタに染みました。
何もかもが幸せに感じます。

昼は、お客さんと蕎麦を食べに行きました。
日本酒を頼みました。
う~ん、なんという満ち足りた生活をいただいているんだろう、という感じです。
別に、酒が飲めるから、ということだけではありませんよ。
食べるに不自由のない生活があって、行をさせていただいて、仲間がいて、気持ちのいい風を感じることができて。

このありがたさが、数日もすれば当たり前になり、退屈になり、不平不満にならないよう、
日々の瞬間瞬間の密度を高めていく必要があります。

一昨日ですか、、小学校の横を自転車で通ったら、光化学スモッグで延期になった運動会が行われていました。
上級生のアナウンスで、「一年生の入場です」というアナウンスがあり、思わずグランドに目を向けました。
「トトロ」の「歩こ~、歩こ~、わたしは元気~♪」というテーマソングに合わせて、
一年生がバラバラに手足を動かしながらグランドに入場してきます。
親はたまりませんね(笑)
遠くから見ているだけのぼくですら涙が出てきました。

すべては嬉しく、楽しく、平和です。
それを勘違いするのが人の心です。
その心の勘違いを分析し、対案を考えたりというのは、もう必要ないのかもしれません。
嬉しく、楽しく、平和でいると決めることだけが大切なのかもしれません。

決める。
簡単なようで、一番難しいことなのかもしれません。
安易に決めたら阿呆になるし、疑り深かったら暗い落とし穴にはまります。
いつも陽射しの下で、明るく生きるのはそんなに難しいことなのでしょうか。

難しくしてしまったんですね。
意味もなく、やたらに。

考える訓練というのも必要ですから、あれこれ疑問に思うことももちろん大切です。
でも、疑問は次々と新たな疑問を生み出します。
思考に頼ると、果てしのない知的ゲームに嵌っていきます。

思考と同時に、「感じる」能力、さらに言えば「洞察する」能力も生きる上では必要ですが、
残念ながら、その類の能力は学校や書物では養成できません。
それぞれが味わう「体験」の深さがその能力を養います。

「体験」というのは、常にスリリングなものです。
安全が保証されていません。
そこがジレンマですね。

でも、「生きる」ということがスリリングでなければ、「生きる」意味というのはあるんでしょうか。
なかなか難しいところではあります。


過渡期

2007年06月01日 | スピリチュアル
今朝、目覚めてキッチンに行ったら、白い壁がオレンジ色に染まっていました。
窓の外には、息を呑むような茜色の朝焼け空が広がっていました。

それから21日目の滝に行って、月初めのお宮参りに行きました。
お宮参りする人の数が目に見えて増えているような気がします。

政治も経済も社会も荒れ模様ですね。
相変わらず政策論争ではなく、政局狙いだし、
アメリカ経済はヘンテコな動きだし、松下も日産もあれだし、
実の親による子殺しが連日です。
狂っているといえば、狂っているのですが、妙に世論が大人しいです。
世論に振り回されなくなって来ていますね。

前にも書きましたが、もう組織という組織がまともに機能しなくなっている感じです。
社会保険庁の問題にしたって、とっくに分かっていたことを今更大騒ぎして、茶番もいいところです。
そんな茶番に付き合って、一々腹を立てたり、抗議してなんかいられません。
茶番を大真面目で続けたい人は、何を言ったって、続けます。
巻き込まれてはいけません。
粛々と、個々人の歩むべき道を見つける、というのが正解だと思います。

個々人の歩むべき道というのは、なにも個性的な道である必要があるという意味ではありません、もちろん。
ただ、誰かの教えに従ったり、外部の規範に従ったり、ということではこれから先は無理だろうと。
自分で見つけ、自分で選択し、自分で歩き出す必要があるだろうと。

もう誰かのせいにしても仕方がありません。
責任を取ろうとする誰かは、どこにもいません。
自分の人生は、自分で責任を取る、そういう当たり前の時代になってきました。
今まで体制というのは、人々に依存させ、依存させることにより人々を掌握しようとしてきたわけですが、
その仕組みは急速に壊れ始めていますね。

コンクリートジャングルで人々が密集しているように見えますが、
その背後のというか、高次の見えない世界では、「大草原の小さな家」化が急速に進んでいるように思います。
フロンティアの世界ですね。
この表面上の都市文明は急速に力を失いつつある、とぼくは思っています。

どんな過渡期でも、過渡期には混乱がつき物です。
混乱に脅えたり、迷わないよう、家族や友人や大切な人との会話をたくさんして、
絆を強めておくと、無用な混乱に巻き込まれなくて済むかもしれません。

今日は、こんなところで。