風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2011年09月26日 | いい加減

何も欲しくはないが、自分の生き方の軌跡だけは欲しがる。
人の人生は水面に映った一筋の影に過ぎないのに、それだけは欲しがる。
かくも、人は生きた証を欲しがる。

生きるというのは、それだけに特別なこと。
ただ、なぜそれが特別なことなのかを言おうとしたときに、言葉を失う。
おそらくそれが特別だと言葉で言えば、その永遠に秘された特別性が失われるからだ。

生命は特別を嫌う。
普段通りに、日の下で踊り、月の下で眠るだけ。
どこにも特別の入る余地はない。

試しに、月の下で踊って、日の下で眠ってごらん。
日常は渦巻き、感覚は浮遊し始める。
誰もいない世界が狂い踊り始めるから。

狂いは地獄の入り口でもあり、救いの源でもある。
いずれにせよ、狂いの道を通過しなければ、日常の糞尿にまみれてしまう。
狂いの道を突き抜けてこそ、日常の糞尿が底光りする鉱石となる。

当たり前の道を当たり前に生きていけないこと。
狂いの道を経なければいけないこと。
ともすれば、狂いっぱなしになりがちなこと。

色々と問題はある。
いつでもどこでも問題だらけだ。
それでも、一筋の影ではない、俺の生き方を求める。

 


2010年08月06日 | いい加減
公園で茶色いコートを着た男が、尖った声で何かを叫んでいた。
誰も聴いている者はいないのだが、男は叫び続けていた。
数百メートルは離れたいたので、男の表情は分からない。
時折風が枯葉を舞い上げて、男の叫びが途切れる。

誰かが犬をけしかけてその男を追い散らす光景を想像して、おれは一人でくすくす笑った。
男はあわてて駆け出し、コートの裾を犬に噛まれて思いっきり転ぶのだ。
男は悲鳴を上げ、犬の牙から両腕で顔を守る。
犬はひとしきり吼え上げ、すっかり自分の勝利を確信すると、ふんと男から興味を失い、飼い主のところへ戻るのだ。

叫びつつける男を眺めるのにも飽きて、おれは背後に広がる木立へと足を踏み入れた。
かさこそ鳴る枯葉を踏みしめて、奥へ奥へと歩いていった。
ちょろちょろと流れている流れがあり、その奥には白樺の木に囲まれた池があった。
すっかり葉を落とした白樺の梢を透かして、暮れゆくミカン色の光が水面に揺れている。

あたりは静まり返っているのだが、忘れた頃に風が強く吹き、木立がざわりざわりと揺れる。
太古の昔から何度も見てきたはずの光景だ。
こういう光景に接する時は決まって独りだ。
傍らに誰かがいるということはない。

口笛を吹いてみようと思ったのだが、息がかすれて上手く吹けない。
吹いてみたところで、楽しくないだろうことにすぐ気がついて、吹くのをやめた。
枯葉のかさこそいう音や、枝と枝とがこすりあう音に耳を澄ませばよい。
静けさの中に無限のメッセージが聞こえ出したら、太古からお決まりの物思いにふけることになる。

我にかえると、身体はすっかり冷え切り、辺りみはインクの闇が降りてきている。
風も次第に持続的で、強くなってきている。
立ち上がってズボンの尻やら、裾やらの埃や、ジュクジュクした枯葉や小枝を払って、立ち上がる。
もはや、言いたいことなどだれにもない。

暗い夜空に月影さへなく風吼える。

それで蠢くというのが人の心。
「強さとは か弱き心の 裏返し」
だれが歌ったか、風の吹く。

エリ

2009年06月04日 | いい加減
「パパ、ムシムシさんがおるよ!」とベランダにいる娘が言った。
ぼくはちょうど煙草に火をつけたところで、「そ~ね、ムシムシさんがおるんね」と煙を大きく吐き出しながら言った。
「うん!」
地上8階にあるマンションのベランダの正面の数キロ先には小高い山が、ネス湖の怪物の背中のコブのように三つ連なっている。そのコブも今ではすっかり新緑の緑で覆われている。苔むしたネッシーの背中。
「パパ、大きいムシムシさんはどこ行ったん?」
「大きいムシムシさん?」
「うん!」
ぼくは立ち上がって、あと数ヶ月で3歳になろうとする娘の視線の先に焦点を合わせた。ダンゴ虫だ。別に小さくはない。普通のサイズの焦げ茶色のダンゴ虫だ。排水溝をいかなる困難にもたじろがずによじ登って8階のこのベランダまで登ってきたのだろう。
「パパ!」
「な~に?」
「小さいムシムシさんが泣いと~よ」
「小さいムシムシさんが泣いとるの?」
「うん!」
空は曇っていたが、山の方からからりと気持ちのよい風が吹いていた。麦の穂を焦がしたような色合いの細い娘の髪の毛がふわふわと揺れていた。彼女はダンゴ虫から目を離そうとはしなかった。
「なんで小さいムシムシさんは泣いとるの?」とぼくは聞いてみた。
「大きいムシムシさんがおらんから!ママがおらんから!」
「そーね、ママはどこに行ったんやろうね」とぼくは煙を吐き出しながら言った。
娘はじっとなにかを考えているようだった。ぼくはそんな娘の横顔を見ていた。
「パパ、ムシムシさんがゴハン食べよるよ!」
「そ~ね、ご飯食べよるね」と相槌を打ち煙草を灰皿で消してから、立ち上がってベランダのダンゴ虫に視線を落とした。ダンゴ虫は数日前に娘がベランダに吐き出したクッキー入りのチョコレートの残骸にへばりついて動かなかった。それでも目を凝らしてみるとダンゴ虫は触覚だけはせわしなく動かせていた。
「ムシムシさんがゴハン食べよるね~」とぼくは大袈裟に言った。
「うん!」

「パパ、じゅうじだよ~、エリちゃんがきたよ~」と言って娘は毎朝ふすまを開けてぼくを起こしに来る。
嫁の差し金だとは思うが、目覚まし時計で起こされるよりは何千倍もましだ。ぼくは子供のころから寝起きの機嫌が極端に悪いのだが、エリに対しては、毛布を剥ぎ取られようが、顔面を足で踏みつけられようが、灰皿をその辺りにぶちまけられようが、腹は立たない。不公平ということで言えば、これ以上の不公平は世の中にはありようがない。エリは誰がなんと言おうとも、彼女のすべての行いに対してぼくは許し、祝福し、応援する。でも、家族関係を抜きにした社会生活において、誰かが誰かにリアルな意味で「公平に」接している姿というのも見たことがない。それでも、何年後か、エリも学校に行けば「誰に対しても平等に」とか「思いやりの心をもちましょう」とか「明るく元気に楽しく」とか教えられるのだろう。それを教える教師が明るく元気に楽しく生きているとは思えない。学校に自分の子供たちを送り出すその親たちが平等を大切にしているとも、思いやりがあるとも、楽しさを重要視しているとはさらに思えない。親が子供に嘘をつき、子供を嘘を教える学校に送り出し、嘘を前提にした経済という渦に巻き込まれることを容認するのが、今という時代の平均的「ふるまい」なのだろう。

(続く)

スッポン

2005年09月29日 | いい加減
う~ん、昨日は失態でした。
4人でスッポンを食べに行ったわけですが、他の3人(全員女性)が血を飲まないわけです。
で、ぼくがグラス4杯の血を一気に飲んだわけです。
するとやっぱりスッポンの血なんですね。
要するに、じわりじわりと知らないうちにスケベになったわけです。
店のお姉さんのお尻を(略)

ビールも二人でピッチャー5~6杯空けましたので、飲みすぎは飲みすぎたんですが、
こういうスケベラインに乱れが流れたのは、10年ぶりくらいのような気がします。
4人のうち二人は飲まないので、さぞかしあきれ返ってしまったのではないかと思います。

実は今朝目が覚めて、昨日の醜態を思い出し、非常に心配になりました。
3人の女性はみな大切なお客さんです。
あれ、そういえば昨日あんな状態だったな、なぜなんだ、悪霊でも付いたのかと本気で心配になりました。
そこで、ふと、スッポンの生き血を4杯飲んだことに思い至ったのです。
スッポンの生き血が精力剤だなんだという話は、ぜんぜん信じていなかったのです。
うへー、こりゃ取り返しが付かないことをしたと、深く赤面しました。

幸い、ぼくと一緒に大量のビールを飲んだお客さんは全然記憶がないと言いますし、
もう一人のお客さんからは楽しかったとの皮肉混じりのメールが来ましたので、
何とか大事にはならなかったものの、なんというか、どうにもこうにも恥ずかしいです。
ただの酔っ払いのスケベ親父になってしまって、ゴメンナサイ。

それから、こういう話を読んで不愉快になった人にもゴメンナサイ。

それから、店のお姉さん、怒りもせずにいてくれて、ゴメンナサイ。

もうお客さんとスッポンを食べに行くことはないでしょう←キッパリ
ちなみに、カノウ姉妹や政治家がスッポンが好きな理由が、ようやく分かりかけてきた今日この頃です。
ぼくは出来るだけ、めざしやおでんをつまみに、酒を飲むようにします。

こうして人は恥をかいて生きていくわけです。
ぼくと一緒にするなという怒声が聞こえてきます(笑)








フョードル

2005年09月07日 | いい加減
今朝は台風一過の滝でした。
水の真下に入れば有無を言わさず吹き飛ばされますが、滝の裏側に回りこんで入りました。
二人の新人女性も、怖がるそぶりも見せず、気持ちよく入りました。
なかなか爽快でした。

どうも、あれです。
昨日の昼間にテレビで台風中継を見ながら酒を飲んだのですが、
その後気分が悪くなりました。
むかむかが収まりません。
酒を取られつつあるのか、と思うと嫌なので、胃の具合が悪かったことにしておきます。
そう言えば最近、酒の席に誘われて、いざ行こうとすると、急に吐き気がこみ上げてきます。
いままで、こういうことはなかったのですが。
タバコも吸うと気持ちが悪いし・・・

何かを書こうと思っていたのですが、思い出せません。
思い出そうとすると、いらいらしてくるので、諦めます。
とっても大事なことだったように思います←思わせぶり150%

ようやく夏も過ぎ、快適に眠れるシーズンがやってきました。
快適に眠れるというのは何よりもうれしいです。
寝苦しかったり、眠りが浅かったりすると、次の日はてきめん不機嫌です。
不機嫌は不機嫌の連鎖を生みます←ネタがないので、適当なことを書き散らす

唐突なのですが、世の中の人はみな頑張っているのでしょうか。
もちろん、頑張っている人がいるのはぼくの周りにもいるのですが、
頑張りようがなくて戸惑っている人も結構多いような感じがしないでもないんですが。
だからなんだ?>おれ

コーカサス地方のペラサフコス村というところに、フョードル・カスケビッチという猟師が住んでいました。
フョードルは幼くして両親と死に別れ、それ以来、森の奥の丸太小屋に一人で住んでいました。
月に二度、市が立つ日に、テンやミンクの毛皮や、塩漬けの鹿の肉などを持って村にやってきて、
ライフル銃の弾丸やウオッカや塩などに換えて、小屋に帰っていくのでした。

フョードルは幼いころから寂しさには慣れていました。
朝は小鳥の声で目を覚まし、夜は狼の遠吠えを聞きながらベットにもぐりこみました。
暖炉の前で、父親の残したライフル銃を、油のしみこませた布で磨き上げるのが好きでした。
銃の手入れが済むと、一晩にグラス2杯のウオッカを飲んで、記憶の底に残る母親と父親の面影を辿っているうちに、
眠くなるのが常でした。

一度だけ、フョードルは犬を飼いました。
村からの帰り道、土砂降りの雨の中を、フョードルの後をいつまでも追いかけてくるのでした。
何度追い払っても追いかけてくるので、フョードルも根負けして、小屋までついてくるがままにしました。
朝ごはんに食べ残したキジバトのスープを鍋ごと犬にやると、犬は狂ったように食べ始めました。
骨までバリバリと食べます。
フョードルは、久しぶりに声を上げて笑いました。

その犬はフョードルと共に狩にも出ました。
フョードルが獲物をしとめると、犬はわんわん駆け出し、獲物をくわえ、遅れてきたフョードルを得意げに見上げるのでした。
その犬も半年ほどで、死にました。
木々の葉が金色に染まるころ、ぐしゅんぐしゅんと変な咳をしているなと思っているうちに、何も食べなくなり、
一晩中薪を燃やし続けた暖炉の前で静かに死にました。
フョードルはその犬に名前をつけていないことに気がつきました。
二度と犬は飼うまいと、フョードルは心を決めました。

おわり←書いてて飽きてしまいました


















赤潮

2005年04月18日 | いい加減

昨日は海辺をドライブして、夕日の浴びた屋台でワンカップを頼んで、サザエのつぼ焼きと刺身を食べて、
何の不足もない休日でした。

まだ4月なのに、夕方になっても海風がちっとも寒くありません。
それよりも、道沿いの海が延々と帯状に赤くなっていたのが気になりました。
屋台のおばちゃんにそのことを聞くと、プランクトンが死滅したもの=赤潮だとのことです。
良く知りませんが、赤潮って、内湾に、暑いときに発生するものだと思っていました。
外海に面した海岸に、しかも春に発生するものなのでしょうか。
現に発生していたのだから発生するものなのでしょう。

何度か通った観音堂にもお参りに行きました。
日本海が眼下に広がり、足下から潮騒が聞こえます。
和尚さんにせんべいを貰いました。
仕事は順調ですかと聞かれたので、お陰さまでと答えたら、うれしそうににっこり笑いました。
今の状況を順調と答えるのは嘘なのですが、こまごまと仕事の不順調振りを訴えても仕方がありません。

夕暮れの田舎道をよく知らないギター奏者の曲を聞きながら、帰宅しました。
映画「マスク」を見ました。
ジム・キャリーの天真爛漫ぶりはちょっと日本人の役者で真似できる人はいないでしょう。
前日の深夜にも彼の主演映画(動物を探し出す専門の探偵役)をしていましたが、
大真面目にああいう濃いドタバタ映画に出資するハリウッド映画というのもある意味懐が深いわけで。

深夜、ドキュメンタリー2005という好きな番組を見ました。
新宿・歌舞伎町の隣、大久保の小学校の日常風景を切り取ったものです。
そこの生徒の半分以上だか、3分の2だかはもはや海外からの出稼ぎでやってきた外国人の子息です。
親たちの大抵は水商売で生計を立ててます。
日本語もままならず、生活習慣も違い、親も深夜まで働いているというような環境で、
周囲の人たちに支えられながらも、徐々に日本の生活になじんでいく様を丁寧に追っていました。

見終わり、窓を開け、春の夜の空の下に眠る街の灯りを眺めながら、焼酎のお湯割を2杯飲んで寝ました。
今日は珍しく9時過ぎに、自然に目が覚めました。
なかなか順調です。





焼き鳥屋

2005年03月30日 | いい加減
一人暮らしだから、居酒屋はよく行きます。
どういうわけか、僕の住んでいる街には定食屋みたいなのが少ないのです。
あっても、おそろしく芸のない定食屋が、寂しい通りにぽつんぽつんとあるばかりです。
で、居酒屋です。

昨日も初めての焼き鳥屋に入りました。
カウンターに男女4人のグループが、若い亭主(20代後半)と話していました。
亭主は僕をちらりと見ましたが、いらっしゃいはありません。
そのまま奥のカウンターに座りました。
お絞りもメニューも出てきません。
困りました。

そのうち奥の厨房から暖簾を分けて、料理片手に若い女の人がでてきました。
すみませんと僕は声をかけました。
はぁ、と言ったきり、彼女は皿を4人組のほうに持って行きました。
それで、そのまままた厨房に引っ込んでしまいました。
困りました。

しばらくすると、若い亭主がお絞りを持って僕の目の前に来ました。
飲み物は?と聞くので瓶ビールと頼みました。
そのまま注文をしようとすると、注文は少し待ってくださいといいます。
僕はビールをついで、飲みました。
中瓶なので、2杯も飲むと瓶の半分が減っています。
今度は奥から、中年のくたびれた顔をした女性が出てきました。
僕の前に立って、初めて、いらっしゃいませという言葉を聴きました。
僕は、皮と軟骨とレバーとしし唐と、チーズオムレツを注文しました。

あっという間にビール一本が空いてしまいました。
通りかかった若い女性に追加を頼みました。
厨房の奥から、子供が騒ぐ声がします。
若い女はジュースを開けて、奥に引っ込みました。
僕の推察したところ、若い男女が夫婦で、年増の女性が男の母親、奥で騒いでいるのが夫婦の子供です。
二本目のビールがなくなるころ、レバーが第一弾として焼きあがってきました。
もう一本ビールを頼むしかありません。

僕の経験では、店で幼い子供を遊ばせているような飲食店は、間違いなく消えてなくなっています。
まぁ、二度と来ることもないからと、いらぬことを思わぬようにして、ビールを飲みます。
3本目も空くころに、皮と軟骨がやってきました。
焼き鳥でも、一番早く焼けるのが皮と軟骨なのですが、不思議です。
ビールをもう一本頼む気にもなれず、むしゃくしゃ食べて、店を出ました。

この店はつい最近までおでん屋でした。
そこには何度か行ったことがあります。
若い夫婦が、経営不振で営業を辞めた店をそのまま引きついたのでしょう。
家族一丸で焼き鳥屋をするのは別に悪いことではありません。
でも、彼らは「何」をしたいのでしょう。

焼き鳥自体は思いもかけず、大変にうまいものでした。
焼き方も文句のつけようがありません。
でも、いらっしゃいもなく、子供の世話をする片手間に料理を作り、
ビール二本目が空くころに最初のレバーを持ってくるような焼き鳥屋で、
いったい何を提供したいのでしょう。

よく分かりません。
べたべたしたサービスも苦手ですが、普通にサービスを提供してくれれば文句はないのですが。
コンビニ世代が考えるサービス業って、こんなものなんだろうなとは思いますが。

普通のレベルが下がっているのですね。
下げるのは簡単ですが、上げるのは、創意工夫と長い積み重ねがいります。
焼き鳥がおいしかっただけ、もったいないことだと思いました。

今日は早く帰ってサッカーを見ます。


睡眠

2005年03月28日 | いい加減
馬鹿な話ですが、僕はずっと睡眠というのは無欲の表れだと思っていました。
ひたすら寝るのは、何もしたくない=何も欲しくない、だと思っていました。
だから、安心して眠りまくっていました。

最近になり、睡眠というものが人間の3大欲の一つであることを知りました。
要するに、惰眠を貪っていたわけです。
軽いショックでした。
あれが欲しい、これが欲しいと、欲は煩わしいとばかりに、眠りまくっていたのですが、
睡眠欲という欲にどっぷり浸かっていたわけです。
食欲や性欲に振り回されている人を見ては、みっともないなと余裕の笑みを浮かべていたわけですが、
何のことはない、誰よりも強烈に欲に飲み込まれていたわけです。

なんという無駄な欲の使い方。
どうせなら、あれが欲しい、これが欲しいと頑張ってきたほうが、どれほど
建設的な人生であったことか、と思わないでもありません。
いまさら遅いんですが。
長年寝たいだけ寝てきたせいで、身体が思ったようには目覚めません。
寝たいだけ寝てすっきりしないと一日中不機嫌です。
なんという不毛な人生なんでしょう。

いくら不毛でも、ぬくい布団に入って眠ってしまえば、人生夢心地ですから、
ある意味、無敵な習癖です。
起きているときは酒を飲んでうつらうつらして、眠くなったら寝る。
欲のホームランバッターです。
無敵です。

知り合いに、どうにもこうにもじっとしていられない人がいます。
テレビだって、じっとして見ているのが、苦痛そうです。
本を読むなど、滝行に匹敵する苦行でしょう。
現実に身体を動かして、空間と時間を消費していかないと、罪悪感が残るみたいに、動き回ります。
身体というリアリティと時空のリアリティをマッチングさせ続けます。
僕から見ると、うまくマッチングしているようには思えないのですが、余計なお世話でしょう。
いくらすることがないからといって、滅多に乗らない自転車の色をわざわざ塗り替える必要があるのか、
僕には分かりません。
彼なりの世界を彼は歩き続けるのです。

彼に12時間寝ろと言ったら、激しく怒るに違いありません。
彼にとっては、世界にはしなければならないことが山のようにあるのです。
もし僕の睡眠欲のエッセンスを粉末にして、彼に飲ませることができたら、彼は発狂します。
逆に、彼の行動意欲エッセンスを僕が飲んだら、僕もまた発狂します。

寝てばかりいる人生も無駄なら、無駄な行動ばかりなのもまた無駄でしょう。
無駄じゃないものばかりを追うのも、欲張りすぎて疲れそうです。
バランスよく生きるのは難しいですね。
なんだか阿呆な話です。