風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

「自分」

2013年07月18日 | 雑感
炎天という言葉がまさにふさわしい日々が続きます。
日中に畑で作業していると、これ以上はヤバイというような無音の警報音が体内に響きます。
中学時代は野球部でしたが、練習中は絶対に水を飲んではいけませんでした。
いまそれをしたら病人死人続出だと思います。
昔の太陽光と今の太陽光は別物に感じます。

仕事の選択とか、生き方の選択とか、パートナーの選択とか、この世で生きることは選択の積み重ねです。
でも、これらの選択は、すべて外部環境の選択なわけです。
どの会社に入ってなんの仕事をするか、どんな生き方が世の中にはあるのか、どんな人を選ぶのか。
それらの選択肢はどれもが誰かが作った選択肢なわけです。

そういう外部環境に左右されない自分自身の指針というか方向性を選択するというのはなかなか容易なことではありません。
そこには選択基準となるべきものがなにもないからです。
ただそれを選ぶのか、選ばないのか、という判断があるだけです。
判断基準はなんなのでしょうか。

直感とか、インスピレーションとか、便利な言葉はあります。
では、直感とか、インスピレーションの源泉はなにかと問うたら、答えに詰まります。

人が生きるということのうえで、常に判断基準とされているものとはなんなのでしょうか。
宗教や倫理学や哲学をいくら学んでみても、文字通りその原理原則に従って生きるわけでもありません。
それでも人は、なにか「自分」というものがあると仮定して、その「自分」の声に従って生きようとします。
その「自分」とは、誰なんでしょうか。

ときには、その「自分」は暴走します。
あらゆる論理、知性、道徳を無視して、他人に、或いは社会に暴虐の限りを尽くします。
それでもその行為は「自分」の声に従ってなされた行為以外ではありません。
「自分」というのは決して論理的でも、哲学的でも、道徳的でもありません。

で、そういう「自分」というものを徹頭徹尾認めようとしないのが仏教です。
いきなり話が飛びますが(笑)

「自分」というものがなければ、物事を認識し判断し行動する主体がないじゃないかというのが西欧哲学です。
端的に言いますと、主体などないというのが仏教です。
誤解を招きそうですから言い添えますと、主体・客体という相対論的な意味で、主体はないということです。

この辺りは説明がとても面倒です。

例えばです。
女房と二人で食事するとします。
女房が買い物をして、料理をしてくれて、テーブルに並べてくれたから、今ご飯を食べている、という解釈があります。
ぼくが仕事が休みで家にいるから、女房は買い物をし、料理をし、テーブルに並べた、という解釈もあります。
一組の名も知れぬ夫婦が夕食を食べた、というだけの解釈もあります。
どの解釈が正しいもなにもありますでしょうか。
買い物をすれば、それを生産した人、流通した人、売る人があり、料理機材だって同じく製造した人、流通した人、売った人がいて、
テーブルに坐れば、それを作った人、流通した人、セールスした人、運んだ人がいるわけです。
数限りにない「自分」たちの関与によって、今この「食べる」という瞬間が成り立つわけです。
その数限りない「自分」というものをとことん追求するのが西洋流の学問です。

(続く)





演じる以前

2013年07月04日 | 雑感
近頃、柳という木を見ることがありません。
昔は川端に行けばどこにでも見ることのできたありふれた木だったように思います。
風に逆らわず、つまりはどんな逆境にもしなやかにやり過ごす、そんな柔軟な生き方の代名詞が、柳という木だったように思います。

剛直に生きることがもてはやされる時代もあれば、どこまでもしなやかに生きることの方が生きやすい時代もあります。
今はどんな時代なのでしょうか。
この年になりますと、今という時代とかレンド゛とか政治とかに興味が薄くなります。
最終的に、おれはなにをしようとしているのか、どうありたいのか、というところに興味が集中します。
もちろん人によって興味のあり方は様々なのですが。

明治維新というのは、武士としての誇りと自負がバックボーンにあるからこその希有と言うべき奇蹟的な革新でした。
一億総平民の今の世で、少数の誰かがなにかを変革するという時代は期待すべくもありません。

ぼくはなにを言いたいのでしょう。
ある程度自分が生きるという齢を重ねてきたら、自分がどのように生きていくのがふさわしいのかをきちんと考え・・・。

そんなことは死ぬまで分かりません。
死ぬまで分からないからこそ、この世は面白いわけです。

なにが面白いのか。
優劣、有名無名、貧富、そんなどこかの誰かが作った規範に乗っかることが面白いわけではありません。
かといって、そういう規範から外れることが楽しいことでもありません。
なにが面白いのか。

自分というかりそめの存在が、この世というかりそめの舞台で、なにを演じるのか。
ビジネスマンであれ、主婦であれ、作家であれ、演じきるのも虚仮だし、演じきらぬのもまたこれ虚仮。
さてさて、どうしたものか。

柳は自分を人に「ヤナギ」と呼ばれる存在であると思っているわけではありません。
川縁で、自分の特性を最大限に活かし切りながら、風に吹かれてゆらゆらと生きているだけなんでしょう。
「演じる」という過剰な自意識がそこにはありません。

なにも演じない。
そうなれば、そこにはありのままの、自分のようなものがおぼろげに立ち上がります。
ありのまま。
なにがあるのか。
「まま」とは移ろうということ。
あるものが移ろえば、あるものはどこへ行くのか。

本当のところを言えば、こういう言葉遊びはまったく興味がありません。
なにも演じない自分。
演じる以前の自分。
無言の自分。
あとは豊穣な沈黙が、自ずからひたすら沈黙する世界。

まぁ、拙い言葉で言おうとすればそんなことなんでしょうが、
そんなことより、お休みなさい。
明日はおいしい牛タンシチューの完成予定です。

隣の家の軒先のツバメの巣には、4羽の子ツバメが確認できました。
なんかいろいろ心配しましたが、今年も隣の軒先から子ツバメが巣立ちそうです。
親鳥が近づくと、4羽の子ツバメが懸命に首を伸ばして、口を顔より大きく開きます。
なにもかもが愛しいと思える瞬間です。




雨と猫と畑

2013年07月03日 | 雑感
昼くらいから突然表が暗くなり、雨が降り出しました。
さらに雷まで鳴り出し、
あまり見たことのないよな激しい土砂降りです。
雨の粒の一つ一つが大きくて、バシャバシャと地面を叩き付ける感じです。
これがゲリラ豪雨というやつなんだと思いました。
後でニュースで知ったところによれば、市内各地で浸水一歩手前まで行ったようです。

で、気が付いてみれば、もう7月です。
5月末にアンティークの店を閉めて、6月に入って一週間の滝行に入り、無事に終了したか思いきや、
同僚が急遽入院し、ひとりでバタバタと牛タン屋をなんとか切り盛りし、禅の摂心会に突入しました。
さすがに身体の芯に疲れが溜まりに溜っているような感があります。
でもどういうわけか休める状況ではなく、また休みたいという気持ちにもなりません。
試合を控えたボクサーみたいと言ったらかっこつけすぎでしょうが、なんかふらふらとようやく立っている感じです。

近くに安く使える公共のスポーツジムを見つけましたので、そろそろそっちの方面のメンテナンスも始めようかと思っています。
無理を承知で無理を重ねてきましたので、大分修復が必要な気がしてます。
身体が弱ってくると、頭もまともに動きません。
冴えというものがありません。
ありきたりの枠内を、ありきたりな思考がぐるぐる同じところを回るだけです。

黒猫が店に迷い込んでから一月ほど経ちました。
飼い主はまだ決まっていません。
ですから、名前はまだ付けていません。
半端なく人なつっこい猫で、部屋に一緒にいればべたべたとまとわりつきます。
猫好きの方には堪らないと思うんですが。

そうそう、畑は順調です。
梅雨時期は、雨のせいで数日畑に行けないでいますと、びっくりするくらいに雑草だらけになっています。
たまたま好天に恵まれた一昨日2度目の草刈り機を投入しました。
雑草という名の草花などもちろんないのですが、きれい事を言ってられません。
放っておくと、トマトにしろキュウリにしろナスにしろ、どんどん脇芽を伸ばして手が付けられない姿に生い茂ります。
せっせせっせとお世話を焼きます。
ぼくはなんにせよあんまりお世話をやくタイプではないのですが、イヤな顔もせずお世話をやいております。
そのうち、入道雲が空に湧き、トンボが飛び回るようになれば、病気や害虫と戦い続けた野菜の株も安定し、収穫の時期です。
無農薬の取り立ての野菜は、作った人でなければ食べられません。
あんまり天ぷらは食べなくなっていたのですが、先日畑で取れたナスと甘長トウガラシとシソの天ぷらを食べてみたら、はまりました。
今日先日漬けたラッキョウを食べてみたら素晴らしい仕上がりです。
梅干しも梅雨が明けたら天日干しをするのを待っています。
秋になったら味噌造りも再チャレンジです。
それからトマト、これは自家製に限ります。
ちゃんと酸味があり、味が濃いです。

朝から夜まで店の営業をして、時間があれば畑に行ってという生活をしてますと、日常にいわゆる「華」というのがなくなります。
どこかでパーティーをしたり、ドライブしたり、諸々の悪いことをしたりといったことが皆無になっていきます。
夢中になるとか、舞い上がるとかいう要素に乏しい生活環境になっていきます。
でも、なんの不足もありません。
夏休みになれば、娘を海に連れて行ってやろうと思うくらいです。
アンティークの店をしているときは、なんと言ってもジュエリーとか美術工芸品などのとびっきりの「華」を売るのが仕事でした。
ぼくの中ではなんにも矛盾していることではありません。
「華」を売るときは「華」の魅力を紹介しきるだけであり、畑に行くときは雑草と格闘し、土をいじって、
野菜のお世話をするだけのことです。

畑の周囲に植えられたイチジクの実が日ごとに膨らんできています。
畑仕事に一息ついたら、もいで食べます。
シンプルなもんです。