風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

運気

2011年01月25日 | 雑感
東京から来たお客さんが、東京より寒いと驚いていました。
ここは九州でも玄界灘に面していますから、冬は曇天が多いです。
実際の気温よりも寒々しく感じられるのでしょう。

あるお客さんが調べてくれたのですが、ぼくはここ三年間大殺界だったのだそうです。
この2月で終わるのだそうですが。
そう言えばと思い当たるような、思い当たらないような。
この時期には確か結婚、転職、転居などはいけなかったはずですが、もしかしたらこの店に引っ越したのが三年前だったような。
まぁ、でも、考えようによっては、これで最低の運気であったのなら、まぁいいかと思えないこともありません。
これから運気が上がるのでしょうから、楽しみにすればいいだけです。

その占いを信じる信じないというのではありませんが、調子のいいときと悪いときのバイオリズムみたいなのは確かにあると感じます。
その周期も大きなバイオリズムと小さなバイオリズムの流れがあるように思います。
思うに、調子の良いときよりも、調子の悪いときの過ごし方が大事なのかもしれません。
ドツボに嵌ったときは、悪い運気を出し切る、たまった膿を出し切るという感じがいいのかもしれません。
じたばた無駄に心も体も動かさない。
冷や汗をかいて、悪い時期をじっと受け止めきる。
それでいてすべきことは淡々と続ける。
元気よく挨拶し、身の周りを整理整頓し、暴飲暴食を慎み、空と大地に感謝する。
そんな感じがいいのかと。
調子の悪いときほど、人に当たったり、怠惰になったり、酒におぼれたり、とかく人は無駄に心も体も動かします。
そうするとますます運気が下がるのは明白です。

考えてみると、運気の良いときも、下手に調子に乗って舞い上がると必ず痛い目に遭いますから、
すべきことを淡々とするのがよいのでしょう。
つまりは運気が良かろうが悪かろうが、すべきことを淡々とするのが最も賢明な処世術なのだということになりましょうか。
なんだか伊勢白山道さんのいつものフレーズ「淡々と生ききってやりましょう」と同じ結論になりました。

ただドツボに嵌ったときは確かに苦しいですね。
先が見えないし、見えそうな気もしない。
なにをしてもうまくいきそうにも思えないし、とりあえずなにかを始める気力もわき起こらない。
どういう気分であろうが、やるべきことを淡々とするというのは辛うじてできることではあります。
苦しいからといって悶々と悩むというパターンが一番いけないでしょう。
悩めば悩むほどどろどろのヘドロのようなものが心の中に溜まっていきますし、何しろ行動を起こさない罪悪感が、
ますます自身を苛みます。
元気に挨拶、整理整頓、適度な食事、天と地に感謝、それだけは続けましょう。
そのうちに必ず明るい運気がやってくるのですから。

そういう意味では、ニート、引きこもりという選択は避けた方がいいですね。
すべきことというのがどんどん無くなっていく状況です。
家族からも穏やかならぬ視線を送られ、自分自身にもどんどん自信が持てなくなります。
無駄な悩みがどんどんつもり重なって、身動きがとれなくなってしまいます。
そういう人のために、なんとか農作業というものを通じて、天地とつながり、自分につながり、他人につながる方法はないものかと、
考えていますが、なかなかうまい方法が見つかりません。
要するに農作業というのはお金になりません。
お金になりませんから、土地の手配も設備の手配も人員の手配もできないのです。
これだけ放棄耕作地があるのですから、なんとかならないのだろうかと思案中です。



強さ

2011年01月19日 | 雑感
どこまで行けるのでしょうか。
どこまで行けばいいのでしょうか。
誰かが決めた規範から外れて、やって行けるのでしょうか。

自分の本当の声は、辛うじて自分という囲いの中に潜んでいます。
その囲いはとても薄くて脆弱です。
たやすく誰かの侵入を許してしまいます。

強さとはなにに対して強いことでしょうか。
弱いとはなにが弱っているのでしょうか。
そもそも強弱を競うべきなのでしょうか。

強いとは自分が今いることを大切にすること。
自分に関わるすべてを大切にすること。
自分に関わらないすべてを大切にすること。

なにを夢見るのでしょうか。
なにが不足で夢見るのでしょうか。
夢見た先に、充足の世界はあるのでしょうか。

夢をそのまま生きることができるとしたら。
なにもかもが与えられていると知ることができたら。
そのままが天国であると知ることができたなら。

今日も北風が吹き抜けます。
酷い風邪を引いた猫が、店の裏で酷く咳き込みます。
グヘー、ゲッ、ゲッ、グー、という具合です。

思わず窓を開け猫缶をあげます。
姿は見えません。
次の日に皿が空になっているのを確かめてほっとします。

すべては元々強いのです。
なにに、どう関わるか、だけです。
思いをありったけ解放するときが来たのでしょう。

おお寒い

2011年01月18日 | スピリチュアル
寒い日が続いています。
先日城下町の長府に行きましたら、地面の水たまりは凍っていて、功山寺の湧き水からはつららが垂れていました。
このあたりでつららを見るのは初めてかもしれません。

仏教では、五感が感得し、意識が「在る」と識得するこの世界を実在のものとはしません。
すべての因縁が複雑に織りなす幻想の集積であるということでしょう。
「つららが垂れ下がって、おお寒い」という通常の感覚は、その感覚に閉じ込められればそれはその通りです。
そういう物理的法則からも、因果因縁からも、自由自在に抜け出す境地があるというのが、仏教の立場です。
自由自在に抜け出してどうするのかといえば、「つららが垂れ下がって、おお寒い」なんですが(笑)

前者と後者に違いがあるとすれば、前者は寒さに条件づけられてしまいますが、後者は寒さを楽しみます。
寒さをどうしようもなく避けられない不快な現象としてではなく、あえてその寒いという状況を味わう境地です。

なんだか訳の分からない屁理屈にしか聞こえないかもしれませんね。
要するに、仏教ではこの世を苦に満ちたものとするわけですが、そこをの苦しさ一辺倒から抜け出し、
苦そのものを味わう、さらには楽しんでしまう、という境地でしょうか。

飢え・渇きの苦しみ、失う苦しみ、別れる苦しみ、執着する苦しみ、まぁこの世は苦しみに事欠きません。
苦しければ不満や怒りや苛立ちが蓄積し、それがさらなる苦しみを生み出す連鎖となっていきます。
その連鎖を断ち切ることのできる境涯にたどり着くことを、仏教では「悟る」というのでしょう。

幻想ではないものとはなにか?
そんなものはあるのか?
思うとはなにか?
考えるとはなにか?
自由とはなにか?
人とはなにか?

そういうキリのない問いに、スパリと答えを出せる境涯というのはあるのでしょうか。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 道元禅師








タイガーマスク

2011年01月15日 | 雑感
今日も曇天、終日寒かったです。
明日以降も寒さが続きそうです。
娘は昨日高熱が出て、病院に行ったらインフルエンザでした。
薬を飲んだというのですが、39度を超えていましたので解熱の座薬を服用しましたら、ぐっすりと眠りにつきました。
どんな薬を飲んだのかと思ったらタミフルでした。
いろいろ曰くのある薬です。
飲んでしまった以上は仕方がありません。
今朝になったらすっかり娘の熱は下がっていました。

巷ではタイガーマスクが話題です。
偽善だと批判する人もいます。

前にも書いたことがあるかもしれませんが、以前知人と冬のニューヨークに宝石業界の視察旅行に行きました。
ニューヨークの冬は痛いほど寒さが厳しいです。
そんな凍てつく路上にもホームレスがありったけの衣類を着込んで震えながら紙コップを差し出しています。
なかには30代くらいの若い人もいます。
ぼくはそういう人を見かけるたびに、紙コップに小銭を入れました。
知人は、そんなぼくの行為を偽善だ、そんなことをしてもあの人たちの人生向上にはなんの役にも立たないとぼくを責めました。
ぼくは彼らの人生向上のために小銭を入れたのではありません。
熱いコーヒー一杯とドーナッツを一個買ってほしかっただけです。
その知人とは今でもことごとく話が合いません(笑)

ある人の行動が偽善かどうかを詮索したり、考察したりするヒマがあったら、誰かになにができるかを考え行動した方がましです。
日本の食糧自給率の低さを嘆いているヒマがあったら、あいてる土地を借りて、畑を耕した方がいいのに決まっています。
誰かになにかを期待するより、自分ができることをする社会の方が健全です。
ぼくはそういう風に考えますが、知人は人を批判し、政府を批判し、世の中が間違っていると嘆きます。
ぼくはやることなすこと基本的に流れのままといういい加減さが際立ちますから、ますます彼女を苛立てます。
彼女がどんなに苛立とうとも、ぼくはホームレスの差し出す紙コップに小銭を入れるでしょう。

関係のない話ですが、その視察旅行の終わり頃、ぼくは風邪を引きました。
皆がロブスターだかなんだかを食べに行っているときに、ぼくはホテルの別途の上でびっしょりと汗をかきながら寝ていました。
看病にきてくれたのはその知人です。
心から心配そうにぼくのそばにいると主張しましたが、ぼくはきっぱりと断り、食事の会に行くように言いました。
結局彼女は食事会に行って楽しい時を過ごしたようです。

彼女のその気持ちを偽善と呼べるわけがないように、わざわざ匿名でランドセルを送る行為を偽善と呼べるわけもありません。

偽善という言葉が流通するようになってから、路傍のゴミを拾うとか、元気よく挨拶をするとか、善いことは褒めてあげるとか、
ようするに善人めいたことを堂々とすることがはばかれるような社会の雰囲気になりました。
偽善だと人の行為を批判する人たちの言わんとするポイントは、結局、自己満足に過ぎないとか、
自分がしてやったという優越感にすぎないとか、そういうことみたいです。
馬鹿馬鹿しい話です。
自分の行為に自分が満足しようとするのは当たり前のことです。
勇気を出して人のためになにかをしたときに、その自分に誇らしさを感じるのも当たり前のことです。

このタイガーマスク現象が起点となって、誰かに期待するのではなく、自分ができることを淡々とする潮流が生まれるといいなと、
ぼくは思います。







フラダンス

2011年01月11日 | 雑感

この正月は曇天ばかりが続いています。
ついつい畑にも行きそびれています。

正月休みが明けてから飲みごとが続いたので少しまずい感じです。
明日あたりはなんとかジムに行ってアルコールを抜いてこようと思っています。
その後は立ち飲み屋でホッピーと煮込みですが。

畑を始めたという情報が広がるにつれ、土地があるよという情報があちらこちらからもたらされます。
これはちょっと遠いのですが、九州の真ん中に何反という単位で土地があるそうです。
自由に使って良いとのことなので、見に行ってこようかと思っています
車で10分くらいの市内にも数百坪の単位で土地があります。
耕耘機も用意し、水も引いてあるのだそうですが、なにせそれを実際に使い、農作をできる人がいないのだそうです。
ちょっとこれも見に行ってこようと思っています。

やはり畑は土が大切です。
ぼくが借りている農協の農園は前から誰かが畑として利用していた土地で、土も軟らかく養分に富んでいます。
ぼくみたいな素人でも見事な大根やジャガイモが採れました。
それに比べて道場の畑は山芋やハヤトウリやフキが半ば自生に近い形で放置されていたところで、日当たりも悪く土も粘土質です。
植え付けたのが遅かったのもあるのですが、ジャガイモはピンポン球くらいの大きさしか育ちませんでした。
これらは種芋として春にでも植えようかと思っています。
大根もカブもまだこれからですが、まだ身は太っておりません。
道場の方は日当たりの良いところを重点的に耕し、あとはミョウガやフキなどの日当たりの良くないところでも育つ品種を
半ば放置状態で育てるしかないかもしれません。

農業は精神的にも身体的にも言うことがないのですが、何せ現金収入を得ようとするととたんに大変な作業になります。
あれだけの手間暇と体力を使った割には収入が低すぎます。
生かさず殺さずが昔からの日本の農業政策の基本なのでしょうか。
これからの時代は農業ということで、多くの人が田舎に住み着いて工夫を凝らした農生活を試みていますが、
実際の現場はなかなか大変らしいです。
どうしても農業だけでは食べていけず、やむを得ず副業を始める人が多いのだそうです。
フランスやドイツの農村部の人たちはそこそこ裕福そうなのですが、日本の農業政策とどう違うのでしょうか。
なにか日本でもやればやっただけ裕福になれる農業モデルというのを作ってみたいものですが。
同じような品目を作れば、その時期になれば一斉にその品目が市場に溢れるわけですから、どうしても買い叩かれます。
多品目になればなるほどコストと手間がかかるでしょうし、時期をずらして作るためにはビニールハウスという設備と燃料代がかさみます。
なかなか八方ふさがりな実情です。

どうも農業ということだけに焦点を当てても解決策は見つかりそうにもありません。
もっと問題の枠を広げて、それぞれの地域のあり方というグランドデザインの中に農業というものを組み込んでいく、
という形が健康的なような気がします。
単なる無味乾燥な農業用水路を、土手や川底を整備してたくさんの種類の生態系が活発に活動する地域の水路にする。
村の中に地元の食材を使ったおしゃれなレストランを誘致、あるいは自らが経営する。
都会にもないような贅沢な空間ならなおさらいいでしょう。
要は、都会だけでお金がぐるぐる回る仕組みから脱却しなければいけません。
都会から人々がわざわざ遊びに行きたくなるような魅力的な村作りを競ってするのです。
元々豊富にある自然環境を最大限に生かすわけですから、コストも抑えられます。
煉瓦や丸太を使った建物というのは都会では大変にコストの高いものになりますが、田舎では創意工夫次第では、
住民自らの手でまかなえます。
そうやってこつこつと村作りを始めれば、次第に住民の意識も変わっていき、その地域独特の魅力的な村に変貌するかもしれません。

まぁ、言うのは簡単です。
でも、始めてみれば意外と簡単かもしれません。
少なくとも旧来型のビジネスモデルが通用しなくなっている分野で、根性論で頑張るよりもよほど可能性があるような気がします。

今夜のFMのゲストのプロフィールは以下のような方です。

現在なさっていること→フラダンス
最近興味をお持ちのこと→フラダンス
趣味→フラダンス
将来の夢→フラダンスのボランティア

ぼくとしてはちょっと途方に暮れています(笑) 

 


あけまして おめでとうございます

2011年01月04日 | 雑感

明けましておめでとうございます。

天晴れ正月、とそう言いたいところですが、陰鬱な空模様です。
娘は昨日どうにか退院できました。
退院したての娘を連れて、二つの神社に初詣に行きました。
娘は疲れながらもはしゃいでいます。
家内は看病疲れで車内で寝ています。

今年はとうとうお雑煮を食べれませんでした。
愚痴ではありません。
感慨です。
それでも納豆餅と、海苔餅は自力で食べました。
なにかに不足があるというわけではありません。
娘が病院で苦しんでいるときに、あれこれ食べたいという気持ちにはなりません。

農耕文化の東北では正月をとても大切にします。
貧富にかかわらず、一族郎党が集い、一年を締めくくり、来る一年を祝します。
ぼくはこの正月を締めくくることにも、祝すことにも、しくじりました。
誰のせいでもありません。
自らの意志が、一年を総括し、締めくくり、来る年を祝すパワーを失っていました。

しくじったらしくじったなりに、とんとことんと立て直すしかありません。
Nさん、Kさん、新年早々ありがとうございます。
迷い多きはもとより覚悟の上。
迷い多きが故にこそ、咲く機会があるのなら、咲く時期と理由と意味を考えすぎるのかもしれません。

なにがおめでたいのか。
簡単です。
逆におめでたくないものなんか一つでもこの世にありましょうか。

明けましておめでとうございます。